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2014/10/31

『流着の思想―「沖縄問題」の系譜学』

 「流着」という言葉について、冨山は書いている。

それは定着に対して設定された言葉だ。いいかれば流亡において重要なのは、どこに定着するのかということではなく、離脱することであり、この離脱において未来を想像し続けることなのだ。定住はいつも流れ着いた結果であり、再び流れ出すかもしれない予感に満ちているのであり、渡辺のいう流着とは、かかる離脱の営みが居住場所にかかわらず継続中であることを、的確に表現しているといってよいだろう。

 もともとの石牟礼道子の語法にならえば、ぼくなどはさしずめ与論流れというところだろう。しかし、石牟礼にとってそうだったように、それは出郷した人にのみ当てはまるのではく、居ながらにしての出郷もありうる。与論に居続ける人、与論に戻った人のなかにも、与論流れはいる。それはありありと感じることができる。

 離脱の契機はどこにあるのか。たとえば、冨山は伊波普猷の言葉に注目している。既に米軍が沖縄に上陸していた1945年4月に「決戦場・沖縄本島」と題して、伊波は、「今や皇国民という自覚に立ち、全琉球を挙げて結束、敵を襲撃」という、今では目も当てられない主張をした。冨山は、この伊波の無残さに対し別の正しさを置くとしたら、それは思想にはならないとしている。いわば、無残だと主張するのは正しすぎるのだ。むしろ、正しさの消失する場所をこそ見なければならない。「今や皇国民」と語る伊波の言葉は、それを拒絶する身体と紙一重だ。そして、拒絶する者は国家により鎮圧される。伊波の主張のすぐ横には、「お前は何者か」と尋問する言葉が無言の脅迫のように控えている。だから、臆病者の伊波が生きる別の未来を、言葉として確保しなければならない。

 遡って、1911年の伊波普猷は、「只今申し上げたとほり一致している点を発揮させる事はもとより必要な事で御座ゐますが、一致していない点を発揮させる事も亦必要かも知れませぬ」と書く。ここで、「一致している点」と書くのは日琉同祖を唱えた伊波だから分かりやすいとしても、「一致していない点」と記したことには、別の場所で、「個性を表現すべき自分自身の言葉を有つてゐない」とも書いた伊波の「個性」の根拠に連なるものだった。

 けれども、世界市場における砂糖の供給過剰により黒糖の価格は暴落し、沖縄は蘇鉄地獄に陥るなかで、台湾、南洋諸島と共通の土俵で語られ、植民地の糖業としては崩壊と見なされるとともに、それを国内農業として救済する必要はないのではないかという見なしを国家から受ける。そうした状況のなかで、「個性」の主張は退き、「琉球処分」を「解放」と見なした伊波の認識は折れ、「社会的救済」を唱えるにいたる。

 ここで、「一致していない点」という表現には気づいていなかったと思い、「琉球史の趨勢」(cf.『古琉球』)を読み返してみたが見当たらない。1942年の改稿において、そこは削除されたのではないだろうか。伊波は、「個性」を語る言葉の困難さの前に立ち尽くしたということか。

 冨山の議論に戻ろう。しかし、蘇鉄地獄には世界性があり、奄美と沖縄に通底するものだった。「すなわちその後の奄美と沖縄における救済論議と振興計画(大島郡振興計画あるいは沖縄県振興計画)の登場、さらに救済や振興と同時に進行する人々の大量流出といった極めて酷似した事態」だったのだ。

 蘇鉄地獄に突入する前の1918年、伊波普猷は奄美大島古仁屋で講演を行なう。

 余は琉球処分は一種の奴隷解放なりと思ふ。ところが三百年間の奴隷制度に馴致さえれた奴隷自身は却つて驚き又元の通り奴隷にならうと願つた。大島とても同様である。琉球処分の結果琉球王国は滅亡したが、琉球民族は新日本帝国の中に這入つて復活したのである。/又吾々の父祖は明治維新の大業を為すに当たり椽の下の力持ちとなっつたのである。/薩長が徳川幕府を倒したのは兵力が強かつた為でもあるが実に経済問題に帰因する薩長其他勤王藩派は金力に於いて既に徳川幕府に優つてゐた。/それでは見様に依つては大島沖縄人が金を出して幕府を倒したとの結論にもなる此の意味に於て吾等は大に意を強ふして満足すべきである。

 このときの伊波は、奄美と沖縄を薩摩支配下の「奴隷」としてつながりを見出そうとしていた。蘇鉄地獄のなかで伊波普猷は「個性」を語る言葉を失うが、そこで「奴隷」つながりの奄美を見出したのだ。そこには再び奴隷になる「予感を連結器」としていた。

いいかえれば、両者は同じ琉球王国の中心と周縁というかたちでまとまるのではなく、近代における自由がもたらした危機と国家の再登場において重なるということであり、伊波にとっての奄美とjは、こうした蘇鉄地獄を軸にして始まる歴史の登場と深くかかわっているのだ。

 ここで伊波に掴まれかけている奄美と沖縄は、琉球としてのそれではなく、個性が抱え込む瑕疵においてだ。

 冨山は本書のなかで、「まだ終わってはいないのだ」という言葉を反響させている。身近なことに引き寄せれば、これはせりあがる声のように湧きあがらなくても、つぶやかざるを得ない時がある。

黒砂糖の収益なんて、もうとるにたりません。薩摩の討幕資金、つまり中央での政治資金というのは、黒砂糖の収益からでてきたわけではありません。薩摩藩と云う大きな組織をマネジメントする基本的な収入は、上海貿易からの収益です。薩摩藩が奄美の黒砂糖の収益で明治維新をやったという話は、資金の出所の問題でいうと、まちがっています。黒砂糖の収益で、明治維新をやったわけではありません。(原口泉『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』2011年)。

 伊波普猷が生きていれば、ここにも「個性」を語る困難を見出したことだろう。ところで、冨山は伊波普猷の道程を追うなかで、「奄美という問い」を見出しているのだが、この問いを奄美の内側から問うことも、伊波の「個性」と同様に、難しい。

 いま、その困難を奄美は、奄美を圏内とする政治的な共同体を持ったことがないからだという言い方で表してみる。そして、これをネガティブに受け止めるのではなく、強引にでもポジティブさを見出そうとすれば、ただの人、人間というアイデンティティに辿りつきやすいことだ(辿りつかざるをえないと言ってもいい)。しかし他方で、奄美というアイデンティティはなくても、島/シマのイデンティティは強烈に存在している。言ってみれば、ぼくは与論流れのただの人だ。それが基底でもあれば、アジールでもある。

 ただ、「まだ終わってはいないのだ」。「奄美という問い」から語り出さなければならないという、そういう契機は、たとえば鹿児島の歴史学者の言葉に出会うように、消えてはいない。そのことも確かだ。


 この本は、森宣雄の『地(つち)のなかの革命―沖縄戦後史における存在の解放』を思い出させる。

『流着の思想―「沖縄問題」の系譜学』

『古琉球』

『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』


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2014/10/30

松島泰勝『琉球独立論』を読む

 11月8日に同志社大学で開かれる書評会、「松島泰勝『琉球独立論』を読む」に、発言者のひとりとして参加します。どんな場になるのか、いやそれ以前に、読後感は書いているものの(cf.「『琉球独立論』を読む」)、自分が何を発言するのかさえ見当がつきませんが、新たな出会いや言葉の場が楽しみです。お近くの方がいましたら、足をお運びくだいさませ。

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2014/10/29

洞窟三題

 洞窟内で行われていた宗教祭儀。

 クロマニヨン人たちが残した洞窟壁画のことは、よく知られています。(中略)トナカイ、ヘラジカ、バイソン(野牛)、サイ、ライオン、ヒョウなどの動物の、おそろしく写実的な壁画を見ると、これらを描いた現生人類たちの心が、現代の私たちのものと寸分違わない複雑さで、すでに喚声していたという事実を思い知らされます。この洞窟壁画を研究した考古学者たちは、描かれた動物の種類や配置、狩人を思わせる人間像との関係などから推論して、ここではなにか「増殖」や「繁殖」の概念にかかわる儀式のようなことがおこなわれ、絵画はその儀式と関係したものであろうと考えています。
 その壁画の描かれたたくさんの洞窟のひとつ、モンテスパン洞窟で、一九二三年にたいへんに興味深い発見がおこなわれました。とても深い洞窟をたどっていきますと、広くなった部屋のような場所に出ます。この部屋の奥に向かって懐中電灯を向けた考古学者たちは、そこにこんもりと盛り上がった小山のようなものを見つけ出したのです。暗い光の中に浮かび上がったのは、熊の姿でした。
 よく調べてみるとそれは粘土でつくられた大きな熊の像でした。首はなく、像の手前の地面には、小熊の頭蓋骨が置かれていました。粘土の熊のからだには、いくつもの穴があいていました。毛布をかぶせた上から、矢を射かけた痕だと推定されています。つまり、洞窟の奥のこの場所で、いまから一万数千年前、現生人類によって熊の像に矢を射るという、なにかの儀式がおこなわれていたのです(p.60)。

 洞窟の中の、たぶん熊祭祀がおこなわれていただろうと思われるあたりは、奥まったところにある真っ暗な空間でした。この暗黒の中で、動物の脂肪からつくった小さな灯りをともして、この祭祀はおこなわれていたのでしょう。まだ旧石器を使っていた現生人類は、明るい生の世界と暗い死の領域との中間の、夢と同じ構造をもった薄暗がりの中で、熊に語りかけていました(p.62『熊から王へ カイエ・ソバージュ』)。

 増殖、繁殖だけではない。絵画には生と死も描かれている。

後期旧石器時代のホモサピエンス(現生人類)が、洞窟を住居とし、また特別に選ばれた洞窟の中では、なにかの宗教的祭儀が執りおこなわれていたことを示す、たくさんの証拠が発見されているのを、そこで見てきましたね。洞窟壁画にはおびただしい数の動物の死が描かれています。鹿や馬が疾走していくところを描いたそれらの絵画は、迫真のリアリズムで、私たちに深い感動を与えるのです。また同じ洞窟には、熊とおぼしき動物をかたどったテラコッタ像が残され、あたりに散らばった遺物からして、あきらかに儀式がおこなわれた痕跡を示しています。
 ラスコーやショーベをはじめとするそうした洞窟では、動物の「増殖」にかかわる儀式がおこなわれていたのではないか、と考古学者たちは推測しています(p.80)。

旧石器時代のホンサピエンスのこうした増殖の思考には、それと反対の思考、つまり生と消滅をめぐる思考がセットになっていました。生まれ、増えていくものが、同時に死に、消えていくものと同居している様子が、はっきりと絵画で表現されています。

 ラスコー洞窟は「広間」や「回廊」や「小部屋」でできていますが、そのうちのもっとも奥まった部屋の一つに、奇妙な図が描いてあります。大きなバイソンのかたわらに、仰向けに倒れているとおぼしき男の姿を見つけることができます。バイソンのお腹から内臓がはみ出しています。おそらく鋭い石器で腹部を傷つけられたのでしょう。バイソンは、近づく自分の死を予感しながら、角を突き立てて、自分を傷つけた狩人に挑みかかっているようです(P.82『愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ』)。

 洞窟はそれに留まらない。洞窟は精霊動物たちの住まう世界であり、触知可能な他界だった。

後期旧石器時代の洞窟内に入ることは、おそらくは、深いトランスの経験とそれに伴う幻覚へと通じる心的な目まいに陥ることと実質的には区別しがたいものと見なされていたと。地下の通路と部屋は地下世界の「内臓」であった。それらのなかに入ることは、地下世界へと物理的かる心理的に入ることであった。「霊的」経験はこうして地形学的な物質性を与えられたのである。洞窟内に立ち入ることは、後期旧石器時代の人々にとっては、霊的世界の一部に入り込むことであった。装飾的なイメージはこの未知なるものへの道標(おそらくはかなり字義どおりの意味で)に他ならなかったのである(P.370『洞窟のなかの心』デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ、2012年)。

 洞窟内の絵画は、岩の表面の特徴を利用するように絵が現われている。一見目立たないこぶや突起が動物の目に相当するような仕方で描かれている。それは視角よりもむしろ触覚によって確認され選びだされたものかもしれない。薄暗い光の下でそっとなぞる指がこぶを発見し、動物の発見を今かいまかと待ち構える心がそれを目と捉えた。ビジョン探求者たちは、そこに精霊動物のありかを示す印を注意深く手で探っていたのだ。それは地上においてのような水平な姿勢でなくていい。浮遊するビジョンを再構成していたのだから。

 頭が描かれた動物のその他の部分は壁のなかにあるように見える。それらは岩壁から人間や動物の顔がのぞいているように見える。それらは洞窟そのものの一部と化して、地下世界の一部と化している。探求者たちは、□と触覚を通じて、岩肌の襞や割れ目のなかに力あふれる動物のビジョンを探し求めた。岩の向こうには、精霊動物と精霊それ自体の住まう領域があり、洞窟内の通路と部屋はまさしくこの領域の奥深くへと通じていた。

 洞窟内にある手形(ハンド・プリント)は、手を描くことより岩に触れることが重視されていたのではないか。ネガティブなハンドプリントの場合、絵の具は手全体をくまなく覆い隠す。手はこうして絵の具の層の背後に消えうせる。ポジティブなハンドプリントの場合、絵の具は手と岩を結びつける媒介項だった。絵の具は単なる技術上の物質ではない。それは一種の力を宿した溶媒であり、それが岩を溶かし、その背後にある領域との濃密な接触を容易にした。フィンガーフルーティングも同じ意味を持つのではないか。後期旧石器時代の人々が地下の部屋や通路の薄い膜のような壁の背後に精霊世界が存在していることを認めるなら、ハンドプリントもフィンガーフルーティングも理解可能なものとなる。

 当時のランプは、自然にできたくぼみに獣脂を詰めるだけの粗末な石のかけらであり、芯は地衣類やコケやマツ、ネズでできていた。それらはあまり強い光を発さなかった。そのランプの下で精霊動物と出会っていた。動物と幾何学的モチーフは何らかの仕方で光:闇というメタファーに関わっていた。光:闇のメタファーは、後期旧石器時代にまでさかのぼることができる。

 また洞窟内では、身体から聞える内部音や太鼓、弓弦、うなり板などかが奏でる音楽的リズムも重要であったに違いない。

 霊的な地下世界はそこにあり、触知可能で物質的なものであった--ある者は、洞窟内に入り、共同体のシャーマンたちに力を授けてくれる精霊動物の「固定された」ヴィジョンをじかに目撃することによって、そしてさらに、おそらくはこうした地下空間にあっても経験されるヴィジョンを通じて、この地下世界の存在を確認することができたのである(p.371)。

 琉球弧には、鍾乳石でいつも湿った岩が多く、絵画の描ける適度に乾燥した洞窟はなかったかもしれない。それでも、洞窟を居住地としながら、特別な洞窟では宗教的祭儀を行った段階はあったかもしれない。与論ではいえば、ハミゴーは歌垣である以前があったのかもしれない。とにかく、洞窟は心惹かれる場所だ。そして琉球弧には大小無数の洞窟がはりめぐっている。



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2014/10/28

琉球弧ソバージュの他界や葬法理解のための南太平洋例

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から、琉球弧ソバージュの他界や葬法にアプローチしてみる。


【1】居住地としての洞窟

 事例1.シタラ・ワニヤ族(セイロン島)。
 洞穴居住者。人が死ぬと、死体はそのまま死の起こった洞穴または岩屋に、仰臥の姿勢で寝かせ、木の葉や小枝で覆い胸上に石を乗せることもある。生存者は他へ居を遷す。火も燃やさず水もたむけない。死者の持ち物も忌避するところはない(P.837)。

 やや離れたスリランカの例だが、洞窟に住んだ場合、死者が出れば、洞窟を死者に預け、移り住んだのに違いない。


【2】葬地としての洞窟

 事例2.ババル島。
 死者の家を捨てる。捨てる際かまどの灰を外に投げすてる。死体は漁網につつんで埋葬することもあり、岩窟に台上葬することもあり、舟棺を用いて埋葬することもある。頭部を東にする。後に頭蓋を掘り、洗骨して饗宴を催す。これがすむと寡婦が洞穴に頭蓋を納める。そこから木の枝を持って来て村の人々がこの枝から木の葉をちぎる。これは死霊の助力を確かめる象徴的手段であるという。服喪期間中死者の夫は剃髪するし、妻は次の新月まで身体を洗わず、頭を布で包む(p.640)。

 事例3.バハウ族(ボルネオ)
 棺は埋めないで岩場に置いておく。昔、マハカム川上流沿岸では、肉の腐り落ちた後、骨を土器に集め、洞窟に納めた(p.610)。

 ババル島は、インドネシアとオーストラリアとニューギニアの中間地点にある島。埋葬もあるが、台上葬も行われ、洗骨をし洞窟に納める。ボルネオのバハウ族でも骨化した後、洞窟に納める。

 事例4.サマール島。
 地下他界(p.551)を信仰しているが、彼らは丸木舟を柩として使う。これを洞穴に持って行って別に葬儀もせず、黙って納める。墓は共同の所にすることが多く、サマール島西岸の住民は、洞穴の多いマリパーノ島(本文はMalipao-引用者注)をもっぱら選ぶ(P.599)。

 ダバオ湾のサマール島人は、埋められない埋葬として洞窟を選んでいる。琉球弧の奥武(オー)と呼ばれる島が葬地になるのと全く同じ形態だ。オーは埋められない埋葬として選ばれた観念もあったと思える。・


【3】時間性としてのみ疎外された他界

 事例5.バイニング族(ニューブリテン島)。
 死霊に対する恐怖心はない。死霊はどこにでもいるが、目には見えず、定まった住所を持たない(p.163)。

 他界が時間性としてのみ疎外されている場合はこういういい方になる。「どこにでもいる」あるいは、「定まった住所を持たない」。


【4】食人

 事例6.バタク族(スマトラ島)
 人間はただひとつの霊魂を持つ。霊魂は恐ろしい時や夢、病気の時に、一時肉体を去り、それが永久に去れば、人は死ぬ。自己の霊魂を強め、養うことはバタク族の人生観の中心をなすもので、食人の習俗も他人の霊魂を自己に取り入れるためだった。トバ・バタク族では、捕虜や姦通罪を犯した者の肉を食う習俗があった。激しい敵意を癒すためでも倒錯的な意味からでもなく、霊質を得るためだった。戦死や姦通者の霊質は特に力強く貴いと考えられた。パクパク・バタク族は年老いた親を殺してその肉を食ったり、ときどき市場に人肉を売りに出ることもあった(p.871)。

 ここではオーストラリアの例は挙げなかった。スマトラ島のバタク族の場合は、より霊魂の転位が明瞭になるだけでなく、「年老いた親を殺してその肉を食」うという例が、琉球弧の伝承が虚構の民話でないことを示唆して、立ち止まらせる。


【5】添い寝

 事例7.スルカ族(ニューブリテン島)。
 死の翌日に埋葬する。家の中に墓穴を掘り、死体を坐位にして埋める。死体の上部を地上に出す。親族は男女別々に若干期間、死体の傍で寝る。のち、しばらくして死者の霊魂を追い払う。死体の肉が完全に腐ると、骨を墓から取りだす。その後、葬宴を催す(p.205)。

 事例8.ニューブリテン島(トーライ族)。
 身分のある者は、本人の要求により担架にのせて、dukduk儀礼を行った秘密の場所や舟庫、農園、植えた木、よく戦った境界地、親類縁者の家を見せてまわる。死の第一夜には、二人の者が死者の両側に一人ずつ寝る。これは、彼らの霊魂があの世へ供するためであるという(p.206)。

 スマトラ島の霊魂の転位のなかには、添い寝の記録を見出せない。かわってニューブリテン島でみつかる。しかし、ここでは「彼らの霊魂があの世へ供するためである」とされている。だから、添い寝即、霊魂の転位とは見なせないわけだ。添い寝の習俗は、食人の習俗のなかで霊魂の転位という観念を帯びたのかもしれない。ここでは、身体を離れずに身体に宿るエネルギーのような観念と遊離する霊魂という観念が混融している。もしかしたらこれが琉球弧の特異性だったのかもしれない。


【6】膝抱き人(チンシダチャー)

 事例9.スバヌン族(ミンダナオ島)。
 人間には関節と息に一種の霊魂があるが、本来の霊魂は頭の頂の下にある。死は、悪霊が関節の霊魂を食うために起こるが、本来の霊魂は無くならず、死に際して身体を離れてどこかへ行く。供養すれば天へ行く(p.551)。

 膝抱き人(チンシダチャー)を考察した時(cf.「添寝論 メモ」)、膝や腕という関節が、霊魂の座位として重視されたのではないかと考えたが、「人間には関節と息に一種の霊魂があるが、本来の霊魂は頭の頂の下にある」という観念はそれとよく符合している。


【7】捕霊・巫覡・哭女

 事例10.カヤン族(ボルネオ)
 原因不明の重病は悪霊の仕業とみ、祈祷によって治療する。狂気も悪霊の憑依を原因とし、病人の霊魂がぬけだしたことが原因だから、霊魂が復帰できるようにする。捕霊するのは職業的巫者。ふつうは病中夢で巫者を勧められて、先任巫に技術を習得する。女性が多い。巫者は頼まれると、トランス状態になり、自分の霊魂を送って病人の霊魂が門ドルようにする。この行事は、歩廊で親族知友に囲まれて病人の側のかがり火の下で行われる。トランスから戻ると、巫者は小石か木片のようなものを持っていて、これに病人の霊魂が入っているとし、病人の頭にこすりつけて霊魂を戻し、霊魂が逃げ出さないように、椰子の葉で腕首をくくる。鶏や豚を屠殺し、椰子の葉に血を塗る。巫者は病人の守るべき禁忌を指示する。死ぬと、社会的地位によって1日~10日、家にとどめる。その間は絶えず2~3人が通夜をし、哭女も雇う。葬送の日は、死者にあの世へ行く道を教える。墓は村からやや離れたさびしい場所にあり、台上葬を行う(p.602)。

 病に際して、捕霊を行うこと、それを巫覡が行うこと、そして哭女の存在。もうほとんど同じ習俗と言ってもいい。


【8】死の確認

 事例11.モーケン族(マライ半島西、メルグィ諸島)
 泉のない木のよく茂った小島を選び、木の枝で台をつくり、その上に死体を寝かす。この島には狩りに行くことはなく、葬儀の以外は避ける。死者が男で舟の所有者である場合は、小舟を二つに切り、一方に死体を納め、もう一方をおおいにする。死体の側には武器その他の所有品を副葬する。これを小島に運び、台上に安置する。数日ないし数週間後親族は島の近くに行き、「おい」と呼んで本当に死んでいるかを確かめる(p.625)。

 死体を島に運んだ後、「数日ないし数週間後親族は島の近くに行き、「おい」と呼んで本当に死んでいるかを確かめる」というのも、全く同じことをしている(cf.「29.「葬宴と死の確認」」


【9】殯

 事例12.タサウ族(マレー半島)。
 誰かが死ぬと遠い森に運び、特に建てた小屋の中に寝かせ、七日間毎日そこに出かけて子供や最近親が見守るが、七日過ぎると、消えうせるものと考えてもう見守りに行かない(p.620)。

 タサウ族の場合、骨化した後の処理は含まれないが、喪屋を建てそこに親族が通うという形式は、身近に感じることができる。


【10】祖先崇拝

 事例13.ベレプ諸島(ニューカレドニア北)。
 浅い墓穴に頭を上にして坐位で埋葬する。頭だけ地上に出しておくこともある。後で頭蓋を取るためである。墓掘り人は穢であるとして、厳重に隔離される。死後一年すると、死体の肉が完全に腐り、頭蓋を取り去って住居近くの各家族墓地の地上に並べる。彼らは祖先の功徳を信じ、墓地である聖域は、犯すべからざる財産で、他人の聖域を犯すことはない。病人を治そうとすれば、まず家族の一人が甘藷の葉を携えて聖域に行き、これを頭蓋に供えて成功を祈る。豊作を願う時もヤム芋の取り入れ前に不作の心配のある時にも、頭蓋に祈る(p.231)。

 墓地が聖域であり、祖先に祈る。琉球弧も、もとは頭蓋に対して祈っていたのかもしれない。祖先崇拝が、埋葬文化において発達するという例。


【11】死者儀礼としての仮面

 事例14.ビナ族(ニューギニア)
 霊魂は、睡眠中や病気の時には外に出る。霊魂の長期の不在が病気の原因。肉体が死ぬとあの世へ行く。あの世は太陽の沈む西方にある。他界から霊魂は帰来しない。あの世は現世と似ているが現世より美しい。この世と同じ生活を送る。人間の中にすむ悪霊もある。悪霊は死の直後に恐れられて、2、3ヶ月、付近を彷徨う。服喪の習俗は、悪霊を恐れ、宥めることにある。悪霊はあの世に行かず叢林に住むらしい。悪霊は特に近親者が恐れ、悪霊を現す仮面舞踏が老人によって行われる(p.288)。

 事例15.プル島
 「死者の踊り」を行う。近死の数名のために、その数だけの役者によって行われる。祭場に囲いをし、スクリーンを設けて太鼓を置き、近親を呼び入れる。役者の装束は、ひそかに森の中で整える。女や未成年者は見てはならない。準備が終えると、人々が集まり、男は前列、女は後列に座る。仮面をつけた役者は、おのおの代表する男女の死者のしぐさや声を真似、ふつう二人ずつ踊るが、真に迫って深い興奮を巻き起こすため、時には喜劇風にこの昂奮を解きほぐす。太鼓の音が劇のはねたのを知らせると、大葬宴が催されるが、その際、死者の家族は、食事の特別の部分を役者に呈する(p.313)。

 仮面仮装の舞踏が、農耕祭儀ではなく、死者儀礼のなかで現れる。プル島では、仮面はまさに死者を演じるのであり、仮面仮装の儀礼の出所をよく示しているのではないだろうか。これは他界の発生が来訪神を生んだというぼくたちの仮説の傍証になるものだ。


【12】海上他界

 事例16.トレス海峡西部諸島
 死者の霊魂は、太陽の沈むはるか西方にる島に行く。この島は生者の舟は行ったことがない。この島はキブと呼ばれるが、「沈む太陽」を意味している。死体は妻の兄弟が世話をし、死体は数日間、台上に置く。数日後、棺台の上を売って叫び声をあげ死者の霊魂を追う。霊魂を追うと、妻の兄弟の主だった者が死者の頭を切断する。頭は赤く着色して、死者の親族に渡す。妻の兄弟は、全身を黒く塗り、頭を葉で包み、厳かな行列を行う(p.282)。

 事例17.サモア人
 死後、霊魂は島を東から西へ行く。島の西端の珊瑚礁にある穴から飛び込んで下界に行く(p.385)。

 事例18.マンガイア島(ハーヴェイ諸島)
 ハーヴェイ諸島のマンガイア島では、死者の霊魂は下界に行くとされているが、冬至と夏至の朝陽に面する島の二つの地点に集まり、朝陽が昇る瞬間に太陽の通る道に行くために出発し、夕方、沈む太陽に面して集合し、太陽が地平線に沈む瞬間に、死霊の一行は夕陽の黄金色の光跡を追い、きらめく海を越えて太陽とともにあの世へ下る、とされている (p.395)

 他界が地下から海上へ伸びていく経緯が示されている。マンガイアの例は、夕陽のつくるあの黄金の道を歩みたいと思うのは、昔からなのだと思わせて、心動かされる。


【13】骨を赤く塗る

 事例19.タミ族(ニューギニア)
 死体を家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。全村が墓の上に立てた小屋の周囲に集まって、飲食しながら宿営する。最後に慕情の小屋を倒して燃やす。死者の肉が腐り去ると、死者の骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗り、これを束にして、二、三年家の中に保存してから埋葬する。最後に埋葬すると、墓には厳重に木の垣を結び、植える。しかし、年が経って記憶が薄れると、墓には構わなくなる(p.324)。

 掘り出した骨を赤く塗る。これは琉球弧ソバージュでは、血を塗ったとしていて、より古形を思わせる(cf.「57.「滴血確骨と生の充足」」)。タミ族は仮面仮装儀礼でも接点を持っている。


【14】再生信仰

 事例20.トロブリアンド諸島
 死の翌朝、埋葬する。墓の上に小屋をつくり、近親者は三晩、そこで寝る。死者の兄弟たちは、死後、死者の家を破壊するふりをなし、親族が制止する。埋葬後、しばらくして死体を発掘して頭蓋を石灰入れとして死者の子供が使用する。死者はあの世の一生を終えると、母系氏族の誰かとして再生する(p.317)。

 明瞭な再生信仰の例。マリノフスキーのおかげ。「死者の兄弟たちは、死後、死者の家を破壊するふりをなし、親族が制止する」という儀礼が、家を捨てた記憶の名残りのように見えるのも興味深い。


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2014/10/27

琉球弧ソバージュの葬法の三角形

 ここで、琉球弧葬法の三角形を更新しておく。

 まず、想定としては、埋葬を行った最古層の種族を仮定する(1)。同時に、台上葬的な埋めない葬法を置くことができる(2)。これをぼくたちは言い習わしに従って風葬と呼ぼう。

 そして、初期農耕を行い地下他界を持つ種族による埋葬と頭蓋発掘(3)。同様に、風葬にも洗骨が加わる系列が生れる(4)。そしてこれだけではなく、珊瑚礁環境に適応した埋められない埋葬としての系列も生んだ(5)。


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2014/10/26

病気や死に悪霊が関与する南太平洋例

 念のために、南太平洋から、病気や死に悪霊が関与する例を拾ってみる。(cf.『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』棚瀬襄爾)。


事例1.クラマン族(ミンダナオ島)
 人間は一つの霊魂を持つ。生存中は身体のなかに住み、死ぬと天に行く。刑罰に価する時は地下に行く。病気は悪霊によるか、霊魂が身体から離脱するために生じるから、悪霊を宥めるか霊魂を連れ戻す治療をする。巫女が病気治療に当る。

事例2.スバヌン族(ミンダナオ島)
 人間には関節と息に一種の霊魂があるが、本来の霊魂は頭の頂の下にある。死は、悪霊が関節の霊魂を食うために起こるが、本来の霊魂は無くならず、死に際して身体を離れてどこかへ行く。供養すれば天へ行く。

事例3.アッチェ族(スマトラ島)
 回教徒だが、疫病は悪霊の所為と考え、この考えに基づいて治療をする。治療するのは巫。

事例4.ガレラ族、トベロ族(ハルマヘラ)
病気や死は悪霊の影響。

事例5.ウィンデシの原住民(ニューギニア)
 台上葬または埋葬。悪霊による死がある。死の翌日、島に葬る。1年以上経つと、死者の頭蓋を取る。

事例6.マリンド・アニム族(ニューギニア)
 病気の原因は、自然的原因(これは少ない)、呪術、悪霊

事例7.サモア人
 病気は悪霊が病人の身体のなかに入ることによって惹起される。悪霊の憑依。治療として祈祷を行う。死体は森に造った台上に晒し、腐らせてから骨を集めて埋葬。埋葬や海に流す例もある。

事例8.ポリネシア人(ハワイ諸島)
 霊魂の座は眼窩の中、涙腺に占めている。霊魂は睡眠中、身体を離れ、その見聞が夢である。病気は悪霊が病人の中に入ったためであるとし、司祭を呼び、呪文で悪霊を追い出す。死後は洞窟や洞穴に葬られる。家のなかに葬られることもある。その場合、家は捨てる。

 地図を見ると、台風の北上のようにニューギニアからフィリピンにかけて分布しているのが恐ろしい。


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2014/10/25

流動的で転位が可能な霊魂観念

 棚瀬襄爾によれば、マライシアにおいては流動的で転位が可能な霊魂観念が見られる(『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)。

 要約しているポイントを琉球弧ソバージュに引き寄せてみる。

・樹上葬、台上葬を行う種族では、死汁塗沫、弔葬儀礼としての食人習俗があり、霊質観念の原型を見せ、遊離霊的生命霊としては精霊児や再生信仰に見られるように原質的な生命霊の観念を持つ。

 琉球弧ソバージュの食人も、乾燥葬の系譜から来ていると考えられる。再生信仰の素地もそうだが、琉球弧においてそれを強化したのは、トロブリアンドと同じく、母系社会である。

・この系統から、特にインドネシアで霊質観念が発展する。

 ここで棚瀬が挙げているのはスマトラ島のバタク族だ。バタク族では、人間や動植物は霊魂を持つ。無生物でも、鉄や有用な道具には霊魂がある。最も重要なのは人間の霊魂。人間はひとつの霊魂を持ち、恐ろしい時や夢、病気の時に、一時肉体を去り、それが永久に去れば、人間は死ぬ。自分の霊魂を強め、養うことはバタク族の人生観の中心をなし、食人の習俗も、他人の霊魂を自己の中に取り入れるためだった。死霊と霊魂の関係は学者により解釈が異なるが、死霊は死者の霊魂であるとする。

 霊魂を盗んで人間を死なせるのは死霊である。バタク族の来世観念は現世の延長。来世では昼間は仕事を行わず、夜行う。死霊はなかば生者の味方だが、半ば敵で、人間の幸運を羨み、生前に行われていた慣習を改めたり、犯したりすることを嫌う。他界は地下で、死霊はまず、西方へ行き、ついで天にある神のところへ行く(p.560)。

 天の他界や悪霊の不在は異なるが、その他の点は、琉球弧ととてもよく似ている。

・地下信仰のある種族では、形像霊の信仰が発達し、遊離性も強くなり、供物にまで霊肉が区別され、対人儀礼も盛んになるが、はじめは死霊に対する恐怖も強く、死者と生者の連帯感も強化される。

・形像霊で、死者と生者の連帯感が強まると供養、副葬などの対人儀礼が発達するが、生命霊系統には対人儀礼が存在せず、そもそも他界観念は人格化思考に属するもので、生命霊系統では一時的なものの他、あまり発展しない。

 こうやってみると、琉球弧ソバージュの思考は、埋葬と乾燥葬の文化複合であることがよく分かる。

・生命霊系統と形像霊系統では、病因、死因の観念や治療法がまったく逆になる。

 生命霊系統では、呪術による病気と吸い出しによる治療。形像霊系統では、霊魂の離脱とその捕霊が治療ということだと思う。

 この点では、琉球弧ソバージュの治療法は、埋葬文化的である。

・身体に複数の霊魂を認める複霊観は身体的力ありとする生命霊系統の霊魂の凝集せるものらしい。

 棚瀬は、「身体全体に遍満する一種の生命霊が基礎をなして、その上に身体の重要な部分に凝集的に幾つかの霊魂が認められるようになったのだと解される(p.870)」とも書いている。膝抱き人(チンシダチャー)を見ると、膝は重要な位置だったのではないだろうか。

 棚瀬がマライシアと呼んでいるのは、「ニューギニアの除いた東南アジアの同一系統の文化地域」を指している。ぼくたちは、琉球弧における地下他界文化の同位相をニューギニアやメラネシアに、埋葬と乾燥葬の混合による地上の他界文化の同位相をマレーシア、インドネシア等に見出している。


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2014/10/24

『日本霊性論』

 気づいてみれば、霊力思考と霊魂思考について考えることは、「霊性」について考えることなのだった。

「聞こえないメッセージを聞きとろうとする構え」が祈りの基本的な姿勢だと僕は思います。合掌してセンサーの感度を高めている。

計測機器の精度では感知できない変化は機械ではなく人間が感知するしかない。

ちょっと機嫌が悪い、微熱があるとか、寝が足りないとか、その程度の愁訴でも、人間が周りに放射している波動には変化が生じる。(中略)環境の微細な変化に対応するセンサーの感度を上げて、感知できないはずのことが感知できるような心身を作り上げる。生き延びるために最も有効な能力だからです。

知らないことを知っている、心身のすべてを総動員して、自分たちの生き延びるチャンスを最大化しようとしている。それが生きる力だと僕は思います。

 「心」という概念が発明されたのは、紀元前五世紀くらい。『論語』の時代には心という語はまだなかった。安田登、曰く。「不惑」ではなく、「不或」のはず。人間四十歳の課題は、「自分がそこに囚われている固定観念を捨てよ」ということ。

 これなら、よく分かる。これを知っていたら、四十代の意味をもっと納得できていたかもしれない。

アモルファス(不定形的)な内部の感覚が分節されて、輪郭の鮮明な一個の感情として立ち上がってきて、それを名指したり、再現したり、他者の感情として想像したりできるようになたのはかなり最近の話、紀元前五世紀ぐらいのことだったのです。

(感情は-引用者)もっと曖昧で、どろどろと不定形で、身体感覚と混ざり合った生々しいものだったんじゃないでしょうか。

つまり、「感情」という概念はそれ自体が「心」とともに人間たちの語彙に登録されたものなわけです。感情というのは自存しているものではなく、それを表記する記号の出現と同時に分節化された。

非分節的な、未だ思念にも感情にも結晶化していない、記号的に表象できないけれど、確かに自分の中に息づいているものがある。記号の体系が掬い上げきれない不定形な、星雲状のかたまりがある。

「心」というのは、この非分節的な星雲状態の思念や感情を記号に繰り上げるときの「架橋」装置だったのではないかと僕は思います。

 ぼくの関心に引き寄せれば、「心」は、個体化された霊力という言い方になるだろうか。自然との関係のなかで個体化された霊力がトーテム原理。自己自身の関係のなかで個体化された霊力が心。

 読み進むうち、琉球弧ソバージュの霊性とは何だろうか、という問いが浮かんできた。旺盛な、円環する生命観。


『日本霊性論』

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2014/10/23

「地上の他界と首狩の分布」

 『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』において、棚瀬襄爾は地上の他界に伴って現れる首狩りの分布について考察している。

 首狩は農耕社会に現れ、異族の首級であることに意味を持っている。アンダマン、セマン、アエタ族やオーストラリアの自然依存の採集民・狩猟民では行われない。ポリネシアの大部分にも欠如している。インドネシア、メラネシアの農耕を行っている種族で行われているが、しかし、メラネシアのバンクス諸島、ニューヘブリデス諸島では行われていない。農耕民族が必ずしも首狩を行うわけではない。

 首狩の成立には、同族の頭蓋崇拝と首狩を切り離して理解することはできない。

 として、棚瀬が加えるのは次のことだ。

 首狩によって獲得せられた首級は、同族頭蓋がそうであったように、宗教的に力を持つものである。否、複葬の廃止によって宗教的対象を失ったものが、その欠を補わんとして首狩の習俗を起したのである。かくして得られた首級は農耕の豊穣ももたらし、新築家屋を強化することにも、あるいは悪疫の駆除にも役立つとされたであろう(p.750)。

 棚瀬は自問自答している。

 なぜ、同族頭蓋が異族に代替されるようになったのか。

 地下他界を持つ文化に、複葬を行わない乾燥葬の文化が混入し、「頭蓋保存を試みる文化が本来持っていた地下他界の観念をほとんど失ってしま」ったためだ。

 同族頭蓋はそのまま宗教的対象だったが、異族の頭蓋はなぜ、供犠の観を呈するようになったのか。

 神観念の発達のために、頭蓋が人と神の中間的存在となって、嘆願の儀礼または対人儀礼における供物になった。ここには、死汁の塗布や食人によって力を得ようとした乾燥葬の観念の参加が重要な要素になる。

 「複葬の廃止によって宗教的対象を失ったものが、その欠を補わんとして首狩の習俗を起した」というのは興味深い視点だ。複葬の廃止によって頭蓋保存をしなくなって種族が、その欠如を補おうとしたということだ。

 しかし、首狩はしばしば喪明けに行われるから、頭蓋保存と関連があるのは確かに思える。また、頭蓋保存は家族儀礼に過ぎないが、首狩は共同儀礼だから、両者は異質なものだ。ここには家族儀礼であったものを共同儀礼化せざるをえない契機があったはずである。両文化を担った種族の混合による共同体が成立し、個々の家族で頭蓋保存を行うことに矛盾を生じた結果、共同儀礼として疎外するより他になかった、かつ、それを共同体外に求めざるを得なかった、というような。

 このテーマに関心を持つのは、琉球弧の隣りの台湾の高砂族で行われており、それだけでなく、琉球弧も埋葬と乾燥葬の種族がある段階で共存したと考えられているからだ。琉球弧においてもかつて首狩が行われた可能性を否定することはできない。

 ただ、首狩種族で現れる乾燥葬の、死体展示や死汁除去という習俗は、琉球弧にその痕跡は認められなく、もっと原始的な死体放置に近い形で行われていたとすれば、首狩は無かったのかもしれない。地下他界は薄れて行ったものの、洗骨や来訪神の儀礼は残ってもいるからだ。複葬の廃止によって宗教的な対象を失うことはなかった。そう見なすのが妥当かもしれない。


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2014/10/22

「地上の他界」とは何か

 「地上の他界」について、棚瀬襄爾は以下のように整理している(『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)。

 恒久的な死霊の住所としての地上の他界。

 どこにでもいる(バイニング族)、ここかしこの周囲の空中(ミミカ地方)、森や岩のなか(アルフール族)、死霊の入る岩を崇拝(ザンバレス・ネグリト)は、原始的な他界観念の形態。

 オーストラリアにおける再生までの死霊の一時的な住所も、地上の他界の一類型として捉える。

 他界らしい他界として地上の他界が広い分布を示すのはマレーシア。もっとも多いのは山の他界。発生的には山の神秘感に基づくもののように思える(p.737)。際立った山がないときには漠然と周囲の山が他界とされる。叢林や河畔が他界になるのも同様の理由。火山も同様。火山と地下界に明瞭な関係は見出せない。

 山の他界と天の他界は結びつかない。

 もうひとつの類型は島の他界。マレーシア、メラネシア、ポリネシアに広く見られる。島の他界で重要なのは父祖の地とされていること。父祖出自伝説や民族移動によるものの他は、「幽玄な沖の小島」であることが多い(p.741)。

 これらの他界観念は、乾燥葬ないしはその関連の葬法を持つ。

 単なる漠然とした死者の住所やトーテム・センターから、地上に一定の他界が成立するためには、埋葬文化の参加が必要だった。「地上の山や島に他界を認める多くの民族では、オーストラリア的樹上葬に伴う儀礼的要素が失われ、払浄も行われ、副葬品も与えられるのだと思われる(p.744)。

 地上の他界の場合は、埋葬と樹上葬や台上葬が同時に出現することが多い。ただ、樹上葬や台上葬の場合、再生信仰が現れていいはずだが、資料からは確認できない。オーストラリアの樹上葬に典型的に見出されるようなトーテム・センターではなく、「幽玄な」山や島が他界とされたのは、乾燥葬と埋葬の接触によるものだというのが、棚瀬の考えだ。

 地上の他界は、乾燥葬を行ってきた種族にしてみれば、地上の地下化であり、埋葬を行ってきた種族にしてみれば、地下の地上化に当る。両者の交錯する場所として、「幽玄な」、「神秘的な」山や島は選ばれる。そこは地下的な地上というような、薄暗い、怪しい場所になるはずだ。

 一方、「どこにでもいる(バイニング族)、ここかしこの周囲の空中(ミミカ地方)」というのは、他界が時間性としてしか疎外されておらず、他界は存在していないと言っても同じことを意味している。

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2014/10/21

『吉本隆明の経済学』

 大好きなアーティストの作品は、自分なりに編集してオリジナルのアルバムを作りたくなる。一曲目にはこれを配して、ラストはあれしかないな。入れるのは、これとそれと、いややっぱりあれがいいかな、などと悩むプロセスが愉しい。で、聞いてみると、正規のアルバムで、アーティストがここがいいと配置したものとはまた別の響きがやってくる。聞きなれたはずの曲が新たな相貌で立ち現われて、作品との新鮮な邂逅を果たすことができる。誰かが編集して新たにリリースされたアルバムも、その新しい響きが楽しみだ。そこに未発表の音源や気の利いた解説が入っていたらたまらない。

 『吉本隆明の経済学』は、ぼくにとってそういう新たに編集されたアルバムのようだった。収められた文章のうち、「言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移」と「農村の終焉-〈高度〉資本主義の課題」は読んだことがなかったので、未発表音源付きみたいなものだ。もっと言えば、途中までは吉本隆明と中沢新一編集、そして吉本没後に、中沢単独の編集の手と解説が加わった、吉本隆明のコンピレーション・アルバムだ。この編集の成り立ちは、どこか、ジョン・レノンの未発表音源をもとに残された三人がビートルズの新曲を編集したのを思い出させる。

 刺激になったのは、中沢が引いている人類学者サーリンズの言葉。

 この点で、モースは、『資本論』第一章のマルクスに、はるかにずっと似てくるようである。こういったからといって、礼を失したことにはならないとおもうが、ずっとアニミズム的なのである。一クォーターの小麦が、Xポンドの鉄と交換できる。これほど明白にちがっている、これら二つの物の間で、等しいものは何であるのか。まさしく、マルクスにとって、問題は、これら二つの物のなかで、両者を一致させるものは何かにあったわけで、交換する二人の当事者について、ひとしいものが何であるかが、問題であるわけでもなかった。同様に、モースにとっても、「与えられた物のなかに、受取人に返報させる力があるのか」が問題だったのである。そして、それに本具的な固有性から、という同じような答えが、ひきだされる。マルクスにあっては、それは、社会的必要労働時間であったとすれば、モースにあっては、ハウにほかならなかった。(マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』)

 交換されるモノは、霊魂のように個別的に立ち現われるが、そこにはそれだけではなく、ハウのような流動的な霊力が潜んでいる。サーリンズが、マルクスの資本論をアニミズム的というのは、そういうことだと思う。

 中沢は書いている。資本主義が進展すると、

 ところが意識化が進むようになると、無意識の領域から意識領域にもたらされる情報が遮断されえるようになる。そうするとしだいに喩に関与する潜在空間の影響が小さくなる。すると喩の構造に変化が生じてくる。項目同士の喩的なつながりが失われて、孤立するようになり、孤立した項目のそれぞれは抽象的な連続体の上に置かれることによって、見かけの連続性を回復したようになる。この過程を通して、生起の運動をはらんだ「ハウ」は、抽象的な「社会的必要労働時間」に変化していくのである。

 ハウの、霊力が後退し霊魂が前面化すると、それは軽量可能なものとして固定化されてしまう。

 ところが経済的交換を生み出した詩的構造は、資本主義によって本質的な変化を被ることになった。モースの「ハウ」がマルクスの「社会的必要労働時間」に変化するとき、価値形成をおこなう詩的構造の内部では、贈与価値を交換価値につくりかえ多様体を均質空間につくりかえてしまう、本質的な変化が信仰していたのである。脳内のニューロン・ネットワークの生物学的な基本組成には変化は起こっていない。つまり詩的構造そのものには変化は起きないが、そこから出てくる情報を再コード化するプログラムに根本的な変化が生じている。その結果、脳=心の本質をなす詩的構造そのものは抑圧され、表立っての活動ができなくなる。

 霊力思考は抑圧され、霊魂思考が支配的になる。

 本書を吉本隆明さんの御霊に捧げたいと思う。吉本さんはいまも、人類が「霊」などと言ってきたものが、ほんとうのところは何であるのかを探求されていることであろう。その探求の精神は、私を含めて多くの人々に受け継がれている。だからそれは死なないのだ。その死ぬことのないものをかりに御霊と呼んで、本書をそれに向かって捧げようと思う。

 場末の小さな受け継ぎ手の関心に引き寄せれば、「人類が「霊」などと言ってきたもの」は、さいしょ、霊力思考と霊魂思考として展開された。それは、言語の自己表出と指示表出の原型であり、文字以前の自己表出と指示表出と言ってもいい、人類初期の思考の分節化だった。

 この本が、バブル崩壊で見えにくくなった、吉本の贈与論と人工都市論をふたたび広場に持ち込んだ意義は大きいと思う。中沢は、本書は到達ではなく始まりを示すものと位置づけているが、それに倣って、ぼくが本書に加えたい吉本の文章を挙げておきたい。

現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖と、その増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間との関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想のようにあらわれる。(吉本隆明『カール・マルクス』1966年)


『吉本隆明の経済学』

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2014/10/20

サマール島の洞穴葬

 フィリピン、ボルネオ、マレー半島、スマトラ、ジャワ、セレベス以東の他界と葬法について、棚瀬襄爾は以下のように整理している(『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)。


 埋葬:坐位・屈位、頭蓋保存、果樹や財物の破却、病因・死因を霊魂の離脱と治療法としての捕霊、財物破却、死穢観念および払浄式。

 台上葬:台上または死体乾燥の工夫、伸展位、全骨保存

 地上の他界観念(山、島)は、この両者の混合によるもの。

 地上の他界は他界観念としては極めて未発達なものである。これを父祖の島といい、あるいは周囲の山と言い、あるいは死者の霊魂が山中の叢林に住むというがごときは他界と言えざる程のものかもしれない。  他界観念の未発達はマライシア人の古い文化の性格を示しているのであろう。(中略)オーストラリアでも台上葬民族には他界観念がほとんど発達していないところを見ると、乾燥葬を古い伝統としたらしいマライシア人にも本来他界観念は未発達であったであろう(p.683)。

 これは重要な指摘だと思える。琉球弧の風葬に視点を提供してくれるからだ。琉球弧にも、他界観念を持たない乾燥葬の種族が北上した。彼らは地下他界を持つ種族との混淆によって、島や叢林をあいまいな他界として観念したことがあっただろう。そして、彼らが風葬を行った。ただし、ここにもひとつの態度があった。

 ミンダナオ島南部、ダヴァオ湾のサマール島人は、地下他界(p.551)を信仰しているが、彼らは丸木舟を柩として使う。これを洞穴に持って行って別に葬儀もせず、黙って納める。墓は共同の所にすることが多く、サマール島西岸の住民は、洞穴の多いマリパーノ島(本文はMalipao-引用者注)をもっぱら選ぶ(p.599)。

 棚瀬は、サマール島において、地下他界信仰を持つのに、埋葬より洞穴葬が多く現れることについて、地理的条件によるものだとして書いている。

 洞穴葬はより多く乾燥葬の系統に属するものと思うけれども、また便宜的な葬法であることも免れず、環境に対する便宜から十分発生し得たことを認めねばならぬと考える(p.686)。

 これは琉球弧にも当てはまるものだ。やはり、風葬には埋められない埋葬という側面があったのだと考えられる。洞穴葬をするパリパーノ島を地図で見ても、琉球弧で言うところの奥武(オー)島と、まさに同じ地先の位置にある。



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2014/10/19

地下から西方へ

 棚瀬襄爾は『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』において、西方の他界観念は、民族移動によるものだけではなく、もう一つの理由が考えられるとしている。

他界が西方に固定せられる原因をなしたものは太陽に関心が深かった民族と、地下界の信仰を持った民族の混合ではなかったと考えるのである(p.796)。

 たとえば、ハーヴェイ諸島のマンガイア島では、死者の霊魂は下界に行くとされているが、冬至と夏至の朝陽に面する島の二つの地点に集まり、朝陽が昇る瞬間に太陽の通る道に行くために出発し、夕方、沈む太陽に面して集合し、太陽が地平線に沈む瞬間に、死霊の一行は夕陽の黄金色の光跡を追い、きらめく海を越えて太陽とともにあの世へ下る、とされている(p.396)。

 ここから棚瀬は、太陽と西方は無関係ではないとする。ポリネシアにおいては西方への思考は明確ではないが、地下界を信じる先住民において、地下界への落日の場所、死霊がその後を追う夕陽が意識されているのはポリネシアばかりではなく、ニューギニア等にも見られることなどから、地下界を持った先住民に、太陽に関心を寄せる種族が交錯したとき、地下界の入口は夕日の沈むところとなって、他界そのものが西方に移行したのではないかと考えている(p.799)。

 この移行は、琉球弧についても言えるものだと思う。

 けれども落日に関係があるにせよ、なにゆえ地下界が西方に移行せじめられるのであるかは更に一考を要する。地下界という現世と垂直関係にある世界が、西方という現世と水平的関係の世界に移行するためには相当の理由がなければならぬであろう。筆者はこの理由は心理学的には太陽に関心を有するトテミズム文化が父権的な男性文化であって、ややともすれば彼らにとって陰鬱な連想を伴いやすい地下界に耐えられなかった点に求めうるのではないかと推測する(p.799)。

 という心理的な理由に求め、また、西方他界が、母権とトーテミズムを持つ種族に起源を持つと指摘している。

 もちろん、地下他界が西方他界になるためには、異種族の到来がなければならないと思える。しかし、地下他界は西方他界とは連結できると思える。それは、地下は垂直、西方は水平と視線が異なるのではなく、地下にしても洞窟や叢林の奥というように、水平視線は加担しているからである。ぼくの考えでは、どちらも人間の身体の高さから下をみる垂直視線と人間の目の高さの水平視線から構成される点においては連続的なのだ。そして、地下他界が、光と闇を二項として持っている点も、太陽の沈む場所としての西方と連続的である。

 こう考えるということは、琉球弧ソバージュの海上他界も、最初は西方他界から始まったのではないかと想定していることになる。東方海上が他界となるのは、もっと後のことだ。こうしてニライ・カナイは地下から海上へと接ぎ木されていった。


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2014/10/18

ベレプ諸島の葬法と他界観念

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。


 ベレプ諸島(ニューカレドニア島の北)。

 ◇葬法
 聖域に掘った浅い墓穴に頭を上にして坐位で埋葬する。頭だけ地上に出しておくこともある。後で頭蓋を取るためである。悲嘆の印に死者の親族は、自分の耳を引き裂き、腕や胸に大火傷をつける。死者の家、網などの道具を償却し、死者の畑を荒らし、ココ椰子を斧で切り倒す。動機は説明されていない。

 墓掘り人は穢であるとして、厳重に隔離される。役目を果たすと、4~5日間、厳重な断食を守り、妻と離れて、死体の近くに留まらなければならない。手で食べ物に触れてもいけない。彼らは尊敬される。

 死後一年すると、死体の肉が完全に腐り、頭蓋を取り去って住居近くの各家族墓地の地上に並べる。祖先を崇拝する一種の墓地。

ベレプ島の真の宗教は祖先崇拝で、彼らは祖先の功徳を信じ、この聖域は彼らの犯すべからざる財産であり、他人の聖域を犯すことはない。彼らは病者を治そうとすれば、まず家族の1人が甘藷の葉を携えて聖域に行き、これを頭蓋に供えて、その力を得、次いで同一のものを父、祖父の木に供えて力を得て、息をふきかけて病者を治そうとする。漁に成功せんとすれば、ある植物を焙って、これを頭蓋に供えて成功を祈る。甘藷の豊作を願う時にも、ヤム芋の取り入れ前に不作の心配のある時にも、頭蓋に祈るのである。絶えず祈るために彼らは祈祷柱を発明し、これを墓または頭蓋置場に立て、これをもって祈祷に代える習俗も持っている(p.231)。

 墓掘り人に対する穢れの観念が琉球弧に似ている。ベレプ島でも家を捨てている。この例を見ると、捨てるのは家だけでなく、畑も、死者の持ち物はそうされたということかもしれない。

 墓地にあたる聖域は、洞窟や御嶽に対するのと似た態度を思わせる。

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2014/10/17

スルカ族の葬法と他界観念

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。


 スルカ族(ニューブリテン島)。

 ◇葬法

 死者の作物を荒廃させ、若い果樹を切り倒す。成熟した果物は遺族に分配する。豚を殺し、その肉も同様に分配する。もし富者であれば、その妻は殺されることがある。死の翌日に埋葬する。家の中に墓穴を掘り、死体を坐位にして埋める。死体の上部を地上に出す。親族は男女別々に若干期間、死体の傍で寝る。

 のち、しばらくして死者の霊魂を追い払う。その時期は死者が聞いてはいけないので、内緒話で決める。追い払いの前晩、たくさんのココ椰子の葉を集める。翌朝、ある鳥の鳴き声を合図に、寝床から起きて喚声をあげる。壁を打ち、柱をゆさぶり、枯れたココ椰子の葉に火をつけ、最後に道に飛び出す。この時、死霊は家を離れる。

 死体の肉が完全に腐ると、骨を墓から取りだす。その後、葬宴を催す(p.205)。

 琉球弧ソバージュでは、酒井卯作によれば、追い払うのは死霊でなく悪霊(ムン)だった。魔術という人との関連はなく、悪霊だと考えられている。しかし、追い払いの激しさは、とても似ていると思える。(cf.「30.「モノ追いにみる死霊」

 豚を遺族に分配するのは、もともとは死体の肉だったかもしれない。


 ◇他界観念
 流星は高く上がった死霊が海に水浴にくるのだとし、星の尾は死霊を追う時に焼いたココ椰子の葉であるとする。海の燐光は水に戯れる死霊であるともいう。

 スルカ族は、星と死の意味づけが濃い。ただ、地下界の表象はある(p.183)。地下界観念のある可能性が高い(p.254)。「他界は地下のみであり、死霊は夜、きわめて恐れられる」という報告もある(p.254)。これは例外的で、北部メラネシアは地上他界の観念を持つ。

 社会は母系的(p.267)。

 地下界信仰を持つ南部メラネシアの民族は、母系社会で農耕民族。母系的な農耕民によって地下界信仰が抱かれた(p.771)。

 スルカ族が該当するか、わからないが、ニューブリテン島は、トゥブアン、ドゥクドゥクの儀礼が行われている地域でもある。


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2014/10/16

ヤビム族の葬法と他界観念

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。


 ヤビム族(ニューギニア)。

 ◇葬法
 老衰死のほかは自然死はなく、魔術によるものと考える。魔術師の卜占し、復讐をする。 

 死者は家の近くの浅い墓穴に埋葬される。死者が家長または妻であるときは、家が立派でも棄てる。墓上には仮小屋をつくり、死者の家族は6週間ないしはそれ以上そこに住む。

 残された夫は人から見えぬ片隅に一人で住んで、身体を洗わず外出もしない。ふたたび外出できるようになると、喪帽をかぶり、寡婦は大きな網をかぶる。服喪期間は数ヶ月から数年までさまざま。

 愛児や重要人物の場合は、埋めずに包んで腐るまで家のなかに置き、頭蓋等に油を塗り赤く染めて若干期間、保存することもある。奥地の村では、寡婦は夫の死に随伴するために殺されることがある(p.326)。

 寡婦がかぶる大きな網は、琉球弧ソバージュにおいて、死体に被せる網を思わせる。死霊からのシールドの意味をなしているのかもしれない。子の場合に、頭蓋骨を赤く塗るのは、やはりこの行為が再生信仰を意味しているのだと思う。


 ◇他界観念
 死霊は、あの世では影のように、この世の延長の生活を送る。他界の位置はシアシ諸島のひとつ。死者の霊魂は、動物に転生するという観念もある。水鏡にうつる姿としての霊魂はシアシ島に行き、陸に映る影としての霊魂は転生する。

 死霊は帰来することがあるので、死後数日は特に恐れられ、死者の名前も呼ばない。死者に食べ物を供するが、死者はそれらの霊魂だけを食べるので、実際には生者が食べる。死霊を忌み恐れる気持ちが強く、特に殺された人の霊魂は恐れられ、危険な霊魂は太鼓を打ち、喚声をあげて駆逐し、模型の舟にタロ芋と煙草をのせて、あの世の島に出してやる(P.290)。

 アボリジニの沈黙の掟もそうだが、死者の名前を呼ばないのは、死霊との関係を断絶させる仕草だと言える。

 

 

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2014/10/15

タミ族の葬法と他界観念

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。

 タミ族(ニューギニア)。

 ◇葬法
 死体を家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。死体から出てくる蛆が出なくなると、短い霊魂があの世に行ったと考える。供物は死者があの世に持っていくのであるとともにあの世の人も喜ばせる。

 死霊は自分を殺した魔術師を恨むが、生者は魔術師と仲良くしないと生活できないので、魔術師に対して大声で怒っていることを語って、死霊を慰める。

 死者に対する哀哭(あいこく)と服喪は全村が参加する。女は死の舞踏を踊り、男は埋葬の手伝いをする。死者があると、親族の死霊も村に集まると考えるから、喪者を一人死霊に晒しておくことはなく、特に夜は全村が墓の上に立てた小屋の周囲に集まって、飲食しながら宿営する。8日間くらい続く。

 服喪期間は2、3年に及ぶ。喪明けには死者のために夜通し、踊りをなす。豚とタロ芋汁を多量に用意し、村人をもてなす。食料次第で、8~10日間、続けられる。

 最後に慕情の小屋を倒して燃やす。死者の肉が腐り去ると、死者の骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗り、これを束にして、二、三年家の中に保存してから埋葬する。最後に埋葬すると、墓には厳重に木の垣を結び、植える。しかし、年が経って記憶が薄れると、墓には構わなくなる(p.324)。

 考えてみれば、死体から蛆が出るのだから、蛆を転生の姿と考えるのは自然なことだ。蛆が出終わるのを確認しているのだから、埋葬までは時間がある。その期間は殯だったのかもしれない。墓の上の小屋を、ぼくたちは家を死者のためにした名残りだと考えている。また、死者の骨を岱赭(たいしゃ)で赤く塗るのは、もとは血で行っていたものであり、死者の再生への信仰が伏流していると見なしている。

 ◇他界観念
 人間は短い霊魂と長い霊魂を持っている。長い霊魂は影と同一視され、睡眠中、身体を離れ、覚める時に帰ってくる。それがある場所は胃。人が死ぬと、長い霊魂は死体を離れ、遠方の友人に死を知らせる。その後、ニューブリテン島西岸のマリゲプを経て北岸の村に行く。

 短い霊魂は、死後のみ身体を離れ、しばらく死体の付近をさまよってから、ランボアムという地下界に行く。ランボアムは現世より美しくより完全だが、現世と酷似している。ランボアムで死んだ霊魂は、蟻や蛆になる。森の精霊になって、人間に悪戯するという先住民もいる。時に蛇になって、夕方や夜、屋根裏などに現れる。

 発作を伴う病気は、近親の死霊が病人の長い霊魂を取っていったために起こると考え、トリトン貝に息を吹きかけて呼ぶ。病気は魔術によるという観念もある。

 仮面舞踏をする秘密結社に関連する神もいるが、重要な意義は認めていない。タミ族が関心を示すのは、死者の霊魂であり、祖先崇拝をする。祖先はそんなに古くに遡らず、記憶の範囲に過ぎない(p.289)。

 ここは重要な点で、始祖、祖先、転生信仰との関連が語られているようにみえる。仮面儀礼の神を重視しないというのは、人が植物、動物と等しいし、どの存在にもなるという精霊の世界から遠ざかっていることを示している。もう、祖先とのつながりでしか想起されていない。しかし、転生信仰もあるので、人間のみの系列を重視するまでにも至っていない。そこで、記憶の範囲のみが重視されるのだ。

 この流れでいえば、琉球弧ソバージュは始祖重視、再生信仰、祖先崇拝という段階を持ったかもしれない。


 

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2014/10/14

「地下の他界に伴う霊魂観念」

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。

 地下信仰を持つ先住民では、死者に対する関心が著しく高まる。埋葬後の複葬、洗骨、頭蓋保存。霊魂の遊離性と人間形態的な霊魂観。対人儀礼も発達し、死霊は見えざる社会構成員ともなる。

 南部メラネシアの地下信仰を持つ先住民。頭蓋を供養して、病気治癒、豊作、豊漁を祈ると同時に、死霊の村送り、追い払いの儀礼を行う。愛着と恐怖。定住生活との関係。

 死霊の遊離性の観念に伴って、生者もまた肉体と霊魂よりなり、霊魂が中心であるという観念が成立する。北部メラネシアに顕著。食物の供養や副葬は南北メラネシアを通じて見られる。

 ニューギニア。病気や死の原因が、霊魂の離脱によるものと見なす。


 琉球弧ソバージュのひとつのプロトタイプとして、地下他界があったと見なしてよいのではないかと思える。埋葬、複葬、洗骨、頭蓋崇拝、祖先崇拝、死霊への愛着と恐怖、霊魂の離脱による病気と死の複合観念である。

 動植物への転生から人間への再生信仰へと至る場合と、トーテミズム原理の崩壊により祖先崇拝へと向かう場合は別になるはずである。ベレプ諸島は、祖先崇拝で、あの世の生活を観念しているが、転生、再生信仰はない。ニューカレドニア島南々東部の先住民の祖先崇拝では、死者が白人に化現するという信仰もある。これは西洋人との接触以降の信仰だろうが、両者が同居して表れる場合もあるということだ。

 しかし、原理的にいえば再生信仰が旺盛なら死者に対する儀礼は発達せず、再生信仰がなければ死者に対する儀礼が発達するはずである。琉球弧ソバージュの場合は、祖先崇拝があり、再生信仰が強まり弱まる段階があって、ふたたび祖先崇拝が強くなったのではないだろうか。祖先崇拝の方が長いと考えることになる。

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2014/10/13

「樹上葬民族の霊魂観念」

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。

 樹上葬、台上葬を行うオーストラリア先住民の霊魂観念。彼らは、樹上の枝間に台を作って安置し、一定期間が過ぎて肉が腐り去ると、骨を処理し複葬を行う。

 病因は、死霊などによるものではなく、何か力あるものが身体に入ったことが原因であると考えられるので、物体の形をしている。

 樹上葬に伴う習俗は、死脂や死体から浸み出す死汁を遺族が自分の身体に塗ること。飲みさえする場合もある。これは死穢観念の積極的な欠如も示す。

 死霊は死体が樹上にあるあいだは樹の辺りをさまよい、服喪を監視するとも言われるので、沈黙の掟も守られるが、骨葬が終わると死霊は父祖の地へ去り、服喪も終わる。

 これらの先住民は、男女の性交が出産の原因とは考えず、精霊児の概念を持つ。トロブリアンドの霊魂観念はメラネシア的なものとオーストラリア的なものがやや複合しており、バロマは形像的だが、生命原質的である。

 生命霊の観念が強い時には、父祖はあるがごとくには祭られない。供養、祈祷、恵みを受けるという対人儀礼や信仰は発展しない。

 再生信仰を持つ場合においては、現存の人々は誰かの生れ代りである訳であるから、世代を通じての集団の一体感が強まるが、また他面ではどこまで行っても生れ代りなのであるから近死者が崇拝される形は取らず、結局始祖にさかのぼらざるをえない。この始祖が生命の原質を撒き、それが再生を重ねて現在に至ると見る訳である(p.852)。

 このような霊魂観念の場合は、他界信仰は一時的になるもののほか発達しない(p.854)。


 琉球弧ソバージュからみると、マブイ(霊魂)を本体とみる見方と再生信仰をとても近しく感じる。そして、再生信仰の根拠は、「始祖が生命の原質を撒き、それが再生を重ねて現在に至る」というよりは、母系社会の一体感であると思える。その点は、トロブリアンドと同じなのではないだろうか。しかし、母系社会の崩れ、性交による妊娠の認識の獲得から、再生信仰も薄れていった。死者に対する儀礼はそこから強化されることになる。

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2014/10/12

葬法におけるメラネシア、ニューギニアとの類似点

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から、改めて琉球弧の葬法と似ているものを取りだしてみる。


 1.マヌス族(アドミラルティ諸島)。死体が完全に腐敗して骨だけになるまで埋葬しないで、家のなかにとどめておく。骨だけになると、海水で洗って解体し、分配する(p.200)。

 2.スルカ族(ニューブリテン島)。死の翌日に埋葬する。家の中に墓穴を掘り、死体を坐位にして埋める。死体の上部を地上に出す。親族は男女別々に若干期間、死体の傍で寝る。のち、しばらくして死者の霊魂を追い払う。死体の肉が完全に腐ると、骨を墓から取りだす。その後、葬宴を催す(p.205)。

 3.ニューブリテン島。死の第一夜は、二人の者が死者の両側に一人ずつ寝る。これは彼らの霊魂が、あの世へ供をするためであるという。死体は埋葬される(p.206)。

 4.ソロモン諸島。死んだ親族や知友の頭蓋を各村の霊所に保存し、そこへ他所者が入るのを非常に嫌がる。墓は港近くの岬にあって、木や草で覆われている。この岬の上にたくさんの小廟があって頭蓋が納められている(p.216)。

 5.トレス諸島。今では埋葬が一般的だが、往時には家の近くに台をつくってその上に死体を横たえ、腐敗せしめた。10日目に頭蓋を身体から話した(p.226)。

 6.ロイヤルティ諸島のリフ。死体は埋葬する。土産筵で包んで、接近しがたい険しい岩穴に納めるのみのこともある。珊瑚礁はどこでもきわめて浅いから墓穴を掘ることができるのは砂浜のみである(p.231)。

 7.ベレプ諸島(ニューカレドニア島の北)。浅い墓穴に頭を上にして坐位で埋葬する。頭だけ地上に出しておくこともある。後で頭蓋を取るためである。墓掘り人は穢であるとして、厳重に隔離される。死後一年すると、死体の肉が完全に腐り、頭蓋を取り去って住居近くの各家族墓地の地上に並べる。祖先崇拝(p.232)。

 8.ニューカレドニア島南々東部の島人。死体は埋葬するが首だけを出しておく。10日経つと、首を取り、頭蓋を保存する。病気や災害の時には頭蓋に食物を手向ける。彼らの神々は彼らの祖先であって、その遺品を保存し、偶像崇拝する。死者は白人に化現するという信仰もある(p.233)。

 9.トレス海峡西部諸島。死体は台上に安置し、筵ぶきの屋根をつくる。数日すると、死者の霊魂を追う。死者の頭を切断し、赤く着色して飾り籠に入れる(p.312)。

 10.トロブリアンド島人(ニューギニア東方海上)。死の翌朝、埋葬する。墓の上に小屋をつくり、近親者は三晩、そこで寝る。死者の兄弟たちは、死後、死者の家を破壊するふりをなし、親族が制止する。埋葬後、しばらくして死体を発掘して頭蓋を石灰入れとして死者の子供が使用する(p.316)。

 11.マーシャルベネット島人。埋葬する。あとで掘り出す。女の骨は夫、母、兄弟、姉妹、姉妹の子供が発掘し、全員が洗骨する。頭蓋は寡婦の家に保存される(p.316)。

 12.ダントルカストー北部のメラネシア人。夫が死ぬと、寡婦が遺骸とともに寝る。死体は埋葬する(p.317)。

 13.ツベツベ島。埋葬に関係した親族は、五、六日間、親族に食事を供せられて、日夜墓にとどまる。肉が腐ると、葬宴を行い、墓から頭蓋を取りだして、家のなかに置く(p.318)。

 14.タミ族(ニューギニア)。死体を家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。全村が墓の上に立てた小屋の周囲に集まって、飲食しながら宿営する。最後に慕情の小屋を倒して燃やす。死者の肉が腐り去ると、死者の骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗り、これを束にして、二、三年家の中に保存してから埋葬する。最後に埋葬すると、墓には厳重に木の垣を結び、植える。しかし、年が経って記憶が薄れると、墓には構わなくなる(p.324)。

 15.ヤビム族(ニューギニア)。死者は家の近くの浅い墓穴に埋葬される。死者が家長または妻であるときは、家が立派でも棄てる。墓上には仮小屋をつくり、死者の家族は6週間ないしはそれ以上そこに住む。愛児や重要人物の場合は、埋めずに包んで腐るまで家のなかに置き、頭蓋等に油を塗り赤く染めて若干期間、保存することもある(p.326)。

 16.カイ族(フィンシュハーフェン奥地森林地帯)。死後、2~3日目に埋葬する。墓は家の下に掘る。残された妻、夫は数日間、墓の上の小屋に日夜、暮さなければならない。誰かの死んだ家は捨てる(p.328)。

 17.パプア族(クロムエル山麓のケーニヒウィルヘルム岬付近)。家のなかに掘った浅い墓穴に埋葬する。残された妻、夫は1週間くらい墓に留まり、番をする(p.330)。

 18.ツムレオ族(ベルリンハーフェン)。死体を木棺に納め、ややあって家の中またはそばに埋葬する。墓を家の外につくるときには、墓上に小屋をつくり、死者の妻や妹などの女の親族は、数週間から三ヶ月位のあいだ、喪屋に別居する。寡婦は喪の印として石灰を身体に塗り、時々悲痛な挽歌を歌う(P.332)。

 19.マリンド・アニム族(南部ニューギニア)。死者の家のなかでふだん坐っていたところ、寝ていたところ、炉辺を選び、日没直前に埋葬する。1年後、骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗る。頭蓋も洗って赤く塗る。死者崇拝は行われるが、頭蓋(骨)崇拝は行われない。死霊を恐れる。イモの秘密結社では、団員の死去に際して、デマが登場して、神話や死去に際してのデマの役割、あの世への旅を表現する(p.339)。


 似ていると感じさせるには、メラネシア、ニューギニアで、とりわけニューギニアにおいて濃厚になるように見える。まず、どちらにおいても、埋葬後、骨を取りだす葬法が見られる。頭蓋骨の重視も共通している。

 添寝は、ニューブリテン島とダントルカストー北部のメラネシア人、スルカ族にある。琉球弧の添い寝に、ぼくたちは霊魂の転位の仕草を見たが、ニューブリテン島では、あの世への霊魂の供のためであるとされている。

 家に埋葬する他に、家の近くに埋葬し、その上に小屋を立てる例が、トロブリアンド島、タミ族、ヤビム族、ツムレオ族に見られる。また、小屋を立てないが、そこに近親者が滞在するのがツベツベ島だ。琉球弧の例を見てきた目には、これは、もともと死者を家に埋葬していたのを、外に埋葬するようになって、墓の上に小屋を立てたものとして見ることができる。民俗学者たちの見聞にははっきり出てこないが、殯をする例もあるのではないか。トロブリアンド島では、死者の家を壊す真似と制止が儀礼的に加わっているが、これはもともと壊していたことを示すのだと思う。

 ロイヤルティ諸島のリフの例は、珊瑚礁環境における葬法として、「接近しがたい険しい岩穴に納めるのみ」という点が近しい。ペレプ諸島は、墓掘り人の穢れ。同じくペレプ諸島とニューカレドニア島南々東部の島人では祖先崇拝。トレス海峡西部諸島、タミ族、ヤビム族、マリンド・アニム族とは頭蓋を赤く塗ることだ。

 単純な共通点の数では、タミ族、ヤビム族、スルカ族、ベレプ諸島、トロブリアンド島がより近しい。おまけに、タミ族とスルカ族のいるニューブリテン島は仮面仮装の儀礼の分布しているところでもある。

 ぼくたちは琉球弧ソバージュの野ざらしの骨の由来が、家を捨てる段階を持ったこととは別に、埋められない埋葬の系譜もあるのではないかと考える。すると、殯の期間、死体の白骨化を待つのは、琉球弧ソバージュの特異な点ではないかという考えに導かれるが、大和の殯も同様の期間を持っていた。だから、この考えは違うことになる。

 するとむしろ、アドミラルティ諸島のマヌス族のように、「死体が完全に腐敗して骨だけになるまで埋葬しないで、家のなかにとどめておく。骨だけになると、海水で洗って解体し、分配する」方が、この点では近しい。

  

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2014/10/11

『心の先史時代』のトーテミズム理解

 認知考古学は、現生人類に起こった脳の変化を、ネアンデルタール人では博物的知能と社会的知能は別々に分かれていたが、現生人類ではそれらを横断する結べるようになったと主張している。その、流動的な知性が生み出すことができるものは比喩だ。

 その比喩のもっとも典型的な例はトーテミズムとして言うことができる。

 トーテミズムは人間/動物という硬貨のもう一面である。それは動物に人間の特徴を付与するのではなく、人間の個人あるいは集団を自然界埋め込むものである。そのことは、出自を人間以外の種に求めるという行為に端的に表れている(p.217)。

 これは自然哲学の考えから言えば、こうなる。

 人間は、全天然自然を人間のイメージ的身体とし、人間は全天然自然のイメージ的自然になる。人間が、「全天然自然を人間のイメージ的身体とする」とは自然の擬人化であり、人間が「全天然自然のイメージ的自然になる」ということは、「人間の個人あるいは集団を自然界埋め込むもの」だ。

 レヴィ・ストロース。動物は食べておいしいだけでなく、「考えておもしろい」。トーテミズムは、「文字も科学もない集団に、人間の集団間の関係性を概念化するためのすぐ間に合う手段を与える、自然界の種の研究」。

 トーテミズムの三つの特徴。

 1.トーテミズムは狩猟採集の生活様式で暮らしている人間の集団に一般的。
 2.トーテミズムは動物に対する思考と人間に対する思考の間に認知的流動性を必要とする。
 3.考古学的な証拠をもとにすれば、トーテミズムは上部旧石器時代が始まった頃から人間の社会に広まっていた可能性がある(p.218)。

 「認知的流動性」と呼んでいるものは、下図を見ると、分かりやすい。


Totemism_2


『心の先史時代』


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2014/10/10

『これが沖縄の生きる道』

 PUFFYの歌を思い出す書名。あの曲のように、明るく軽やかに読まれてほしいということだろうか。扱われているテーマはどれも重く厳しいけれど、本当はあの曲のようなポジティブさをもっと出したいんだよね、ということなら分かる。

 この本を読みながら、時にふと過ぎる内省のようなことが、何度も繰り返しやってきた。この本の主張は、「内地の失敗経験を検分すべき」(宮台真司)ということなのだけれど、そう言われたときにも過ぎるものだ。

 たとえば、1940年に日本民芸協会の柳宗悦が沖縄の標準語励行運動について、「やりすぎじゃないか」と苦言を呈したのに対して、沖縄県の学務部が県民が卑屈、引っ込み思案になるのは「自己の意思発表に欠くる結果」だから、標準語励行は「全県民の切実なる問題である」と、彼らを追い返してしまうという、あのやるせない事件。

 本書でも仲村が引いている事例なのだが、このときの県の回答は底が浅かった。引っ込み思案なのは、標準語が使えないからというのは表面的なことで、その淵源には、海の向こうからやってきた者を生者か死者か分からず、神とさえ見なした心性が横たわっている。そこからみれば、文字も漢字も標準語も、神のような絶大な力を持って立ち現われたに違いない。

 ようするに、貧しかったところに突然近代がやってきたような感じなんですよね。復帰後もものすごいスピードで古い村社会は解体しました(仲村清司)。

 ここの「貧しかったところに」というところを言い換えてみれば、古代に突然近代がやってきたような感じと言っても、誇張とは言い切れないものがある。自分のこととして言えばそれは、人づき合いのなかで、交渉ごとは苦手であるとか、色んな人がいるよねという鷹揚さが足りないとか、損得勘定をもとに立ちまわれないというか、世慣れしないというか、うまく言えないのだが、自分には何かが大きく欠落しているのではないかと、というような実感として降りてくる。そしてこの大半は自分の欠点として済ませていいのだが、ひょっとしてそれだけではなく幾分かは、島人が、日本にいう中世、近世という蓄積を経てきていないからではないだろうか。うまく対象化できていないので、整理した言葉にもならない、あいまいなぼんやりとした感じなのだけれど。

 言ってしまえば、島人の極度の人見知りとお人好しだ。人見知りは日本人の特質かもしれないから、ここでは極度の、と形容してみる。人見知りは、芸能などの舞台があれば、その時だけ違う風に演じられる。お人好しは、反転すれば、利得しか考えないことと同じになりうる。この、極度の人見知りとお人好しは、反転はあっても変形されることなく手渡されてきたことが、ことの根っこにはあるのではないだろうか。

 欠落をマイナスと捉えて、これから中世と近世を身につけようというのではもちろんない。それに世代交代があっという間に解消してしまうことかもしれない。けれど、できうれば、これを美質としてそのままに生きる道がほしいというのは、PUFFYの曲のようにいきたい願望とともにある。

 すると、それには世界史の先端に超出するしかないという途方もない考えに導かれる。けれど、本当に途方もないのか。

 沖縄と日本は一六〇九年の薩摩の琉球支配の時代から、四〇〇年にもわたる腐れ縁が続いています。そろそろこの腐れ縁的な関係を変える覚悟を決める時期に来ています(仲村清司)。

 だから、独立、と直結せずに、できるだけ細やかにしなやかに考えること。歯切れは悪いけど、仲村の発言を反芻しながら、そういう根っこのところに終始思い至る本だった。


『これが沖縄の生きる道』


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2014/10/09

『葬制の起源』

 大林太良の『葬制の起源』から、琉球弧ソバージュの葬制について肉づけしていきたい。

 前期旧石器時代の洞窟遺跡かたはたくさんの頭蓋骨が発掘されている。中期旧石器時代も同様。これが複葬を示すものか、よく分かっていない。ヨーロッパの洞窟や岩かげで、葬制を見出すことができる。これは、「死者は生者の居住する場所に葬られたことを意味している。若干の例ではこうした場所を死者にゆだねて、生者は別のとことに移ってしまった形跡がある(p.18)」。後期旧石器時代も頭蓋骨だけが孤立して発見される例は後を絶たない。新石器時代開始前後には、洞窟の入口へ葬ることが始まっている。

 狩猟民文化と牧畜民文化には、死体放棄が属し、これに反して、植物に関係した文化、つまり農耕文化には土葬が属している(p.31)。

 単葬の形態。
 1.死体を見捨てること。死にかかったものを見捨てる。死体からの逃走。
 2.死体の破壊。鳥葬、火葬。
 3.死体をしまうこと。埋葬、樹上葬、台上葬。

 死体保存は赤道文化、死体破壊は北方文化。

 二つ以上の葬法が接触し混合したときに複葬が生れる。また、複葬は長期間の定住を前提にする。狩猟採集民のなかにも複葬はあるが、大部分は農耕民文化(p.97)。複葬は霊魂の表象と密接に結びついている(p.102)。

 一般的に地下の他界からは地上に戻ることはない(p.148)。

 大林の議論を離れて琉球弧の葬法の流れを考えてみる。

1.埋めない(単葬)

 1)生者は家を死者に譲る。家を捨てる。
 2)定住するようになって、死者は洞窟や叢林に葬られる。

2.埋める(複葬)

 1)埋葬する。
 2)頭蓋を洗骨する。

3.埋められない埋葬(複葬)

 1)死体を洞窟前などに置く。
 2)洗骨して納める。

 「埋める」と「埋めない」とでは、葬法の考え方は違うから、この二つは異系列に置く。一方で、埋めずに家が、死者の家から生者の家へと変遷する流れがある。他方に、埋めて取り出し、頭蓋を中心に洗骨する流れがある。ここでもうひとつ、隆起珊瑚礁環境は、埋めたくても埋められない土壌であることを踏まえると、埋められない埋葬の流れを考えることができる。この場合は、一時的に死体をどこかへ置き、洗骨をする。これも「埋める」形態が生れた時から並行してあったと考えられる。そこで、風葬と呼ぶものには、洗骨が伴うものと伴わないものは最初から混合して現れたのではないか。


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2014/10/08

埋める埋めない

 メラネシア、ニューギニアにおいては、地下他界、埋葬、頭蓋崇拝そして、一部には祖先崇拝が結びついていた。ここで、遷居、つまり家を捨てる行為に目を向けると、メラネシア、ニューギニアだけでなく、その西方の東南アジア諸島まで分布が広がる。

 そしてスマトラ島のクブ族やルソン島のイスネック族のように他界観念がない場合もあれば、ニューブリテン島のスルカ族のようにあちこちにある場合、ニューギニアのツベツベ島では、近くの島の洞窟から海の下に入って、いくつかの通路を経て山に行くという場合、ワグワガ族は西方の海の下、マライ半島のサカイ族では地下あるいは果物の島、ケンタ族では西方の死者の国、と他界観念はさまざまである。つまり、家を捨てる行為は特定の他界観念に結びついたものではない。

 これは他界観念という以前に、死や死者に対する態度の一系譜に属するものなのだ。もう少し言えば、死者による対幻想の欠損への対処である。家を持たなくても、アボリジニでも死者が出ると、その野営地を去った。対幻想の欠損を埋める、再編するには、その場を去る必要があったのである。それは、対幻想と自己幻想、共同幻想が明瞭に分離できなかったことを示している。

 埋めない葬法のひとつは、この、家を捨てる行為から発生している。それはやがて家を持つ段になると、対幻想は家という形で形態化され、そこを去る観念を生む。そして次第に、対幻想が共同幻想に対して立ち位置を持つようになると、死者を家の外に出すという様式になる(cf.「無他界論 メモ」)。

 もうひとつの埋めない埋葬は、埋められない埋葬ということだ。つまり、隆起珊瑚礁の環境は、埋める場所を容易に見つけ出すことができなかった。その場合は、叢林や洞窟にその場を求めざるを得なかった。その中には、地下他界への入口として光と闇が交錯する場所を選んだ場合もあったはずである。 

 「埋める」ことと「埋めない」ことに含まれる観念は、明瞭に対立せず、両者は交わりの部分を持つ。「埋めない」叢法には、死を機に家を捨てる習俗の流れがあり、「埋める」叢法には、地下他界観念などの流れがある。しかし、埋めないからといって地下他界観念ではないとは言えないし、「埋める」からといって家を捨てないとは限らない。埋める、埋めないは本質的な分け方ではないということだ。


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2014/10/07

葬儀の三角形

 古代琉球弧の葬儀は、埋めることと埋めないことをめぐっていたように見える。埋めるとは文字通り、埋葬のことであり、埋めないとは風葬と呼びならわしてきたように、風に晒して骨化させることだ。

 ぼくたちは洞窟や叢林での人骨を目にしてきているので、これは容易に了解することができる。風葬をしてそれきりの場合は、右上の頂点に位置する。ただ、それだけではなくて考古学上、埋葬された人骨も発掘されているから、左上の頂点もあったのだ。

 この二つの類型だけではないのは、何らかの葬法のあと、洗骨をしてきたからだ。すると、未開の琉球弧にぽいて、「埋めること」、「埋めないこと」、「洗うこと」の三つを頂点とした葬儀の三角形を描くことができる。

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 洗骨は、風葬の後の洗骨も、埋葬の後の洗骨も両方、あった。亀甲墓に納めたあと洗骨する場合は、「埋めない」から、右上の頂点から下の頂点に向かうことになる。埋葬の後に洗骨する場合は、左上の頂点から下の頂点に向かう。

 『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』において、棚瀬襄爾は、オセアニアにおいて事例も少なく洞窟葬が独立した葬法なのか判断できないとして、台上葬や樹上葬と同じ乾燥葬の一種ではないかと見なしていた。琉球弧でもっとも一般的だったと思われる風葬、洞窟葬がオセアニアでは広い分布を示さず、これは乾燥葬のひとつと考えられた。

 ところで台上葬や樹上葬の特徴には再生信仰が伴うことだった。すると、琉球弧の再生信仰は、乾燥葬の一種としての風葬、洞窟葬に由来すると考えることもできるが、そう単純ではないと思える。再生信仰と風葬、洞窟葬がセットで語られたことはないからだ。

 一方、メラネシアにおいては、地下他界、埋葬、頭蓋保存、死穢がセットである習俗が濃密に現れている。おまけに来訪神儀礼がよく出てくるのもメラネシアだ。頭蓋保存は、埋葬後、頭蓋のみを取り出し保存するものだが、これは洗骨の際、とりわけ頭蓋を重視する琉球弧とも似ている。すると、「埋めること」から「洗うこと」に向かうベクトルは、琉球弧の元型のひとつとして見なすことができるように思える。

 本来、「埋めること」と「埋めないこと」には、対立する思考があるはずだが、琉球弧の場合、それが明瞭に現れてこない。琉球弧にも樹上葬は認められるがこれは祝女だけが行ったもので、ふつうの島人に拡張して考えることはできない。なぜ、洞窟であり叢林だったのか。これはもしかしたら、「埋めない」葬法なのではなくて、「埋められない」葬法だったのではないか。仮にそうなら、琉球弧の葬儀は三角形を構成せず、傘を閉じるように、「埋めること」と「洗うこと」の線分で表すことになる。

 「埋める」ことが本来的であったとして、トロブリアンド諸島の例をみれば、再生信仰は埋葬という葬法からも発生しうるわけだ。

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 仮に風葬や洞窟葬が、本来的な葬法ではなく、「埋められない」埋葬だとしたなら、洞窟や叢林に置いたことは、地下他界への入口としてそうしたのではないかと考えることができる。

 洞窟葬とは何だったのか。もっと突き詰めなければならない。

 洞窟葬は、家を捨てる遷居葬の系譜において、家を捨てなくなり死者を外に出した場合は、洞窟葬のみになる。それとは別に、「埋められない」から洞窟においた場合は、「埋める」埋葬と同じ態度でこの場合は、洗骨を伴った。洞窟葬にはこの両者が混在しているのではないか。

 そして琉球弧の再生信仰は、トロブリアンド諸島と同様、母系社会の強さがそれを生んだ。象徴的にいえば、おなり神信仰だ。

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2014/10/06

来訪神の段階

 現在の新城島でのアカマタ・クロマタは、粟の豊年祭においては子神のみが出現し、稲の豊年祭において親神と子神が出現するという形態を持つことにも、この祭儀の編成が示されている。自然に考えれば、粟の豊年祭が先行してあったところに、稲の豊年祭が加わり、それが本格化していったということだ。

 これらはいずれにしても農耕祭儀の域を出ないということは言える。もうひとつ考えられることがあるのは、子神のアカマタ・クロマタがフサマロという別称を持つことである。別称とは古称のことかもしれない。そういう連想を促すのは、波照間島でフサマロと呼ばれる来訪神がかつて存在したことだ。波照間島のアミニゲエ(雨乞い)の儀礼は、女性の祭祀集団が行うが、旱魃が酷い時には、それだけではなく、スーニゲエ(総願い)というもうひとつの雨乞い儀礼が行われた。これは、「総願い」という名称が示唆するように女性の祭祀集団だけではなく、男性の祭祀集団も加わって行われる。ところが島人によれば、かつてはスーニゲエは男性の祭祀集団によるフサマラの儀礼が行われていたのだと言う。こうした経緯のなかにも、祭儀の変遷が顔を覗かせるのだが、フサマラは雨乞いの来訪神儀礼だったのだ。通常の雨乞いだけではなく、総出の雨乞いも加えられたところに、水に対する島の渇望感が色濃く現れるが、それだけではなく、ここで注目したいのは、波照間島のフサマラも男女二神で現れるので、すでに農耕祭儀としての顔つきをしているが、雨乞いは農耕儀礼にとって重要だが、農耕社会ではなくてもそれ以前にも重要な儀礼であるということだ。新城島のアカマタ・クロマタがフサマラという別称を持ち、かつて波照間島にはフサマラという雨乞いに出現する来訪神のあったことは、祭儀の持っている時間の深度が伸びる可能性を示すのかもしれない。

 来訪神は、地の底あるいは海の彼方から、はかりしれない遠いところからやってくると考えられている。そして、分たれてしまったこの世とあの世のつながりをつなぎ合わせるためにやってくる。あの世となってしまった世界とは、スピリットが男女にも動物にも植物にも自在に変幻する高次の対称性の世界、世(ゆ)であり、そことの自在な行き来ができなくなって、来訪神は出現の根拠を持ったと、ぼくたちは仮定してきた。そこから、みれば祭儀の段階の他に、高次の対称性の世界、世(ゆ)の表象性の視点からも来訪神をみつめることができる。

 折口信夫は、「訪客なる他界の生類との間に、非常な相違があり、その違ひ方が、既に人間的になっているか、其以前の姿であるかを比べて考えると、どちらが古く、又どちらが前日本的、或は更に前古代的かと言ふ判断がつくことと思ふ」(「民族史観における他界観念」)と書いたが、この尺度は有効だと思える。

 秘祭であるがゆえに、記述と数少ない写真からしか追うことはできないが、たとえば西表島のアカマタ・クロマタ祭儀を見聞した民俗学者はこう記している。

黒マタは全身オオタニワタリの葉でおおい、頭に赤いサンダンカの花をかざしにし、黒い木彫りの面にパク(矛)を杖にする。赤面の赤マタと白面の白マタは、シツカザ(西表三味線カズラ)に身をつつみ、体をふるわすと、細い草の先端が微妙に揺れ動いて、宙に浮かんでいるように錯覚されるから妙だ。(湧上元雄「西表島古見むらのプール」)

 この民俗学者は、出現の時にも、「その瞬間、全身シツカザにおおわれた白面のフサマラー(草をまとったまれびと?)が身をふるわすと、微妙に全身揺れ動いて、彷彿としてきたりうける霊のいますかと錯覚されるから妙だ」とも書くのだが、研究のためで祭儀の世界観のなかにいる島人でない者にとっても、植物の化身のようなアカマタ・クロマタは、世(ゆ)の表象性を豊かに持っている。祭儀の終わりで、アカマタ・クロマタとの別離の際に、人が演じていることは分かっていても、村落の古老が涙を流すのには、死者や祖霊を伴った来訪神が、始原的な世(ゆ)とのつながりをもたらしたことへの喜悦が含まれているのだ思える。

 また、赤土の赤と墨の黒のコントラストが鮮明で、突きでた目、鼻、そして羽を持つ上体と、ビロー葉で覆った下半身のいでたちであるトカラ列島のボジェは、巨大な昆虫のようにも樹木と植物の怪物のようにも見え、これも世(ゆ)の表象性が豊かだ。

 こうした精霊(スピリット)の世界を生き生きと表象できなくなった段階では、来訪神は、人間的なものとして表象され、祖霊に近づいてゆく。デイゴの木ででき、能面を彷彿とさせる翁、姥といった老人の仮面で現れる石垣島のアンガマや、蓑を後ろ前につけるという石垣島川平のマユンガナシは、折口信夫がまれびとの典型のように挙げた蓑笠姿そのものに近いように見える。ただ、マユンガナシの名は、美称の接頭辞の「ま」と世(ゆ)、尊称の「かなし」を合わせたものであり、来訪神の別名といっていいほど正統な名を持つものだ。

 「他界の生類」と人間的なものの中間に位置するのは、宮古島のパーントゥだ。パーントゥの仮面は人面を思わせるが、つる草で全身が覆われた、植物と人間の化身の姿だ。そして何といっても、産水としても使われたンマリンガーと呼ばれる井戸の水底の泥を全身に塗っているところに、世(ゆ)の大地を充分に汲み取っていることが示されている。

 他界の生類であれ人間的なものであれ、仮面仮装して出現するのが来訪神だが、琉球弧では仮面仮装がほどけた来訪神も存在している。そして、仮面仮装が解けることで質的な転換も起こっていると思われる。吉成直樹が『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』において詳細に検討している例からいえば、沖縄島北部や周辺の島で行われているウンジャミは、海上はるか遠くのニライカナイから海神を迎え、遊ビビラムトがその神に憑依することで来訪神を演じる。与路島のウムケー、オーホリにおいてはテルコ神がやはり迎えた神に憑依して祭儀を行う。

 また、宮古島のウヤガンにおいては、さらに重層し、木の葉の冠をかぶり、木の枝を持った白衣裳のシバノウヤガンが海の彼方から神を迎えて憑依する一方、別の神女であるウプツカサは御嶽の神と一体化し山から出現する。この二重性は、吉成が考察しているように、海の彼方からの神に憑依する来訪神儀礼に対して、御嶽の神と一体化する儀礼が重なってものだと考えがえられる。御嶽は、高神が常在する場所だというだけでなく、来訪神迎える場にもなり賑やかになった。この過程は、琉球弧の母系社会の進展と琉球王朝による神女組織の体制化により、男子結社による仮面仮装の来訪神祭儀が、細り、あるいは包囲されていく過程でもあっただろう。

 吉成は、男子結社による仮面仮装の来訪神と、ニライカナイの神に憑依する来訪神、御嶽の神と一体化する来訪神を歴史的な順序から考察しているが、仮面仮装という変身による来訪神化と、憑依、一体化は段階としてもこの順であると言える。それは、高次対称性の世界、世(ゆ)からの距離感に対応している。

 琉球弧の来訪神について、もうひとつ加えるべきことがあるとすれば、他界の生類の表象性という以外に、具体的な人や集団があるということだ。それは折口信夫が、他郷からの来訪者であるストレンジャーを「まれびと」としたいちばん初めの着想に対応するものだ。ただ、琉球弧の場合、それは「ほごひびと」として現れるというより、技術や信仰をもたらした者たちに仮託されているように見える。

 比嘉政夫は、マユンガナシのカンフツ(呪言)は、作物の植え付けの時期などの農耕技術が含まるとして、「八重山石垣島の北の端から順に近い川平に至る地名の列挙にはじまり、中間に農耕の技術の指示があり、牛馬の繁殖、人間の幸福、貢納の完了を予祝して完結しているようである」と書いている(『沖縄民俗学の方法―民間の祭りと村落構造』。ここからは、マユンガナシが、稲作技術の伝来者を原型としていることが示唆されるように見える。

 また、福寛美は、「おもそろうし」の次の歌謡も、実在の男性を指したものだという重要な指摘を行っている(『沖縄と本土の信仰にみられる他界観の重層性』)。

 一 みるや仁屋/世馴れ神やれば/けわいつ
 又 みるや仁屋/世付き神
 又 みるや仁屋/意地気神
 又 みるや仁屋/大国神
 又 意地 切り遣り/金若子 差しよわちへ
 又 意地 切り遣り/金みさき さしよわちへ
 又 金若子 紐鈴は 下げて
 又 金みさき 鳴り鈴は 下げて

 この他にも、男性の仮面仮装の系譜に属するミロクも、新しく流入した信仰を来訪神化したものだと言える。


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2014/10/05

来訪神と人間としての再生信仰

 分たれたこの世とあの世を時を定めてつなぎ直すために来訪神が出現するとしたら、それは再生信仰とどのような関係にあるだろうか。

 秘密結社のなかの成人儀礼において、仮面仮装で神話を演じるマリンド・アニム族は、死霊は昼は鴉の形をとるとされるが、より一般的には「死んで動植物に転生するという信仰が広く行われている」(p.311『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』棚瀬襄爾)。これはマヨの祭儀において、マヨの母(娘)を穀物の再生を託して殺害するのだから、当然だ。

 タミ族については、仮面仮装の儀礼がどんな内容かをぼくは知らないが、死後は来世を送った後、蟻や蛆になるという転生信仰を持っている。

 不死のトゥブアンと毎年死ぬドゥクドゥクの仮面仮装儀礼を行うニューブリテン島では、現世と酷似する来世の信仰がある。死後、霊魂は各種の「動物に入りうる」(p.164)としている。

 来世で過ごした後、同じ母系の誰かとなって再生するという明確な信仰を持つトロブリアンド島では、仮面仮装の来訪神は観察されていない。ただ、収穫祭のミラマラにおいて祖霊の来訪は意識されている。

 そもそもマヨ祭儀において、少女が穀母として殺害されるのは、植物としての再生信仰がなければ行えない。来訪神の共同祭儀化が明確なトゥブアンとドゥクドゥクを行うニューブリテン島では、すでに植物への転生信仰はなくなっている。植物の生育と人間の成育の時間的な流れのちがいを意識化するということは、植物と人間の違いを意識化することでもある。そこで植物への転生信仰は断たれる。

 ところで人間としての再生信仰を持つトロブリアンド島では、仮面仮装の来訪神は現れていない。不可視の祖霊がやってくるのみだ。人間としての再生信仰にいたるには、人間と植物、動物との違いが明瞭に意識され、他の存在から区別されている。ということは、スピリットたちの世界からも遠ざかるから、表象する術を無くしているのではないだろうか。人間としての再生信仰の強化は、来訪神の不可視化と相関を持つのかもしれない。あるいは、来訪神を祖霊的なものとしてしか表象できなくなるということかもしれない。


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2014/10/04

マヨ、ドゥク・ドゥク、アカマタ・クロマタ

 吉本隆明は、穀物と女性だけが子を分娩するという同一視から、女性が殺害されることによって穀物を再生するという観念が、別の観念に取って代わられる段階を想定している。それ、穀物の生成や枯死や種播きという時間の流れが、女性が子を妊娠し、夫の協力も得たうえで子を成人させるという時間の流れとちがうことを意識した時だ。

 このように穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、分娩し、男性の分担も加えて育て、成人させるという時間性がちがうのを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の〈対〉幻想とのちがいを意識し、またこの差異を獲得していったのである。もうこういう段階では〈対〉幻想の時間性は子を産む女性に根源があるとはみなされず、男・女の〈対幻想〉そのものの上に分布するとかんがえられていった。つまり〈性〉そのものが時間性の根源になった。  もちろんこの段階でも、穀物を、男・女の〈性〉的な行為とむすびつける観念は消えたはずがない。だがすでにこのふたつのあいだには時間性の相違が自覚されたために共同幻想と〈対〉幻想とを同一視する観念は矛盾にさらされた。それを人間は農耕祭儀として疎外するほかに矛盾を解消する方途はなくなったのである。(『共同幻想論』

 来訪神を追っているここでの文脈からいえば、女神としてのクロマタと男神としてのクロマタという男女二神は、この段階にあるものだ。ところでぼくたちは、マヨ祭儀に例をとったハイヌウェレ型神話の再現である祭儀と、男女二神による祭儀とのあいだにもうひとつの段階を想定してみたい。

 ニューギニアのトーライ族が行ってドゥク・ドゥクの祭儀では、ドゥク・ドゥクの母親であるとされるトゥブアンが男子結社の集会地に出現したことが分かると、十二才を目安にした少年たちは集会地に連れて行かれる。そこで仮面仮装したトゥブアンの合い図をもとに少年たちは棒で叩きのめされてしまう。そして、ドゥクドゥクの踊り方などを含めた秘密を教えられ、集会地で起きたことを含め口外しないことを約束させられる。その夜を通して、新しいドゥクドゥク誕生の儀礼が行われる。ここでは少年たちがドゥク・ドゥクとして仮面仮装することになるのだ。翌明け方にトゥブアンは、新生のドゥクドゥクを率いてカヌーに乗り会場から村落の浜辺に出現する。そして村落の広場で、村落の住民たちを前に踊り、示威する(cf.「ドゥクドゥク祭儀の過程」「トゥブアンとドゥクドゥク」)。

 トゥブアンは、首長のいないトーライ族にあって掟の違反に罰則を与える力を持ち、また出現の後にドゥク・ドゥクによって村落民から強制的に貝貨を集めるなど、財の再配分に関与するなどをし、明瞭な農耕祭儀としてはみえてこない。しかし、最初の収穫物が供えられるとされ、冬至という太陽の力が弱まるときに始まるので、後景に退き、見えにくくなっているとはいえ、これが収穫と予祝をめぐる農耕祭儀の意味を持っていることは確からしく思える。やがて貝貨が集められると、祭儀は終わり、ドゥク・ドゥクは死に、トゥブアンも消えるが、トゥブアンは不死とされている。

 ドゥク・ドゥクの祭儀では、トゥブアンは女性や子供に非常に恐れられているが、もう女性は殺害されることはない。代わって、女性して母親であるトゥブアンとその子にして毎年死ぬドゥク・ドゥクが登場するのである。この段階では、すでに人間の成育と穀物と生成と枯れ死の時間の流れの違いが意識されていた。その違いによって対幻想と共同幻想を同一視する観念の矛盾を、穀物神として、母であるトゥブアンと子であるドゥク・ドゥクに疎外したのだ。この二重性は、穀母と毎年の生成と枯れ死をそれぞれ担っているが、それはマヨ祭儀において、殺害される女性がマヨの娘ともマヨの母とも言われた両義性に対応している。

 また、この疎外によって、マヨ祭儀は男子結社の内部で行われていたのに対し、ドゥク・ドゥクの祭儀は村落全体の共同祭儀になったと考えられる。女性が殺害されることがなくなったから祭儀が公開されたのではない。そういう面もあるかもしれないが、本質的には、人間の成育と穀物の生成に流れる時間性の違いは共同幻想全体に関わるから公開されたのだ。ある意味で、この時点から、男子結社の持つ秘密性の減少は始まるのかもしれない。

 そして、マヨ祭儀のなかでは、結社内で神話を演じていた仮面仮装の神々は、海のかなたからやってくる来訪神の姿を明確にさせている。ここで、神の系列に男性が加われば、アカマタ・クロマタになるのだ。この男・女二神になるには、性交による子の妊娠という認識が重要な契機になったに違いない。

 女性の殺害による穀物の増殖という観念と男女二神の間に、穀母神と子供の神の段階を置くと、アカマタ・クロマタにもひとつの視点が得られる。それは、アカマタ、クロマタも子神を伴って現れるからだ。西表島の古見では、旧士族の共同体は親であるクロマタを担い、旧平民の共同体は子であるアカマタ、シロマタを担うなど、現存する形は大きな編成を受けているが、祖形に向かって遡行した時、そこには女神と子神が残ることを想定することができると思える。



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2014/10/03

来訪神ボジェの段階

 殺害された女性から穀物が生れたという神話が、神話にとどまらず祭儀のなかでも行われたことを知ると、気になることが出てくる。それは、殺害されるのは選ばれた女性であるとして、それなら殺害するのは誰かということだ。マヨ祭儀ではそれは結社員である男性たちだった。この男性の論理とはどのようなものか。

 そういう視点でみると、男性には選ばれたマヨの母(娘)を殺害するというだけではない特異な強調がなされているのに気づく。たとえば、新入の結社員たちが通過儀礼の際にその起源の神話とともに与えられるバナナやココ椰子には必ず精液が塗りこまれていた。それでなければ、たちまち病気になり、以後その食べ物を食べられなくなるからというのだ。精液に対する特別な信仰はそれに留まらない。マヨの母(娘)は殺害される前に結社員たちによって強姦されていた。彼らにとっては大量の精液を流し込むことが重視されていたのだ。

 しかもこれはマヨ祭儀のなかの特別な行為ではない。結婚に当っても、新婦である女性は健康と多産のために夫と同家系の男性たちの性交の相手をしなければならず、それは子供を産んだ後も、新しい子供の誕生のために繰り返されたのだという。ここには、性交から子供が生まれるという概念からははみ出した過剰な意味が込められていると思える。

 ニューギニア島南部のサムビア族では、通過儀礼の過程で少年たちは口唇性交により大人の精液を飲むことを強いられる。また、母乳も精液の変化したものに他ならず、胎児の身体も精液によって形成され成長するので、夫は妻の妊娠後も、妻の胎内に精液を共有し続けなければならなかった。これを報告したHerdt は、人間は精液がそのなかを通って次の世代に伝達される一時的な容れ物に過ぎず、精液こそが主体であると、この「精液原理」を説明している。これは、昨今の科学が、人間は遺伝子の乗り物に過ぎないと見なすのと似ている。思考の型としてはほとんど両者は変わらないのではないだろうか。

 選ばれた女性が穀物として再生を果たすものであるとすれば、殺害する男性とは、再生による穀物の増殖を担う者だったということになる。また、ハイヌウェレ神話というのは、殺害された女性が穀物として再生することが強調されるが、ここには精液原理とも言うべき信仰による殺害する男性の論理も加えなければ半面しか見てないことになると思える。この意味では、この段階の男子結社とは精液原理を共同幻想化したものだった。

 この精液原理のもとでは、男根が崇拝の対象になっている。ここまで来ると思いだされるのは、琉球弧の北の境あたりに位置するトカラ列島の来訪神、ボジェの持つ棒の意味に接続する。来訪神ボジェの持つ棒は、1メートル余りの長さで、端を丸めて亀頭状にしてあり、ボジェマラ棒と言われるように男性器そのものを指している。そして祭儀においては、このボジェマラに突かれると運がいいとか、女は良縁に恵まれると言われているのだ。

 言い換えれば、来訪神ボジェは、ハイヌウェレ神話の段階まで遡れる可能性があるということだ。

 

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2014/10/02

ドゥクドゥク祭儀の過程

 岡正雄の『異人その他―他十二篇』では、あいまいなところのあるドゥクドゥクの祭儀の過程について、パーキンソンの『Thirty Years in the South Seas』を参照してみる。

1.秘密の場所であるタライウから大きな叫び声が聞こえたら、それがトゥブアン出現の合い図になって、通過儀礼を受ける少年たちは連れて行かれる。

2.トゥブアンが叫び声をあげ、寝かされた少年たちを打つのを皮切りに、結社員たちが少年たちを打ちのめす。

3.トゥブアンが仮面であること、ドゥドゥクの踊り方を教えられる。その際、タライウで起こったこと、教えられたことを口外しないことを約束させられる。破れば酷刑に処されると脅される。

4.夜を通して、ドゥドゥクが誕生する。

5.明け方、新しく生れたドゥクドゥクを従えてトゥブアンが、カヌーに乗って公衆の前に現れる。カヌーが浜辺に着くと、歌い、踊る。

6.饗宴の場に行き、女性や子供たちの前で踊る。ドゥクドゥクの力や厳しいルールを伝える。新生のドゥクドゥクに貝貨が与えられる。

7.次の日から家々をまわり、ドゥドゥクは貝貨を集め始める。

8.一ケ月から二ヶ月かけて、貝貨を集め終えると、トゥブアンは祭りの終わりを告げる。

9.タライウにてドゥドゥクは死ぬが、トゥブアンは不死とされている。


『Thirty Years in the South Seas: Land and People, Customs and Traditions in the Bismarck Archipelago and on the German Solomon Islands』

『異人その他―他十二篇』

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2014/10/01

農耕祭儀としての来訪神儀礼の遡行

 アカマタ・クロマタ祭儀の背後には、祭儀の過程と並行するように男子結社への入社儀礼が行われていた(cf.「入団式のタイミング」)。農耕祭儀と来訪神と成人儀礼と。これらはどのように絡み合ってきたのだろうか。

 ここで南太平洋に目を転じると、エリアーデの挙げる四つの要素が絡み合った事例が飛び込んでくる。それは衝撃を伴わずには受け止められないが、ここは勇気を出してダイブしみてよう。

 ニューギニア島南部のマリンド・アニム族のマヨ祭儀では、成人儀礼に選ばれた若者(ここには少女も含まれる)は、衣裳を脱ぎ身体を白く塗られ、全身をココ椰子の葉ですっぽり覆ってしまう。彼らは生れたばかりで、「衣服、飾り、結髪、漁、狩り、性行為」等にういても何も知らない状態だと見なされる。そして、それらが発生したり発明されたりした神話を教えられるのだが、この時、結社員たちは仮装の姿で現れ、神話を演じるのだ。神話はただ語られるのではない。神話の登場人物たちによって演じられ再現されるのである。

 ここで察しがつくように、ぼくたちが来訪神と呼んでいるものは、マヨ祭儀では若者たちの成人儀礼のなかで神話が再現される際に立ち現れているのだ。若者たちにとっては、これは神話が現前しているような体験だったのではないだろうか。しかもこの生活は五ヶ月間も続けられる。そして、マヨ祭儀のクライマックスでは、マヨの娘(あるいはマヨの母)と呼ばれる少女が、結社員に強姦され、殺害され、食べられてしまうのである(cf.「イェンゼンの「殺された女神」」)。

 実は、マヨ祭儀のなかで若者たちが神話を体験し、それに応じて食物や衣服を与えられていったように、この少女の殺害も神話を再現したものだと考えられている。それは、人間から植物が生れたとされるハイヌウェレ型の神話として知られるものだ。

 神話の類型名になっているハイヌウェレは、インドネシアのモルッカ諸島にあるセラム島のウェマーレ族のものだ。その内容はおおよそ次の通りである。

 アメタ(黒い、暗い、夜などの意味)と呼ばれる男がいた。アメタは狩の最中にココ椰子の実を見つける。その夜、夢のなかで一人の男に、「ココ椰子の実を、地中に植えなさい。もう、芽が出かかっているから言われ、ココ椰子の実を植えると、三日後には高い樹に育ち、さらに三日後には花が咲いた。アメタは花から飲み物を作ろうとするが、手元を狂わせて指を怪我してしまい、傷から流れた血が花にかかった。

 それから三日後には、花と血が混じり合ったところから人間が生じかけていて、顔ができていた。その三日後には胴体が、さらに三日後には完全な女の子になっていた。その夜、再びが男が夢に現れて、女の子を家に連れて帰りなさいと言われる。アメタは、娘に「ココ椰子の実」という意味のハイヌウェレという名前をつける。ハイヌウェレは急速に成長し、三日後には大人になった。彼女は、陶器の皿や銅鑼などのような宝物を大便で排泄したので、アメタはたちまち裕福になった。

 そのうちに九夜続けるのが習わしのマロ踊りが開かれた。ハイヌウェレは毎夜、踊りのなかで、みんなに宝物を与え続けたが、夜ごとに宝物は高価になり、人々ははじめのうち喜んだもののやがて妬ましくなり、九夜目にハイヌウェレを殺してしまう。アメタはハイヌウェレが殺されたのを知り、埋められた彼女を掘り出し、死体を多くの断片に切り刻んで、その一つ一つを別々に広場のまわりに埋めた。すると、そこにさまざまな種類の芋が発生して、以後、人間は、これらの芋を主植物として生きることができるようになった。

 「ココ椰子の実」という意味を持つハイヌウェレは、排泄物から人間にとって有用なものを生み出す力を妬まれて殺害されるが、その場所からはウェマーレ族にとって重要なたくさんの種類の芋が生まれ、人間が生きられるようになったというものだ。

 マリンド・アニム族も同系の神話を持っており、現に殺害された少女は、新しく植えられたココ椰子の側に埋められ、椰子の幹は彼女の血が塗られたという。マヨ祭儀はそのクライマックスまで神話の再現なのだ。

 ハイヌウェレ型の神話をぼくたちは『古事記』のなかで知っている。スサノオが穀神であるオオゲツ姫に食べ物を求めると、鼻や口や尻から様々な食べ物を出して料理する。スサノオは穢いことをすると嫌悪して、殺害してしまう。すると、殺されたオオゲツ姫の頭に蚕、目に稲種、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆ができたというものだ。蚕といわゆる五穀で、『古事記』の説話も当時の人間に有用な作物が生れたという意味を充分に持っている。

 マヨ祭儀から受ける衝撃は、死体から化生するハイヌウェレ神話が実際に、その通りに行われていたということにあるだろう。神話はかつてただの作り話ではなくて信じられていたということが、これ以上にない現実感として突きつけられるからだ。そしてもうひとつ、南太平洋に豊富にあり、『古事記』にも残されたハイヌウェレ神話が、南太平洋では祭儀の核に位置したものだというなら、そしてそれは成人儀礼を組みこんだ農耕祭儀のなかで行われ、かつぼくたちが来訪神と呼ぶものが登場するとしたら、かつて琉球弧においてもそうであったのではないかと考えさせるからだ。

 琉球弧においてはハイヌウェレ型と同系と思わせるのは、煙草の起源(喜界島)として語られている。

 一人娘を失った母が墓の前で亡き暮らしていると、ある日、娘のは蚊の上に見た事もない一本の草が生え、見る見る伸びて大きい葉を沢山出した。その葉を持って帰って、煮たり茹でたりしてみたが、苦くて食べられない。そのうちに葉が枯れてしまったので、それを竹の管につめて火を点けて吸ってみると、何ともいえない良い味で、どんな哀しいことにも気慰めになる。それが段々流行って誰も彼も吸うようになった。(柳田國男編・岩倉一郎採録『喜界島昔話集』)

 琉球弧に煙草が伝わったのは十七世紀前後と考えられているので、この昔話は相当に新しいことが分かるが、長く文字を持たなかった琉球弧の島人が、煙草の伝来に合わせて、人間にとって有用な物として煙草に置きかえたのかもしれない。特に、母と娘というプロットは、死体化生との親近性を感じさせるものだ。

 気を取り直して、女性がなぜ殺害されるのかを考えてみよう。殺害される女性が、対幻想の対象ではなく、共同利害の象徴である穀物という共同幻想の表象であることは分かる。この初期の農耕社会にとっては女性だけが子を分娩することが重視されたとして吉本隆明は書いている。

 『古事記』の説話のなかで殺害される「大気都姫」も、「箒の祭」(穀母の正装をつけて女性が殺害される古代メキシコのトウモロコシ儀礼-引用者注)の行事で殺害される穀母もけっして対幻想の性的な象徴ではなく、共同幻想の表象である。これらの女性は共同幻想として対幻想に固有な〈性〉的な象徴を演じる矛盾をおかさなければならない。これはいわば、絶対的な矛盾だから、じぶんが殺害されることでしか演じられない役割である。じぶんが殺害されることで共同幻想の地上的な表象である穀物として再生するのである。(『共同幻想論』

 農耕を知ったことは大きな衝撃であったに違いない。それまで大地の恵みとしてあったものに、人間が関与し、その実を採って撒いたり植えたりすることによって栽培が可能になる。しかも、人間にとってより有用な食べ物は大地の恵みとしてあった以上に増殖させることができる。人間と植物との区別をまだ大きく設けていなかった段階では、それは何よりも女性が子を産むこととのあいだに似たものを感じ取ったのだ。

 マヨ祭儀において、参加者が、生れたばかりで何も知らない状態とされた時、身体を白く塗られココヤシの葉で全身を覆ったのは、人間と植物とが同一視されたということだ。しかもハイヌウェレと名づけられた娘がココヤシの鼻と人間の血とから生れたように、植物から人間も生まれるし、殺害された女性を埋めた場所から有用な作物が育つように、人間からも植物が生れる。マヨ祭儀において少女は殺害されるが、それはその時、最も有用だと考えられた穀物として再生するためだったのだ。

 

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