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2014/08/17

動植物への憑依

 動物への憑依能力は、観察と儀礼によって磨かれる。

 動植物に関する知識は、長期にわたる注意深い観察と儀礼によるトランス状態で現れる深い共感能力から得られる。最強の狩人はさらに、動物や鳥の動きと鳴き声をまねることのできる、「歌謡と踊りの名手」なのだ。アボリジニは、何時間もかけて動物の動きをじっくりと観察し、その鳴き声に耳を傾ける。昼夜にわたる儀礼と「動物の舞」を通じて、動物の特性を自分の神経系と筋肉に刷り込むのである(P.406『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)。

 その能力は狩りにおいて発揮される。

 舞や歌謡を通じて身につけた、動物の鳴き声や動作の物まねは、狩りの最中には、動物をおびき寄せるためのトリックとして使われる。物まねによって、動物の能力や感覚が、狩人とその親族の意識に取り込まれるというわけだ。このように、獲物はまず、狩人の魂の一部になるのであって、肉体の一部となるのはその後のことにすぎない。動物の霊的生命はこうして、その物理的な死と引き換えに、拡張されるのだ。こうした互恵性が十分でなければ、いくら栄養をとっても、人体に有害となるかもしれないのである(p.407)。

 ここで互恵性というのは、動物が人間のなかに取り込まれることで、霊的生命が拡張されることを指している。単体ではなくなるということだろか。

 「動物の能力や感覚が、狩人とその親族の意識に取り込まれる」という個所には、共同幻想と自己幻想が未文化であるとはどういうことを指すか、よく現れている。

 もうひとつ。狩猟において狩猟自体が本質的ではなく、狩猟の対象である動物との同一化が本質的であることを示されている。

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