ハイヌウェレ神話とマヨ祭儀
ウェマーレ族(インドネシア、モルッカ諸島のセラム島)の神話。
アメタ(黒い、暗い、夜などの意味)と呼ばれる男がいた。アメタは狩の最中にココ椰子の実を見つける。その夜、夢のなかで一人の男に、「ココ椰子の実を、地中に植えなさい。もう、芽が出かかっているから言われ、ココ椰子の実を植えると、三日後には高い樹に育ち、さらに三日後には花が咲いた。アメタは花から飲み物を作ろうとするが、手元を狂わせて指を怪我してしまい、傷から流れた血が花にかかった。
それから三日後には、花と血が混じり合ったところから人間が生じかけていて、顔ができていた。その三日後には胴体が、さらに三日後には完全な女の子になっていた。その夜、再びが男が夢に現れて、女の子を家に連れて帰りなさいと言われる。アメタは、娘に「ココ椰子の実」という意味のハイヌウェレという名前をつける。ハイヌウェレは急速に成長し、三日後には大人になった。彼女は、陶器の皿や銅鑼などのような宝物を大便で排泄したので、アメタはたちまち裕福になった。
そのうちに九夜続けるのが習わしのマロ踊りが開かれた。ハイヌウェレは毎夜、踊りのなかで、みんなに宝物を与え続けたが、夜ごとに宝物は高価になり、人々ははじめのうち喜んだもののやがて妬ましくなり、九夜目にハイヌウェレを殺してしまう。アメタはハイヌウェレが殺されたのを知り、埋められた彼女を掘り出し、死体を多くの断片に切り刻んで、その一つ一つを別々に広場のまわりに埋めた。すると、そこにさまざまな種類の芋が発生して、以後、人間は、これらの芋を主植物として生きることができるようになった。
これが死体から植物が生えるという、いわゆるハイヌウェレ型の神話の中身だ(吉田敦彦『縄文土偶の神話学―殺害と再生のアーケオロジー』より)。
この神話の異文のひとつは、ハイヌウェレが殺されたのを嘆いた両親は、死体を掘り出すと、家々をまわり、「お前たちは彼女を殺した。だからおまえたちは、これからは彼女を食べなければならない」と言って歩いたと物語られる。
この異文は重要だと思える。というのも、この神話が祭儀のなかで反復される際に、彼女を食べるということも反復されるからだ。それがニューギニアのマリンド・アニム族のマヨ祭儀だ。
マリンド・アニム族で成人を迎える若者は、満月の夜の明け方、ココ椰子の茂みに囲まれた空き地につれて行かれる。そこにはマヨ老女を表わす木像が建てられている。若者たちは、身に着けていたすべての衣服や飾りをはぎ取られ、結髪も解かれる。しばらくすると、バナナの葉の上に精液を混ぜた黒い泥で、自分の歯を黒く塗る。その後で、びんろう樹の根とマングローブの樹皮を、最初の食べ物として与えられる。食事が終わると、川で沐浴させられたあとで、身体を粘土で白く塗られた。そして戻ると、若いココ椰子の葉を与えられ、独特の衣裳を作り、頭と足先だけ残して、身体中をすっぽりと覆った。
彼らは生まれたばかりであるとみなされ、植物、衣服、飾り、結髪、魚、狩り、性行為などについても何も知らない状態にあるとされ、神話のなかでその由来を知らされる。大人たちは祖先に扮し、神話の事件を演じて見せ、それを伝える。
五ヶ月をかけて順次、必要な習俗と食物について教育され、その過程で衣裳や飾り、髪形なども、少しずつ、元の人間の姿に戻っていく。そして最後に、マヨ娘と呼ばれる生け贄の女性たちを、祭儀に参加した男達全員が集団で強姦し、殺し、その上、食べる。その骨は、新しく植えられたばかりのココ椰子の側に埋められ、血で椰子の幹が赤く塗られた。
衝撃を受けずに読み進むことができない内容だが、殺された女性がココ椰子の側に埋められるのは、ハイヌウェレ型の神話として、植物の増殖を託すものであることが分かる。しかし、ハイヌウェレ型の神話というのは、これだけでは実は半分だったのではないだろうか。女は殺害されることで、共同幻想の表象である植物に再生すると捉えてきたが、ここには殺害するのは誰か、という側面が抜けている。殺害するのは男である。男にしても、強姦しているのは対幻想の対象としての女性ではなく、共同幻想化された女性である。共同幻想として表象されたした女性を強姦し殺害することによって、本来は対幻想の対象である女性を共同幻想化させたのである。
岡正雄によれば、この祭儀を行う秘密結社は「女性も参加させた。しかし、それはただ性的秘儀のためである」(『異人その他―他十二篇』)としている。「マリンド族のうちでもマヨ結社以外の結社では、女とこどもは絶対に参加させられなかった」。本質的には、男子の秘密結社であるということだ。
男女二神として現れる来訪神を組織しているのは、男子結社だった。そして、このマヨ祭儀からは、男女二神として現れる前の段階で、穀母が殺害されて共同幻想化する段階でも中心的な役割を果たしているが男子結社だと受け取ることができる。それなら、琉球弧の男子結社も、男女二神として現れる来訪神祭儀の前に遡る射程を持っているということだ。
また、この祭儀の過程で、大人たちは仮面仮装の姿で祖先に扮している。これは、農耕祭儀のなかで男女二神として現れる来訪神の元の姿なのかもしれない。秘密結社の通過儀礼のなかで他界を現前させるために現れた神は、農耕祭儀のなかで来訪神化したのではないだろうか。
もうひとつ、マヨ祭儀では、「精液を混ぜた黒い泥で、自分の歯を黒く塗る」とされたが、祭儀の各段階で初めて食べることにされる植物にはことごとく精液が混ぜられている。ハイヌウェレ型神話の源流とされるメラネシアにおいては、男根と精液に対する強い信仰が見られるという。たとえば、パプア台地東南部のサンビア族のある儀礼では、男子結社の入社式や年齢階梯ごとの儀礼のなかで、「口唇性交により大人の精液を飲むことを教えられ」る。結婚後も、女性が儀礼を経て性交が許されるまで続けられる。
なぜならそれによって妻の成長が促進され、妻の肉体が受胎可能となると信じられているからで、サムビア族の信仰によれば、妻から出る母乳もこのようにして彼女が夫から受けた精液の変化したものにほかならない。また胎児の骨、皮膚、筋肉、内臓などもすべて精液によって形成され成長するもので、夫はそのために妻が妊娠したあとも、怠らず性交に励み、胎児のために精液をたえず母体の内に供給しつづけねばならぬと信じられている(p.81『縄文土偶の神話学―殺害と再生のアーケオロジー』)
ここでの精液は、対幻想のなかのそれではなく、もはやそれが植物や人間を成長させる共同幻想と化している。「かれらの共同幻想にとっては、一対の男女の〈性〉的な行為が〈子〉を生む結果をもたらすのが重要なのではない。女〈性〉だけが〈子〉を分娩するということが重要なのだ」と吉本隆明は書いたが、同じように言えば、この共同幻想のなかでは、男性の精液だけが妻や子を成長させると信じられていたということである。そうであれば、マヨ祭儀において集団強姦するのも、できるだけ多くの精液によって共同幻想の象徴である食物として再生させる意味を持つものだったと言える。この段階での男子結社とは、精液を生命の源泉として共同幻想化したものだと言える。
すると、琉球弧の来訪神儀礼のひとつボジェの持つボジェマラの由来は、この男女二神の来訪神儀礼の前の段階で、穀母が殺害される共同幻想の段階にあると考えることができる。
また、ぼくたちは以前、マリンド・アニム族には明確な転生信仰を見出せなかったが、霊魂は幽霊として、昼は鳥(鶴)や鴉の姿を取るという。しかし、マヨ祭儀にも示されるのは植物への化身が考えられていると見なせる。この信仰は、母系社会が進んだ段階では、再生信仰へと転化されるはずだ。
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