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2014/11/17

『セデック・バレ』

 セデック族を中心に先住民部族が武装蜂起した時、リーダーのモーナ・ルダオは、「文明が我々に屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の誇りを見せてやろう」と仲間に檄を飛ばす。しかし、彼はここで「野蛮」というけれど、彼らは「首狩」を行なっていたから「野蛮」なのではない。それは、文字以前の段階の習俗のひとつと言ったほうが妥当な内実を持っている。現に、セデック族でも、「首狩」は成年儀礼に欠かせない要素になっているし、主人公が日本に対する武装蜂起を「祖先に血を捧げる儀式」とも言うように、それは共同儀礼という見立てがなされているのだ。

 棚瀬襄爾の探求を元にすれば、「首狩」は、近親死者の頭蓋崇拝を行なっていた種族に、他界を持たない種族の思考が混融し頭蓋崇拝が出来なくなったのを契機に、それが喪明けの共同儀礼へと転化したものだ。それは初期農耕を行った種族に見られる近親死者の頭蓋崇拝の変形であり、その意味では台湾先住民に関わらず起こり得た儀礼だった。成人儀礼のひとつとして行われる「入墨」に至っては、もう琉球弧も同じだ。それが「野蛮」の証とみなされた点でもそうだ。

 台湾先住民の「首狩」がどんな位相にあったか、ぼくは知らないが、ニューギニアのマリンド・アニム族では「首」は新しく生まれる子に名を授けるとされ、カリマンタン(ボルネオ)のイバン族では頭蓋が出産を可能にし、「首」を捕ったことのない男とは結婚しようとしない女性もいる。そのように、捕られた首は丁重に扱われ、宥められ、共同体を守護する神への変身を期待される。作中の冒頭に挿入された習俗としての「首狩」において、頭蓋がどう扱われるのか、というところまで描かれていたなら、「野蛮」という言葉が近代的な意味から離れやすかったのにと思う。

 「首狩」はいずれ消滅するし、消滅しなければならないだろう。しかし、実際に武装蜂起を招いたように、それは「文明」によって禁止されるということでは、消滅の必然性を持たない。ぼくは「首狩」がどのように変形されうるものかを知らないが、たとえば、琉球弧では近親者の食人が行なわれていた痕跡がある。食人は、レヴィ・ストロースによれば儀礼的な異性装として弱化され、変形されうるし、ぼくの考えでは琉球弧では、死者に添い寝することで、霊力の転位を図るという変形態を持った。そのような道筋が辿られえたのだ。

 それには、生業の変化が必要であったかもしれないし、たぶん、「しのびない」という声が発せられる必要もあった。けれど、「文明」の名の元に禁止を強いても、そこにある儀礼の意味は表現の行き先を求めざるをえない。鎮圧に臨む日本の部隊の司令官は、「お前らに文明を与えたのに、反対にわれらを野蛮にさせよって」と言うが、言葉の本来の意味で野蛮なのは、「首狩」の儀礼が表出したいものを塞いだ文明の強制のほうにあるし、それが武装蜂起を招いた一端をなしている。

 映画では、支配者である近代国家の威を借りた日本の警察官の姑息さや嫌らしさは、良心的な日本人警察官によって相対化され、武装蜂起に臨む部族の男たちは、女たちの嘆きによって相対化されていた。また、教育を受け警察官になり「文明」の側へ入ることで「野蛮」を抜けようとするものの、「文明」の側からは蔑視の視線を受け、「野蛮」の魂も失っていないという立ち位置で、両者の狭間に悩む部族出身の青年も描かれていた。作品は多様な相対化の視線を繰り込んでいる。けれど、文明と日本への同化による、支配する側と支配される側の関係は絶対的なものだ。そこに、彼らへの共感が生まれる。

 鎮圧後、司令官は「我々大和民族が百年前に失った武士道の精神を見たのだろうか」と述懐するが、もちろん、「野蛮」はそれに回収されるものではない。ぼくは身近なシンパシーもあってか、彼らに感情移入して観ていた。その跳ね返りに、中世人や近世人が骨抜きにされたような演技によるサムライ物語には感情移入していないことにも気づかされた。映画『セデック・バレ』は、「霧社事件」という、蜂起というだけでなく、その鎮圧に部族間の対立を利用したやりきれない史実に、よく肉迫しえた作品だと思う。


『セデック・バレ 第一部:太陽旗/第二部:虹の橋』


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