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2014/07/07

兄妹論 メモ

 母系社会の根拠を明確に示したのはマリノフスキーだ。彼は、1910年代の後半、ニューギニアの東方のトロブリアンド諸島の原住民を観察するなかで見出している。

 トロブリアンドの社会では、子供は長じると、両親以外に、母の姉妹、つまり伯叔母も「母」と呼び、「父」の兄弟、つまり伯叔父も「父」と呼ぶようになる。兄弟姉妹についても同様で、いとこに対しても、兄弟や姉妹の呼称で呼ぶようになる。この呼称は、親族、氏族のある範囲までは拡げて使うのだ。

 子供は、実の母を「母」と呼ぶ時と母の姉妹を「母」を呼ぶ時とで、きちんと区別して使う。どうやってかといえば、感情的抑揚、前後の関係、言い廻しでその違いを表す。子供は文脈や音を変えて、同じ言葉なのに、実の「母」と伯叔母の「母」を混同せずに使い分けるのだ。

 マリノフスキーは、これは語彙の貧困に由来するものではないことを強調している。トロブリアンドでは、同音異義語がとても多いが、それは比喩なのだという。そしてこの比喩は、言葉の呪術的な機能の側面を持っていると洞察している。たとえば、彼らは青空を比喩的に「黒い雲」と呼ぶが、それは旱魃に雨をもたらすのを期待する呪術的な意味を持っているのだ。これは、伯叔母を「母」と呼ぶ時、それは実際の「母」と同じ役割を担いうることを意味していると思える。

 子供にこの使い分けを覚えさせるのは大変なことだが、子供の方からみれば、一度覚えた「母」という言葉に、新しい意味を加えるのは難ししことであり、それは父と母を中心した家族だけでなく親族や氏族の一員にもなる時に乗り越える壁のことを示している。

 ぼくたちはここで、琉球弧における「をなり」という言葉の使い方について思い当たる。伊藤幹治は「八重山群島における兄妹姉妹を中心とした親族関係」(1962年)のなかで、鳩間島の播種(はしゅ)儀礼の過程で祈願が済むと、火の神に供えたもち米を食べ分けするが、その時、最初に手をつけるのは戸主の姉妹であることが原則であると書いている。では、もし戸主の姉妹がいない場合はどうなるのか。伊藤はその例を挙げている。

 姉妹が不在の場合は、父の姉妹(伯母、叔母)が代行する。姉妹も父の姉妹もいない場合は、父の兄妹の娘、つまり従姉妹が代行する。このどれもいない場合は、自分の直系の孫娘がその任に当たる。これ以外にも、姉妹が遠隔地にいたり死亡していたりする場合は、当人の配偶者(妻)になるし、姉妹が幼少の場合は、父の姉妹(伯母、叔母)が代行することもあるという例を挙げている。

 この例は、トロブリアンド諸島における呼称の拡張と通底していると思える。「をなり」に当るものが姉妹を軸に親族のなかで比喩として拡張され、かつ拡張されていくなかで、その役割が実際の姉妹と同等の意味を持つことが示唆されているのだ。このことは、「をなり(神)」という言葉が実際の姉妹だけではなく、恋人や妻などのさまざまな男女関係に用いられることがある根拠になっているものだと思える。

 「をなり神」という言葉に象徴されるように、琉球弧の母系社会の遺制を大きく残しているが、その母系社会の根拠とは何か。

 トロブリアンド諸島では、子供は父と母のもので生まれ育てられるが、子供が長じると、父は自分と同じ氏族ではないことを知り、代わって母の兄弟、つまり伯叔父が父の役割を担うようになる。成長につれて、家族のもとを離れ、伝承や神話を教わり共同の若者宿に入るが、その過程で母の兄弟の影響を受けて氏族生活に入っていくのである。ただし、家は父方のもとに依然としてあり、もともとの家族の紐帯が壊されるわけではない。

 母の兄弟が父の役割を担うということ、言い換えれば実の父の役割が後退することにはどんな背景があるのか。マリノフスキーの観察によれば、それは父と母の性交により母が妊娠し出産するという知識がないからだ。トロブリアンドでは、子供は母方の祖先の霊魂が再生したものだと信じられており、父と母の性交は子供の誕生には関わりがないとされているのだ。

 たとえば、父の長期の留守の後に、子供が生まれていたとしても、父は喜びこそすれ、そこに母と別の男性との交渉はゆめゆめ思っていない。マリノフスキーは、そのことを単に観察するだけではなく、子供は性交の結果ではないかということを彼らに伝えてみるが、驚かないばかりか、それは嘘だとして積極的に反論されている。しかも、猛烈に、だ。クラヤナという女性は「非常に醜いので」、男は誰でも彼女と性交するのを「恥じて」いて、誰にも劣らず「純潔」であったにもかかわらず六人以上の子供を持っていた、というように。だから、これは単純に知識に欠けるというのではなく、性交による妊娠、出産という認識を受け容れないということなのだ。祖先の霊魂の転生という観念は、彼らの生死を含む生活のなかでの信仰にしっかり組みこまれているので、単なる知識は跳ねつけられてしまうのである。

 この男女の性交による妊娠、出産という認識の欠如、あるいはそれを受容しない信仰が、母系社会の根拠なのだ。ぼくたちは、男女の性交により子供ができることを知っている。けれど一方、祖先の霊魂の転生という観念を信じるわけではないまでも馴染んでいる。この、馴染みや親しみの背景に、この認識の拒否、あるいは欠如があるのを知って驚くとともに、理解できるような親しみを覚える。ここには、心動かされもすると言ってもいい。

 ところで、子供の成長に伴う父の後退の背景にはもうひとつ重要な要素が含まれている。父が後退すると同時に、表に現れるのは母の兄弟だった。つまり、兄弟と姉妹の関係である。なぜ、兄弟と姉妹の関係が前面に現れるのか。

 兄弟と姉妹の関係の特異性をヘーゲルは洞察している。

 夫婦の関係と親子関係は、関係をなす両項が感情的に交流するか、等しくないありかたをするかの、いずれかである。これにたいして、純粋な関係にあるのが兄弟と姉妹の関係である。兄弟と姉妹は同じ血を受けていながら、その血が両者のあいだで安定と均衡を保っている。だから、どちらも相手を求めたりしないし、自分の自立性を相手にあたえたり、相手から受けとったりもしないで、自由な個人としてむかいあっている(p.308)。

 兄弟というものは姉妹にとって安定した対等の存在であって、両者のあいだの相互承認は純粋で、自然な関係が混じりこんではいない。だから、この関係にあっては、個がどうでもよいと考えられることはないし、個の共同体的な価値が偶然に左右されることもない。個としての自己が相互に承認されるさまは、血縁上の均衡が保たれていることからしても、両者の欲望が入りこまないことからしても、まさに利にかなったものということができいる。だから、兄弟を失うことは姉妹にとって埋めあわせるようのないことであり、姉妹の兄弟にたいする義務こそ最高の義務である(p.309『精神現象学』G.W.F. ヘーゲル、長谷川宏(訳)))。

 兄弟と姉妹は、夫婦のように「どちらも相手を求めたりしないし」、親子のように、「自分の自立性を相手にあたえたり、相手から受けとったりもしないで」、「自由な個人としてむかいあっている」。血縁という近しい間柄でありながら、「両者の欲望が入りこまない」ので、「個としての自己が相互に承認されるさま」は「純粋」である。だから、「兄弟というものは姉妹にとって安定した対等の存在」である。

 このヘーゲルの洞察を引き継いだのは吉本隆明だった。

 ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の〈対なる幻想〉のうち〈空間的〉な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである。兄と妹、姉と弟の関係だけは〈空間〉的にどれほど隔たってもほとんど無傷で〈対なる幻想〉としての本質を保つことができる。それは〈兄弟〉と〈姉妹〉が自然的な〈性〉行為をともなわずに、男性または女性としての人間でありうるからである。いいかえれば〈性〉としての人間の関係が、そのまま人間としての関係でありうるからである。それだから〈母系〉性社会のほんとうの基盤は集団婚にあったのではなく、兄弟と姉妹の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致するまでに〈空間的〉に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる(p.162)。(p.164『共同幻想論』吉本隆明)。

 兄弟と姉妹の関係は性的な行為なしに、男女の関係に象徴されるような対としての関係を持つことができる。それは永続的であるがゆえに空間的な拡大にも耐えることができる。そしてそれこそは母系社会が親族を展開するときの根拠になったものだ。ぼくたちは母系社会の根拠を見てきたが、ここで母系社会の本質を知ることができる。

わたしのかんがえでは〈母系〉制の社会とは家族の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致している社会というのが唯一の確定的な定義であるようにおもえる。

 対幻想が共同幻想に同致するというのは、本来異質なものである対幻想と共同幻想を同一のものとして一致させるということだ。「わたしたちは家族である」という対幻想を、「われわれは家族である」という共同幻想にまで拡大したということだ。

 ここで「家族」という言葉には、現在の語感に付着した意味をまとわせるとしたら言い換えることもできる。マリノフスキーはトロブリアンドの島人の口にのぼった「兄弟姉妹は同じ肉体でできている。彼らは同じ母から生まれたものであるから」という言葉を書きとめているが、それにちなめば、「われわれは同じ肉体」である、あるいは「われわれは一体である」と言ってもいい。この、「われわれは一体である」ということが共同幻想でもあったということが母系社会の本質なのだ。

 ぼくたちは琉球弧もかつて兄弟姉妹が親族展開の梃子になった母系社会であったことを、兄妹が始祖になる伝承や説話、神話のなかに見出すことができる。それは琉球弧全域に分布しているものだ。

 島コーダ国コーダが島を建設して、島は建設したが島が地揺れし、土がぐらついて、此処踏めば彼処上がり、彼処踏めば此処上り、仕方がないので神に相じた(相談した)。相じた処が神様が言われる。汝程の島コーダ国コーダ、その位の事が分からなかったのか、東の岸には黒石置け、西の岸には白石置け。国は建設したが、人間造ることができない。又神に相じた。神様は、土で仏様のごと造って息を込めれば人間ができる、と言われる。
 人間は造ったが、子の出来るような方法は如何であろうか。又神様に相じたい。神様が言われる。えけが(男)の家は風上に造れ、女子の家は風下に造れ。造った処が、風上の男の息が、風下の女の息にかかって、子が出来るようになった。(岩倉一郎、沖永良部島)
仲のよいフナキー(兄と妹)がいた。兄と妹と二人で小舟に乗った。舟は、凪であったが海の上をすべるように進んだ。海の真中で小舟のハジ(かじ)がひっかかってしまった。そこは瀬になった。海水は、左、右と前後にひいて大きな浅瀬になった。そしてたちまち島になった。二人はオーテントーサマ良い島を産みくださり感謝しますと拝む。兄は”良い島だ”妹は”よい島”にしようと話す。二人は、たいそう喜び家を建ててそこを国垣と呼んだ。ある日天を飛んでいた二羽のホートイ(白鳥)が夫婦のちぎりを結んだのをみて、フナキーはおどろきまねて仲むつまじく暮らしているうち、たくさんの子が生まれる。その子孫は、島一杯になり盛んになった(栄喜次郎、与論島)。
むかしむかし古宇利(フイ)島(運天港の入口にある小さい島)に男の子と女の子が現われた。二人は裸体でいたが、まだこれを愧ずるという気は起らなかった。そして毎日が天から落ちてくる餅を食って無邪気に暮していたが、餅の食い残しを貯えるという分別が出るや否や、餅の供給が止まったのである。そこで二人の驚きは一通りではなく、天を仰いで、
 たうたうまへされ、たうまうまへ(お月様、もしお月様)
 大餅ちやと餅お賜べめしよれ(大きい餅を、太い餅を下さいまし)
 うまぐる拾うて、おしやげやべら(赤螺を拾うて上げましょう)
と歌ったが、その甲斐も無かった。彼等はこれから労働の苦を嘗めなければならなかった。そして朝な夕な磯打際でウマグルなどをあさって、玉の緒を繋いでいたが、或時海馬の交尾するのを見て、男女交媾の道を知った。二人は漸く裸体の愧ずべきを悟り、クバの葉で陰部を隠すようになった。今日の沖縄三十六島の住民はこの二人の子孫であるとのことだ。(伊波普猷「お隣りのお婆さんから聞いた話」)
昔々大昔のことヴナゼー兄妹があった由。或る晴れた日のこと外の人々と共に野良に出て畑を耕していると、にわかにはるか彼方の海から山のような波がよせて来るのを見つけ、兄は妹をいたわりつつ高い岡にのぼって難をしのいだとのことである。周囲見まわして見ると人は一人もなく地上に一切のものと共に津波にさらわれてしまった。兄妹は致し方なく草のいほりを作り妹背のちぎりを結んだのであった。そして二の間から先づ一番初めに生れたものはアジカイ(シャコ貝)で、その次に始初めて人間の子が生れて、これからだんだんひろがってこの島一ぱいに人々が繁昌したと云うとのことである。島人は今ヴナゼー御拝(オガン、一種のお宮)を二人を島立ての神として祭ってある。(宮古島)
アマン神が、日の神の命で、天の七色の橋からとった土石を大海に投げ入れて、槍矛でかきまぜて島を作り、さらに人種を下すと、最初にやどかりがこの世に生れ出た。地中の穴から男女が生れた。神は、二人を池の傍に立たせ、別方向に池をめぐるように命じた。再び出会った二人は抱き合い、その後、八重山の子孫が栄えたという。(石垣島白保)
むかし天にアマミクという神がいた。天帝は地上におりって島をつくれと命じたので、マミキクがおりてみると、霊地のようにみえたが、東の海の浪はうち寄せては西の海へ越えてゆき、西の海の浪はうち寄せて東の海へ越えていた。アマミクは天帝に土石草木を給わりたいといって、もらいうけて島々の御嶽と森をつくった。数万年たっても人がいないので、アマミクは天帝のところへゆきひと種を乞うた。天帝はじぶんの男女の子をくれた。この兄(弟)と妹(姉)神は性的な結合はしなかったが、住み家がならんでいたので、ゆききして吹く風をなかだちにして、女の神は受胎した。そして、三男二女を産んだ。長男は国王の始祖で天孫氏といった。二男は諸侯のはじめ、三男は百姓のはじめ、女は聞得大君のはじめ、二女はノロのはじめになった。(『中山世鑑』)

 ここで、始祖が兄妹であることは石垣島の伝承のみが明示されていなかったり、宮古島と石垣島では、はじめは子供の作り方をしらなかったのことは触れられておらず、代わりに最初に産んだのが、宮古島は「シャコ貝」、石垣島は「やどかり」ということが強調されていたりという特徴はさまざまだが、一対の男女から人間の歩みが始まったことは貫徹され、その一対が石垣島を除けば兄妹であることが明示されている。

 子供の作り方は、「海馬の交尾するのを見て」、「二羽のホートイ(白鳥)が夫婦のちぎりを結んだのをみて、フナキーはおどろきまねて」と、古宇利島と与論島の伝承や説話が繊細さを残している。『中山世鑑』では「ゆききして吹く風をなかだちにして」と、抽象化とおすまし化を受けている。また、沖永良部島では「風上の男の息が、風下の女の息にかかって」と、さらに抽象化が進んで、童話の趣きも持っている。

 ぼくたちはここに琉球弧が母系社会であったことを認めることができるが、同時に、最初に生まれたのがやどかりやシャコ貝であったり、性交の仕方を「海馬の交尾するのを見て」、「二羽のホートイ(白鳥)が夫婦のちぎりを結んだのをみて、フナキーはおどろきまねて」など、動物に教わったりする、その島人の視線のなかに、自然を擬人化し、動植物と人間とを区別せず同じものと見なした人間観、自然観が宿っているのを見出すことができる。これはある意味でとても豊かな感じ方ではないだろうか。

 それとともにひとつの疑問を抱かせる。それは男女の性交が子供を産むことにつながることを、これらの伝承や説話、神話は盛り込んでいることだ。いままで見てきたように、母系社会は、男女の性交が子供を孕むという認識の無いこと、またはその認識を受容しないことを根拠に成立したことを見てきた。しかし、琉球弧の伝承や説話、神話が語ることを踏まえれば、その認識を受け容れた後にも母系社会は続いたことを意味している。言い換えれば、兄妹が始祖になる琉球弧の伝承、説話、神話は、性交と出産の関係の認識の後に創られたものだということだ。そしてそうなら、それ以前の伝承、説話、神話があったということを意味する。

 ここでも、マリノフスキーは示唆を与えている。 

原住民の伝承にれよれば。人類は地下から発生した。そしてその地下から、兄と妹とのひと組が異なった特定の場所に現われたのである。若干の伝承では、女性だけが最初に現われている。(中略)さて、兄妹を伴うか、伴わないかは別として、最初の女子は常に夫あるいはその他の男子の伴侶者なしに子供を産むと想像されている(p.150『未開家族の論理と心理』)。

 トロブリアンドにおいても始祖は兄妹である。しかし二人は地下から別々の場所に現れ、かつその妹は性行為なしに子を生むと伝承されているのだ。これは、男女の性交は子の出産には何の関係もなく、先祖の霊魂の転生であるという母系社会の根拠と矛盾なく整合されている。ぼくたちはここから琉球弧の兄妹始祖の伝承や説話、神話の原型を遠望することができるだろう。

 母系社会の進展のなかで、子の誕生を、祖先の霊魂の再生という信仰その外に、男女の性交の結果という認識を受け入れたこと、受け入れる過程は大きな衝撃が伴ったと思える。世界観を覆しかねない認識の転換を含むからである。霊魂の転生という信仰は捨てられない。しかし、性交の結果の子生みという観念を組みこまなければならない。こうした矛盾を背負い、それに応えようとしたのが、白鳥や海馬の交尾をまねるという性行為の間接化なのではないだろうか。人類の歴史のなかで、人間が性行為を知らなかった時代はない。そうだとしたら、はじめ性交を知らなかったという口頭伝承は、ほんとうは性交の結果、子供が生まれることを知らなかったことの虚構化、物語化なのだと思える。

 トロブリアンド諸島においても既に兄妹婚は禁忌になっている。子の成長につれ後退する父も、妊娠から出産までは、妻と同様に、その期間に特有のタブーを守り、儀礼をとり行う。しばしば夫婦間の精関係も禁止される。その上、夫は陣痛と出産の状況をまねる行為を行ってまで、妻に寄りそうこともする。子が生まれるためには二人は夫婦でなければならない。子が氏族のなかで認知を受けるには、二人は結婚していなければならないのだ。この父の役割の重要性をトロブリアンドの島人は、「子供を両腕に抱きとる」存在と表現している。

 母系社会の親族が母とその兄妹の関係を梃子に展開するなら、妊娠から出産までの役割を母の兄弟が担うことはないのだろうか。マリノフスキーは明確に否定している。「彼女は自分の兄妹の中に自然なる主人および保護者を有している。しかし、兄弟は、彼女が守護者を必要とする全部にわたって彼女の面倒をみる地位にあるのではない(p.175)」。妊娠中、女性は「男から心をそらす」必要があるが、「厳格な兄弟姉妹のタブーのために、彼は彼の姉妹の性に関することを考えることすら慎重に避けなければならなからである(p.175)」。

 母系社会は、親子婚はもちろん兄妹婚の禁忌のうえに展開され、兄妹姉妹の関係を梃子に親族や氏族を生みだしていく。だから、兄妹始祖の伝承や説話、神話における兄妹の性交の語りは、幻想上の観念上の行為であり、母系社会の本質を言い当てた行為であることを語っているのだ。

 ぼくたちはここに、母系社会の根拠の深さと長さを知るとともに、「をなり神」の根底の深さを知ることになる。

『精神現象学』(G.W.F. ヘーゲル、長谷川宏(訳))


『共同幻想論』(吉本隆明)


  

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