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2014/07/22

『大嘗祭の成立』

 ぼくたちは琉球弧の死の前後の添い寝の習俗が、天皇霊の継承において祭儀化されていると考えたが(cf.「添寝論」)、谷川健一は『大嘗祭の成立』のなかで、同様のことに着眼している。

十数年まえ岡本惠昭から聞いたところでは、宮古島の砂川、友利、新里などでおこなわれる肉親の夜伽は「抱きとまうず」と呼ばれた。「抱きとまうず」は「死者を抱きながら泊まる」という意味で、蚊帳をつった中で死者の母や配偶者が寝床を故人の傍らに並べ、添い寝をし、「魂よばい」や「シノビゴト」をしてながら、夜を明かすことを指していた。それは死者への親愛と悪霊への警戒を兼ねたものであった。蚊帳は裳であり、その中は喪屋を意味していた。蚊帳の中には悪霊は入りこめなかった。大嘗祭のときの悠忌殿の「まどこ・おふすま」(真床襲衾)の秘儀も、それと関連あるかと私は考える。宮古島の「魂よばい」は蚊帳の中が喪屋であり、モガリ(仮喪)の状態であることを前提としている。死者の魂が屍体から離れてしまったあとでは、いくら「魂よばい」しても効き目はないのである(p.129)。

 そして、この「添い寝」は「大嘗祭のときの悠忌殿の「まどこ・おふすま」(真床襲衾)の秘儀」の古型であると想定している。

 (前略)遊部は従来信じられているごとく死者の魂をなぐさめる役をするのではなく、死者の魂の復活の儀礼に一役買ったことが多分にあったと思われる。しかもしれは死者の魂が死者の身体に残っている間に、その魂の威力を生者につけることが目的であったとも類推されるのである。おほみまというのは天皇の身体のことである。ここで折口は先帝がまだもがりの宮にいるときに、先帝の身体と新帝の身体とが交換するということを述べている。この交換というのは身体が入れかわるという意味ではなく、おそらく天皇にふさわしい威霊を先帝の身体から新帝の身体に移しかえる儀礼のあったことを意味する。それに必要な儀礼が「まどこ・おふすま」である。観念の上にしろ、先帝の骸と同衾するということが「まどこ・おふすま」の本義であるとすれば、きわめて古い時代には、先帝が「もがりのみや」(殯宮)にいるとき大嘗祭がおこなわれていたとしてもおかしくないはずである。大嘗祭のあとにひきつづいて即位式のある方が理に叶うわけである(p.175)。

 ここまではぼくたちの仮説と共振している。それではなぜ、大嘗祭は先帝の死に際してではなく、時を定めて行うようになったのか。それは「大陸からの文字暦導入の時期と深い関係が」あり、

冬至に魂の復活を待ち望む古くからの民間の習俗をふまえ、暦の上での新年との時間的距離が近い頃に、王位継承うの儀式の日を選んだと思われる。しかし冬至は毎年日が動くので、干支によって一一月中卯に大嘗祭をおこなうと定められた(p.220)。

 ところで谷川は別のことも主張している。むしろ、そちらの方に力点がかかっている。それは「まどこ・おふすま」における「共寝」を聖婚と解することの否定である。

 采女は本来的な神の妻としての資格をもっていた。したがって天皇は采女と同衾することによって、その宗教的な力をとりこもうとしてことは疑い得ない。新嘗祭の酒宴のあとに采女との同衾がおこなわれたかも分からない。だからといって、天皇と采女の同衾が穀霊の死と再生の模擬行為であったとし、それをもって大嘗祭の「まどこ・おふすま」の儀に延長しようというのは、まったく架空の想像であり、論拠がない(p.158)。

 采女は「きわめて地位の低い」者が聖婚の相手をしたとは考えられない、というわけだ。

 では、「まどこ・おふすま」における「共寝」とは何なのか。谷川によればそこには四重の意味が背負わされている。

(一)初穂儀礼のとき新しく生まれた稲魂のすこやかな生育を促すために添い寝をすること。
(二)冬至の日の魂の衰えを克服して活力をよみがえらせるために、その前段として喪をかぶること。
(三)密閉した室に籠って誕生すること。
(四)モガリの死者と同衾してその威霊をひきつぐこと。
これらが複合した儀礼が大嘗祭の共寝の儀である(p.120)

 谷川の考えに従えば、古くは(四)であったものが死に際して行われなくなり、(一)の意味は強く残ったということになる。谷川は大嘗祭は新嘗祭を取りこんでいると考えている。新嘗祭の原型は初穂儀礼である。

 私は初穂儀礼(スコマ・シキョマ・シイクマ)の日こそ、もっとも古い新嘗の日であった。その日の行事は次の箇条に記すことができる。 (一)一家の主婦が田から初穂を家にもちかえる。
(二)その初穂を主婦が寝具にくるんで添い寝をし子稲の誕生とすこやかな生育を見届ける。
(三)初穂を炊いて神に供える。
(四)そのあと家族や親戚にも頒けて食べる。
このうち(二)はインドネシアには見られて日本にはないが、私の推測では、そえrが大昔の新嘗の夜の主婦の物忌みの実体であったと考えられる。生まれたばかりの米の嬰児(稲魂)を見守るのは、産褥にある女の気持ちと変わりはなかった(p.112)。

 初穂儀礼の原型に、主婦による初穂との添い寝を見るのは、説得力を感じる。しかし、「まどこ・おふすま」における「共寝」は、さらに進んで男女であることが意味を持つと思える。このことを原理的に考察しているのは吉本隆明だ。

 吉本は部族の共同幻想が対幻想と同一視されるのに二つの段階を想定している。

 まず、意図して穀物を栽培することに習熟したとき、自然を生成として流れる時間の意味を意識した。

いままで女性が子を産み、人間が老衰し、子が育つことに格別の意味注意をはらわなかったのに、人間もまた自然とおなじく時間の生成にしたがうんを知ったのである。まずこの〈時間〉の観念のうち、かれらには女性だけが子を産むことが重要だった。いかえれば〈対〉幻想のなかに時間の生成する流れを意識したとき、そういう意識のもとにある〈対幻想〉は、なによりも子を産む女性に所属した〈時間〉に根源を支えられていると知ったのである(p.194『共同幻想論』)。

 この時期はやがて別の観念にとって代わられる。それは、穀物の栽培と収穫と、子を産み育てる時間制のちがいを意識したときである。

 このように穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、分娩し、男性の分担も加えて育て、成人させるという時間性の違うのを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の〈対〉幻想とのちがいを意識し、またこの差異を獲得していったのである。もうこういう段階では〈対〉幻想の時間性は子を産む女性に根源があるとはみなされず、男・女の〈対幻想〉そのものの上に分布するとかんがえられていった。つまる〈性〉そのものが時間性の根源になった(p.195)

 この時間性の違いの意識のために対幻想と共同幻想を同一視する観念は矛盾に晒される。それを人間は農耕祭儀として疎外する他に矛盾を解消する方途はなくなった、としている。

 ぼくは、ここで男女の性交が子を産むという認識の獲得と受容という大きな衝撃があったのではないかと考えるが、吉本の思考を辿れば、「女性が産むことの重視」から、「男女の性そのもの重視」への移行をみることができる。

 そして谷川がインドネシアに見た「主婦による初穂との添い寝」が、「女性が産むことの重視」の段階にあることを理解するのである。そして、大嘗祭のある段階では、既に男・女神が想定される段階にあり、祭儀も「男女の性そのもの重視」に移行していると考えられる。だから、「まどこ・おふすま」における「共寝」とはやはり性的なものである。

 谷川は、神である天皇と采女との聖婚として捉え、これを退けるが、これは、神と異性神に擬した天皇の共寝であることが本質的な意味であり、その代理を采女とした時期があったかもしれないというだけのことである。采女が聖婚に臨んだわけではないのである。

 谷川は、「主婦による初穂との添い寝」が、大嘗祭においては演じ手が男性であることについて、習俗を「素材」にして新しい「配置」にした作為を見ているが、ぼくたちの考えでは、「添い寝」であるとしたら、それが女性であることは本質的なことであり、この作為は矛盾したもので、行われるはずがないと考えられる。大嘗祭においては、すでに「添い寝」ではなく、「共寝」の意味に変容していたのである。


『大嘗祭の成立―民俗文化論からの展開』

『共同幻想論』


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