« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »

2014/11/30

マリンド・アニム族の他界と葬法

 ニューギニアのマリンド・アニム族では、成人儀礼の際に仮面が出現する。マヨ最後では、少女を穀物母神として集団で性交したうえ殺害し、穀物としての再生を祈願する(cf.「ハイヌウェレ神話とマヨ祭儀」)。彼らはなにかと行動が直接的で象徴化を得手としていない。そこで、他界や葬法にも象徴化を経ていない生の形が露出するのではないだろうか。

 他界観念ははっきりしていないが、フライ河の彼岸またはディグル地方、最近では、アンボン、マカッサル、スラバヤと、地上の他界観念を持っている。これは埋葬思考と樹上葬・台上葬が混融したことを示している。アンボン、マカッサル、スラバヤは、憧憬の地が他界となりうる例を示すものだった。「あの世は、一般に、この世よりはより美しく、よい所とせられている」のは、埋葬思考によるものだ。

 霊魂には、gova と hais があり、gova は明るい光、白い姿を持ち、hais は人形の骸骨である。hais は滞在地なく、夜は幽霊として、昼は鳥や鴉の姿を取る。マヨの祭儀に見られるように、人間が植物に転生するという観念を持っているが、同時に、鳥や鴉という動物への転生も持っていることになる。hais が夜に戻ってくるのは、「人形の骸骨」を指すとしているが、夜に戻ってくるところは死霊の動きと似ており、「肉の霊」を示しているように見える。

 病気の原因は、負傷、風邪などの自然なものは少なく、呪術か悪霊(dema)が原因であるとされる。呪術は「身体の霊」の思考であり、悪霊は、「肉と骨の霊」の思考法だ。呪術は反対呪術によって、悪霊は焼竹の儀礼によって取り除く。

 死体は、全身を黒く塗り、目だけは黄または赤に塗り、特定の装いをさせる。喪者は全身を白く塗り、老人は悲痛で単調な挽歌を歌う。死者にはバナナ、甘藷、ココ果、アレカ酒などを手向けるが、葬儀が済むとみんなで食べる。近くのココ椰子を倒し、サゴの木を切り倒す。これによって、死霊 hais が川を渡れるようになる。

 夕方、死体を、死者がふだん座っていたところや寝たところ、炉辺を選んで日没直前に埋葬する。貴重品は取り去るが、武器などの道具は墓上にさらして死者に手向ける。

 若干日が経つと、再び発掘する。呪術師は、死体の死汁を除く。また、死の呪術によって死んだ場合は、呪術をかけた者を特定するため、数夜、死体の近くに寝て犯人を夢みる。この呪術師-死汁-犯人の特定は、「肉の霊」の思考の系列に属している。

 1年後、骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗る。頭蓋も洗って赤く塗る。そして再び墓に納める。hais は、死体または骨に結合していると考えられるが、その表象は明白ではない。この辺りも、hais が「肉の霊」ではないかと考えられるところだ。

 ところで、マリンド・アニム族では死者崇拝は行われるが、頭蓋崇拝や骨崇拝は行われない。死者の骨は尊敬もされないし、お守りともされない。しかし、首狩りで取った首は、子供の命名に仲媒の役をする。これは棚瀬の研究の成果によれば、地上の他界によって個別の頭蓋崇拝ができなくなった部族が、首狩りとして共同儀礼化したものだから、頭蓋崇拝がないことと首狩りの実行は、関連している。

 マリンド・アニム族は死者の霊について知らないが、死霊を恐れ、夜は灯なくして外出せず、村から遠くは離れない。秘密結社の団員の死去の際には、仮面が出現する。(cf.『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』

 首狩りによる共同儀礼が行われ、頭蓋崇拝は行われない。また、死霊を恐れるほか、死霊は鳥に転生する。死者儀礼や成人儀礼のなかで仮面が登場する。総じて、「肉の霊」への関心が強く、来訪神の思考を進展させているが、高神的なものは潜在化しているように見える。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/29

共同幻想としての霊魂

 影を霊魂と見なすことは、霊魂のイメージ化の兆しだった。ついで、水面に映る自身の姿を霊魂と見なすようになると、イメージとしての霊魂は独立しはじめる。そして肖像に霊魂が宿ると見なすようになる。精霊を描くということは、そこに精霊が存在することと同義だった。この段階まで来て、身体と霊魂は二重化される。霊魂は身体と分離して捉えられるのだ。

 ここまで来たとき、共同幻想は自己幻想と分化の契機を持ったのではないだろうか。霊魂は共同幻想だが、その霊魂は一人ひとりに宿り個別化するからである。

 やがて、夢で出会う死者は、自分の霊魂が死者の霊魂と会ったと見なすようになると、他界が時間性として存在しはじめる。そして、死者を家の外に出すようになったとき、他界は空間性を持つようになる。家が定着し、生者の空間と死者の空間が固定された時、共同幻想と自己幻想、対幻想は分離することになった。

 身体と霊魂が二重化され、霊魂は自身の衣裳として身体を規定し、逆に衣裳が霊魂を規定するようになった時、仮面は発生する根拠を持つ。他界を時間性としてしか疎外していないバイニング族の仮面カヴァットは、この段階のものだ。そして他界が空間性としても疎外されたとき、仮面は農耕祭儀として表出されるようになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/28

霊魂の衣裳としての仮面

 福本繁樹によれば、メラネシアには「仮面」にあたる単語はない。多くの場合、仮面は死者、祖霊、もしくは神の名で呼ばれる。また、吉田憲司によると、仮面を有する部族社会では仮面は「顔」を指すのと同じ言葉で呼ばれる。どちらにしても、仮面が現実の顔の上につけられた「仮の顔」、架空の顔と区別されているわけではなく、顔そのものと見なされていることを意味している。

 これは裸身が霊魂の衣裳と見なされた段階の思考法だ。ニューギニア、セピック河流域のイアトムル族の成人儀礼、「ワニの儀式」で、少年が肌に無数の傷をつけられて、ワニの鱗のように見える入墨を施すのは、ワニをトーテムとする霊魂にとっての衣裳を獲得するためのものだ(cf.「「イメージの力」展、見聞記」)。琉球弧の女性がヤドカリの入墨を入れたのも、ヤドカリ・トーテムとしての霊魂の衣裳を施したものだった。霊魂は、身体としての衣裳を規定したのである。

 これは言い換えれば、衣裳としての身体が霊魂を規定することを意味する。それが仮面である。霊魂の衣裳が身体だと思考する段階では、逆に衣裳はその人間の霊魂を規定する。仮面を装着し仮装した人間の霊魂は、その精霊や死霊を現わすものとなるのだ。仮面仮装とは、衣裳により霊魂を規定することである。

 ということは仮面と化粧とに本質的な差異はないはずである。そのことを示すと思われるのは、ニューギニアのセピック河流域の精霊、カヴァックだ。

特別に設営された柵に囲まれた精霊堂で2ヶ月間隔離されて生活していた男性に、長老が顔面塗彩をほどこす。全身に貝の装身具などで飾り立てると、カヴァクとよばれる精霊の誕生である。(福本繁樹『南太平洋 民族の装い』)。

 顔面は、赤、白、黒の顔料で鮮やかな渦巻き文の塗彩が施され、頭、鼻には貝や牙、羽毛などの装身具がふんだんに飾られる。こうしてしまうと、「本人が誰なのかまったくわからなくなってしまう。もはやカヴァックに変身しているのである(福本繁樹「生きている仮面」『仮面は生きている』)。

 また、セピック河地方マプリク山地のアベラム族では、ヤムイモ儀礼の際、籐細工や木彫りによって作られた小型の仮面クンブをヤムイモにつける。ヤムイモも仮面をつけることで精霊に変身するのだ。ここでは、仮面のみならず、羽毛の冠や装身具だけでも、ヤムイモは精霊に変身すると考えられているという。

 ただ、ボディペインティングであれば、仮面仮装の儀礼を持たないオーストラリアのアボリジニでも行う。この違いは、アボリジニが「肉の霊」の思考が優位で、身体の霊力を重視するのに対して、仮面仮装の儀礼を行う「骨の霊」の思考が優位なところでは、身体と霊魂が二重化されて、より衣裳という概念が物神化するからだと思える。

 ところで、大林太良は『仮面と神話』のなかで、仮面仮装と脱皮の神話、羽衣の説話の分布がだいたい重なっていることを指摘している。これは、身体を霊魂と衣裳とみなし、衣裳が霊魂を規定するという段階に生まれた儀礼や神話や民話の広がりを語っているものと見なすことができる。


『南太平洋 民族の装い』

『仮面と神話』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/27

原ハイヌウェレ型神話

 ハヌウェレ型神話は、殺された女(神)から穀物や有用物が発生するという筋を辿るが、それには古型があるようだ。

 後藤明の『南島の神話』によると、ハヌウェレ型神話の紹介者であり命名者であるイェンゼンもその著書で「ウェマーレ族の観念のなかでは、女神ハイヌウェレと神的な動物、とくにウナギがその役割を果たすと書いているという。

 実際、ニューギニア北部のウェワク周辺では埋めたウナギの内臓からヤムイモやタロイモが生えてきたという神話、ニューヘブリデス諸島では蛇からココ椰子とバナナが生えてきたという神話がある。イェンゼンはウナギを指摘したが、蛇とウナギは同型のもとして思考されている。

 ポリネシアには蛇がいないので、ココ椰子を生みだす主役はウナギになる。かつ、男がウナギに変身して、女神と親密になり、死んだウナギからココ椰子が生えるという「ウナギの情夫」と呼ばれる神話が分布している。

 そうであれば、トーテム的な動物から食物が生えてきたというのが古形で、女性が殺害されるのは、人間と植物との類似点を見出して以降だということになる。

 しかし、後藤は、殺されるのは必ずしも女とは限らないとしている。

作物についていうと、死ぬのが雄の蛇ないし男の場合は、ほとんどの場合、ココ椰子を生ずる。一方、雌の蛇ないし女の場合は、サトウキビ、カヴァ、ビンロウジ、タバコといった副食、儀礼食あるいは嗜好品を生ずる傾向が指摘できる。

 また、マレー、インドネシアからオセアニアにかけて見られるのは、男根から作物が生ずる話だ。たとえばハワイでは、「ココ椰子の木は、かつて頭は地下、男根と睾丸が地上に露出した状態で埋められた男が変わってできたものだ」ということわざがある。「空に向かって直立する椰子の木は男根、それにつく実は睾丸を想起させるものだ」。

 この神話の段階では、男女の性交による子の出産という認識はないから、女性だけが生むことが重視されたか、男根崇拝によるものか、どちらかで変わりうるものと見なしておきたい。

 男根の他に頭蓋骨から生えるという話も際立っている。ニューギニアから南太平洋一帯で、ココ椰子と頭骨が言語上同義とされるのは珍しくなく、インドネシアで首狩りの時、敵の首のかわりにココ椰子を使うという言い伝えもある。ルソン島のイフガオ族では、首狩りによって得た首からココ椰子が生えたという神話がある。ここからは、殺害される同族の女性と、首狩りにより殺害される異部族の敵とは同位相にあることが分かる。

 これを一通り整理すると以下のようになる。

 作物の起源:蛇(ウナギ)→人間
 作物を生む人間:女/首狩りの敵の首/男根
 象徴化:頭蓋→ココ椰子


『南島の神話』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/26

「肉の霊」と「骨の霊」

 「肉の霊魂」に対する関心が強い段階では、身体に霊力が備わると見なされる。ビンビンガ族やワラムンガ族では近親者が食人を行い、ヌラモ族では死汁を飲むのは、死者の霊力を自身に取り込もうとするその最も直接的な表現だ。また、アボリジニのなかには埋葬を行った後、掘り起こした骨を身体にこすりつける部族がいるが、これも同様の行為であり、食人の間接化と象徴化であると言える。

 例1.ビンガビンガ族(北部オーストラリア)。死体は死の直後、異半族の者が、頭を切り取り、肝臓を取り出し、全関節を切断する。地面に穴を掘って、火を焚き、石を熱し、切断した死体を置き、緑の小枝で覆い、その上に、土を積んで焼く。異半族の者が食べる。女は食べてはならない。

 例2.北部オーストラリアヨーク岬半島東岸の諸族。死体の各部は親族に分配される。心臓、肝臓は、最近親が食べる。食肉を与えるのは、同一氏族、同一半族に属するもの。死者の特別な徳や能力(たとえば、ヤム芋の採集に巧みであったらその能力)を獲得するため。

 例3.マラ族。死体は蒸し焼きのようにして焼く。死んだ人によって近親者の誰が食べるか決まっている。

 例4.ヌラモ族。老人や老婦人は、死汁を下に置いた石のうえに集めて飲む。昔は食人を行い、これが樹上葬に変わったという。

 例5.ワラムンガ族。森林のなかで低いゴムの木に木の枝で台をつくり、死体をその上に乗せる。死体が腐る前に死者の母は樹の下に座って死体の汁液を身体に塗る。これは本人も嫌なことだが、これが習慣なのだと言う。

 例6.「埋葬団一行は、大声で泣き叫びながら、死者の骨を掘り起こす。墓から取り出された骨は、きれいに拭かれ、埋葬者たちの身体に擦り付けられる。こうすることで、遺骸に宿る最後の「エッセンス」が埋葬者一人一人の身体に染み込まれてゆくのだ。死者の連れ合いは、頭蓋骨を使って同じようなことをする(P.475、『アボリジニの世界』)。

 ヌラモ族で、「昔は食人を行い、これが樹上葬に変わったという」と証言からだけでは、樹上葬は食人から移行したと断言することはできないが、少なくとも食人と樹上葬が、「肉の霊魂」の思考のなかにあることを示している。

 ワラムンガ族において、死者の死汁を身に浴びるのが母だということは、子の再生への呪術行為であると考えられる。


 骨も身体の一部だから、骨にも霊力は宿っている。しかしそれは、それに対応する霊魂が祖霊となり、人々の守護神となるという「骨の霊魂」主体の考え方ではなく、身体が持ちうる呪力の範囲を超えるものではない。その最たる現れは、ボーン・ポインティングに見られるように、呪具として用いられることだ。

 例1.ムクジャラワイント族。死体はブル・オークの樹に作った台上に葬る。死体が乾燥すると、頭と腕を切り取り、妻が持ち運ぶ。彼女の死去のときに共に葬るためである。彼の部族父と実の父は、脚の腓骨で呪具をつくる。

 例2.グナンジ族。樹上葬の場合、肉の大部分が消えると、樹皮紙に包み、長い間台上に残しておく。さらに乾燥して骨が容易に分離するようになると、木器に入れ、白くなるまで樹に残しておく。腓骨は取り、岱赭(たいしゃ)を塗って革紐でくるんで呪術のために保存する。これは呪術用尖棒(ポインティング・ボーン)として高く評価される。


 骨に岱赭(たいしゃ)を塗り赤くするのは骨に対する呪術行為を意味するが、ポインティング・ボーンとは違う目的の場合もある。ビンビンガ族においては人間としての再生に対する呪術行為であり、琉球弧においても同様だった。というより、琉球弧では血で染めるのではあれば、より古層を指すと考えられる。また、グナンジ族においては、生者が働きかけを行わないが、雨が骨を洗ってきれいになった時が再生のときとされていた。ここには骨に対する加工や洗浄が、肉としての再生につながるという思考が認められる。


 さらに、しばしば骨は砕かれる。マラ族においては、頭蓋が砕かれ、腕骨以外は埋葬されるが、腕骨はトーテム模様の棺に入れて岩穴に納められる。ワラムンガ族においては、腕骨の他は蟻塚の穴の中に落とし、腕骨は告別の後、砕いて埋める。マラ族とワラムンガ族の骨の処理は、最終的にはトーテムへの化身が目指されているが、ここでは骨が砕かれることが重視されている。アルンタ族は埋葬を行うが、「骨がまったく粉々になってしまうまでは、再化身は行われない」と考えられている。骨が粉々になることが、トーテムであれ人間としての再生であれ、必要とされている。それは、肉と骨が分解されることが、次の段階に進むための条件として考えられていることを意味している。

 例1.ワラムンガ族では、儀礼の中心になるのは、腕の骨のひとつである橈骨(とうこつ)だ。橈骨はていねいに包んでおかれているが、トーテムの儀礼のなかで、「先祖が土からでて、最後に姿を隠すまで、そのおもなしぐさが再現され、繰り返される」。最後のしぐさが終わると、橈骨を儀式の場所まで持ってきて、突然、引き裂かれる。ひとりの男が、それを斧で粉々に砕いてしまう。

男は、その破片を、かれの掘っておいた小さな穴に入れる。穴の近くには、絵がかかれていて、蛇がその子孫の魂を残して、地中に入ろうとするところを象徴している。それから穴は、石の蓋で閉じられる。この儀礼は《喪が終わって、死者はトーテムと一緒になった》ことを示している(p.104、『右手の優越―宗教的両極性の研究』)。

 例.マラ族。3、4ヶ月して骨がきれいになると、骨の包みを解いて、地上に落とし、骨を全部バラバラにして頭蓋を砕いて、膊骨の外は埋葬する。この後、母は骨を2、3年保存する。最終儀礼で、骨をトーテム模様をつけた丸太の棺に入れ、山腹の岩穴に隠すか、百合の生える流れの岸の木の枝に置く。

 そこで、骨への塗布や雨による洗浄、部分的な砕骨は、トーテムへの化身や人間への再生に進むための行為としては等価なのだと思える。

 なぜ、全骨なのか。樹上葬を行うところでは、しばしば長骨が重視されるが、それは「骨の霊魂」の思考のように、頭蓋が霊魂の座と見なされるように、長骨に霊魂の座を見ているからではないだろう。「肉の霊魂」の思考のなかでは、霊力は全身に宿っているとみなされるからだ。長骨が選択されるのは、霊力が濃密であるという理由によってではないだろうか。霊力は身体が担う。そこで、骨も身体全部を処置することになるのだ。棚瀬は埋葬思考と樹上葬・台上葬を比較した際、「頭蓋保存」と「全骨保存」としたが、事態を正確に捉えるためには、「頭蓋保存」と「全骨処理」としたほうがよいうように思える。


 ここでぼくたちは、樹上葬・台上葬と埋葬について、「肉の霊」と「骨の霊」をx軸、y軸とした図のなかに描くことができる。

Photo_2


 「肉の霊」思考が優位なところでは、霊は「霊力」として表出される。「骨の霊」思考が優位なところでは、霊は「霊魂」として表出される。(cf.「ロベール・エルツの「死の集合表象」」



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/25

ロベール・エルツの「死の集合表象」

 ロベール・エルツの「死の集合表象」(『右手の優越―宗教的両極性の研究』)の研究を通じて、琉球弧の葬法理解を進めてみる。

 エルツが取り上げているのは、インドネシアのカリマンタン(ボルネオ)のダヤク族を素材にした二重葬儀についてだ。

1.あいだの期間

 遺体はすぐ最終の墓場に運ばれるわけではなく、棺に入れられて一時的に家屋のなかや家とは別の場所の仮小屋に安置される。

 「死体の分解がすっかり済んで、骨だけになるまで待たなければならない」。「死と最終の儀式とのあいだの期間は、通常、死体が骸骨の状態になるのに必要な期間に相応する(p.47)」。「この期間は、死者はまだ地上の暮らしをすっかり終わっていないものと看なされる」。

 魂にとっては、生前の状態を延長させることになるが、これは危険で不吉な状態である。魂はふたつの世界の境目で暮らしている。あえて他界に入ろうとすれば、侵入者のように見なされる。現世では厄介なお客さまなので、近所では恐れられる。憩える場所がないので、魂はたえずうろつき歩く。お祭りが終わって、不安な状態にけをつけてもらうのを心配そうに待っている。だから、この期間、魂が悪さをするとみられても、べつに驚くことではない。ひとりぼっちなので、魂は生者たちを道連れにしようとする。魂にはこれといって生きる手立てはないので、生者のところから略奪してくるほかない。魂は近親者の服喪を厳しく監視して、ちょっとでも手抜かりがあったり、熱意がなかったりすると、苛立って近親者を病気にしてしまう。そこで、生者は同情と畏怖を感じる。「喪は、死者の状態の生者の側における投影にほかならない(p.78)」。

2.最終の儀式

 まず祭りの対象となる死者または死者たちの遺体の残部は、注意深く洗骨される。そして仮の墓場から引き取って、ぜいたくに飾った「男子集会所」に持っていく。そして葬儀を行う。

 これらの儀式がすむと、生者たちが骨にいだく感情も、これにさきだつ期間遺体がよびおこしていたそれとはちがったものになる。「もう排斥と嫌悪の情ではない。むしろ畏敬的な信頼の念となってくる。骨の山は、好意的な力を発して、村を不幸から守ってくれる、とともに生者たちの営みを助けてくれる(p.88)」。

 生者の家にも安置所を設けようとする。マライ半島ではこの特権を享けるのはたいてい首だけだが、それは「首がからだの本質的な部分であり、死者の能力の在り場所だからである」。「肉体から離れた魂にとって、その物的な支えになっているのは、骨であることが多い(p.73)」。

 すべてのダヤク諸族には根底に魂が肉体の残部(骨)と結びついて、サンドンやその周辺に住む、という考え方が認められる。

 魂は、七世のあいだ天界にとどまる。けれども一世を終わるごとに、次の再生のために死ななくてはならない。そして七度目の死を済ますと地上に戻る。魂は好んで村の近くに生えている茸や果実のなかに入る。そして女性がこれを食べると、その胎内に入って、やがて人間として再生する。ところが、果実が鹿とか猿とか動物に食べられると、魂は動物の胎内で化身する。しまいに、この動物を人間が食べると、魂はこの廻り道をして人間界に戻ってくる。反対に果実のまま腐ったり死んだりしてしまうと、魂は永久に消えてしまう。


 たくさんのことを端折って引用したが、ここで取り上げたいのは、レヴィ・ストロースがエルツの研究について、「肉の霊魂」と「骨の霊魂」(『パロール・ドネ』)という区別をしていることだ。

 この言い方になぞらえれば、「肉の霊魂」はこの世とあの世のあわいにあるもので、「骨の霊魂」は常にあるもので守るものだ。これは、来訪神と高神の関係と相似形をなしている。二重葬儀というのはつまり、来訪神と高神の観念を生むポテンシャルを持ったということを意味するように思える。

 また、エルツより一世紀後にいるぼくたちは、このダヤク族の葬法が台上葬に属し、そもそもは明瞭な他界観念や死者儀礼を持たないことを知っている。しかしダヤク族でも、台上葬は純粋な形では現れず、頭骨が尊重され、霊魂が他界へ向かうから、埋葬の思考が混入しているのを認めることができる。

 ここでは「肉の霊魂」と「骨の霊魂」は、最初の葬儀と最終葬儀という時間軸で現わされるが、これをそれぞれ独立した思考だと捉えてみる。

 エルツが挙げている例でいえば、近親食人慣行(エンド・カニバリズム)は、「肉の霊魂」に対しての典型的な思考が現れている。

それは「聖なる食事」であって、これには部族の成員のうち、きまったグループだけに参加が認められる。少なくともビンビンガ族では、女性はきびしくこれから閉めだされる。この儀式によって、生者たちは、死者がその肉に保っていた活力と特性とを自分の胎内に取り入れることができる(p.67)。

 「聖なる食事」では、霊魂が身体を抜け出して動きまわるのとは異なり、霊魂は身体に留まり、それは食人する近親者のなかに移行することが思考されているが、前者が「骨の霊魂」の思考であるのに対して、後者は「肉の霊魂」に対する思考だ。

 この「肉の霊魂」の思考を追うと、人間として再生する思考を生んでいる。再生までの最短期間についての報告としてエルツは挙げている。

まず、アルンダ族では、骨がまったく粉々になってしまうまでは、再化身は行われない。またナンジ族では、雨が骨を洗って、綺麗になったときに、再化身が実現する。むろんこうした表象は、きわめて特殊でまた一貫性にもとぼしいので、あまり重視してはならない。それにしても骨の状態と魂の状態とのあいだには、ある関連性があるように考えられる。すなわち魂は、いまのからだがまったくなくなって、はじめて人間界に復帰できるということである(p.107)。

 エルツとしてはダヤク族の資料を主に考察しているので、「きわめて特殊でまた一貫性にもとぼしいので、あまり重視してはならない」と例外的なみなしをしているが、エルツ以上に資料を持っているはずのぼくたちには、これは例外ではなく、「肉の霊魂」を重視した場合の典型的な思考法を見ているものだ。

 「肉の霊魂」が重視されるところでは、骨はどう扱われるか。棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』では、埋葬文化の頭蓋保存との比較で、樹上葬、台上葬における全骨保存とされていた。しかし、全骨保存はことの半面を示すに過ぎないのかもしれない。

 ワラムンガ族では、儀礼の中心になるのは、腕の骨のひとつである橈骨(とうこつ)だ。橈骨はていねいに包んでおかれているが、トーテムの儀礼のなかで、「先祖が土からでて、最後に姿を隠すまで、そのおもなしぐさが再現され、繰り返される」。最後のしぐさが終わると、橈骨を儀式の場所まで持ってきて、突然、引き裂かれる。ひとりの男が、それを斧で粉々に砕いてしまう。

男は、その破片を、かれの掘っておいた小さな穴に入れる。穴の近くには、絵がかかれていて、蛇がその子孫の魂を残して、地中に入ろうとするところを象徴している。それから穴は、石の蓋で閉じられる。この儀礼は《喪が終わって、死者はトーテムと一緒になった》ことを示している(p.104)。

 これは、『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』(棚瀬襄爾)では、「砕骨式」と書かれている。マラ族では、死者の食人を行う。骨3、4ヶ月して骨がきれいになると、骨の包みを解いて、地上に落とし、骨を全部バラバラにして頭蓋を砕いて、膊骨の外は埋葬する。この後、母は骨を2、3年保存する。最終儀礼で、骨をトーテム模様をつけた丸太の棺に入れ、山腹の岩穴に隠すか、百合の生える流れの岸の木の枝に置く。

 ワラムンガ族では橈骨は砕かれ、マラ族では、埋葬思考では重視される頭蓋が砕かれる。全骨保存といっても、マラ族では膊骨以外は保存されるというよりは埋葬される。ここでは全骨保存というよりは、骨は小さくさることが目指されているように見える。橈骨や膊骨は、埋葬思考における頭蓋を意味していない。むしろ、トーテムと同一化するための媒介だ。ここでは骨は最後の身体として、それが土に帰る状態になったところで、トーテム化することが思考されているのではないだろうか。すると台上葬に見られる全骨保存は、埋葬思考の頭蓋保存に影響を受けた砕骨の反転形ではないかと思える。

 「肉の霊魂」の思考が強いところでは、食人などによる肉への関心が強く見られ、骨はバラバラにされ、象徴的な個所が砕かされることによって、トーテム化することが考えられている。そして時に、肉は人間として再生する。「骨の霊魂」の思考が強いところでは、骨、とくに頭蓋に対する関心が強く、肉は朽ちるのを待たれる過程の存在にすぎない。

 ここで頭蓋とは高神の根拠となったものであり、「骨の霊魂」の思考が強いところで、再来する肉は来訪神化したのではないだろうか。また、「肉の霊魂」と「骨の霊魂」は、棚瀬襄爾の使っている用語でいえば、「生命霊」と「遊離霊」に対応させることができる。(cf.「「肉の霊」と「骨の霊」」

『右手の優越―宗教的両極性の研究』

『パロール・ドネ』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/24

その他儀礼のなかの仮面

 死者儀礼、成人儀礼、豊穣儀礼の範疇に入らないもの、あるいは、豊穣儀礼の要素を持つかもしれないが、判断がつかないものを挙げる。

 事例1.マンダング族(セピック河流域)

 家屋落成の祭祀、マイ・バンク。氏族ごとに兄弟とその妹の仮面がある。羽毛や貝の装身具で飾りたてた仮面があたらしい家で歌い踊る。仮面の中の男が節のない竹筒を隠しもち、この竹筒の一端を口にくわえて咳払いをまじえながら大声で唸るような、独特の朗唱を発する。拡声器のように竹筒にこもった声が「マイ」の声とされる(p.159、福本繁樹『仮面は生きている』

 事例2.イアトムル族(セピック川中流域)

 子供が駄々をこねて親の言うことを聞かないと、両親が相談して、(成人儀礼に登場する)アバンに頼んで、子供を脅す。(福本繁樹『仮面は生きている』

 事例3.トーライ族

 トゥブアン、ドゥクドゥクは、農耕神だと思えるが、祭儀の過程は、制裁の機能を持つ。

 事例4.パプア湾

 ヘヴェヘ。祭りに加わる仮面は百にも達することがあり、それぞれ神話の中の人物を現わす。(福本繁樹『メラネシアの美術』

 エレマ族。起源神話に登場する超越的な存在者といてのアバ・ヘヴェヘがエラボ(男の家、男性の集会者)で誕生し、死ぬまでのプロセスを描くもので、成長の各段階の儀礼の連続によって構成されている。そのサイクルは二十年にも及ぶ長大な儀礼でもある。具体的には、仮面(衣装)として表象されるアバ・ヘヴェヘを作成するために、その材料を神話の再現を通じて、死者の霊や精霊との儀礼的交感で収集する段階に始まり、仮面が完成して後に村落を踊り歩く祝祭的儀礼の段階(この段階で、共同体では日常的な作業が停止される)を経て、アバ・ヘヴェヘへの象徴的殺害と死者の国についての創造神話の再演からなる葬送儀礼的な内容の段階で終えられる(「南洋の奇妙な自体」磯忠幸)。

 事例5.タミ族

 10年から12年に一度、タゴの儀式が行われる。儀式は一年間続けられ、その間さまざまな禁忌が布告される。また、タゴの儀式の期間は、平和を保つ義務のある時である。すべての争いや戦闘は、儀式が終わるまで禁止される。この儀式の期間にタゴが島にやってくる。一連の長い儀式のなかでも、最初のタゴを迎えるときと、最後にタゴを贈りだすときが重要なものである。ホラガイを吹き鳴らす音に、それぞれの親族のタゴが異なった場所から現れる。岩の割れ目から這い出してくるものもあり、海を泳いで渡ってくるものもある。それぞれのタゴに属する親族の代表人物が責任をもってタゴをもてなす。宿泊の用意をしたり、供物を捧げたり、舞踏を行ったりする。タゴはタミ島が生れた時に同時に生まれた精霊であると考えられている。(福本繁樹『メラネシアの美術』)。

 
 マンダング族において、兄弟と妹の仮面があることは、男女一対の仮面の前の段階にあるものかもしれない。また、タミ族のタゴの儀式は、祖先崇拝に当るものだと思われる。開かれる頻度はイザイホー並みだ。

 これらの例から分かるのは、仮面仮装の儀礼は、決して農耕儀礼のなかで生まれたものではないということだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/23

豊穣儀礼のなかの仮面

 収穫を契機とした豊饒儀礼のなかの仮面。

 事例1.アスマット族。

 籐を螺旋状に編んでつくる円錐形の仮面は、明らかに男根を模したもので、豊穣や多産の儀式と関係する。この仮面が村に出現すると、若い男性たちが、歓声をあげて果実を投げつけて攻撃する。そうすると仮面の精力が増強するという。翌日また仮面が村を一巡するが、各家では父親が幼い子供を従えて待ち受ける。仮面は子供たちが早く成長するようにと、男の子の陰嚢や女の子の乳房に触れてまわる。子供を脅かす(p.139、福本繁樹『仮面は生きている』

 事例2.アベラム族(マプリク山地)

 人間が顔につける舞踏用仮面「バパ」以外に、ヤムイモにつける小型の仮面「クンブ」」を、籐細工や木彫によってつくる。仮面をヤムイモにつけるのは収穫祭のコンクールのときで、もっとも巨大な品種で、最高位の精霊「マンブタブ」の名を持つヤムイモに仮面をつけ、羽毛や彩色で飾る。二番目の政令「ウンジュンブ」の名の品種のヤムイモには、ニワトリの白い羽毛の冠を飾る。その他の品種のものは、さらに簡単な装飾ですまされる。このようにヤムイモには大きな品種のものから順番に位階があるが、その品種名に精霊の名がつけられている。この場合ヤムイモの位階は精霊の位階に該当する。精霊の名で呼び、精霊そのものであるとされるヤムイモに仮面をつけ、そのヤムイモをたべることによって、精霊と作物と人間の依存関係が確立されると解釈できる(p.166、福本繁樹『仮面は生きている』)。

 『南太平洋 民族の装い』(福本繁樹)を見ると、バイニング族(ニューブリテン島)の火踊りは、「収穫祭」の項で紹介されているが、何の収穫祭か明記されていなので、挙げないでおく。

 収穫祭としての仮面の例は意外に挙げられない。これは、死者儀礼や成人儀礼のなかの仮面が、次第に豊穣儀礼のなかに取り込まれていったことを示すのかもしれない。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/22

成人儀礼のなかの仮面

 アカマタ・クロマタも成人儀礼を兼ねた仮面だが、その側面からの例をメラネシアに拾ってみる。

 事例1.マリンド・アニム族。

 マヨ祭儀の成人儀礼のなかで、仮面仮装の結社員によって神話が演じられる。(cf.「イェンゼンの「殺された女神」」

 事例2.トーライ族

 成人儀礼のなかで、仮面のトゥブアン、ドゥクドゥクが少年たちを痛めつける先陣を切る。(cf.「トゥブアンとドゥクドゥク」「ドゥクドゥク祭儀の過程」「マヨ、ドゥク・ドゥク、アカマタ・クロマタ」

 事例3.イアトムル族(セピック川中流域)

 成人儀礼であるワニ儀礼のなかで、仮面のアバンは、少年たちを棒で叩いたり、耳たぶに穴を開けたりして、試練を与える。(福本繁樹『仮面は生きている』)。成人儀礼では、少年たちは背中にワニを模した刺青を入れられるが、その傍らにはワニの彫像も置かれているのだと思う(cf.「「イメージの力」展、見聞記」)。

 事例4.ニューアイルランド島北部。

 一連の儀礼とその儀礼で使用される仮面や彫像を包括的に指し示すのに、マランガンという呼称が用いられる。 マランガンの儀礼は、基本的には死者を悼む葬送儀礼であるが、同時に少年たちのイニシエーションも兼ねている。透かし彫りを多用した複雑な構造を持つ仮面や彫像などは、個々のマランガンの儀礼毎に何ヶ月もかけて制作される。 しかし、儀礼が終われば, それらの仮面や彫像は廃棄されるか朽ち果てるままに置かれるかのいずれかである。(「仮面とプリミティヴィズム」~プリミティヴ・アートとしての仮面の魅力~梅本涼)

 マランガンの彫像は、「イメージの力」展で観ることができた。(cf.「「イメージの力」展、見聞記」)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/21

死者儀礼のなかの仮面

 仮面は死者の表象であることを示すメラネシアの例。

 事例1.アスマット族(ニューギニア南西部)。

 ジパエの儀礼の仮面は、極度に神聖化され、それを指し示す名称が存在しない。それは主な材料として使われる樹皮の名で呼ばれている。ジパエの儀礼は、首狩りの犠牲になったものの死霊を追い出すことにある。仮面はそれぞれ一人の死者を表わし、村の男たちによって村から追われる。朝になって死者が再び戻ってこないよう、男たちが仮面に戦いをいどみ、仮面は死ぬ。死者に対する生者の象徴的な勝利で儀礼が締めくくられる(p.12、『メラネシアの美術』

 事例2.トレス海峡西部諸島プル島。

 「死者の踊り」を行う。近死の数名のために、その数だけの役者によって行われる。祭場に囲いをし、スクリーンを設けて太鼓を置き、近親を呼び入れる。役者の装束は、ひそかに森の中で整える。女や未成年者は見てはならない。準備が終えると、人々が集まり、男は前列、女は後列に座る。仮面をつけた役者は、おのおの代表する男女の死者のしぐさや声を真似、ふつう二人ずつ踊るが、真に迫って深い興奮を巻き起こすため、時には喜劇風にこの昂奮を解きほぐす。太鼓の音が劇のはねたのを知らせると、大葬宴が催されるが、その際、死者の家族は、食事の特別の部分を役者に呈する。ハッドンによれば、この劇の意図は、死者が生きていることを示すもので、死後生活の確信が遺族を慰めるのであるという。(棚瀬襄爾『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』

 事例3.ニューアイルランド島北部。

一連の儀礼とその儀礼で使用される仮面や彫像を包括的に指し示すのに、マランガンという呼称が用いられる。 マランガンの儀礼は、基本的には死者を悼む葬送儀礼であるが、同時に少年たちのイニシエーションも兼ねている透かし彫りを多用した複雑な構造を持つ仮面や彫像などは、個々のマランガンの儀礼毎に何ヶ月もかけて制作される。 しかし、儀礼が終われば, それらの仮面や彫像は廃棄されるか朽ち果てるままに置かれるかのいずれかである。((「仮面とプリミティヴィズム」~プリミティヴ・アートとしての仮面の魅力~梅本涼)

 事例4.マリンド・アニム族(ニューギニア中南部)。

 Mojo Imo という秘密結社があり、その団員の死去のさいには、特別の祭儀が行われ、特定の役者(dema wiel)が登場し、神話や死去際してのdemaの役割、あの世への旅を表現した芝居を行う。(棚瀬襄爾『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/20

「仮面は生きている」

 ニューギニアのセピック河流域の精霊堂(ハウス・タンバラン)。精霊堂はあらゆる祭祀の中心となる神殿。

祖霊の像や精霊の姿が、巨木の柱に彫りこまれたり、天井一面に描かれるなど、屋根、破風、棟、梁、天井、柱、壁と、ほとんどあらゆる部分が念入りに彫刻、彩色され、仮面、神像、楽器などの神聖な祭具がなかに安置され、槍、盾、弓矢などの武器が保存されている。その絢爛、華麗、幻想、怪奇の様相は圧倒されるばかりの迫力である。これらの装飾となるあらゆる彫刻、彩色が神や精霊の姿であり、精霊堂のなかは顔、顔、顔にあふれている(p.148、福本繁樹『仮面は生きている』 )。

 男子結社の集会場である精霊堂は、スピリットが自在な変容、変態を起こす高次の対称性の世界の再現をしているように見える。

 ここで、成人儀礼に出てくるのは、アバンという仮面(cf.「「イメージの力」展、見聞記」)。マイは、家屋落成のときに出現する。マイは兄弟と妹の仮面がある。

 彼らにとっては、精霊は万物に宿っている。仮面や神像などの造形物が、生きた人間のように動き、話すことがあったというストーリーがしばしば出てくる。マプリク山地には、人間が顔につける舞踏用仮面バパ以外に、ヤムイモにつける小型の仮面クンプがある。これはヤムイモの精霊の姿を現したものだと考えることができる。

 メラネシアには、仮面に相当する言葉は存在しない。仮面は多くの場合、死者、祖霊、神などの名で呼ばれる。セピック河流域の例をみると、仮面とは精霊の表象そのものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/19

「われらみな食人種(カニバル)」と「狂牛病の教訓」

 オーストラリア政府の行政管理に移管される1949年以前には、ニューギニア内部の山岳地帯には、カニバリズム(食人)の風習がはびこっていた。「一定範囲の近しい親族の死体を食べるのが、その人に対して愛情と敬意を表すやり方だったのである」。

 白人の影響力でカニバリズムの慣行に終止符が打たれる。「現地人のインフォーマントがその詳細を驚くほど細やかに語るそのカニバリズムの慣習は、調査が始められたときにはすでに無くなっていた」。

 これが棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』のなかでも、食人の事例があまり見つからない理由だというのが分かる。与那国島の慶田城は15世紀頃の人物だから、琉球弧ではニューギニアより早く、この習俗はなくなっていたかもしれない。

 レヴィ・ストロースは、「われらみな食人種(カニバル)」のなかで、カニバリズムを分類している。

1.食べることを目的としたもの(窮乏期に、もしくは人肉への嗜好ゆえに)。
2.政治的なもの(犯罪者の懲罰もしくは敵への報復として)。
3.魔術的なもの(故人の美徳に同化するため、あるいは逆に、その魂を遠ざけるために)。
4.儀礼的なもの(それが宗教上の崇拝や、死者の祭礼もしくは成熟の祭りに属するものであったり、農耕の豊穣を保証するものでもある場合)。
5.治療法。

 たとえば、1972年にアンデス山中に墜落した飛行機の搭乗者が死んだ仲間を食べたのは1の「窮乏期」に当り、19世紀のヨーロッパでは美食のなかに位置づけられることがあったと言うが、これも1の「人肉への嗜好」に当る。

 この分類に従えば、琉球弧のそれは「魔術的」なものであり、マリンド・アニム族のマヨ祭儀におけるそれが「儀礼的」なものとして両者を区別することができる。

 レヴィ・ストロースは、カニバリズムを「野蛮」と見なす人もいるが、全体を見渡すと、「かなりありふれたものでしたかない」と言う。

 ジャン=ジャック・ルソーは、わたしたちを他者と同一化する方へと駆り立てる感情をもって、社会生活の起源だと見なした。何よりまず、他者を自分自身に同一化する最も単純な手段はやはり、他者を食べてしまうことである。

◇◆◇

 アメリカ大陸の先住民や、長いあいだ文字を用いずに暮らしていた人たちにとって、神話の時代というのは、人間と動物たちとがはっきりと区別されておらず。たがいに意思を通じあえるような時代だった。(中略)
 現在でもまだ、すべての生命を持ったもののあいだにあった原初の連帯を、われわれはぼんやりとだが意識しているように思われる(「狂牛病の教訓」)。

 としてレヴィ・ストロースが挙げるのは、子供に与えるぬいぐるみや絵本のことだ。

 文字を持たない人たちの一部は、動物を食べることを、食人習俗(カニバリズム)の「ほんのわずかに弱められた一形態」だと見なしている。狩人と獲物の関係を親族関係になぞらえる。性交を摂食行為になぞらえていることにも現れる。

 もうひとつは、肉食のうちに食人習俗(カニバリズム)の一形態を見る。「他者を食べているように思えても、その実自分自身を食べていることになる」。

 この区分で言えば、琉球弧のそれは前者に近いと言えるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/18

『セデック・バレの真実』

 『セデック・バレ』に心を動かされた勢いで(cf.『セデック・バレ』)、映画『セデック・バレの真実』も観てきた。この映画は、セデック族の家族が神話の地プスクニを訪ねるのを主軸に置いて、モーナ・ルダオの生き残りの末裔、同化政策のなかで警察官とその妻になった夫婦の末裔、先住民の一人を妻にした日本人警察官の子のことと、霧社事件の関係者の証言を集めたドキュメンタリーだった。

 事件にしても、霧社事件だけでなく、その後、収容所に送られたセデックらの人々を対立しあっていた部族の人々が、日本の教唆を受けて襲撃したこと、その教唆を告白した日本人警察官のこと、太平洋戦争では高砂義勇隊として徴兵されたことなどにも取材は及んでいて、関係者の声を広く収集したものだ。『セデック・バレ』の背景というより、映画の題材となった霧社事件の事後譚である。

 また、史実を残すというだけではなく、警察官になった先住民出身者が事件の首謀者と目されていたことがあること、モーナ・ルダオの末裔はいないとする風評のあることなどの、もつれた糸をほぐす役割もひとりでに担っていた。

 印象に残るのは、いまは土地を追われたセデック族がかつて対立していた部族の人に、事件の舞台のひとつになった洞窟を案内してもらいながら話す互いの関係のこと。セデック族が追放された後に、セデック族の狩り場をもらいうけた部族の案内人は、ここはいまは自分たちの狩り場だとしきりに言う。自分たちが追い出したわけではない、と。セデック族の洞窟の訪ね人は、それはそうだ、いまはあなたたちの狩り場と認めてやる、その応答はやるせなく響いた。

 また、山中のゆかりの地に行き着いた二人の年長者の方が、この子はセデック語は話せないけど、ご先祖様に会いに来ましたと紹介し、酒を先祖と酌み交わす。墓碑に刻まれたセデック族の人たちの名が中国語で記されているのを、仕方ないよな、子供たちは読んでくれると頷く。名を譲り受けた末裔の人が、自分の名を嫌に思い、霧社事件に触れるのを避けるように生きてきたものの、周囲の勧めもあってのめり込んでゆく。そうしたひとつひとつの場面が、ちょっと変換すれば、自分たちのことに思え、またほとんど同じことに悩み、突き当たるものだということが伝わってくる。そういうドキュメンタリーだった。

 セデック族には、木と一体になった岩プスクニから生まれてという神話がある。映画でも彼らはしきりに祖先といい、それは直接的には親や祖父母を辿ることを意味していたが、そこには、ありありとした力を感じる巨岩と巨木(大地)から生まれたという神話時代の意味も失われていなかった。古代の息吹を知っている民なのだ。彼らはプスニクにたどり着いて泣く。そこには生き残ったことへの喜びも含まれているはずだ。

 生き残った人しか語ることはできない。自殺を含めて、それができなくなりそうな事態の時に、生き残ることを説く人がいる。そういう人がいたから、生きて証言を語ることができた人も少なからずいる。また、証言するにはそのために語る言葉が要る。それは事件直後に可能なのではなく、傷が全て癒えることはなくても、少なくとも発語することができるまでの時間も必要だった。

 マイノリティのそのまた生き残った者の声は、その意味でとても貴重なものであるには違いない。しかし、観る者は、そこに死者の声も聴き取ることを求められているのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/17

『セデック・バレ』

 セデック族を中心に先住民部族が武装蜂起した時、リーダーのモーナ・ルダオは、「文明が我々に屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の誇りを見せてやろう」と仲間に檄を飛ばす。しかし、彼はここで「野蛮」というけれど、彼らは「首狩」を行なっていたから「野蛮」なのではない。それは、文字以前の段階の習俗のひとつと言ったほうが妥当な内実を持っている。現に、セデック族でも、「首狩」は成年儀礼に欠かせない要素になっているし、主人公が日本に対する武装蜂起を「祖先に血を捧げる儀式」とも言うように、それは共同儀礼という見立てがなされているのだ。

 棚瀬襄爾の探求を元にすれば、「首狩」は、近親死者の頭蓋崇拝を行なっていた種族に、他界を持たない種族の思考が混融し頭蓋崇拝が出来なくなったのを契機に、それが喪明けの共同儀礼へと転化したものだ。それは初期農耕を行った種族に見られる近親死者の頭蓋崇拝の変形であり、その意味では台湾先住民に関わらず起こり得た儀礼だった。成人儀礼のひとつとして行われる「入墨」に至っては、もう琉球弧も同じだ。それが「野蛮」の証とみなされた点でもそうだ。

 台湾先住民の「首狩」がどんな位相にあったか、ぼくは知らないが、ニューギニアのマリンド・アニム族では「首」は新しく生まれる子に名を授けるとされ、カリマンタン(ボルネオ)のイバン族では頭蓋が出産を可能にし、「首」を捕ったことのない男とは結婚しようとしない女性もいる。そのように、捕られた首は丁重に扱われ、宥められ、共同体を守護する神への変身を期待される。作中の冒頭に挿入された習俗としての「首狩」において、頭蓋がどう扱われるのか、というところまで描かれていたなら、「野蛮」という言葉が近代的な意味から離れやすかったのにと思う。

 「首狩」はいずれ消滅するし、消滅しなければならないだろう。しかし、実際に武装蜂起を招いたように、それは「文明」によって禁止されるということでは、消滅の必然性を持たない。ぼくは「首狩」がどのように変形されうるものかを知らないが、たとえば、琉球弧では近親者の食人が行なわれていた痕跡がある。食人は、レヴィ・ストロースによれば儀礼的な異性装として弱化され、変形されうるし、ぼくの考えでは琉球弧では、死者に添い寝することで、霊力の転位を図るという変形態を持った。そのような道筋が辿られえたのだ。

 それには、生業の変化が必要であったかもしれないし、たぶん、「しのびない」という声が発せられる必要もあった。けれど、「文明」の名の元に禁止を強いても、そこにある儀礼の意味は表現の行き先を求めざるをえない。鎮圧に臨む日本の部隊の司令官は、「お前らに文明を与えたのに、反対にわれらを野蛮にさせよって」と言うが、言葉の本来の意味で野蛮なのは、「首狩」の儀礼が表出したいものを塞いだ文明の強制のほうにあるし、それが武装蜂起を招いた一端をなしている。

 映画では、支配者である近代国家の威を借りた日本の警察官の姑息さや嫌らしさは、良心的な日本人警察官によって相対化され、武装蜂起に臨む部族の男たちは、女たちの嘆きによって相対化されていた。また、教育を受け警察官になり「文明」の側へ入ることで「野蛮」を抜けようとするものの、「文明」の側からは蔑視の視線を受け、「野蛮」の魂も失っていないという立ち位置で、両者の狭間に悩む部族出身の青年も描かれていた。作品は多様な相対化の視線を繰り込んでいる。けれど、文明と日本への同化による、支配する側と支配される側の関係は絶対的なものだ。そこに、彼らへの共感が生まれる。

 鎮圧後、司令官は「我々大和民族が百年前に失った武士道の精神を見たのだろうか」と述懐するが、もちろん、「野蛮」はそれに回収されるものではない。ぼくは身近なシンパシーもあってか、彼らに感情移入して観ていた。その跳ね返りに、中世人や近世人が骨抜きにされたような演技によるサムライ物語には感情移入していないことにも気づかされた。映画『セデック・バレ』は、「霧社事件」という、蜂起というだけでなく、その鎮圧に部族間の対立を利用したやりきれない史実に、よく肉迫しえた作品だと思う。


『セデック・バレ 第一部:太陽旗/第二部:虹の橋』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/16

『「食べる」思想 人が食うもの・神が喰うもの』

 琉球弧では人間を食べたことがあった。その思考に接近するのに、村瀬学の『「食べる」思想 人が食うもの・神が喰うもの』を手に取ってみた。

 とても重要なことが言われているように見える。「食べる」ことを思想として扱ったものは稀だと思うからだ。その重さを村瀬自身も考えている。

哲学がもっと早い時期に、とくにデカルトの時代に、人間の存在の仕方を「食としての存在」としてもとらえる思想を創り出していたら、こんなにも「飢え」に苦しみ、「食いもの」にされる人々が「世界」にいることに無関心でい続けることはなかったのではないかということである。本当に「哲学」という学問が、人々に大事なものを見ることを教えてこなかった罪は大きかったと思う。大きすぎるのではないかという気すらしている。

 ただ、村瀬は人が人を食うことについては、深く追究していないので、彼の考えたことを手がかりにしてみたい。それは「供犠」についての思考だ。

 人が「飢え」に直面したときに、「無から有へ」の過程を思考せざるをえなくなった。人が動物を食べ、有を無(微)にするなら、無(微)から有を生み出す存在がなければならない。それが神と呼ばれる「「現実」と「観念」が混じり合った存在物」である。

 こうして村瀬が提示するのは、「供犠」の思考の概念図だ。


Taberu_2


 これをぼくたちの関心に引き寄せてみる。すると、

 供え物=死後間もない近親者
 神=死後間もない近親者
 動物=死後間もない近親者

 この図を元にすると、死後間もない近親者が、(供え物=神=動物)の三重の意味を帯びることになる。しかし、実際これは、供え物であり、神であり、食べ物としての動物であったのではないだろうか。

 村瀬は、「神々」を創り出したときに、「ヒト」は「人間」になったのである、と書いている。では、この(供え物=神=動物)の段階では、人間ではないヒトだったということになるだろうか。いや、この意味の三重化が人間の思考の産物だと言うことができるだろう。


『「食べる」思想 人が食うもの・神が喰うもの』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/15

『野生哲学─アメリカ・インディアンに学ぶ』

 『野生哲学─アメリカ・インディアンに学ぶ』について、印象的だった個所を備忘しておく。

 イロクォイ族では、部族の会議のために七世代にわたって及ぼす影響をよく考えなければならないと誓い合った。現在の政治家に詰めの垢を煎じて飲ませたい宣誓だ。

 なぜ、七なのか。著者の菅啓次郎は書いている。
 「東西南北という基本方位に、上と下を加えて、6。この三次元の座標の原点にいる自分の位置が、7にあたる。ついで、世代。自分の発生源である父と母に、それぞれの両親を加えて、6。そしてこれらの直接的な先祖たちがひとつに収斂する点である自分が、7にあたる」。

 「生命」に連帯することは、われわれの「生存」の重要な一部だ。そして生命との連帯は、人との生活と意識が「ヒト」という種の中だけで完結することを許さない。そのことに対する痛切な自覚も、「七世代の掟」には、はじめから織り込まれていた。

 プエブロ・インディアンの教え。
 スープを使うスプーンに瓢箪を使う。瓢箪は音楽でできている。だからすべての食べ物は音楽からもたらされる。生命もまた音でできた家。人々はその生命という音によってできている。人間が音でできている以上、耳を傾けるということが非常に重要なのだ。

 こんな聴覚的世界(マクルーハンが論じたような意味での)に育った子が、十二歳になるまで、読み書きをおぼえられなかったというのも、むりはないと思う。

 これは自然音を左脳で聞くという旧日本人とポリネシアンと似ているのではないだろうか。この特性は、長く琉球弧でも文字を必要としなかった理由の一端を示すかもしれない。

 「人は動物であり、動物は人々だった」。

 動物のかれらとともに生き、死に、かれらの命を奪い、それと引き換えに自分がかれらになる。かれらの生き方を見、学び、ときには模倣することによっても、自分はかれらになる。直接的な接触が、人に動物をめぐる精密な知識を与えた。おなじ水や岩塩、木の実や小動物といった食物を共有することで、人と動物は物質的にも似かよっていることが知られた。そして動物の肉を食い、その皮を身にまとうことで、同一化は完成する。  シャーマンたちの儀礼や種々の踊りが、動物の動きのまねにはじまったことは疑えない。

 動物の擬人化と人間の擬動物化。毛皮による一体化。シャーマン動作の起源が、動物の真似によるものというのは面白い。オーストラリアのアボリジニでも、狩りの前に動物に憑依したような真似を行い、夢で出会うことが、実際の狩の前に、狩と同等に重要な行為として尊ばれていた。

 イグルーク・エスキモーの教え。

 人生の最大の危機は、人間の食べ物が、すべて魂をもっているというところにあるんだ。われわれが殺し、食わなくてはならないあらゆる生き物、着物を作るために倒し、解体しなくてはならないすべての生き物が、魂をもっている。魂は肉体とともに死ぬわけではないので、肉体を持ち去ってしまうわれわれに仕返しをしようなどと思わせないためには、その魂をよくなだめなくてはならない。
 アメリカ先住民にとって穀物と同様に重要だったのはタバコ。この聖なる草々は神々への捧げ物として扱われ、病を癒すために吸われ、交渉の末の合意を誓約するために吸われ、ただの楽しみとしても使われた。

 なぜ、それが神々との通信を果たすことになったのか。「その煙が垂直に立ち上るからだ」。そして、タバコの煙は息を目に見えるようにする。煙は、その息という生命の実質を、目に見えるようにする道具だ。

 この考えは面白い。なるほど、そういう見立てだったのかもしれない。

 菅は、「人類の自己収縮」を「世界史的な課題」と考えている。人類の自己収縮。その通りだと思うが、七世代先までのビジョンとなるような、そのことの魅力を語らなければならないのだと思う。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/14

ニライ・カナイ、地の底から海上への転位

 ぼくたちは琉球弧に洞窟や叢林の奥から通じる地下の他界の観念が存在したことを見てきた。しかし、風聞に入る限り、もっとも知られているのは海の彼方とする海上の他界である。海上の他界とは何だろうか。

 棚瀬襄爾は他界の方位を考察するなかで示唆を与えている。他界の方位には種族の移動に関わるものが多い。たとえば、オセアニアでは種族は東から西へ移動しているから方位を持つ場合、西方が多い。しかし、そればかりでないのは「憧憬の地」を他界の方位とする種族もあることだ。たとえば、マリンド・アニム族ではディグル地方、次にフライ河と観念されてきたが、最近ではアンボン、マカッサル、スラバヤになっている。このような変化は特にマリンド・アニム族のなかでも海岸に住む島人によってなされているが、これは外国人との交流の結果、「彼らの知るに至った文化の中心に対する憧憬が他界の住所を決定したと思われるのである」と書いている。

 しかし、他界の方位は種族の移動と憧憬の地というばかりではない。オセアニアでは確かに種族は東から西へ移動しているから西方が他界になる場合もあるかもしれないが、それだけとは考えられない。たとえば、アフリカでは種族は西か南へ移動しているから、東方あるいは北方を他界とすべきだが、アフリカにも西方の他界が存在し、北から南下したアメリカの先住民にも西方の他界は存在している。西方を他界とする場合、種族の移動や憧憬の地とは別の要因がなければならない。

 そうして棚瀬が着目するのは太陽が沈む方位としての西という意味だ。たとえば、トレス海峡の西部諸島では、死者の霊魂の行く先は太陽の沈むはるか西方の島で、そこは生者の舟は行ったことがないという。この島はキブと呼ばれるが、それは「沈む太陽」を意味している。ニューギニアのビナ族の他界も太陽の沈む西方にある。棚瀬は、太陽の沈む方向としての西方という観念は、地下他界を持つ思考と台上葬や樹上葬など、太陽に関心を持つ思考との混合ではないかとしている。

 棚瀬はこの混合の形態において、地下から太陽の沈む西方へと伸びる中間の段階を指摘している。ポリネシアのウポル島では、死者の霊魂は東から西へ渡るが、飛び石と呼ばれる岩のあるところから海へ飛び込み、西北にあるサバイイ島に泳いでいき、サバイイ島の西端にある珊瑚礁の穴から飛び込んで地下の他界に入る。同じポリネシアのロツマ島では、死者の霊魂は島の西端で島を離れ、西の沖の海の下にあると言われる他界へ行く。

 こうした例のなかでも、ひときわ印象的なのは、ポリネシアのマンガイア島のものだ。マンガイア島では、死者の霊魂はすぐにあの世に行くのではなく、まず磯ずたいに珊瑚礁のとげとげしい角に悩み、つる草に足を取られながら旅をして、冬至と夏至に、朝陽に面する島の二つの地点に集まる。夏至に集まる地点は島の南半分の死霊が「最後の悲しい旅を太陽とともにするために」集合する。冬至に集まる地点は島の北半分の死霊が集まる。死と最後の旅のあいだの間は、死霊は踊ったり自分の家を訪れたりして過ごしている。あの世へ出発する時間は一考のリーダーが決める。その時になると、死霊たちは泣きながら集まり、太陽の昇る水平線を見守り、朝陽が昇る瞬間に太陽の通る道に行くために出発し、夕方、沈む太陽に面して集合する。そして、「太陽が地平線に沈む瞬間に、死霊の一行は夕陽の黄金色の光跡を追い、きらめく海を越えて太陽とともにあの世へ下る」のだ。

 ポリネシアの島々の例は、珊瑚礁という環境が身近なこともあってリアルに想起できるものだ。とりわけマンガイア島の例が印象的なのは、ぼくたちもまた沈む夕陽が海を染める時、そこに作られる黄金の道を歩いてみたいと、一度ならず思ってきたからだ。この他界への道行きを思考したマンガイアの島人も、あの黄金の海道に魅入られたに違いないのだ。そしてぼくたちはここに、琉球弧の他界が地下から海上へと伸びてゆく経緯を追認しているのではないだろうか。琉球弧においても、地下の他界が海上へと移行する契機があったのである。

 しかし、これは他界の観念というのは強固なもので、容易に変化するものではないとしたら、これはありそうにみえるできた話ではないのか。棚瀬も同じことを自問している。西方の他界は地上の他界の一種だと棚瀬は見なしている。地上の他界とは、山や叢林や実在の島を指すもので、いずれも「幽玄」な、と棚瀬は形容しているが、怪しく恐ろしいそれらしい雰囲気を持っている場所だというのだろう。そしてこの地上の他界は、埋葬文化と台上葬や樹上葬など、明確な他界の存在しない文化とが混合した時に生まれる他界であるということを突きとめている。

 しかし、それにしても、と棚瀬は自問する。

 けれども落日に関係があるにせよ、なにゆえ地下界が西方に移行せじめられるのであるかは更に一考を要する。地下界という現世と垂直関係にある世界が、西方という現世と水平的関係の世界に移行するためには相当の理由がなければならぬであろう。筆者はこの理由は心理学的には太陽に関心を有するトテミズム文化が父権的な男性文化であって、ややともすれば彼らにとって陰鬱な連想を伴いやすい地下界に耐えられなかった点に求めうるのではないかと推測する(p.799)。

 同じことは琉球弧についても言える。なぜ、地下の他界は海上の他界へと移行したのか。あるいは、両者が共存するのか。それというのも、琉球弧においては、その両方をニライ・カナイ由来の言葉で示しているからだ。海上の他界はニライ・カナイと呼ばれることが一般的になっているが、来訪神の出現の場所とされる洞窟の奥は、これも地下に通じるニライ・カナイ系の言葉で呼ばれるからだ。むしろ、同じ言葉で言われることのなかで、地下から海上への移行が物語られていると言ってもいい。

 棚瀬は、地下信仰を持たなかった側の種族にとって、「陰鬱な連想を伴いやすい地下界に耐えられなかった点に求めうるのではないかと推測する」としているが、いかにもありそうな心理的要因に求める必要はないと思える。地下と海上は、地下は垂直で西方は水平という直交し互いに射影を落さない関係ではない。地下といっても、垂直なのではなく、洞窟や叢林の奥から行くように、最初から水平軸も関与しているからである。地下の他界も西方あるいは海上の他界も、視線としては人間の目の高さから水平に伸びる視線と背の高さから下の地面の向こうに伸びる視線を行使していることに変わりはないのである。

 地下の他界における霊魂の運動、光と闇を媒介にしている。これは地下の他界が暗黒であることを意味しない。その通路として闇を媒介にしているということだ。それは、臨死体験の類型のひとつが、暗いトンネルを抜けて、やがて知人や近親者に会い光に包まれるということと似ている。あくまで闇は光に対する媒介項として存在していると思える。地下他界を思考した種族にとっては、光と闇が交錯する洞窟や叢林という場所から、光と闇が時間の流れに視点を移し、闇に代わる日没の方向へとより垂直の視線を水平という空間の方へ疎外したのだ。また、もともと他界観念を明確に持たない種族にとっては、もともと高次元の対称世界は地上の世界そのものを根拠にしている。それが時間的にも空間的にも遠ざかってしまったという表象として空間へと疎外したのが西方あるいは海上だった。

 こうしてみれば、ニライ・カナイも地下から海上へと移行したことは確からしく思える。石垣島在地の前花哲雄は、家にある井戸の祭祀における願い口(呪言)のなかで、ニーラスク、カネーラスクから噴き出るという意味の件りについて、「ニーラ底、カネーラ底」とはニライ・カナイを意味すると書いている。

(前略)八重山の井戸は普通二十数メートルを掘り抜き地下水を求めているので、地下の深いところをニーラスクといい、更に深い地点をカネーラ底と言っている。畑を耕すとき「ニーラ底から耕せ」と昔の人はよく言った。
 「ニーラ底」には地下水があるだけでなく、其処には豊作の神々が居られるものと信じていた。この豊作の神を「ニーラピィトゥ」「ニーローピィトゥ」等を言っている。(「定説に対する疑問」『八重山文化論集』1976年)

 また、「地下数十尺の地点に於いても生きている虫(けら)」のことを「ニーラコンチェンマ」というのもニーラが地底を意味するからだと添えてる。前花は、ニライ・カナイが海の彼方とされることへの異議として、彼自身の経験値をもとに述べているのだが、前花の記憶にある「ニーラ底から耕せ」という島人の言葉にはリアリティがある。ニライ・カナイは地の底の意味から海上を指す言葉へと転位したのである。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014/11/13

マオリ族のハワイキにおける東西の対照

 後藤明の「海彼世界への魂の旅-オーストロネシア(南島)語族における死者の島の諸相-」によると、ニュージーランドのマオリ族におけるハワイキの概念は重層した意味を持っている。

 1.ハワイキは祖先たちが航海してきた故郷である。

 2.最初の人間が想像された場所。土をこねて作った人間に息を吹きかけて生命が宿った。この過程は人間が子宮のなかで繰り返している。人間の原境はハワイキである。

 3.男がハワイキに着いたところ、タブーの強い神聖な島だった。島人は火を知らず料理を知らず正常な生と死のサイクルを持っていなかった。彼は火の起し方、料理の仕方を教え、一人の女を妻として正常な子供の作り方を教えた。こうして正常な生活、生と死のサイクルが生れた。ハワイキは生命の巨大な潜在力の土地として描かれている。

 4.ハワイキは生命の源であると同時に、食料の源である。ハワイキではサツマイモが人間の手を介さずに繁茂している。鯨もハワイキから来た。すべての魚はハワイキの近くの海から来ている。食用としてのネズミもハワイキから泳いできた。またある種の鳥もハワイキからやってきた。

 5.ハワイキではよいことと悪いことの両方の起源があるとされる。出来物、くしゃみなども呪医によってハワイキに戻される。引き潮がハワイキに向かうのは死の兆候。敵の死を祈る場合は、ハワイキに向かって潮が引くようにという意味の呪文を唱える。引き潮は、この世とハワイキの間にある障害物を運んで行ってしまうと考えられる。

 6.ハワイキは遠くにあり、容易に到達できない。ハワイキの方角は一定ではない。東は生命の実りがもたらされる方向である。健康や安寧を祈る儀礼では、神官は東の方を向き、しばしば昇る太陽に手を伸ばして行う。サツマイモを植える時は太陽の方向に向かって行った。同時にハワイキは太陽の沈む方向であると考えられた。死者に向ける歌では、ハワイキの方に向かって船出をし、沈む太陽に沿って行けと唱えられる。

 1~3の描かれ方はオーストラリア・アボリジニのドリームタイムとそっくりだと思える。その始祖の地との距離が、マオリ族では、種族の移動に重ね合わされているように見える。

 そして、東西の方位の違いは、琉球弧におけるニライ・カナイの違いとそっくりだと思える。もっとも、琉球弧では西をニライ・カナイとは呼ばないことの方が多い。東は豊穣の概念も持てば、悪事もやってくる場所という両義性を持つ。西は死者の赴く場所として東西は対照をなす。この対比は瓜二つである。

 後藤は書いている。

 昇る太陽を見る場合、ハワイキは東であるし、沈む太陽を見る場合は西である。生命や実りがもたらされる方向は東であり、死者は西に赴く。西欧の方位観では東西は逆だが、ポリネシア人はここに連続を見ていたのではないか。

 ぼくたちにとっては、琉球弧における東西の対比が似ていることが重要だと思える。沈む太陽を死者の赴く世界と捉えた時、昇る太陽を浄土的な世界と見なす思考も同時に立ちあがることがありうるという、これは例ではないだろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/12

「イメージの力」展、見聞記

 国立民族博物館の「イメージの力」展を観ることができた(cf.「参照用「仮面儀礼」一覧」)。なにはともあれ、写真画像でしか見たことのない仮面たちを目の当たりにしたかった。画像では伝わらないものを体感したかった。

 さすが現物はすごい迫力で、目的はなかば果たせた。残るのは、展示は人類の仮面の一部であるため、お目当ての仮面たちの半分にも出会えなかったことだ。けれど、これは当たり前のことで、失望ということにはならない。実際、満足したし、もう一度、行けるものなら行きたいとさえ思う。

 写真は、電池の残量が気になって、特に関心の高い太平洋をめぐる地域に偏ったが、見渡して、それぞれの地域の癖(身体性)のようなものは感じることができた。うまい形容が見つからないが、アフリカは無骨、オセアニアは植物的、南アジアは曲線的。北アメリカはデザイン的で、南アメリカは色彩豊か、オーストラリアは高密度の線。

Photo_14

 名前は知っていたものでいえば、イアトムル族のアバン(ニューギニア)。アバンは、成人儀礼であるワニ儀礼のなかに登場して、少年たちを棒で叩いたり、耳たぶに穴を開けたりして、試練を与える。また、子供が駄々をこねて親の言うことを聞かないと、両親が相談して、アバンに頼んで、子供を脅したりもする。きめ細かく作られているのが印象的だ。

Photo_2

 同じくイアトムル族の神像つきの椅子「カワ・トゥギトゥ」。

Photo_19

Photo_3

 イアトムル族のサアヴィ。どういう役割を果たすのかは知らない。

Photo_5

 同じくイアトムル族のカプダマ。象?

Photo_9

 シャチの背びれがついた仮面。オウェキーノ族(推定、カナダ)。陸の王が熊なら、海の王はシャチだということにかかわるのだろう。シャチ風なのは背びれだけでなく、顔も魚類化している。

Photo_6

 これは愉快な仮面。病気治療儀礼だというから面白い。しかも嘔吐向けと来た。(サンニ・ヤクマの仮面。シンハラ族、スリランカ)。

Photo_7

 似た感じのある、クニャー族(マレーシア)狩猟神の像。動物の上に人間が乗っている。

Photo_3

 ニューギニア、ニューアイルランド島の神像マランガン。左は神像「クラブ」。マランガンは、葬送儀礼や成人儀礼に用いられる。何ヶ月もかけて制作されるというのがよく分かる。

Photo_8

2

 ニューギニア、カプリマン族。精霊像タジャオ。怪獣メトロン星人に似ている。メトロン星人のもとはダジャオかもしれない。

Photo_9

 同じくカプリマン族の精霊像付き机。

Photo_6

 硫黄島のメンドン。これも巨大だった。こうしてみると、バイニング族のカヴァットに似ていると思う。

Photo_10

 ミクロネシア。タプアヌの男女。アンガマを思い出させる。

Photo_11

 ニューギニア。セピック河流域。ワニの彫像。ワニの口は大きく開いていた。5メートルほどだろうか、長い彫像だった。三枚目はその後部。両端でワニと人間がひとつながりになっている上に、顔と背にも人間が埋め込まれている。「ワニ-人間」だ。

2_5

Photo_2

Photo_12

 アベラム族の祖先像「ングワルンドゥ」(パプアニュービニア)。ワニの彫像もそうだが、この祖先像も男根が巨大なのが特徴的だ。日本でいえば、縄文の時代精神に近いのだと思う。

Photo_17

 ニューギニアのセピック河流域。割れ目太鼓。成人儀礼を行う小屋に置かれている。太鼓というから、叩いてみたくて仕方なかった。

Photo_13

 両端の人間像の部分も精巧に作られている。

Photo

 右のこれはたしか、バヌアツ、マレクラ島の加入儀礼用精霊像。

Photo_16

 インドネシア。アスマット族の祖先像。これは女性を象っていた。逆さまの鳥と一体化している。

3

 インドネシア、ジャワ族。右から影絵人形「ワヤン・クリット(ナロド神)」、彫像「ハンプトン」。

4

 これも彫像「ハンプトン」。物憂げさに引き寄せられた。メラネシアの祖先、精霊像や仮面の表情は恐ろしくなく、どちらかといえば物憂げに見えるものが多い。古代の種族が、物憂げさを表現したとは限らないが、苦悶を読み取りたくなる。

5

 バヌアツ、アンブリム島の木生シダ製精霊像。「マゲ・ニ・ヒウィル」。これもなんとも言えない表情。というか、樹木のなかに人間が埋め込まれているように見える。

Photo_10

 ニューギニアの装身具と櫂。

Photo_4

Photo_7

 トロブリアンド諸島の波きり板付き船首。クラで活躍したのだろう。

Photo_8

 カナダ、クワクワカワクゥ族の早変わり仮面。ポトラッチの説明意画像でとく使われていると思う。なんと形容すればいいのか分からないが、相当にデザイン化されている。

1

2_2

 これがあの、オーストラリア、アボリジニのグレート・スピリット、虹蛇。

Photo_18

 同じくオーストラリア、アボリジニのカンガルーと蛇。

Photo_4

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014/11/11

琉球弧葬法の三角形

 ぼくたちはここで琉球弧葬法を三角形として見ることができる。

4

 ●で示した埋葬と風葬は起点でもあれば終点にもなりうる。○で示した「骨の処理」は、当然ながら終点にしかなりえない。埋葬と風葬は、異なる思考の産物だが、ここに琉球弧では埋葬から風葬への矢印を存在せしめた。それは、埋められないという珊瑚礁の地理的環境がもたらした条件だった。

 文明の段階でいえば、風葬から埋葬へという流れを辿る。その移行は島ごとにあるいはシマごとに進んでいった。しかし、農耕社会への移行がそのまま風葬から埋葬へと進展させていない。そこには埋められないという制約があったにせよ、風葬が厚い層として残存し続けてきた。

 この二重層は、祖先崇拝と再生信仰、死穢とその欠如等の異なる態度の共存を、形づくってきた。それが琉球弧葬法の特異性を形成してきたと思える。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/10

青の島は、間を置いた島

 ところで、地先の島としての奥武(オー)は、青という色として考えられている。

 おもろ記事から古代沖縄の色彩概念を質してみると、赤・白・青・黒の四色しか見出せない。このことは奄美諸島も同様であったようである。赤と白は“明るさ”に通ずるが、そのうち赤は魔物にとっては怖いものであり、城は清浄に通ずる。黒は赤・即ち“明るさ”と対遮する暗黒・無・恐怖・穢れの世界を観念・想定する。
 残るところの青は、青空・青葉・青海の語によっても推測されるとおり、空色・緑・淡黄・碧などの色を現している。そしてこれらの色彩は赤と黒に対して中間色となっている。したがって青の世界は暗黒でもなければ、赤・白をもって現わす明るい世界でもない。むしろそれは、明るい世界に通ずる淡い世界、古事記の黄の世界と類似の想定がなされるであろう。
 伊波氏は、古代沖縄人は、「来世は暗黒な所と思っていた」と述べているが、そうではなく、古代沖縄人は死後暗黒の世界には行っていない。それは「青の世界」に行っている。(仲松弥秀『神と村』

 仲松は続いて、「おう」のつく名の地名・御嶽名・神名が見出されることから、古代沖縄人が「青の世界」を想定していたとしている。沖縄には「奥武」名のついた地先の小島が七つほどあるが、「そのいずれも無人の小島であったところであるが、またその何れも古代の葬所となっていたと推定される島である」としている。つまり、仲松は、奥武島は「青の島」であり、死後の世界の島と考えているわけだ。

 谷川健一は、それを受けて、「奥武の島は人が死ぬと死体を運んで葬った地先の小島であり、風葬墓に葬られた死者が黄色い世界に住むということから、青の島と呼ばれたのである(谷川健一『南島文学発生論』)」と、やはり、「青の島」を他界の色として捉えている。

 しかし、この理解について違和感があるのは、葬地や死後の世界という役割を地名に当てるのは、砂浜をユナ(例えば与那)と呼び、小高い丘をパンタと呼ぶように、地形がそのまま名づけになる初期の名づけ方、柳田國男のいう「天然描写法」に適っていないことだ。

 ここで示唆を与えるのは、「青」という色彩の名称についてだ。言語学者の崎山理は、「白、黒、赤、青」が最初に色彩名称ではないかったと指摘している(「日本語の混合的特徴―オーストロネシア祖語から古代日本語へ音法則と意味変化―」)。崎山は、それぞれの語源について、白は「光」、黒は「闇」、赤は「昇り」、青は「中空」を意味する言葉だったと推定している。「光」と「闇」は明度につながる現象であり、「昇り」は動態を、「中空」は場所を刺す概念である。このうち、「中空」を指す語源の*awaŋ は、奈良朝の上代日本語では、アワ「淡」、アヲ「青」となっていた。たとえば、近江の語源とされるアハ-うみ「淡海、相海」は、アワ-うみが本来の語源であったとして、「平均 40 mしかない琵琶湖の湖面は中空の色を反射して鏡のように刻々と変化する。古代人はそれを熟知していたと思われる」と書いている。つまり、近江とは、中空の色を反映している様を表すわけだ。

 また、アワの語源となった *awaŋ は マレー語では「中空」だが、タガログ語では「空間」、マダガスカル語では「虹」、フィジ語では「遠く」、サモア語では「間」のように変化し、マレー語では述語にもなって、「合意できるか、まだ五里霧中」と言った場合の「五里霧中」の意味にもなっている。ぼくたちはこの南太平洋における「青」の語源の意味変化に関心をそそられる。

 田畑英勝によれば、奄美におけるアオの語感について、「時間的な距離とか間(間隔)」の意味に使っている(『奄美の民俗』)。老人たちは今でも、アヲヌ・トゥサン(距離が遠い)、アヲヌ、チキャサ(距離が近い)、アダアヲヌアッカナ(まだ距離があるではないか)などと言うのだ。この点は、谷川健一も気づいて、「奄美大島では『まだ青ぬあつかな(まだ時間があるではないか)』とか『青のちきやさ(距離が近い)』とか時間も空間も『青』という言葉で表わすんだそうです。不思議な言葉で私も山下欣一氏に聞いたんだけれど彼もよくわからない」(「日本の色」)と指摘している。

 さて、仲松は「青の島」を考察するなかで、「琉球国由来記」では、「アフ・アウ・アホ」と記されるが、これを漢字で書かれた「琉球国旧記」と対照させると、多くは「青」の字があてられており、「琉球国由来記」、「琉球国旧記」の書かれた19世紀初期には、青はアフ・アウ・アホと発音していただろうと推定している。「現在沖縄では青(おー)と変化しているのであるが、宮古・八重山では「由来記」と同じく青(あふ)と発音している」こともその傍証になるものだ。崎山は、近江の歴史的仮名遣いの「アハ-うみ」の本来の語源は「アワ-うみ」として捉えていて、その意味では、「アフ・アウ・アホ」もアワからの転訛か誤記が見られるが、同じ「青」の語源をめぐった言葉だとみなして考えてよいと思える。

 もともと「中空」という場所を示す言葉が、タガログ語では「空間」、フィジ語では「遠く」、サモア語では「間」というように距離概念の意味を転化させるのは理解しやすい。この語義変化の例を踏まえれば、距離概念で表わされた奄美の「青」の語感は、サモア語の「間」に近いと言える。そこで、奥武島の地名の意味は、間を置いた島という意味になるだろう。もしかしたら、フィジ語に言う「遠く」の反転である「近い」を含意したかもしれない。奥武という島はどれも、大きめの島の間近にあるからである。奥武島は、「青の島」であるに違いないが、「語源としての青の島」であり、色彩としての青を意味していないのである。そう理解するほうが、地勢をなぞる初期の地名の名づけ方にも適っている。

 色彩としての青が、象徴的な意味を帯びるようになるのはもっと後のことだ。常見純一は「青い生と赤い死」のなかでそのことを考察している。沖縄本島謝名城で行った色彩調査で、年齢が高くなるほど、就学年や都会、教育的環境との接触が少ないほど色名の種類が単純になり、色名称は、アハ(赤)、アハイル(赤色)、オールー(青色)、そしてシル(白)とクル(黒)しかない。オールー(青色)で表されるのは青紫-青-緑-黄緑-黄-黄橘の範囲にわたり、アハイル(赤色)の範囲は、色の相環の残り、橙-赤橘-赤-赤紫であることが分かった。謝名城集落の青色-赤色の色彩の区分は、全自然的な象徴であると考えられる。

 常見はここでこの区分を稲作の一生に当てはめてみている。稲の種子をまく、芽が出る、田植えをする。青田になり稲が熟すと穂は黄金色になる。この稲穂の受胎はオー(青)ガマと呼ばれる。卵の黄身がオーミ(青身)と呼ばれるのと同じである。穂が熟しおわって借り入れの枯れた状態になるとアカピー(赤っぴい、赤い)という。つまり、発芽-伸長-成長-成熟の過程が「生」の状態だとすれば、成熟-老熟-枯死の状態は「死」の状態であると考えられる。ここから、青と赤は、色彩として生と死の象徴を表すことを導き出している。

 このことは、「語源としての青の島」は葬地として利用されることがあったが、色彩概念として定着した青は、生を象徴する意味を持ったことを意味している。琉球弧の島人は、青を他界の色として観念したわけではなく、死を色として意味づけたわけでもないのだ。

 関根賢司は、沖縄本島や八重山から島に帰ってきた人を、決まって、「島は赤かったか、青かったか」と言いながら迎えるのに対して、驚くばかりでその意味が分からなかったが、後年、島が青く見えれば豊作、赤く見えれば凶作を意味するのを知ったと書いているが、この島人の挨拶言葉も、青と赤の象徴的な意味をよく表しているといえる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/09

埋められない埋葬

 こうしてぼくたちは琉球弧において、埋葬思考と風葬思考が存在し、両者の混融の思考も生み出されたと考えることができる。けれどここでもうひとつ付け加えなければならないと思える。ぼくたちは琉球弧に普遍的な洞窟に対する関心から出発した。すると、そこは葬法の最終段階で骨を納める場所としての洞窟に突きあたる。それは洞窟が普遍的であるように普遍的に見られるといっていい習俗なのだ。ところが、環南太平洋においても、それは散発的にしか現れない。棚瀬も洞窟葬と仮に呼びながら、考察を進め、固有の形態としてそれを抽出することができず、樹上葬や台上葬の一種で地理的条件がもたらしたものではないかと指摘するにとどめている。

 琉球弧においても同様なことは言える。というより、珊瑚礁列島の琉球弧においてこそ、地理的な条件は大きな意味を持った。つまり、風葬と見えるもののなかには、埋葬したいのにそうできない埋められない埋葬という形態があったのではないかと言うことだ。葬地を指さすことも禁忌とするような琉球弧における厳しい死穢感は、埋葬によって緩和されることができないという条件が生んだのではないだろうか。

 ぼくたちはここで、地下他界を信仰し、つまり埋葬思考の系列にある種族が洞穴に骨を納める例を見いだうことができる。フィリピン、ダバオ湾のサマル島の例だ。

 サマル島人は地下他界を信仰しているが、彼らは丸木舟を柩として使う。これを洞穴に持って行って別に葬儀もせず、黙って納める。墓は共同の所にすることが多く、サマル島西岸の住民は、洞穴の多いマリパーノ島(本文はMalipao-引用者注)をもっぱら選ぶ。

 珊瑚礁の発達したサマル島において、島人が地下他界の信仰を持つのであれば、それは埋葬思考の系譜に属している。彼らが、洞穴に納めるのは埋葬できないからだと見なすことができる。埋められない埋葬としての洞穴なのだ。しかも、さらに関心を惹くのは、西岸の島人がその沖合いのマリパーノ島の洞穴に死体を運ぶということだ。これも琉球弧ととても似ていると言える。琉球弧で奥武(オー)と名のつく地先の島は、しばしば葬地として利用されてきた。ここでぼくたちは、埋められないから沖合いのマリパーノ島の洞穴に死者を運んだサマル島人に、奥武(オー)に死者を運んだ琉球弧の島人を重ねてみることができると思える。

 琉球弧では埋葬思考と風葬思考が混融した。しかしそこに埋められない埋葬としての洞窟も存在した。それが、洞窟や叢林を葬地とする形態を生んだのだと考えることができる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/08

埋葬思考と風葬思考の混融

 棚瀬襄爾は、マレーシアにおいては、死霊がイメージ化された霊であるのに対して、「霊質」が「身体またはその部分と共に共存し、流動的で転位が可能」であるものとして考えられていて、「異常な発展」をしていると指摘している。棚瀬が挙げているのはマレー半島のバタク族の例だ。

 人間はただひとつの霊魂を持つ。霊魂は恐ろしい時や夢、病気の時に、一時肉体を去り、それが永久に去れば、人は死ぬ。自己の霊魂を強め、養うことはバタク族の人生観の中心をなすもので、食人の習俗も他人の霊魂を自己に取り入れるためだった。トバ・バタク族では、捕虜や姦通罪を犯した者の肉を食う習俗があった。激しい敵意を癒すためでも倒錯的な意味からでもなく、霊質を得るためだった。戦死や姦通者の霊質は特に力強く貴いと考えられた。パクパク・バタク族は年老いた親を殺してその肉を食ったり、ときどき市場に人肉を売りに出ることもあった。

 パクパク・バタク族で「年老いた親を殺してその肉を食った」という例は、与那国島などの伝承が虚構ではないことを示唆するものだと思え、胸が高なる。ここでの食人の思考は、霊魂は死者の身体を離れないが、死後もしばらくは身体に残り、食人によってその霊魂の転位が可能だとされていることだ。その側面を棚瀬は霊質と呼んでいる。

 ぼくたちは前に霊魂のイメージ化の段階を追ったが、実は、埋葬思考と風葬思考においては、その霊魂観も異なっている。埋葬思考においては、影や水に映る姿、夢に現れる死者を通じて、霊魂が身体を離れ、戻らなくなった時、人は死ぬという霊魂像を持っていた。だから、病気の治療とは離れた霊魂を取り戻すことに他ならなかった。

 カリマンタン(ボルネオ)のカヤン族では、その様子はこうなる。

原因不明の重病は悪霊の仕業とみ、祈祷によって治療する。狂気も悪霊の憑依を原因とし、病人の霊魂がぬけだしたことが原因だから、霊魂が復帰できるようにする。捕霊するのは職業的巫者。ふつうは病中夢で巫者を勧められて、先任巫に技術を習得する。女性が多い。巫者は頼まれると、トランス状態になり、自分の霊魂を送って病人の霊魂が戻るようにする。この行事は、歩廊で親族知友に囲まれて病人の側のかがり火の下で行われる。トランスから戻ると、巫者は小石か木片のようなものを持っていて、これに病人の霊魂が入っているとし、病人の頭にこすりつけて霊魂を戻し、霊魂が逃げ出さないように、椰子の葉で腕首をくくる。鶏や豚を屠殺し、椰子の葉に血を塗る。巫者は病人の守るべき禁忌を指示する。

 もうほとんど琉球弧に近いと言っていいが、この捕霊による病者治療は、埋葬思考の産物だ。ところが、食人における霊魂の思考は、それが身体を離れるとは考えられておらず、かつ身体全体あるいはある部分に浸潤しているもののようにみなされている。だから、食人をするのだし、樹上葬において親族が死体から出る死汁を浴びたのも同じ考え方によるものだった。ぼくたちは、精霊が次々と姿を変化させる高次元の対称世界を他界の元型と見なしたが、この身体を離れず身体に充ちているエネルギーのような霊質は霊魂の元型と言えるのではないだろうか。

 ぼくたちがここで琉球弧の食人の思考の内実を知るのだが、もうひとつ気になることがある。霊魂の転位としてぼくたちが見てきたものに添い寝があるからだ。病者に元気な親族の身体をからませ、あるいは死者と添い寝することによって見ようとしてきたのは、霊魂の転位ということだった。ここでは霊魂の転位は、生者から病者に対する場合も、死者から生者に対する場合も、その人にひとつある霊魂が丸々転位するというより、流動的なエネルギー量のように分配され転位するもののように捉えられている。ところで、台上葬や樹上葬のなかではこの添い寝の習俗の例をぼくは見つけることができない。その代わり、埋葬の行動のなかにそれを見出す。

死の翌日に埋葬する。家の中に墓穴を掘り、死体を坐位にして埋める。死体の上部を地上に出す。親族は男女別々に若干期間、死体の傍で寝る。のち、しばらくして死者の霊魂を追い払う。死体の肉が完全に腐ると、骨を墓から取りだす。その後、葬宴を催す(スルカ族)。
身分のある者は、本人の要求により担架にのせて、dukduk儀礼を行った秘密の場所や舟庫、農園、植えた木、よく戦った境界地、親類縁者の家を見せてまわる。死の第一夜には、二人の者が死者の両側に一人ずつ寝る。これは、彼らの霊魂があの世へ供するためであるという(トーライ族)。
ダントルカストー北部のメラネシア人。夫が死ぬと、寡婦が遺骸とともに寝る。死体は埋葬する(p.317)。

 どちらもニューギニア島近くの例だが、死の直後に、死者とともに親族が添い寝している。しかも、トーライ族においては、それは「霊魂があの世へ供するためである」と観察者によって記録されている。身体が霊魂を離れるという観念のあるところで、死者への添い寝をあの世への供と考えることはとても自然なことだ。むしろ、添い寝はもともと死霊への随行の意味でなされていたことなのかもしれない。すると、琉球弧の添い寝が霊魂の転位のような仕草に見えるのはどう理解すればいいだろうか。ここで、食人における食べることで霊魂の転位を図った行為からは飛躍が見られるのだ。

 マレーシアにおいて、霊魂が流動的で転位可能なものと見なされた、その延長に、琉球弧においては、それは身体を接近させることで離れていても転位が可能なものとして思考されたということではないだろうか。食人において、霊魂が流動的なものと見なされていたのであれば、それが流動的なエネルギー量として近傍に移動することができるという思考を生みだしたのではないだろうか。これは、遊離する霊魂という観念と身体に浸潤する霊質という観念とが融合している。ぼくたちは琉球弧の添い寝を、埋葬思考と風葬思考の融合の例として見ることができる。そしてもしかしたらこれが琉球弧の霊魂観念の特異性なのかもしれない。

 こうして埋葬の思考と台上葬や樹上葬といった乾燥葬の思考の混融の例は、南太平洋にも見出せる。むしろ混融した例の方が多いくらいで、原型そのままのものは見出せないと言ってもいい。たとえば、ぼくたちは母系社会の根拠を伝えたトロブリアンド諸島は、埋葬を行うが、人間への再生信仰が明確にあった。また、ニューギニアのタミ族の「短い霊魂」が地下の他界へ行く例を挙げたが、より詳細には次のように報告されている。

人は長い霊魂と短い霊魂を持つ。長い霊魂は影と同一視。睡眠中、身体を離れ、覚める時、帰ってくる。胃にある。人が死ぬと長い霊魂は、死体を離れて遠方の友人に死去を知らせる。その後、ニューブリテン島西岸を経て、北岸の村に行く。短い霊魂は死後のみ離れて、しばらく死体の付近を彷徨ってから地下界、ランボアムに行く。ランボアムは現世と酷似するが、現世より美しくより完全。ランボアムに行った霊魂は、蛇形でときに現世に帰来する。この時、シューシューという音を立てるだけだが、この音を解釈する者(主に女)がいて何を話しているか判断する。また、死霊に尋ねる能力のある者(主に女)がいて、これは世襲。ランボアムで死んだ霊魂は、蟻や蛆になる

 「長い霊魂」は、身体を遊離し明らかに埋葬の思考の産物であることを教えるが、他方の「短い霊魂」は「死後のみ離れ」、かつ、蛇や蟻、蛆に転生するという観念は乾燥葬の思考の痕跡を見出せる。タミ族にはおいては両思考の混融を、「長い霊魂」と「短い霊魂」という霊魂の複数化で共存させたと言うことができるのだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/07

風葬の系譜

 けれど琉球弧の洞窟の意味は、地下の他界への入口という意味だけに留まらない。むしろ、地下の他界が埋葬に伴ったとするなら、別の葬法を視野に入れなければならない。それは、ぼくたちが風葬と呼びならわしてきたものだ。洞窟近くに喪屋を立て、そこで骨化するのを待ち、洞窟に納める。しかも、風葬に視点を移すと、骨を置く場所は洞窟に留まらず、崖の下や叢林をも含む。むしろ、こちらの方が、普遍的だ。風葬とは何か。これは酒井卯作が琉球死霊のあり方で最初の問題意識に置いた野ざらしに通じるものだ。

 この葬法の場合、他界を持たない、あるいは他界が時間性としてしか疎外されない段階まで遡ることができる。たとえば、ニューブリテン島のバイニング族では、死体は埋葬するが塞がない、あるいは簡単に寝かせたまま放置すると報告されているが、彼らに死霊に対する恐怖心はなく、死霊はどこにでもいるが、目には見えず、定まった住所を持たない。ここで死霊がどこにでもいる、定まった場所を持たないというのが、他界が時間性としてしか疎外されていないという中身だ。

 この後の段階になると考えられる例もある。マレー半島のサカウ族は、「誰かが死ぬと遠い森に運び、特に建てた小屋の中に寝かせ、七日間毎日そこに出かけて子供や最近親が見守るが、七日過ぎると、消えうせるものと考えてもう見守りに行かない」。サカウ族が森の中に立てた小屋を、ぼくたちは喪屋と見なすことができ、そこに毎日通う姿には琉球弧の同じものを見出すことができる。ぼくたちは殯という行動が、風葬のなかで生れた行動だということにも気づかされる。

 さらに、死体を見守るのが七日間ではなく、さらに引き延ばされて骨化するもなで関心を寄せる段階はこの後にくると考えられる。それは棚瀬によれば、台上葬や樹上葬と呼ばれている。琉球弧では、樹上葬は祝女という宗教祭祀にしか見られない葬法で、後代に入ってきたと考えられるから、台上葬に着目すると、これは南太平洋の島々に広く見出すことができる。ただ、南太平洋の島々の台上葬は、他の他界観念との混合として現れているので、より祖型を見出すためにオーストラリアの先住民に例を取ってみる。

 オーストラリア北部のマラ族では、死者はおそらく親族の誰かだろうが、決められた人が食べる。食べ終えると、丁重に骨を集め樹皮にくるんで樹の台のうえにのせる。人が死ぬと死者の霊魂がうろつくのを恐れて直ちに遷居する。3~4ヶ月して骨がきれいになると、骨の包みを解いて地上に落し、全部ばらばらにし、頭蓋を打ち砕いて、上腕骨の他は埋葬する。樹も燃やしてしまう。2~3年後の最終儀例で、トーテムの模様をつけた丸太の棺に入れ、山腹の岩穴に隠すか、百合の生える流れの岸の木の枝におく。この際、歌や泣哭、食事をし、歌は夜通し行う。

 マラ族では食人が行われ、骨は全身が処理されるが頭蓋は崇拝されるどころか打ち砕かれている。最終的に骨が置かれる山腹の岩穴は、琉球弧の洞窟を、百合の生える流れの岸の木の枝におくのは歌う骸骨の説話を思い出させる。マラ族では記録が正しければ死霊への恐怖が現れているので、原型からは遠ざかっているが、彼らの他界観念を見ると、死霊は死後長期間、服喪の儀式が正しく行われているか監視して彷徨するが、全部の儀例が適正に行われると、「父祖の地」に帰り、やがて性を変えて再生するという。ぼくがここで注視するのは、この「父祖の地」と呼ばれているものは、精霊が次々と姿を変える高次元の対称性の世界を指していると考えられることだ。そこは死んだ者たちだけではなく、これから生まれる者たちの場でもあり、原他界とでも言うべきものだ。おそらくこれが死者の行く先としての他界の元型と思える。

 棚瀬は、原始農耕種族に現れる埋葬の時と同じように樹上葬、台上葬に現れる葬法の行動についても抽出している。この葬法は、もともと狩猟採集種族のもので、死後の他界観念は明瞭ではない。そして死穢の欠如、全身の骨の処理、死者儀礼の未発達、食人、再生観念の系列が取り出されている。ぼくたちはここでも、全身の骨の処理や浅い死者儀礼、食人、再生観念として琉球弧に流れる習俗と同位相のものを見出すのだ。ぼくたちはここに、殯を加えることもできるだろう。

 考えてみれば、埋葬とぼくたちが呼びならわしてきた風葬とでは、葬法が異なるだけでなく、死穢と死穢の欠如、死者儀礼の発達と希薄、祖先崇拝と再生信仰は、全く対照的であると言っていい。仮に葬法と他界観念をの元型を保持している種族同士が同じ島のなかで出会ったとしたら大きな衝撃を伴わずにはいられなかっただろう。どうして共存することができたのか。しかし、両者が支配、被支配の関係に予めあるのではないとしたら、種族は混ざり合い、種族の共同幻想同士は相互作用を及ぼしあうはずだ。また、これを時間で見ると、狩猟採集から農耕へと移行するのが文明の矢印であれば、これは死後の世界として他界観念を生みだし、定着に伴い空間化させたときの衝撃だと言い換えることもできる。確かなのは、琉球弧において、この両者の系譜ともにその痕跡を明瞭に残しているということだ。

 もうひとつ注意すべきことがあるとすれば、埋葬の思考においても風葬の思考においても、祖先崇拝も再生信仰を最初からあったものではなく、後になって出てきたものだということだ。なぜなら、祖先崇拝も再生信仰も、人間を無機物、動植物から区別し人間のなかのみで系譜を辿っているからだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/06

地下他界としての琉球弧

 琉球弧では、地の底にある地下の他界の思考は、来訪神儀礼を通じた痕跡としてしか見出せない。そこで、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から、地下の他界を持つ種族を探してみる。オセアニアの島々とはいえ、純然たる地下他界を信仰する例は潤沢なわけではないのだが、他界観念に限らずに琉球弧と似ていると感じさせるのは、ニューギニア東部の小島に住むタミ族だ。

 タミ族では、長い霊魂と短い霊魂が考えられているが、短い霊魂は死後にのみ身体を離れ、しばらく死体の付近をさまよってから、ランボアムという地下の他界に行くと考えられている。ランボアムは現世と似ているが、現世より美しく完全である。この世と同じように働き、結婚し死んでいく。ランボアムで死んだ霊魂は蟻や蛆になるという。ぼくたちはここで、他界での生活が現世と似ている、あるいは同じだとするところは琉球弧の後生観と似ているのにまず気づくだろう。タミ族の思考の広がりをみるために、彼らの葬法の行動を引いてみる。

死体を家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。全村が墓の上に立てた小屋の周囲に集まって、飲食しながら8日間くらい宿営する。死者の肉が腐り去ると、死者の骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗り、これを束にして、2~3年家の中に保存してから埋葬する。最後に埋葬すると、墓には厳重に木の垣を結び、植える。しかし、年が経って記憶が薄れると、墓には構わなくなる(p.324)。

 墓上の小屋は家が死者のものであった名残りを示すものだが、タミ族はその他に死者に対して埋葬を行い、骨を取り出している。ここには琉球弧と近しいものが現れているが、棚瀬は地下他界の濃厚なメラネシア、ニューギニアを中心に、多くの事例から、原型となる行動の型をこの他にもいくつか抽出している。それは、地下の他界が、原始農耕の種族に現れること、埋葬をし、肉がなくなった後に骨を取り出し、とりわけ頭蓋を崇拝すること。また、死穢の観念が強く死者に対する儀礼が発達し祖先崇拝も行われることだ。

 たとえばニューカレドニアの北、ベレプ諸島は地下のなかでも海底の他界を信仰するが、その葬法は次のようなものだ。

浅い墓穴に頭を上にして坐位で埋葬する。頭だけ地上に出しておくこともある。後で頭蓋を取るためである。墓掘り人は穢であるとして、厳重に隔離される。死後一年すると、死体の肉が完全に腐り、頭蓋を取り去って住居近くの各家族墓地の地上に並べる。彼らは祖先の功徳を信じ、墓地である聖域は、犯すべからざる財産で、他人の聖域を犯すことはない。病人を治そうとすれば、まず家族の一人が甘藷の葉を携えて聖域に行き、これを頭蓋に供えて成功を祈る。豊作を願う時もヤム芋の取り入れ前に不作の心配のある時にも、頭蓋に祈る。 

 埋葬された死体は一年後に頭蓋が取られ家族の墓地に並べられる。墓地は聖域とされ、家族はそこで頭蓋を依り代のようにして祖先崇拝を行っている。また、墓掘り人に対する穢れの観念は、琉球弧とも地続きのもので同じものだと思えてくる。この聖域としての家族の墓地は、琉球弧で言うなら、そのひとつは洞窟だった。

 ぼくたちはここに、地下他界に強く結びついた行動として来訪神の儀礼を挙げることができる。先に挙げたタミ族も仮面仮装の習俗を持っていた。秘密結社の成人儀礼で仮面仮装の神を演じたマリンド・アニム族も地下の他界を持っている。

 こうして見てくると、原始農耕、埋葬、骨の取り出しと頭蓋崇拝、祖先崇拝、来訪神、死穢と言った行動は、今は痕跡としてしか認められない地下の他界の信仰とともに、しかし地下の他界の観念が希薄になって以降も、琉球弧に強く残ってきているのが分かる。ことに来訪神の信仰と祖先崇拝は琉球弧の宗教観念の二大代名詞と言ってもよいものだ。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/05

洞窟の向こうの地の底

 よく知られたラスコーの洞窟壁画のなかで、奥の小部屋のさらに奥まったところには、傷ついて内臓を出したバイソンと仰向けに倒れた男が描かれている。そのそばには、シベリアやアメリカ先住民のシャーマンの道具として知られているのとよく似た、鳥を頭部にした杖が転がっているのだが、考古学者はこの絵画を死を主題にしたものだと考えている。

 またモンテスパン洞窟では奥の広い部屋に、粘土で作った首のない熊の像が発見されている。熊の像には小さな穴が空いていて、これは毛皮をかけた上から矢を射かけた痕だと考えられている。熊の像の手前の地面には小熊の頭蓋骨が置かれていた。ここでは熊を矢で射る儀式が行われていたようで、考古学者たちは繁殖に関わる儀式ではないかと考えている。

 もっとあって、洞窟に描かれた絵画は少なからず岩の凹凸を利用して描かれている。しかも頭部なと部分的に描かれたのは部分しか描かなかったのではなく、岩の内部から顔を出した姿にしたものだ。つまり、洞窟の岩の向こうには精霊動物たちの済む世界があると信じられていた。洞窟には手形も多く残されているが、それは手を描くことに意味があったのではなく、絵の具を手に塗り岩に触れたり、岩に触れた手に絵の具を吹きかけることで、岩と、つまり精霊世界とつながることを思考していた。そう考える考古学者もいる。

 ヨーロッパを離れて琉球弧に近いカリマンタン(ボルネオ)では、高さ150メートルもある険しい岩山をよじ登ったところに洞窟があり、そこに人間や動物の壁画と一緒に数百個の手形が、やはり残されていた。ただ、この手形んは、手相でみる掌線のようなデザインが施されているから、精霊動物のすむ洞窟の向こうへとつながるのとは別の思考も働いていたのではないかと考えさせる。辿りつくのにも困難な洞窟の場所と、手形も頭上よりも高い位置に描かれていることから、何らかの通過儀礼や祭儀が行われていたのではないかと、やはり考古学者たちは考えている。

 こうした洞窟をめぐる思考に引き寄せられるのは、珊瑚礁でできた島の多い琉球弧では、洞窟は島を縦横に走っていて、琉球弧に普遍的と言ってもいい地形的な環境だからだ。しかも、港川原人が三万二千年前とされるから、後期旧石器時代には琉球弧にも到達している。鍾乳石の多い琉球弧の洞窟では、岩肌に絵を描くことはできなかったかもしれないが、それでも当時、琉球弧にいた島人もこうした祭儀を洞窟のなかで行っていたとしても不思議ではない。共同体は特別な洞窟を持っていて、そこで増殖や死と生にまつわる祭儀を行っていたとしてもおかしくないのだ。あるいは、沖永良部島のように巨大な洞窟から吹き上げられる潮は、オーストラリアのアボリジニの虹の蛇のように、グレート・スピリットとして見なされることはあっただろうと思われる。

 祭儀の場所として以外にぼくたちが想定できるのは、初期琉球弧人にとっての居住地としての洞窟ということだ。そしてそこでは、死とともに洞窟を変えただろうことが考えられる。

 人が死ぬと、死体はそのまま死の起こった洞穴または岩屋に、仰臥の姿勢で寝かせ、木の葉や小枝で覆い胸上に石を乗せることもある。生存者は他へ居を遷す。火も燃やさず水もたむけない。死者の持ち物も忌避するところはない(シタラ・ワニヤ族、セイロン島)。

 シタラ・ワニヤ族は洞穴居住者なのだ。そして、洞窟を去る行動は、家を捨てる習俗として続いていったのだ。

 その次の段階では、洞窟は他界への入口として思考されたと考えられる。洞窟は、それが深くても浅くても、その入口に立つだけで、その向こうに何かある気配を濃密に漂わせる。そして琉球弧の地理的環境からいって、これ以上に他界の入口にふさわしい場所もないように思えるのだ。

 琉球弧の場合、洞窟を他界の入口とする思考を現在に伝えるのは、来訪神だ。西表島古見のアカマタ・クロマタは、鍋のような洞穴を意味するナビンドゥから出現する。石垣島宮良のアカマタ・クロマタは底の知れざる深い穴を意味するニーロー、またはニーラスクから、新城島でも手の届かぬ土の底を意味するニーレースクから、小浜島でも大地の底であるニーレスクから出現するのだ。どうやら、洞窟の向こうとは地の底と考えられている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/04

参照用「仮面儀礼」一覧

 今回の関西行きでは、国立民族博物館の「イメージの力」展を楽しみにしている。東京での展示を見逃してしまっていた。


Image1
Image2


 そこで、さわりだけでも把握している仮面たちを参照用に整理してみた。


Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/03

『革命のつくり方』

 台湾の「太陽花運動」を革命という言葉で捉えるのは、それが革命のつくり方を示し、実行し、成功したからだと、著者の港千尋は書いている。

 国会が学生によって占拠されたのは中華民国史上初めてのことである。もちろん現代史において、かくも長期にわたり国会を若者が占拠した事例は稀である。わたしはこの驚くべき事態を目の当たりにして、そこに革命の可能性を感じた。  革命の革命的なつくり方を見たように感じたのである。

 この運動は、「言葉の本来の意味では、革命ではない」。けれど、そのつくり方を示し、実行した。では、なぜ「成功」と言えるのか。それは「非暴力」だ。「しかし犠牲者をひとりも出すことなく、学生が国会を三週間以上にわたって占拠したという例はおそらく歴史的にも稀だろう」。そこには「感覚と情動」の共有があった。

 「太陽花運動」を社会運動の系譜で捉えた時、港が抽出しているのは、ブラジルの例だ。1982年、ブラジル労働者党が政党として登録される。そこには、芸術家や批評家が参加していた。その年の得票率は3.5%にすぎなかったが、2011年の大統領選挙ではブラジル労働者党のルーラが選出され、「世界を驚かせることになる」。

 二〇一一年のウォールストリート占拠から二〇一四年に至る流れのなかで、二〇世紀を通じて北半球中心だった社会運動が、名実ともに地球全体をカバーするきっかけをブラジルがつくったことになる。

 これらの舞台になっているのは都市だ。「人間にとって、都市は生活の糧を売るためだけの手段ではない。都市とは、人間の創造的生活にとって無限とも言ってよい価値をもつのであって、不動産価値などで計れるものではない」。先駆的な例は、ブラジル憲法に加えられた「都市への権利」。

 都市にとってその使用価値は交換価値に優先する。

 これは印象的なフレーズだ。マルクスは水や空気は、使用価値のみがあって交換価値は持たないものとみなした。自然の懐はまだ豊かだったということもできる。ところが現在は、水や空気も交換価値化されている。その人工化された環境のなかで、「都市への権利」は、かつての「水や空気」のように、使用価値を浮上させる兆候にみえる。あるいは、古代のように、大地を身体化されたものとして捉えようとする感覚だ。

 この本は、黒箱、議会、ひまわり、身体性、配置図、診療部、翻訳部、非常通路、教室、交通機関、具体性、結び目、サプライ、都市の模型、歌、中継、意見、写真、版画、絡まり、報民という各節のなかで、「太陽花運動」の知恵、アイデア、創造性がちりばめられている。ぼくが最も印象的だったのは、「非常通路」のことだ。立法府から次のブロックへの通じる道路に備えられた幅一メートルほどの空間。これは非常用に空けられた通路で、ここから体調を悪くした参加者を担ぎ出するようにするとともに、逆に車椅子でも参加できるようにしたものだ。

 平等はゴールではなく、出発点。だから、「弱い者に対する配慮であると同時に、弱い者でも参加できるよう、万全の体制をとろうとしている努力」。運動の目的は「弱者の救済ではなく、邪草への配慮を経験することによって社会をつくり変えてゆくことにあるように思われた」。「非暴力」は、「現場における、他者を気づかう無数のアクションから生まれたのではなかったか」と、港は書いている。 

『革命のつくり方』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/02

『近代アイヌ教育制度史研究』

 この研究がなされたのは、著者、小川正人が、「シャモ(和人)としての自分の歴史認識を鍛えたいと考えたことによっている」。「和人」ではなく「シャモ」という用語を用いるのは、贖罪意識からではなく、歴史的な用語として借用したいからだと断っている。

 アイヌ学校の設置は樺太アイヌの強制移住地・対雁(ついしかり)の教育所を皮切りに進行する。この過程はアイヌの土地や生業を奪うことを意味し、「文字」や「教育」の必要を痛感させることへ追い込み始めることを意味した。

 メモ。アイヌと琉球とを並べてみるとき、いつも感じるのは、強制移住や移民の流入の違いだ。もっとも土地を奪うことは、後になって米軍によって行なわれた。

 1890年に「近代アイヌ教育制度」が成立。アイヌ児童への日本語や日本国歌の秩序意識の注入が特徴。シャモ(和人)に比して「簡易」で「卑近」なものに押しとどめ、「別学」という原則をとった。別学では、「土人学級」などの蔑称とアイヌ学校を「見物」とする状況が生まれた。こうした体験によって、「自分たちが「劣った」存在として扱われていると感じさせられた」。

 アイヌ出身の「熱心」な教員が出てくる。為政者にとっては、コタン掌握の役割として期待していたことでもあった。アイヌ児童の就学率、出席率は急速に上昇する。

そこには、自らの文化を「滅びゆく」ものと感じざるを得ないほどの、伝統文化の伝承を「断念」するという痛切な意識があった。

 「近代アイヌ教育制度」は廃止される。先行した「アイヌ」という言葉をタブーとする表面的な「差別禁止」は、「共学」下の学校に実質的には持ち込まれることになった。

 アイヌ語と伝統文化の伝承を「断念」し「帝国臣民」たらんとした多くのアイヌの行動は、いかに政索動向と接近しているようであっても、それがシャモに伍そうとする民族意識に由来している以上、個々の程度や性格の違いこそあれ、根底の部分にシャモとの乖離を胚胎している。他方、日本社会は、ついにアイヌを対等に遇し、あるいはアイヌからの問いかけに対等に応えることはなかった。このズレは、アイヌがシャモに伍そうとすればするほどに、越えがたい壁として際立つ。

 メモ。「和夷同祖論」もあったのを知った。「日琉同祖」、「日鮮同祖」の同期。

 1875年、樺太アイヌは北海道へ強制移住。「保護」という名目だが、児童の通う対雁(ついしかり)教育所、学校を維持したのは、「他ならぬ樺太アイヌによる醵金や漁場労働の収益金である」。樺太アイヌが子供を学校に通わせようとする姿勢は、相当に積極的な面があった。

 それは近代日本社会に強制的に編入されたなかでの、余儀のない「選択」であり、だからこそ切実だった。

 樺太アイヌの対雁強制移住や教育政策の諸問題は、「保護」や「指導方針」の「不徹底」などではなく、「方針」がない弥縫の繰り返しによる。日露戦争後に樺太アイヌのほとんどが帰郷したのは、この経緯に対する強い指弾でもある。(「対雁(ついしかり)学校の歴史」、「教育学研究」80巻、2013年)。

 メモ。大和に対すれば、その圏外にある異族がアイヌと琉球。しかし近代日本に対すると、琉球は圏内と圏外の二重性を帯びたが、アイヌは依然として圏外として扱われた。その差異が、教育でどう現われたか、を見ることができる。

『近代アイヌ教育制度史研究』(小川正人、1997年)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/01

『植民地帝国日本の文化統合』

 この本(『植民地帝国日本の文化統合』駒込武、1996年)が書かれた理由、ふたつ。

「日本人」という種的同一性(アイデンティティ)の論理のゆらぎというべきものを、異民族という「他者」との関係性において捉えること。そのことを通じて、ナショナリズムを相対化する原理を、近代日本の歴史過程それ自体のうちに見いだすこと。

 ナショナリズムには、帝国主義的膨張に適合する観念(言語ナショナリズム)と非適合な観念(血族ナショナリズム)がある。血族ナショナリズムは、血族を通じて「台湾人」「朝鮮人」「日本人」を再生産し続けた。「台湾人」や「朝鮮人」は兵役義務はなかったが、ほとんど無権利の状態でも、納税の義務は課された。

 国家統合の次元において、統合の対象と見なすか否かという問題は参政権として現われる。この点では、台湾、朝鮮は統合埒外の「植民地」とされた。植民地主義を正当化したのは血族ナショナリズム。植民地はもっぱら経済上の利益獲得の対象とみなすべきという露骨な主張もあった。そこには、「血族ナショナリズムが弱肉強食の方針を正当化し、弱肉強食論のもとでの利益の共有が血族ナショナリズムを意味ある言説とする」と、駒込は書いている。

 しかし、学校という教育制度では、内地延長主義的な修正がなされていく。植民地主義に基づく排除の体制は、「民族独立運動」という対抗物を生み、限定的な自治権を求める朝鮮地方議会開設と帝国議会への議員選出が、総督府の決定案となるが、本国政府との折衝の過程で先送りにされる。「内地延長主義は形骸化し、自治と独立を阻害するためのネガティブな原理としてのみ機能した」。

 国家統合の次元では、植民地主義であるのに対して、文化統合の次元では、「台湾や朝鮮の教育内容を「内地」と質的に異質なものとしては編成せず、程度の差はあれ連続的なものとして設定」した。そこでは、台湾や朝鮮の自主的、主体的活動は徹底的に抑圧されるが、「このような抑圧が、「日本人」との思想・感情の同一化としての「同化」を達成する手段として有効に機能するはずだという発想」がここにはある。しかし、同化は排除としては機能するだけのもので、そういう意味ではそもそも形骸化する運命づけられた理念だった。

 そもそも教育内容が「日本的」であっても学校がない限り、効果も限定的になる。また、教育勅語の利用について、植民地の教育行政官や教師たちは、「皇祖皇宗ノ遺訓」「爾祖先ノ遺風」という血族ナショナリズムに連なる文言や、「国憲ヲ重シ」「義勇公ニ奉シ」など国民統合にかかわる倫理は非適合だとして、意欲的ではなかった。台湾では改編が意図されるが「不敬」事件で挫折し、朝鮮では、教義を抽象化、簡略化した誓詞を作成し、朗唱により儀礼化したが、限界があった。

 さらに、日本語を教えさえすれば「日本的なもの」への「同情同感」も可能になると考えられたが、現実問題として感化的な機能は発揮されなかった。

 ただし、現象的には、自らを「日本人」と思い込もうとした朝鮮人や台湾人もいた。仮説的なモデルの域を出ないと断りながら、駒込は、それは「利害、思想、感情という順序をふんで国民共同体への帰属意識が浸透したと考えられる」としている。

 メモ。この点、奄美、沖縄の場合は、「感情」だけではないだろうか。

 「同化」という理念が形骸化しつつも建前としての地位を確保し続けられたのは、近代化という事態が不可逆の過程として進行し、そのなかで一定の協力者を確保しえたことにある。しかし、近代化において「文明化の恩恵」は標榜したが、目指された人間像は、「前近代的な被治者意識を温存したうえで、近代的な規律・訓練を身につけた、「順良ナル臣民」であった」。

 メモ。「順良ナル臣民」は、三井炭鉱の「炭坑夫募集要領」にあった「土百姓ニシテ世ニ慣レザルモノ」と似ている(cf.「土百姓にして世に慣れざるもの」)。

また、台湾では、文明と野蛮という二分法に基づいて原住民に対する偏見と差別を拡大再生産することで、漢民族の一部を支配体制の内につなぎとめる方策がとられた。

 このような状況下で、「差別の克服と連帯の獲得」を目指した人物がいた。辛亥革命期に抗日武装蜂起を計画した台湾の羅福生と伊藤博文を暗殺した朝鮮の安重根だ。

羅福生は、「天命」という概念に基づいて「国法」を犯すことを正当化するとともに、死後に鬼神と化して復讐するという民間信仰のエートスから抗日のエネルギーを汲みあげていた。安重根は、忠孝の倫理に基づいて、「不忠の臣」としての伊東博文を告発していた。

 メモ。安重根について、ぼくは黒川創の『暗殺者たち』で知った。最近のこと。

 駒込は、イギリスは自治の付与という譲歩策に転じて、帝国-連邦体制を形成したのに対して、日本帝国主義が、ついにそのような転換をなしえなかったのはなぜか、と自問自答している。駒込は、「天皇制が欧米諸国におけるキリスト教の代用品として国民統合の「基軸」とされた近代日本において、教育はまさに一種の宗教であった」ところに原因の一端を見ている。統治体制そのものを別の論理にしたがって構想する余地が少なかったと考えられる。

 メモ。後進国ナショナリズム。段階としてのアジア的と西洋的。

 敗戦後、帝国の解体は、占領軍主導により他律的に行なわれたことで、植民地支配に対する責任意識の希薄さをうみだすことになった。そして、血族ナショナリズムも言語ナショナリズムも温存されたということを、課題として詳述している。

 メモ。奄美と沖縄は、戦後は「日本復帰」という目標のなかで、血族ナショナリズムと言語ナショナリズムによる同化を継続した。


『植民地帝国日本の文化統合』(駒込武、1996年)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »