« サマール島の洞穴葬 | トップページ | 「地上の他界」とは何か »

2014/10/21

『吉本隆明の経済学』

 大好きなアーティストの作品は、自分なりに編集してオリジナルのアルバムを作りたくなる。一曲目にはこれを配して、ラストはあれしかないな。入れるのは、これとそれと、いややっぱりあれがいいかな、などと悩むプロセスが愉しい。で、聞いてみると、正規のアルバムで、アーティストがここがいいと配置したものとはまた別の響きがやってくる。聞きなれたはずの曲が新たな相貌で立ち現われて、作品との新鮮な邂逅を果たすことができる。誰かが編集して新たにリリースされたアルバムも、その新しい響きが楽しみだ。そこに未発表の音源や気の利いた解説が入っていたらたまらない。

 『吉本隆明の経済学』は、ぼくにとってそういう新たに編集されたアルバムのようだった。収められた文章のうち、「言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移」と「農村の終焉-〈高度〉資本主義の課題」は読んだことがなかったので、未発表音源付きみたいなものだ。もっと言えば、途中までは吉本隆明と中沢新一編集、そして吉本没後に、中沢単独の編集の手と解説が加わった、吉本隆明のコンピレーション・アルバムだ。この編集の成り立ちは、どこか、ジョン・レノンの未発表音源をもとに残された三人がビートルズの新曲を編集したのを思い出させる。

 刺激になったのは、中沢が引いている人類学者サーリンズの言葉。

 この点で、モースは、『資本論』第一章のマルクスに、はるかにずっと似てくるようである。こういったからといって、礼を失したことにはならないとおもうが、ずっとアニミズム的なのである。一クォーターの小麦が、Xポンドの鉄と交換できる。これほど明白にちがっている、これら二つの物の間で、等しいものは何であるのか。まさしく、マルクスにとって、問題は、これら二つの物のなかで、両者を一致させるものは何かにあったわけで、交換する二人の当事者について、ひとしいものが何であるかが、問題であるわけでもなかった。同様に、モースにとっても、「与えられた物のなかに、受取人に返報させる力があるのか」が問題だったのである。そして、それに本具的な固有性から、という同じような答えが、ひきだされる。マルクスにあっては、それは、社会的必要労働時間であったとすれば、モースにあっては、ハウにほかならなかった。(マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』)

 交換されるモノは、霊魂のように個別的に立ち現われるが、そこにはそれだけではなく、ハウのような流動的な霊力が潜んでいる。サーリンズが、マルクスの資本論をアニミズム的というのは、そういうことだと思う。

 中沢は書いている。資本主義が進展すると、

 ところが意識化が進むようになると、無意識の領域から意識領域にもたらされる情報が遮断されえるようになる。そうするとしだいに喩に関与する潜在空間の影響が小さくなる。すると喩の構造に変化が生じてくる。項目同士の喩的なつながりが失われて、孤立するようになり、孤立した項目のそれぞれは抽象的な連続体の上に置かれることによって、見かけの連続性を回復したようになる。この過程を通して、生起の運動をはらんだ「ハウ」は、抽象的な「社会的必要労働時間」に変化していくのである。

 ハウの、霊力が後退し霊魂が前面化すると、それは軽量可能なものとして固定化されてしまう。

 ところが経済的交換を生み出した詩的構造は、資本主義によって本質的な変化を被ることになった。モースの「ハウ」がマルクスの「社会的必要労働時間」に変化するとき、価値形成をおこなう詩的構造の内部では、贈与価値を交換価値につくりかえ多様体を均質空間につくりかえてしまう、本質的な変化が信仰していたのである。脳内のニューロン・ネットワークの生物学的な基本組成には変化は起こっていない。つまり詩的構造そのものには変化は起きないが、そこから出てくる情報を再コード化するプログラムに根本的な変化が生じている。その結果、脳=心の本質をなす詩的構造そのものは抑圧され、表立っての活動ができなくなる。

 霊力思考は抑圧され、霊魂思考が支配的になる。

 本書を吉本隆明さんの御霊に捧げたいと思う。吉本さんはいまも、人類が「霊」などと言ってきたものが、ほんとうのところは何であるのかを探求されていることであろう。その探求の精神は、私を含めて多くの人々に受け継がれている。だからそれは死なないのだ。その死ぬことのないものをかりに御霊と呼んで、本書をそれに向かって捧げようと思う。

 場末の小さな受け継ぎ手の関心に引き寄せれば、「人類が「霊」などと言ってきたもの」は、さいしょ、霊力思考と霊魂思考として展開された。それは、言語の自己表出と指示表出の原型であり、文字以前の自己表出と指示表出と言ってもいい、人類初期の思考の分節化だった。

 この本が、バブル崩壊で見えにくくなった、吉本の贈与論と人工都市論をふたたび広場に持ち込んだ意義は大きいと思う。中沢は、本書は到達ではなく始まりを示すものと位置づけているが、それに倣って、ぼくが本書に加えたい吉本の文章を挙げておきたい。

現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖と、その増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間との関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想のようにあらわれる。(吉本隆明『カール・マルクス』1966年)


『吉本隆明の経済学』

|

« サマール島の洞穴葬 | トップページ | 「地上の他界」とは何か »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/60515185

この記事へのトラックバック一覧です: 『吉本隆明の経済学』:

« サマール島の洞穴葬 | トップページ | 「地上の他界」とは何か »