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2014/08/31

若水と再生

 蛇のように脱皮してすでる、つまり生まれ変わる力を持たない人間が、それによってすでる力を得ようとしたのが、孵で水(しぢ水)、若水だった。水は、琉球弧のなかでことのほか大きな意味を持っている。

 琉球弧の島人には帰属すべき水があった。家が所属する井泉(かわ)があった。井戸ができた後は、それに代わる。その帰属性が露わになるのは、家の移転、婚姻、出産においてである。

 たとえば、宮古島では、家の移転の際、元の家の井戸に祈願をし、その一部を取り、移転した家の最初の茶湯として飲むことによって移転完了の呪術とした。以前は、内地へ移転する時も、元の家の水を持参し、内地の家の最初茶湯に使い、飲んだ。帰属する水を断たなかったのだ。

 沖縄島知念では、婚姻の際、家を出る時、松明を灯し、臼を倒して親との別れの水盃を交わす。ついで婚家に着くと、その家の水を新夫婦が飲むことによって入り家の式が完了した。琉球弧は長く母系社会であってみれば、夫が妻方の井泉を拝むことになるのが普遍的だったはずだ。

 沖縄島喜如嘉では、出産の際、部落発祥の時から先祖が使っていたタマタ川から産水を汲んだ。宮古島平良でも、家系によって代々使われている生まれ井戸があって、産水はそこから汲む。それをシラ湯よと呼ぶ。八重山でもシラ水と呼ぶところが多い。シラは出産を意味している。

 宮古島砂川では産後数日めに子どもの親井戸から水を汲み、湯を沸かせて産児を浴びせる。浜比嘉島では産井(うぶかあ)から汲んできた産水(うぶみず)を湯にして浴びるか、その水を額につける。これが井泉(かわ)下りだ。

 琉球弧において、出産、婚姻、家の移転というライフステージにおいて、水、しかもその島人の帰属する水とのつながりが不可欠なものとして重視されているのが分かる。しかし、こうした例を挙げて、酒井が考察するのは、ライフステージの終局である死においての水の果たす役割についてである。

 沖縄では、死者の遺体を洗う湯灌をアミチャージと呼ぶが、これを産井から汲む例が、普遍的ではないが、多い。たとえば、那覇市小禄がそうだ。井戸水になってからは、産井の水に祈願を加えて井戸に加えた。名護市屋我部では、正月の若水も産水も古い井戸のものを使い、死んだ時も必ずここの水を使う。

 井泉や各戸にひとつできる前の井戸は数が少なかったのだから、必然的に同じ水を使わざるをえない。しかし、ここには、川の場合は上流を産水、下流を死水として汲む場所を分ける。井泉の場合は、死者の場合、二人で汲みに行ったり、桶ではなく木の葉で汲んだりして方法を変える、などの所作によって違いが意識されている事例がある。

 しかし、違いが意識されるのであれば、死者の場合は、「すでる力」を得ようとするのとは違う意味を持ちうるのではないか。

 酒井は自問のなかで生まれる問いに対して、いくつかの例を挙げている。

 事例1.産井から産水を取り、湯灌もそこから水を取る。これをウイミジと呼ぶ。ウイミジとは産水のことだと考えられる。洗骨の時もこの産井から水を汲む(伊是名島)。

 事例2.湯灌のことを「すで水浴びし」と呼ぶ(池間島)。

 事例3.湯灌用の水はなるべく遠くの井泉から汲んでくる。水汲人とそれを受け取る人との問答。
 受取人 「その水は何水か」
 水汲人 「これは死水です」
 受取人 「その水は何水か」
 水汲人 「これは死水です」
 受取人 「その水は何水か」
 水汲人 「クンミジィヤ スィディルミィジィ(この水は生き返る水だ)」
 この答えを聞いて初めて水を受け取る(奄美大島竜郷、赤尾木の渡重彦翁)。

 事例4.死水を浴びせるものは、「果報の人」を選ぶ(西表島祖納)。

 事例5.湯灌(アミチュウジ)をするのは、二人の姉妹(うなり)である(宮城島)。

 事例6.喪屋のことをシラヤと呼ぶ(沖縄島与那)。

 事例7.井戸を亀甲墓に似せて作っている。古老たちは、墓に似せて作るように教わったという(沖縄島大里、村井)。

 産水を意味する「ウイミジ、ミジウブ」を湯灌にも用い、洗骨にも用いることもある。湯灌を「すで水浴びし」と、生き返る水を浴びせると呼び、その役を「果報の人」や「をなり神」に託す。喪屋のことを、出産を意味するシラの言葉でシラヤと呼ぶ所がある。こうした例で酒井が追究しているのは、死に際しても、帰属する水を用いるが、そこには、すでる、再生する信仰があるからではないかということだ。

 井戸を墓に似せる例に触れて酒井は書いている。

 井戸をことさらに墓に擬して作る理由は、もう説明するまでもないと思う。かつて琉球王朝が先祖の水を拝んだように、人びとは先祖に回帰しようという意味で井戸を墓の形に擬して作る。その先祖の水が生児の産水となり、やがて死水ともなるわけである。ここには水を媒介として、死から祖霊へ、祖霊からまた生へと還元されていく信仰の一端を垣間みることができる。

 この再生への祈願は、死水の水汲人が、水を受け取ってもらうために、二回の問答の後に言う、「クンミジィヤ スィディルミィジィ(この水は生き返る水だ)」という言葉が鮮やかに示している。酒井も、「なんという素晴らしい会話であろうか」として、「ここではもう、死と生の時間的な距離はほとんど存在しないのである」と書くのだが、ぼくもまた、この点に目が惹きつけられる。添寝で見られたのも、霊魂の即時的な転位の所作だったからだが、そこでは死者の霊魂が生者へと転位する所作を見た。しかし、ここでは、その死者もまた、即時的に生へと還元されるのである。

 ぼくたちは、骨噛み(食人)における再生は、死者自身の再生というより、生者のなかに死者の能力が取り込まれる形態を見、滴血においては、南太平洋の部族に、血ではなく岱赭(たいしゃ)で赤く塗る部族のなかに再生信仰があるのを見てきたが、食、血、水まできて、死者の再生への確かな手応えを掴むに至るように思える。

 ぼくたちが酒井の挙げる例と考察を追ってきたのは、再生ということを明確な信仰の形で耳にすることがなかったからだが、ここまで来ると、再生の明瞭な様式を持っていることに気づかされる。童名である。

 生後、名付け祝いとともに授かる童名は、身近であり、特に近親者のなかでは、戸籍上の名より使われることが多かったものだ。いま、現在でも童名をつけている島として与論島の例を挙げてみる。東恩納寛惇の「琉球人名考」を参照して、当てられた漢字に関わらず、元の意味を考えられるものはそれを付記する。

 男女共通
 ウシ(牛)、マチ(松)、カミ(亀)、ハナ(カナ、愛)、ハマドゥ(カマドゥ、竈)、ナビ(鍋)、チュー(千代)

 男のみ
 マニュ、マサ、トゥク、ジャー、ハニ、トゥラ(虎)、ヤマ(山)、サブル(三郎)、グラ、ダキ、タラ(太郎)、 ウシャ、ムトゥ、ハンドゥ、ビチャ

 女のみ マグ、ムチャ、ウトゥ、タマ(玉)、ウンダ、クル(黒)、アートゥ、アキ、チル(鶴)

 これを見ると、牛、亀、松など、トーテム的な動植物として選ばれたもの、三郎や太郎など大和言葉の男性呼称を拝借したもの、黒という色など、用法の広がりが見られるが、童名とはつまり霊魂(マブイ)の名を意味するものと考えられる。

 それは、奄美大島では山中で迷子になっても、けっしてその人の童名を呼ばない。もし童名で呼べば、ケンムンに知られてとりかえしがつかなくなると言われていた。また、沖縄では危篤の病人の魂呼ばいをする時は、老人であっても必ず童名で呼んだ。酒井が挙げるこうした例からも、そのことは了解できる。

 こうしてぼくたちは再生信仰は、どの段階で琉球弧に存在してきたのかという問いに導かれる。考えられるのは、家を捨てるという段階では、少なくとも動物への転生ではなく、人間への再生という観念は発生しないのではないかということだ。『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』によると、死者の死後、数年のあいだは、死者の名前を、氏族員や親族は口にすることができない。死者の名前の由来となるトーテムの動植物や土地の名称も変えなくてはならない。死者の名前と似た響きを持つ言葉すら、別の呼び名に変えられてしまう。妻にいたっては、沈黙の誓いを立て、数ヶ月から数年、沈黙を守り、その間は身振り言語で会話するのだ。そして名前だけではない。死者の生誕の場所も死の場所も、数年間は回避の対象になり、彼らには家屋の概念はないが、野営地に近寄ることができないのだ。この理由には、死者への不敬に当るということと、死者の霊が現世に留まりかねないという説明が当てられている。

 この場合、死が妻の対幻想に欠損が生じるというだけではなく、名前において氏族員全体の世界に対する関係性の組み換えが行われている。これは、対幻想と共同幻想は、わかちがたく結びついているので、死が妻の対幻想の欠損というに留まらず、氏族の共同幻想の再編成に及ぶのを見ることができる。

 再生という観念が発生するには、対幻想が共同幻想に対して独自の位相を持ち、そこに永続性が託されていなければならないと思える。琉球弧のように、掘り下げることによってではなく、強固な観念体系として再生信仰を持つ島人としてトロブリアンド諸島の例を挙げることができる。

 トロブリアンド諸島では、死者の霊魂は、実在のツマ島で新しい生を生きるが、戻りたくなると、流木、木の葉、樹皮、かれた海藻、海の泡沫など、海に浮かぶ媒介物によって島に戻り、「精霊児」として女性に宿っていた。生まれてくる子は、母系の氏族員の誰かの霊魂だと考えられているが、はっきりは分からない。時に、妊娠した女性に祖先が現れ、誰の霊魂であるかを告げることはある。
 
 このトロブリアンドの母系社会では、兄弟姉妹の関係を軸に、家族と共同幻想を同一視して、「われわれは一体である」という信憑を成立させていた。この対幻想の永続観念が、再生という観念を生んだ基盤なのではないだろうか。しかし、このとき、ぼくたちはたとえばニライ・カナイに移った霊魂が再び戻ってきて再生するという信仰を聞いたことはない。手元にあるのは、祖父母の童を授かるという習俗である。これは、記憶の範囲にある確実な名前が二世代前という現実的な要因もあるのかもしれない。しかし、膝抱き人(チンシダチャー)に、霊魂の即時的な転位という仕草を見る視線から言えば、ここでも再生は即時的に行われることが観念されていた痕跡を見ることができるのではないだろうか。



 

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2014/08/30

南太平洋の赤と再生信仰

 南太平洋に滴血に類する習俗はあるだろうか(棚瀬襄爾『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』 cf.「琉球弧の滴血」)。そしてそこに再生信仰はあるだろうか。

 事例1.タミ族(ニューギニア)。死者の肉が腐り去ると、死者の骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗り、これを束にして、二、三年家の中に保存してから埋葬する。最後に埋葬すると、墓には厳重に木の垣を結び、植える。しかし、年が経って記憶が薄れると、墓には構わなくなる(p.325)。

 事例2.ヤビム族(ニューギニア)。死者が愛児や重要人物の場合は、埋めずに包んで、腐るまで家の中に置き、しかる後に頭蓋、腕骨、脚骨に油を塗り、赤く染めて若干期間保存することがある。まま木乃伊にすることもある(p.326)。

 事例3.マリンド・アニム族(ニューギニア)。死者を家の中の、日常、座ったところ、寝所、炉辺を選び埋葬する。1年後、墓を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗る。頭蓋を洗って赤く塗る。そして再び墓に納めるが、このとき胸の上にサゴを載せる(p.340)。

 事例4.カカドウ族(オーストラリア北部)。墓が完成しかかると、近親者は死体の側で自分の頭を切り、血を顔や身体にしたたらせる。墓に注ぐ(p.107)。

 事例5.ビンビンガ族(オーストラリア北部)。食人のあと、腕骨の一つに岱赭(たいしゃ)を塗り、これを革紐で縛り、さらに石灰をぬる。死者の母の兄弟の息子が持って、最終儀礼の触れに持ち歩く。


 人間の血を骨に塗る事例はみつからず、顔料の岱赭(たいしゃ)が登場する。色の赤は共通しているのを見ると、これはむしろ琉球弧の方が古層を指していて、もともとは人間の血を使ったものであるかもしれない。オーストラリアのカカドウ族では、近親者の血を墓に注いでいるが、これは琉球弧の事例に対して古層を指すだろう。

 ビンビンガ族は、食人のあとに骨を赤く染めている。これらの事例が意味するものを掴むために彼らの他界観念を参照してみる。


 事例1.タミ族(ニューギニア東部のタミ島はじめ小島群)。人は長い霊魂と短い霊魂を持つ。長い霊魂は影と同一視。睡眠中、身体を離れ、覚める時、帰ってくる。胃にある。人が死ぬと長い霊魂は、死体を離れて遠方の友人に死去を知らせる。その後、ニューブリテン島西岸を経て、北岸の村に行く。短い霊魂は死後のみ離れて、しばらく死体の付近を彷徨ってから地下界、ランボアムに行く。ランボアムは現世と酷似するが、現世より美しくより完全。ランボアムに行った霊魂は、蛇形でときに現世に帰来する。この時、シューシューという音を立てるだけだが、この音を解釈する者(主に女)がいて何を話しているか判断する。また、死霊に尋ねる能力のある者(主に女)がいて、これは世襲。ランボアムで死んだ霊魂は、蟻や蛆になる(p.289)。

 事例2.ヤビム族(ニューギニア東部)。死霊は、あの世では影のごとく、この世の延長の生活をする。他界はシナ諸島のひとつにある。一方、死者の霊魂は動物に転生するとの観念もある。ひとつは水鏡に映る映像、一つは陸に映る影で、シアン島に行くのは前者、後者は転生する(p.290)。

 事例3.マリンド・アニム族(ニューギニア南部)。霊魂は死後まで存在する。霊魂は死ぬと口から抜け出る。そのため口に竹を差し込んでおく習俗がある。他にも、大きな蠅の形をして、臍から出ると考える。しばらくは墓に留まる。霊魂は、夜は幽霊として、昼は鳥(鶴)および鴉(カラス)の姿を取る(p.301)。

 事例4.カカドウ族(オーストラリア北部)。国は元来、人々と精霊児に満ちていて、絶えず再生を続けている。霊魂、ヤムル(yamuru)は、しばらくするとヤムルとその影のようなイワイユ(iwaiyu)に分かれる。ヤムルが再生したくなると、遺骨を離れ、叢林で食べ物を探しに来た人を見つけると、ヤムルはイワイユを蛙の形にして食べ物に付ける。人がこの食べ物を取ると、イワイユは逃げる。何も知らない人が家に帰り寝静まると、ヤムルとイワイユは男と女の寝所に入る。イワイユは男を女を嗅ぎ、女に入る。ヤムルは再び自分の宿所に帰るが、女が子供を持つと、夜、夫にその子の名とトーテムを告げる。ヤムルは子供が生まれ、生長し、老いるまで保護の役をなし、いよいよ老いると、その人間のイワイユに新しき子供とトーテムの準備について語る。そこでヤムルは任務を終え、イワイユが新しいヤムルになる。子供は祖先のなかの特定の人の代表者と見られる(P.58)。

 事例5.ビンビンガ族(オーストラリア北部)。死霊は骨や火の上を彷徨う。儀礼を終えると、死者の霊魂は神話時代の祖先の地に帰り、しばらく歩きまわって再生する。


 驚くことに、いずれの事例も動物への転生、人間への再生信仰を持っている。人間の血、あるいはそれに代替した動物の血を塗るという行為に琉球弧の再生信仰を見る酒井の見立ては、的を外していないと思われる。


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2014/08/29

琉球弧の滴血

 親の骨に子どもの血を滴らせて親子の判定をする滴血の信仰が琉球弧にも見られる。

 事例1.(洗骨において-引用者注)最も近親のもの湯を以て其骨を洗ひ、悉く之を瓶(内地の水瓶に類して蓋に小孔数多あるもの)に入れ、若し其骨数不足の時は女子或は父母の指頭を刺血し、近傍の骨に点附し之を探求するなり(是れ親子兄弟お血液は其骨に浸染するとの言伝へによる)。(林若吉「宮古島の洗骨」1895年)

 事例2.右手の人差指を切って血が骨につくと自分たちのご先祖だと分かる。(崎原恒新の記録。沖縄島与那原、1977年)

 滴血は、人間の血を離れ、動物になると、場面に広がりが出てくる。

 改葬

 改葬の時、鶏をとって焼いてからその墓に振り散らした。墓石を建てる際もそうした(喜界島羽里)。
 改葬の際、鶏を一羽屠り、その血を門におき、肝臓を焼く。改葬が終わると庭に筵を敷いて、その肝臓を小さく切って共食する(喜界島中間)。
 改葬や墓石を新たに建てる時は鶏を殺して墓の入口にその血を撒いて、料理して食べた。これを「成就祝い」という(喜界島川峯)。

 重病人

 重病人がいると、動物を殺して身代わりにした(与路島)。
 厄払いの時に身代わりに動物を殺した(請島)。
 重病人がいると、動物を殺して、その血と肉を東方に向けて供える。肉は重病人に与える(喜界島志戸桶)。

 儀礼

 ハラタミ儀礼において、子牛を殺して、骨肉の七切をそこに吊るし、残りは内臓に至るまで各戸に分配し、老人たちは集まって酒盛りしながら共食する。牛の血は木の枝に塗って各家の門の両脇にさした(喜界島手久津久)。

 イッサンボ(首の長い藁人形で、神の使者だと信じられている)は、稲を雀や猪害から守るために田に立てられ、注連縄をはり、動物の血や内臓を塗りつける(徳之島犬田布)。

 葬列に使われる天蓋にまず鶏の血をぬる(座間味島)。
 石敢当を建てる時に鶏を殺して生血を門口に撒いた(喜界島先内)。
 骨を墓に移すとき、鶏を殺して墓の後方に埋める(石垣島)。
 家の新築のとき、ユタが祈願する前に、建主は鶏を主要な柱に打ちつけて血を流し、この鶏はあとで共食する。「新家(みいや)拝(ふが)み」という(沖永良部島)。

 血を重視した、滴血に酒井は、霊魂の蘇生あるいはセジ(霊)づけを見るのだが、共感できる。


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2014/08/28

南太平洋の骨噛みと再生信仰

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から、南太平洋における骨噛みの習俗を挙げてみる。

 事例1.アタフ(デュークオブヨーク)島(ニュー・ブリテン島東北沖)。ラグーンの深所に水葬するのが一般的。敵意を有する者の死体を引きあげて食うこともある。一方では死者の家に埋葬することもある。

 事例2.ニューギニア中央部の諸族(山岳住民)。殺した敵の肉を食う。自部族の場合は、小さい筏に乗せてセピク河に流す(p.334)。

 事例3.マラ族(北部オーストラリア)。住居から離れた叢林のなかで焼かれる。母の兄妹の子が行う。死んだ人によって食べる人も決まっている。ムンガライ族も同様。

 事例4.グナンジ族(北部オーストラリア)。倒した敵を食べる。また、自部族の死者をも食べるという(p.104)。

 事例5.ビンビンガ族(北部オーストラリア)。死体は死の直後、異半族の者が、全関節を切断。地面に穴を掘って、火を焚き、石を熱し、切断した死体を置き、緑の小枝で覆い、その上に、土を積んで焼く。異半族の者が食べる。

 事例6.北部オーストラリアヨーク岬半島東岸の諸族。死体の各部は親族に分配される。心臓、肝臓は、最近親が食べる。食肉を与えるのは、同一氏族、同一半族に属するもの。死者の特別な徳や能力(たとえば、ヤム芋の採集)を獲得するため(p.111)。

 事例7.マリボロー周辺の諸族(東部オーストラリア)。食人の際は、骨は直ちに集める。埋葬、火葬、台上葬(p.92)。

 事例8.アンタキリンジャ族(南部オ-ストラリア、オールデア地方)。死産児は、近き将来の再生を確保するために母が食べる(p.117)。

 事例9.ディエリ族(南部オーストラリア)。父方の男の娘の子または母方の祖父が墓中に入り、顔、大腿、腕、胃についている脂肉を切り取り、親族に食べさせる。食べる者は親族関係が決まっている。この食肉はもはやそれ以上、悲しまないためであるという(p.95)。

 事例10.タンガラ族(オーストラリア、場所不明)。死者の遺骸を袋に入れて持ち歩き、死者に対して悲しみを覚えると肉を食い、ついに骨のみにする。骨は粉にして大水の時に投ずる(p.95)。

 これをみると、ニューギニアにおいては敵を食べる行為としてあり、近親の死者を食するのはオーストラリアで見られる。いずれも狩猟採集の生活民でかつ、埋葬は行っていない。ディエリ族、タナガラ族では悲しみを和らげるためであり、ヨーク半島岬の例に見られるように、死者の徳や能力を引き継ぐためであるとされる。

 問題はこれがどの段階で行われるかだが、この習俗に死穢観念は見られないから、少なくとも死穢観念の伴った死体の埋葬以前だということになる。

 ここには、肉体と霊魂の明瞭な分離が行われていないと思える。明瞭な二元論を持てば、霊魂を本質とし、肉体に「徳や能力」が宿るとは考えないからである。

 葬法とともに、他界観念が挙がっている事例を挙げてみる。

 事例1.ムンガライ族(オーストラリア)。太古の祖先たちが、わが身を打つと、トーテムに属する精霊児が出て、人間となった。死者の霊魂は、父祖の地に行き、やがて再生するが、再生ごとに性を変える(p.57)。

 事例2.ビンビンガ族(北部オーストラリア)。死霊は骨や火の上を彷徨う。儀礼を終えると、死者の霊魂は神話時代の祖先の地に帰り、しばらく歩きまわって再生する。

 事例3.アンタキリンジャ族(南オ-ストラリア、オールデア地方)。死後、死体から毛髪を切り取り、これで髪の毛の輪をつくると、死者の霊魂はそこに入り、トーテムサイトに行き、虹の蛇に飲まれる(p.60)。

 事例4.ディエリ族(南部オーストラリア)。死者の霊魂は睡眠者の夢のなかで訪れる。このような夢をみると、呪医に告げ、呪医が真実の幻覚であると判断すると、墓に食べ物を持っていって、火を点けるように命じる。死霊は天に昇る。一方、地上をさまようとも考えられている(p.52)。

 いずれも他界観念を発生させており、したがって霊魂は肉体から分離するという観念も持っている。ということは、他界観念を発生させていても、明瞭な霊肉二元論ではなかったことを意味するだろう。そして、ビンビンガ族とムンガライ族には、再生信仰を認めることができる。



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2014/08/27

琉球弧の骨噛み

 琉球弧では、骨噛みの習俗が伝えられている。

昔は死人があると、親類縁者が集って、其肉を食べた。後世になって、この風習を改めて、人肉の代りに豚肉を食ふやうになったが、今日でも近い親類のことを真肉親類(マツシシオヱカ)といひ、遠い親類のことを脂肪親類(ブトブトーオヱカ)といふのは、かういふところから来た云々。(伊波普猷「南島古代の葬制」)
死体食肉の風は同族親近を表徴し今尚宮古、国頭、糸満地方にありては原始食人の慣行口碑に遺れり。「婆を焼いて嗅もかぐことできぬ程縁遠き者よ」といへるあり。又糸満にありては葬式後豚を屠りて血族に其の骨を頒り、縁者は必ず戸外に出で、之を齧る慣行二三十年前迄事実として行はれり(仲地紀晃氏実験談)。国頭地方には今尚豚を屠り葬送の意を「婆(又はヂヂ)を食って来たか」と称せるあり」(田村浩「琉球共産村落の研究」)
「西表与那国二島の土民人肉を食ひし事」。慶田城が人道に反するを説いて改めさせた(田山花袋篇「琉球名勝地誌」)

 「葬式に行く」ことを示す比喩のなかにも見いだすことができる。

 シシカミに行く(徳之島天城)、プニシズ(骨をしゃぶる、宮古島)、ピトカンナ(人を噛みに行く、八重山)、ピトゥクンナ(人を食いに行く、八重山)。

親類に死人の出たことを老人に告げると「アンスカ・ムム・ファリンサカメ(それでは、股、食べられるね)と言われたものである(石垣島、池間栄三『与那国島の歴史』)

 「肉を食べる夢をみると親族の誰かが死ぬ(新城島)」というように、この習俗がお告げとなる夢として伝えられているところもある。

 骨噛みが、豚や牛へ変わった経緯を語る言い伝えもある。

 事例1.昔死者を食べたといわれ、文明が進んで自分の親兄弟を食べるのは大変だといって四つ足に変わった(池間島)。

 事例2.人が死んだら縁者が集まって死人を焼いたり、あるいは生で食う風習があったが、後世になってこれを牛馬の肉に変えたという(八重山)。

 事例3.昔下方(島尻郡を指す)では死人があると、山羊と一所に煮て食ったさうだ。然るに中世或る孝行者が生れ、親の死体を食べるのは如何にも情に於て忍びなかったので、牛を屠って、皆に此を提供し、「親の代りに此を食べて下さい」と云った。それ以来屍を食ふ代りに葬式に牛豚等を屠って、此を会葬者に御馳走する風俗が始まったとのことである(佐喜真興英「南島説話」)

 また、民話化した場合も残っている。

 事例1.昔与那国島では老人を殺して食べる習俗があった。若者は、「次は誰を殺して食べようか」などと話し合った。親思いの若者がいて、島にもちあがった難題を親に解かせ、以来、村人は老人の大切さを知り、それ以後は豚肉をもって代用するようになった(崎原恒新「南島研究」8号)

 事例2.昔、ミニタヤマというヨウニ(阿呆)がいた。父親はそこで、村一番の賢い嫁をもらうことにした。ある日、ヤマの親戚の家で牛が死んだ。牛をどうしたものかと言われ、妻に教わった通りに、「肉は売って金に替え、骨は親戚に配るといい」と答えると、親戚は「それはいい考えだ」と感心し、ヤマを褒めて帰った。その後、こんどは親戚の婆さん(パーパー)が亡くなった。親戚がヤマにどうしたらよいかと尋ねると、妻が留守だったので先日褒められたことを思い出して、「肉は売って金に替え、骨は親戚に配るといい」と答えてしまい、親戚からひどい目にあった(与論島)。

 折口信夫は、この習俗の根拠として、「食人習俗の肉を腹に納めるのは、之を自己の中に生かそうとする所から、深い過去の宗教心理がうかがはれる」と書いている(「民族史観からみた他界観念」)。

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2014/08/26

「民族史観における他界観念」2

 折口信夫の「民族史観における他界観念」から。続き。

 (霊魂に対して)人間的な思い方が伸びて行けば、他界霊魂即、祖先霊魂という信仰が発育するのである(p.341)

 つまり、トーテム原理が失われれば、他界の霊魂は、人間の祖先としてしか想起できなくなるということだ。

我々の考え得ることは、他界と今生とでは、すべて時間・空間の関係が違っている。のみならず、数も、順序も、全然更(あらた)まった形で在るのである。もちろん因果関係の論理も、我々が今生を中心とするようなものではない。-そう言う状態にある他界というものを、古代の更に前なる古代人は考えていたのである(p.342)。

 他界の生類を人間の祖先と考えた。日本の前「古代」は、まさにその最適切なものではないかと思う(p.344)。

 私は日本民族の沿革・日本民族の移動などに対する推測から、海の他界観まづ起り、有力になり、後天空世界が有力になり替ったものと見ている(p.346)。
 葬儀に関して、屍体処分の風習を思うと、海彼岸説が極めて自然で、むしろその事に引かれて、海中に他界を観じる様になったと考えてよい(p.346)。
 恐らく山と田とを循環する祖霊と、遥かな他界から週期的に来る-特に子孫の村落と言うことでなく-訪客なる他界の生類との間に、非常な相違があり、その違い方が、既に人間的になっているか、それ以前の姿であるかを比べて考えると、どちらが古く、又どちらが前日本的、あるいは前古代的かと言うことの判断がつくことと思う(p.348)。

 これは今でも通用する判断基準だと思う。

 古代日本の動物では、羽衣を着るということが、説明を待たずして、大きな白鳥を現出することだったのである(p.355)。
 なぜ人間は、どこまでも我々と対立して生を営む物のある他界を想望し初めたか。(中略)人が死ぬるからである。(中略)他界信仰の発生。他界の発生-それを唯つきとめて行けば、世界人の宗教心の発生所に到達するかも知れない。(中略)こういう学問に-一つの違った観察所を顧みなかった日本人が更めて手を出してよいことだと思う(p.359)。

 この文言に出会えてよかった。

 これは(琉球弧においてトーテムとするらしい動物を食べること-引用者)は恐らく週期的に、また年に稀に遠く来たり向かう動物の寄るのを計ってこれを取り、その血肉を族人の体中に活かそうとするのである。沖縄本島では、この風習がの変っている。一族中に死人があると、葬式に当って、豚の肉を出す。真肉-赤肉・ぶつぶつ・脂肉-を、血縁の深浅によって、分ち喰う。この喪葬の風と、通じるものがあうのであろう。別、これに通じる風を伝えたものと見て、不自然ではない。
 郷党血食の儀礼とも言うべき祭りに共食せられる海獣は、祖先子孫の関連によって続いているものではない。併し食人習俗の肉を腹に納めるのは、之を自己の中に生かそうとする所から、深い過去の宗教心理がうかがはれるのである。それと近い感情が、儒良(ジュゴン)、海豚に対して起る訣である。しかもそれは親子でもなく親戚でもない-その外のある緊密な関連と沖縄の人々は感じている。それよりもさらに生活の原始的な種部族にとっては、説明し難いものを感じている二違いない。所謂とてむとてむを持つ人との精神交渉は、彼等の単純な知識では解説のできない、しかし気分的には了解しているようなものであった(p.363)。

 南太平洋の事例を見ると、トーテムは食をタブーとするのが普通だ。それなら血食は、トーテム原理が失われたところでなされるのか。それとも、トーテムのタブーが裏返ったものなのか。

 海獣の中なる霊魂は、われわれと共通の要素を持っている。そうして人間身は現ずることをせぬが、変ずることなき他界身の中に、共通のものを持っている(p.364)。
 仮面起源の複雑な中にも、とてむ像から出ていると言うことは真実である(p.366)。

 折口信夫は、遠くまで歩んでいることがよく分かった。この論考を知ることができてよかった。


『民族史観における他界観念・神道宗教化の意義』

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2014/08/25

「民族史観における他界観念」1

 折口信夫の「民族史観における他界観念」から。

 他界の用語をあまり自由に使いたくない。そうしないと、古代におけるこの観念が非常にひろがってしまう恐れがある(p.309)。
他界なるが故に、遠く遥かに海の彼岸にあり、他界なるが故に、時間の長さが、この世界と著しく違い、極めて信ずべき他界なるが故に、実在性が強くなっている。

 未完成の霊魂。霊化しても、移動することができない地物、それに近いものになっているために、将来他界身になることを約束された人間を憎み、妨げる。

 常人の死と、生存時すでに神の境まで乗りだしていた人の死を同一視するのは誤り。そういう人の死に対しては、ほとんど同時に、他界の生活がはじまっているものと見ていたに違いない(p.316)。

 これは、アボリジニで高度なイニシエーションを経た賢者が死を生きることができるとされているのと似ている。というか、ほとんど同じなのではないだろうか。

異郷・他界の訪問者の信仰が、無終とは言へぬか知らぬが、ほとんど無始の過去世から続けて来た風である。

 来訪神の起源を、折口はやはり「無始の過去世」という深度に見ている。

 悪霊、悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを「もの」と言った。その「もの」の持つ内容が「たま」という語のなかに入ってきた。混交に気づいて、区別するため、悪質で人格的な方面を発揮するものを、「霊(りょう)」、「霊気(りょうけ)」と言うことが多くなった。

若衆が鍛錬を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛へあげられることに当る。そのゆえこれは、宗教行事であると共に、芸能演技である。拝むことが踊ることで、舞踏の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである。

 これが年齢階梯的な男性の秘密結社のもともとの意味にもつながる。未完成の青年の鍛錬を経て踊り、未完成の霊魂と一体となることで、未完成の霊魂を完成させる行為につながっていた。

 霊魂の完成者は、人間界では「おとな」に当る。人はそういう階梯を経て、他界における「おきな」として往生する(p.325)。

 ということは、カジマヤーは、「おとな」から「おきな」への移行儀礼と見ることもできる。

 霊魂の完成は、年齢の充実と、完全な形の死とが備らなければならぬ(p.327)。

他種族の人々の通路は、必ずしも明らかに村人の賑い住む方向には考えなかった。我々と同じように生活しているものが来るのでない。来るは来ても、霊的な交通者だと-古人は異郷の人を他界人として考えたのである。

 他界人は死者だけではない。異種族の人もそう考えられた。だから、新しい技術を持って到来した人々は他界人であり、神となる可能性があった。

 私の述べている古代のその前代の方が、その古代よりも、もっと更に時の隔たりがあるような気がする(p.334)

 折口の視線は、古代以前に伸びようとしていたのだ。

 来訪神のあった時、この神の威力を表現し、それによって、村落全体の生活が力強い威力に感染することができるようにするのは、そうした訓練や、表現が充分に保たれていなければならないはずだ。来訪神をとり囲んで、眷屬(けんぞく-一族の意-引用者)の形をもって、荒(すさ)まじい行動を振わねばならぬ(p.336)。
 だからこの役を勤めた上は、この土において、成人待遇を受けるのである。彼らの尊者が来迎する時、他界の事情はここに映し出され、この世と他界とを一つ現象として動いているものと実感するまでにせなければならなかった(p.337)。

 来訪神儀礼は、現世と他界をひとつにするために行われる。

 琉球弧の鍛錬の中身は、アボリジニやアイヌのような臨死体験に臨む要素が希薄な気がするが、それはアボリジニやアイヌが他界を生きることを主眼に置いたのに対して、琉球弧の場合、現世と他界をつなぐことに主眼を置いてきた違いかもしれない。前者は、他界を見る、体感することが重要であり、後者においては他界を現出させることが重要になる。

 琉球弧において天然痘を「美ら瘡」と呼ぶこと。流行病の神もまた、常に他界から来るものと思っているためにする作法。神を褒めるとともに、災い浅く退散してくれることを祈る。古代日本以来、他界の訪問客に示す態度は、いつもこうした重複した心理に基づいていた(p.338)。 海の彼岸より遠来するものは、必ず善美なるものとして受け入れる。

 天然痘と新しい技術を持って到来したアマミキヨを同じと見なす視線。

『民族史観における他界観念・神道宗教化の意義』

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2014/08/24

夢の思想化

 空間内に存在しているものはすべて、夢見と知覚可能な世界との関わりから生じる。それらはみな、意識と無意識との関わりから生まれるのだ。アボリジニにとって虹とは、無意識の象徴の最たるものであり、不可視のものが姿を現し始める夢見にほかならない。虚空をゆく鳥は、無意識の使者であり、稲妻が放つ閃光は、無意識の内奥から溢れ出たエネルギーの荒々しい放電である(p.69『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』
 睡眠は、夢見にいたるほんの入り口にすぎない。アボリジニの教育は、水mんや催眠中にも意識を鍛錬することから始まる。睡眠中にも意識を覚醒させておくことこそ、アボリジニ各人が、イニシエーションの始めに実践する行為なのだ。アボリジニの伝統では、ドリームタイムの驚くべき実在が体験できるのは唯一、意識の変容状態においてのみとされている。ドリームタイムとこの世界とのあいだを、意識を覚醒したまま、素早く往来する能力は、一連の儀礼を通じて磨かれてゆく。参加者はその過程で、強烈なトランス状態に陥るが、それは催眠にも似た恍惚状態である。こうして参加者は、謎に満ちた「自然」の超感覚的世界を、日常生活へと招き入れる術を学び取ってゆくのだ(p.79)。

 こうした記述をみていると、アボリジニのドリームタイムは、文字通り、夢を思想化したもののように見える。野生の思考にとって、夢は霊魂の遊行を根拠づけるものだったが、アボリジニの場合、最大限の意味を付与されて、世界創造の根拠を生みだした元の経験に当たっているように思える。それは、意識的に夢を見ることに始まり、トランス状態を生むことで、超感覚世界を生みだすことに成長していく。

 拡大された夢と実在との二重性がアボリジニの生活であるとしたら、これは、「生、眠り、夢、死は、まだ連続した感覚体験としてとらえられてい」(吉本隆明)たことの内実に当たっている。


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2014/08/23

アボリジニにおける生誕

 アボリジニの世界では、精子はあくまで、子どもが子宮に入り込む入り口を提供するだけであり、生れてくる子どもの魂は、受精に先だって、父親の夢やその内的意識に姿を現わすものとされている(p.217)。
 アボリジニの男性は、スピリット・チャイルドに出会った場合、即座にそれと分かるのだが、それは、イニシエーショノで授かった知識のおかけである。スピリット・チャイルドが現れたと悟った男性は、性交を終えると、妻に向かって「きのう、子どもに会ったんだ。今はもう、お前の腹の中にいるぞ。すぐに入れといたからな」。「卵の殻を破る」プロセス全体と胎児の発生・成長を活性化し、方向づけるのは、このスピリット・チャイルドであって、生死ではないのだ(p.218『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』

 トロブリアンド諸島の島人とは違って、性交による妊娠という概念はある。しかし、精霊児の存在が先立っている。何事にも夢見を先立たせる思考の方法がよく現れている。

 また、トロブリアンド諸島の島人は農業を行うが、性交による妊娠という概念を持たない。この性交による妊娠という概念は、狩猟採集という段階に獲得されることもあれば、農の段階まで持ちこされる場合もあるということだ。

 だが、こう判断するのは保留がいる。このアボリジニの証言はヨーロッパ―人が入植し始めたころのものではないのだから。


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2014/08/22

狩猟採集の思考

 ある部族の長老。

 「土地を耕したり、建物を建てたり、動物を飼ったりする連中は、この土地の精霊とは縁もゆかりもないんじゃから、ここから出ていかにゃならんのじゃ。この土地の掟に背いているんじゃからな(p.49)」。
 石や小枝を思わず蹴り飛ばしてしまったアボリジニの子どもは、年長者に、「もとの場所に返せ!」とたしなめられる(後略)。アボリジニにとって、風景とは、人類の心模様と世界を創造した先祖の力を完璧に表現した象徴にほかならない。どんなかたちであれ、大地の秩序を乱す行為はまさに、人類と実在に備わった意味と歴史をかき乱す行為なのである(p.69)。
 アボリジニは、野生の草木の種子を集め、穀物加工のための複雑な方法をも身に付けていた。穀物ともみがらを選り分けたり、種子をすり潰したりといった四万年以上も前から行われてきた方法をである。こうした穀物採集者が、穀物栽培に手を染めなかった理由はどう見ても、故意の選択によるとしか思えないのだ。この選択は、先祖が定めた生命計画の中に記されていた。アボリジニの文化ではまた、衣服を身に付けることも禁じられていた。高度な機械技術とふんだんな皮を持ち合せていたにもかかわらず、建築にはいっさい興味を示さなかったし、あれだけすぐれた芸術や記号を生みだしておきながらも、文字を作ろうとは決してしなかった。実際、アボリジニの抽象化および象徴化能力は、実に洗練された見事なものだ(p.92『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)。

 土地の栽培、所有、建物、飼育、衣服。これは知らないのではなく、拒否されている。トロブリアンド諸島の島人たちが、性交による子の誕生という認識を受け容れないのと少し、似ている。

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2014/08/21

アボリジニにおける死の理由

 アボリジニにおいては、老いや怪我による死は、自然だが、病気や事故による死はそうではない。

 呪術が原因とされていると思いかけるが、そうではなく、「ドリームタイムの創造主が過剰に働いた結果」だとされた。わかりにくいが、ドリームタイムという共同幻想に飲み込まれるという比喩で思い浮かべればいいだろうか。

 「妖術」による死もあり、その場合は、妖術をかけた当人へ復讐される(p.476)。

『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』



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2014/08/20

死者の場を離れる根拠

 南太平洋の部族に見られた、死者の家を捨てる習俗について。

 死後数年のあいだは、死者の名前を氏族メンバーないしは親族が口にすることはない。故人が使っていた道具と身の回りの品々はすべて処分されるか、死者と一緒に埋葬される。また死者の出た野営地には、氏族はいっさい近寄ることもない。また死者が出た場所の正確な位置が身分の高い長老によって突きとめられると、その位置ははっきりと示され、数年のあいだはそこに近づいてはならないとされる。死者が受精し、誕生した場所も同じく、死後数ヶ月ないし数年の間は、敬遠されるのだ。死者の名前を口に出すことはタブーとされ、厳しく監視される。それは、個人の名に含まれている振動パターンが、留め金ないしは錨の役を果たすことで、死者の霊的エネルギーが自己撞着を起こし、挙げ句の果てには現世に留まりかねないからだ。同じように、死者の名前の出所となった動植物や土地の名称も変えられねばならない。死者の名前と似た響きを持つ言葉もしばしば、別の呼び名に変えられるのである(p.471 『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)。

 アボリジニは、狩猟採集を行うから、家という概念はないから、家を捨てるという行為は生じようがないが、野営地を離れている。それどころか、死者に関わる主要な場所に近寄らない。距離を離すことにおいては、名前にはまで及んでいる。

 これは、南太平洋においては、「家を捨てる」行為にだけ焦点が当てられたことに対して、その内実を与えてくれている。やはり、死者の霊魂を意識して生み出された行為なのだ。

 残された物の悲嘆の大仰な表現も死者を「故郷」へと帰すための行為である。これは自我霊に関わり、ここでいう「故郷」とは他界に他ならない。

 これは、共同幻想から自己幻想が分化することで生み出されるのだと思える。



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2014/08/19

生死の連続

 アボリジニの死後観。

 アボリジニによれば、人は死ぬと精神と物質とが完全に分離したままの「ユティ」と呼ばれる知覚可能世界を抜け出て、かすかにきらめく「夢見の領野」へと参入する。その領野では、身体は、振動する形態へと変容し、物事の本質ともいうべき「構造化された共鳴」に調和してゆく。個人の無意識(B)は、振動している原子の世界のように、「気づき」のレヴェルにある。これは、動物が普通に見せるような「気づき」である。研究によれば、動物の知覚は、肉眼で確認できる形態に対してよりは、分子レヴェルの振動に向けられているという。だからこそ動物は、肉眼では捉えられない不可解な力に敏感なのである。動物はおおむね、夢見の世界に暮らしているのだ(p.483)。

 これは生死が連続しているとは、どいうことかを言い換えているのではないだろうか。可視から不可視の世界へ、知覚可能な世界から夢見の世界への移行。

 「死への移りゆきは、睡眠や恍惚へのそれに似ている」。「死とは、生命の終焉や現世から来世への移りゆきなどではない。それは、意識の中心から、肉眼では捉えるkとのできない主観的な層への移りゆきなのだ(p.484)」。

 ここで強調されているのは、トーテム霊のことだと思える。

 アボリジニがイニシエーションの究極目標にしているのは、死後、魂が三つの領野を自在に往来できるような条件を生みだすことである。アボリジニの発想では、魂は死後、統合されうる。生涯、精神、身体、魂は一体のままにされるからである。つまり、各人、各場所にはすべてが宿っているのだ。これこそまさに、現世にほかならない。共感の力は生涯、徹底して養われてゆく。その結果、しかるべき場所に鎮座しているアボリジニの魂は、森羅万象の魂や存在に浸透してゆう。死後の世界では、この力が個人の意識を牛耳ることになる。そしてその力はさらに、自然界に存在する多種多様な生命や「世界の根源」ともいうべき「無限の存在である先祖」が謳歌した自由の中で共有される(p.484『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)。


 人間は死後、万物に宿る存在に返ってゆく。ただし、無に帰するというのではなく、遍在できる力を持ちうる。

 先祖というのは、最初、変幻自在な元型の力を指している。その背景が忘れられると、トーテムとしての始祖になる。それが忘れられると、人間としての祖先になる。という推移だろうか。

 2.先祖霊

 「ドリームタイム時代の想像力溢れた偉大なる先祖と共鳴する」。「不変の「超自然的元型である「ドリームタイム時代の先祖」が支配する領野とは、天空にある「死者の国」にほかならない(p.462)。先祖霊は、夜空の特定の位置に輝く星座へと赴く。


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2014/08/18

アボリジニの死生観

 アボリジニの死生観。

 人間が死ぬと、身体を構成している霊は三分割される。

 1.トーテム霊

 身体を支える生命の源にまつわる霊。この「生命の源」は、生命と動植物種の霊の生まれ故郷ともいうべき「地上の場」であり、人の血統と密接な関係にあって、一生を通じて滋養を吸い上げてきた源である。人が死ぬと、かつてはその精神と肉体とに宿っていたトーテム霊は、儀礼を通じて、動植物をはじめ、岩、水、陽射し、火、木々そして風といった生命維持には不可欠の自然霊へと立ち返る(p.462『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)。

 2.先祖霊

 「ドリームタイム時代の想像力溢れた偉大なる先祖と共鳴する」。「不変の「超自然的元型である」ドリームタイム時代の先祖」が支配する領野とは、天空にある「死者の国」にほかならない(p.462)。先祖霊は、夜空の特定の位置に輝く星座へと赴く。

 「来世の生活ってのはどのみち、現世における最終狩猟生活そのものなんだよ。ただ天空には獲物はもっとたくさんいるんだがね(p.470)」。

 3.自我霊

 場所との因縁が強く、妻、夫、親類縁者とはもちろん、道具や衣服といった物品との結びつきも強い。

 これを見ると、先祖霊が他界に該当している。アボリジニが長く独自の思考を保存したおかげで、霊魂に対する考え方もはっきりしている気がする。他界発生以前は、トーテム霊だけが観念されていたということではないだろうか。


 海岸地帯に暮らすアボリジニの部族は例外なく、沖合に自分たちの島を持っている。また内陸部に住む多くの部族も同じような島を描いており、その島こそ、死者が最初に赴く先と考えている。さて、アボリジニは、一連の浄化儀礼を経ることで、体力、美貌、知性のすべてにおいて絶頂にあったころの「状態」へと戻ってゆく。死者の島は、天空の旅への出発点であり、その終着点が宇宙なのだ(p.474)。

 これはトロブリアンド諸島の観念と似ていて面白い。トロブリアンドにおいては、死者の島からどこかへ行くことはなく、再生する。

 アボリジニにおいては、「意識をつくりなしている個々人の魂が再誕することはない」(p.460)」。

 生まれ変わりという発想は、次の二点によるもの。

 1.個人という幻想に取りつかれていると、自我が死後も生きつづけ、来世でも変わらず存続するという発想にゆきつく。

 2.こう考える文化では埋葬に関する知識は廃れてしまう。埋葬とは死者の霊的エネルギーを現世から引離すための習俗だからである。

 再生が、「個人」という発想を元にしているというのは、大きな示唆を与えてくれる。最古の観念ではないとうことだし、自己幻想の分化、分離を意味している。

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2014/08/17

動植物への憑依

 動物への憑依能力は、観察と儀礼によって磨かれる。

 動植物に関する知識は、長期にわたる注意深い観察と儀礼によるトランス状態で現れる深い共感能力から得られる。最強の狩人はさらに、動物や鳥の動きと鳴き声をまねることのできる、「歌謡と踊りの名手」なのだ。アボリジニは、何時間もかけて動物の動きをじっくりと観察し、その鳴き声に耳を傾ける。昼夜にわたる儀礼と「動物の舞」を通じて、動物の特性を自分の神経系と筋肉に刷り込むのである(P.406『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)。

 その能力は狩りにおいて発揮される。

 舞や歌謡を通じて身につけた、動物の鳴き声や動作の物まねは、狩りの最中には、動物をおびき寄せるためのトリックとして使われる。物まねによって、動物の能力や感覚が、狩人とその親族の意識に取り込まれるというわけだ。このように、獲物はまず、狩人の魂の一部になるのであって、肉体の一部となるのはその後のことにすぎない。動物の霊的生命はこうして、その物理的な死と引き換えに、拡張されるのだ。こうした互恵性が十分でなければ、いくら栄養をとっても、人体に有害となるかもしれないのである(p.407)。

 ここで互恵性というのは、動物が人間のなかに取り込まれることで、霊的生命が拡張されることを指している。単体ではなくなるということだろか。

 「動物の能力や感覚が、狩人とその親族の意識に取り込まれる」という個所には、共同幻想と自己幻想が未文化であるとはどういうことを指すか、よく現れている。

 もうひとつ。狩猟において狩猟自体が本質的ではなく、狩猟の対象である動物との同一化が本質的であることを示されている。

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2014/08/16

なぜ、トーテムを観念できるのか

 アボリジニの創世の神話世界、ドリームタイム。 

 こうした存在はすべて、同時に生みだされたが、それらは互いに入れ代わることができた。植物が動物に変身することもできたし、動物が地形に変わることも、地形が人間の男女に変身することもできた。先祖は、人間であると同時に動物でもありえたのである。ドリームタイムの物語で冒険が企てられる際に起きた。森羅万象は、「偉大な先祖の夢見と行動」という共通の源から生みだされた。ドリームタイムにおいては、あらゆる段階、局面、周期は同時に存在していた。『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』(p.34)。

 人間は動物でも植物でも地形でもありえたし、逆もそう。それらは地上に、精霊として出現しただろう。こう観念されるのであれば、蛇やアマムをトーテムとする理由が分かる。

 アボリジニの思考はもう少し整除されている。

 先祖が備えていた特性のうち、動物には、外的な体型や行動が与えられ、人間には、心的活動と情動とが現れた(p.441)。
 人類と動物はしたがって、お互いにそれぞれの内部と外部とを反映し合っているのだ(p.444)。

 これは、「人間の内的心理状態と情緒が、外的には、動物の体や行動に象徴されるということである」。こうなれば、トーテムとしての動物は指定できることになる。

 ただ、アボリジニおいては植物はやや違っている。植物は、先祖から直接現れることがなく、大地が形成される過程で堆積された潜勢力から生じた(p444)。

 これは、少なくともこう記録されたアボリジニは、人間、動物と植物との差異が意識された段階にあると言えるだろうか。

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2014/08/15

夢見

 『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』から。

 こうした存在はすべて、同時に生みだされたが、それらは互いに入れ代わることができた。植物が動物に変身することもできたし、動物が地形に変わることも、地形が人間の男女に変身することもできた。先祖は、人間であると同時に動物でもありえたのである。ドリームタイムの物語で冒険が企てられる際に起きた。森羅万象は、「偉大な先祖の夢見と行動」という共通の源から生みだされた。ドリームタイムにおいては、あらゆる段階、局面、周期は同時に存在していた。世界が形作られ、多種多様に変身した先祖が世界に満ちると、当の先祖は疲れ果てて、大地や空や雲や生物に姿を変えて引きこもってしまった。自分が生み出した森羅万象に秘められた潜勢力さながらに、あまねく広がろうとしてである(p.34)。
 アボリジニによれば、野営地で眠っていた先祖がまず、ある対象を夢見た。実際、先祖は、旅を頭に思い描く。旅する国を、歌を、その他諸々の事柄を思い描くと、それらはすべて現実のものとなる。対象とは、頭に思い描いたヴィジョンが、外界に投影されたものと考えられるのだ。そしたヴィジョンはすべて、先祖の心の内奥から外界へと立ち現れてくるのである(p.64)。

 アボリジニには、時間という言葉はない。空間を距離とは考えない。アボリジニにとっての空間は意識。

全宇宙とアボリジニの体験はすべて、知覚で捉えられる真実とドリームタイムに二分される(p.358)。
 夢やヴィジョンに現れた出来事や実在も、夢見ないしはトランス状態にある人が実際にそれを目撃したと確信できれば、ユティと見なされるだろう(p.358)。
ユティとは、知覚可能な現象世界。

 これらは、第零次の人間と自然の関係性そのものだ。

 人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 夢見は、イメージ的身体としての自然を感じ取る行為のように見える。

 イメージ的身体としてのドリームタイムがあり、人間はそのイメージ的自然に当たる。先祖が思い描いたから、森羅万象ができた。この場合の、先祖は時間的に遡及する人間の系列ではなく、エネルギー場のような抽象度の高いものだ。

 ここまでの理解でいえば、ドリームタイムとは祖先の時代のことであると同時に、その具現化された世界として現在も生きているものである。アボリジニは、知覚可能な世界と同時に、ドリームタイムから流れくだっているものを同時に見ようとする。それは、トランス状態や瞑想を通じて見ることが可能である。

 夢見、っていい言葉だ。

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2014/08/14

無他界論 メモ

 琉球弧において無他界の段階を想定することはできるだろうか。他界が発生する前の段階の人類が琉球弧にいたことはあるだろうか。

 この問いに葬法から示唆を与えてるのは、酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』だ。酒井は、琉球弧の葬制を議論するなかで、野ざらしの風景から出発している。野ざらしとは何か。山野に散在する人骨のことだ。ぼくたちは洞窟に人骨が散乱しているのを知っているが、酒井によれば、それは洞窟に限らない。奄美大島の古見ではミャー(広場)の浦に昔は人骨が山のように積まれて、島人が祀っていた。瀬戸内では、海辺に散乱する人骨が村の禍になるとして、モーヤ(骨置場)を作って納めた。徳之島の徳和瀬のナーパマの近く、ハマジ川の近くの藪の中にも古い人骨が散乱していた。沖永良部島の小さな森、ウジチ山にも人骨がある。伊計島の西側には人骨が散らばっていた。

 歌う髑髏の話もある。これは同工異曲のものが多いが、たとえば沖縄島羽地の沖に奥(おう)島ではこうだ。夜になると奥島から女の声で「屋我地前の黒潮渡ららん(渡ることができない)」という上の句だけの歌が繰り返し聞えてくる。あるとき夜釣りに行った翁がこれを聞いて、「七橋架きて渡ち給ばり」と下の句を添えてやると、以来下の句も添えて歌うようになった。奥(おう)島はかつて死者を運んだと伝えられる島だ。

 酒井は「歌う髑髏」の昔話は大和由来かもしれないが、伝承の根拠は「野ざらしの風景」として、もともと琉球弧にあったものだと考えている。そして、この野ざらしの風景のひとつの系譜として、死者が出るとその家を捨てたという大胆な仮説を提示しているのだ。家を捨てる。それは本当にあったのだろうか。

 民俗を聴き取る耳を持った柳田國男は、南島を旅行した際に、沖縄島知念において、「死人を大いに忌み、死すれば家を捨つ。埋葬なし。棺を外におき、親族知己集飲す」と記している。また、19世紀に首里王府は久米島具志川に対して、死者の出た家で住居家財を放置して別居することがあるのに対して止めるよう通達している。確かな感触を伝える例は少ないが、奄美大島南部では死後の「マブイ別し」の時に、「イキチュンチャヤ・スィゲーユン」(生きている人は巣を変える)という言葉がよく使われ、沖縄島島尻では主人が死ぬと火の神はもちろん、臼・鍋などを庭に出して転がすが、これを「家(やあ)ざらえ」と言い、家を捨てたことを示唆する言葉を残している。与那城では、死後浜に出て払い清めをする際、家の灯を消しておき、家に入る際に改めて灯をつけるが、これは家を更新することを含意させている。現代では琉球弧においても痕跡を辿るしかないわけだ。

 ここで琉球弧の南に目を転じると、死者の出た家に死者を残し、遷居する例を見出すことができる。

 1.クブ族(スマトラ島)。家の中に死者や瀕死の病人を残して逃げ去り、遠く隔たった場所に新しいさしかけを作って住む。以前には死者を埋葬せず、死者の死んだ小屋または死者の発見せられた場所に木の棒で二尺位の高さの垣をして、その上に木の葉で屋根を作り、それがすむと、その場を逃げ去ったという報告もある。

 2.イロンゴット族(ルソン島)。死者が出ると家族の人々はその夜中、悲しい声で泣き続け、その声は遠方からでも聞える。死の翌朝、死者の出た家を捨て、再び帰来しない。価値のある物は持ち去る。瀕死の病人の家が立派で捨てるに忍びない時は大急ぎで小さい別の小屋を作り、死去前に病人を遷す。

 3.プナン族(ボルネオの僻遠の叢林、諸大河の源流地方に分布する移動部族)。弔葬儀礼を行わない。人が雨小屋のなかで死ぬや否や20~30人からなぢ彼らの集団は死体を小屋に残して、ただ木の葉や声だで覆うておくのみで、他に移ってしまう。(棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』より要約)

 いずれの例も死から時間をおかずに家を出ている。そのさまは「逃げ去る」と観察されたほどだ。南太平洋でも記録された数は多くはないが、死者を家に放置し家を捨てる習俗があるのは確からしく思える。この習俗は直観的にも古層に属するものと見なすことができるが、それ以上に関心をそそられるのは、スマトラ島のクブ族について、「未開のクブ族では、人間は死んでしまえばそれまでで、死後の世界の観念については何も持ち合わせていない」と報告されていることだ。昭和初期の宗教学者は、「クブ人の多くは森、川、雨、風等の自然の悪霊をみとめ、種々の病気特に痘瘡をこれらの悪霊の業と考えて病人に対しては呪文を唱えたり唾を吐きかけて悪霊を逐う」、あるいは「子供の誕生後の浄めの式に祖先を呼んで踊る」(宇野円空『宗教の史実と理論』1931年)と記しているから、他界観念を持たないとはいえ、最古層の観念ではないことが分かる。しかし、それでも、これらの報告を信じるなら、葬法から辿ると、家に死者を放置し、家を捨てる習俗は、他界の発生以前までの射程を持っていると考えることができる。

 琉球弧において、死者を家に残し家を捨てるというのはどういう状態を指しただろう。何を考えてそうしたのだろう。そこに接近するには、生者が家を出る様式から死者が家を出る様式になるまでの過程を知る必要がある。

 酒井卯作は、生者が家を出た痕跡として、「外竈(かまど)」の習俗を挙げている。死者の出た家で別火(べっか)、炊事の火を別にして過ごすということだ。

 1.家族は葬儀を終えて帰宅しても屋内には入らず、庭に竹と莚で作ったタマヤドという小屋に宿って一夜を送り、食事の調理は他家に依頼した(沖永良部島知名)。
 2.子供が死ぬと、母親を恋しがって帰ってくるというので家族は三日ばかり他家に泊まる(西表島古見)。
 3.死後三日目をミーダチといい、浜の清浄な砂を持ってきて門の入口に一尺四方に敷きつめ、その夜は他家に泊まる。翌朝帰宅してその砂になにかの足跡がついていたら死者が帰ってきたといって忌む(石垣島川平)。
 4.四十九日以内の吉日にファーに遊びといって、葬家の遺族や親戚一同が米や野菜などをもって浜で煮炊きなどをして一日を過ごした(沖縄島知念)。

 これらの例は、葬儀の日、三日間、三日目、四十九日以内の吉日と日取りはばらばらであり、西表島古見のように対象も子供に限定されている場合もあるが、「外竈」をしなければならないのは、死者の家族が第一にあり、それが遺族、親族に及ぶことがあるのが分かる。

 家族の単位だけでなく、それ以外にも及ぶ場合も酒井は挙げている。

 5.息を引き取るとき、その場に居合わせた者は、仮小屋を外に作って一夜泊まる(沖縄島国頭)。
 6.死者の葬儀に参加した者は五月になって一日だけ家をあけて、野外に天幕などをはって一晩を過ごした(沖縄島今帰仁)。
 7.新築して三年以内、重病人のいる家などの人が葬式に行くと、その家族はミーカガソーズといって、三日間は親戚か知人の家で忌が晴れるまで泊まる(宮古島池間)。

 死に居合わせた者は家族であることがほとんどだろうが、葬儀に参加した人にまで及ぶ場合がある。また、宮古島池間の場合は、葬儀に参列した人だけではなく、その家族にまで及んでいる。

 ここから言えるのは、「外竈」が、死者の家族を最小単位とし、親族、遺族や死、葬儀に立ち会った当人またはその家族を漠然としてはいるが最大の範囲とみなしていることだ。

 これは死者の霊魂である死霊を恐れてのことと解しやすいが、ぼくたちは過去と現在の違いを浮き彫りにする言葉がほしい。ここで思いだされるのは、吉本隆明による死の規定である。

 人間はじぶんの<死>についても他者の<死>についてもとうてい、じぶんのことみたいに切実に、心に構成できないのだ。そしてこの不可能さの根源をたずねれば<死>では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から<浸蝕>されるからだという点にもとめられる。ここまできて、わたしたちは人間の<死>とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に<浸蝕>された状態を<死>と呼ぶというふうに。<死>の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。たとえば、未開社会では人間の生理的な<死>は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような<侵蝕>を実するために、個体の<死>は共同幻想の<彼岸>へ投げ出される疎外を意味するにすぎない。近代社会では<死>は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、<共同幻想>の<侵蝕>は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりというがお世話になっております。年が流通するようになる(『共同幻想論』)。

 琉球弧は未開社会ではないが、未開的な野生の思考を強く保存している。そこでは、死は、ここで言えば死霊という共同幻想に死者の自己幻想や対幻想が侵蝕され、とって代わられてしまう。けれど、それは死者のみではなく、死者の対幻想の対象だった家族の対幻想にも侵蝕が及ぶ恐怖を喚起せずにはおかない。「外竈」というのは、この共同幻想からの侵蝕を、残された対幻想である家族に及ぼすのを防ぐ仕草のように見えてくる。

 ところで酒井が例示した「外竈」の習俗は、既に死者の家を捨てるのではなく、死者を家から出すようになって以降のものである。生者が死者を家から出すようになっても、外泊をするのは、もともとは家を捨てた習俗の名残りではないかと見ているのだ。これは的を射た推定ではないかと思える。

 ぼくたちは死者を放置するように家を捨てた例を見てきたが、家に留まるまでの中間の形態も南太平洋に見いだすことができる。それは段階化できるものだ。

 まず、死者を放置するのではなく、死者を家に埋葬して家を捨てる場合がある。

 1.カイ族(フィンシュハーフェン奥地森林地帯)。死の原因は魔術および死霊の働き。臨終の時は、死者の手を取って打ち、冷たくなった足をのばし、死者に物を言って頭をあげ、優しく寝かす。ある者は飛びあがり、槍で見えざる魔術師を刺し、ある者は家をゆさぶり、ある者は小刀を振りまわして耳を傷つけ血を流す。

 死体は死後2~3日目に埋葬。墓は家の下に掘る。墓穴はきわめて浅い。生前、埋葬を嫌がった場合は、包んで家の隅に置き、死汁は管で地上に流れるようにする。死汁が出なくなると骨を取り出し、下顎骨のほかは埋葬する。誰かの死んだ家は捨てる。死霊が出没して、夜は不安だからである。死者が首長や主要人物である場合には、全村を捨て、新しい場所に村を造る(p.328)。

 2.バテクノン族(バハン州)。死者は死んだ小屋に埋葬せられた。墓は深くなく、外に微かに死臭が匂うほど。小屋には椰子の葉が加えられ、蜂窩状にされて中が覗けないようにして、生者は遷居する。墓を恐れて行きたがらない。移ったところと墓の道には障碍物を置く(p.515)。

 3.バゴボ族(ミンダナオ島)。病気が重症の場合は、巫者が供物の上に木像を置き、これを病人の身体の上を越させ、形代にする。死体は美服をまとわせ、家の中央に安置。哭人は死体のそばに座り、友人たちは死者の徳を讃える。振る舞われた飲食にあずかる。一夜、棺ができるまで死体をとどめる。納棺し、両半を合わせて縛り、割り目を石灰で塞ぐ。家の下に埋葬する。タブーを解いてから家を捨てる。家は朽敗にまかせる。「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という(p.599)。

 4.タミ族(メラネシア人。ニューギニア東部フォン湾の小島群)。家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。死体から群がる蛆を、ココナツの殻に集め、蛆が出なくなると、短い霊魂が、あの世に行ったと考える。死霊は自分を殺した魔術師を恨む。服喪期間は2~3年に及ぶ。喪明けに死者のために夜通し踊り、8から10日間、続く。最後に墓上の小屋を倒して燃やす。「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられるのである」(p.325)。

 いずれも死者は家に埋葬された後、相当な期間、家に残った後、捨てている。タミ族では家は焼かれている。次に、死者を家の外に埋葬するが、家を捨てる場合がある。

 5.ババル島では死者の家を捨てる。捨てる際かまどの灰を外に投げすてる。死体は漁網につつんで埋葬することもあり、岩窟に台上葬することもあり、舟棺を用いて埋葬することもある。東部を東にする。後に頭蓋を掘り、洗骨して饗宴を催す。これがすむと寡婦が洞穴に頭蓋を納める。そこから木の枝を持って来て村の人々がこの枝から木の葉をちぎる。これは死霊の助力を確かめる象徴的手段であるという。服喪期間中死者の夫は剃髪するし、妻は次の新月まで身体を洗わず、頭を布で包む(p.640)。

 死者は別の場所に埋葬するが、それでも家を捨てるのだ。そして次には、死者を家の外に葬り、生者は家を出るが、一定期間の後、家に戻ってくる例である。

 6.アンダマン島人。墓地には特定のところはない。居所から少し離れている便宜のところならどこでもいい。埋葬または樹上葬。埋葬は死の当日行うが、翌日に延びる場合は、通夜をし時々泣く。暗い間は男たちが代わる代わる歌を歌う。死を惹起した精霊を遠ざけるためだという。服喪期間の終わるまで数か月、居所を移し、忌明になると元の居所に帰ることもある。忌明までは誰も墓の付近に近寄らない。服喪の終末において死者の骨を掘り出し、泣く。舞踏を行う。海または渠の水で洗って家に持ち帰る。頭骨と顎骨を特に重んじ、赤と白に塗り、別々に首にかけるように飾網を採りつける。(p.509)。

 7.ザブブン族のイジョク人は家の中に死者が出ると、直ちに遷居する。死者の帰来を恐れるからである。しかし、2ヶ月経つと元の所に帰ってくる。死体は伸展位にして仰臥させ、頭を夕日の方向に向けて埋葬する。埋葬のときに、「先にいらっしゃい。私は後から」という。彼らは死後7日間は死霊の恐怖の中に住む。死霊は西方に行くが、その幸不幸は知らない。だが一方では、死霊は旧屋のあたりをさまようと考え、新しい墓には食物を墓の中または上におく(p.514)。(棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』より要約)

 ザブブン族では二ヶ月経つと戻るが、アンダマン島人では、戻ることもあるというように過渡期の様相を持っている。

 南太平洋の例を辿りながら、死者に対する哭き、死臭、洗骨、洞窟への納めなど、琉球弧と二重写しに見える習俗に驚かされるが、ここで死者を放置するように家を捨てるところから、死者を家に埋葬して家を捨てる、死者を家の外に埋葬して家を捨てる、死者を家の外に埋葬して、家を出るが一定期間を置いて戻るという段階のあったことを推定することができる。

 また、バゴボ族の「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という言葉や、タミ族の「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられる」という観念を見ると、家は人格化された死者の外延と見なされていることが分かる。死による共同幻想の侵蝕は、家屋の侵蝕という形で可視化されて捉えられていたのだ。そこで、生者はその侵蝕を逃れるために家を捨てなければならない。これが、死者を外に埋葬するようになっても家を捨てた理由だ。

 それが、家を捨てるのではなく、死者を外に出す様式にまで変わっていく過程は、死による共同幻想の侵蝕に対して、残された家族の対幻想が独自の位相を持ち、家屋を死者の家から生者の家へと変貌させ、共同幻想の侵蝕を防ぐまで強化させてきたという意味を持つと思える。この背景には、狩猟採集から農耕による土地への定着という生産様式の変化を対応させることができる。

 ぼくたちは琉球弧の葬法について、風葬という呼び方で洞窟墓が多いことを知っている。火葬や埋葬の前は、洞窟の近くに風葬し、それを洞窟に納めていたというのが漠然としたイメージだ。そこに家族は通ったのだ。

 死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気さを、あたりに漂わせていた。棺の置かれた地点の近くで咳払いをして、死者の名前を呼んだり、話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し、大きな臭気は消え失せ、ほのかな臭いを感じさせるだけになったという。棺の前で死者の生前の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂はこれに感応し、生きていたままの姿が現れて話し合いができるし、暫くたつと消えて行った、と伝えられている(山田実『与論島の生活と伝承』

 与論島で歌われる「道イキントー節」で、「後生ぬ門や一門 阿弥陀門や七門、うり開きてい見りば 親ぬいめいウシヨイ(あの世の入り口は一つしかないが、阿弥陀仏の門は七つある/それを開けてみれば、親がいらっしゃる)」とは、死者が腐敗していくさまを覗いたものだと言われている。

 しかし、琉球弧において殯が行われていたのなら、以前は通うのではなく、死者に付き添った段階があったはずである。酒井は、この点にも視野を当て、茅や竹の葉などで作りあげた喪屋を洞窟の前庭において殯をしたのではないかとしている。原形の喪屋は単純なつくりで構わないしそれしかできなかっただろう。そしてそうであればこそ、野ざらしの風景も生まれるというのだ。また、喜界島で洞窟墓のことをモーヤ(喪屋)と呼ぶのは、その原形は殯をした喪屋を指していたと言う。

 そしてさらに、この段階も、すでに死者を家から出した後であるなら、家自体が喪屋であった段階を想定することができる。この段階も酒井によって追求されている。それは琉球弧において死の当日に葬式を出せない時に、蚊帳を吊るす習俗が広く見られることだ。座喜見島では、身内の者はそのなかに入るが、ぼくたちはこれを添い寝の形態と見るが、酒井は同時に家が喪屋であった頃の殯の名残りを見るのである。

 しかし、蚊帳は新しいものであってみれば、それ以前があることになる。その例も挙げられている。

 1.他人に見せないために、死者の周りに筵をはる(徳之島母間)。
 2.二番座に網をめぐらし、その網に芭蕉布の反物を吊るし、その中に死者を西枕にして寝かせた。昭和になって茅になった。これは猫を死者に近づけないためで、猫は死者をまたぐと、死者はいつまでも腐らないという(沖縄島今帰仁)。
 3.その日に野辺送りができないときは、死者に網をかぶせておく(宮古島狩俣)。
 4.二番座の空いている方に、麻の幕をはる。幕内には身内の者だけが入る(竹富島)。
 5.葬式当日に限って葬家に網をはった(石垣島川平)。

 このなかでも酒井が注目するのは網だ。蚊帳が家を喪屋とした名残りであり、蚊帳以前には網をはった。なぜ、網なのか。酒井は、漁を生業としている島人の日常道具である網の目の呪力を指摘している。たとえば、網ウチャー(網打つ人)が近づくと、ムン(悪霊)は背を向ける(沖縄島具志川)、また、漁をしているときにムン(悪霊)に会った際に、網を被って何を逃れた(八重山)という伝承がある。漁以外の場面でも、病人が全快しない時、家を移る呪術的行為を行うが、人目を避けて深夜、病人に網を被せて家を出るが、これはムン(悪霊)が病人に憑かないためである(八重山)。さらに、産育のなかでも産明けの日に家の入口に網(漁網)をはった(伊計島、宮古島)、産婦や生児は身体が弱ってムン(悪霊)がつきやすいので、網を被せておく(与論島)という習俗もある。

 酒井は網の目が悪霊から守る呪力を持ったと指摘している。ぼくたちはここで、ババル島において、「死体は漁網につつんで埋葬することもある」ということに共通の視線を感じることもできる。

 酒井によれば、蚊帳が喪屋の名残りだということは日本の民俗学の定説になっているが、琉球弧を見れば、網をはる行為に表れるように、もともとは家が喪屋であったことを示すものではないかということだ。ぼくたちは、家が喪屋であったことと同時に、殯のイメージが次第に可視化されていくのを感じる。そしてこれまでの考えでいえば、網の目はSF映画でシールドをはるように、共同幻想の侵蝕を防ぐ手段であったと見なすことができる。

 まず、原像として死者を家に放置して家を捨てる様式がある。次に、南太平洋の報告では埋葬に焦点が当てられていたが、「野ざらし」に照らす限り、琉球弧では埋葬はなかったのかもしれない。そしてこの段階では琉球弧の場合、家を喪屋とし殯をした期間がクローズアップされる。ついで死者は外に出されるが、その際、洞窟などの葬る場所の近くで拭けば飛ぶような草屋根の小屋を作り喪屋の生活を送る。その殯もやがて通う形式に代わるが、ここで風葬が土葬へと埋葬の様式に変わった時、矛盾が露わになると思える。殯をする場がなくなるからである。バコバ族では「人はすでに往き、家も往ったに違いない」と言い、タミ族では「死霊は、記憶の存する限り、家の霊」と考えられていたことからすれば、家とは単なる建築物ではなく、死者の人格が外延された像に他ならなかった。家を捨てるのが原像であったなら、喪屋の場が無くなるということは、死者の出た家は、生者の家と死者の家という二重の意味を持つことになる。

 酒井の追求をここでの問題意識に置き換えると、この矛盾は二つの所作によって切り抜けようとされている。ひとつは、家を時間で区切ることである。石垣島宮良では、葬式の当日だけダビヤー(荼毘家)と呼び、以後四十九日までをイミヤー(忌み家)と呼ぶ。川平も同様だが、葬式の当日だけは家の周囲に網をはりめぐらせたように、葬式当日と翌日以降は呼称を変えるのだ。この言い換えの意味は、おそらく、ダビヤーとは死者の家であり、イミヤーとは生者の家のことだ。西表島古見では、死者を出した家をダビヤー、ウリヤー(送り屋)、ムーヤ(喪屋)とさまざまに呼ぶ。これは呼称を変える所作が忘れられた後に一体となったことが伺えるが、ぼくたちはここに、死者の家としてのダビヤー、ムーヤと生者の家としてのウリヤーが同一視されているのを見るのである。

 もうひとつは家のなかで死者の位置を変えることである。石垣島では、重病人がなかなか全快しない時、病人に網を被せて他家に移す呪術を行うが、これをシキニウツリというが、酒井はこれは「褥移り」、つまり死者の褥を移すことを指すと突きとめている。波照間島では死に装束を着せることをスキニと呼ぶが、本来は死者の場所を移したことを指しただろう。喜界島阿伝では、通夜が終わって明け方になると、死者を病室から表座敷に移すことを「座敷直し」と呼び、加計呂麻島では生前の枕を藁束の白紙で撒いた枕に取りかえるが、これを「枕替え」と呼ぶ。さまざまな呼称で呼ばれるが、この死者の位置の移動について、酒井は喪屋の生活の短縮形を見ている。ぼくたちはここに、家を死者の場から生者の場に変換する所作を見ることができる。

 けれども、この時間と空間の切断線を設けたとしても死者の家が無くなることに変わりはない。それは本当に消滅したのだろうか。酒井の考察はこの問いに答える地点まで及んでいる。

死者のための家型の厨子瓶や墓所は、死後の世界が生前同様の生活を営んでいることを意味するばかりでなく、本当は住居そのものが死者の家であったものが、死者が屋外に移されることによって、家もまた模型として死者とともに移動したものと解釈できないだろうか。
 いうなれば生きている人間の知恵と狡猾さによって、死者のもっている絶対的な権威を損なわないように、その領域をせばめながら、死者の置かれた場所と生者のそれを入れ替えていった過程が、喪屋の歴史ではなかったかと思う(p.170『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 酒井の幻視は透徹していると感じるが、ぽくたちは見慣れた「家型の厨子瓶や墓所」の持つ歴史の深度に身震いを覚えないだろうか。

 ところで、ぼくたちは死者を家の外に出して以降に、家に埋葬したという民話にも出会う。これは柳田國男が追究した「炭焼小五郎が事」の説話の系譜に属するものだが、ひろく琉球弧でも見られる。核心の部分だけ抽出してみる。

 笊(ざる)などを売りあるきながら細々と生活している男が、それとは知らず、以前追い出して別れた妻の家にやってきた。女は追い出される原因になった、ムダ(食べられないようなもの)を作って出すと、元夫はうまいという。女は元は妻だったことを明かすと、男はびっくりして、箸を口に入れてその場で死んでしまう。それを見て、元妻である女は急いで竈の下に穴を掘って埋めようとする。そこに夫が帰って理由を聞く。女房は竈のおかげで金持ちになったから、なお栄えるために竈を作っていると言って手伝わせて、神として祀り、ますます繁昌した。それを知った人々は方々で竈を神として祀るようになった(与那国島、窪徳忠『沖縄の習俗と信仰』より)。

 この民話は、家を捨てることから始まった葬法の流れのなかで、家の外に出すことにした死者を、再び家の中に取り込もうとしているように見える。しかし、両者はその位相を全く異にしている。死者は家族ではないし、家も捨てはしない。むしろ家の繁栄と結びつけられている。この民話は、対幻想とその場である家が共同幻想に対して、独自の位相を持ちその侵蝕を防ぐことができる段階のものだ。そして訪れる者は盲目という共同幻想の弱者である場合もあるが、この民話のように前夫の場合がことの性質をもっとも先鋭的に物語ると思える。その家の妻にとって最も矛盾した存在は、前夫である。その前夫が女の対幻想の場である家を訪ねるのは矛盾した行為の象徴であり、その夫が死に家が栄えるのは、対幻想の矛盾を解消することが対幻想をますます強固にするという構造を持っていることを示している。これは、農耕社会が定着し、かつ雇い人などを持ち、富の増殖が行われるようになった段階に対応しているはずである。この民話の流布のもとになったのは富者か強者の家だと考えられる。

 ここで民話の虚構を解くと、現実の根人や宗教司祭者の家の姿が現れる。仲松弥秀は、昔は死人を自分の家の背後に葬ったという、久高島の古老から聞いた話を父祖から聞いたと紹介した上で、沖縄島豊見城では自分の屋敷に拝み墓がある家が四軒、隣り村の高嶺では二軒であるが、いずれも旧家であるとしている。知念には宗家と祝女筋の家も家に接した森の中に墓があり、玉城の旧家の屋敷内の岩下にも拝み墓があると言う(「村落の社会構造と祭祀世界」)。

 先の民話では、前夫が葬られるのは、竈、つまり家屋内における他界の入口である火の神の場所だ。そこに死者を葬ることで、対幻想の矛盾の死を共同幻想化させようとする仕草が伺える。この民話のバリエーションのなかには、死ぬ場所と葬る場所が家屋内ではなく高倉である場合もあるが、そこではもっと民話の本質ははっきりしてくる。つまり、対幻想に矛盾した存在の死によって、家の対幻想を、富の象徴である高倉という共同幻想に同致させているのである。

 実際の習俗のなかでの屋敷内の拝み墓は、前夫の来訪と死という事態をさしはさんでいない。いわば民話の方が屋敷内に埋める背景にある現世の利害をよく物語っている。しかし両者は、家の対幻想を共同幻想と同致させるものとしては同型にあるものだ。ぼくたちは前に、祝女が御嶽に祀られている髑髏を裸体になり拭うという行為のなかに、共同幻想を自分の対幻想の対象とすることによって、共同幻想を対幻想に同致させる儀礼を見たが、ここでは、ベクトルは逆になっており、対幻想を共同幻想に同致させる信仰が見られるのである。

 現在では、吉本が言うように「死ねば死にきり」であり、どんな他界観念も持つことができない。あるいは心の底から信じることはできない。しかし、無他界ということが虚無的な響きを持たないためにはどうすればいいだろうか。それを克服するひとつの方向は、かつてあった無他界の世界を知ることであると思える。ぼくたちは、「未開のクブ族では、人間は死んでしまえばそれまでで、死後の世界の観念については何も持ち合わせていない」という報告には不服を覚える。無他界を単に他界の欠如としてしか捉えていないからだ。しかし、未開の無他界の段階には、生と死を連続として捉える豊かな野生の思考が宿っていたはずである。その豊かさを知ることが、ぼくたちが無他界の生を豊かに生きることにつながると思える。未開の無他界の信仰をそのまま受け継ぐというわけではなし、それはできない相談であることは言うまでもない。けれども、それを汲み上げることが、未来の無他界を生きる視線を持つための必須であることも確かだと思える。そしてそれを、琉球弧が辿ってきた通路から汲みあげるのが本来的であることも同じように確かなことなのだ。

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2014/08/13

対幻想を共同幻想に同致させる

 ところで、ぼくたちは死者を家の外に出して以降に、家に埋葬したという民話にも出会う。これは柳田國男が追究した「炭焼小五郎が事」の説話の系譜に属するものだが、ひろく琉球弧でも見られる。

 零落した男が長者の家に物乞いに来ると、そこの主婦に収まっている別れた元妻をみて驚き、死んでしまう。それを見て、元妻である女は急いで竈の下に穴を掘って埋めようとする。そこに夫が帰って理由を聞く。女房は竈のおかげで金持ちになったから、なお栄えるために竈を作っていると言って手伝わせて、神として祀り、ますます繁昌した。それを知った人々は方々で竈を神として祀るようになった(与那国島)。

 この民話は、死に際して家を捨てる習俗のうち、家に死者を埋葬した段階と似ているが、その位相を全く異にしている。死者は家族ではないし、家も捨てはしない。むしろ家の繁栄と結びつけられている。この民話は、対幻想とその場である家が共同幻想に対して、独自の位相を持ちその侵蝕を防ぐことができる段階のものだ。そして訪れる者は盲目という共同幻想の弱者である場合もあるが、この民話のように前夫の場合が、ことの性質をもっとも先鋭的に物語ると思える。その家の妻にとって最も矛盾した存在は、前夫である。その前夫が女の対幻想の場である家を訪ねるのは矛盾した行為の象徴であり、その夫が死に家が栄えるのは、対幻想の矛盾を解消することが対幻想をますます強固にするという構造を持っていることを示している。これは、農耕社会が定着し、かつ雇い人などを持ち、富の増殖が行われるようになった段階に対応しているはずである。この民話の流布のもとになったのは富者か強者の家だと考えられる。

 仲松弥秀は、昔は死人を自分の家の背後に葬ったという話を父祖から聞いたと紹介した上で、沖縄島豊見城では自分の屋敷に拝み墓がある家が四軒、隣り村の高嶺では二軒であるが、いずれも旧家であるとしている。知念には宗家と祝女筋の家も家に接した森の中に墓があり、玉城の旧家の屋敷内の岩下にも拝み墓があると言う。

 先の民話では、前夫が葬られるのは、竈、つまり家屋内における他界の入口である火の神の場所に置くことで、共同幻想化させている。また、死ぬ場所と葬る場所が家屋内ではなく、その家の高倉である場合もあるが、そこではもっと民話の本質ははっきりしてくる。つまり、対幻想に矛盾した存在の死によって、対幻想を富の象徴である高倉という共同幻想に同致させているのである。

 実際の習俗のなかでの屋敷内の拝み墓は、前夫の来訪と死という事態をさしはさまずに、対幻想である家族の死を共同幻想と同致させる行為だと見ることができる。ぼくたちは前に、祝女が御嶽に祀られている髑髏を裸体になり拭うという行為のなかに、共同幻想を自分の対幻想の対象とすることによって、共同幻想を対幻想に同致させる儀礼を見たが、ここでは、ベクトルは逆になっており、対幻想を共同幻想に同致させる信仰が見られるのである。

 現在では、吉本が言うように「死ねば死にきり」であり、どんな他界観念も持つことができない。あるいは心の底から信じることはできない。しかし、無他界ということが虚無的な響きを持たないためにはどうすればいいだろうか。それを克服するひとつの方向は、かつてあった無他界の世界を知ることであると思える。ぼくたちは、「未開のクブ族では、人間は死んでしまえばそれまでで、死後の世界の観念については何も持ち合わせていない」という報告には不服を覚える。無他界を単に他界の欠如としてしか捉えていないからだ。しかし、未開の無他界の段階には、生と死を連続として捉える豊かな野生の思考が宿っていたはずである。その豊かさを知ることが、ぼくたちが無他界の生を豊かに生きることにつながると思える。未開の無他界の信仰をそのまま受け継ぐというわけではなし、それはできない相談であることは言うまでもない。けれども、それを汲み上げることが、未来の無他界を生きる視線を持つための必須であることも確かだと思える。そしてそれをぼくたちは、琉球弧が辿ってきた通路から汲みあげるのが本来的であることも同じように確かなことなのだ。


 

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2014/08/12

喪屋の移行

 ぼくたちは琉球弧の葬法について、風葬という呼び方で洞窟墓が多いことを知っている。火葬や埋葬の前は、洞窟の近くに風葬し、それを洞窟に納めていたというのが漠然としたイメージだ。そこに家族は通ったのだ。

 死後日がたつにつれ、身の毛もよだつほどの悪臭と妖気さを、あたりに漂わせていた。棺の置かれた地点の近くで咳払いをして、死者の名前を呼んだり、話しかけたりすれば、死者の霊魂はこれに感応し、大きな臭気は消え失せ、ほのかな臭いを感じさせるだけになったという。棺の前で死者の生前の模様を泣きながら語りかけると、死者の霊魂はこれに感応し、生きていたままの姿が現れて話し合いができるし、暫くたつと消えて行った、と伝えられている(山田実『与論島の生活と伝承』)。

 与論島で歌われる「道イキントー節」で、「後生ぬ門や一門 阿弥陀門や七門、うり開きてい見りば 親ぬいめいウシヨイ(あの世の入り口は一つしかないが、阿弥陀仏の門は七つある/それを開けてみれば、親がいらっしゃる)」とは、死者が腐敗していくさまを覗いたものだと言われている。

 しかし、琉球弧において殯が行われていたのなら、以前は通うのではなく、死者に付き添った段階があったはずである。酒井は、この点にも視野を当て、茅や竹の葉などで作りあげた喪屋を洞窟の前庭において殯をしたのではないかとしている。原形の喪屋は単純なつくりで構わないしそれしかできなかっただろう。そしてそうであればこそ、野ざらしの風景も生まれるというのだ。また、喜界島で洞窟墓のことをモーヤ(喪屋)と呼ぶのは、その原形は殯をした喪屋を指していたと言う。

 そしてさらに、この段階も、すでに死者を家から出した後であるなら、家自体が喪屋であった段階を想定することができる。この段階も酒井によって追求されている。それは琉球弧において死の当日に葬式を出せない時に、蚊帳を吊るす習俗が広く見られることだ。座喜見島では、身内の者はそのなかに入るが、ぼくたちはこれを添い寝の形態と見るが、酒井は同時に家が喪屋であった頃の殯の名残りを見るのである。

 しかし、蚊帳は新しいものであってみれば、それ以前があることになる。その例も挙げられている。

 1.他人に見せないために、死者の周りに筵をはる(徳之島母間)。
 2.二番座に網をめぐらし、その網に芭蕉布の反物を吊るし、その中に死者を西枕にして寝かせた。昭和になって茅になった。これは猫を死者に近づけないためで、猫は死者をまたぐと、死者はいつまでも腐らないという(沖縄島今帰仁)。
 3.その日に野辺送りができないときは、死者に網をかぶせておく(宮古島狩俣)。
 4.二番座の空いている方に、麻の幕をはる。幕内には身内の者だけが入る(竹富島)。
 5.葬式当日に限って葬家に網をはった(石垣島川平)。

 このなかでも酒井が注目するのは網だ。蚊帳が家を喪屋とした名残りであり、蚊帳以前には網をはった。なぜ、網なのか。酒井は、漁を生業としている島人の日常道具である網の目の呪力を指摘している。たとえば、網ウチャー(網打つ人)が近づくと、ムン(悪霊)は背を向ける(沖縄島具志川)、また、漁をしているときにムン(悪霊)に会った際に、網を被って何を逃れた(八重山)という伝承がある。漁以外の場面でも、病人が全快しない時、家を移る呪術的行為を行うが、人目を避けて深夜、病人に網を被せて家を出るが、これはムン(悪霊)が病人に憑かないためである(八重山)。さらに、産育のなかでも産明けの日に家の入口に網(漁網)をはった(伊計島、宮古島)、産婦や生児は身体が弱ってムン(悪霊)がつきやすいので、網を被せておく(与論島)という習俗もある。

 酒井は網の目が悪霊から守る呪力を持ったと指摘している。ぼくたちはここで、ババル島において、「死体は漁網につつんで埋葬することもある」ということに共通の視線を感じることもできる。

 酒井によれば、蚊帳が喪屋の名残りだということは日本の民俗学の定説になっているが、琉球弧を見れば、網をはる行為に表れるように、もともとは家が喪屋であったことを示すものではないかということだ。ぼくたちは、家が喪屋であったことと同時に、殯のイメージが次第に可視化されていくのを感じる。そしてこれまでの考えでいえば、網の目はSF映画でシールドをはるように、共同幻想の侵蝕を防ぐ手段であったと見なすことができる。

 まず、原像として死者を家に放置して家を捨てる様式がある。次に、南太平洋の報告では埋葬に焦点が当てられていたが、「野ざらし」に照らす限り、琉球弧では埋葬はなかったのかもしれない。そしてこの段階では琉球弧の場合、家を喪屋とし殯をした期間がクローズアップされる。ついで死者は外に出されるが、その際、洞窟などの葬る場所の近くで拭けば飛ぶような草屋根の小屋を作り喪屋の生活を送る。その殯もやがて通う形式に代わるが、ここで風葬が土葬へと埋葬の様式に変わった時、矛盾が露わになると思える。殯をする場がなくなるからである。バコバ族では「人はすでに往き、家も往ったに違いない」と言い、タミ族では「死霊は、記憶の存する限り、家の霊」と考えられていたことからすれば、家とは単なる建築物ではなく、死者の人格が外延された像に他ならなかった。家を捨てるのが原像であったなら、喪屋の場が無くなるということは、死者の出た家は、生者の家と死者の家という二重の意味を持つことになる。

 酒井の追求をここでの問題意識に置き換えると、この矛盾は二つの所作によって切り抜けようとされている。ひとつは、家を時間で区切ることである。石垣島宮良では、葬式の当日だけダビヤー(荼毘家)と呼び、以後四十九日までをイミヤー(忌み家)と呼ぶ。川平も同様だが、葬式の当日だけは家の周囲に網をはりめぐらせたように、葬式当日と翌日以降は呼称を変えるのだ。この言い換えの意味は、おそらく、ダビヤーとは死者の家であり、イミヤーとは生者の家のことだ。西表島古見では、死者を出した家をダビヤー、ウリヤー(送り屋)、ムーヤ(喪屋)とさまざまに呼ぶ。これは呼称を変える所作が忘れられた後に一体となったことが伺えるが、ぼくたちはここに、死者の家としてのダビヤー、ムーヤと生者の家としてのウリヤーが同一視されているのを見るのである。

 もうひとつは家のなかで死者の位置を変えることである。石垣島では、重病人がなかなか全快しない時、病人に網を被せて他家に移す呪術を行うが、これをシキニウツリというが、酒井はこれは「褥移り」、つまり死者の褥を移すことを指すと突きとめている。波照間島では死に装束を着せることをスキニと呼ぶが、本来は死者の場所を移したことを指しただろう。喜界島阿伝では、通夜が終わって明け方になると、死者を病室から表座敷に移すことを「座敷直し」と呼び、加計呂麻島では生前の枕を藁束の白紙で撒いた枕に取りかえるが、これを「枕替え」と呼ぶ。さまざまな呼称で呼ばれるが、この死者の位置の移動について、酒井は喪屋の生活の短縮形を見ている。ぼくたちはここに、家を死者の場から生者の場に変換する所作を見ることができる。

 けれども、この時間と空間の切断線を設けたとしても死者の家が無くなることに変わりはない。それは本当に消滅したのだろうか。酒井の考察はこの問いに答える地点まで及んでいる。

死者のための家型の厨子瓶や墓所は、死後の世界が生前同様の生活を営んでいることを意味するばかりでなく、本当は住居そのものが死者の家であったものが、死者が屋外に移されることによって、家もまた模型として死者とともに移動したものと解釈できないだろうか。
 いうなれば生きている人間の知恵と狡猾さによって、死者のもっている絶対的な権威を損なわないように、その領域をせばめながら、死者の置かれた場所と生者のそれを入れ替えていった過程が、喪屋の歴史ではなかったかと思う(p.170『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。
   酒井の幻視は透徹していると感じるが、ぽくたちは見慣れた「家型の厨子瓶や墓所」の持つ歴史の深度に身震いを覚えないだろうか。

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2014/08/11

なぜ、家を捨てたのか。

 琉球弧において、死者を家に残し家を捨てるというのはどういう状態を指しただろう。何を考えてそうしたのだろう。そこに接近するには、生者が家を出る様式から死者が家を出る様式になるまでの過程を知る必要がある。

 酒井卯作は、生者が家を出た痕跡として、「外竈(かまど)」の習俗を挙げている。死者の出た家で別火(べっか)、炊事の火を別にして過ごすということだ。

 1.家族は葬儀を終えて帰宅しても屋内には入らず、庭に竹と莚で作ったタマヤドという小屋に宿って一夜を送り、食事の調理は他家に依頼した(沖永良部島知名)。

 2.子供が死ぬと、母親を恋しがって帰ってくるというので家族は三日ばかり他家に泊まる(西表島古見)。

 3.死後三日目をミーダチといい、浜の清浄な砂を持ってきて門の入口に一尺四方に敷きつめ、その夜は他家に泊まる。翌朝帰宅してその砂になにかの足跡がついていたら死者が帰ってきたといって忌む(石垣島川平)。

 4.四十九日以内の吉日にファーに遊びといって、葬家の遺族や親戚一同が米や野菜などをもって浜で煮炊きなどをして一日を過ごした(沖縄島知念)。

 これらの例は、葬儀の日、三日間、三日目、四十九日以内の吉日と日取りはばらばらであり、西表島古見のように対象も子供に限定されている場合もあるが、「外竈」をしなければならないのは、死者の家族が第一にあり、それが遺族、親族に及ぶことがあるのが分かる。

 家族の単位だけでなく、それ以外にも及ぶ場合も酒井は挙げている。

 5.息を引き取るとき、その場に居合わせた者は、仮小屋を外に作って一夜泊まる(沖縄島国頭)。

 6.死者の葬儀に参加した者は五月になって一日だけ家をあけて、野外に天幕などをはって一晩を過ごした(沖縄島今帰仁)。

 7.新築して三年以内、重病人のいる家などの人が葬式に行くと、その家族はミーカガソーズといって、三日間は親戚か知人の家で忌が晴れるまで泊まる(宮古島池間)。

 死に居合わせた者は家族であることがほとんどだろうが、葬儀に参加した人にまで及ぶ場合がある。また、宮古島池間の場合は、葬儀に参列した人だけではなく、その家族にまで及んでいる。

 ここから言えるのは、「外竈」が、死者の家族を最小単位とし、親族、遺族や死、葬儀に立ち会った当人またはその家族を漠然としてはいるが最大の範囲とみなしていることだ。

 これは死者の霊魂である死霊を恐れてのことと解しやすいが、ぼくたちは過去と現在の違いを浮き彫りにする言葉がほしい。ここで思いだされるのは、吉本隆明による死の規定である。

 人間はじぶんの<死>についても他者の<死>についてもとうてい、じぶんのことみたいに切実に、心に構成できないのだ。そしてこの不可能さの根源をたずねれば<死>では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から<浸蝕>されるからだという点にもとめられる。ここまできて、わたしたちは人間の<死>とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に<浸蝕>された状態を<死>と呼ぶというふうに。<死>の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。たとえば、未開社会では人間の生理的な<死>は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような<侵蝕>を実するために、個体の<死>は共同幻想の<彼岸>へ投げ出される疎外を忌みするにすぎない。近代社会では<死>は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、<共同幻想>の<侵蝕>は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりというがお世話になっております。年が流通するようになる(『共同幻想論』)。

 琉球弧は未開社会ではないが、未開的な野生の思考を強く保存している。そこでは、死は、ここで言えば死霊という共同幻想に死者の自己幻想や対幻想が侵蝕され、とって代わられてしまう。けれど、それは死者のみではなく、死者の対幻想の対象だった家族の対幻想にも侵蝕が及ぶ恐怖を喚起せずにはおかない。「外竈」というのは、この共同幻想からの侵蝕を死者の対幻想を営む場だっ田残された家族に及ぼすのを防ぐ仕草のように見えてくる。

 ところで酒井が例示した「外竈」の習俗は、既に死者の家を捨てるのではなく、死者を家から出すようになって以降のものである。生者が死者を家から出すようになっても、外泊をするのは、もともとは家を捨てた習俗の名残りではないかと見ているのだ。これは的を射た推定ではないかと思える。

 ぼくたちは死者を放置するように家を捨てた例を南太平洋に見てきたが、家に留まるまでの中間の形態も南太平洋に見いだすことができる。それは段階化できるものだ。

 まず、死者を放置するのではなく、死者を家に埋葬して家を捨てる場合がある。

 1.カイ族(フィンシュハーフェン奥地森林地帯)。死の原因は魔術および死霊の働き。臨終の時は、死者の手を取って打ち、冷たくなった足をのばし、死者に物を言って頭をあげ、優しく寝かす。ある者は飛びあがり、槍で見えざる魔術師を刺し、ある者は家をゆさぶり、ある者は小刀を振りまわして耳を傷つけ血を流す。

 死体は死後2~3日目に埋葬。墓は家の下に掘る。墓穴はきわめて浅い。生前、埋葬を嫌がった場合は、包んで家の隅に置き、死汁は管で地上に流れるようにする。死汁が出なくなると骨を取り出し、下顎骨のほかは埋葬する。誰かの死んだ家は捨てる。死霊が出没して、夜は不安だからである。死者が首長や主要人物である場合には、全村を捨て、新しい場所に村を造る(p.328)。

 2.バテクノン族(バハン州)。死者は死んだ小屋に埋葬せられた。墓は深くなく、外に微かに死臭が匂うほど。小屋には椰子の葉が加えられ、蜂窩状にされて中が覗けないようにして、生者は遷居する。墓を恐れて行きたがらない。移ったところと墓の道には障碍物を置く(p.515)。

 3.バゴボ族(ミンダナオ島)。病気が重症の場合は、巫者が供物の上に木像を置き、これを病人の身体の上を越させ、形代にする。死体は美服をまとわせ、家の中央に安置。哭人は死体のそばに座り、友人たちは死者の徳を讃える。振る舞われた飲食にあずかる。一夜、棺ができるまで死体をとどめる。納棺し、両半を合わせて縛り、割り目を石灰で塞ぐ。家の下に埋葬する。タブーを解いてから家を捨てる。家は朽敗にまかせる。「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という(p.599)。

 4.タミ族(メラネシア人。ニューギニア東部フォン湾の小島群)。家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。死体から群がる蛆を、ココナツの殻に集め、蛆が出なくなると、短い霊魂が、あの世に行ったと考える。死霊は自分を殺した魔術師を恨む。服喪期間は2~3年に及ぶ。喪明けに死者のために夜通し踊り、8から10日間、続く。最後に墓上の小屋を倒して燃やす。「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられるのである」(p.325)。

 いずれも死者は家に埋葬された後、相当な期間、家に残った後、捨てている。タミ族では家は焼かれている。次に、死者を家の外に埋葬するが、家を捨てる場合がある。

 5.ババル島では死者の家を捨てる。捨てる際かまどの灰を外に投げすてる。死体は漁網につつんで埋葬することもあり、岩窟に台上葬することもあり、舟棺を用いて埋葬することもある。東部を東にする。後に頭蓋を掘り、洗骨して饗宴を催す。これがすむと寡婦が洞穴に頭蓋を納める。そこから木の枝を持って来て村の人々がこの枝から木の葉をちぎる。これは死霊の助力を確かめる象徴的手段であるという。服喪期間中死者の夫は剃髪するし、妻は次の新月まで身体を洗わず、頭を布で包む(p.640)。

 死者は別の場所に埋葬するが、それでも家を捨てるのだ。そして次には、死者を家の外に葬り、生者は家を出るが、一定期間の後、家に戻ってくる例である。

 6.アンダマン島人。墓地には特定のところはない。居所から少し離れている便宜のところならどこでもいい。埋葬または樹上葬。埋葬は死の当日行うが、翌日に延びる場合は、通夜をし時々泣く。暗い間は男たちが代わる代わる歌を歌う。死を惹起した精霊を遠ざけるためだという。服喪期間の終わるまで数か月、居所を移し、忌明になると元の居所に帰ることもある。忌明までは誰も墓の付近に近寄らない。服喪の終末において死者の骨を掘り出し、泣く。舞踏を行う。海または渠の水で洗って家に持ち帰る。頭骨と顎骨を特に重んじ、赤と白に塗り、別々に首にかけるように飾網を採りつける。(p.509)。

 7.ザブブン族のイジョク人は家の中に死者が出ると、直ちに遷居する。死者の帰来を恐れるからである。しかし、2ヶ月経つと元の所に帰ってくる。死体は伸展位にして仰臥させ、頭を夕日の方向に向けて埋葬する。埋葬のときに、「先にいらっしゃい。私は後から」という。彼らは死後7日間は死霊の恐怖の中に住む。死霊は西方に行くが、その幸不幸は知らない。だが一方では、死霊は旧屋のあたりをさまようと考え、新しい墓には食物を墓の中または上におく(p.514)。(棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』より要約)

 ザブブン族では二ヶ月経つと戻るが、アンダマン島人では、戻ることもあるというように過渡期の様相を持っている。

 南太平洋の例を辿りながら、死者に対する哭き、死臭、洗骨、洞窟への納めなど、琉球弧と二重写しに見える習俗に驚かされるが、ここで死者を放置するように家を捨てるところから、死者を家に埋葬して家を捨てる、死者を家の外に埋葬して家を捨てる、死者を家の外に埋葬して、家を出るが一定期間を置いて戻るという段階のあったことを推定することができる。

 また、バゴボ族の「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という言葉や、タミ族の「死霊は、記憶の存する限り、家の霊と考えられる」という観念を見ると、家は人格化された死者の外延と見なされていることが分かる。死による共同幻想の侵蝕は、家屋の侵蝕という形で可視化されて捉えられていたのだ。そこで、生者はその侵蝕を逃れるために家を捨てなければならない。

 それが、家を捨てるのではなく、死者を外に出す様式にまで変わっていく過程は、死による共同幻想の侵蝕に対して残された家族の対幻想が独自の位相を持ち、侵蝕を防ぐまで強化されてきたという意味を持つと思える。この背景には、狩猟採集から農耕による土地への定着という生産様式の変化を対応させることができると考えられる。


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2014/08/10

無他界の段階

 琉球弧において無他界の段階を想定することはできるだろうか。他界が発生する前の段階の人類が琉球弧にいたことはあるだろうか。

 この問いに葬法から示唆を与えてるのは、酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』だ。酒井は、琉球弧の葬制を議論するなかで、野ざらしの風景から出発している。野ざらしとは何か。山野に散在する人骨のことだ。ぼくたちは洞窟に人骨が散乱しているのを知っているが、酒井によれば、それは洞窟に限らない。奄美大島の古見ではミャー(広場)の浦に昔は人骨が山のように積まれて、島人が祀っていた。瀬戸内では、海辺に散乱する人骨が村の禍になるとして、モーヤ(骨置場)を作って納めた。徳之島の徳和瀬のナーパマの近く、ハマジ川の近くの藪の中にも古い人骨が散乱していた。沖永良部島の小さな森、ウジチ山にも人骨がある。伊計島の西側には人骨が散らばっていた。

 歌う髑髏の話もある。これは同工異曲のものが多いが、たとえば沖縄島羽地の沖に奥(おう)島ではこうだ。夜になると奥島から女の声で「屋我地前の黒潮渡ららん(渡ることができない)」という上の句だけの歌が繰り返し聞えてくる。あるとき夜釣りに行った翁がこれを聞いて、「七橋架きて渡ち給ばり」と下の句を添えてやると、以来下の句も添えて歌うようになった。奥(おう)島はかつて死者を運んだと伝えられる島だ。

 酒井は「歌う髑髏」の昔話は大和由来かもしれないが、伝承の根拠は「野ざらしの風景」として、もともと琉球弧にあったものだと考えている。そして、この野ざらしの風景のひとつの系譜として、死者が出るとその家を捨てたという大胆な仮説を提示しているのだ。家を捨てる。それは本当にあったのだろうか。

 民俗を聴き取る耳を持った柳田國男は、南島を旅行した際に、沖縄島知念において、「死人を大いに忌み、死すれば家を捨つ。埋葬なし。棺を外におき、親族知己集飲す」と記している。また、19世紀に首里王府は久米島具志川に対して、死者の出た家で住居家財を放置して別居することがあるのに対して止めるよう通達している。確かな感触を伝える例は少ないが、奄美大島南部では死後の「マブイ別し」の時に、「イキチュンチャヤ・スィゲーユン」(生きている人は巣を変える)という言葉がよく使われ、沖縄島島尻では主人が死ぬと火の神はもちろん、臼・鍋などを庭に出して転がすが、これを「家(やあ)ざらえ」と言い、家を捨てたことを示唆する言葉を残している。与那城では、死後浜に出て払い清めをする際、家の灯を消しておき、家に入る際に改めて灯をつけるが、これは家を更新することを含意させている。現代では琉球弧においても痕跡を辿るしかないわけだ。

 ここでぼくたちは、琉球弧の南に目を転じると、死者の出た家に死者を残し、遷居する例を見出すことができる。

 1.クブ族(スマトラ島)。家の中に死者や瀕死の病人を残して逃げ去り、遠く隔たった場所に新しいさしかけを作って住む。以前には死者を埋葬せず、死者の死んだ小屋または死者の発見せられた場所に木の棒で二尺位の高さの垣をして、その上に木の葉で屋根を作り、それがすむと、その場を逃げ去ったという報告もある。

 2.イロンゴット族(ルソン島)。死者が出ると家族の人々はその夜中、悲しい声で泣き続け、その声は遠方からでも聞える。死の翌朝、死者の出た家を捨て、再び帰来しない。価値のある物は持ち去る。瀕死の病人の家が立派で捨てるに忍びない時は大急ぎで小さい別の小屋を作り、死去前に病人を遷す。

 3.プナン族(ボルネオの僻遠の叢林、諸大河の源流地方に分布する移動部族)。弔葬儀礼を行わない。人が雨小屋のなかで死ぬや否や20~30人からなぢ彼らの集団は死体を小屋に残して、ただ木の葉や声だで覆うておくのみで、他に移ってしまう。(棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』より要約)

 いずれの例も死から時間をおかずに家を出ている。そのさまは「逃げ去る」と言えるほどだ。南太平洋でも記録された数は多くはないが、死者を家に放置し家を捨てる習俗があるのは確からしく思える。この習俗は直観的にも古層に属するものと見なすことができるが、それ以上に関心をそそられるのは、スマトラ島のクブ族について、「未開のクブ族では、人間は死んでしまえばそれまでで、死後の世界の観念については何も持ち合わせていない」と報告されていることだ。昭和初期の宗教学者は、「クブ人の多くは森、川、雨、風等の自然の悪霊をみとめ、種々の病気特に痘瘡をこれらの悪霊の業と考えて病人に対しては呪文を唱えたり唾を吐きかけて悪霊を逐う」、あるいは「子供の誕生後の浄めの式に祖先を呼んで踊る」(宇野円空『宗教の史実と理論』1931年)と記しているから、他界観念を持たないとはいえ、最古層の観念ではないことが分かる。しかし、それでも、これらの報告を信じるなら、葬法から辿ると、家に死者を放置し、家を捨てる習俗は、他界の発生以前までの射程を持っていると考えることができる。


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2014/08/09

再生信仰の諸相

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から、再生信仰の例をいくつか挙げてみる。 

 再生例1.ウォンガ・ムラ族とその周辺(南オーストラリア)。死者の霊魂はやや離れたところにいて、兄弟に会い、その中に入り、兄弟が死ぬまでその中に住む。兄弟が死ぬ頃には忘れられてしまう(p.52)。

 再生例2.アルンタ族(中部オーストラリア)。死者の霊魂は、岩など一か所に集まり、狙った女の中に入り、子供に再生する。実在の岩がある(by スペンサー&ジレン、p.54)。

 再生例3.アルンタ族(中部オーストラリア)。北海の海の中に死者の島が信じられている。死者の島、霊魂の地と呼ばれる死者の霊魂は、薄い白い姿。夜は踊り、昼は寝る。死後、霊魂は墓の付近にいるが葬宴が行われると死者の島に行く。雨が降ると、南方に彷徨いだし、故郷を見ようとする。子息をたくさん残した場合は、その肩を抱き、身体の中に次々に入り、成長させる。孫がある時は、孫に入る。1~2年して死者の島に帰る。死者の島の西方に行き、死者の木(しなの木)をあらゆる方向から観察する。西から黒雲が現れて落雷に打たれる。そしてこの世に戻り、ともに食事をし、死者の島の東方に行ってとどまる。死者の島の自分の家に戻り、西方から大きな黒雲が出て、雷に打たれて絶滅する(by シュトレーロー、p.54)。

 再生例4.カカドゥ族(北部オーストラリア)。国は元来、人々と精霊児に満ちていて、絶えず再生を続けている。霊魂、ヤムル(yamuru)は、しばらくするとヤムルとその影のようなイワイユ(iwaiyu)に分かれる。ヤムルが再生したくなると、遺骨を離れ、叢林で食べ物を探しに来た人を見つけると、ヤムルはイワイユを蛙の形にして食べ物に付ける。人がこの食べ物を取ると、イワイユは逃げる。何も知らない人が家に帰り寝静まると、ヤムルとイワイユは男と女の寝所に入る。イワイユは男を女を嗅ぎ、女に入る。ヤムルは再び自分の宿所に帰るが、女が子供を持つと、夜、夫にその子の名とトーテムを告げる。ヤムルは子供が生まれ、生長し、老いるまで保護の役をなし、いよいよ老いると、その人間のイワイユに新しき子供とトーテムの準備について語る。そこでヤムルは任務を終え、イワイユが新しいヤムルになる。子供は祖先のなかの特定の人の代表者と見られる(P.58)。

 再生例5.ヌラクン族(北部オーストラリア)。大昔の時代を Mus Mus 、その発祥の地を kundungini と呼ぶ。死者の霊魂は、父祖の地なる kundungini に行き、生まれ代わるまでそこにとどまる。再生ごとに性を変える(p.57)。

 再生例6.タミ族(メラネシア人。ニューギニア東部フォン湾の小島群)。人は長い霊魂と短い霊魂を持つ。長い霊魂は影と同一視。睡眠中、身体を離れ、覚める時、帰ってくる。胃にある。人が死ぬと長い霊魂は、死体を離れて遠方の友人に死去を知らせる。その後、ニューブリテン島西岸を経て、北岸の村に行く。短い霊魂は死後のみ離れて、しばらく死体の付近を彷徨ってから地下界、ランボアムに行く。ランボアムは現世と酷似するが、現世より美しくより完全。ランボアムに行った霊魂は、蛇形でときに現世に帰来する。この時、シューシューという音を立てるだけだが、この音を解釈する者(主に女)がいて何を話しているか判断する。また、死霊に尋ねる能力のある者(主に女)がいて、これは世襲。ランボアムで死んだ霊魂は、蟻や蛆になる(p.289)。

 再生例7.ボントック族(ルソン島)。人間の霊魂は、ta'ko と呼ばれ、死者の霊魂はアニトと呼ばれる。ボントック族のすぐ周囲がアニトの住家。生者と同様の生活を送る。アニトはどれだけの期間か生活すると再び死ぬ。そして蛇に姿を変える。したがって、彼らは蛇を殺さない。

 再生信仰の内容は多彩で、おおらかさのあるものもあり、読んでいて楽しい。

 再生例1.死→兄弟の中に住む→兄弟が死ぬ頃、忘れられる(ウォンガ・ムラ族)。
 再生例2.死→女に入り再生(アルンタ族)
 再生例3.死→子・孫の中に入り生長させる→1~2年して絶滅(アルンタ族)
 再生例4.死→部族の誰かの子の守護をする→その子が老いると役を終える(カカドゥ族)
 再生例5.死→再生(性を変える)(ヌラクン族)
 再生例6.死→霊魂が生前と同様だが、より美しく完全な生活→蟻や蛆(タミ族)
 再生例7.死→霊魂が生前と同様の生活→蛇(ルソン島)

 ウォンガ・ムラ族とアルンタ族の場合は、兄弟や子、孫の中に生きるとされるが、これは残された者の記憶像だということになる。記憶像を持つ時、兄弟や子、孫は、死者が自分の中に生きている、生長させていると感じたのだろう。兄弟か子、孫かということには部族の親族展開のありようが関わるのだと思える。

 カカドゥ族の場合、直接の親族の系列の中に生きるというわけではなく、広がりが生まれている。

 アルンタ族のもう一つの報告では、ここではっきりと別の人物として再生することが考えられている。ヌラクン族も同様だが、性が変わるのが特異だ。タミ族やルソン島では、蟻、蛆や蛇に転生するが、その間に霊魂の生活が置かれている。

 こうして見て行くと、再生信仰は、記憶像として始まり、霊魂自体の生活、霊魂の生者への復帰というように段階を踏んできたように見える。他の動物へ転生する場合は、動植物との同一視が強い段階、あるいはトーテム信仰が残存している場合で、人間の優位性の自覚とともに人間への再生が考えられたのではないだろうか。ここにトロブリアンド諸島の、現世より楽しい霊魂生活のあとに、母系の親族の誰かとして再生という例を加えると、より表情は豊かになる。

 これらは死による断絶を緩和させ、あるいはより希望を抱かせるようにした思考の結実だ。動物として転生する場合も、それまでは霊魂としての生活を思えばいい。また動物への転生であってもトーテムであれば不幸というわけではない。

 これらの例の葬法も一瞥しておく。

 葬法例1.ウォンガ・ムラ族とその周辺(南オーストラリア)。葬儀を執行するのは、死者の同一世代、祖父母の世代、孫の世代のもので兄弟姉妹は参与しない。埋葬だが、土でふさがず、木の枝をかけておくのみ。約四ヶ月後、その枝を取り去り墓を埋める(p.98)。

 葬法例2.アルンタ族(中部オーストラリア)。埋葬。坐位にして丸穴を掘り、土をかけ木の枝を積む。死者の住居に向ける。死者は近親を監視するから。埋葬が済むと死の発生した住居は焼き払い、家具は破壊し、集団の者は全部新地点に移る。服喪期間は死者の名を呼ばない。死霊を惑わすことを恐れる。死霊は人の睡眠中に不快を示す(by スペンサー&ジレン、p.100)

 葬法例3.カカドゥ族(北部オーストラリア)。叢林に埋葬する。

 葬法例4.ヌラクン族(北部オーストラリア)。死肉は食用に供される。

 葬法例5.タミ族(メラネシア人。ニューギニア東部フォン湾の小島群)。家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。死体から群がる蛆を、ココナツの殻に集め、蛆が出なくなると、短い霊魂が、あの世に行ったと考える。死霊は自分を殺した魔術師を恨む。服喪期間は2~3年に及ぶ。喪明けに死者のために夜通し踊り、8から10日間、続く。最後に墓上の小屋を倒して燃やす。「死霊は、記憶の存する限り、家の例と考えられるのである」(p.325)。

 葬法例6.ボントック族(ルソン島)。それほど涙を見せない。死者を家の戸口に面して四日間、所持品とともに展示する。「あなたは死んだ。われわれはあなたの守をして皆ここにいる。必要なものを全てあなたにあげた。あなたの親族や友人を召す(殺す)ために来てくださるな」と言う。その後、埋葬する。

 再生信仰があるということは他界観念は当然、発生しており、葬法も埋葬になっていると考えていいようだ。タミ族の場合、死者の家は最終的には燃やされている。

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2014/08/08

死者を家に葬り、家を捨てる例

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から、今度は、死者の出た家に死者を残し、遷居する例をいくつか挙げてみる。


 遷居例1.カイ族(フィンシュハーフェン奥地森林地帯)。死の原因は魔術および死霊の働き。臨終の時は、死者の手を取って打ち、冷たくなった足をのばし、死者に物を言って頭をあげ、優しく寝かす。ある者は飛びあがり、槍で見えざる魔術師を刺し、ある者は家をゆさぶり、ある者は小刀を振りまわして耳を傷つけ血を流す。

 死体は死後2~3日目に埋葬。墓は家の下に掘る。墓穴はきわめて浅い。生前、埋葬を嫌がった場合は、包んで家の隅に置き、死汁は管で地上に流れるようにする。死汁が出なくなると骨を取り出し、下顎骨のほかは埋葬する。誰かの死んだ家は捨てる。死霊が出没して、夜は不安だからである。死者が首長や主要人物である場合には、全村を捨て、新しい場所に村を造る(p.328)。

 遷居例2.バテクノン族(バハン州)。死者は死んだ小屋に埋葬せられた。墓は深くなく、外に微かに死臭が匂うほど。小屋には椰子の葉が加えられ、蜂窩状にされて中が覗けないようにして、生者は遷居する。墓を恐れて行きたがらない。移ったところと墓の道には障碍物を置く(p.515)。

 遷居例3.クブ族(スマトラ島)。家の中に死者や瀕死の病人を残して逃げ去り、遠く隔たった場所に新しいさしかけを作って住む(by ローブ)。以前には死者を埋葬せず、死者の死んだ小屋または死者の発見せられた場所に木の棒で二尺位の高さの垣をして、その上に木の葉で屋根を作り、それがすむと、その場を逃げ去った(by ハーゲン)。(p.540)。

 遷居例4.イロンゴット族(ルソン島)。死者が出ると家族の人々はその夜中、悲しい声で泣き続け、その声は遠方からでも聞える。死の翌朝、死者の出た家を捨て、再び帰来しない。価値のある物は持ち去る。瀕死の病人の家が立派で捨てるに忍びない時は大急ぎで小さい別の小屋を作り、死去前に病人を遷す(p.596)。

 遷居例5.バゴボ族(ミンダナオ島)。病気が重症の場合は、巫者が供物の上に木像を置き、これを病人の身体の上を越させ、形代にする。死体は美服をまとわせ、家の中央に安置。哭人は死体のそばに座り、友人たちは死者の徳を讃える。振る舞われた飲食にあずかる。一夜、棺ができるまで死体をとどめる。納棺し、両半を合わせて縛り、割り目を石灰で塞ぐ。家の下に埋葬する。タブーを解いてから家を捨てる。家は朽敗にまかせる。「人はすでに往き、家も往ったに違いない」という(p.599)。

 遷居例5.プナン族(ボルネオの僻遠の叢林、諸大河の源流地方に分布する移動族)。弔葬儀礼を行わない。人が雨小屋のなかで死ぬや否や20~30人からなぢ彼らの集団は死体を小屋に残して、ただ木の葉や声だで覆うておくのみで、他に移ってしまう(p.615)。


 これを見ると、スマトラ島のクブ族、ルソン島のイロンゴット族、ボルネオ島のプナン族は、埋葬もせず、死体放置の形で家を去っている。プナン族を見ると、居住が部族単位であるようにみえる。

 ニューギニアのカイ族、マレーシアのバクテノン族、ミンダナオのバゴボ族では、死者は家のなかに埋葬される。カイ族、バクテノン族においては、埋葬も深くない。カイ族の臨死者に対する振る舞いは琉球弧のそれを彷彿とさせる。バゴボ族において、「人はすでに往き、家も往ったに違いない」と言われるのは、死者の家は死者の人格化された外延になっているのが分かる。

 他界例1.カイ族。死後まで存続する霊魂は、人間と似ている。霊質は、汁液が樹木に充満するように、全身に遍満もので、温熱のように触れる者に伝わる。死霊は、死後の霊魂だが、生前よりも優れている。彼を死に至らしめた魔術師に対する復讐がなされる。死霊は夜起きて悪さをなす。しかし、死霊は日常生活に物質的な助力も与える。死者の霊魂は、地下界に集まる。死体の骨から肉が腐り落ちた時に、あの世に行くとされる。あの世での生活はこの世と全く同じ。ただ、全てが影のようである。あの世でも死があり、死霊は再び死んで、動物になる(p.294)。

 他界例2.クブ族。未開のクブ族では、人間は死んでしまえばそれまでで、死後の世界の観念については何も持ち合わせていない(p.535)。

 他界例3.バゴボ族。霊魂の不滅に信じ、善悪に対する応報の観念を持っている。死後、霊魂が天に達するためには十個の駅を通らなければならない。それぞれに支配する神がいる。善人は最後の駅であらゆる幸福を楽しむが、悪人は途中の駅で、ありとあらゆる苦痛をなめる(p.550)。

 他界例4.プナン族。あの世とあの世への旅に関する説話がある。死の川の向こうには冠犀鳥?がいて、その鳴声で死霊をおどかして川に落し、冠犀鳥と組んでいる大魚に食わせる。川の向こう岸には Ungap という釜と槍を持った女がおり、これが袖の下さえ出せば死霊を助ける(p.557)。


 これを見ると、クブ族においては他界観念は持っていないとされる。死者の家の放棄は無他界の段階まで延びるわけだ。というより、無他界の段階に起源を持つ行為だと言える。無他界の段階では、共同幻想と自己幻想、対幻想は未分離の状態だ。そこでは、死者の自己幻想や対幻想が共同幻想に回収されてしまうと、それは部族員全員に及ぶことだから、死者の人格が外延化される家を捨てることによってしか、共同幻想の浸潤から逃れる手段が無かったことを示すように思える。

 知りうる限りでの琉球弧の習俗は、ニューギニア東部のカイ族に親近感を覚える。ただ、カイ族は動物への転生が信じられている。

 これまでのところで、遷居葬の推移を段階化することができる。

1.死者を放置して家を捨てる(クブ族、イロンゴット族、プナン族)。
2.死者を家に埋葬し、その後、家を捨てる(カイ族、バクテノン族、バゴボ族)。
3.死者を家の外に埋葬などをし、家を捨てる(ババル島)
4.死者を家の外に埋葬などをし、家を出るが帰ってくる(ザブブン族、アマンダン島人(時に)。(琉球弧の外窯)

 この後、死者を外に出し、家を出ない段階がやってくる。2以降は他界観念が発生している。対幻想が共同幻想に対して独自の位相を持った時、家を捨てなくなったと言うことだ。

 調べれば調べるほど、環南太平洋は、琉球弧の大きな母胎であったと感じられてくる。それにしても、なんてすごい段階を経てきたことだろう。



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2014/08/07

遷居葬の段階例

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から、死者の出た家を遷居する例をいくつか挙げてみる。

 葬法例1.ババル島では死者の家を捨てる。捨てる際かまどの灰を外に投げすてる。死体は漁網につつんで埋葬することもあり、岩窟に台上葬することもあり、舟棺を用いて埋葬することもある。東部を東にする。後に頭蓋を掘り、洗骨して饗宴を催す。これがすむと寡婦が洞穴に頭蓋を納める。そこから木の枝を持って来て村の人々がこの枝から木の葉をちぎる。これは死霊の助力を確かめる象徴的手段であるという。服喪期間中死者の夫は剃髪するし、妻は次の新月まで身体を洗わず、頭を布で包む(p.640)。

 葬法例2.アンダマン島人。墓地には特定のところはない。居所から少し離れている便宜のところならどこでもいい。埋葬または樹上葬。埋葬は死の当日行うが、翌日に延びる場合は、通夜をし時々泣く。暗い間は男たちが代わる代わる歌を歌う。死を惹起した精霊を遠ざけるためだという。服喪期間の終わるまで数か月、居所を移し、忌明になると元の居所に帰ることもある。忌明までは誰も墓の付近に近寄らない。服喪の終末において死者の骨を掘り出し、泣く。舞踏を行う。海または渠の水で洗って家に持ち帰る。頭骨と顎骨を特に重んじ、赤と白に塗り、別々に首にかけるように飾網を採りつける。(p.509)。

 葬法例3.ザブブン族のイジョク人は家の中に死者が出ると、直ちに遷居する。死者の帰来を恐れるからである。しかし、2ヶ月経つと元の所に帰ってくる。死体は伸展位にして仰臥させ、頭を夕日の方向に向けて埋葬する。埋葬のときに、「先にいらっしゃい。私は後から」という。彼らは死後7日間は死霊の恐怖の中に住む。死霊は西方に行くが、その幸不幸は知らない。だが一方では、死霊は旧屋のあたりをさまようと考え、新しい墓には食物を墓の中または上におく(p.514)。

 ババル島において、家を捨てる際、「かまどの灰を外に投げすてる」こと、死体を「漁網」で包む場合もあることなどは、琉球弧との類似性を感じる。竈の灰を捨てるのは、火の神を更新するため、死体を漁網で包むのは死霊から守るためであるかもしれない。洗骨も行われている。

 アンダマン島人においては、遷居の後、しばらくして帰ってくることもある。ザブブン族の場合は、帰ってくる。酒井卯作が琉球弧において想定した推移に照らせば、こと遷居に関する限り、ババル島(家を捨てる)、アンダマン島人(帰ってくることもある)、ザブブン島(帰ってくる)という順序が想定できることになる。ただし、家を捨てるといっても三例とも、死者は家の外に移されており、一時的であれ捨てる家が死者の居所になるわけではない。

 彼らはどのような他界観念を持っているのか。


 他界例1.ババル島では西方に横たわる島ウェタンを死霊の国と考えている(p.566)。

 他界例2.アンダマン島人においては、霊魂(ot-yolo、反映の意)と精霊の観念を持つ。霊魂の色は赤く、精霊は黒い。精霊は目にはみえないが、その属する人の形をしている。悪は霊魂より生じ、善は精霊より生じる。死に際して両者は身体から離れて別々になる。精霊は地下界に行く。地下界では他の精霊とともに地上におけるのと同様の生活をする。六歳以下の子供の場合は、無花果の下の地下書きに行き、無花果を食べて生きている。成人の霊魂は、至上神プルガに下された審判によて、精霊の管(虹)を通って、極楽に行く。プルガの命じる地震によって霊魂と精霊が合体し、幸福な生活を送る(by マン,p.482)

 アンダマン島人は精霊を信じている。森、海、空の精霊の呼称を持つ。人間が死ぬと精霊になる。死後、精霊は墓所の周辺をさまよい、後、他の精霊とともに森または海に住む。一定の期間の後、地下界に行く。地下界は地上と似た世界。精霊は肉が腐った後、天に行く。神話的祖先と最近死んだものの霊を区別する呼称がある(by ブラウン、p.483)。

 他界例3.ザブブン族では、死者の霊魂は母趾または頭の頂から出るともいい、また全身から出るというが、人間のごとき姿をしていて白い。死霊は一人で極楽 Laud に行くが、ときには祖霊が来て連れていく。Laud を預かるものは Yak Chin(祖母チン)で、太陽の沈む近所にある。そこには mapik の木が生えていて、一面には赤い tanjong の花を、他面には hibiscus の花を咲かせている。死霊は死後七日目の夜、Laud へ行くが、行く前に喉にバナナの灰をぬって食べる。死霊は生者のように口では食べない。

 ここで突きあたるのは、それぞれ別の研究者の報告なので、記述の厚み、語彙の使い方が違うこと、またアンダマン島人のマンとブラウンのように研究者によって報告内容が異なることである。ただ、いずれの場合も他界観念は発生している。ただし、共同墓所のようなものがあるわけではなく、他界は時間性としての疎外を色濃く持っている。

 アンダマン島人では精霊の観念が生きている。ザブブン族において、神話的祖先と最近死んだものの霊を区別する呼称があるのは興味深い。漠然としてはいるが、琉球弧における死に際しての遷居が、他界の時間性疎外の段階にあることが見えてくる気がする。また、死者を家の外に出した後も、家を捨てるか外に籠る段階のあったことを示すように思える。


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2014/08/06

遷居からの推移

 もう一度、酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』から、遷居した葬法から家の外に死体を出すまでの推移を追ってみる。

1.死者が出れば家を喪屋とし、家自体は捨てた。
2.家をしばらく明けて外窯をし、家に戻った。
3.家の中にいるが、死者を出した家をはじめ喪屋(ムーヤ)と呼び、次に忌屋(イミヤー)と呼称を変える。
4.家の中にいるが、死者の褥移しをする。(cf.「褥(しとね)移しと忌屋」
5.蚊帳や網は、家を喪屋としたことの名残り(cf.「網の呪力」)
6.「家型の厨子瓶や墓所」は、家が死者の家だったことの模型。(cf..「遷居葬の成立」

 死者の家が、住んでいた家から、外の喪屋へ移り、墓に置く家型の厨子瓶に移行する遷移像を描くことができる。

 これらのことを念頭に置いて、環南太平洋との接点を探っていこう。

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2014/08/05

『吉本隆明』(田中和生)

 生前に交流のあった人が、吉本の目が届かなくなったから言えることを書いたのではないところがいいと思った。つまり、ずるくない。

 田中和生の『吉本隆明』は、吉本思想の太い幹を正面から丹念に辿ることによって、その必然史を浮かび上がらせている。

 ここでは琉球弧に引き寄せて、触れておきたい。最後近く、田中は書いている。

その部分(「語母論」-引用者注)の結論めいたものは、それらの詳細な比較を行う前に「ある言語がいくつの母音から成るかということは、ただすべての言語は時間(時期)と空間(地域差)の組み合せの仕方によって三母音から八母音までのさまざまな姿として理解することができるということにいきつくようにわたしにはおもえてくる。日本語を含めたマラヨ・ポリネシア語族の一系統の要素だけについていえば時間(時期)は二~三万年をとれば充分だとみなされてくる。わたしたちの言語の像からいえば三母音の与那国方言(やそれと類似した東北方言)はマラヨ・ポリネシア語族のひとつである古層の日本語であり、そのうえに北方大陸のアルタイ語の要素が降りつもって、古層の日本語の地肌がみえるほど薄くつもった部分が与那国方言(やそれと類似した東北方言)となり、古層が覆い隠されるほど厚くつもったのが本土日本語だったというほうが実体に近いことになる」(同前)とさり気なく記されているが、この言語学上の仮説に見える端正な記述こそ、六十代から七十代に差しかかる吉本隆明がついに書きつけた「言葉の残虐行為」を上書きする詩にほかならない。

 なぜならそこにある認識は、かつて『高村光太郎』で語られた日本語による「言葉の虐殺行為」と「絶対におなじもの」である、日本人による「同胞の隊伍がアジアの各地にもたらした残虐行為」の根拠になった、日本語によって同一性をあたえられる日本人という国民としての意識を根源的に破壊するものだからである。まず日本語は「北方大陸のアルタイ語の要素」が降り積もっていることによって朝鮮半島、中国大陸、ひいてはユーラシア大陸に結びつけられており、次にその古層にある「マラヨ・ポリネシア語族のひとつ」としての性質によってフィリピンからマレー半島、広く環太平洋地域までが、言語的に日本人の同胞と見なされる。実際それらの地域に住む人々が日本人の「同胞」であるとすれば、戦争中の日本人が「アジアの各地にもたらした残虐行為」は存在しなかっただろうし、だとすれば「言葉の残虐行為」である戦意昂揚詩もまったく違ったものとして書かれたはずである。

 もちろんこれは、敗戦後の日本から戦前の日本をふり返った夢想だ。しかしそのような夢想の自由を許すという意味において、吉本の『母型論』は時代の変化を超えて力を持ち続ける「普遍文学」になっていると言える。少なくともわたしにとってはそうである。(『吉本隆明』)

 田中の吉本論はここでぼくたちのモチーフにも重なってくる。環南太平洋に散ったオーストロネシア語族の習俗を追っていくと、アルカイックな琉球弧のそれと似ているのに驚く。そしてさらにその地が太平洋戦争の激戦地であることが多いのに気づき、さらに驚く。 埴谷雄高が、「太平洋戦争は日本人が故郷に分散したものだった」と書いたのはその通りなんだなぁと思えてくる。そのことを身体のどこかで感じた兵隊さんもいたのではなだろうか。

 ぼくたちが琉球弧のアフリカ的段階を掘り下げてゆくことは、南太平洋の戦地へ赴いた兵隊さんたちを弔う言葉を持つことにつながるのだろう。


『吉本隆明』

『母型論』

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2014/08/04

『琉球独立論』を読む

 琉球人は、これまで基地反対運動を続けてきたが、基地は依然として日米両政府によって押しつけられたままであり、さらに辺野古にも新たな基地が建設されようとしている。中国の軍事力・経済力を背景とした覇権国家としての野望、それに対応するかのような日本の右傾化、アメリカの相対的な国力低下等、琉球を取り巻く様々な状況は、「硝煙の臭い」を強く感じさせている。この上は琉球は国家として独立するしかない。

 こうした松島の状況認識と独立構想は共感できる。日本が思考停止状態に陥っていると見えるだけ、独立は構想自体にすでに価値があると思える。そこで、松島に提案したいのは、「国家としての日本」と「日本人」とに区別を設けることだ。

日本人は、よく「米軍基地は日本の抑止力である」と主張しますが、その「日本」の中に琉球は含まれていません。
 他国軍を自国内から撤退させてこそ、日本は真の独立国になれるはずです。フィリピン、イラクも米軍基地を撤退させたのに、なぜ日本はできないのか。琉球に基地を押し付けて自らは安全に暮らしたい、国家の責務(基地負担を自ら引き受ける)を果たしたくない日本人の無責任体質が今日に至るまで続いています。
 自国民よりも他国民の方が法的に優位にあり、自国領土に他国軍を駐留させて、国や国民の主権が侵されている状況を許す人間が愛国者であるはずはありません。琉球に基地を押しつけ続けている日本政府および日本人は、無意識あるいは意識的に琉球と琉球人を差別しているのです(p.110)。

 「米軍基地は日本の抑止力である」と主張している主体は、国家としての日本、日本政府であるとするのが妥当だと思う。単純に言って、米軍基地による抑止力に疑問を持つ「日本人」もいるからだ。「日本人」としてまとめてしまうと、このような個々人の主張の差異が消えてしまう。そして最後の文章は、「琉球に基地を押しつけ続けている日本政府は、琉球に差別的構造を強いている」とした方が、主張が明確になる。これも同様の理由からだが、付け加えれば、「日本人は無意識に琉球人を差別している」と、無意識にまで言及されると受け取る方は困ってしまう。無意識の自己確認は容易ではないし、それに他の事象になれば、そう主張する者にも差別の加害性が跳ね返ってきてしまわざるをえないことだ。

 日本人は琉球人の権利や利益ではなく、自らの権利や利益のために政府を運営しているとしか考えられません(p.225)。

 ここの「日本人」も、国家としての日本やアメリカであるとするのが妥当ではないだろうか。この立言を尊重するなら、「日本は、琉球の権利や利益ではなく、大和の権利や利益のために政府を運営している」と言うのであれば納得できる。政府は「日本人」が直接運営しているのではなく、選挙で選ばれた議員のなかの多数を占めた党派の代表者たちによって運営されており、「日本人」の運営への関与は間接的だ。かつ、現在のように明白に憲法違反であることを、国民に信を問うどころか、閣議で決定してしまう暴走化した政府では、「日本人」はますます運営の実感や実態から遠ざかってしまう。さらに、松島も何度も強調しているように、日本政府自身が安全保障について運営の実権を持っておらず、アメリカが実質、決定しているのであれば、なおのこと「日本人」は関与できない。

 いきなりではありますが、ここで直言しましょう。日本および日本人は、琉球の独立および独立後の琉球を支援すべきです。いまからでも遅くはありません。私は、日本人の覚醒を猛烈に要望する者です。
 無理が通れば道理は引っ込むのが現実の世界ではあります。しかし、やはり「道理」は最終的に勝利を収めるはずであり、日本と琉球の現在の関係はどうみても無理筋なのです。
 侵略から始まった日本と琉球の近現代史の実相は、ほんの少しでも調べてみれば誰でも理解できるはずです。ぜひとも理解した上で、沈思黙考してみてください。日琉関係の異常さと、琉球人の憤りがわかるはずです。
 日本による突然の侵略とそれに続く併合、「大東亜戦争」における犠牲の集約政策、戦後の米軍基地維持政策等々。そうした、日本による琉球に対する汚物処理場のごとき扱いは、いやしくも「平和国家」たらんとする現代の日本において、あってはならないことであるはずです。
 ソ連に代わって、それまでほとんど気にも留めていなかった後進国中国が、いきなり大国として台頭し日本を脅かしている。やくざな北朝鮮の暴走も気にかかる。在琉米軍基地は、それに対抗する安全保障システムの中核であらねばならない。琉球人は、同じ日本人なのだからわがままを言わず、我慢するべきだ。そのかわり、補助金を出そうじゃないか。さらに、その現状を補強するためには、憲法の解釈変更をして集団的自衛権を確立しよう。
 ほとんどの日本人は、ざっと以上のような思考状態にあるのではないでしょうか(p.233)。

 ここでの冒頭の呼びかけの対象は、「日本人」で妥当だと思う。ただし、最後の、「ほとんどの日本人は、ざっと以上のような思考状態にあるのではないでしょうか」になると、これは日本政府の思考状態という方が当たっている。「憲法の解釈変更をして集団的自衛権を確立しよう」というのは、まさに政府が自己完結的に行っていることだ。

 ここで、ことさらに日本と日本人の区別を気にかけるのは、「国家としての日本」に対して「日本人」は責任がないと言いたいからでは、もちろんない。両者を同一視してしまうと、日本人の一人ひとりの思考や置かれた状況の、さまざまな、そして小さな違いを消して見えなくしてしまうからだ。この両者を同一視あるいは、日本人は日本のなかに含まれるような観方は、それこそ日本を含むアジア的な国家観だと思えるが、ここは日本政府を相手に訴訟をすることもあるように、国家と市民社会を区別する西洋的な国家観を生かしたい。

 日本と日本人を同一視した思考は、公は私に優先するという規範を招きやすい。現に現在の日本政府はそうしたくて仕方ないように見える。日本と日本人の同一視は、翻れば、琉球と琉球人を同一視することにもつながる。それで言えば、琉球が国家になったと思ったら、今度は琉球人は琉球の公に奉仕することを強いられるなど甲斐のないことだし、それは松島が望むことでもないだろう。

 また、「すべきである」という議論では、人は動かないと思う。頭では理解しても心と身体がついてこない。仮にこの本を読んだ「日本人」が頭で理解して責任を感じ、「すべきである」と行動しても、心と身体がついていかなければいずれ破綻してしまう。その人にとって、「すべきである」ことが、「したい」ことになって初めて、頭と心と身体は乖離しないで済むはずだ。松島がこの本を本来的に届けたい人々は、デマゴギーを振りまくジャーナリストや沖縄に落ちた金を掠め取っていく本土資本や党派として基地問題に関与する人々ではなく、ふつうの琉球人や日本人だろう。そうであれば、日本と日本人を区別し、日本に当為を、日本人に自由を渡す議論の立て方をしてほしい。それが対話や支援の通路の入口になると思えるのだ。

 問題は、日本人が琉球の歴史、文化、現状に対してあまりにも無知であり、無関心であることではないでしょうか(p.116)。

 この問題を解いてゆくことも、相手に当為を投げつけるのではなく、関心を持つ契機になる事柄(たとえばまさにこの本がそうだ)を、相手の受け取りの自由はそのままに、投げかけることによって可能性が拓けると思う。

 繰り返しますが、日本は琉球の独立を認めるのみならず支援すべきです。なぜなら、琉球独立は琉球人の正当な要求であるということとは別に、日本の新しい安全保障の確立に多大な貢献をするはずだと考えるからです。
 通常、既得権益の放棄は国益の棄損と解釈されがちですが、目先の国益と本質的国益は異なります。日本は、琉球を喪失した場合の損失と利益を冷静に測るべきです。
 まず、日本の積極的支援によって琉球独立が実現した場合、中国やロシアが「力」による国益確保を試みているように未だパワーポリティクスがまかり通る現在、それは世界から「快挙」と見做されるはずです。とりわけ、日本による侵略という記憶の残滓が残る東南アジア、太平洋島嶼国、そして台湾からは歓迎されるはずです。また、北朝鮮、韓国、中国も、本音はともかく歓迎せざるを得ないでしょう。自国の国益が損なわれるアメリカといえどもまさか武力介入などできるはずがありません。
 そうした状況の中で、日本は琉球をはじめ、ASEAN諸国、太平洋島嶼国と改めて平和友好条約を締結することにより対等な関係を築く。そして、相手国を尊重した適切な投資と技術指導を行うことによって、それらの国々の国力を向上させることができれば、市場としての成熟も期待できるはずです。また、日本の世界最高水準ともいわれる環境保全技術の移転は、関係諸国の「新しい経済創造」に貢献し、結果的に日本の国益に寄与するはずです(p.236)。

 琉球の独立を積極的に支援する日本であれば、その前に既に、沖縄の基地撤去を具体化する対策も実務的に着手しているはずだから、これは現状の政府に求めるべくもないことのように思える。だからむしろ、琉球独立の構想の質を高め、運動を盛り上げていくことを、アメリカからの日本の独立構想が日本社会からも豊富に生まれる契機とすることが、琉球独立運動の戦略的な目標のひとつになるのではなないだろうか。

 琉球独立は長期的に見て日本の本質的国益にもなります。琉球が独立することで日本も本当の意味で独立することができるでしょう。これまで日本の「抑止力」として期待する米軍基地を琉球に押し付けることで、基地による犠牲を回避することができました。しかし琉球が独立すると、米軍基地は自ら負担することにります。そうなれば、日本国民は否が応でも日本がアメリカの植民地であると認識し、他国の軍隊を自国領から追い出そうとする運動が全国的に展開されるでしょう。日本から米軍という「占領軍」が消え、不平等条約である日米地位協定も廃止して、日本は文字通り独立を日本人自らの手で勝ち取ることができるのです。現在、日本は中国、韓国、北朝鮮等の東アジア諸国と領土、歴史認識等を巡り対立しています。非武装中立を掲げ、アジアの平和創出の拠点となる琉球が誕生すれば、日本は琉球を介して東アジアの隣国と平和友好関係を築けるのではないでしょうか(p.154)。

 本土からは見えない遠くの島々に基地を押し付けることで、日本がアメリカの属国になっている現実から目を逸らしているとしたら、現実の直視を強いる琉球独立運動の盛り上がりを、日本政府は封じ込めたいに違いない。だから、琉球独立が阻止されないためにも、琉球独立の構想を高めてゆくことが、日本の独立構想を同時に促すものである必要があると思える。

 そして、構想の質を高めてゆくことのなかには、当の琉球人に対して、これが魅力的であることも当然、必要だ。もちろん、米軍基地の撤去は大きな魅力というか悲願であるものだ。しかし、琉球独立の構想はその先に、少なくとも二つの不安に応えていかなければならない。ひとつは、安全保障だ。琉球が独立しようとした場合、「自国の国益が損なわれるアメリカといえどもまさか武力介入などできるはずがありません」ということが確かかどうか。なしにしろ米軍は、目の前にいる、しかも戦争慣れした軍隊なのだ。そして、覇権主義を強めている中国が侵略してこないかどうか。そうなるに違いないから独立は非現実的だということではなく、ふつうの島人が抱くだろう、こうした素朴な不安は想定しておかなければならない。

 さて、それでは琉球は「防衛力」を持たなくてもよいのか。そんなことはありません。残念ながら、現在の主権国家は、その大半が自らの裡に「帝国主義」的感性を有しています。そうであるなら、琉球も当然、「防衛力」を持たなければなりません。ただし、琉球の防衛力とは「力」ではなく「関係」であるべきでしょう。すなわち、完全中立を掲げ、相互を尊重した多国間との対等な関係構築、それこそが琉球の防衛力となるはずです。そして、そのためには、高度な外交能力が必要とされます。琉球は、誰も否定できない普遍的理念と、多国間ネットワークを武器として将来を切り拓いていくべきです。琉球王国時代、琉球人は中国と日本という二つの大国の間でバランスのとれた国交を維持していました。元来、琉球人とはそうしたセンスのある民族であるはずです(p.232)。

 完全非武装中立や関係による防衛は、未来的であり、日本が無効化しようとしている「憲法9条」をより先鋭的に継承するものであるという点でも魅力的だが、松島も憲法9条を「人類の「宝」」と言うように、高く掲げられた理想であるほど、島人にはその現実性に不安を抱く。そこに丁寧に応えていかなければならないのだと思う。

 もうひとつの不安は経済だ。昔の脅迫文句に言うところの、「芋と裸足」の生活に戻ってしまうという不安である。増額された3460億円の振興予算に対して、「驚くべき立派な内容、140万県民を代表して感謝する。いい正月になる」と応じた仲井真知事の発言には唖然とさせられたが、ひょっとしたらこの発言の裏側にも「芋と裸足」への恐怖が残っているのかもしれない。松島は、このような状況を作り出した第一義の責任は日本政府にあるとしながらも、「琉球が独立を目指す時、「ムチ」を怖れず「アメ」を捨て、琉球人としての矜持を持たなければならない」と主張するが、アメは捨てないものだと思う。それは琉球人だからということではなく、人はそういうものだという意味で。そこで、「捨てよ」と言うよりは、松島が「芋と裸足」論には、本当の豊かさとは何かを考える契機があると書いているように、松島が長年追究している「内発的発展」の魅力をアメとして語ることが重要だと思える。それが自ら作り出すアメと感じられた時、人はコンクリートの廃墟を残すアメを捨てることができるのではないだろうか。

 世界史の先端では、国民国家の耐用年数が尽きかけているように見える現在、国家創設という構想は魅力的に映らない。まして、国家によって散々嫌な思いをしてきた琉球人であればなおのことそうだと思う。少なくとも、ぼくが琉球独立という構想にすぐに飛び付けなかった理由のひとつはそれだった。しかし、それしかないのかもしれないという局面に立つと、新たな国家構想は、現在の民族国家よりマシである必要がある。その意味では、松島が太平洋の島嶼国家に学び、それらの国々とのネットワークを構築しようとしているのは惹かれるものがある。古代の琉球弧を調べるにつけ、南太平洋の島々との習俗との類似性がよく見えてくる。東南アジアのどこかから、一方は琉球弧から日本列島へ流れて行き、他方は南太平洋の島々へ渡っていった、近しい人々であることが分かってくる。南太平洋の島々との関係構築は、同じ島々という以上に、きっと相性がいいはずなのだ。

 ぼくは未来の琉球弧を構想するには、古代の琉球弧が豊かな水源を提供してくれると考えている。だから、発想の起点を、琉球の「先史時代」に求める高良勉に共感する。たしかに琉球弧にはかつて琉球王国が存在したから、過去の実績として参照することはできる。しかし、琉球王国は、それこそ日本より遅れて、しかも日本ととても似た政治形態を持った国家に過ぎないといえば言える。そしてその前に、琉球弧の自然環境や自分や島人を振り返ってみた時、外からのインパクトなしに琉球弧は国家を作る必然性は無かったと思える。それよりは、文字を持たなかった頃の琉球弧の方がはるかに広く深い。ただ、文字を持たない社会は国家を必要としなかった社会でもあるから、古代琉球弧はそのまま国家の根拠になりうるものではない。だから、高良も「琉球ネシアン・ひとり独立世言」と、自らの独立を宣言することから始めたのだと思う。しかし、国境など関係のなかった古代琉球弧を参照すれば、少なくとも国家が島人を勝手に動かすのではなく、島人がコントロールできる開かれた国家でなければならないことは示唆してくれるものだ。


『琉球独立論』(松島泰勝、2014年)

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2014/08/03

死の位相変化

 ぼくたちは第零次、つまりアフリカ的段階の人間と自然の関係を次のように考えてきた。

 人間は、全天然自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、天然自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 この段階では、人間は自然を擬人化して捉えるが、一方、人間も自然の一部として位置づけられる。そこでは、性と死も自然の推移と同じひとつながりのものとして見なされる。

 農耕が始まり定着が進むと、人間と自然の関係も第一次、アジア的段階のものに移行する。

 人間は、全自然を人間の「有機的身体」とし、全人間は、自然の「有機的自然」となる。

 種を植え、実りまで人間の手によって行われるようになると、人間もその植物たちと同様に生成しやがて種を落す存在として捉えられる。このとき食用に供されなかった食物は朽ちて腐敗することも意識に上るようになる。腐敗した実が忌むべきものに変わるのを知った時、人間の死に対しても死穢の感覚を発生させた。

 高地性集落から低地へ移った時、かつての住居であり葬地でもあった山は、それ自体が禁忌の場所になった、と考えてみる。

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2014/08/02

バイニング族のカヴァット

 ニューブリテン島のバイニング族は、時間性としてしか他界を表出していなかった。 

死霊はどこにでもいるが、目には見えず、定まった住所を持たない(バイニング族、ニューブリテン島、p.163)。死者を埋葬はするが、墓穴を塞ぎはしない。野獣に対する防御手段も講じない。弔葬儀礼もほとんど行わない(棚瀬襄爾『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』p.206)。

 彼らは、仮面仮装の儀礼を持っている。

ニューギニア島の東に連なるニューブリテン島に関しては, この地に古くから居住するバイニング族の人々の手によるカヴァットの仮面が有名である。 弾力のある木の骨組に樹皮布を張り付け, 赤・白・黒の三色で彩色されたこのヘルメット型の仮面は鳥の精霊を表すものとされ, 仮面結社への加入儀礼に際して, 他の野生動物をかたどった仮面と共に, 大きな焚き火の中に飛び込んで激しい踊りを演じる。(「仮面とプリミティヴィズム」~プリミティヴ・アートとしての仮面の魅力~梅本涼)

 アカマタ・クロマタと同じ「赤・白・黒」三色であることに目が行く。これは、仮面仮装の儀礼としての同一性というより、古代の色認識の同一性なのかもしれない。ドゥクドゥクもニューブリテン島にある。

 ニューブリテン島の他界は、ヌルアン島という小島。「はるか彼方の岡の向うにある穴」であり、島の表象はないが、地上の他界に一応は分類さられる」(p.184)。

 この他界のあり方は、地下ではないものの、島と他界の二重化がトロブリアンド諸島と似ている。地下他界は、南部メラネシアに分布している。

 梅本はこの他にもメラネシアの仮面文化について触れている。

 広大なオセアニアの中で仮面が制作されているのは, ニューギニアからソロモン諸島にかけてのいわゆるメラネシア地域に限られる(後略)。秘密結社の加入儀礼や成人儀礼、 あるいは葬送儀礼や農耕儀礼など、人々の生活のあらゆる場面に仮面が登場し、仮面の踊り手は、それぞれの氏族の死者の霊や祖先の霊、あるいは森の精霊の化身とされている。 仮面そのものは、顔の前に着ける文字通りの仮面よりも、全身をすっぽりと包む藤や樹皮でできた大型のものが多く見られる。 特に、パプアニューギニアのセピック川流域では, 仮面にかたどられる顔が仮面だけに留まらず、精霊堂の壁や柱、鉤、戦闘用の槍や盾、土器などの表面、さらにはカヌーの舳先にも表される。 まさに、生活のあらゆる場面に、祖先や精霊の存在が刻み込まれていると言ってよい。

 セピック川中流域のイアトムル族。

成人儀礼に際して少年たちの身体にワニの鱗を表す瘢痕を施す手術が施されるが、そうした儀礼が行われるのも、この精霊堂の内部である。様々な儀礼で仮面を着用できるのは、このような成人儀礼を終えた男たちだけに限られている。 さらにイアトムル族の社会では、マイやアバンと呼ばれる仮面が用いられていて、このうちマイと呼ばれる木製仮面には目の部分に穴が空いていない。 これはこの種の仮面が顔に直接装着するのではなく、全身を覆う蓑状の被り物の上部に取り付けて身に着けられるためである。 マイは神話で語られる兄弟姉妹の二組のペアとして「マイ・バング」 と呼ばれる家屋落成の祭祀で踊りを演じる。 一方のアバンは、 上下に二つの顔を持つ藤製の被り物型の仮面である。 成人儀礼に登場し、少年たちを教育する役割を担う。 また、親の言うことを聞かない子供がいると、アバンを呼んで、折檻してもらうこともあるという。 日本のナマハゲを思わせる習慣である。

 マイは、家屋落成の祭祀に現れる。兄弟姉妹の二組のペア。アバンは成人儀礼に登場する。

 アベラム族。

 男たちは大きなヤムイモを競って栽培する。 ヤムイモとはこの地方の主食で、形や大きさ、毛根の有無、中の実の色、味などの違いによって様々な品種があり、住民は少なくとも数十種、民族によっては百種を超える品種を見分け、土地に合わせて適切な品種を選び栽培する。そうして収穫できた大きなヤムイモに藤細工や木製の仮面を着け、さらに羽毛の装飾や彩色を施して飾り立てる。 ヤムイモには精霊の名が付けられていて、仮面を装着したヤムイモはその精霊と同一視され、そのヤムイモを食べることによって、人々は精霊との一体性を確認していくことになる。

 アベラム族はヤムイモの収穫祭。出現するのは、ヤムイモの精霊。

 ニューアイルランド島北部。

一連の儀礼とその儀礼で使用される仮面や彫像を包括的に指し示すのに、マランガンという呼称が用いられる。 マランガンの儀礼は、基本的には死者を悼む葬送儀礼であるが、同時に少年たちのイニシエーションも兼ねている透かし彫りを多用した複雑な構造を持つ仮面や彫像などは、個々のマランガンの儀礼毎に何ヶ月もかけて制作される。 しかし、儀礼が終われば, それらの仮面や彫像は廃棄されるか朽ち果てるままに置かれるかのいずれかである。

 マランガンは死者儀礼と成人儀礼。

 これらの例は、来訪神が農耕儀礼になる前に、成人儀礼や死者儀礼のなかで出現したことを示唆している。

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2014/08/01

オセアニアの他界観念一覧

 備忘として、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』の結語を一覧化しておく。

 ぼくの関心時は本書であまり追求されていない洞窟葬の位置づけだ。それは、地質条件からくるやむざる形態だったのか、それとも単純埋葬とつながりうるものか。

 もうひとつは、酒井卯作の挙げる「野ざらし」が非埋葬につながるものかどうか。言い換えれば、琉球弧において無他界の段階を想定できるか、ということだ。


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