『バロマ ― トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』
マリノフスキーの『バロマ―トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』は、ぼくたちにとっては、酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』と対をなす資料だ。
肉体を離脱した霊魂に対して、トロブリアンドの島人には二つの態度が見られる。
バロマ(霊魂)は、「トロブリアンド諸島の北西約十マイルの所にある小さな島、トゥマ Tuma へ」行く。トゥマには現に生きて住んでいる人みるし、トロブリアンドの人もときに訪れる。もうひとつは、コシ。「霊魂が、死後、村の近くの、故人の菜園とか、海岸、水汲み池などのような、生前の生活区域のあたりでしばらく不安定な生活を送る」。島人は音でコシに気づく。コシを怖がっているが、それはたわいもないいたずらで人をおどかす存在で、島人は本当にはこわがっていない。本当にこわがっているのは、ムルクアウシで、これは生きた女性の分身で人の内臓を食うからである。
バロマは琉球弧のマブイに該当している。コシは、過程としてみれば、死後四十九日は死者は苦労するということに対応しているが、いたずらをしでかすのはムヌに似ている。人を食うムルクアウシは生霊だが、琉球弧でいえば、キジムナー、ケンムン、イシャトゥなどのムヌがより凶暴化した姿のように見える。もっとも、ムヌは生霊ではない。
死は、「邪悪な妖術の結果としての死、毒による死、戦闘中の死」という三つの種別がある。戦闘中の死は「立派な死」、「毒による死」は木の上から飛び降りるのと同様に自殺の形式。自殺はかなり一般的で、それは「侮辱を受けた近親者の誰かに対する潔白を示す行為として行われている(p.18)」。島人は自然の原因による病気があるだろうと認めているが、「邪悪な妖術」に落ちた結果とは区別されていて、後者だけが生命にかかわる。
「邪悪な妖術」だけが死に関わるというのは、琉球弧の死霊と同じだと思える。自殺の意味が現在とはまるで違っている。
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バロマ(霊魂)は、トゥマで生前とまったく同じような生活を送る。親族にも会う。ただ男性の島人が言うには生前よりも奔放な性生活を送る。幸せな生活に落ち着く。生きた島人のなかには、男女を問わず霊界に入って行ける能力を持つ者もいる。女性の妊娠をバロマが伝えることがあるように、夢がバロマと生きている者との交渉に役割を果たしている。
「バロマは水(あるいは最近のキリウィナ島民では鏡)に映った映像(サリブ)のようで、コシは影(カイクアブラ)のようなもの(p.34)」。「確かにバロマとコシは映像に似ているし、また影に似ているのだ。ただ、あいつらはまた人間にも似ており、人間のやることとまったく同じように行動するのだ(p.35)」。
「鏡に映った姿」や「影」は霊魂のイメージ化の度合いを示している。それはまだ素朴なものだと言える。バロマの位置を指定することができないということにも、それは現れている。琉球弧で、後頭部周辺がマブイの位置とされるのはイメージ化が進んでいるのを示している。
バロマの人間身体の位置だけではなく、死後、バロマが生活する場所についても答えはひとつではない。トゥマの島に住むのか、地下に住むのか、それとも別の場所か。もっとも妥当な解釈は地下のトゥマ、ということだ。
マリノフスキーは重要なことを言っている。
ともあれ私は、彼らの観念は、固定化されない形のままになっていること、定式化されるよりは感じられ、バロマの性質やさまざまな存在条件を分析的に検討するよりは、バロマの種々の活動に関わっているものだということだけは確信できるのである(p.40)。
琉球弧で、マブイの位置が、頭蓋の終わりと胴体の終わりの境界に位置するように思われているのは、トロブリアンドの島人よりは霊魂のイメージ化が進んでいる。しかし、マブイの行き先のあいまいなことはトロブリアンドの島人と変らない。むしろ、トロブリアンドの島人よりも、さまざまな信仰が複合された結果、より混乱しあいまいになっているとも言える。しかし、重要なのは、定式化されるよりは感じられ、分析するよりは関わることで生きられているということだ。だから、現在にいるぼくたちが考えるとき、今はあいまいになっているが、本当は確かなことがあったはずだと考えるのは半分の妥当性しかないのだと思える。もう半分は、当時の島人にとってもあいまいなままであったということに由来する。なぜなら、それは感じられ、関わることで生きられてきたものであり、厳密な定義を施す必要があったものではないかだら。
ただし、再生については具体的なイメージがある。
バロマが年老いてくると、その歯は抜け落ち、皮膚はたるみ、皺がよってくる。彼は浜へ行って塩水で水浴をする。それから彼は、ちょうど蛇がやるように、自分の皮を脱ぎ捨てる。そして、また幼い子供になる(p.117)。
ここにも脱皮のイメージが生きているのをぼくたちは気づく。アカマタ・クロマタなどの来訪神が出現する過程を見るようではないか。
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八月の終わりから九月の初めにかけた満月の夜、ミラマラという祭りが行われる。ミラマラは収穫祭で、このときトゥマからバロマも帰ってくる。帰ってきたバロマは祭りの間、収穫されたモノを供えられるように歓待されるが、一方で椰子の実を落したり、夢に現れたりして、島人にその存在を感じさせる。しかし、供え物が少なかったり、儀礼を厳格に守っていなかったりすると、旱魃を起こして怒りを露わにする。しかし、祭りの終わりの時は、太鼓の音であっさりトゥマに帰されてしまう。その送りだし方は、足の悪いバロマに対してからかいの言葉を投げるほどで、「何らの神聖さの跡も、厳粛ささえも帯してはいない(p.67)」。
トロブリアンドでは、霊魂の擬人化は生き生きしていて、霊魂の位置は定かでないものの、生と死の連続性がまだなめらかだ。琉球弧の場合の祖先の霊に対する態度は、トロブリアンドに比べてはるかに厳粛さを持っている。これは言い換えれば、生と死の連続性が断たれてしまっていることを示すように見える。
ミラマラは踊りの期間だ。そこでは、「バロマを喜ばせるためには全員が悦楽や踊りや性的放縦で一つにならなければならない(p.62)」。
こういう記述は、シニグが「踊り」を起源に持っていたのではないかという仮説に視野を与えてくれるし、厳粛な農耕儀礼という現在形からはかけはなれたものだったかもしれないことを想定させる。
儀礼のなかで最も重要なのは、呪文である。
儀礼はただ呪文を進水させるために、特別な送達機制として役立つためにのみ存在している(p.80)。
これもはっとさせられる観察だ。儀礼において重要なのは呪言(クチ)、もっと大人しくなれば、祝詞であり、儀礼自体は、呪言を発揮させる演出舞台だということだ。
この呪文においては、祖先の名前が列挙される。列挙すること自体に意味がある。また呪文のフレーズのなかにはトロブリアンドの島人にとって意味不明になった個所もある。だが、それは少しでも言い間違えれば効力を失ってしまうので、固定化され、厳格に伝承されていると見なされる。それは儀礼の参加者を神話上の祖先や創始者に「結合させる鎖」となり、島人にとっては、「それだけで唱えるべきまったく十分な理由となる(p.115)」。
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妊娠について、科学的な認識がないことについて、むしろマリノフスキーをたじろかせた面もある。
何人かの原住民の報告者たちは、私が、妊娠させるのはバロマではない、妊娠は土にまかれた種のようなものがもたらすのだと断定的に述べたとき、私の論断の中に整合性が欠けているのをきわめて明確に指摘したのであった。私は、毎日、ないしはほとんど毎日繰返されているその原因が、なぜそれほどまれにしかその結果を生まないのかという矛盾の説明を、ほとんど真っ向から求められたことを思い出すのだ(p.150)。
性交が妊娠をもたらすという認識の障壁になったのは、妊娠から子の誕生までに十か月の期間があることの他に、性交がかならずしも妊娠に結びつくとは限らないという確率も含まれているのに思い当たる。
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