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2014/08/12

喪屋の移行

 ぼくたちは琉球弧の葬法について、風葬という呼び方で洞窟墓が多いことを知っている。火葬や埋葬の前は、洞窟の近くに風葬し、それを洞窟に納めていたというのが漠然としたイメージだ。そこに家族は通ったのだ。

 死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気さを、あたりに漂わせていた。棺の置かれた地点の近くで咳払いをして、死者の名前を呼んだり、話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し、大きな臭気は消え失せ、ほのかな臭いを感じさせるだけになったという。棺の前で死者の生前の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂はこれに感応し、生きていたままの姿が現れて話し合いができるし、暫くたつと消えて行った、と伝えられている(山田実『与論島の生活と伝承』)。

 与論島で歌われる「道イキントー節」で、「後生ぬ門や一門 阿弥陀門や七門、うり開きてい見りば 親ぬいめいウシヨイ(あの世の入り口は一つしかないが、阿弥陀仏の門は七つある/それを開けてみれば、親がいらっしゃる)」とは、死者が腐敗していくさまを覗いたものだと言われている。

 しかし、琉球弧において殯が行われていたのなら、以前は通うのではなく、死者に付き添った段階があったはずである。酒井は、この点にも視野を当て、茅や竹の葉などで作りあげた喪屋を洞窟の前庭において殯をしたのではないかとしている。原形の喪屋は単純なつくりで構わないしそれしかできなかっただろう。そしてそうであればこそ、野ざらしの風景も生まれるというのだ。また、喜界島で洞窟墓のことをモーヤ(喪屋)と呼ぶのは、その原形は殯をした喪屋を指していたと言う。

 そしてさらに、この段階も、すでに死者を家から出した後であるなら、家自体が喪屋であった段階を想定することができる。この段階も酒井によって追求されている。それは琉球弧において死の当日に葬式を出せない時に、蚊帳を吊るす習俗が広く見られることだ。座喜見島では、身内の者はそのなかに入るが、ぼくたちはこれを添い寝の形態と見るが、酒井は同時に家が喪屋であった頃の殯の名残りを見るのである。

 しかし、蚊帳は新しいものであってみれば、それ以前があることになる。その例も挙げられている。

 1.他人に見せないために、死者の周りに筵をはる(徳之島母間)。
 2.二番座に網をめぐらし、その網に芭蕉布の反物を吊るし、その中に死者を西枕にして寝かせた。昭和になって茅になった。これは猫を死者に近づけないためで、猫は死者をまたぐと、死者はいつまでも腐らないという(沖縄島今帰仁)。
 3.その日に野辺送りができないときは、死者に網をかぶせておく(宮古島狩俣)。
 4.二番座の空いている方に、麻の幕をはる。幕内には身内の者だけが入る(竹富島)。
 5.葬式当日に限って葬家に網をはった(石垣島川平)。

 このなかでも酒井が注目するのは網だ。蚊帳が家を喪屋とした名残りであり、蚊帳以前には網をはった。なぜ、網なのか。酒井は、漁を生業としている島人の日常道具である網の目の呪力を指摘している。たとえば、網ウチャー(網打つ人)が近づくと、ムン(悪霊)は背を向ける(沖縄島具志川)、また、漁をしているときにムン(悪霊)に会った際に、網を被って何を逃れた(八重山)という伝承がある。漁以外の場面でも、病人が全快しない時、家を移る呪術的行為を行うが、人目を避けて深夜、病人に網を被せて家を出るが、これはムン(悪霊)が病人に憑かないためである(八重山)。さらに、産育のなかでも産明けの日に家の入口に網(漁網)をはった(伊計島、宮古島)、産婦や生児は身体が弱ってムン(悪霊)がつきやすいので、網を被せておく(与論島)という習俗もある。

 酒井は網の目が悪霊から守る呪力を持ったと指摘している。ぼくたちはここで、ババル島において、「死体は漁網につつんで埋葬することもある」ということに共通の視線を感じることもできる。

 酒井によれば、蚊帳が喪屋の名残りだということは日本の民俗学の定説になっているが、琉球弧を見れば、網をはる行為に表れるように、もともとは家が喪屋であったことを示すものではないかということだ。ぼくたちは、家が喪屋であったことと同時に、殯のイメージが次第に可視化されていくのを感じる。そしてこれまでの考えでいえば、網の目はSF映画でシールドをはるように、共同幻想の侵蝕を防ぐ手段であったと見なすことができる。

 まず、原像として死者を家に放置して家を捨てる様式がある。次に、南太平洋の報告では埋葬に焦点が当てられていたが、「野ざらし」に照らす限り、琉球弧では埋葬はなかったのかもしれない。そしてこの段階では琉球弧の場合、家を喪屋とし殯をした期間がクローズアップされる。ついで死者は外に出されるが、その際、洞窟などの葬る場所の近くで拭けば飛ぶような草屋根の小屋を作り喪屋の生活を送る。その殯もやがて通う形式に代わるが、ここで風葬が土葬へと埋葬の様式に変わった時、矛盾が露わになると思える。殯をする場がなくなるからである。バコバ族では「人はすでに往き、家も往ったに違いない」と言い、タミ族では「死霊は、記憶の存する限り、家の霊」と考えられていたことからすれば、家とは単なる建築物ではなく、死者の人格が外延された像に他ならなかった。家を捨てるのが原像であったなら、喪屋の場が無くなるということは、死者の出た家は、生者の家と死者の家という二重の意味を持つことになる。

 酒井の追求をここでの問題意識に置き換えると、この矛盾は二つの所作によって切り抜けようとされている。ひとつは、家を時間で区切ることである。石垣島宮良では、葬式の当日だけダビヤー(荼毘家)と呼び、以後四十九日までをイミヤー(忌み家)と呼ぶ。川平も同様だが、葬式の当日だけは家の周囲に網をはりめぐらせたように、葬式当日と翌日以降は呼称を変えるのだ。この言い換えの意味は、おそらく、ダビヤーとは死者の家であり、イミヤーとは生者の家のことだ。西表島古見では、死者を出した家をダビヤー、ウリヤー(送り屋)、ムーヤ(喪屋)とさまざまに呼ぶ。これは呼称を変える所作が忘れられた後に一体となったことが伺えるが、ぼくたちはここに、死者の家としてのダビヤー、ムーヤと生者の家としてのウリヤーが同一視されているのを見るのである。

 もうひとつは家のなかで死者の位置を変えることである。石垣島では、重病人がなかなか全快しない時、病人に網を被せて他家に移す呪術を行うが、これをシキニウツリというが、酒井はこれは「褥移り」、つまり死者の褥を移すことを指すと突きとめている。波照間島では死に装束を着せることをスキニと呼ぶが、本来は死者の場所を移したことを指しただろう。喜界島阿伝では、通夜が終わって明け方になると、死者を病室から表座敷に移すことを「座敷直し」と呼び、加計呂麻島では生前の枕を藁束の白紙で撒いた枕に取りかえるが、これを「枕替え」と呼ぶ。さまざまな呼称で呼ばれるが、この死者の位置の移動について、酒井は喪屋の生活の短縮形を見ている。ぼくたちはここに、家を死者の場から生者の場に変換する所作を見ることができる。

 けれども、この時間と空間の切断線を設けたとしても死者の家が無くなることに変わりはない。それは本当に消滅したのだろうか。酒井の考察はこの問いに答える地点まで及んでいる。

死者のための家型の厨子瓶や墓所は、死後の世界が生前同様の生活を営んでいることを意味するばかりでなく、本当は住居そのものが死者の家であったものが、死者が屋外に移されることによって、家もまた模型として死者とともに移動したものと解釈できないだろうか。
 いうなれば生きている人間の知恵と狡猾さによって、死者のもっている絶対的な権威を損なわないように、その領域をせばめながら、死者の置かれた場所と生者のそれを入れ替えていった過程が、喪屋の歴史ではなかったかと思う(p.170『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。
   酒井の幻視は透徹していると感じるが、ぽくたちは見慣れた「家型の厨子瓶や墓所」の持つ歴史の深度に身震いを覚えないだろうか。

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