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2014/09/22

イェンゼンの「殺された女神」

 アードルフ・E・イェンゼンの『殺された女神』から。

 蛇は長い放浪の末にヤウィを出産。美少年であるヤウィをデマ・アラメンブは誘拐する。ヤウィはアラメンブの妻を誘惑したので、アラメンブはヤウィの殺害を決める。殺害の儀式は、呪術に長けた人々によって大げさに実行された。しかし自分の決定に後悔したアラメンブは蘇生させようとするが、間に合わず、アラメンブは生命の薬を蛇に与えた。そこで人間は死に、蛇は不死になった。殺されたヤウィの頭からココヤシが発生した。

 別の神話。女が息子とともに祭場から逃げ出し、冒険に充ちた放浪の末に、ある村に辿りつくが、そこで男達や若者たちに強姦され、殺害され食べられてしまった。「われわれはこの種の宴会を毎年繰り返すことにしよう」と男達が言った。この女が「マヨの母」である。

 別の神話。マリンド族では、最初は女が首狩りを行っていた。男性の装飾品をつけ、男性の武器で武装し、狩りから帰る途中の男達に襲いかかり、殺害した。怒ったデマ・ゲフは彼女らのほとんどを殺した。殺害が男性の職責なのはここからだと考えられる。

 結婚式習俗においても、花嫁は結婚式の前に村外の藪のなかに連れて行かれ、そこで男達と若者によって侵される。これも神話素から導かれている。

 最初の死は、通常の死ではなく、「許し難い性交」を発端にした殺害だった。そこから有用植物と人間の食べ物が発生した。

 これらをつなぐと、マヨ祭儀のアウトラインも浮かび上がってくるのは分かる。

 古栽民のあいだにはこのように、世界と人間は原古に神話の中の事件が起こることによって、現在ある通りのものに成ったので、世界の秩序が現状の通りに保たれ、各世代のまだ人間になりきっていない子どもたちが人間にされるためには、その神話の事件がたえずその通りにくり返されねばならぬという、牢乎とした信仰があった。そしてこの信仰に基づいて彼らは、子どもから大人に成ろうとする若者たちに入社式の中で神話の事件を、能う限り生々しいしかたで体験することを求めたので、その入社式のなかではとうぜん、神話の事件のもっともも中心的な出来事であった作物の母体となった存在の殺害が、能う会議生々しくくりかえさねばならなかった。そして殺した犠牲者を、畑などにそのは撒いたり埋めるより前にしばしば食べもすることによって、彼らは、自分たちが日々口にしそれによって生命を養われている作物が、実は原古にその発生のため犠牲になった存在の血と肉にほかならぬことを、そのつど生々しく表明しながら銘記することを続けてきたと思われるわけである(p.63『縄文土偶の神話学―殺害と再生のアーケオロジー』)

 しかし、この説明でも、殺害の理由は分かるが、なぜ食べなければいけないのかは尽くされないと思う。殺害した女性を食べることが、「実は原古にその発生のため犠牲になった存在の血と肉にほかならぬことを、そのつど生々しく表明しながら銘記することを続けてきたと思われる」のは聖性を高めることにはなっても、これではある意味で苦行としてやっているようにも見える。

 まず、イェンゼンも「人身御供に関しては、そもそも動物供犠と区別されない」と書くように、人食は、この段階では、人間と植物と動物との区別があまりついていないことは言える。すると、栽培を覚えた植物を食べるように、殺害した女性を食べるのだということは言えそうだ。まだ言えるとしたら、穀母との同一化、共同幻想との一体化だろうか。

 イェンゼンもエリアーデと同様、この習俗を母権制と結びつけていない。「ここで観察に上る諸民族のほんの一部が母系出自を有するに過ぎない」としている。

 殺害に関して、イェンゼンは、これが「戦闘的男性的精神から生れた英雄的行為ではない」として、「殺害がこの世界像の中でかくも顕著に前面に現われたことを私は断々乎として食物[栽培]への従事に帰したい」と書いている。栽培する植物の増殖を促す行為なのだ。

 この段階では、女性が子を生むことが重視された。それが栽培植物の生成と同一視された。そこで、女性は共同幻想に変身するために殺害されなければならない。ハイヌウェレ型の神話では、しばしば男性からも植物が生える異文を持っている。キワイ族では最初の有用植物は男性の精液から発生している。しかし、最終的には女性が産むことが重視された。そして男性は、殺害による増殖行為に関わった。

 ハイヌウェレ型神話のなかで、有用なものを女性は排泄物として出す。それは、栽培した植物が実りをもたらすことに対して、人間を擬植物化している。神話のなかではそれを成り立つ。しかし、現実世界の女性は排泄物として有用なものを出すわけではない。そこで、殺害され、植物として再生するという過程を踏む。栽培する植物の増殖力は狩猟採集の段階からみれば驚くべきものだった。そこで、増殖を祈願するには、あるいは増殖と歩調を合わせるには、殺害は繰り返されなければならなかった。

 ここで神話のなかに生きることは完結される。だから、ここまできても、殺害した女性を食べる行為が必然化されるように思えない。それは必然ではないのかもしれない。ただ、この穀母という共同幻想との一体化を目指した行為は、それとは別に、死んだ人間を自分のなかで再生させるという別の信仰への契機になったものかもしれない。



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