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2014/10/04

マヨ、ドゥク・ドゥク、アカマタ・クロマタ

 吉本隆明は、穀物と女性だけが子を分娩するという同一視から、女性が殺害されることによって穀物を再生するという観念が、別の観念に取って代わられる段階を想定している。それ、穀物の生成や枯死や種播きという時間の流れが、女性が子を妊娠し、夫の協力も得たうえで子を成人させるという時間の流れとちがうことを意識した時だ。

 このように穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、分娩し、男性の分担も加えて育て、成人させるという時間性がちがうのを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の〈対〉幻想とのちがいを意識し、またこの差異を獲得していったのである。もうこういう段階では〈対〉幻想の時間性は子を産む女性に根源があるとはみなされず、男・女の〈対幻想〉そのものの上に分布するとかんがえられていった。つまり〈性〉そのものが時間性の根源になった。  もちろんこの段階でも、穀物を、男・女の〈性〉的な行為とむすびつける観念は消えたはずがない。だがすでにこのふたつのあいだには時間性の相違が自覚されたために共同幻想と〈対〉幻想とを同一視する観念は矛盾にさらされた。それを人間は農耕祭儀として疎外するほかに矛盾を解消する方途はなくなったのである。(『共同幻想論』

 来訪神を追っているここでの文脈からいえば、女神としてのクロマタと男神としてのクロマタという男女二神は、この段階にあるものだ。ところでぼくたちは、マヨ祭儀に例をとったハイヌウェレ型神話の再現である祭儀と、男女二神による祭儀とのあいだにもうひとつの段階を想定してみたい。

 ニューギニアのトーライ族が行ってドゥク・ドゥクの祭儀では、ドゥク・ドゥクの母親であるとされるトゥブアンが男子結社の集会地に出現したことが分かると、十二才を目安にした少年たちは集会地に連れて行かれる。そこで仮面仮装したトゥブアンの合い図をもとに少年たちは棒で叩きのめされてしまう。そして、ドゥクドゥクの踊り方などを含めた秘密を教えられ、集会地で起きたことを含め口外しないことを約束させられる。その夜を通して、新しいドゥクドゥク誕生の儀礼が行われる。ここでは少年たちがドゥク・ドゥクとして仮面仮装することになるのだ。翌明け方にトゥブアンは、新生のドゥクドゥクを率いてカヌーに乗り会場から村落の浜辺に出現する。そして村落の広場で、村落の住民たちを前に踊り、示威する(cf.「ドゥクドゥク祭儀の過程」「トゥブアンとドゥクドゥク」)。

 トゥブアンは、首長のいないトーライ族にあって掟の違反に罰則を与える力を持ち、また出現の後にドゥク・ドゥクによって村落民から強制的に貝貨を集めるなど、財の再配分に関与するなどをし、明瞭な農耕祭儀としてはみえてこない。しかし、最初の収穫物が供えられるとされ、冬至という太陽の力が弱まるときに始まるので、後景に退き、見えにくくなっているとはいえ、これが収穫と予祝をめぐる農耕祭儀の意味を持っていることは確からしく思える。やがて貝貨が集められると、祭儀は終わり、ドゥク・ドゥクは死に、トゥブアンも消えるが、トゥブアンは不死とされている。

 ドゥク・ドゥクの祭儀では、トゥブアンは女性や子供に非常に恐れられているが、もう女性は殺害されることはない。代わって、女性して母親であるトゥブアンとその子にして毎年死ぬドゥク・ドゥクが登場するのである。この段階では、すでに人間の成育と穀物と生成と枯れ死の時間の流れの違いが意識されていた。その違いによって対幻想と共同幻想を同一視する観念の矛盾を、穀物神として、母であるトゥブアンと子であるドゥク・ドゥクに疎外したのだ。この二重性は、穀母と毎年の生成と枯れ死をそれぞれ担っているが、それはマヨ祭儀において、殺害される女性がマヨの娘ともマヨの母とも言われた両義性に対応している。

 また、この疎外によって、マヨ祭儀は男子結社の内部で行われていたのに対し、ドゥク・ドゥクの祭儀は村落全体の共同祭儀になったと考えられる。女性が殺害されることがなくなったから祭儀が公開されたのではない。そういう面もあるかもしれないが、本質的には、人間の成育と穀物の生成に流れる時間性の違いは共同幻想全体に関わるから公開されたのだ。ある意味で、この時点から、男子結社の持つ秘密性の減少は始まるのかもしれない。

 そして、マヨ祭儀のなかでは、結社内で神話を演じていた仮面仮装の神々は、海のかなたからやってくる来訪神の姿を明確にさせている。ここで、神の系列に男性が加われば、アカマタ・クロマタになるのだ。この男・女二神になるには、性交による子の妊娠という認識が重要な契機になったに違いない。

 女性の殺害による穀物の増殖という観念と男女二神の間に、穀母神と子供の神の段階を置くと、アカマタ・クロマタにもひとつの視点が得られる。それは、アカマタ、クロマタも子神を伴って現れるからだ。西表島の古見では、旧士族の共同体は親であるクロマタを担い、旧平民の共同体は子であるアカマタ、シロマタを担うなど、現存する形は大きな編成を受けているが、祖形に向かって遡行した時、そこには女神と子神が残ることを想定することができると思える。



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