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2014/08/14

無他界論 メモ

 琉球弧において無他界の段階を想定することはできるだろうか。他界が発生する前の段階の人類が琉球弧にいたことはあるだろうか。

 この問いに葬法から示唆を与えてるのは、酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』だ。酒井は、琉球弧の葬制を議論するなかで、野ざらしの風景から出発している。野ざらしとは何か。山野に散在する人骨のことだ。ぼくたちは洞窟に人骨が散乱しているのを知っているが、酒井によれば、それは洞窟に限らない。奄美大島の古見ではミャー(広場)の浦に昔は人骨が山のように積まれて、島人が祀っていた。瀬戸内では、海辺に散乱する人骨が村の禍になるとして、モーヤ(骨置場)を作って納めた。徳之島の徳和瀬のナーパマの近く、ハマジ川の近くの藪の中にも古い人骨が散乱していた。沖永良部島の小さな森、ウジチ山にも人骨がある。伊計島の西側には人骨が散らばっていた。

 歌う髑髏の話もある。これは同工異曲のものが多いが、たとえば沖縄島羽地の沖に奥(おう)島ではこうだ。夜になると奥島から女の声で「屋我地前の黒潮渡ららん(渡ることができない)」という上の句だけの歌が繰り返し聞えてくる。あるとき夜釣りに行った翁がこれを聞いて、「七橋架きて渡ち給ばり」と下の句を添えてやると、以来下の句も添えて歌うようになった。奥(おう)島はかつて死者を運んだと伝えられる島だ。

 酒井は「歌う髑髏」の昔話は大和由来かもしれないが、伝承の根拠は「野ざらしの風景」として、もともと琉球弧にあったものだと考えている。そして、この野ざらしの風景のひとつの系譜として、死者が出るとその家を捨てたという大胆な仮説を提示しているのだ。家を捨てる。それは本当にあったのだろうか。

 民俗を聴き取る耳を持った柳田國男は、南島を旅行した際に、沖縄島知念において、「死人を大いに忌み、死すれば家を捨つ。埋葬なし。棺を外におき、親族知己集飲す」と記している。また、19世紀に首里王府は久米島具志川に対して、死者の出た家で住居家財を放置して別居することがあるのに対して止めるよう通達している。確かな感触を伝える例は少ないが、奄美大島南部では死後の「マブイ別し」の時に、「イキチュンチャヤ・スィゲーユン」(生きている人は巣を変える)という言葉がよく使われ、沖縄島島尻では主人が死ぬと火の神はもちろん、臼・鍋などを庭に出して転がすが、これを「家(やあ)ざらえ」と言い、家を捨てたことを示唆する言葉を残している。与那城では、死後浜に出て払い清めをする際、家の灯を消しておき、家に入る際に改めて灯をつけるが、これは家を更新することを含意させている。現代では琉球弧においても痕跡を辿るしかないわけだ。

 ここで琉球弧の南に目を転じると、死者の出た家に死者を残し、遷居する例を見出すことができる。

 1.クブ族(スマトラ島)。家の中に死者や瀕死の病人を残して逃げ去り、遠く隔たった場所に新しいさしかけを作って住む。以前には死者を埋葬せず、死者の死んだ小屋または死者の発見せられた場所に木の棒で二尺位の高さの垣をして、その上に木の葉で屋根を作り、それがすむと、その場を逃げ去ったという報告もある。

 2.イロンゴット族(ルソン島)。死者が出ると家族の人々はその夜中、悲しい声で泣き続け、その声は遠方からでも聞える。死の翌朝、死者の出た家を捨て、再び帰来しない。価値のある物は持ち去る。瀕死の病人の家が立派で捨てるに忍びない時は大急ぎで小さい別の小屋を作り、死去前に病人を遷す。

 3.プナン族(ボルネオの僻遠の叢林、諸大河の源流地方に分布する移動部族)。弔葬儀礼を行わない。人が雨小屋のなかで死ぬや否や20~30人からなぢ彼らの集団は死体を小屋に残して、ただ木の葉や声だで覆うておくのみで、他に移ってしまう。(棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』より要約)

 いずれの例も死から時間をおかずに家を出ている。そのさまは「逃げ去る」と観察されたほどだ。南太平洋でも記録された数は多くはないが、死者を家に放置し家を捨てる習俗があるのは確からしく思える。この習俗は直観的にも古層に属するものと見なすことができるが、それ以上に関心をそそられるのは、スマトラ島のクブ族について、「未開のクブ族では、人間は死んでしまえばそれまでで、死後の世界の観念については何も持ち合わせていない」と報告されていることだ。昭和初期の宗教学者は、「クブ人の多くは森、川、雨、風等の自然の悪霊をみとめ、種々の病気特に痘瘡をこれらの悪霊の業と考えて病人に対しては呪文を唱えたり唾を吐きかけて悪霊を逐う」、あるいは「子供の誕生後の浄めの式に祖先を呼んで踊る」(宇野円空『宗教の史実と理論』1931年)と記しているから、他界観念を持たないとはいえ、最古層の観念ではないことが分かる。しかし、それでも、これらの報告を信じるなら、葬法から辿ると、家に死者を放置し、家を捨てる習俗は、他界の発生以前までの射程を持っていると考えることができる。

 琉球弧において、死者を家に残し家を捨てるというのはどういう状態を指しただろう。何を考えてそうしたのだろう。そこに接近するには、生者が家を出る様式から死者が家を出る様式になるまでの過程を知る必要がある。

 酒井卯作は、生者が家を出た痕跡として、「外竈(かまど)」の習俗を挙げている。死者の出た家で別火(べっか)、炊事の火を別にして過ごすということだ。

 1.家族は葬儀を終えて帰宅しても屋内には入らず、庭に竹と莚で作ったタマヤドという小屋に宿って一夜を送り、食事の調理は他家に依頼した(沖永良部島知名)。
 2.子供が死ぬと、母親を恋しがって帰ってくるというので家族は三日ばかり他家に泊まる(西表島古見)。
 3.死後三日目をミーダチといい、浜の清浄な砂を持ってきて門の入口に一尺四方に敷きつめ、その夜は他家に泊まる。翌朝帰宅してその砂になにかの足跡がついていたら死者が帰ってきたといって忌む(石垣島川平)。
 4.四十九日以内の吉日にファーに遊びといって、葬家の遺族や親戚一同が米や野菜などをもって浜で煮炊きなどをして一日を過ごした(沖縄島知念)。

 これらの例は、葬儀の日、三日間、三日目、四十九日以内の吉日と日取りはばらばらであり、西表島古見のように対象も子供に限定されている場合もあるが、「外竈」をしなければならないのは、死者の家族が第一にあり、それが遺族、親族に及ぶことがあるのが分かる。

 家族の単位だけでなく、それ以外にも及ぶ場合も酒井は挙げている。

 5.息を引き取るとき、その場に居合わせた者は、仮小屋を外に作って一夜泊まる(沖縄島国頭)。
 6.死者の葬儀に参加した者は五月になって一日だけ家をあけて、野外に天幕などをはって一晩を過ごした(沖縄島今帰仁)。
 7.新築して三年以内、重病人のいる家などの人が葬式に行くと、その家族はミーカガソーズといって、三日間は親戚か知人の家で忌が晴れるまで泊まる(宮古島池間)。

 死に居合わせた者は家族であることがほとんどだろうが、葬儀に参加した人にまで及ぶ場合がある。また、宮古島池間の場合は、葬儀に参列した人だけではなく、その家族にまで及んでいる。

 ここから言えるのは、「外竈」が、死者の家族を最小単位とし、親族、遺族や死、葬儀に立ち会った当人またはその家族を漠然としてはいるが最大の範囲とみなしていることだ。

 これは死者の霊魂である死霊を恐れてのことと解しやすいが、ぼくたちは過去と現在の違いを浮き彫りにする言葉がほしい。ここで思いだされるのは、吉本隆明による死の規定である。

 人間はじぶんの<死>についても他者の<死>についてもとうてい、じぶんのことみたいに切実に、心に構成できないのだ。そしてこの不可能さの根源をたずねれば<死>では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から<浸蝕>されるからだという点にもとめられる。ここまできて、わたしたちは人間の<死>とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に<浸蝕>された状態を<死>と呼ぶというふうに。<死>の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。たとえば、未開社会では人間の生理的な<死>は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような<侵蝕>を実するために、個体の<死>は共同幻想の<彼岸>へ投げ出される疎外を意味するにすぎない。近代社会では<死>は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、<共同幻想>の<侵蝕>は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりというがお世話になっております。年が流通するようになる(『共同幻想論』)。

 琉球弧は未開社会ではないが、未開的な野生の思考を強く保存している。そこでは、死は、ここで言えば死霊という共同幻想に死者の自己幻想や対幻想が侵蝕され、とって代わられてしまう。けれど、それは死者のみではなく、死者の対幻想の対象だった家族の対幻想にも侵蝕が及ぶ恐怖を喚起せずにはおかない。「外竈」というのは、この共同幻想からの侵蝕を、残された対幻想である家族に及ぼすのを防ぐ仕草のように見えてくる。

 ところで酒井が例示した「外竈」の習俗は、既に死者の家を捨てるのではなく、死者を家から出すようになって以降のものである。生者が死者を家から出すようになっても、外泊をするのは、もともとは家を捨てた習俗の名残りではないかと見ているのだ。これは的を射た推定ではないかと思える。

 ぼくたちは死者を放置するように家を捨てた例を見てきたが、家に留まるまでの中間の形態も南太平洋に見いだすことができる。それは段階化できるものだ。

 まず、死者を放置するのではなく、死者を家に埋葬して家を捨てる場合がある。

 1.カイ族(フィンシュハーフェン奥地森林地帯)。死の原因は魔術および死霊の働き。臨終の時は、死者の手を取って打ち、冷たくなった足をのばし、死者に物を言って頭をあげ、優しく寝かす。ある者は飛びあがり、槍で見えざる魔術師を刺し、ある者は家をゆさぶり、ある者は小刀を振りまわして耳を傷つけ血を流す。

 死体は死後2~3日目に埋葬。墓は家の下に掘る。墓穴はきわめて浅い。生前、埋葬を嫌がった場合は、包んで家の隅に置き、死汁は管で地上に流れるようにする。死汁が出なくなると骨を取り出し、下顎骨のほかは埋葬する。誰かの死んだ家は捨てる。死霊が出没して、夜は不安だからである。死者が首長や主要人物である場合には、全村を捨て、新しい場所に村を造る(p.328)。

 2.バテクノン族(バハン州)。死者は死んだ小屋に埋葬せられた。墓は深くなく、外に微かに死臭が匂うほど。小屋には椰子の葉が加えられ、蜂窩状にされて中が覗けないようにして、生者は遷居する。墓を恐れて行きたがらない。移ったところと墓の道には障碍物を置く(p.515)。

 3.バゴボ族(ミンダナオ島)。病気が重症の場合は、巫者が供物の上に木像を置き、これを病人の身体の上を越させ、形代にする。死体は美服をまとわせ、家の中央に安置。哭人は死体のそばに座り、友人たちは死者の徳を讃える。振る舞われた飲食にあずかる。一夜、棺ができるまで死体をとどめる。納棺し、両半を合わせて縛り、割り目を石灰で塞ぐ。家の下に埋葬する。タブーを解いてから家を捨てる。家は朽敗にまかせる。「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という(p.599)。

 4.タミ族(メラネシア人。ニューギニア東部フォン湾の小島群)。家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。死体から群がる蛆を、ココナツの殻に集め、蛆が出なくなると、短い霊魂が、あの世に行ったと考える。死霊は自分を殺した魔術師を恨む。服喪期間は2~3年に及ぶ。喪明けに死者のために夜通し踊り、8から10日間、続く。最後に墓上の小屋を倒して燃やす。「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられるのである」(p.325)。

 いずれも死者は家に埋葬された後、相当な期間、家に残った後、捨てている。タミ族では家は焼かれている。次に、死者を家の外に埋葬するが、家を捨てる場合がある。

 5.ババル島では死者の家を捨てる。捨てる際かまどの灰を外に投げすてる。死体は漁網につつんで埋葬することもあり、岩窟に台上葬することもあり、舟棺を用いて埋葬することもある。東部を東にする。後に頭蓋を掘り、洗骨して饗宴を催す。これがすむと寡婦が洞穴に頭蓋を納める。そこから木の枝を持って来て村の人々がこの枝から木の葉をちぎる。これは死霊の助力を確かめる象徴的手段であるという。服喪期間中死者の夫は剃髪するし、妻は次の新月まで身体を洗わず、頭を布で包む(p.640)。

 死者は別の場所に埋葬するが、それでも家を捨てるのだ。そして次には、死者を家の外に葬り、生者は家を出るが、一定期間の後、家に戻ってくる例である。

 6.アンダマン島人。墓地には特定のところはない。居所から少し離れている便宜のところならどこでもいい。埋葬または樹上葬。埋葬は死の当日行うが、翌日に延びる場合は、通夜をし時々泣く。暗い間は男たちが代わる代わる歌を歌う。死を惹起した精霊を遠ざけるためだという。服喪期間の終わるまで数か月、居所を移し、忌明になると元の居所に帰ることもある。忌明までは誰も墓の付近に近寄らない。服喪の終末において死者の骨を掘り出し、泣く。舞踏を行う。海または渠の水で洗って家に持ち帰る。頭骨と顎骨を特に重んじ、赤と白に塗り、別々に首にかけるように飾網を採りつける。(p.509)。

 7.ザブブン族のイジョク人は家の中に死者が出ると、直ちに遷居する。死者の帰来を恐れるからである。しかし、2ヶ月経つと元の所に帰ってくる。死体は伸展位にして仰臥させ、頭を夕日の方向に向けて埋葬する。埋葬のときに、「先にいらっしゃい。私は後から」という。彼らは死後7日間は死霊の恐怖の中に住む。死霊は西方に行くが、その幸不幸は知らない。だが一方では、死霊は旧屋のあたりをさまようと考え、新しい墓には食物を墓の中または上におく(p.514)。(棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』より要約)

 ザブブン族では二ヶ月経つと戻るが、アンダマン島人では、戻ることもあるというように過渡期の様相を持っている。

 南太平洋の例を辿りながら、死者に対する哭き、死臭、洗骨、洞窟への納めなど、琉球弧と二重写しに見える習俗に驚かされるが、ここで死者を放置するように家を捨てるところから、死者を家に埋葬して家を捨てる、死者を家の外に埋葬して家を捨てる、死者を家の外に埋葬して、家を出るが一定期間を置いて戻るという段階のあったことを推定することができる。

 また、バゴボ族の「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という言葉や、タミ族の「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられる」という観念を見ると、家は人格化された死者の外延と見なされていることが分かる。死による共同幻想の侵蝕は、家屋の侵蝕という形で可視化されて捉えられていたのだ。そこで、生者はその侵蝕を逃れるために家を捨てなければならない。これが、死者を外に埋葬するようになっても家を捨てた理由だ。

 それが、家を捨てるのではなく、死者を外に出す様式にまで変わっていく過程は、死による共同幻想の侵蝕に対して、残された家族の対幻想が独自の位相を持ち、家屋を死者の家から生者の家へと変貌させ、共同幻想の侵蝕を防ぐまで強化させてきたという意味を持つと思える。この背景には、狩猟採集から農耕による土地への定着という生産様式の変化を対応させることができる。

 ぼくたちは琉球弧の葬法について、風葬という呼び方で洞窟墓が多いことを知っている。火葬や埋葬の前は、洞窟の近くに風葬し、それを洞窟に納めていたというのが漠然としたイメージだ。そこに家族は通ったのだ。

 死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気さを、あたりに漂わせていた。棺の置かれた地点の近くで咳払いをして、死者の名前を呼んだり、話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し、大きな臭気は消え失せ、ほのかな臭いを感じさせるだけになったという。棺の前で死者の生前の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂はこれに感応し、生きていたままの姿が現れて話し合いができるし、暫くたつと消えて行った、と伝えられている(山田実『与論島の生活と伝承』

 与論島で歌われる「道イキントー節」で、「後生ぬ門や一門 阿弥陀門や七門、うり開きてい見りば 親ぬいめいウシヨイ(あの世の入り口は一つしかないが、阿弥陀仏の門は七つある/それを開けてみれば、親がいらっしゃる)」とは、死者が腐敗していくさまを覗いたものだと言われている。

 しかし、琉球弧において殯が行われていたのなら、以前は通うのではなく、死者に付き添った段階があったはずである。酒井は、この点にも視野を当て、茅や竹の葉などで作りあげた喪屋を洞窟の前庭において殯をしたのではないかとしている。原形の喪屋は単純なつくりで構わないしそれしかできなかっただろう。そしてそうであればこそ、野ざらしの風景も生まれるというのだ。また、喜界島で洞窟墓のことをモーヤ(喪屋)と呼ぶのは、その原形は殯をした喪屋を指していたと言う。

 そしてさらに、この段階も、すでに死者を家から出した後であるなら、家自体が喪屋であった段階を想定することができる。この段階も酒井によって追求されている。それは琉球弧において死の当日に葬式を出せない時に、蚊帳を吊るす習俗が広く見られることだ。座喜見島では、身内の者はそのなかに入るが、ぼくたちはこれを添い寝の形態と見るが、酒井は同時に家が喪屋であった頃の殯の名残りを見るのである。

 しかし、蚊帳は新しいものであってみれば、それ以前があることになる。その例も挙げられている。

 1.他人に見せないために、死者の周りに筵をはる(徳之島母間)。
 2.二番座に網をめぐらし、その網に芭蕉布の反物を吊るし、その中に死者を西枕にして寝かせた。昭和になって茅になった。これは猫を死者に近づけないためで、猫は死者をまたぐと、死者はいつまでも腐らないという(沖縄島今帰仁)。
 3.その日に野辺送りができないときは、死者に網をかぶせておく(宮古島狩俣)。
 4.二番座の空いている方に、麻の幕をはる。幕内には身内の者だけが入る(竹富島)。
 5.葬式当日に限って葬家に網をはった(石垣島川平)。

 このなかでも酒井が注目するのは網だ。蚊帳が家を喪屋とした名残りであり、蚊帳以前には網をはった。なぜ、網なのか。酒井は、漁を生業としている島人の日常道具である網の目の呪力を指摘している。たとえば、網ウチャー(網打つ人)が近づくと、ムン(悪霊)は背を向ける(沖縄島具志川)、また、漁をしているときにムン(悪霊)に会った際に、網を被って何を逃れた(八重山)という伝承がある。漁以外の場面でも、病人が全快しない時、家を移る呪術的行為を行うが、人目を避けて深夜、病人に網を被せて家を出るが、これはムン(悪霊)が病人に憑かないためである(八重山)。さらに、産育のなかでも産明けの日に家の入口に網(漁網)をはった(伊計島、宮古島)、産婦や生児は身体が弱ってムン(悪霊)がつきやすいので、網を被せておく(与論島)という習俗もある。

 酒井は網の目が悪霊から守る呪力を持ったと指摘している。ぼくたちはここで、ババル島において、「死体は漁網につつんで埋葬することもある」ということに共通の視線を感じることもできる。

 酒井によれば、蚊帳が喪屋の名残りだということは日本の民俗学の定説になっているが、琉球弧を見れば、網をはる行為に表れるように、もともとは家が喪屋であったことを示すものではないかということだ。ぼくたちは、家が喪屋であったことと同時に、殯のイメージが次第に可視化されていくのを感じる。そしてこれまでの考えでいえば、網の目はSF映画でシールドをはるように、共同幻想の侵蝕を防ぐ手段であったと見なすことができる。

 まず、原像として死者を家に放置して家を捨てる様式がある。次に、南太平洋の報告では埋葬に焦点が当てられていたが、「野ざらし」に照らす限り、琉球弧では埋葬はなかったのかもしれない。そしてこの段階では琉球弧の場合、家を喪屋とし殯をした期間がクローズアップされる。ついで死者は外に出されるが、その際、洞窟などの葬る場所の近くで拭けば飛ぶような草屋根の小屋を作り喪屋の生活を送る。その殯もやがて通う形式に代わるが、ここで風葬が土葬へと埋葬の様式に変わった時、矛盾が露わになると思える。殯をする場がなくなるからである。バコバ族では「人はすでに往き、家も往ったに違いない」と言い、タミ族では「死霊は、記憶の存する限り、家の霊」と考えられていたことからすれば、家とは単なる建築物ではなく、死者の人格が外延された像に他ならなかった。家を捨てるのが原像であったなら、喪屋の場が無くなるということは、死者の出た家は、生者の家と死者の家という二重の意味を持つことになる。

 酒井の追求をここでの問題意識に置き換えると、この矛盾は二つの所作によって切り抜けようとされている。ひとつは、家を時間で区切ることである。石垣島宮良では、葬式の当日だけダビヤー(荼毘家)と呼び、以後四十九日までをイミヤー(忌み家)と呼ぶ。川平も同様だが、葬式の当日だけは家の周囲に網をはりめぐらせたように、葬式当日と翌日以降は呼称を変えるのだ。この言い換えの意味は、おそらく、ダビヤーとは死者の家であり、イミヤーとは生者の家のことだ。西表島古見では、死者を出した家をダビヤー、ウリヤー(送り屋)、ムーヤ(喪屋)とさまざまに呼ぶ。これは呼称を変える所作が忘れられた後に一体となったことが伺えるが、ぼくたちはここに、死者の家としてのダビヤー、ムーヤと生者の家としてのウリヤーが同一視されているのを見るのである。

 もうひとつは家のなかで死者の位置を変えることである。石垣島では、重病人がなかなか全快しない時、病人に網を被せて他家に移す呪術を行うが、これをシキニウツリというが、酒井はこれは「褥移り」、つまり死者の褥を移すことを指すと突きとめている。波照間島では死に装束を着せることをスキニと呼ぶが、本来は死者の場所を移したことを指しただろう。喜界島阿伝では、通夜が終わって明け方になると、死者を病室から表座敷に移すことを「座敷直し」と呼び、加計呂麻島では生前の枕を藁束の白紙で撒いた枕に取りかえるが、これを「枕替え」と呼ぶ。さまざまな呼称で呼ばれるが、この死者の位置の移動について、酒井は喪屋の生活の短縮形を見ている。ぼくたちはここに、家を死者の場から生者の場に変換する所作を見ることができる。

 けれども、この時間と空間の切断線を設けたとしても死者の家が無くなることに変わりはない。それは本当に消滅したのだろうか。酒井の考察はこの問いに答える地点まで及んでいる。

死者のための家型の厨子瓶や墓所は、死後の世界が生前同様の生活を営んでいることを意味するばかりでなく、本当は住居そのものが死者の家であったものが、死者が屋外に移されることによって、家もまた模型として死者とともに移動したものと解釈できないだろうか。
 いうなれば生きている人間の知恵と狡猾さによって、死者のもっている絶対的な権威を損なわないように、その領域をせばめながら、死者の置かれた場所と生者のそれを入れ替えていった過程が、喪屋の歴史ではなかったかと思う(p.170『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 酒井の幻視は透徹していると感じるが、ぽくたちは見慣れた「家型の厨子瓶や墓所」の持つ歴史の深度に身震いを覚えないだろうか。

 ところで、ぼくたちは死者を家の外に出して以降に、家に埋葬したという民話にも出会う。これは柳田國男が追究した「炭焼小五郎が事」の説話の系譜に属するものだが、ひろく琉球弧でも見られる。核心の部分だけ抽出してみる。

 笊(ざる)などを売りあるきながら細々と生活している男が、それとは知らず、以前追い出して別れた妻の家にやってきた。女は追い出される原因になった、ムダ(食べられないようなもの)を作って出すと、元夫はうまいという。女は元は妻だったことを明かすと、男はびっくりして、箸を口に入れてその場で死んでしまう。それを見て、元妻である女は急いで竈の下に穴を掘って埋めようとする。そこに夫が帰って理由を聞く。女房は竈のおかげで金持ちになったから、なお栄えるために竈を作っていると言って手伝わせて、神として祀り、ますます繁昌した。それを知った人々は方々で竈を神として祀るようになった(与那国島、窪徳忠『沖縄の習俗と信仰』より)。

 この民話は、家を捨てることから始まった葬法の流れのなかで、家の外に出すことにした死者を、再び家の中に取り込もうとしているように見える。しかし、両者はその位相を全く異にしている。死者は家族ではないし、家も捨てはしない。むしろ家の繁栄と結びつけられている。この民話は、対幻想とその場である家が共同幻想に対して、独自の位相を持ちその侵蝕を防ぐことができる段階のものだ。そして訪れる者は盲目という共同幻想の弱者である場合もあるが、この民話のように前夫の場合がことの性質をもっとも先鋭的に物語ると思える。その家の妻にとって最も矛盾した存在は、前夫である。その前夫が女の対幻想の場である家を訪ねるのは矛盾した行為の象徴であり、その夫が死に家が栄えるのは、対幻想の矛盾を解消することが対幻想をますます強固にするという構造を持っていることを示している。これは、農耕社会が定着し、かつ雇い人などを持ち、富の増殖が行われるようになった段階に対応しているはずである。この民話の流布のもとになったのは富者か強者の家だと考えられる。

 ここで民話の虚構を解くと、現実の根人や宗教司祭者の家の姿が現れる。仲松弥秀は、昔は死人を自分の家の背後に葬ったという、久高島の古老から聞いた話を父祖から聞いたと紹介した上で、沖縄島豊見城では自分の屋敷に拝み墓がある家が四軒、隣り村の高嶺では二軒であるが、いずれも旧家であるとしている。知念には宗家と祝女筋の家も家に接した森の中に墓があり、玉城の旧家の屋敷内の岩下にも拝み墓があると言う(「村落の社会構造と祭祀世界」)。

 先の民話では、前夫が葬られるのは、竈、つまり家屋内における他界の入口である火の神の場所だ。そこに死者を葬ることで、対幻想の矛盾の死を共同幻想化させようとする仕草が伺える。この民話のバリエーションのなかには、死ぬ場所と葬る場所が家屋内ではなく高倉である場合もあるが、そこではもっと民話の本質ははっきりしてくる。つまり、対幻想に矛盾した存在の死によって、家の対幻想を、富の象徴である高倉という共同幻想に同致させているのである。

 実際の習俗のなかでの屋敷内の拝み墓は、前夫の来訪と死という事態をさしはさんでいない。いわば民話の方が屋敷内に埋める背景にある現世の利害をよく物語っている。しかし両者は、家の対幻想を共同幻想と同致させるものとしては同型にあるものだ。ぼくたちは前に、祝女が御嶽に祀られている髑髏を裸体になり拭うという行為のなかに、共同幻想を自分の対幻想の対象とすることによって、共同幻想を対幻想に同致させる儀礼を見たが、ここでは、ベクトルは逆になっており、対幻想を共同幻想に同致させる信仰が見られるのである。

 現在では、吉本が言うように「死ねば死にきり」であり、どんな他界観念も持つことができない。あるいは心の底から信じることはできない。しかし、無他界ということが虚無的な響きを持たないためにはどうすればいいだろうか。それを克服するひとつの方向は、かつてあった無他界の世界を知ることであると思える。ぼくたちは、「未開のクブ族では、人間は死んでしまえばそれまでで、死後の世界の観念については何も持ち合わせていない」という報告には不服を覚える。無他界を単に他界の欠如としてしか捉えていないからだ。しかし、未開の無他界の段階には、生と死を連続として捉える豊かな野生の思考が宿っていたはずである。その豊かさを知ることが、ぼくたちが無他界の生を豊かに生きることにつながると思える。未開の無他界の信仰をそのまま受け継ぐというわけではなし、それはできない相談であることは言うまでもない。けれども、それを汲み上げることが、未来の無他界を生きる視線を持つための必須であることも確かだと思える。そしてそれを、琉球弧が辿ってきた通路から汲みあげるのが本来的であることも同じように確かなことなのだ。

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