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2014/07/24

『暴露:スノーデンが私に託したファイル』

 この本を読みながら、特定秘密保護法が施行されて10年くらい経った日本を舞台にして描かれた近未来の小説のように感じる瞬間があった。もちろん『暴露:スノーデンが私に託したファイル』(グレン・グリーンウォルド)は、そうではなく、ノン・フィクションであり、かつ歴史が片をつけた後に、英雄譚として書かれたものでもなく、現在進行形の問題を取り上げたものだ。

 ただ、この錯覚にも理由があるとすれば、実際の監視の対象になるのは問題行動を起こした人物に限られるというNSAの謳い文句に、特定秘密保護法に対する政府説明と似たものを感じたからだ。そしてそれだけではないのは、ある種のブラック企業の行動は、日本版NSAを先取りしていると思うからだ。もちろん、NSAの、「全てを収集する」ことを至上目的とするような、コレクターが全てのものを網羅することに熱をあげてしまう病域にまで、ある種のブラック企業が及んでいるわけではなく、またその技術も持ち合わせてはいないだろう。先取りしていると思えるのは、企業の、というより経営者の利害にとって不穏な気配を感じた対象に対する歯止めの利かなさだ。

 おおざっぱにいえば、これは労働組合が機能しなくなった、または存在していないことに起因するように思える。ソ連は少しもいい国家ではなかったが、いざ無くなってみると、企業内において企業の行きすぎた行動をチェックするはずの労働組合は、自らの存在理由、ビジョンを新たに構築することができずに形骸化しているのではないだろうか。ソ連崩壊以降に設立された企業では、もう組合を設立する動きそのもの、発想そのものがあらかじめ削除されているようにすら見える。そこで企業はブラック化する契機を得る。現在、ブラック化した企業であえいでいる若者の親も、企業意思への反対を組織的に行ったり見聞したりした経験を持ってない世代になっている。子供にも、信頼できる友人を作れ、転職があるという以外のアドバイスをできないのかもしれない。もっとも、友人も転職も大切な選択肢ではあるのだが。

 しかも、そうする経営者は行きすぎたことを暗い顔つきでするのではない。あくまで向日的に、明るい顔と明るい表情で当然のことのように言う。聞いている方は、あまりの健康的な口ぶりに、たいそう前向きなことを聞かされたように錯覚してしまうほどに。かつてのような、黒いことをするかもしれないが面倒は見るという凄みもない。ビッグ・ブラザーというよりリトル・ピープル化している。今は「明るい黒の時代」なのだ。太宰治の、「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」(『右大臣実朝』)という言葉は現在にぴったりだ。

 組合という組織体がないなら、なぜ内部告発は起きないのだろうか。あるいは起きにくいのだろうか。

 ひとつは生活を考えるからだろう。内部告発をするということは、言えば終わりではなく、その後に、企業側と交渉したり、場合によっては裁判を起こすという事態にまで発展しかねない。そこまですれば経済が持たないという懸念だ。そして、内部告発をするということが、その後の社会生活に支障をきたす、あるいはそこで社会生活が終わってしまうことへの恐れだ。内部告発をしたということ自体が、異端視を免れないかもしれないという恐れ。

 また、内部告発をするに当って、身に受けたことであれ、そうでないことであれ、証拠をつかむことに困難が伴う。これはおかしい、不正だと感じることと、その証拠を掴むことは大きな距離が存在する。またその証拠を掴もうとする過程でも、ブラック化した企業の干渉を受ける可能性が出てくる。そこまでやれない、と思うのが普通だ。

 そして労働組合の不在と通じるが、横の連帯が取れない。ある種のブラック化した企業では、事実は何か、ということの真相を確かめるという回路が損なわれる。その回路を損なうことがブラック化した企業の存立根拠だからだ。すると、不穏な気配は、誰かの耳打ちだけでいい。それが信頼するに値する言葉なのかどうかの吟味はなされない。誰が、誰に何を話すか、分からない。こうした懸念のあるところでは、同じ志を持った者を見つけること自体が難しくなる。見つかったとしても連帯しにくい。連帯自体が、新たな不穏の気配と察知されかねないからだ。まるで、この本の主人公たちのように、常に監視されている可能性を頭に入れて行動することを余儀なくされる。それでは仕事もままならなくなってしまう。

 すると、内部告発への動きは常に単独で行わざるをえなくなる。国家に対するジャーナリズムのようなチェック機能はどこにも働かない。人事部や監査室までブラック化した企業のお抱えであったり、あるいは無害化されていたりすれば、窓口もない。パワハラや不正の内部告発を第三者機関が受けつける窓口を企業内に設けてあったとしても、その告発自体が経営をスルーしないのであれば、その窓口は有名無実だ。出口がなくなる。

 それこそジャーナリズムに訴えるという手もあるかもしれない。その場合、過ぎるのは、仮にそれが公になったとすると、傷つくのは自分だけではなく、一緒に働いてきた仲間だと思うと、その選択肢も選びにくくなってくる。

 ではなぜ、ブラック化した企業にい続けることができるのだろうか。もちろん、生活があるからだ。転職のリスクを考えれば、黙ってやり過ごしたほうがいい。しかしそれ以前に、まさかそれほどの不正や酷いことが行われているはずがない、つまり、知らないということがそれ以上に多いだろう。だから、驚いたスノーデンも内部告発に踏み切ったわけだ。それほど酷いとは知らなければ、不穏な気配と対象化されるよりは、そう見なす者の肩越しにものを眺めるほうがいい。また、そうした見方をわれ知らず好む人もいる。ここにも出口を見出すのは難しい。黙って去るしかなくなる。その後できることは、その企業のサービスを享受しない、商品を買わないということだ。また、企業に今も在籍している仲間が悩んだ時には相談に乗ること。そして、それはできる。

 こうした背景を持つようになっていると思える分、この本は対岸の出来事のようには思えなかった。それで、まるで近未来の日本を舞台にした小説を読んでいるような錯覚を呼び起こすのだと思う。しかし、去ることが選択肢としてある場合はまだいい。それが国家と企業の差だ。国家の場合は、この土地にいたいし日本語しか話せないというのが大方の人のあり方だろう。それでは他国に、ということは国家の場合は選択肢にならない。

 これを読んで、全て監視されているかもしれない、この先の人生を棒に振るかもしれないという懸念が、ジャーナリズム側の委縮を生むことがよく分かる気がした。同じことだ。学校に通った頃に、おかしいと言えば、同級生はどう思うか、教師はどう制裁を加えるか、煎じつめればその時に感じる委縮と同じである。「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」(村上春樹「かえるくん、東京を救う」)というわけだ。まして、個人として率直にものを言うことに、ぼくたちより長けていると見えるアメリカにおいてすらそうなのだということが驚きだった。著者、グレン・グリーンウォルドは、行政、立法、司法、そしてその次にくる「第四権力」としての報道の「堕落」も厳しく批判している。

 日本においても、健全なジャーナリズムが根絶やしにされず、また蘇生することを願わずにいられない。



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世界皇帝 ディヴィッド・ロックフェラー 死亡 金星人(-) 毎年8,9,10月が大殺界 広島、長崎への原爆投下を今も謝罪しないアメリカに、反アメリカ感情を今こそ噴出せよ。 アメりカの洗脳広告代理店である電通を使った、テレビ、新聞、週刊誌、ラジオ等の、見事な洗脳に晒され続ける日本人は、自分自身の脳、すなわち思考そのものを点検せよ! 我々はハッ、と気付いて用心し、注意し、警戒すれば騙されることはない。 すべてを疑うべきなのだ!

投稿: 脱洗脳報道なら副島隆彦の学問道場 | 2014/07/30 15:08

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