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2014/07/14

添寝論 メモ

 死者に対して近親者が添い寝をしたという習俗には強い関心をそそられる。

長門の大島などでは、死者の傍らで夜伽をすることを添寝と謂って居る。事実女房や娘は死者の傍に寝たのであろう。さいういふ実際の例が日本でも稀にはあった様に記憶するが、今たしかな出処を挙げられない(「葬制沿革史料」)。

 かつて柳田國男はこう書いて、その実例の収集が充分でないことに言及したが、今では酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』 style=によって、ぼくたちはいくつかの例を知ることができる。そして、柳田が 死者との添い寝について、死霊に対して恐ろしさばかりがあったわけではないとして、そこに親しみを見ようとしているが、酒井の挙げた例を踏まえると、死者との添い寝にはもっと根底的な意味があるように思える。それを見極めるためには添い寝のシーンを死の前後に引き延ばしてみなければならない。

 病人が重篤に陥ると、パラジが集まってウイトゥギをする。死人の通夜は夜伽(ユトゥギ)という。ウイトギとユトゥギは別である。トゥギは伽で、一晩寝ないで病人を見守り、いろいろ世話をするのである。病状がいよいよ悪化して息を引きとりそうになると、その人に抱きついて、大声で名前を呼ぶ。これをユビコイという。時には一寸起したり坐らせたりして、その名を大声で呼ぶ。もし気がついて生き返ると、ユビジティイキティ(呼びもどして生かして)という。それでも正気を取り戻せぬときは、死者と一番縁の近い人が大末期の水(ウアガミノミジ)を飲ませ、もとのように寝かせる。死んでから水、主湯、酒などをすこしづつ与える(p.53、長澤和人俊「与論島民俗誌」)。

 死の前のウイトゥギと死の後のユトゥギに言葉の違いがあるのは、パラジ(親戚)が集うのは同じだとしても、そこで場面が変わることを意味している。ウイトゥギの際に、「ヤブを呼ぶ場合もあった(黒越志津子「南西諸島調査ノート抜き書き」)」と、巫覡(ユタ)を招いて死を防ごうとしたことも報告されている。

 石垣島の白保では、「頭を抱え、腕をかけて抱きおこして、みんなで大声で名を呼ぶ。ウデカケという(p.121『白保―八重山白保村落調査報告(1977年)』)」と、瀕死の身内の名を呼ぶときの抱き起こしに「ウデカケ」という名称が与えられている。

 霊魂が身体を離れたと見なされた時は、大声で名を呼ぶことに別の所作を含んでいた。

 (波照間島で-引用者)私が聞いたところでは、ここではタマアビルといって、死者にいちばん近い関係にある二人の婦人によって魂呼ばいが行われる。一人は空臼を搗き、他の一人は屋根の桁に両手をかけて死者の名を三回呼ぶ。これで呼び戻されて蘇生したという話もある(p.142、『琉球列島における死霊祭祀の構造』酒井卯作)
不慮死の場合には、死者を蘇生させるために魂喚いの呪法が、最近まで行われていた。いうまでもなく肉体を離れて後生へ赴く死者の霊を途中より呼戻すためである。そのほほ方法は、二・三人の男が屋上に上り、墓所の方角に向かって死者の名を呼びつつつムドントー(戻って来う)と繰り返し叫ぶのであった。病死の場合の魂喚いは全く形式化して、落命と同時に表戸を細目に開けて、二・三回呼ぶに過ぎなかった。魂喚いには、呼び声をそのままムドントーと称した(柏常秋『沖永良部島民俗誌(1954年)』p.135)。

 沖永良部の例は、波照間島の例に比べて様式は崩れかかっているが、名を呼ぶ時、本人に向かって行う場合と、屋外に向かって呼ぶ場合とは、霊魂が本人の中にあるか浮遊し出したかの死の段階の違いに対応したものだ。

 死の直前に、抱きついたり、腕をかけて座らせるというのは、死の前段の添い寝の様式なのだ。

 そして死が訪れたと見なされて、添い寝が行われる。

通夜にはトギ(伽)と称する。死忌のかかる近親者が集って永別を惜しむのである。この時女子はかならずミサマシ(目覚まし)と称して菓子などの食品を携えてくるのが常であった。夜半過ぎで通夜を終わった後も、女子は居残って、死者と枕を並べて添寝をなし、死者を一人残しておくことはなかった(p.138、柏常秋『沖永良部島民俗誌(1954年)』)。

 しかし、ここでも、添い寝は必ずしも静的なものだけではなかった。

以前宮古島では、死者を蚊帳の中に入れ、肉親もその蚊帳に入り、女たちは「魂よばい」や「しぬびごとをして泣き叫びながら、死者と共に夜をすごした。この蚊帳は裳(も)であり。喪屋とみなしてよかろう。その中には悪霊は入りこめなかった。宮古島の砂川、友利、新里などでおこなわれる夜伽では、「抱きとまうず」と呼ばれた。「死者を抱きながら泊まる」というという意味で、それは夫婦の場合はその配偶者、もしくは母が寝床を故人と並べあるは離れて添い寝をしながら夜を明かすことを指していた。それは死者への親愛と悪霊への警戒の双方の意を兼ねたものであった(p.65『日本人の魂のゆくえ: 古代日本と琉球の死生観』谷川健一)

 「抱きとまうず」、「死者を抱きながら泊まる」のは、実態としても「抱くように」という比喩としても両方ありえただろう。また、就寝の前段が様式化されているものがある。

チンシダチャー(膝抱き人)というのがいて、これはイナグンクヮ(娘)がやる。子供が五人で、しかも、三男二女の構成だと大変理想的で(中略)、すなわち、長男が頭上に、次男が左背に、三男は右背に、長女が左膝元、次女が右膝元にいて、それぞれの死者を見守っている。長女と次女がいわゆるチンシダチャーと称される役職に当るわけである(p.631『那覇椎市』)。
長男が死者の枕元に座り、その次は年長順に兄弟姉妹が座る。チンシダチャー(膝を抱く者)はウマグヮ(孫)がする。そういう身内がいない場合は縄で膝を曲げて結んでおく。これは棺桶に治める時に膝頭を立てて納めるためである(p.411『浦添市史』)。

 家族が死者を囲むのだが、ここではその配置に意味が置かれているように見え、特に、娘か孫には「チンシダチャー(膝抱き人)」という名称が与えられている。

 これは何を意味するのか。酒井卯作は『琉球列島における死霊祭祀の構造』のなかで、ここに死者から生者への霊魂の転生を見るのだが、妥当だと思える。「膝抱人は蚊帳の中で女子が死者の硬直を防ぐために膝をもむ役(読谷村の例、『琉球列島における死霊祭祀の構造』酒井卯作)」だという説明も与えられているが、おそらくこれは、この言葉の意味が不明になってしまった後に加えられた合理的な解釈というものだ。琉球弧で、霊魂(マブイ)は、首筋に近い頭部にあるとみなされたが、ウデカケにいう「腕」や「チンシダチャー(膝抱き人)」にいう「膝」は、首筋に次ぐ霊魂の座として重要な場所であったに違いないと思える。それが孫や娘が「膝」に位置する意味だ。

 死の直前に、抱きつき、座らせ、大声で名を呼び、魂呼びを行い、また死の直後に、死者を囲み、実質的な添い寝をする一連の行動に貫徹するものは何か。それは、死の直前には、瀕死者の霊魂を補充し、死の直後には若い世代への霊魂の転生を図ろうとするように、霊魂の転位だ。それが添寝の持つ本質的な意味だと思える。

 そして、添い寝の習俗は祭儀化された形態を持ったのだ。

以前は、長い間、生死が訣らなかつたのである。死なぬものならば生きかへり、死んだのならば、他の身体に、魂が宿ると考へて、もと天皇霊の著いてゐた聖躬と、新しく魂が著く為の身体と、一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする。今でも、風俗歌をするのは、聖上が、悠紀殿・主基殿に、お出ましになつてゐられる間、と拝察する。
中休みをなさつた聖躬が、復活なさらなければ、御一処にお入れ申した、新しく著く御身体に、魂が移ると信じた。死と生と、瞭らかでなかつたから、御身体を二つ御一処に置けたのである。生と死との考へが、両方から、次第にはつきりして来ると、信仰的には、復活するが、事実は死んだと認識するやうになる。そして、生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた。出雲の国造家の信仰でも、国造の死んだ時には猪の形をした石に結びつけて、水葬したが、死んだものとは、少しも考へなかつた。其間に、新国造が出来たが、宮廷に於ける古い形と等しく、同じ衾から出て来るので、もとの人即、死者と同じ人と考へられてゐた。(折口信夫[『古代研究〈2〉祝詞の発生』

 死にかけた身体とその地位を継承する身体とを、一枚の布地である衾(ふすま)で覆い鎮魂術を行う。死にかけた身体が復活しない場合は、地位を継承する身体に霊魂が転位したものと見なした。事実としては一方の死が確認されるが、信仰的には同じ人の復活と見なされた。

 この折口信夫の考察が見ているのは、添い寝における鎮魂術で霊魂の転位が行われるということに他ならない。そして、地位の継承においては、死んだ人と継いだ人を同じと見なしたのは、霊魂が人間の本体と見なされた時代の思考法に基づくものだった。

 折口は「古代人の思考の基礎」の冒頭で、皇族、貴族の生活が神道の基礎になり民間に及んだと書いている。

尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。

 しかし、琉球弧の「添い寝」を経た後では、これは逆だと言わなければならない。つまり、添い寝の習俗を基礎にして天皇霊の継承という祭儀は生み出されたのだ、と。

 ぼくたちは琉球弧の「添い寝」における霊魂の転位の習俗と皇族、貴族の鎮魂術と比較した時、天皇霊には霊魂の転位の他に霊威の継承という意味が加わっているのを見た。

 次に、「添い寝」が霊魂の転位だけではなく、霊威の継承に重点が置かれて進展した場合の例を琉球弧を見出すことができる。

今同島宮古口と称する神嶽中に二個の髑髏あり、毎年旧一、四、七、十月の四回吉日を選び、二人の神職これを祀る。その祭祀に臨むや三日間精進潔斎をなし、純潔なる白装束(白衣白鉢巻にて腰巻に至るまで新調)にて参詣をなす。島民途中之に逢会するを忌みて(殊に妊婦)道を避く。而して二人は嶽中に入り祈祷を行ひたる後、白衣を抜きて裸体となり、酒饌(ミキ)を以て其髑髏を洗浄し白布巾にて拭去る。是彼らの祖先より伝はりし神秘的祭祀なり。(「沖縄県国頭郡誌」)(p.318)

 これを伝承した島は古宇利島で、「宮古口」とはマーハグチは、もっとも重要視された御嶽である。ここには、「むかしむかし古宇利島に男女二人の童子ありき。二人共裸体にして愧づる色なく天真爛漫にて毎日天なる神様より下し賜ふ餅を戴きて暮し居たり(p.317)」という導入部の始祖神話があるが、御嶽内の「二個の髑髏」は、始祖である男女二神のものと擬定されていると考えられる。この祭儀に臨むのはミチ・マーイ神と呼ばれる女性神役である。

 二人の女性神職が、三日間の精進潔斎の経て御嶽に入り、祈祷を行った後、白衣を脱ぎ裸体になって、二個の髑髏を神酒で洗うという行為に、ぼくたちはグロテスクさとエロティックさを感じるが、グロテスクさは偏見であるとしても、エロティックさの方はそのものの意味が込められていると思える。二人の女性神職は、始祖に倣って裸体になったのではなく、性的な意味で裸体になっていると考えられる。裸体になり神酒で髑髏を洗い拭うのがここにおける性的な行為であり、幻想の性行為の核心にあるのは、始祖神からの霊威の継承である。二人の女性神職が行為の対象にしているのは、物質的には髑髏だが、本質的には始祖神話に根拠を持つ古宇利島の共同幻想である。古宇利島の共同幻想から霊威を継承するというのが、この祭儀の持つ意味なのだ。

 添い寝が、霊魂の力が旺盛な者と衰退した者との間で演じられたものが、霊魂の転位より霊威の継承に比重を置いた時、霊威の源泉とその継承者との間で演じられる天皇霊の側面が前面に出てきているのが分かる。

 ぼくたちはさらに、霊魂の転位と霊威の継承において、霊威の継承のみが意味を持った祭儀に出会うことができる。それは、祝女(ノロ・ツカサ・カミンチュ)の誕生の儀式だ。

 明治40年頃、当時12、3才の、島せんこあけしののろの継承祭儀では御嶽で行われている。その中核に当る場所を抽出すると、11時頃、御嶽に到着する。そして、「水撫で」として、神前に供えた水を四回、祝女の額につける。次に、「神霊(せじ)づけ」として、洗米を三粒程つまんで頭にのせながら、「島せんこあけしののろ」と神名を唱える。そして「神酒もり」。神酒を神前に注ぎ、残りを祝女に供し、神人も相伴する。それから2時頃まで、オモイを唄うが、三時頃になると、「神と共に寝る」。筵を二枚敷き、左に祝女は寝る。右は神の座と言われている。祝女となるべき女性は、御嶽のなかで一泊するのである(「沖縄の民俗と信仰」島袋源七)。

 ここでは霊威の継承が露わになるとともに、古宇利島の御嶽における祭儀より性的な意味もより露わになっている。神女の候補者は、神との幻想的な性行為を経て神女になる。幻想的な性行為によって得るものが神女としての霊威の継承に他ならない。そして、霊魂の力の旺盛な者と衰弱した者との間で演じられた添い寝は、霊魂の転位ではなく、霊威の継承が前面に出てきた時は、もはや添寝というより共寝と言うべきものだ。

 酒井によれば、石垣島の川平や西表島の古見では、祝女誕生の過程をヤマダキと呼ぶ。「ヤマはお嶽のことで、お嶽を抱くこと、つまりお嶽の祖霊との神婚の意味をあらわしている」(p.70「祝女の独身制をめぐる諸問題」)が、宮古島において死者との添い寝を「抱きとまうず」と呼び、祝女の継承の儀式を「やま抱き」と呼ぶのは、これらが連続した思考の産物であることを示唆するように思える。

 祝女の継承において、神との共寝は積極的な意味を露わにしている。そしてここに留まらない。琉球王朝のが制度化した聞得大君の継承祭儀も、ほぼ祝女の継承祭儀と同型を取るのだ。山内盛彬の「聞得大君と御新下り」によると、その祭儀の中核においても、「水撫で」、「神霊(シジ)づけ」、「神酒(ミキ)盛り」を行い、午前三時頃、神との共寝を行う。

 午前三時頃儀式がすむと、一同夜食の後、大君は御待御殿に入り、金屏風をたて廻した室に休まれる。その時筵を二枚しき、黄金枕を二つ用意する。それは地上の神となった大君が、この夜天の神を迎えて神人結婚をするに当たってのお二人の用土品である。

 演出が華美になってるとはいえ、その行程は祝女の継承祭儀と何ら変わらない。最高神女としての聞得大君は、祝女の継承祭儀における共寝を核心に据えて自身の即位儀礼のなかに取り込んだのだと言える。

 このように辿ってくると、知られているように、神との共寝が天皇の即位祭儀である大嘗祭においても同様であることには、改めて驚くものがある。悠忌殿・主基殿に八丈畳の上に寝具が二枚敷かれ、天皇は寝具にくるまって寝るのである。鳥越憲三郎は、かつては献上された女性と具体的な性行為が行われたと考えられるとしている。(『大嘗祭―新史料で語る秘儀の全容』)。

 霊魂の転位を主眼とした添い寝という習俗は、霊威の継承として変奏され、神との一体化を主眼とする共寝へと祭儀化されたのである。そして、祝女のみならず、聞得大君と天皇の即位においても、共寝が共通しているということは、神との性的行為という擬制が普遍性を持つことを意味していると思える。

 なぜ、性的な行為が中核になるのか。このことを本質的に考察したのは吉本隆明だ。

 悠忌、主基殿の内部には寝具がしかれており、かけ布団と、さか枕がもうけられている。おそらくはこれは〈性〉行為の模擬的な表象であるとともに、なにものかの〈死〉と、なにものかの〈生誕〉を象徴すするものといえる。
 西郷信綱は「古代王権の神話と祭式」のなかで、天皇はこの寝具にくるまって、胎児として穀霊に化するとともに、〈天照大神の〉として誕生する行為だと解している。折口信夫は「大嘗祭の本義」のなかで、天皇が寝所でくるまって〈物忌み〉をし、そのあいだに世襲天皇霊が入魂するのをまつため、ひき籠もるものだと解してている。
 しかしこの大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも〈抽象化〉されているため、どんな意味でも西郷信綱のいうような穀物の生成をねがう当為はなりたちようがない。また折口信夫のいうような純然たる入魂儀式に還元もできまい。むしろ、神とじぶんを異性〈神〉に擬定した天皇との〈性〉行為によって、対幻想を〈最高〉の共同幻想と同致させ、天皇がじぶん自身の人身に、世襲的な規範力を導入しとようとする模擬行為を意味するとかんがえられる。(『共同幻想論』

 添い寝が共寝に転化する途上で、神女が始祖に擬定された裸体で髑髏を洗う行為を見てきたぼくたちは、共寝が性行為の模していることに頷くことができる。祝女、聞得大君jの継承も大嘗祭も、男女神の片方に自分を置き、対幻想を共同幻想に同致させたということだ。

 この同致は、母系社会における対幻想と共同幻想の同致とはまるで異なっているのに気づく。母系社会においては、兄弟姉妹の対幻想の永続性と空間的な拡大に耐える強さをもとに、「われわれは一体」であるとして共同幻想と一体化させていた。「われわれは一体」であるとは共同幻想でもあれば島人が発することができる言葉でもあった。だが、祝女、聞得大君の継承と大嘗祭においては、対幻想はあからさまな男女神のものであり、同化し一致された共同幻想は、むしろ共同幻想のもとにいる人々に顔を向けている。そして、「わたしは神である」と言っている。神話はそのもとに生きる人々に存在の根拠になる物語を与えたが、ここではそれは規範力として機能することになるのだ。これが添い寝という霊魂の転位をめぐる習俗が祭儀として共寝に変容した時に持った意味である。

 ぼくたちは大和と歴史を遠くしてきた琉球弧が、近代化の途上において、なぜ過剰なまでに天皇制に取り込まれてきたのか、非日本人という疎外の打ち消しのための自己喪失という面は理解できても、それでも解けないものが残る不思議さを感じてきた。しかし、ここまでくると、添い寝を原型とした霊魂転位の習俗を、神との共寝として共同祭儀化した規範力において、聞得大君と天皇は同質のものだという背景に辿りつくことができると思える。

 しかし、現在にいるぼくたちは、規範力に転化した共寝は、霊魂の転位としての添い寝まで解体させることができるのである。

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