なぜ、家を捨てたのか。
琉球弧において、死者を家に残し家を捨てるというのはどういう状態を指しただろう。何を考えてそうしたのだろう。そこに接近するには、生者が家を出る様式から死者が家を出る様式になるまでの過程を知る必要がある。
酒井卯作は、生者が家を出た痕跡として、「外竈(かまど)」の習俗を挙げている。死者の出た家で別火(べっか)、炊事の火を別にして過ごすということだ。
1.家族は葬儀を終えて帰宅しても屋内には入らず、庭に竹と莚で作ったタマヤドという小屋に宿って一夜を送り、食事の調理は他家に依頼した(沖永良部島知名)。
2.子供が死ぬと、母親を恋しがって帰ってくるというので家族は三日ばかり他家に泊まる(西表島古見)。
3.死後三日目をミーダチといい、浜の清浄な砂を持ってきて門の入口に一尺四方に敷きつめ、その夜は他家に泊まる。翌朝帰宅してその砂になにかの足跡がついていたら死者が帰ってきたといって忌む(石垣島川平)。
4.四十九日以内の吉日にファーに遊びといって、葬家の遺族や親戚一同が米や野菜などをもって浜で煮炊きなどをして一日を過ごした(沖縄島知念)。
これらの例は、葬儀の日、三日間、三日目、四十九日以内の吉日と日取りはばらばらであり、西表島古見のように対象も子供に限定されている場合もあるが、「外竈」をしなければならないのは、死者の家族が第一にあり、それが遺族、親族に及ぶことがあるのが分かる。
家族の単位だけでなく、それ以外にも及ぶ場合も酒井は挙げている。
5.息を引き取るとき、その場に居合わせた者は、仮小屋を外に作って一夜泊まる(沖縄島国頭)。
6.死者の葬儀に参加した者は五月になって一日だけ家をあけて、野外に天幕などをはって一晩を過ごした(沖縄島今帰仁)。
7.新築して三年以内、重病人のいる家などの人が葬式に行くと、その家族はミーカガソーズといって、三日間は親戚か知人の家で忌が晴れるまで泊まる(宮古島池間)。
死に居合わせた者は家族であることがほとんどだろうが、葬儀に参加した人にまで及ぶ場合がある。また、宮古島池間の場合は、葬儀に参列した人だけではなく、その家族にまで及んでいる。
ここから言えるのは、「外竈」が、死者の家族を最小単位とし、親族、遺族や死、葬儀に立ち会った当人またはその家族を漠然としてはいるが最大の範囲とみなしていることだ。
これは死者の霊魂である死霊を恐れてのことと解しやすいが、ぼくたちは過去と現在の違いを浮き彫りにする言葉がほしい。ここで思いだされるのは、吉本隆明による死の規定である。
人間はじぶんの<死>についても他者の<死>についてもとうてい、じぶんのことみたいに切実に、心に構成できないのだ。そしてこの不可能さの根源をたずねれば<死>では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から<浸蝕>されるからだという点にもとめられる。ここまできて、わたしたちは人間の<死>とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に<浸蝕>された状態を<死>と呼ぶというふうに。<死>の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。たとえば、未開社会では人間の生理的な<死>は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような<侵蝕>を実するために、個体の<死>は共同幻想の<彼岸>へ投げ出される疎外を忌みするにすぎない。近代社会では<死>は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、<共同幻想>の<侵蝕>は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりというがお世話になっております。年が流通するようになる(『共同幻想論』)。
琉球弧は未開社会ではないが、未開的な野生の思考を強く保存している。そこでは、死は、ここで言えば死霊という共同幻想に死者の自己幻想や対幻想が侵蝕され、とって代わられてしまう。けれど、それは死者のみではなく、死者の対幻想の対象だった家族の対幻想にも侵蝕が及ぶ恐怖を喚起せずにはおかない。「外竈」というのは、この共同幻想からの侵蝕を死者の対幻想を営む場だっ田残された家族に及ぼすのを防ぐ仕草のように見えてくる。
ところで酒井が例示した「外竈」の習俗は、既に死者の家を捨てるのではなく、死者を家から出すようになって以降のものである。生者が死者を家から出すようになっても、外泊をするのは、もともとは家を捨てた習俗の名残りではないかと見ているのだ。これは的を射た推定ではないかと思える。
ぼくたちは死者を放置するように家を捨てた例を南太平洋に見てきたが、家に留まるまでの中間の形態も南太平洋に見いだすことができる。それは段階化できるものだ。
まず、死者を放置するのではなく、死者を家に埋葬して家を捨てる場合がある。
1.カイ族(フィンシュハーフェン奥地森林地帯)。死の原因は魔術および死霊の働き。臨終の時は、死者の手を取って打ち、冷たくなった足をのばし、死者に物を言って頭をあげ、優しく寝かす。ある者は飛びあがり、槍で見えざる魔術師を刺し、ある者は家をゆさぶり、ある者は小刀を振りまわして耳を傷つけ血を流す。
死体は死後2~3日目に埋葬。墓は家の下に掘る。墓穴はきわめて浅い。生前、埋葬を嫌がった場合は、包んで家の隅に置き、死汁は管で地上に流れるようにする。死汁が出なくなると骨を取り出し、下顎骨のほかは埋葬する。誰かの死んだ家は捨てる。死霊が出没して、夜は不安だからである。死者が首長や主要人物である場合には、全村を捨て、新しい場所に村を造る(p.328)。
2.バテクノン族(バハン州)。死者は死んだ小屋に埋葬せられた。墓は深くなく、外に微かに死臭が匂うほど。小屋には椰子の葉が加えられ、蜂窩状にされて中が覗けないようにして、生者は遷居する。墓を恐れて行きたがらない。移ったところと墓の道には障碍物を置く(p.515)。
3.バゴボ族(ミンダナオ島)。病気が重症の場合は、巫者が供物の上に木像を置き、これを病人の身体の上を越させ、形代にする。死体は美服をまとわせ、家の中央に安置。哭人は死体のそばに座り、友人たちは死者の徳を讃える。振る舞われた飲食にあずかる。一夜、棺ができるまで死体をとどめる。納棺し、両半を合わせて縛り、割り目を石灰で塞ぐ。家の下に埋葬する。タブーを解いてから家を捨てる。家は朽敗にまかせる。「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という(p.599)。
4.タミ族(メラネシア人。ニューギニア東部フォン湾の小島群)。家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。死体から群がる蛆を、ココナツの殻に集め、蛆が出なくなると、短い霊魂が、あの世に行ったと考える。死霊は自分を殺した魔術師を恨む。服喪期間は2~3年に及ぶ。喪明けに死者のために夜通し踊り、8から10日間、続く。最後に墓上の小屋を倒して燃やす。「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられるのである」(p.325)。
いずれも死者は家に埋葬された後、相当な期間、家に残った後、捨てている。タミ族では家は焼かれている。次に、死者を家の外に埋葬するが、家を捨てる場合がある。
5.ババル島では死者の家を捨てる。捨てる際かまどの灰を外に投げすてる。死体は漁網につつんで埋葬することもあり、岩窟に台上葬することもあり、舟棺を用いて埋葬することもある。東部を東にする。後に頭蓋を掘り、洗骨して饗宴を催す。これがすむと寡婦が洞穴に頭蓋を納める。そこから木の枝を持って来て村の人々がこの枝から木の葉をちぎる。これは死霊の助力を確かめる象徴的手段であるという。服喪期間中死者の夫は剃髪するし、妻は次の新月まで身体を洗わず、頭を布で包む(p.640)。
死者は別の場所に埋葬するが、それでも家を捨てるのだ。そして次には、死者を家の外に葬り、生者は家を出るが、一定期間の後、家に戻ってくる例である。
6.アンダマン島人。墓地には特定のところはない。居所から少し離れている便宜のところならどこでもいい。埋葬または樹上葬。埋葬は死の当日行うが、翌日に延びる場合は、通夜をし時々泣く。暗い間は男たちが代わる代わる歌を歌う。死を惹起した精霊を遠ざけるためだという。服喪期間の終わるまで数か月、居所を移し、忌明になると元の居所に帰ることもある。忌明までは誰も墓の付近に近寄らない。服喪の終末において死者の骨を掘り出し、泣く。舞踏を行う。海または渠の水で洗って家に持ち帰る。頭骨と顎骨を特に重んじ、赤と白に塗り、別々に首にかけるように飾網を採りつける。(p.509)。
7.ザブブン族のイジョク人は家の中に死者が出ると、直ちに遷居する。死者の帰来を恐れるからである。しかし、2ヶ月経つと元の所に帰ってくる。死体は伸展位にして仰臥させ、頭を夕日の方向に向けて埋葬する。埋葬のときに、「先にいらっしゃい。私は後から」という。彼らは死後7日間は死霊の恐怖の中に住む。死霊は西方に行くが、その幸不幸は知らない。だが一方では、死霊は旧屋のあたりをさまようと考え、新しい墓には食物を墓の中または上におく(p.514)。(棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』より要約)
ザブブン族では二ヶ月経つと戻るが、アンダマン島人では、戻ることもあるというように過渡期の様相を持っている。
南太平洋の例を辿りながら、死者に対する哭き、死臭、洗骨、洞窟への納めなど、琉球弧と二重写しに見える習俗に驚かされるが、ここで死者を放置するように家を捨てるところから、死者を家に埋葬して家を捨てる、死者を家の外に埋葬して家を捨てる、死者を家の外に埋葬して、家を出るが一定期間を置いて戻るという段階のあったことを推定することができる。
また、バゴボ族の「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という言葉や、タミ族の「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられる」という観念を見ると、家は人格化された死者の外延と見なされていることが分かる。死による共同幻想の侵蝕は、家屋の侵蝕という形で可視化されて捉えられていたのだ。そこで、生者はその侵蝕を逃れるために家を捨てなければならない。
それが、家を捨てるのではなく、死者を外に出す様式にまで変わっていく過程は、死による共同幻想の侵蝕に対して残された家族の対幻想が独自の位相を持ち、侵蝕を防ぐまで強化されてきたという意味を持つと思える。この背景には、狩猟採集から農耕による土地への定着という生産様式の変化を対応させることができると考えられる。
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