« 死の位相変化 | トップページ | 『吉本隆明』(田中和生) »

2014/08/04

『琉球独立論』を読む

 琉球人は、これまで基地反対運動を続けてきたが、基地は依然として日米両政府によって押しつけられたままであり、さらに辺野古にも新たな基地が建設されようとしている。中国の軍事力・経済力を背景とした覇権国家としての野望、それに対応するかのような日本の右傾化、アメリカの相対的な国力低下等、琉球を取り巻く様々な状況は、「硝煙の臭い」を強く感じさせている。この上は琉球は国家として独立するしかない。

 こうした松島の状況認識と独立構想は共感できる。日本が思考停止状態に陥っていると見えるだけ、独立は構想自体にすでに価値があると思える。そこで、松島に提案したいのは、「国家としての日本」と「日本人」とに区別を設けることだ。

日本人は、よく「米軍基地は日本の抑止力である」と主張しますが、その「日本」の中に琉球は含まれていません。
 他国軍を自国内から撤退させてこそ、日本は真の独立国になれるはずです。フィリピン、イラクも米軍基地を撤退させたのに、なぜ日本はできないのか。琉球に基地を押し付けて自らは安全に暮らしたい、国家の責務(基地負担を自ら引き受ける)を果たしたくない日本人の無責任体質が今日に至るまで続いています。
 自国民よりも他国民の方が法的に優位にあり、自国領土に他国軍を駐留させて、国や国民の主権が侵されている状況を許す人間が愛国者であるはずはありません。琉球に基地を押しつけ続けている日本政府および日本人は、無意識あるいは意識的に琉球と琉球人を差別しているのです(p.110)。

 「米軍基地は日本の抑止力である」と主張している主体は、国家としての日本、日本政府であるとするのが妥当だと思う。単純に言って、米軍基地による抑止力に疑問を持つ「日本人」もいるからだ。「日本人」としてまとめてしまうと、このような個々人の主張の差異が消えてしまう。そして最後の文章は、「琉球に基地を押しつけ続けている日本政府は、琉球に差別的構造を強いている」とした方が、主張が明確になる。これも同様の理由からだが、付け加えれば、「日本人は無意識に琉球人を差別している」と、無意識にまで言及されると受け取る方は困ってしまう。無意識の自己確認は容易ではないし、それに他の事象になれば、そう主張する者にも差別の加害性が跳ね返ってきてしまわざるをえないことだ。

 日本人は琉球人の権利や利益ではなく、自らの権利や利益のために政府を運営しているとしか考えられません(p.225)。

 ここの「日本人」も、国家としての日本やアメリカであるとするのが妥当ではないだろうか。この立言を尊重するなら、「日本は、琉球の権利や利益ではなく、大和の権利や利益のために政府を運営している」と言うのであれば納得できる。政府は「日本人」が直接運営しているのではなく、選挙で選ばれた議員のなかの多数を占めた党派の代表者たちによって運営されており、「日本人」の運営への関与は間接的だ。かつ、現在のように明白に憲法違反であることを、国民に信を問うどころか、閣議で決定してしまう暴走化した政府では、「日本人」はますます運営の実感や実態から遠ざかってしまう。さらに、松島も何度も強調しているように、日本政府自身が安全保障について運営の実権を持っておらず、アメリカが実質、決定しているのであれば、なおのこと「日本人」は関与できない。

 いきなりではありますが、ここで直言しましょう。日本および日本人は、琉球の独立および独立後の琉球を支援すべきです。いまからでも遅くはありません。私は、日本人の覚醒を猛烈に要望する者です。
 無理が通れば道理は引っ込むのが現実の世界ではあります。しかし、やはり「道理」は最終的に勝利を収めるはずであり、日本と琉球の現在の関係はどうみても無理筋なのです。
 侵略から始まった日本と琉球の近現代史の実相は、ほんの少しでも調べてみれば誰でも理解できるはずです。ぜひとも理解した上で、沈思黙考してみてください。日琉関係の異常さと、琉球人の憤りがわかるはずです。
 日本による突然の侵略とそれに続く併合、「大東亜戦争」における犠牲の集約政策、戦後の米軍基地維持政策等々。そうした、日本による琉球に対する汚物処理場のごとき扱いは、いやしくも「平和国家」たらんとする現代の日本において、あってはならないことであるはずです。
 ソ連に代わって、それまでほとんど気にも留めていなかった後進国中国が、いきなり大国として台頭し日本を脅かしている。やくざな北朝鮮の暴走も気にかかる。在琉米軍基地は、それに対抗する安全保障システムの中核であらねばならない。琉球人は、同じ日本人なのだからわがままを言わず、我慢するべきだ。そのかわり、補助金を出そうじゃないか。さらに、その現状を補強するためには、憲法の解釈変更をして集団的自衛権を確立しよう。
 ほとんどの日本人は、ざっと以上のような思考状態にあるのではないでしょうか(p.233)。

 ここでの冒頭の呼びかけの対象は、「日本人」で妥当だと思う。ただし、最後の、「ほとんどの日本人は、ざっと以上のような思考状態にあるのではないでしょうか」になると、これは日本政府の思考状態という方が当たっている。「憲法の解釈変更をして集団的自衛権を確立しよう」というのは、まさに政府が自己完結的に行っていることだ。

 ここで、ことさらに日本と日本人の区別を気にかけるのは、「国家としての日本」に対して「日本人」は責任がないと言いたいからでは、もちろんない。両者を同一視してしまうと、日本人の一人ひとりの思考や置かれた状況の、さまざまな、そして小さな違いを消して見えなくしてしまうからだ。この両者を同一視あるいは、日本人は日本のなかに含まれるような観方は、それこそ日本を含むアジア的な国家観だと思えるが、ここは日本政府を相手に訴訟をすることもあるように、国家と市民社会を区別する西洋的な国家観を生かしたい。

 日本と日本人を同一視した思考は、公は私に優先するという規範を招きやすい。現に現在の日本政府はそうしたくて仕方ないように見える。日本と日本人の同一視は、翻れば、琉球と琉球人を同一視することにもつながる。それで言えば、琉球が国家になったと思ったら、今度は琉球人は琉球の公に奉仕することを強いられるなど甲斐のないことだし、それは松島が望むことでもないだろう。

 また、「すべきである」という議論では、人は動かないと思う。頭では理解しても心と身体がついてこない。仮にこの本を読んだ「日本人」が頭で理解して責任を感じ、「すべきである」と行動しても、心と身体がついていかなければいずれ破綻してしまう。その人にとって、「すべきである」ことが、「したい」ことになって初めて、頭と心と身体は乖離しないで済むはずだ。松島がこの本を本来的に届けたい人々は、デマゴギーを振りまくジャーナリストや沖縄に落ちた金を掠め取っていく本土資本や党派として基地問題に関与する人々ではなく、ふつうの琉球人や日本人だろう。そうであれば、日本と日本人を区別し、日本に当為を、日本人に自由を渡す議論の立て方をしてほしい。それが対話や支援の通路の入口になると思えるのだ。

 問題は、日本人が琉球の歴史、文化、現状に対してあまりにも無知であり、無関心であることではないでしょうか(p.116)。

 この問題を解いてゆくことも、相手に当為を投げつけるのではなく、関心を持つ契機になる事柄(たとえばまさにこの本がそうだ)を、相手の受け取りの自由はそのままに、投げかけることによって可能性が拓けると思う。

 繰り返しますが、日本は琉球の独立を認めるのみならず支援すべきです。なぜなら、琉球独立は琉球人の正当な要求であるということとは別に、日本の新しい安全保障の確立に多大な貢献をするはずだと考えるからです。
 通常、既得権益の放棄は国益の棄損と解釈されがちですが、目先の国益と本質的国益は異なります。日本は、琉球を喪失した場合の損失と利益を冷静に測るべきです。
 まず、日本の積極的支援によって琉球独立が実現した場合、中国やロシアが「力」による国益確保を試みているように未だパワーポリティクスがまかり通る現在、それは世界から「快挙」と見做されるはずです。とりわけ、日本による侵略という記憶の残滓が残る東南アジア、太平洋島嶼国、そして台湾からは歓迎されるはずです。また、北朝鮮、韓国、中国も、本音はともかく歓迎せざるを得ないでしょう。自国の国益が損なわれるアメリカといえどもまさか武力介入などできるはずがありません。
 そうした状況の中で、日本は琉球をはじめ、ASEAN諸国、太平洋島嶼国と改めて平和友好条約を締結することにより対等な関係を築く。そして、相手国を尊重した適切な投資と技術指導を行うことによって、それらの国々の国力を向上させることができれば、市場としての成熟も期待できるはずです。また、日本の世界最高水準ともいわれる環境保全技術の移転は、関係諸国の「新しい経済創造」に貢献し、結果的に日本の国益に寄与するはずです(p.236)。

 琉球の独立を積極的に支援する日本であれば、その前に既に、沖縄の基地撤去を具体化する対策も実務的に着手しているはずだから、これは現状の政府に求めるべくもないことのように思える。だからむしろ、琉球独立の構想の質を高め、運動を盛り上げていくことを、アメリカからの日本の独立構想が日本社会からも豊富に生まれる契機とすることが、琉球独立運動の戦略的な目標のひとつになるのではなないだろうか。

 琉球独立は長期的に見て日本の本質的国益にもなります。琉球が独立することで日本も本当の意味で独立することができるでしょう。これまで日本の「抑止力」として期待する米軍基地を琉球に押し付けることで、基地による犠牲を回避することができました。しかし琉球が独立すると、米軍基地は自ら負担することにります。そうなれば、日本国民は否が応でも日本がアメリカの植民地であると認識し、他国の軍隊を自国領から追い出そうとする運動が全国的に展開されるでしょう。日本から米軍という「占領軍」が消え、不平等条約である日米地位協定も廃止して、日本は文字通り独立を日本人自らの手で勝ち取ることができるのです。現在、日本は中国、韓国、北朝鮮等の東アジア諸国と領土、歴史認識等を巡り対立しています。非武装中立を掲げ、アジアの平和創出の拠点となる琉球が誕生すれば、日本は琉球を介して東アジアの隣国と平和友好関係を築けるのではないでしょうか(p.154)。

 本土からは見えない遠くの島々に基地を押し付けることで、日本がアメリカの属国になっている現実から目を逸らしているとしたら、現実の直視を強いる琉球独立運動の盛り上がりを、日本政府は封じ込めたいに違いない。だから、琉球独立が阻止されないためにも、琉球独立の構想を高めてゆくことが、日本の独立構想を同時に促すものである必要があると思える。

 そして、構想の質を高めてゆくことのなかには、当の琉球人に対して、これが魅力的であることも当然、必要だ。もちろん、米軍基地の撤去は大きな魅力というか悲願であるものだ。しかし、琉球独立の構想はその先に、少なくとも二つの不安に応えていかなければならない。ひとつは、安全保障だ。琉球が独立しようとした場合、「自国の国益が損なわれるアメリカといえどもまさか武力介入などできるはずがありません」ということが確かかどうか。なしにしろ米軍は、目の前にいる、しかも戦争慣れした軍隊なのだ。そして、覇権主義を強めている中国が侵略してこないかどうか。そうなるに違いないから独立は非現実的だということではなく、ふつうの島人が抱くだろう、こうした素朴な不安は想定しておかなければならない。

 さて、それでは琉球は「防衛力」を持たなくてもよいのか。そんなことはありません。残念ながら、現在の主権国家は、その大半が自らの裡に「帝国主義」的感性を有しています。そうであるなら、琉球も当然、「防衛力」を持たなければなりません。ただし、琉球の防衛力とは「力」ではなく「関係」であるべきでしょう。すなわち、完全中立を掲げ、相互を尊重した多国間との対等な関係構築、それこそが琉球の防衛力となるはずです。そして、そのためには、高度な外交能力が必要とされます。琉球は、誰も否定できない普遍的理念と、多国間ネットワークを武器として将来を切り拓いていくべきです。琉球王国時代、琉球人は中国と日本という二つの大国の間でバランスのとれた国交を維持していました。元来、琉球人とはそうしたセンスのある民族であるはずです(p.232)。

 完全非武装中立や関係による防衛は、未来的であり、日本が無効化しようとしている「憲法9条」をより先鋭的に継承するものであるという点でも魅力的だが、松島も憲法9条を「人類の「宝」」と言うように、高く掲げられた理想であるほど、島人にはその現実性に不安を抱く。そこに丁寧に応えていかなければならないのだと思う。

 もうひとつの不安は経済だ。昔の脅迫文句に言うところの、「芋と裸足」の生活に戻ってしまうという不安である。増額された3460億円の振興予算に対して、「驚くべき立派な内容、140万県民を代表して感謝する。いい正月になる」と応じた仲井真知事の発言には唖然とさせられたが、ひょっとしたらこの発言の裏側にも「芋と裸足」への恐怖が残っているのかもしれない。松島は、このような状況を作り出した第一義の責任は日本政府にあるとしながらも、「琉球が独立を目指す時、「ムチ」を怖れず「アメ」を捨て、琉球人としての矜持を持たなければならない」と主張するが、アメは捨てないものだと思う。それは琉球人だからということではなく、人はそういうものだという意味で。そこで、「捨てよ」と言うよりは、松島が「芋と裸足」論には、本当の豊かさとは何かを考える契機があると書いているように、松島が長年追究している「内発的発展」の魅力をアメとして語ることが重要だと思える。それが自ら作り出すアメと感じられた時、人はコンクリートの廃墟を残すアメを捨てることができるのではないだろうか。

 世界史の先端では、国民国家の耐用年数が尽きかけているように見える現在、国家創設という構想は魅力的に映らない。まして、国家によって散々嫌な思いをしてきた琉球人であればなおのことそうだと思う。少なくとも、ぼくが琉球独立という構想にすぐに飛び付けなかった理由のひとつはそれだった。しかし、それしかないのかもしれないという局面に立つと、新たな国家構想は、現在の民族国家よりマシである必要がある。その意味では、松島が太平洋の島嶼国家に学び、それらの国々とのネットワークを構築しようとしているのは惹かれるものがある。古代の琉球弧を調べるにつけ、南太平洋の島々との習俗との類似性がよく見えてくる。東南アジアのどこかから、一方は琉球弧から日本列島へ流れて行き、他方は南太平洋の島々へ渡っていった、近しい人々であることが分かってくる。南太平洋の島々との関係構築は、同じ島々という以上に、きっと相性がいいはずなのだ。

 ぼくは未来の琉球弧を構想するには、古代の琉球弧が豊かな水源を提供してくれると考えている。だから、発想の起点を、琉球の「先史時代」に求める高良勉に共感する。たしかに琉球弧にはかつて琉球王国が存在したから、過去の実績として参照することはできる。しかし、琉球王国は、それこそ日本より遅れて、しかも日本ととても似た政治形態を持った国家に過ぎないといえば言える。そしてその前に、琉球弧の自然環境や自分や島人を振り返ってみた時、外からのインパクトなしに琉球弧は国家を作る必然性は無かったと思える。それよりは、文字を持たなかった頃の琉球弧の方がはるかに広く深い。ただ、文字を持たない社会は国家を必要としなかった社会でもあるから、古代琉球弧はそのまま国家の根拠になりうるものではない。だから、高良も「琉球ネシアン・ひとり独立世言」と、自らの独立を宣言することから始めたのだと思う。しかし、国境など関係のなかった古代琉球弧を参照すれば、少なくとも国家が島人を勝手に動かすのではなく、島人がコントロールできる開かれた国家でなければならないことは示唆してくれるものだ。


『琉球独立論』(松島泰勝、2014年)

|

« 死の位相変化 | トップページ | 『吉本隆明』(田中和生) »

コメント

喜山さん

お久しぶりです。この度は、拙書の書評を書いて下さり、お礼申し上げます。真摯に拙書を読んで下さり、感謝します。また機会があ
りましたら、いろいろとお話ができれば幸いです。


松島泰勝

投稿: 松島泰勝 | 2014/08/10 05:29

松島さん

はい。議論できる時を楽しみにしています。

投稿: 喜山 | 2014/08/11 08:35

奄美が沖縄と一緒に独立というのはナンセンスです。私の周りでは、沖縄と一緒に独立など考えている人は一人もいません。
そもそも歴史的に、奄美からみたら、沖縄は侵略者です。
本当に勘弁してほしいです。

ついでに言うと、多分、琉球政府から重い人頭税に苦しんだ八重山諸島の人たちも、同じ気持ちの人は多いと思います。

投稿: 奄美二世 | 2014/08/31 14:08

>奄美二世さん

奄美が沖縄と一緒に独立ということにセンス(意味)を持つ人もいると思いますよ。
私も奄美二世を自称していますが、ナンセンスとは思いません。
沖縄というより琉球が侵略者という側面は確かにあると思います。
奄美二世にも色々な考えを持っている方がいるでしょうから、個人名なりハンドルネームなりご使用されてはいかがでしょうか。

投稿: syomu | 2014/10/25 10:33

沖縄独立に反対します。日本政府は尖閣は沖縄に属していると言っている。沖縄が独立すれば尖閣は沖縄国(琉球国)に属することになる。中国は尖閣は自国領土だと言っている。中国は必ず尖閣を取りに来る。、、。
尖閣をあげますか?

投稿: 沖アジ | 2016/01/17 14:57

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/60068376

この記事へのトラックバック一覧です: 『琉球独立論』を読む:

« 死の位相変化 | トップページ | 『吉本隆明』(田中和生) »