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2014/07/02

『未開家族の論理と心理』

 マリノウスキーの『未開家族の論理と心理』で、まず目を引かれるのは、呼称のことだ。子供は、「父」、「母」を自己の両親に使うが、長じると、母の姉妹も「母」と呼び、父の兄妹も「父」と呼ぶ。そして、父、母だけでなく、兄弟、姉妹も「遠い親族および氏族員のある層にまで拡張して用いる(p.26)」。

 父を示す「タマ」は「わたくしの母の夫」を指し、長じて父に代わって登場する男を「カダク」と呼ぶが、それは「わたくしの母の兄妹」を指している。

 子供は母の姉妹にまで母という言葉を用いるとき、その使い方はとても困難だが決して「この二人を混同せず、また二つの観念を混同しない(p.99)」。どうやって使い分けているのかと言えば、感情的抑揚、前後の関係、言い廻し(p.97)によってだ。トロブリアンド諸島は同音異義語が多いが、それは言語の貧困や語法の粗雑に基づくものではなく、比喩なのだ。母の姉妹には、母の比喩としての「母」を用いている。母方の伯叔母は母に相当する可能性を有している存在なのだ。

 「原住民は青空を比喩的に黒い雲と呼び、その非人間的な力に旱魃を雨に変える拘束的義務を課する」(p.98)ように、呪術における語法と相同している。

 これらのことは、ぼくたちが「をなり」と呼ぶとき、それは姉妹に対してだけではなく、従姉妹のこともそう呼んだ時期があるかもしれないという考えに導かれる。そしてこの比喩の語法は、をなりに該当する姉妹がいない時、親の伯叔母や従姉妹、孫娘、妻にも適用されることにもつながっている。

◇◆◇

 「子供の肉体をつくりあげるものはただもっぱら母親だけであって、夫はその形成に全然たずさわらない(p.120)」と考えられている。なぜなら、「霊魂の子は人類が新しい生命の供給を引き出しうる唯一の源泉(p.135)」だからである。「精液は原住民の思惟においては、なんら生殖的価値を授けられていない(p.130)」のだ。つまり、性交が子供を孕ませる認識がないのである。

 そしてこれはただ、知らないというだけではない。この認識を伝えても認めない、積極的なものだ。「首尾一貫していないとしても、完全に整合的、自己充足的なものである(p.146)」。

 わたくしは誘導尋問を用いることや原住民の考えを否定することによって彼らの考えをひき出すことにけっして臆病ではなかったが、受胎の原因の討議において、わたくしは自分の擁護する見解に対して、原住民が猛烈に反対することに幾分驚き、気が進まなくなり、納得しなくとも、すぐに折れてしまった(p.155)。

 たとえば、クラヤナという女性は「非常に醜いので」、男は誰でも彼女と性交するのを「恥じて」いて、誰にも劣らず「純潔」であったにもかかわらず六人以上の子供を持っていた、などと積極的に反論されるのだった。

 ただし、「処女は妊娠することができない」ということも信じられている。ある説明によれば、受胎する道がないからで、口が大きく開いていると、霊魂が気づき、子供を授けるというものだが、同じ説明者が、霊魂が頭から入ることを言いもして一貫はしていない。一方で、子供のために道は開かれなければならないが、それは必ずしも性的交渉によってもたらされる必要はないとも言われている。

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 父は惜しむことなく子供の面倒をみて、深い情愛を感じささげ、教育にもたずさわる。母とも親密な関係にあって、家庭の主人である。しかし、子供が成長すると、父は後退し、代わって母の兄妹が登場する。が、完全にとってかわられるわけではなく、「死に当ってさえも親子関係の紐帯は破られることはない(p.77)」。

 女性は妊娠すると、タブーを守り儀式的な規則をまもらなければならない。そしてしばしば夫との性関係も禁止される(p.51)。同時に夫も種々のタブーや儀式を遵守する他、クウヴァドも行う。クウヴァドとは、「夫が陣痛と出産状況をまねる」ことだ。こんなことまでやってのけるのも妻子の幸福のための努力なのだ。

 子供が生まれるためには、二人は結婚していなければならない。「子供を両腕に抱きとる(p.175)」存在が必要なのである。母の兄妹はその役をなしえない。「彼女は自分の兄妹の中に自然なる主人および保護者を有している。しかし、兄妹は寛恕が守護者を必要とする全部にわたって彼女の面倒をみる地位にあるのではない(p.175)」。妊娠中、女性は「男から心をそらす」必要があるが、「厳格な兄弟姉妹のタブーのために、彼は彼の姉妹の性に関することを考えることすら慎重に避けなければならなからである(p.175)」。

 さらに、子は父に似ると考えられている。母には似ないどころか、似ていると指摘することは侮辱と捉えられてしまうほどだ。なぜ、父と似るのか。母と子は肉を同じくしているが、顔は似ていない。父が似るのは、一緒にいるから固まる、型取るからだ、と言われている。

 長じるに及んで疎遠になる父との紐帯を維持するための、無意識のバランス感覚だろうか。

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 霊魂は死後、死者の島であるツマ(Tuma)へ移り、現世と似た、ただ現世より愉快な生活を送るが、不断の若返りに倦むと、ふたたび現世へ復帰したくなることもある。霊魂はふたたび嬰児にかえる前に塩水で沐浴しなければならず、その後、海に出て、「流木、木の葉、樹皮、かれた海藻、海の泡沫(p.136)」、その他、浮遊している軽い物質」に乗って漂うと言われている。そうではないという意見もある。年長の霊魂が嬰児を運んで、妊娠する女性の夢に現れる。夢を見た女性は、「嬰児を彼女に授けたのが誰であったかを話すことが多い(p.138)」。

 多くの人は「胎児が誰の肉体再現であるか-胎児がその前世において誰であったか-ということは誰も知らない」、「唯一承認されている規則は、氏族および亜氏族の継続性が一貫して保存されているという規則である(p.144)」。

 霊魂が再生するまでのプロセスのあいまいさは琉球弧においても共通するものだ。

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 (霊魂の若返りの力は-引用者)、人類の祖先たちが地下に住み、いまだ地表へあらわれてこなかった時代に、かつて全人類によって共有されたものであった、。今日でも、われわれは、蟹、蛇、蜥蜴のような穴居動物や爬虫類は、大気の中に住んでいる動物の持たないところの脱皮して若返る力を有しているのをみる。人類は地表に出てきた後、しばらくの間、この能力を保っていたが、情況神話(circumustantial myth)の中で物語られているように、ただ不注意と悪意のために、それを失った。地下の世界であるツマにおいては、霊魂はいまなおこの幸福な特権を完全に享受している(p.134)。

 ツマは「死者の島」である一方で、地下とも言われているのは興味深い。本源的には「地下」であると思われる。そしてツマが脱皮のできる世界であるということは、人間が脱皮のできた時代を他界として表象しているということだ。これは重要な点だと思う。

原住民の伝承にれよれば。人類は地下から発生した。そしてその地下から、兄と妹とのひと組が異なった特定の場所に現われたのである。若干の伝承では、女性だけが最初に現われている。(中略)さて、兄妹を伴うか、伴わないかは別として、最初の女子は常に夫あるいはその他の男子の伴侶者なしに子供を産むと想像されている(p.150)。

 これも面白い。性交が子を孕むという認識のない段階から、地下から現れたのは、「兄と妹」だった。ということは、兄妹始祖神話にはまだ原型があって、「はじめ性交を知らなかったが海馬(ジュゴン)の交尾をまねて性交し子を生んだ」というくだりは、性交と出産についての認識を受容した後に、加えられたものだということだ。

 兄弟姉妹の紐帯の強さについては、「兄弟姉妹は同じ肉体でできている。彼らは同じ母から生まれたものであるから(p.121)」という原住民の言葉によっても明かされている。

男子なくしてどうして子供を産んだのかということを素直に尋ねると、いつも原住民たちは多少の粗雑さまた、冗談にまぎらわして彼らが容易に用いることができた穴あけの若干の手段を挙げ、そしてそれ以上の必要がないことがあきらかであったと述べるのである(p.151)。

 子の誕生は霊魂の仕業であれば、男子が不要なのは信仰上、当然のことだった。

 
 自分の関心に引きよせると、『未開家族の論理と心理』のポイントは上記になると思う。母系社会について、たくさんの示唆を与えてくれた。

 

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