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2014/07/20

琉球弧の死の三角形

 折口信夫が言うように、「生と死の区別がはっきりしては居なかった」、「生死が訣らなかつた」のである。しかし、これは、現在ははっきりしているという意味ではない。今はいまで、専門家は脳死を死であると見なし、ぼくたちは医者の「ご臨終です」のひと言をその合図と見なすような、中途半端な割り切りをしているに過ぎないといえば言える。

 ただし、思想のなかではミッシェル・フーコーが、究極的には全細胞の死滅であるところまで死を追い詰めている。

死の部分的、または進行的な諸現象は、いかなる未来をも予断させない。これらは成就しつつある一つの過程を示すだけのものである。卒中の起ったあとで、動物的機能の多くは自然に停止し、したがって、死は、これらの機能にとってはすでに始まったものだが、諸器官の機能は、それに固有な生命を保ち続ける。その上、この動きつつある死の中途の段階は、疾病形態だけに、それほど沿って行くものではなく、むしろ生体に固有な、抵抗の少ない線に沿って進行するのである。これらの過程は、病気の致死性を、付随的なやりかたでしか示さない。これらの語るところは、死に対して生が浸透性を持っている、ということである。ある病的状態がつづく場合、「死化」によって最初におかされる組織は、いつも、栄養が最も活発なところ(諸粘膜)である。次には、諸器官の実質で、末期においては、腱や腱膜である。
 こういう次第であるから、死は多様なものであり、時間の中に分散しているものである。それを起点として、時間は停止し、逆転するというような、かの絶対的な、特権的時点ではない。死は病そのものと同じように、多くのものが集まっている存在であって、分析によって、時間と空間の中に配分されうるものなのである。少しずつ、あちこちで、結び目の一つひとつが切れ始める。少なくとも主な形においては、生体の生命が停止する。というのは、個人の死のずっと後まで、生命の小さな島が諸所に頑張っているのを、今度は極く小さい、部分的な、いくつかの死がおそって、解体させることになるからである。自然死においいては、動物的な生命がまず消える。最初に感覚の消滅、脳の衰弱、運動の減弱、筋肉の強直、その収縮性の減弱、腸管の準麻痺、最後に心臓の鼓動の停止。この継続的な、いくつかの死の時間表に、空間的な表を加えなくてはならない。それは生体の一点から他の点へと連鎖状にもろもろの死をひきおこす相互作用の表である。(ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生』

 これは西洋的な医学が死を微分化し可視化できるところまできた達成を語るものである。しかし一方で、「死化」の過程をかつての島人も見守っていたと思える。「最初に感覚の消滅、脳の衰弱、運動の減弱、筋肉の強直、その収縮性の減弱、腸管の準麻痺、最後に心臓の鼓動の停止」という過程について、特に「腸管の準麻痺」のような身体内で起こっていることは分からなくても、抱いたり起したり大声で呼びかけたり、身体に触れることを通じた臨床によって、微細な変化を知っていたのではないかと思わせる。死の時間的な推移だけでなく、その身体内での空間的な広がりについても。

 フーコーが追い詰めた場所で得られるのは、死から照射される視線である。

 生、病、死。この三つは今や技術的にも概念的にも三位一体となる。何千年もの昔から、人間は生の中に病の脅威をおき、病の中に間近な死の存在をおいて、つねにその思いにつきまとわれて来たのだが、その古くからの連続性は断ち切られ、その代わりに、一つの三角形の形象があらわれ、その頂点は死によって規定されている。死の高みからこそ、ひとは生体内の依存関係や病理的な系列を見て分析することができるのだ。長い間、死は生命が消えてゆく闇であり、病そのものもそこで混乱してしまうところであったが、これからは、死は偉大な照明能力を賦与され、この力によって生体の空間と病の時間とが、同時に支配され、明るみに持ち来たらされるのである。(中略)これからは、この大いなる模範にこそ、医学的なまなざしは支えを求めることになる。それはもはや生ける目のまなざしではなく、死を見てしまった眼のまなざしである。生の結び目をほどいてしまう、大いなる白い眼である。(ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生』

 ここでもぼくたちは現在の医学的な知見がもたらした死の可視化とも言うべき記述を読んでいるには違いないが、読みながら、似ていると思わずにいられない。琉球弧の死の臨床も三角形の形象があったのではないだろうか。それは、マブイ、ムン、死の三角形だ。

 この三角形からも、「死は生命が消えてゆく闇」ではなかった。「死に対して生が浸透性を持っている」ように、死に対してマブイは浸透性を持ち、同時にムンも浸透性を持っていた。死はマブイとムンのせめぎあいを照射するのだ。もちろん、この三角形は、「生体内の依存関係や病理的な系列を見て分析する」ものではない。しかし、二区間的な臨床を通じた観察を通して、マブイとムンの相互格闘を幻視するまなざしであったことは確かである。

 このまなざしは、子供の時分に祖父母の死をつぶさに見たという意味では、大人が父母に臨床する場合は、文字通り、「死を見てしまった眼のまなざし」なのだ。それは分析的ではないが経験的である。

 もちろん、フーコーの死の三角形に対して、琉球弧の死の三角形が優れているということではない。後者の三角形は、転生という信仰に支えられており、そういう意味では信仰の理念で見ているだけだとも言える。また、ぼくたちがそれを信じられるというのもなく、また医学的な対処としては何の役にも立たない。

 フーコーの死の三角形も自分の死の際には持てるわけではないように、琉球弧の死の三角形においても、自分の死の際に保持できるものではない。琉球弧の死の臨床において、死にゆく者が何を感じてかは分からない。しかし、ここにおいても、死の三角形のまなざしで臨床してきた者が、死にゆくのだとすれば、自分の段階を薄れゆく意識のなかで感じとることができる部分もあるに違いない。

 フーコーの死の三角形とは別のところで、別のまなざしで、中途半端な死の割り切りよりははるかに豊かな経験を琉球弧の臨床はもたらしていたのではないだろうか。


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