« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014/07/31

埋葬と死穢

 棚瀬襄爾は、『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』において、重要な結論を導き出している。それは、台上葬や樹上葬においては死穢の観念が見られないこと。死穢の観念があるのは、埋葬においてであり、ことに坐埋葬において強いということだ。埋葬と死穢がつながるのはどこかで聞いたこともあるような気もするが、改めて提示されると驚いてしまった。

 埋葬は環南太平洋全域に分布している。しかし、オーストラリア、ニューギニア、メラネシア、マレーシアにおいては台上葬、および死穢の欠如が確認できる。一方、ポリネシアでは埋葬と死穢の観念が広がっている。

 環南太平洋を琉球弧の母胎のひとつとして見なすと、琉球弧において死穢の観念が強いのは自然であることが分かる。洞窟葬では、死穢の観念があるとすると、洞窟葬は、台上葬、樹上葬とは異なる系列にあることになる。

 発生から言えば、死穢の観念を生んで、人類は埋葬をし始めたのではないだろうか。それには定着ということが、鍵になっていると考えられる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/30

他界の遍在例

 ニューブリテン島とニューギニアに、他界が時間性としてしか存在せず、いまだ空間化されていない例を見ることができる。これは、他界はないと言っても、遍在していると言っても同じである段階だ。


例1.死霊はどこにでもいるが、目には見えず、定まった住所を持たない(バイニング族、ニューブリテン島、p.163)。死者を埋葬はするが、墓穴を塞ぎはしない。野獣に対する防御手段も講じない。弔葬儀礼もほとんど行わない(p.206)。

例2.死霊を意味するninikiという言葉を持つ。ninikiは、「見ることはできぬけれど、ここかしこ、君の回りの空中にいる」と説明する。死者はどこに行ったのかと尋ねると、漠然と地平線の方を指し、「遠くに」と答える。(パプアン、ニューギニア、p.301)。葬儀の仕方を見ると(p.339)、死霊に対する恐怖は感じられない。葬法は、浅い墓穴に埋めるか、台上葬。


 他界の遍在は、葬法が無いことを意味しておらず、浅い埋葬や台上葬などの措置が取られている。また、この段階では死霊に対する恐怖もないことが分かる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/29

霊魂の段階

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』を手がかりに、霊魂の像化の段階を考えてみる。

1.身体と霊魂の像の二重化が起きる。身体とは分離しない。霊魂の像はしばしば「影」と呼ばれる。
2.霊魂の像が、形態を持ち始める。「夢」で交信する。ここで、霊魂は遊離するという観念が生まれる。
3.霊魂の人間化が進み、身体からの霊魂の去就が生死と結びつけられる。他界が発生する。

 こうなった段階での例。

1.睡眠中、身体を離れた生者の霊魂は、他の人の霊魂や死者と交通する(ナランガ族)。
2.人間の霊魂をyamboと呼ぶ。yamboは「影」の意味も持つ(p.47)。霊魂は睡眠中、身体を離れて死者や遠方の友人を見るのが遊離の証拠。死霊と死者は区別される(クルナイ族、オーストラリア)。
3.霊魂は生存中も身体を離れうるが、死後には友人の睡眠中に現れる(ヴォトジョバルク族)。
4.生者の霊魂は睡眠中、他出するが、その時、当人は鼾をかく。睡眠者から霊魂を誘いだす黒呪術がある。人が死ねば、霊魂は死霊になる(ウルンジェリ族)。
5.夢で死霊と交通しうる。死霊は生前のごとき生活をし、必ずしも墓に留まらず、時々、出てくる(ユイン・クリ族)。

6.死霊は大木を住所とする(ウィラジュリ族)。
7.死霊は墓から出て死せる親族の死霊に会い、聖山の頂から煙とともに、神?の許なる天に上る(ユーアライ族)。
8.男の先祖が睡眠者を訪問して呪術を教える(チェパラ族)。
9.死霊は死の場所を彷徨し、自分の住居を訪れる(ワケルブラ族)。
10.死霊は睡眠者の夢に訪れるが、訪られた人は真の夢かどうかを呪医に見てもらい、真なら墓に食物を供え、火を転ずる(ディエリ族)。

11.死霊を捕まえて死者の胸に置く儀礼が行われる(ウォンガ・ムラ族)
(p.845~846)

 クルナイ族では、生霊は「影」の意味も持つ。これは、霊魂の像化の兆しが「影」と呼ばれるということの他に、「影」が霊魂の像化の最初の根拠になったことを示唆するように思える。

 霊魂が形態を持つのに「夢」が大きな根拠になっている。また、「夢」を舞台とすることから、身体からの遊離という観念も生まれたのではないだろうか。

 霊魂は身体から遊離するという観念を持つと、水や鏡に映った姿は霊魂だと考えられるようになる。

 チェパラ族の「男の先祖が睡眠者を訪問して呪術を教える」という例は、トロブリアンド諸島で、先祖が夢に現れ、女性に受胎を告げるという例を思い出させる。

 霊魂が身体と二重化され、生死が霊魂の身体からの遊離と結びつけられると、死霊の行く先が問題になる。これは他界の発生と深く関係しているだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/28

洞窟葬の分布

 琉球弧で広く行われてきた洞窟葬の事例は、南太平洋では少ない。棚瀬襄爾(『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)も、「独自の葬法であるよりも、主として呪術宗教的観念から骨をかくすために行われる例が多く(中略)、正葬と見ることはできないように思われる(p.452)」としている。

 また、「洞穴葬は特殊の葬法ではあるが、系統的にはやはり台上葬と同じ乾燥葬に属するものが多いらしい(p.650)」ともしている。

 分布は、フィリピン、インドネシア、ポリネシアだ。スラウェシ島のトラジャ族やニューギニア島に近いババル島では、洗骨改葬が行われているように見える。

 南からやってきた琉球弧の先祖たちの多くは、珊瑚礁環境に適応して、原郷の地とは異なる洞窟葬を選択したということだ。

 また、ボルネオ島西部のブカット族は、「家を捨てる」習俗も持っている。


1.デイントリー川上流(オーストラリア)。洞穴葬が行われていたと言われている(p.111)。
2.リフ(ロヤルティ諸島、ニューカレドニアの東方)。一般には埋葬(珊瑚礁では墓穴を掘ることができるのは砂浜のに)だが、接近しがたい険しい岩穴に納めるのみのこともある(p.231)。
3.パイン島(ニューカレドニア)。洞穴が古俗(p.233)。
4.ラロトンガ(クック諸島)。埋葬のほか、洞穴葬もある(p.442)。
5.マンガイア(クック諸島)。洞穴に葬られる。親族が訪れることができるように(p.442)。

6.ポーモツ諸島(南太平洋)。地位ある人は埋葬せず、死体を晒して乾燥させ、洞穴に納める。(p.445)
7.カンカナイ族(ルソン島)。埋葬か、洞穴(p.593)。
8.イゴロット(ルソン島)。多くの場合、洞穴または巨岩の下(p.594)。
9.サマール島(フィリピン)。洞穴(p.600)。
10.スバヌン族(ミンダナオ島西部)。明らかにスバヌン族の使った洞穴や岩屋がある(p.601)。

11.ポリネシア人(ハワイ)。洞窟や洞穴が選ばれる(p.437)。
12.プニヒン族(ボルネオ島西部)。崖の下の岩穴(p.613)。
13.ブカット族(ボルネオ島西部)。岩穴または木の下(p.615)。以前は、死せんとする人を一人で放置し、急いで逃げてしまい、家を荒廃するに任せた。
14.ババル島(ニュギニア島南西沖)。埋葬、台上葬の後、頭蓋を洗骨し、洞穴に納める(p.640)。
15.トラジャ族(スラウェシ島(セレベス))。ボルネオ島の東部の島)。埋葬、台上葬の後、頭蓋を洗骨し、洞穴に納める(p.641)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/27

ゴジラよ、ふたたび日本だ。

 加藤典洋が言うように、1998年にニューヨークがゴジラに襲われたのは、アメリカ人の原水爆使用に対する「後ろめたさ」が呼び寄せたものだとしたら、2014年のゴジラ(『GODZILA』)では、水爆実験は、ゴジラを倒すためのものだったと、冒頭で解説されて肩すかしを喰らう。というか、正当化をするつもりかと、反発心が起きそうになった。

 けれど観続けるうちに、そのことに端を発して別の感想がやってきた。ゴジラを倒すためという「正当な」理由で水爆を使ったが、それでゴジラは倒されずにアメリカの都市を破壊したというなら、サンフランシスコを襲ったのは広島、長崎の死者たちではないのか、と。映画はもちろん、そのようなプロットを組んでいるわけではない。使われたのは水爆で、水爆実験の犠牲者といえば、ぼくたちに思い起こされるのは第五福竜丸であり、どれも広島、長崎を直接的には指示していない。けれど、それが対象を倒すために使われたという正当化がなされる場面といえば戦争なのだ。

 映画のオープニング・クレジットでは、一瞬、広島、長崎をカバーした西日本の地図が映し出される。また、作中、積極的な動きを終始見せないものの、怪獣の解読を行う日本人、芹沢猪四郎(この芹沢という博士の名は、日本の初代ゴジラを倒した博士の名であり、そこには日本ゴジラへのオマージュを充分に感じさせるものでもある)は、広島に原爆が投下された8月6日8時15分で止まったままの懐中時計を、父の形見として持っている。こうしたことも暗示として響いてくる。アメリカは、広島、長崎での原爆使用に対し、いまに至るも公的に謝罪していない。その「後ろめたさ」が、このたびのゴジラを呼び寄せたのではないか。ゴジラや別の怪物、ムートーが引き寄せられたのは講和条約が結ばれたサンフランシスコだった。

 昆虫の怪物のようなムートーは、日本の原子力発電をメルトダウンさせ、その放射能を吸って成長し、これもまたゴジラとともに、というか、ゴジラと闘うことによってさらにサンフランシスコの都市を破壊する。原子力発電崩壊の事故後、退避区域として市民を立ち入らせず、ムートーに放射能を吸わせ、そのことを隠し続けるさまは、3.11の事故にも関わらず、原子力の武器利用への転化の潜在的能力を捨てようとしない日本政府を否応なく連想させる。日本の旧原発からのムートーの出現は、日本政府の姿勢に対するアメリカの潜在的な不安を示しているようにも見える。つまり、原爆使用について謝罪をしないアメリカに対し、日本がいつか報復するのではないかという恐怖心が、そこに潜んでいるのではないか。そうも思わせるのだ。その恐怖は、ラストに近い場面のなか、朦朧とする意識のなかで、主人公の目にかすかに映る。従来の原水爆とは比較にならない規模のメガトン級の爆発として、サンフランシスコ沖に。

 ただ、穿った観方をすれば、同じサンフランシスコを破壊したゴジラとムートーであっても、二体のムートーを倒した後、都市を去るゴジラに対して、「救世主か」という報道がされるのであれば、原爆投下の「後ろめたさ」より、日本の報復の可能性の方に、不気味なリアリティを感じているのかもしれない。たしかにその意味では、今回のゴジラは都市の破壊をムートーに譲っていた。

 これをアメリカの監督が描いたとしたら、大きな変化なのではないかと感じたが、監督はイギリスを母国とするギャレス・エドワーズだった。その意味では、イギリス人だから描けた映画なのかもしれない。作品にはハリウッドらしいエンタテイメントの要素が散りばめられていて、上記のような受け取りを一笑に伏すだけの作りにもなっている。しかし、まさにそんな装飾をはぎ取っても小さく届く声はある。この映画がアメリカでもヒットしたということは、アメリカの不安や後ろめたさに響いたということはありえるように思える。

 だが、ゴジラよ。あなたは再び日本へ来なければならない。そういうときが、残念だが巡ってきている。加藤典洋は、ゴジラについて、かつてこんなどきっとすることを書いていた。

 しかし、もしもう一作、ゴジラが作られるなら、筆者はぜひその脚本制作陣の一角に加えてもらいたいものだと思っている。筆者の考えからすると、ゴジラにはまだ、し残していることがある。それを行わないことには、成仏できないのである。筆者のアイディアは以下の通り。ゴジラが再びやってくる。品川沖から東京に上陸する。夜であってほしい。そのゴジラはこれまで行かなかったところに行く。
 行き先は、靖国神社。
 ゴジラは、靖国神社を破壊する。(『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』

 2014年ではこう附け加えなくてはならない。ゴジラは、靖国神社に行く前に、首相官邸を破壊する。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/26

遷居葬の分布

 酒井卯作が『琉球列島における死霊祭祀の構造』において、琉球弧のなかの痕跡を丹念に辿っていた「遷居葬」は、棚瀬襄爾(じょうじ)の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』を見ると、オセアニアでその例を豊富に見出すことができる。

 見落としがあるかもしれないが、それは、フィリピン、マレーシア、イドネシア、パプア・ニューギニア、オーストラリアとかなり広汎にわたる。この事例を追っていて、酒井の言う「遷居葬」は、琉球弧にも存在していたとしておかしくないと思えてきた。

 共通しているのは、家を捨てる背景には死霊に対する恐怖が控えているらしいことだ。対幻想である家族が、死霊観念という共同幻想に対して、独自の位相を主張できず、共同幻想に追放されるのである。なかには村落自体が追放される例もある。狩猟や原始農耕では土地に対する執着は生まれない。言い換えれば、定着して農耕を始めるには死霊に対する恐怖をなだめる、そらす、無害化するなどの措置を施す必要があったということだ。


 1.イスネック族(ルソン島北部)。「土葬の後、数日はその地に留まるが、ついでその地を去る」(p.505)。
 2.ザンバレス・ネグリト(ルソン島)。家を捨てることあり。
 3.イロンゴット族(ルソン島)。死の翌朝、死者の出た家を捨て、再び帰来しない(p.596)。
 4.アンダマン島人(マライ半島西沖)。服喪期間の終わるまで数か月、居所を移し、忌明になると元の居所に帰ることもある。忌明までは誰も墓の付近に近寄らない(p.509)。
 5.ケンタ族(マライ半島の西北部)。誰かが家の中で死ぬと、直ちに他の場所に移る。死者の霊魂の帰来を恐れるからである(p.511)。「死者は人を殺すからである」(p.512)

 6.Chong Negrito(セマン諸族の一つ)。「ひとが死ぬとその居所を遷す」(p.483)。
 7.ジャハイ族(マライ半島)。死体は死の場所に葬る(p.513)。遷居するということだ。
 8.ザブブン族(マライ半島)。家の中に死者が出ると、直ちに遷居する。死者の帰来を恐れるからである。しかし、2ヶ月経つと元の所に帰ってくる(p.514)。
 9..バテクノン族(マライ半島)。生者は遷居する。移ったところと墓の道には障碍物を置く(p.515)。
 10.クブ族。家の中に死者や瀕死の病人を残して逃げ去り、遠く隔たった場所に新しいさしかけを作って住む(p.540)。

 11.サカイ族(マライ半島)。埋葬した後で家は焼くか棄てる。
 12.マンダヤ族(ミンダナオ島)。森の中に埋葬。埋葬に参加した人は帰り、葬宴に集まり、次に家を焼き払う。死者を殺した悪神を好かぬという理由(p.596)。
 13.バゴボ族(ミンダナオ島)。家を捨てる(p.598)。
 14.マノボ族(ミンダナオ島)。村を捨てる(p.599)。
 15.ブカット族(ボルネオ島)。以前は、死者を一人で放置し、急いで逃げてしまい、家を荒廃するに任せた(p.615)。

 16.プナン族(ボルネオ島)。死体を木の葉や声だで覆って、他の場所へ移ってしまう(p.615)。
 17.メラネシア人(ニューギニア島)。死者の家は引き倒し、財産とともに朽ちるに任せる(p.317)。
 19.ドブ島(ニューギニア東、ダントルカストー諸島)。死者の家は一年間放置。ヤム芋の収穫が済むと、倒す(p.317)。
 20.ワガワガ族(ニューギニア島)。死者の家は捨てる(p.318)。

 21.ツベツベ島(ニューギニア島東端の先)。死者の家を捨て、また破壊する(p.318)。
 22.ヤビム族(ニューギニア島東部)。死者が家長またはその妻であるときは、家はたとえ立派であっても棄てる(p.326)。
 23.カイ族(ニューギニア島東部)。誰かの死んだ家は捨てる。死霊が出没して、夜は不安だからである。死者が首長や主要人物である場合には、全村を捨て、新しい場所に村を造る(p.328)。
 24.スルカ族(ニューブリテン島)。頓死した者は埋葬はせず、木の葉に包み、家の中の台上におき、家を閉じて捨てる(p.206)。
 25.フロリダ島(ソロモン諸島)。遺品には一切手を触れず、家屋は荒廃にまかせる(p.217)。

 26.アルンタ族(オーストラリア)。埋葬が済むや否や死の発生した住居は直ちに焼き払い、家具は破壊する。集団の者は全部新地点に移る(p.100)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/25

家を焼く

 村上春樹の「納屋を焼く」は、人殺しを含意した作品だけれど、「家を焼く」は文字通り、人が死んだ時にその家を焼くということ。

 主婦は家の柱だから、主婦の死には葬式のあとでその家を焼くという。炉をしょわせるともいう。戸主である男性の死にも家を焼くという例もあるが、後の変化のように思われた(p.160『女の民俗誌―そのけがれと神秘』)。

 「家は女のものだからもたせてやる」、「女は家を建てたれないから焼いてもたせてやる」(p.166)。

 これはアイヌの例だ。

 マライ半島のサカイ族は男の死体と共にタバコ袋、玉の首飾り、錫のは子を葬り、女の死体と共に、櫛、頸飾り、腕輪を葬る。死者のあった家は焼きすて、たとえ収穫を捨てても住居を移す、サカイ族は死霊を著しく恐れ、家を焼き、ときには村までも焼き、再び帰って来ない。(p.537『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』

 これはマレーシアのセノイ(サカイ)族。山岳地帯に住み、焼畑農耕をし、オーストロアジア語族に属する。

 酒井卯作が『琉球列島における死霊祭祀の構造』のなかで、琉球弧にその痕跡を丹念に追った遷居葬の実例を見出せるわけだ。もちろん、定住農耕民の習俗ではない。

 「死霊を著しく恐れ、家を焼き、ときには村までも焼き、再び帰って来ない」というのは、共同幻想から対幻想が放逐されることを意味していると思える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/24

『暴露:スノーデンが私に託したファイル』

 この本を読みながら、特定秘密保護法が施行されて10年くらい経った日本を舞台にして描かれた近未来の小説のように感じる瞬間があった。もちろん『暴露:スノーデンが私に託したファイル』(グレン・グリーンウォルド)は、そうではなく、ノン・フィクションであり、かつ歴史が片をつけた後に、英雄譚として書かれたものでもなく、現在進行形の問題を取り上げたものだ。

 ただ、この錯覚にも理由があるとすれば、実際の監視の対象になるのは問題行動を起こした人物に限られるというNSAの謳い文句に、特定秘密保護法に対する政府説明と似たものを感じたからだ。そしてそれだけではないのは、ある種のブラック企業の行動は、日本版NSAを先取りしていると思うからだ。もちろん、NSAの、「全てを収集する」ことを至上目的とするような、コレクターが全てのものを網羅することに熱をあげてしまう病域にまで、ある種のブラック企業が及んでいるわけではなく、またその技術も持ち合わせてはいないだろう。先取りしていると思えるのは、企業の、というより経営者の利害にとって不穏な気配を感じた対象に対する歯止めの利かなさだ。

 おおざっぱにいえば、これは労働組合が機能しなくなった、または存在していないことに起因するように思える。ソ連は少しもいい国家ではなかったが、いざ無くなってみると、企業内において企業の行きすぎた行動をチェックするはずの労働組合は、自らの存在理由、ビジョンを新たに構築することができずに形骸化しているのではないだろうか。ソ連崩壊以降に設立された企業では、もう組合を設立する動きそのもの、発想そのものがあらかじめ削除されているようにすら見える。そこで企業はブラック化する契機を得る。現在、ブラック化した企業であえいでいる若者の親も、企業意思への反対を組織的に行ったり見聞したりした経験を持ってない世代になっている。子供にも、信頼できる友人を作れ、転職があるという以外のアドバイスをできないのかもしれない。もっとも、友人も転職も大切な選択肢ではあるのだが。

 しかも、そうする経営者は行きすぎたことを暗い顔つきでするのではない。あくまで向日的に、明るい顔と明るい表情で当然のことのように言う。聞いている方は、あまりの健康的な口ぶりに、たいそう前向きなことを聞かされたように錯覚してしまうほどに。かつてのような、黒いことをするかもしれないが面倒は見るという凄みもない。ビッグ・ブラザーというよりリトル・ピープル化している。今は「明るい黒の時代」なのだ。太宰治の、「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」(『右大臣実朝』)という言葉は現在にぴったりだ。

 組合という組織体がないなら、なぜ内部告発は起きないのだろうか。あるいは起きにくいのだろうか。

 ひとつは生活を考えるからだろう。内部告発をするということは、言えば終わりではなく、その後に、企業側と交渉したり、場合によっては裁判を起こすという事態にまで発展しかねない。そこまですれば経済が持たないという懸念だ。そして、内部告発をするということが、その後の社会生活に支障をきたす、あるいはそこで社会生活が終わってしまうことへの恐れだ。内部告発をしたということ自体が、異端視を免れないかもしれないという恐れ。

 また、内部告発をするに当って、身に受けたことであれ、そうでないことであれ、証拠をつかむことに困難が伴う。これはおかしい、不正だと感じることと、その証拠を掴むことは大きな距離が存在する。またその証拠を掴もうとする過程でも、ブラック化した企業の干渉を受ける可能性が出てくる。そこまでやれない、と思うのが普通だ。

 そして労働組合の不在と通じるが、横の連帯が取れない。ある種のブラック化した企業では、事実は何か、ということの真相を確かめるという回路が損なわれる。その回路を損なうことがブラック化した企業の存立根拠だからだ。すると、不穏な気配は、誰かの耳打ちだけでいい。それが信頼するに値する言葉なのかどうかの吟味はなされない。誰が、誰に何を話すか、分からない。こうした懸念のあるところでは、同じ志を持った者を見つけること自体が難しくなる。見つかったとしても連帯しにくい。連帯自体が、新たな不穏の気配と察知されかねないからだ。まるで、この本の主人公たちのように、常に監視されている可能性を頭に入れて行動することを余儀なくされる。それでは仕事もままならなくなってしまう。

 すると、内部告発への動きは常に単独で行わざるをえなくなる。国家に対するジャーナリズムのようなチェック機能はどこにも働かない。人事部や監査室までブラック化した企業のお抱えであったり、あるいは無害化されていたりすれば、窓口もない。パワハラや不正の内部告発を第三者機関が受けつける窓口を企業内に設けてあったとしても、その告発自体が経営をスルーしないのであれば、その窓口は有名無実だ。出口がなくなる。

 それこそジャーナリズムに訴えるという手もあるかもしれない。その場合、過ぎるのは、仮にそれが公になったとすると、傷つくのは自分だけではなく、一緒に働いてきた仲間だと思うと、その選択肢も選びにくくなってくる。

 ではなぜ、ブラック化した企業にい続けることができるのだろうか。もちろん、生活があるからだ。転職のリスクを考えれば、黙ってやり過ごしたほうがいい。しかしそれ以前に、まさかそれほどの不正や酷いことが行われているはずがない、つまり、知らないということがそれ以上に多いだろう。だから、驚いたスノーデンも内部告発に踏み切ったわけだ。それほど酷いとは知らなければ、不穏な気配と対象化されるよりは、そう見なす者の肩越しにものを眺めるほうがいい。また、そうした見方をわれ知らず好む人もいる。ここにも出口を見出すのは難しい。黙って去るしかなくなる。その後できることは、その企業のサービスを享受しない、商品を買わないということだ。また、企業に今も在籍している仲間が悩んだ時には相談に乗ること。そして、それはできる。

 こうした背景を持つようになっていると思える分、この本は対岸の出来事のようには思えなかった。それで、まるで近未来の日本を舞台にした小説を読んでいるような錯覚を呼び起こすのだと思う。しかし、去ることが選択肢としてある場合はまだいい。それが国家と企業の差だ。国家の場合は、この土地にいたいし日本語しか話せないというのが大方の人のあり方だろう。それでは他国に、ということは国家の場合は選択肢にならない。

 これを読んで、全て監視されているかもしれない、この先の人生を棒に振るかもしれないという懸念が、ジャーナリズム側の委縮を生むことがよく分かる気がした。同じことだ。学校に通った頃に、おかしいと言えば、同級生はどう思うか、教師はどう制裁を加えるか、煎じつめればその時に感じる委縮と同じである。「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」(村上春樹「かえるくん、東京を救う」)というわけだ。まして、個人として率直にものを言うことに、ぼくたちより長けていると見えるアメリカにおいてすらそうなのだということが驚きだった。著者、グレン・グリーンウォルドは、行政、立法、司法、そしてその次にくる「第四権力」としての報道の「堕落」も厳しく批判している。

 日本においても、健全なジャーナリズムが根絶やしにされず、また蘇生することを願わずにいられない。



| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014/07/23

「散骨、樹木葬…新しい埋葬スタイル」

 「散骨、樹木葬……新しい埋葬スタイル」(PRESIDENT Online)という記事が目を惹いた。

 「夫婦は同じ墓に入るべきである」という考えについて、「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」という否定派の男性は、たった6.4%だが、女性は17.5%にもなる。この女性の忌避感で挙げられている理由は、「せめて死んだら別居したい」、「ほとんど行ったこともない夫の地元の墓に埋められたくない」、「夫はよくても夫の両親と同じ墓は嫌だ」というもの。広い意味では家族の解体現象に当っている。

 そこで、団塊の世代の選択されだしているのが、新しい葬法スタイルというわけだ。

都会に住む人のほうが特別多いということはありませんし、子どもが何人もいる夫婦も珍しくありません。私はこの流れを、墓の継承・管理や金銭面で『子どもに負担をかけたくない』という親としての配慮や自立心の表れと考えています。また、青春時代にフォークソングを歌い、自由を謳歌した団塊の世代は、自然志向の表れとして散骨や樹木葬を選ぶこともあるようです」(東洋大学ライフデザイン学部教授・NPO法人エンディングセンター代表 井上治代氏)

 さまざまな選択肢にはご丁寧に費用まで載っている。

・共同墓(合葬墓)継承者を必要とせず、血縁を超えた者同士で埋葬される墓。ロッカー式の納骨堂タイプが多い。基本的に生前申し込みが必要。費用は数10万~100万円程度で、個人で一から墓を作るよりは安い。

・樹木葬墓石の代わりに墓標として花木を植え、その下の土に直接遺骨を埋める。基本的には継承者を必要としないが、生前申し込みが必要で、年会費が必要な場合も。相場は40万~50万円程度。

・桜葬樹木葬の一つの形態で、大きな桜の木の下に共同墓の形で埋葬される。継承者は必要ないが、毎年桜が満開になる頃、合同慰霊祭が行われる。生前申し込みが必要で、相場は40万円程度。

・宇宙葬遺骨や遺灰を空に撒く、いわゆる空への散骨。文字通り「星になる」ことができるロケットを使用する場合は100万円程度が相場だが、写真のバルーン宇宙葬なら20万円程度と安価になる。

・手元供養ミニ骨壷やペンダントに遺骨や遺灰の一部を入れて身近に置く“分骨納骨型”と、遺骨や遺灰を加工してアクセサリーにする“遺骨加工型”がある。加工賃は5万~数十万円程度。

 樹木葬や散骨には、自然の循環のなかに自分を戻したいという欲求を見ることはできるだろう。ただ、樹木葬の場合でも、火葬は前提とされているように見え、自分の肉や血を自然の循環に戻すというところまでは行っていない。海や空に撒く散骨は、第三次産業以降に対応した形態と見えなくもない。

 身寄りのない人に選ばざるをえなかった共同墓も選択肢のひとつになっている。ここには、過剰になり過密になった人間が、家族単位で独立した墓を占めることへの忌避感が、家族の解体現象とは別に、無意識の欲求になっているように見える。

 若いころにジーンズを着出した団塊の世代が、葬法もカジュアル化しようとしている。人口の過剰世代である彼らの選択には、人類過剰時代の兆候を見る気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/22

『大嘗祭の成立』

 ぼくたちは琉球弧の死の前後の添い寝の習俗が、天皇霊の継承において祭儀化されていると考えたが(cf.「添寝論」)、谷川健一は『大嘗祭の成立』のなかで、同様のことに着眼している。

十数年まえ岡本惠昭から聞いたところでは、宮古島の砂川、友利、新里などでおこなわれる肉親の夜伽は「抱きとまうず」と呼ばれた。「抱きとまうず」は「死者を抱きながら泊まる」という意味で、蚊帳をつった中で死者の母や配偶者が寝床を故人の傍らに並べ、添い寝をし、「魂よばい」や「シノビゴト」をしてながら、夜を明かすことを指していた。それは死者への親愛と悪霊への警戒を兼ねたものであった。蚊帳は裳であり、その中は喪屋を意味していた。蚊帳の中には悪霊は入りこめなかった。大嘗祭のときの悠忌殿の「まどこ・おふすま」(真床襲衾)の秘儀も、それと関連あるかと私は考える。宮古島の「魂よばい」は蚊帳の中が喪屋であり、モガリ(仮喪)の状態であることを前提としている。死者の魂が屍体から離れてしまったあとでは、いくら「魂よばい」しても効き目はないのである(p.129)。

 そして、この「添い寝」は「大嘗祭のときの悠忌殿の「まどこ・おふすま」(真床襲衾)の秘儀」の古型であると想定している。

 (前略)遊部は従来信じられているごとく死者の魂をなぐさめる役をするのではなく、死者の魂の復活の儀礼に一役買ったことが多分にあったと思われる。しかもしれは死者の魂が死者の身体に残っている間に、その魂の威力を生者につけることが目的であったとも類推されるのである。おほみまというのは天皇の身体のことである。ここで折口は先帝がまだもがりの宮にいるときに、先帝の身体と新帝の身体とが交換するということを述べている。この交換というのは身体が入れかわるという意味ではなく、おそらく天皇にふさわしい威霊を先帝の身体から新帝の身体に移しかえる儀礼のあったことを意味する。それに必要な儀礼が「まどこ・おふすま」である。観念の上にしろ、先帝の骸と同衾するということが「まどこ・おふすま」の本義であるとすれば、きわめて古い時代には、先帝が「もがりのみや」(殯宮)にいるとき大嘗祭がおこなわれていたとしてもおかしくないはずである。大嘗祭のあとにひきつづいて即位式のある方が理に叶うわけである(p.175)。

 ここまではぼくたちの仮説と共振している。それではなぜ、大嘗祭は先帝の死に際してではなく、時を定めて行うようになったのか。それは「大陸からの文字暦導入の時期と深い関係が」あり、

冬至に魂の復活を待ち望む古くからの民間の習俗をふまえ、暦の上での新年との時間的距離が近い頃に、王位継承うの儀式の日を選んだと思われる。しかし冬至は毎年日が動くので、干支によって一一月中卯に大嘗祭をおこなうと定められた(p.220)。

 ところで谷川は別のことも主張している。むしろ、そちらの方に力点がかかっている。それは「まどこ・おふすま」における「共寝」を聖婚と解することの否定である。

 采女は本来的な神の妻としての資格をもっていた。したがって天皇は采女と同衾することによって、その宗教的な力をとりこもうとしてことは疑い得ない。新嘗祭の酒宴のあとに采女との同衾がおこなわれたかも分からない。だからといって、天皇と采女の同衾が穀霊の死と再生の模擬行為であったとし、それをもって大嘗祭の「まどこ・おふすま」の儀に延長しようというのは、まったく架空の想像であり、論拠がない(p.158)。

 采女は「きわめて地位の低い」者が聖婚の相手をしたとは考えられない、というわけだ。

 では、「まどこ・おふすま」における「共寝」とは何なのか。谷川によればそこには四重の意味が背負わされている。

(一)初穂儀礼のとき新しく生まれた稲魂のすこやかな生育を促すために添い寝をすること。
(二)冬至の日の魂の衰えを克服して活力をよみがえらせるために、その前段として喪をかぶること。
(三)密閉した室に籠って誕生すること。
(四)モガリの死者と同衾してその威霊をひきつぐこと。
これらが複合した儀礼が大嘗祭の共寝の儀である(p.120)

 谷川の考えに従えば、古くは(四)であったものが死に際して行われなくなり、(一)の意味は強く残ったということになる。谷川は大嘗祭は新嘗祭を取りこんでいると考えている。新嘗祭の原型は初穂儀礼である。

 私は初穂儀礼(スコマ・シキョマ・シイクマ)の日こそ、もっとも古い新嘗の日であった。その日の行事は次の箇条に記すことができる。 (一)一家の主婦が田から初穂を家にもちかえる。
(二)その初穂を主婦が寝具にくるんで添い寝をし子稲の誕生とすこやかな生育を見届ける。
(三)初穂を炊いて神に供える。
(四)そのあと家族や親戚にも頒けて食べる。
このうち(二)はインドネシアには見られて日本にはないが、私の推測では、そえrが大昔の新嘗の夜の主婦の物忌みの実体であったと考えられる。生まれたばかりの米の嬰児(稲魂)を見守るのは、産褥にある女の気持ちと変わりはなかった(p.112)。

 初穂儀礼の原型に、主婦による初穂との添い寝を見るのは、説得力を感じる。しかし、「まどこ・おふすま」における「共寝」は、さらに進んで男女であることが意味を持つと思える。このことを原理的に考察しているのは吉本隆明だ。

 吉本は部族の共同幻想が対幻想と同一視されるのに二つの段階を想定している。

 まず、意図して穀物を栽培することに習熟したとき、自然を生成として流れる時間の意味を意識した。

いままで女性が子を産み、人間が老衰し、子が育つことに格別の意味注意をはらわなかったのに、人間もまた自然とおなじく時間の生成にしたがうんを知ったのである。まずこの〈時間〉の観念のうち、かれらには女性だけが子を産むことが重要だった。いかえれば〈対〉幻想のなかに時間の生成する流れを意識したとき、そういう意識のもとにある〈対幻想〉は、なによりも子を産む女性に所属した〈時間〉に根源を支えられていると知ったのである(p.194『共同幻想論』)。

 この時期はやがて別の観念にとって代わられる。それは、穀物の栽培と収穫と、子を産み育てる時間制のちがいを意識したときである。

 このように穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、分娩し、男性の分担も加えて育て、成人させるという時間性の違うのを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の〈対〉幻想とのちがいを意識し、またこの差異を獲得していったのである。もうこういう段階では〈対〉幻想の時間性は子を産む女性に根源があるとはみなされず、男・女の〈対幻想〉そのものの上に分布するとかんがえられていった。つまる〈性〉そのものが時間性の根源になった(p.195)

 この時間性の違いの意識のために対幻想と共同幻想を同一視する観念は矛盾に晒される。それを人間は農耕祭儀として疎外する他に矛盾を解消する方途はなくなった、としている。

 ぼくは、ここで男女の性交が子を産むという認識の獲得と受容という大きな衝撃があったのではないかと考えるが、吉本の思考を辿れば、「女性が産むことの重視」から、「男女の性そのもの重視」への移行をみることができる。

 そして谷川がインドネシアに見た「主婦による初穂との添い寝」が、「女性が産むことの重視」の段階にあることを理解するのである。そして、大嘗祭のある段階では、既に男・女神が想定される段階にあり、祭儀も「男女の性そのもの重視」に移行していると考えられる。だから、「まどこ・おふすま」における「共寝」とはやはり性的なものである。

 谷川は、神である天皇と采女との聖婚として捉え、これを退けるが、これは、神と異性神に擬した天皇の共寝であることが本質的な意味であり、その代理を采女とした時期があったかもしれないというだけのことである。采女が聖婚に臨んだわけではないのである。

 谷川は、「主婦による初穂との添い寝」が、大嘗祭においては演じ手が男性であることについて、習俗を「素材」にして新しい「配置」にした作為を見ているが、ぼくたちの考えでは、「添い寝」であるとしたら、それが女性であることは本質的なことであり、この作為は矛盾したもので、行われるはずがないと考えられる。大嘗祭においては、すでに「添い寝」ではなく、「共寝」の意味に変容していたのである。


『大嘗祭の成立―民俗文化論からの展開』

『共同幻想論』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/21

予兆と添い寝

 琉球弧の島人は、死にどのように対して来たのだろう。

 それはまず、死の予兆から始まっている。

 予兆
 
 鳥が屋内に迷い込むこと、特に仏壇に入るのは大事になった。このときは、自宅のみえない場所や海辺近くで外泊し、難をさらしてから家に戻った。難がさったかどうかを判断する行為もある。

 昔は浜下りをしていたようであるが、古老達の覚えているのでは、海の方向の自分の家より見えないところにある家に一晩泊まってくる。家を出るときカマドの灰をかき出しきれいにならなして、その上にカマンタ(かまのふた)をかぶせておく。一泊したあとそのカマンタをとり、その灰に鳥の足跡のようなものがあったりすると、まだ厄は晴れていないが、難もないと厄は晴れたとされた。(「浦添市史民俗編」)

 蓋を被せるのだから、足跡は鳥の霊魂を通じて、他界への通路が開けることを意味しており、自分の家が見えない場所の家や海辺で一夜を過ごすことが死や不幸を解除する呪術になっている。

 屋内への侵入が合図になるのは、トンボや蛾(ハーベールー)が夜、入ってくることや、泥鉢が屋内に巣をつくるのもそうだった。

 鶏が時間はずれに鳴くことも予兆のひとつだった。昼に鶏が鳴くとその首を切り落とした。そして、お箸などで首を刺して屋根に挿す。その首は鶏が鳴いていた方向に向ける。通常ではない時間の鳴き声が察知の合い図であり、そこには方位も伴っていた。死や不幸を解除するには、異変を察知させた鶏の死をもってあがなわなければならなかった。

 犬や猫の場合、ふつうではない鳴き方の場合である。キリギリスが夕方、家のなかに入り込み、柱などに止まって変わった鳴き方をする(竹富島)、家の壁に逆さまに止まる(宮古島島尻)。

 虱の異常発生、農作物や漁の異常な収穫もそうだった。収穫が増えることは必ずしも吉報にはならず、葬儀の賄いの知らせと察知されたのだ。それは夜の大工仕事が棺を造る音として嫌われたことにもつながる。

 時間や量、そして鳴き方が通常ではない場合、つまり変わらない日常に対する異変への察知が、予兆につながっている。殊に対幻想の場である家屋への侵入が、ことを大きくした。これは、対幻想への共同幻想の浸食を意味したからだ。そしてどの場合においても、予兆に対して受け身だったのではなく、鳥の迷い込みの時の外泊のような呪術行為や、軽度の場合でも呪言によって解除する行為が伴ったのである。


 添寝

 ぼくたちは添い寝を死の前後に時間を引き延ばして見てきたが、霊魂の転位について動物を供犠とした場合もあった。

 喜界島
 危篤の病人が直りそうにもないと、その身代わりとして山羊や鶏などを殺す。そのとき山羊などしばっている縄を病人に掴ませておいて、山羊を殺し、その肉七片を家の表に吊してユタが祈願をする。病人が少しでもこの山羊の汁を飲んだら蘇生するそうである。

 奄美大島竜郷
 庭先で豚を殺す人と病人とをつないでおいて、その肉を一回で食べ、余分を海か川に流す。

 竜郷での光景を目撃した小野重朗は、病人と豚との間に電話線を設けているようだと報告している。ぼくたちは添い寝において、生者から瀕死者への、瀕死者から生者への霊魂の転位の場合、抱いたり起したりという身体の接触や「膝」という身体部位を介すると考えてきたが、瀕死者と離れている場合、縄が転位を媒介するのを見るのである。しかも、それが動物の霊魂である場合もあった。どちらも即時的な転位が想定されているが、動物から人間の場合は、人間同士よりも古層として考えられるかもしれない。人間と動物の霊魂に区別を設けていないからである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/20

琉球弧の死の三角形

 折口信夫が言うように、「生と死の区別がはっきりしては居なかった」、「生死が訣らなかつた」のである。しかし、これは、現在ははっきりしているという意味ではない。今はいまで、専門家は脳死を死であると見なし、ぼくたちは医者の「ご臨終です」のひと言をその合図と見なすような、中途半端な割り切りをしているに過ぎないといえば言える。

 ただし、思想のなかではミッシェル・フーコーが、究極的には全細胞の死滅であるところまで死を追い詰めている。

死の部分的、または進行的な諸現象は、いかなる未来をも予断させない。これらは成就しつつある一つの過程を示すだけのものである。卒中の起ったあとで、動物的機能の多くは自然に停止し、したがって、死は、これらの機能にとってはすでに始まったものだが、諸器官の機能は、それに固有な生命を保ち続ける。その上、この動きつつある死の中途の段階は、疾病形態だけに、それほど沿って行くものではなく、むしろ生体に固有な、抵抗の少ない線に沿って進行するのである。これらの過程は、病気の致死性を、付随的なやりかたでしか示さない。これらの語るところは、死に対して生が浸透性を持っている、ということである。ある病的状態がつづく場合、「死化」によって最初におかされる組織は、いつも、栄養が最も活発なところ(諸粘膜)である。次には、諸器官の実質で、末期においては、腱や腱膜である。
 こういう次第であるから、死は多様なものであり、時間の中に分散しているものである。それを起点として、時間は停止し、逆転するというような、かの絶対的な、特権的時点ではない。死は病そのものと同じように、多くのものが集まっている存在であって、分析によって、時間と空間の中に配分されうるものなのである。少しずつ、あちこちで、結び目の一つひとつが切れ始める。少なくとも主な形においては、生体の生命が停止する。というのは、個人の死のずっと後まで、生命の小さな島が諸所に頑張っているのを、今度は極く小さい、部分的な、いくつかの死がおそって、解体させることになるからである。自然死においいては、動物的な生命がまず消える。最初に感覚の消滅、脳の衰弱、運動の減弱、筋肉の強直、その収縮性の減弱、腸管の準麻痺、最後に心臓の鼓動の停止。この継続的な、いくつかの死の時間表に、空間的な表を加えなくてはならない。それは生体の一点から他の点へと連鎖状にもろもろの死をひきおこす相互作用の表である。(ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生』

 これは西洋的な医学が死を微分化し可視化できるところまできた達成を語るものである。しかし一方で、「死化」の過程をかつての島人も見守っていたと思える。「最初に感覚の消滅、脳の衰弱、運動の減弱、筋肉の強直、その収縮性の減弱、腸管の準麻痺、最後に心臓の鼓動の停止」という過程について、特に「腸管の準麻痺」のような身体内で起こっていることは分からなくても、抱いたり起したり大声で呼びかけたり、身体に触れることを通じた臨床によって、微細な変化を知っていたのではないかと思わせる。死の時間的な推移だけでなく、その身体内での空間的な広がりについても。

 フーコーが追い詰めた場所で得られるのは、死から照射される視線である。

 生、病、死。この三つは今や技術的にも概念的にも三位一体となる。何千年もの昔から、人間は生の中に病の脅威をおき、病の中に間近な死の存在をおいて、つねにその思いにつきまとわれて来たのだが、その古くからの連続性は断ち切られ、その代わりに、一つの三角形の形象があらわれ、その頂点は死によって規定されている。死の高みからこそ、ひとは生体内の依存関係や病理的な系列を見て分析することができるのだ。長い間、死は生命が消えてゆく闇であり、病そのものもそこで混乱してしまうところであったが、これからは、死は偉大な照明能力を賦与され、この力によって生体の空間と病の時間とが、同時に支配され、明るみに持ち来たらされるのである。(中略)これからは、この大いなる模範にこそ、医学的なまなざしは支えを求めることになる。それはもはや生ける目のまなざしではなく、死を見てしまった眼のまなざしである。生の結び目をほどいてしまう、大いなる白い眼である。(ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生』

 ここでもぼくたちは現在の医学的な知見がもたらした死の可視化とも言うべき記述を読んでいるには違いないが、読みながら、似ていると思わずにいられない。琉球弧の死の臨床も三角形の形象があったのではないだろうか。それは、マブイ、ムン、死の三角形だ。

 この三角形からも、「死は生命が消えてゆく闇」ではなかった。「死に対して生が浸透性を持っている」ように、死に対してマブイは浸透性を持ち、同時にムンも浸透性を持っていた。死はマブイとムンのせめぎあいを照射するのだ。もちろん、この三角形は、「生体内の依存関係や病理的な系列を見て分析する」ものではない。しかし、二区間的な臨床を通じた観察を通して、マブイとムンの相互格闘を幻視するまなざしであったことは確かである。

 このまなざしは、子供の時分に祖父母の死をつぶさに見たという意味では、大人が父母に臨床する場合は、文字通り、「死を見てしまった眼のまなざし」なのだ。それは分析的ではないが経験的である。

 もちろん、フーコーの死の三角形に対して、琉球弧の死の三角形が優れているということではない。後者の三角形は、転生という信仰に支えられており、そういう意味では信仰の理念で見ているだけだとも言える。また、ぼくたちがそれを信じられるというのもなく、また医学的な対処としては何の役にも立たない。

 フーコーの死の三角形も自分の死の際には持てるわけではないように、琉球弧の死の三角形においても、自分の死の際に保持できるものではない。琉球弧の死の臨床において、死にゆく者が何を感じてかは分からない。しかし、ここにおいても、死の三角形のまなざしで臨床してきた者が、死にゆくのだとすれば、自分の段階を薄れゆく意識のなかで感じとることができる部分もあるに違いない。

 フーコーの死の三角形とは別のところで、別のまなざしで、中途半端な死の割り切りよりははるかに豊かな経験を琉球弧の臨床はもたらしていたのではないだろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/19

マブイ別し

 死の臨床は、モノ追いでは終わらない。悪霊を払った後、一定期間を置いて(酒井はこれを五十日前後が元で、人間が骨化する期間とみなしている)、マブイ別し、霊魂の移行を行わなければならない。それを行うのはユタである。

 マブイ別しは名実ともに、「別れ焼香」としての意味が濃厚であるが、これを行うのは誰であるかをみよう。内地の口寄せの場合も変わらないが、主役は巫女、沖縄でいえばユタである。ユタは人間の霊魂の部分だけを司る女性で、男性は稀である。通常、彼女たちは死者に手をふれることはもちろん、死者を見ることすらしない。墓地に立ち入ることもない。僧侶たちが死者のために果たした役割から見みると、ユタは死者の魂だけを中継ぎする、きわめて限定された職能をもつ女性たちである。そのユタは死の直後のモノ追いにはほとんど参加しない。モノ追いは、葬儀に参加した親族の中の男性によって行われる(中略)。ところがマブイ別しの方の主役はユタであり、宮古島ではカンカカリヤーという神職の女性がやる場合もある。もちろん巫術を職業とする人ではなく、(中略)老人の誰かがマブイ別しをする例もある。(『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 酒井の解説は琉球弧のユタが何者であるかをよく伝えている。ユタとは死者に憑依し、死者を家族である対幻想の世界から共同幻想の世界へ移行させる巫覡である。ユタは死者に憑依し、死によって生れた家族の対幻想の欠損を埋め、修復するのだ。だから、死者の身体そのものにも、共同幻想そのものである墓地にも関わらない。共同幻想に憑依することが眼目なので、ユタは男性であることを除外しない。また、モノ追いに参加しないのは死者への憑依が必要ないからであるが、モノ追いの前に、死が呪術によってもたらされたと考えられた段階では、呪術を解く行為はユタによって行われていたはずである。また、その意味ではもともとユタの呪術行為はマブイ別しに留まらないことは言うまでもない。さらに、ユタではなく、「老人の誰かが」マブイ別しを行うことができたのは、琉球弧において共同幻想と、自己幻想、対幻想が分化しきっていない状態が保存されていたことを示している。

 奄美大島瀬戸内町西古見
 死者の魂が家にとどまり家庭に不幸をもたらすことがあるとして、ユタ、モノシリがマブイ別しを行う。床の間に机をおき、神酒、薄、花米を供える。やがて亡者たちが庭いっぱいに集まってくる。ユタは「どの爺さんがきている」などといって庭に花米を投げる。ユタは「あの人がっ食べている」などと言って灯を細め、庭に出て薄をふりながら口寄せを行う。死者の遺言など薄に向かって語ると、いならぶ縁者は涙を流しながら聞きいる。最後に洗面器の水いっぱいを庭にまいて灯を明るくして終わる。魂は表を閉めて裏口から口笛を吹いて呼ぶ。

 与路島
 大豆を黒焦げになるまで炒って家内から外に投げて祓う。このとき山羊を殺して四本の足をユタに供える。庭には大鍋をおいて、いぶした山羊の肉を煮て味つけをする。これを串にさし、大きな笊にいれて村中に配る。それを知ると村中の老若男女が後ろを追って「一つください」と連呼しながら奪うようにしてもらう。この日は門の近くに棒を横たえて、蓆などを吊して家の内と外を隔離する。

 浦添
 家族と臨終に立ち会った人たちで行う。マブイ別しはユタではなく勝手のわかった女がする。死者の霊は四十九日までは家と墓を行き来するという。

 「表を閉めて裏口から口笛を吹いて呼ぶ」のは、死者が家族の対幻想に矛盾する存在になったことを示している。「門の近くに棒を横たえて、蓆などを吊して家の内と外を隔離する」のも、死者が属することになる共同幻想に対して対幻想の独自の位相を保とうとする仕草だ。死後、マブイ別しの間まで死者の霊魂はどうしているのか。「家と墓を行き来する」というのは、家族の対幻想から離脱しきれず、対幻想と共同幻想のあいだをさまよっているのだ。ユタはこの状態から死者を共同幻想の世界へと導かなければならない。

 奄美大島木慈
 急死したときなど、言い残しがあったのではないか、そのために家からマブリが離れずにいるのではないかとして、ユタを頼む。夜の行事で、椀に水を入れた者二つ、米の粉を水でこねて椀にいれたものを戸口に供えて戸を少し開け、内部を少し暗くして、ユタは「マブリキョー、マブリキョー」など唱え、マブリが来たと判断すると戸を閉め、仏壇に香をともし口寄せをする。終わるとマブリが帰るので、ユタは墓場まで伴をしていく。

 新城島
 自分が死ななければならなかった理由、後々のことについては頼むこと、そして最後の挨拶で終わる。ユタはこのとき恐ろしい憑依状態になって死者の言葉を伝えたといい、古くはこの行事は重要な意味を持っていたという。

 伊良部島
 埋葬に参加した近親者が喪家に集まり、神棚の安置されている二番座に祭壇を整えたうえで、カンカカリヤーによって、カンピト(神人すなわち死者)の口寄せをする。まずタマスイダス願いという死者の霊の出現を求める祈願をする。次いでタマスツキといい、いかなる干支に属する神が霊魂を掴まえているかを判断する(アカスという)。そしてイガングイと言って、死者が訴えたいと胸中に思っていたことすべてを吐露する。最後に死霊との別れを意味するタマスウカビを行って、全儀を終わる。死者の口寄せのよきには哀惜の念ひとしぽ高まり、声を立てて泣き悲しむ。

 死によって生じた対幻想の欠損は修復されなければならない。それは残された家族の心のわだかまりを解くことによってなされるから、死者が語るのである。遺言、言い残したこと、胸中の思い、死の理由を吐露し家族を納得させ心の鎮静させるのだ。

 喜界島
 高膳に米を盛り、酒瓶二本、線香七本を立て、その横に置かれた平たい膳に米と銭をおき、ユタは薄を手にしてオタカベを唱える。唱えるうちにユタにマブイが乗り移る。次に、身内の者を高膳の前に座らせてマブイを後生に帰すオタカベを唱える。そして薄でその者を叩く。マブイヨセの後はユタは極度に疲労する。

 宮古島砂川
 死後三日目に墓前に供物をして、この日からあなたはあの世の人になるのですよ、私たちの世界とは違うのですよ」と唱える。神人別しという。

 浦添伊祖
 生身(いちみ)と死身(しにみ)のわかれという。生身とは家族のことで、生身にはマブイゴメをし、死身は後生(ぐそー)に落ち着くようにとマブイワカシをした。

 竹富島
 親戚が集まって「魂分け」をする。この日に死者が自分の死を認める日だという。

 そして死者はどこへ行くのか。地上の対幻想からは放逐されて共同幻想の世界へ入っていかなければならない。竹富島の例で、マブイ別しが「死者が自分の死を認める日」だとしているのは象徴的である。これは残された家族が認めるというのでは不充分なのだ。死者が認めるのでなければ、死者は家族の対幻想の世界に留まったり、戻ってきたりするかもしれない。それは対幻想は共同幻想に浸食されることであり、対幻想が共同幻想に対して独自の位相を保てなくなる。マブイ別しで最も重要なのは、死者が納得することなのだ。

 久米島仲里
 餅四十九個その他の供物を生(イチ)マブイと死(シニ)マブイのもの二組を用意し、仏壇を中心に東に生マブイ、西に死マブイの膳をおく。参加者は死マブイの膳を背にして生マブイの膳のものを食べる。死マブイの膳には手をつけない。このとき、チュラメークェーといって、まずユタから大人、子供と三回ずつ額に水撫でをする。

 加計呂麻島
 マブリ別しの夜、死者のいた部屋の四隅に子供を一人ずつ立たせ、そこに火をつけたトベラの木と豆で部屋中をかきまわし部屋からだんだん追い詰めて門から外に追い出してから、後ろ向きにトベラを投げ捨てる。これで死者の霊魂を追い出して、さっぱりした気持になるという。

 奄美大島の木慈の例では、ユタが墓に赴く死者に随伴することで死者の擬人化がなされていたが、久米島の仲里では膳を据え食事も用意することまでされている。もっと生々しいのは加計呂麻島で、子供がその任に当たっているが、霊魂を追い出す点においては、これがモノ追いと似てくるのが分かる。

 奄美大島名瀬根瀬
 ホゾンガナシ(ユタと同じ)が行う。この晩に地炉の灰をきれいにしておき、翌朝最初に目をさました人がその灰をみると動物の足跡がついている。その足跡の形で動物を判断して、死者はその動物に生まれ変わったとする。

 他の事例が死者を後生という共同幻想の世界へ分離するのを主眼としているのに対し、根瀬の例は特異な位相をみせている。ここでは死者は後生へ赴くのではなく転生している。しかも、人間ではなく、動物に、である。他の例では、マブイ別しは、死者の対幻想から共同幻想への移行を司っていた。ここでは既に対幻想は共同幻想から分離されかかっており、ユタの憑依を介して、死者は家族という対幻想から後生という共同幻想へ困難な移行を果たさなければならなかった。しかし、根瀬の例では、死者は共同幻想の世界へ赴くのではなく、他の生き物へと転生するのである。

 ここには干支や仏壇や餅など、明らかに後世の所産であるものを除いても、まだそこにいくつもの段階が複合されているのを見る。ぼくたちは添い寝のなかでも霊魂の転位を考えてきた。そこでは「抱きとまうず」や「膝抱きひと(チンシダチャー)」のように、言葉や所作のなかにしか痕跡を認めることができないが、そこでの霊魂の転位は即時的に行われたと見なされる。ほとんどの例のマブイ別しは、後生への移行だという意味では、根瀬の例は、霊魂の転位と後生への移行との中間の段階に当たっている。しかし、後生でもなく人間への転生でもなく、動物への転生という意味では、霊魂の転位のなかでも古層に属するのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/18

モノ追い

 これが喪屋(ムヤ)で殯をした時にどう行われていたかは分からない。墓制以降は、出棺後、死者の寝所を軸に行われている。しかし、これが死に追いやった根本の原因とみなされる悪霊的なモノ(ムン)を除去し、追い払う呪術行為であってみれば、喪屋の時代にも重要な行程であったはずである。また、出棺後ということは、直接的には死者の身体はここでは不在だが、これも死をみつめる所作として欠かせないものとしてあると言っていい。

 『琉球列島における死霊祭祀の構造』(酒井卯作)には、沖縄島を中心にいくつもの例が挙げられているが、ここではモノ(ムン)の存在を最も可視化させている例を挙げる。モノ追いの所作を端的に示すと思えるからだ。

 葬送をすませると、親族は息を引き取った部屋で車座に座る。成人三人が円座の周りを七回廻り、外にかけだす。このとき一人は棺に使った板一片を掴み、他の二人は湯灌の残り水を蹴る。そうすると四人目の男が「マブイはどこだ」と叫び、石を投げながら三人を追いかける。三人は「ここだ」と答えながら追いかけられ、海岸まで行って終える。棺の木片は人家のないところを選んで海に投げ捨てる。四人の男は部屋に戻ると、行事のあいだ全く動かなかった親族のあいだを五回廻り、生前死者の使用したものやいろりの三個の石を持って海に捨てに行く。これが終了してから親族も海岸に下りて足で波を蹴る。これはシュケリ(潮蹴り)と呼ばれる。(昭和初期、糸満)。

 「ホーハイホーハイ」(玉城)、「アリアリ、クリクリ」(久志)と、追い払う際に呪言を加える場合もある。また、後ろ手を石を雨戸になげつける(名瀬)、口に含んだ水を屋内に吹き付ける(今帰仁)、臼を蹴飛ばす(浦添)など、その所作は荒々しい。そしてモノを追い払うのは糸満では海辺までだが、他界との境界までを意味している。

 ここで糸満の場合、モノは三人の男に擬人化されている。モノが目にはみえないが、人間の本体は霊魂であるとみなした観念の所産であることを明瞭に示している。所作の荒々しさは、それだけモノ(ムン)が怖れられていたことを読む者に伝えてくる。

 マリノフスキーによれば、トロブリアンド諸島においては死は、「邪悪な妖術(evil magic)による死」、「戦闘中の死」、「毒による死」の三つの系列に分けられている。溺死は戦闘中の死と同じように見なされ、自殺は戦闘中の死あるいは毒による死に含まれる。それ以外の全ての死は、「邪悪な妖術(evil magic)」によるものだと考えられている。島人は、自然が原因による病気があるだろうと認めているが、生命に関わるのは「邪悪な妖術(evil magic)」だけだと考えられているのだ。

 琉球弧でも呪言(クチ・フチ)が人を死に至らしめると考えられていた。だが、トロブリアンドの戦死、毒死という特定の死以外は全て、「妖術」という呪術的な行為によるものでは既に無くなっているようにみえる。一方で、死の直接的な原因はモノ(ムン)の仕業ということは信じられていた。つまり、死と呪術的な行為との連関は途切れかかっており、結果としてのモノ(ムン)だけが存在感を残している。呪術的な行為と切り離された分だけ、モノ(ムン)の存在感が増し、その除去が主要な命題になっていることがうかがえる。

 このことは、呪術的な行為と死が緊密につながっていた段階が琉球弧にもあり、その場合は、モノ(ムン)の除去には、呪いを解く行為が不可欠だった可能性を示唆するように思える。また、モノ追いの習俗が沖縄島を中心に採集することも、このことに関わりがあるのかもしれない。

 しかし、呪言を解くにせよ、モノ(ムン)を除去するにせよ、ぼくたちは、死を前にしてモノという身体外の霊魂の取り扱いが不可欠だったことを知るのだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/17

殯(もがり)

 死者は、草屋根の小屋を建てて喪屋とし、殯をした。死者を見守るのである。何を見守っていたのか。
 墓制が敷かれた後、死後の翌日や三日目に墓参が行われる。ナァチャミ(慰み)と呼び、葬宴を開くことから、死者の慰みと解されるが、酒井卯作はそこに死の確認が行われたのだと主張している。

 波照間島では三日目をミーダチと呼び、親戚全員で墓に行き、一族の人が死者の名を三回呼んで帰る。返事がなければ完全に死んだと見なすのであり、七日目にも同様なことをした。この例では、ミーダチという行事のかに所作が様式化されているが、これには現実的な意味があり、生き返り、いわゆる「後生戻り」があったからである。これは伝説化されているが、まだ民話化されない実話に近い言い伝えとして残っている。酒井が挙げている例でいえば、野辺送りの翌日のナァチャミで、墓の中から「私はまだ死んでないよ、ここを開けて出してください(ワンネーマ-ダシジョーネングトゥ、ククアキテクイシー)」と声がするので驚いて墓の入口の蓋を開けると、お婆さんが生き返っていた(伊是名島)。竹富島では実話とされる生き返りの話を元に、三日見の墓参と三回名を呼ぶ所作の由来譚としている(『竹富島誌』)。

 「後生戻り」は、墓に埋めた後のことに留まらない、墓に向かう途中でも起きる。六十才の女性が死んだので、棺を担いで墓に行く途中、棺から水が滴り落ちるので、不思議に思い棺を下して置けてみると、その人は目をぱっちり開けて生き返っていた。水はこの人の失禁した小水だった(名瀬)。

 死の判断は難しかったのである。ここからみれば、翌日や三日目の墓参に、死の確認を見る酒井の洞察は的を射ていると思える。墓制以前の殯においても、この死の確認が重要な意味を持っていたはずである。

 本来、古代の日本人には、生と死の区別がはっきりしては居なかったやうである。死んでも時がたてば、蘇生すると考へて、何日も何日も一定の場処に屍体を置いて、近親の者が此を見守って居た。もがりとは、その期間を斥して言うたものらしい(折口信夫「上世日本の文学」)

 折口はもがりに蘇生の可能性を見ている。酒井は、なぜ三日目なのかという問いを立て、そこに腐敗の開始と死の確認を見る。蘇生の可能性と腐敗の開始は、島人が目を凝らしたものだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/16

「国文学の発生」

 折口信夫の「国文学の発生」(『古代研究〈3〉国文学の発生』)を読んだ。尽きせぬ泉のようだった。平安朝、奈良朝の事柄を扱っていても、折口の眼差しは常にそれ以前の過去に向けられていて、その深度も深い。かつ、沖縄のことも取り上げられている、というより、沖縄の事象を欠くことのできない根拠としているのだ。「国文学の発生」の初出は1929(昭和4)年とある。戦前のはやい時期に、琉球弧に対してこれだけの理解が届けられていたことに驚かざるをえない。この時期に、現在でも、かつ琉球弧の島人にとっても示唆に富む考察があったのであれば、その後の差別の問題が噴出したのが不思議に思えるほどだ。それだけ孤独な論考だったということか。

 現在の地点から、個別の事柄に対して折口の誤認を指摘することは容易いだろう。けれど、その程度のことでは揺るぐことのない大きな貯水がここにはあると感じられた。いま、折口がいれば、現在までに蓄積された民俗の事例をもとに、何を語るだろうか。切に知りたいと思わせる人だ。

ひとと言ふ語も、人間の意味に固定する前は、神及び繼承者の義があつたらしい。其側から見れば、まれひとは來訪する神と言ふことになる。ひとに就て今一段推測し易い考へは、人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。人の扮した神なるが故にひとと稱したとするのである。

 「まれびと」は神だけれど、人の扮した神だから「ひと」と称した。

てつとりばやく、私の考へるまれびとの原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて來り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る靈物を意味して居た。

 「まれびと」の元の姿は神であり、「霊物」である。

人の家を訪問する義を持つた語としては、おとなふ・おとづるがある。音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである。祭りの夜に神の來て、ほとほとと叩くおとなひに、豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた邑落幾代の生活が、産んだ語であつた。だから、訪問する義の語自體が、神を外にして出來なかつたことが知れるのである。

 「豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた」というのは来訪神を待ちわびる心境そのものだと思う。「訪問する義の語自体が、神を外にして出来なかつた」。もともと、「訪問」自体が神だから出来ることだった。

簑笠は、後世農人の常用品と專ら考へられて居るが、古代人にとつては、一つの變相服裝でもある。笠を頂き簑を纏ふ事が、人格を離れて神格に入る手段であつたと見るべき痕跡がある。

 折口は神武の例を挙げるが、まさにマユンガナシではないか。

        妖怪
 おとづれ人
        祝言職 乞食

 来訪神は神であることが忘れられると、あるいは妖怪とみなされ、あるいは祝言を述べる職いあるものに付き、さらには乞食に堕していった。

此は勿論、其村の擇ばれた若者が假裝した神なのである。村人の中、女及び成年式を經ない子供には絶對に知らせない祕密で、同時に状を知つた男たちでも、まやの神來訪の瞬間は眞實の神と感じ、まやの神自身も神としての自覺の上に活いて居る樣である。

 赤ちゃんや幼児は、鬼の面を被ると泣く。それは鬼の面が怖いからではなく、仮面をつけた途端に、鬼に見えるから怖いのである。

おなじ八重山群島の中には、まやの神の代りににいる人ピツを持つて居る地方も、澤山ある。蛇の一種の赤また、其から類推した黒またと言ふのと一對の巨人の樣な怪物が、穗利フウリイ祭に出て來る。處によつては、黒またの代りに、青またと稱する巨人が、赤またの對に現れるのもある。此怪物の出る地方では、皆、海岸になびんづうと稱へる岩窟の、神聖視せられて居る地があつて、其處から出現するものと信じて居る。なびんづうは、巨人等の通路になつて居るのだ。

 既に折口は、「蛇の一種の赤また、其から類推した黒また」と、アカマタを蛇トーテムと気づいていたのだろう。

祖靈が夙く神と考へられ、神人の假裝によつて、其意思も表現せられる樣になつたのが、日本の神道の上の事實である。而も尚、神の屬性に含まれない部分を殘して居るのは、「みたまをがみ」の民間傳承である。古代日本人の靈魂に對する考へは、人の生死に拘らず生存して居るものであつて、而も同時に游離し易い状態にあるものとしてゐた。特に生きて居る人の物と言ふ事を示す爲に、いきみたまと修飾語を置く。靈祭りは、單に死者にあるばかりではなかつた。生者のいきみたまに對して行うたのであつた。さうして其時期も大體同時であつたらしい。

 祖霊が神と考えられ、神人の仮装によって、その意思を表現できるようになったのが日本神道である。とするなら、神道はぼくが考えているよりもずっと時間を遡行できる。というより、折口はそう考えていたということか。それなら、宗教以前とすら言えるのではないか。

 神の属性に含まれない部分を残しているのが霊。霊祭りは、死者に対するだけではなく、生者に対して行ったもの。

つまりは、して方は神、もどきは精靈であつた宗教儀式から出たからであるのだ。精靈が神に逆らひながら、遂に屈從する過程を實演して、其效果を以て一年間を祝福したのである。黒尉が狂言方の持ち役ときまつて居るのは、翁と三番叟との關係が、神と精靈との對立から出て來たものなることを示してゐるのである。

 神と精霊との対立。

沖繩の民間傳承から見ると、稀に農村を訪れ、其生活を祝福する者は、祖靈であつた。さうしてある過程に於ては妖怪であつた。更に次の徑路を見れば、海のあなたの樂土の神となつてゐる。我が國に於ても、古今に亙り、東西を見渡して考へて見ると、微かながら、祖靈であり、妖怪であり、さうして多く神となつて了うてゐる事が見られるのである。かうした村の成年者によつて、持ち傳へられ、成年者によつて假裝せられて持續せられた信仰の當體、其來り臨む事の極めて珍らしく、而も尊まれ、畏れられ、待たれした感情をまれびとなる語を以て表したものと思ふ。私の考へるまれびとの原始的なものは、此であつた。
祖先であつたことが忘れられては、妖怪・鬼物と怖れられた事もある。一方に神として高い位置に昇せられたものもある。我が國のまれびとの雜多な内容を單純化して、人間の上に飜譯すると、驚くべく歡ぶべき光來を忝うした貴人の上に移される。賓客をまれびとと言ひ、賓客のとり扱ひ方の、人としての待遇以上であるのも、久しい歴史ある所と頷かれるであらう。

 来訪神が他界の現出を示すとすれば、それは精霊の権化のような姿を現わすだろう。そこにトーテム原理が生きていれば、来訪神は始祖によることもある。またトーテム原理が失われていれば、祖霊の形を取ることもある。「神として高い位置に昇せられたもの」というのは、「まれびと」の語義に適うものではなく、これは精霊を服従された神、つまり島人にとっては島に新しい技術を持って到来した人々の神を指すのではないだろうか。

 「祖先であつたことが忘れられて」ということが重要だと思う。言い換えれば、現在の島人の表象をもって、来訪神とは何かを突き詰めることには限界がある。

繰り返へして言ふ。我が國の古代には、人間の賓客の來ることを知らず、唯、神としてのまれびとの來る事あるをのみ知つて居た。だから、甚稀に賓客が來ることがあると、まれびとを遇する方法を以てした。此が近世になつても、賓客の待遇が、神に對するとおなじであつた理由である。だが、かう言うては、眞實とは大分距離のある言ひ方になる。まれびとが賓客化して來た爲、賓客に對して神迎への方式を用ゐるのだと言ふ方が正しいであらう。

 旅人に対する歓待の態度には古代からの心性が宿っていると言うべきか。

思ふに、古代人の考へた常世は、古くは、海岸の村人の眼には望み見ることも出來ぬ程、海を隔てた遙かな國で、村の祖先以來の魂の、皆行き集つてゐる處として居たであらう。そこへは船路或は海岸の洞穴から通ふことになつてゐて、死者ばかりが其處へ行くものと考へたらしい。さうしてある時代、ある地方によつては、洞穴の底の風の元の國として、常闇の荒い國と考へもしたらう。風に關係のあるすさのをの命の居る夜見の國でもある。又、ある時代、ある地方には、洞穴で海の底を潛つて出た、彼岸の國土と言ふ風にも考へたらしい。地方によつて違ふか、時代によつて異るか、其は明らかに言ふことは出來ない。

 思うに、古代島人の考えた他界の原型は、洞窟奥の地下だが、彼らが島伝いに到来した人々であってみれば、海上他界は最初から複合されていたかもしれない。

幸福は與へてくれるのだが、畏しいから早く去つて貰ひたいと古代人の考へたまれびと觀

 折口は、まれびとに対する両義性を踏まえている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/15

加藤典洋×高橋源一郎

 昨日、三省堂書店本店で、加藤典洋と高橋源一郎のトークセッションが行われた。加藤の『人類が永遠に続くのではないとしたら』の刊行を記念したイベントだ。二人が出した『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』は、昨年最も昂奮して読んだ一冊だったので、二人の対話は楽しみだった。

 最前列に席を取ったので、はっきりとは分からなかったが、百名の定員は埋まっていたのではないだろうか。月曜の六時半スタートという時間的制約もあっただろう、高めの年齢の人が多かったように思う。

 高橋は、雑誌「SIGHT」の内田樹と渋谷陽一との鼎談でも事前の準備ぶりが、いつもすごいのだが、昨夜もノートを取ってきて、加藤に質問するのだった。真摯だ。

 トークの内容は時代の空気を存分に感じさせてくれたが、それ以上にぼくはお二人が、いい顔をしているのに見惚れてしまった。人の心を大切にしながら時代とわたりあう人の顔つきとは、こういうものかと、美しいと思った。それはビジネスマンの顔とも違う。人はやっぱり顔だなと、そんなことがいちばん印象に残った。

 25年前のチェルノブイリ事件を地球の裏側のぼくたちがきちんと受け止められなかったように、3.11のことは西洋やアメリカにはよく見えていないのではないか。それなら、このたびのことは自分たちがやらなかったら誰もできないのではないか。加藤はこういう強い動機に突き動かされたのだという。『人類が永遠に続くのではないとしたら』はいわば、世界思想として世に問うているのだ。

 バイトに追われながら、不必要なものを削ぎ落とし、身軽になっているいまの若者について、高橋は、空気が薄くなって肺が鍛えられたようなものと言い、加藤は薄暗い、でも暗くはないと評していた。「希薄な空気」と「薄暗さ」。その通りだと思う。

 振り返ってみれば、と、加藤は、1968年が人類の絶頂期だったのではないか、と指摘した。ゴールデン・シックスティ―ズとは前後の年代と比較してのことだけではなく、人類出現以来のことだったかもしれない。その年、ビートルズは、通称ホワイト・アルバムを作成しているが、その作品はビートルズでいることが不自由に転じてしまったニヒリズムを吹き出させていた。ホワイト・アルバムでは、リンゴ・スターが一時脱退の自由を行使し、実質上の解体劇を演じた「LET IT BE」では、ジョージ・ハリスンが同じく一時脱退の自由を行使した。弱者から順番にビートルズからはじき出されたのだ。そして1969年、四人は最後のレコーディング、「ABBEY ROAD」に臨むが、これは1968年までの自明のビートルズとは違い、ビートルズをする自由を選択したものだった。もう片方の手にはビートルズをしない自由を、もう四人は手にしていた。とりわけジョン・レノンはそうだった。1968年が人類の絶頂期だったとするなら、その直後の1970年のビートルズ解散は、することも、しないこともできるコンティンジェントな自由の嚆矢だったのかもしれない。

 『人類が永遠に続くのではないとしたら』はとても大きな本で、ぼくも最初は自分の考えとの違いをコメントするだけに終わってしまったが(cf.『人類が永遠に続くのではないとしたら』)、それだけに質問したいことはいくつかあった。質疑応答の時間は設けられていなかったので果たせなかったが、サインをいただく折、ひとつは聞かせてもらった。平日の夜だから仕方ないとはいえ、充分なディスカッション時間を設けるイベントがあればなあと思う。

 ともあれ、心に残る、励まされる共演だった。多謝。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/14

添寝論 メモ

 死者に対して近親者が添い寝をしたという習俗には強い関心をそそられる。

長門の大島などでは、死者の傍らで夜伽をすることを添寝と謂って居る。事実女房や娘は死者の傍に寝たのであろう。さいういふ実際の例が日本でも稀にはあった様に記憶するが、今たしかな出処を挙げられない(「葬制沿革史料」)。

 かつて柳田國男はこう書いて、その実例の収集が充分でないことに言及したが、今では酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』 style=によって、ぼくたちはいくつかの例を知ることができる。そして、柳田が 死者との添い寝について、死霊に対して恐ろしさばかりがあったわけではないとして、そこに親しみを見ようとしているが、酒井の挙げた例を踏まえると、死者との添い寝にはもっと根底的な意味があるように思える。それを見極めるためには添い寝のシーンを死の前後に引き延ばしてみなければならない。

 病人が重篤に陥ると、パラジが集まってウイトゥギをする。死人の通夜は夜伽(ユトゥギ)という。ウイトギとユトゥギは別である。トゥギは伽で、一晩寝ないで病人を見守り、いろいろ世話をするのである。病状がいよいよ悪化して息を引きとりそうになると、その人に抱きついて、大声で名前を呼ぶ。これをユビコイという。時には一寸起したり坐らせたりして、その名を大声で呼ぶ。もし気がついて生き返ると、ユビジティイキティ(呼びもどして生かして)という。それでも正気を取り戻せぬときは、死者と一番縁の近い人が大末期の水(ウアガミノミジ)を飲ませ、もとのように寝かせる。死んでから水、主湯、酒などをすこしづつ与える(p.53、長澤和人俊「与論島民俗誌」)。

 死の前のウイトゥギと死の後のユトゥギに言葉の違いがあるのは、パラジ(親戚)が集うのは同じだとしても、そこで場面が変わることを意味している。ウイトゥギの際に、「ヤブを呼ぶ場合もあった(黒越志津子「南西諸島調査ノート抜き書き」)」と、巫覡(ユタ)を招いて死を防ごうとしたことも報告されている。

 石垣島の白保では、「頭を抱え、腕をかけて抱きおこして、みんなで大声で名を呼ぶ。ウデカケという(p.121『白保―八重山白保村落調査報告(1977年)』)」と、瀕死の身内の名を呼ぶときの抱き起こしに「ウデカケ」という名称が与えられている。

 霊魂が身体を離れたと見なされた時は、大声で名を呼ぶことに別の所作を含んでいた。

 (波照間島で-引用者)私が聞いたところでは、ここではタマアビルといって、死者にいちばん近い関係にある二人の婦人によって魂呼ばいが行われる。一人は空臼を搗き、他の一人は屋根の桁に両手をかけて死者の名を三回呼ぶ。これで呼び戻されて蘇生したという話もある(p.142、『琉球列島における死霊祭祀の構造』酒井卯作)
不慮死の場合には、死者を蘇生させるために魂喚いの呪法が、最近まで行われていた。いうまでもなく肉体を離れて後生へ赴く死者の霊を途中より呼戻すためである。そのほほ方法は、二・三人の男が屋上に上り、墓所の方角に向かって死者の名を呼びつつつムドントー(戻って来う)と繰り返し叫ぶのであった。病死の場合の魂喚いは全く形式化して、落命と同時に表戸を細目に開けて、二・三回呼ぶに過ぎなかった。魂喚いには、呼び声をそのままムドントーと称した(柏常秋『沖永良部島民俗誌(1954年)』p.135)。

 沖永良部の例は、波照間島の例に比べて様式は崩れかかっているが、名を呼ぶ時、本人に向かって行う場合と、屋外に向かって呼ぶ場合とは、霊魂が本人の中にあるか浮遊し出したかの死の段階の違いに対応したものだ。

 死の直前に、抱きついたり、腕をかけて座らせるというのは、死の前段の添い寝の様式なのだ。

 そして死が訪れたと見なされて、添い寝が行われる。

通夜にはトギ(伽)と称する。死忌のかかる近親者が集って永別を惜しむのである。この時女子はかならずミサマシ(目覚まし)と称して菓子などの食品を携えてくるのが常であった。夜半過ぎで通夜を終わった後も、女子は居残って、死者と枕を並べて添寝をなし、死者を一人残しておくことはなかった(p.138、柏常秋『沖永良部島民俗誌(1954年)』)。

 しかし、ここでも、添い寝は必ずしも静的なものだけではなかった。

以前宮古島では、死者を蚊帳の中に入れ、肉親もその蚊帳に入り、女たちは「魂よばい」や「しぬびごとをして泣き叫びながら、死者と共に夜をすごした。この蚊帳は裳(も)であり。喪屋とみなしてよかろう。その中には悪霊は入りこめなかった。宮古島の砂川、友利、新里などでおこなわれる夜伽では、「抱きとまうず」と呼ばれた。「死者を抱きながら泊まる」というという意味で、それは夫婦の場合はその配偶者、もしくは母が寝床を故人と並べあるは離れて添い寝をしながら夜を明かすことを指していた。それは死者への親愛と悪霊への警戒の双方の意を兼ねたものであった(p.65『日本人の魂のゆくえ: 古代日本と琉球の死生観』谷川健一)

 「抱きとまうず」、「死者を抱きながら泊まる」のは、実態としても「抱くように」という比喩としても両方ありえただろう。また、就寝の前段が様式化されているものがある。

チンシダチャー(膝抱き人)というのがいて、これはイナグンクヮ(娘)がやる。子供が五人で、しかも、三男二女の構成だと大変理想的で(中略)、すなわち、長男が頭上に、次男が左背に、三男は右背に、長女が左膝元、次女が右膝元にいて、それぞれの死者を見守っている。長女と次女がいわゆるチンシダチャーと称される役職に当るわけである(p.631『那覇椎市』)。
長男が死者の枕元に座り、その次は年長順に兄弟姉妹が座る。チンシダチャー(膝を抱く者)はウマグヮ(孫)がする。そういう身内がいない場合は縄で膝を曲げて結んでおく。これは棺桶に治める時に膝頭を立てて納めるためである(p.411『浦添市史』)。

 家族が死者を囲むのだが、ここではその配置に意味が置かれているように見え、特に、娘か孫には「チンシダチャー(膝抱き人)」という名称が与えられている。

 これは何を意味するのか。酒井卯作は『琉球列島における死霊祭祀の構造』のなかで、ここに死者から生者への霊魂の転生を見るのだが、妥当だと思える。「膝抱人は蚊帳の中で女子が死者の硬直を防ぐために膝をもむ役(読谷村の例、『琉球列島における死霊祭祀の構造』酒井卯作)」だという説明も与えられているが、おそらくこれは、この言葉の意味が不明になってしまった後に加えられた合理的な解釈というものだ。琉球弧で、霊魂(マブイ)は、首筋に近い頭部にあるとみなされたが、ウデカケにいう「腕」や「チンシダチャー(膝抱き人)」にいう「膝」は、首筋に次ぐ霊魂の座として重要な場所であったに違いないと思える。それが孫や娘が「膝」に位置する意味だ。

 死の直前に、抱きつき、座らせ、大声で名を呼び、魂呼びを行い、また死の直後に、死者を囲み、実質的な添い寝をする一連の行動に貫徹するものは何か。それは、死の直前には、瀕死者の霊魂を補充し、死の直後には若い世代への霊魂の転生を図ろうとするように、霊魂の転位だ。それが添寝の持つ本質的な意味だと思える。

 そして、添い寝の習俗は祭儀化された形態を持ったのだ。

以前は、長い間、生死が訣らなかつたのである。死なぬものならば生きかへり、死んだのならば、他の身体に、魂が宿ると考へて、もと天皇霊の著いてゐた聖躬と、新しく魂が著く為の身体と、一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする。今でも、風俗歌をするのは、聖上が、悠紀殿・主基殿に、お出ましになつてゐられる間、と拝察する。
中休みをなさつた聖躬が、復活なさらなければ、御一処にお入れ申した、新しく著く御身体に、魂が移ると信じた。死と生と、瞭らかでなかつたから、御身体を二つ御一処に置けたのである。生と死との考へが、両方から、次第にはつきりして来ると、信仰的には、復活するが、事実は死んだと認識するやうになる。そして、生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた。出雲の国造家の信仰でも、国造の死んだ時には猪の形をした石に結びつけて、水葬したが、死んだものとは、少しも考へなかつた。其間に、新国造が出来たが、宮廷に於ける古い形と等しく、同じ衾から出て来るので、もとの人即、死者と同じ人と考へられてゐた。(折口信夫[『古代研究〈2〉祝詞の発生』

 死にかけた身体とその地位を継承する身体とを、一枚の布地である衾(ふすま)で覆い鎮魂術を行う。死にかけた身体が復活しない場合は、地位を継承する身体に霊魂が転位したものと見なした。事実としては一方の死が確認されるが、信仰的には同じ人の復活と見なされた。

 この折口信夫の考察が見ているのは、添い寝における鎮魂術で霊魂の転位が行われるということに他ならない。そして、地位の継承においては、死んだ人と継いだ人を同じと見なしたのは、霊魂が人間の本体と見なされた時代の思考法に基づくものだった。

 折口は「古代人の思考の基礎」の冒頭で、皇族、貴族の生活が神道の基礎になり民間に及んだと書いている。

尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。

 しかし、琉球弧の「添い寝」を経た後では、これは逆だと言わなければならない。つまり、添い寝の習俗を基礎にして天皇霊の継承という祭儀は生み出されたのだ、と。

 ぼくたちは琉球弧の「添い寝」における霊魂の転位の習俗と皇族、貴族の鎮魂術と比較した時、天皇霊には霊魂の転位の他に霊威の継承という意味が加わっているのを見た。

 次に、「添い寝」が霊魂の転位だけではなく、霊威の継承に重点が置かれて進展した場合の例を琉球弧を見出すことができる。

今同島宮古口と称する神嶽中に二個の髑髏あり、毎年旧一、四、七、十月の四回吉日を選び、二人の神職これを祀る。その祭祀に臨むや三日間精進潔斎をなし、純潔なる白装束(白衣白鉢巻にて腰巻に至るまで新調)にて参詣をなす。島民途中之に逢会するを忌みて(殊に妊婦)道を避く。而して二人は嶽中に入り祈祷を行ひたる後、白衣を抜きて裸体となり、酒饌(ミキ)を以て其髑髏を洗浄し白布巾にて拭去る。是彼らの祖先より伝はりし神秘的祭祀なり。(「沖縄県国頭郡誌」)(p.318)

 これを伝承した島は古宇利島で、「宮古口」とはマーハグチは、もっとも重要視された御嶽である。ここには、「むかしむかし古宇利島に男女二人の童子ありき。二人共裸体にして愧づる色なく天真爛漫にて毎日天なる神様より下し賜ふ餅を戴きて暮し居たり(p.317)」という導入部の始祖神話があるが、御嶽内の「二個の髑髏」は、始祖である男女二神のものと擬定されていると考えられる。この祭儀に臨むのはミチ・マーイ神と呼ばれる女性神役である。

 二人の女性神職が、三日間の精進潔斎の経て御嶽に入り、祈祷を行った後、白衣を脱ぎ裸体になって、二個の髑髏を神酒で洗うという行為に、ぼくたちはグロテスクさとエロティックさを感じるが、グロテスクさは偏見であるとしても、エロティックさの方はそのものの意味が込められていると思える。二人の女性神職は、始祖に倣って裸体になったのではなく、性的な意味で裸体になっていると考えられる。裸体になり神酒で髑髏を洗い拭うのがここにおける性的な行為であり、幻想の性行為の核心にあるのは、始祖神からの霊威の継承である。二人の女性神職が行為の対象にしているのは、物質的には髑髏だが、本質的には始祖神話に根拠を持つ古宇利島の共同幻想である。古宇利島の共同幻想から霊威を継承するというのが、この祭儀の持つ意味なのだ。

 添い寝が、霊魂の力が旺盛な者と衰退した者との間で演じられたものが、霊魂の転位より霊威の継承に比重を置いた時、霊威の源泉とその継承者との間で演じられる天皇霊の側面が前面に出てきているのが分かる。

 ぼくたちはさらに、霊魂の転位と霊威の継承において、霊威の継承のみが意味を持った祭儀に出会うことができる。それは、祝女(ノロ・ツカサ・カミンチュ)の誕生の儀式だ。

 明治40年頃、当時12、3才の、島せんこあけしののろの継承祭儀では御嶽で行われている。その中核に当る場所を抽出すると、11時頃、御嶽に到着する。そして、「水撫で」として、神前に供えた水を四回、祝女の額につける。次に、「神霊(せじ)づけ」として、洗米を三粒程つまんで頭にのせながら、「島せんこあけしののろ」と神名を唱える。そして「神酒もり」。神酒を神前に注ぎ、残りを祝女に供し、神人も相伴する。それから2時頃まで、オモイを唄うが、三時頃になると、「神と共に寝る」。筵を二枚敷き、左に祝女は寝る。右は神の座と言われている。祝女となるべき女性は、御嶽のなかで一泊するのである(「沖縄の民俗と信仰」島袋源七)。

 ここでは霊威の継承が露わになるとともに、古宇利島の御嶽における祭儀より性的な意味もより露わになっている。神女の候補者は、神との幻想的な性行為を経て神女になる。幻想的な性行為によって得るものが神女としての霊威の継承に他ならない。そして、霊魂の力の旺盛な者と衰弱した者との間で演じられた添い寝は、霊魂の転位ではなく、霊威の継承が前面に出てきた時は、もはや添寝というより共寝と言うべきものだ。

 酒井によれば、石垣島の川平や西表島の古見では、祝女誕生の過程をヤマダキと呼ぶ。「ヤマはお嶽のことで、お嶽を抱くこと、つまりお嶽の祖霊との神婚の意味をあらわしている」(p.70「祝女の独身制をめぐる諸問題」)が、宮古島において死者との添い寝を「抱きとまうず」と呼び、祝女の継承の儀式を「やま抱き」と呼ぶのは、これらが連続した思考の産物であることを示唆するように思える。

 祝女の継承において、神との共寝は積極的な意味を露わにしている。そしてここに留まらない。琉球王朝のが制度化した聞得大君の継承祭儀も、ほぼ祝女の継承祭儀と同型を取るのだ。山内盛彬の「聞得大君と御新下り」によると、その祭儀の中核においても、「水撫で」、「神霊(シジ)づけ」、「神酒(ミキ)盛り」を行い、午前三時頃、神との共寝を行う。

 午前三時頃儀式がすむと、一同夜食の後、大君は御待御殿に入り、金屏風をたて廻した室に休まれる。その時筵を二枚しき、黄金枕を二つ用意する。それは地上の神となった大君が、この夜天の神を迎えて神人結婚をするに当たってのお二人の用土品である。

 演出が華美になってるとはいえ、その行程は祝女の継承祭儀と何ら変わらない。最高神女としての聞得大君は、祝女の継承祭儀における共寝を核心に据えて自身の即位儀礼のなかに取り込んだのだと言える。

 このように辿ってくると、知られているように、神との共寝が天皇の即位祭儀である大嘗祭においても同様であることには、改めて驚くものがある。悠忌殿・主基殿に八丈畳の上に寝具が二枚敷かれ、天皇は寝具にくるまって寝るのである。鳥越憲三郎は、かつては献上された女性と具体的な性行為が行われたと考えられるとしている。(『大嘗祭―新史料で語る秘儀の全容』)。

 霊魂の転位を主眼とした添い寝という習俗は、霊威の継承として変奏され、神との一体化を主眼とする共寝へと祭儀化されたのである。そして、祝女のみならず、聞得大君と天皇の即位においても、共寝が共通しているということは、神との性的行為という擬制が普遍性を持つことを意味していると思える。

 なぜ、性的な行為が中核になるのか。このことを本質的に考察したのは吉本隆明だ。

 悠忌、主基殿の内部には寝具がしかれており、かけ布団と、さか枕がもうけられている。おそらくはこれは〈性〉行為の模擬的な表象であるとともに、なにものかの〈死〉と、なにものかの〈生誕〉を象徴すするものといえる。
 西郷信綱は「古代王権の神話と祭式」のなかで、天皇はこの寝具にくるまって、胎児として穀霊に化するとともに、〈天照大神の〉として誕生する行為だと解している。折口信夫は「大嘗祭の本義」のなかで、天皇が寝所でくるまって〈物忌み〉をし、そのあいだに世襲天皇霊が入魂するのをまつため、ひき籠もるものだと解してている。
 しかしこの大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも〈抽象化〉されているため、どんな意味でも西郷信綱のいうような穀物の生成をねがう当為はなりたちようがない。また折口信夫のいうような純然たる入魂儀式に還元もできまい。むしろ、神とじぶんを異性〈神〉に擬定した天皇との〈性〉行為によって、対幻想を〈最高〉の共同幻想と同致させ、天皇がじぶん自身の人身に、世襲的な規範力を導入しとようとする模擬行為を意味するとかんがえられる。(『共同幻想論』

 添い寝が共寝に転化する途上で、神女が始祖に擬定された裸体で髑髏を洗う行為を見てきたぼくたちは、共寝が性行為の模していることに頷くことができる。祝女、聞得大君jの継承も大嘗祭も、男女神の片方に自分を置き、対幻想を共同幻想に同致させたということだ。

 この同致は、母系社会における対幻想と共同幻想の同致とはまるで異なっているのに気づく。母系社会においては、兄弟姉妹の対幻想の永続性と空間的な拡大に耐える強さをもとに、「われわれは一体」であるとして共同幻想と一体化させていた。「われわれは一体」であるとは共同幻想でもあれば島人が発することができる言葉でもあった。だが、祝女、聞得大君の継承と大嘗祭においては、対幻想はあからさまな男女神のものであり、同化し一致された共同幻想は、むしろ共同幻想のもとにいる人々に顔を向けている。そして、「わたしは神である」と言っている。神話はそのもとに生きる人々に存在の根拠になる物語を与えたが、ここではそれは規範力として機能することになるのだ。これが添い寝という霊魂の転位をめぐる習俗が祭儀として共寝に変容した時に持った意味である。

 ぼくたちは大和と歴史を遠くしてきた琉球弧が、近代化の途上において、なぜ過剰なまでに天皇制に取り込まれてきたのか、非日本人という疎外の打ち消しのための自己喪失という面は理解できても、それでも解けないものが残る不思議さを感じてきた。しかし、ここまでくると、添い寝を原型とした霊魂転位の習俗を、神との共寝として共同祭儀化した規範力において、聞得大君と天皇は同質のものだという背景に辿りつくことができると思える。

 しかし、現在にいるぼくたちは、規範力に転化した共寝は、霊魂の転位としての添い寝まで解体させることができるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/13

祝女・聞得大君・天皇

 明治40年頃、当時12、3才の、島せんこあけしののろの継承祭儀。

 11時頃、御嶽に到着。
 「水撫で」。神前に供えた水を四回、祝女の額につける。
 「神霊(せじ)づけ」。洗米を三粒程つまんで頭にのせながら、「島せんこあけしののろ」と神名を唱える。
 「神酒もり」。神酒を神前に注ぎ、残りを祝女に供する。神人も供する。
 2時頃まで、オモイを唄う。
 「神と共に寝る」。筵を二枚敷き、左に祝女は寝る。右は神の座と言われている。御嶽のなかで一泊する。(「沖縄の民俗と信仰」島袋源七)

 祝女の継承において、神との共寝は積極的な意味を露わにしている。そして、琉球王朝のが制度化した聞得大君の継承祭儀も、ほぼ祝女の継承祭儀と同型を取っている。

 「大グーイの儀式」。神座に着席した聞得大君の頭に玉冠を載せ、「聞得大君みおうしぢ」と唱える。
 「ユインチ、サングーイ等の神前を巡拝」。
 「御待御殿」。午前3時、御待御殿で一泊する。金屏風を立てまわした部屋に金の枕が用意されている。一つは神の枕、もうひとつは大君の枕。(「沖縄の民俗と信仰」島袋源七)

 聞得大君の継承においても、神との共寝は祭儀の中核のひとつをなしていることが分かる。

 この神との共寝は、天皇の即位祭儀である大嘗祭においても、同様なのだ。悠忌殿・主基殿に八丈畳の上に寝具が二枚敷かれ、天皇は寝具にくるまって寝るのである。鳥越憲三郎は、かつては献上された女性と具体的な性行為が行われたと考えられるとしている。(『大嘗祭―新史料で語る秘儀の全容』)。

 霊魂の転位を主眼とした添い寝という習俗は、霊威の継承として変奏され、神との一体化を主眼とする共寝へと祭儀化されたのである。そして、祝女のみならず、聞得大君と天皇の即位においても、共寝が共通しているということは、神との性的行為という擬制が普遍性を持つことを意味していると思える。

 なぜ、性的な行為が中核になるのか。このことを本質的に考察したのは吉本隆明だった。

 悠忌、主基殿の内部には寝具がしかれており、かけ布団と、さか枕がもうけられている。おそらくはこれは〈性〉行為の模擬的な表象であるとともに、なにものかの〈死〉と、なにものかの〈生誕〉を象徴すするものといえる。
 西郷信綱は「古代王権の神話と祭式」のなかで、天皇はこの寝具にくるまって、胎児として穀霊に化するとともに、〈天照大神の〉として誕生する行為だと解している。折口信夫は「大嘗祭の本義」のなかで、天皇が寝所でくるまって〈物忌み〉をし、そのあいだに世襲天皇霊が入魂するのをまつため、ひき籠もるものだと解してている。
 しかしこの大嘗祭の祭儀は空間的にも時間的にも〈抽象化〉されているため、どんな意味でも西郷信綱のいうような穀物の生成をねがう当為はなりたちようがない。また折口信夫のいうような純然たる入魂儀式に還元もできまい。むしろ、神とじぶんを異性〈神〉に擬定した天皇との〈性〉行為によって、対幻想を〈最高〉の共同幻想と同致させ、天皇がじぶん自身の人身に、世襲的な規範力を導入しとようとする模擬行為を意味するとかんがえられる。(『共同幻想論』

 添い寝が共寝に転化する途上で、神女が始祖に擬定された裸体で髑髏を洗う行為を見てきたぼくたちは、共寝が性行為の模していることに頷くことができる。祝女、聞得大君jの継承も大嘗祭も、男女神の片方に自分を置き、対幻想を共同幻想に同致させたということだ。

 この同致は、母系社会における対幻想と共同幻想の同致とはまるで異なっているのに気づく。母系社会においては、兄弟姉妹の対幻想の永続性と空間的な拡大に耐える強さをもとに、「われわれは一体」であるとして共同幻想と一体化させていた。「われわれは一体」であるとは共同幻想でもあれば島人が発することができる言葉でもあった。だが、祝女、聞得大君の継承と大嘗祭においては、対幻想はあからさまな男女神のものであり、同化し一致された共同幻想は、むしろ共同幻想のもとにいる人々に顔を向けている。そして、「わたしは神である」と言っている。神話はそのもとに生きる人々に存在の根拠になる物語を与えたが、ここではそれは規範力として機能することになるのだ。これが添い寝という霊魂の転位をめぐる習俗が祭儀として共寝に変容した時に持った意味である。

 言い換えれば、規範力に転化した共寝は、霊魂の転位としての添い寝まで解体させることができるのではないだろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/12

「古宇利島の聖地と折目」

 「古宇利島の聖地と折目-沖縄の民俗宗教ノート-」(伊藤幹治)。

 古宇利島には七つの聖地がある。「七森七嶽(ナナムイ・ナナタキ)」。人間起源神話と関連しているのは、マーハグチ、ハマンシ、フトゥキ・ヌ・メー。ハマンシ、フトゥキ・ヌ・メーは、二人の男女が天から降りてきて住居を構えたところと言われている。マーハグチは、もっとも重要な御嶽。神女の祭儀が行われた場所(cf.「添寝から共寝へ」)。

 「二人の神職」とは、ミチ・マーイ神と呼ばれる女性神役。

 海神祭。「アサギ」の広場で、神役のひとりが供え物の菓子(以前は餅)を弓のさきで突きさし、それを高くさしあげると、女性神役のヤトゥーバル神が、それを弓で地面に落すという所作が行われた。これは、天の神様が餅をおろしてくれたという始祖神話の伝承の再現。

 古宇利島の聖地と折目の問題について、もうひとつ注目したいと思うのは、この島の社会のなかに、始源志向ともいうべき論理が潜在していて、その論理によって、いくつかの宗家がいくつか存在し、その宗家を出自の原点として、いくつかの「門中」という父系出自集団が形成されている。そして、島の人びとは、宮城屋(ミャーグスク・ヤー)を現存うる根所のなかのもっとも古い家とみなし、そのほかの根所を宮城屋から分岐したものと考えている。
 古宇利島の人びとが、元旦の初拝みや春秋の彼岸に、神話的元祖を祀っている「マーハグチ」といっしょに、宮城屋に祀られている先祖を拝んでいるのは、この根所に祀られている先祖が、島民全体の始祖にあたると考えているからであろう。また、女性神役のなかで、主導的な役割をになっている祝女とウチ神が、宮城屋を宗家とした「門中」から選出されるようになったのも、古宇利島の「門中」の宗家のなかで、宮城屋が各宗家を統合するセンターとして認識されているからであろう。

 古宇利島は、御嶽が神の場所であり、御嶽に接続する根人の根所をもとに集落が展開されていった、都市展開の模型を保存した島であると考えられる。しかも、それが始祖神話の世界観のなかにあることが、保存の純度を物語っている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/11

添寝から共寝へ

 ぼくたちは琉球弧の「添い寝」における霊魂の転位の習俗と皇族、貴族の鎮魂術と比較した時、天皇霊には霊魂の転位の他に霊威の継承という意味が加わっているのを見た。次に、「添い寝」が霊魂の転位だけではなく、霊威の継承に重点が置かれて進展した場合の例を琉球弧を見出すことができる。

今同島宮古口と称する神嶽中に二個の髑髏あり、毎年旧一、四、七、十月の四回吉日を選び、二人の神職これを祀る。その祭祀に臨むや三日間精進潔斎をなし、純潔なる白装束(白衣白鉢巻にて腰巻に至るまで新調)にて参詣をなす。島民途中之に逢会するを忌みて(殊に妊婦)道を避く。而して二人は嶽中に入り祈祷を行ひたる後、白衣を抜きて裸体となり、酒饌(ミキ)を以て其髑髏を洗浄し白布巾にて拭去る。是彼らの祖先より伝はりし神秘的祭祀なり。(「沖縄県国頭郡誌」)(p.318)

 これは古宇利島における祭儀だ。ここには、「むかしむかし古宇利島に男女二人の童子ありき。二人共裸体にして愧づる色なく天真爛漫にて毎日天なる神様より下し賜ふ餅を戴きて暮し居たり(p.317)」という導入部の始祖神話があるが、御嶽内の「二個の髑髏」は、始祖である男女二神のものと擬定されていると考えられる。この祭儀に臨むのは二人の女性神職だ。

 二人の女性神職が、三日間の精進潔斎の経て御嶽に入り、祈祷を行った後、白衣を脱ぎ裸体になって、二個の髑髏を神酒で洗うという行為に、ぼくたちはグロテスクさとエロティックさを感じるが、グロテスクさは偏見であるとしても、エロティックさの方はそのものの意味が込められていると思える。二人の女性神職は、始祖に倣って裸体になったのではなく、性的な意味で裸体になっていると考えられる。裸体になり神酒で髑髏を洗い拭うのがここにおける性的な行為であり、幻想の性行為の核心にあるのは、始祖神からの霊威の継承である。二人の女性神職が行為の対象にしているのは、物質的には髑髏だが、本質的には始祖神話に根拠を持つ古宇利島の共同幻想である。古宇利島の共同幻想から霊威を継承するというのが、この祭儀の持つ意味なのだ。

 添い寝が、霊魂の力が旺盛な者と衰退した者との間で演じられたものが、霊魂の転位より霊威の継承に比重を置いた時、霊威の源泉とその継承者との間で演じられる天皇霊の側面が前面に出てきているのが分かる。

 ぼくたちはさらに、霊魂の転位と霊威の継承において、霊威の継承のみが意味を持った祭儀に出会うことができる。それは、祝女(ノロ・ツカサ・カミンチュ)の誕生の儀式だ。これについては既にたくさんの報告がなされているが、ここでは酒井卯作の考察を挙げてみる。

そこで(「祝女の独身制をめぐる諸問題」-引用者)私が注目したのは、神女(つかさ)となるべき女が、いざ成巫するというとき、その女性は自家の一室を区切って一つの褥を用意して、二つの枕をつくり、そこで自分と神と添い寝をする式のあることであった。(p.141『琉球列島における死霊祭祀の構造』) 

 ここでは霊威の継承が露わになるとともに、古宇利島の御嶽における祭儀より性的な意味もより露わになっている。神女の候補者は、神との幻想的な性行為を経て神女になる。幻想的な性行為によって得るものが神女としての霊威の継承に他ならない。そして、霊魂の力の旺盛な者と衰弱した者との間で演じられた添い寝は、霊魂の転位ではなく、霊威の継承が前面に出てきた時は、もはや添寝というより共寝と言うべきものだ。

 酒井は、「自家の一室を区切って」行われる祝女の継承儀式にも前段のあったことを考察している。

 つまり、本来は祝女継承の式はお嶽で行われていたものが、イザイ家、庭、座敷という順序に変化したものであろう。祝女継承の儀礼が、本来はお嶽であったと考えられる理由は、お嶽が祖霊を祀る祭場でり、祝女自身が神であるためには、その祖霊が憑依する必要があるからで、祝女とお嶽とは、この儀礼を起点として緊密に結合する。
 くわしく例をあげてみよう。八重山の西表島での東部古見では、新しく祝女となるといき、まず香炉を新しく作って、自分のお嶽に手をもち変えないでもっていき、イビに供える。その夜帰宅をして、一番座で独り、一夜を寝ないで過ごす。このことを川平でと同様にヤマダキという。ヤマはお嶽のことで、お嶽を抱くこと、つまりお嶽の祖霊との神婚の意味をあらわしている。川平のカンスデも、スデルは脱皮することだから、さきの聞得大君がスデ水を使うことと同じく、人間が脱皮して神になることを意味している。
 そう考えると、一夜をまんじりともしないで朝まで起きていることの意味は、これを内地風に、たんなる忌み籠りと解釈するのはあまりにも消極的にすぎよう。波照間島のヤマダキの日は、祝女ひとりお嶽で夜を明かすが、そこに神がいて、神と二人で寝るのだという伝えがあるのは興味深い。竹富の「神ともの願い」とこれをいうのも、本来の意味はそこにある(p.70「祝女の独身制をめぐる諸問題」)。

 宮古島において死者との添い寝を「抱きとまうず」と呼び、祝女の継承の儀式を「やま抱き」と呼ぶのは、kれらfが連続した思考の産物であることを示唆するように思える。この継承の儀式の場が、御嶽、イザイ家、庭、座敷という変遷を辿ったという酒井の考察には説得力を感じる。この儀礼の場の変遷の背後には、祝女の原初から権威を増し、体制内に組み込まれていった地位の推移が対応していると思われる。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/10

死の前後

 死者との添い寝について、柳田國男も死霊に対しては、恐ろしさばかりがあったわけではないとして、「亡骸に添い寝をする風習なども、形ばかりはまだ稀に残っている」(「先祖の話」)と書いている。親しみもあったとうことだ。

 しかし、死者との添い寝にはもっと根底的な意味があるように思える。それを見極めるためには添い寝のシーンを死の前後に引き延ばしてみなければならない。

 病人が重篤に陥ると、パラジが集まってウイトゥギをする。死人の通夜は夜伽(ユトゥギ)という。ウイトギとユトゥギは別である。トゥギは伽で、一晩寝ないで病人を見守り、いろいろ世話をするのである。病状がいよいよ悪化して息を引きとりそうになると、その人に抱きついて、大声で名前を呼ぶ。これをユビコイという。時には一寸起したり坐らせたりして、その名を大声で呼ぶ。もし気がついて生き返ると、ユビジティイキティ(呼びもどして生かして)という。それでも正気を取り戻せぬときは、死者と一番縁の近い人が大末期の水(ウアガミノミジ)を飲ませ、もとのように寝かせる。死んでから水、主湯、酒などをすこしづつ与える(p.53、長澤和人俊「与論島民俗誌」)。

 死の前のウイトゥギと死の後のユトゥギに言葉の違いがあるのは、パラジ(親戚)が集うのは同じだとしても、そこで場面が変わることを意味している。ウイトゥギの際に、「ヤブを呼ぶ場合もあった(黒越志津子「南西諸島調査ノート抜き書き」)」と、巫覡(ユタ)を招いて死を防ごうとしたことも報告されている。

 石垣島の白保では、「頭を抱え、腕をかけて抱きおこして、みんなで大声で名を呼ぶ。ウデカケという(p.121『白保―八重山白保村落調査報告(1977年)』)」と、瀕死の身内の名を呼ぶときの抱き起こしに「ウデカケ」という名称が与えられている。

 霊魂が身体を離れたと見なされた時は、大声で名を呼ぶことに別の所作を含んでいた。

 (波照間島で-引用者)私が聞いたところでは、ここではタマアビルといって、死者にいちばん近い関係にある二人の婦人によって魂呼ばいが行われる。一人は空臼を搗き、他の一人は屋根の桁に両手をかけて死者の名を三回呼ぶ。これで呼び戻されて蘇生したという話もある(p.142、『琉球列島における死霊祭祀の構造』酒井卯作)
不慮死の場合には、死者を蘇生させるために魂喚いの呪法が、最近まで行われていた。いうまでもなく肉体を離れて後生へ赴く死者の霊を途中より呼戻すためである。そのほほ方法は、二・三人の男が屋上に上り、墓所の方角に向かって死者の名を呼びつつつムドントー(戻って来う)と繰り返し叫ぶのであった。病死の場合の魂喚いは全く形式化して、落命と同時に表戸を細目に開けて、二・三回呼ぶに過ぎなかった。魂喚いには、呼び声をそのままムドントーと称した(柏常秋『沖永良部島民俗誌(1954年)』p.135)。

 沖永良部の例は、波照間島の例に比べて様式は崩れかかっているが、名を呼ぶ時、本人に向かって行う場合と、屋外に向かって呼ぶ場合とは、霊魂が本人の中にあるか浮遊し出したかの死の段階の違いに対応したものだ。

 死の直前に、抱きついたり、腕をかけて座らせるというのは、死の前段の添い寝の様式なのだ。

 そして死が訪れたと見なされて、添い寝が行われる。

通夜にはトギ(伽)と称する。死忌のかかる近親者が集って永別を惜しむのである。この時女子はかならずミサマシ(目覚まし)と称して菓子などの食品を携えてくるのが常であった。夜半過ぎで通夜を終わった後も、女子は居残って、死者と枕を並べて添寝をなし、死者を一人残しておくことはなかった(p.138、柏常秋『沖永良部島民俗誌(1954年)』)。

 しかし、ここでも、添い寝は必ずしも静的なものだけではなかった。

以前宮古島では、死者を蚊帳の中に入れ、肉親もその蚊帳に入り、女たちは「魂よばい」や「しぬびごとをして泣き叫びながら、死者と共に夜をすごした。この蚊帳は裳(も)であり。喪屋とみなしてよかろう。その中には悪霊は入りこめなかった。宮古島の砂川、友利、新里などでおこなわれる夜伽では、「抱きとまうず」と呼ばれた。「死者を抱きながら泊まる」というという意味で、それは夫婦の場合はその配偶者、もしくは母が寝床を故人と並べあるは離れて添い寝をしながら夜を明かすことを指していた。それは死者への親愛と悪霊への警戒の双方の意を兼ねたものであった(p.65『日本人の魂のゆくえ: 古代日本と琉球の死生観』谷川健一)

 「抱きとまうず」、「死者を抱きながら泊まる」のは、実態としても「抱くように」という比喩としても両方ありえただろう。また、就寝の前段が様式化されているものがある。

チンシダチャー(膝抱き人)というのがいて、これはイナグンクヮ(娘)がやる。子供が五人で、しかも、三男二女の構成だと大変理想的で(中略)、すなわち、長男が頭上に、次男が左背に、三男は右背に、長女が左膝元、次女が右膝元にいて、それぞれの死者を見守っている。長女と次女がいわゆるチンシダチャーと称される役職に当るわけである(p.631『那覇椎市』)。
長男が死者の枕元に座り、その次は年長順に兄弟姉妹が座る。チンシダチャー(膝を抱く者)はウマグヮ(孫)がする。そういう身内がいない場合は縄で膝を曲げて結んでおく。これは棺桶に治める時に膝頭を立てて納めるためである(p.411『浦添市史』)。

 家族が死者を囲むのだが、ここではその配置に意味が置かれているように見え、特に、娘か孫には「チンシダチャー(膝抱き人)」という名称が与えられている。

 これは何を意味するのか。酒井卯作は『琉球列島における死霊祭祀の構造』のなかで、ここに死者から生者への霊魂の転生を見るのだが、妥当だと思える。「膝抱人は蚊帳の中で女子が死者の硬直を防ぐために膝をもむ役(読谷村の例、『琉球列島における死霊祭祀の構造』酒井卯作)」だという説明も与えられているが、おそらくこれは、この言葉の意味が不明になってしまった後に加えられた合理的な解釈というものだ。琉球弧で、霊魂(マブイ)は、首筋に近い頭部にあるとみなされたが、ウデカケにいう「腕」や「チンシダチャー(膝抱き人)」にいう「膝」は、首筋に次ぐ霊魂の座として重要な場所であったに違いないと思える。それが孫や娘が「膝」に位置する意味だ。

 死の直前に、抱きつき、座らせ、大声で名を呼び、魂呼びを行い、また死の直後に、死者を囲み、実質的な添い寝をする一連の行動に貫徹するものは何か。それは、死の直前には、瀕死者の霊魂を補充し、死の直後には若い世代への霊魂の転生を図ろうとするように、霊魂の転位だ。それが添寝の持つ本質的な意味だと思える。

 そして、添い寝の習俗は祭儀化された形態を持ったのだ。

以前は、長い間、生死が訣らなかつたのである。死なぬものならば生きかへり、死んだのならば、他の身体に、魂が宿ると考へて、もと天皇霊の著いてゐた聖躬と、新しく魂が著く為の身体と、一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする。今でも、風俗歌をするのは、聖上が、悠紀殿・主基殿に、お出ましになつてゐられる間、と拝察する。
中休みをなさつた聖躬が、復活なさらなければ、御一処にお入れ申した、新しく著く御身体に、魂が移ると信じた。死と生と、瞭らかでなかつたから、御身体を二つ御一処に置けたのである。生と死との考へが、両方から、次第にはつきりして来ると、信仰的には、復活するが、事実は死んだと認識するやうになる。そして、生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた。出雲の国造家の信仰でも、国造の死んだ時には猪の形をした石に結びつけて、水葬したが、死んだものとは、少しも考へなかつた。其間に、新国造が出来たが、宮廷に於ける古い形と等しく、同じ衾から出て来るので、もとの人即、死者と同じ人と考へられてゐた。(折口信夫[『古代研究〈2〉祝詞の発生』

 死にかけた身体とその地位を継承する身体とを、一枚の布地である衾(ふすま)で覆い鎮魂術を行う。死にかけた身体が復活しない場合は、地位を継承する身体に霊魂が転位したものと見なした。事実としては一方の死が確認されるが、信仰的には同じ人の復活と見なされた。

 この折口信夫の考察が見ているのは、添い寝における鎮魂術で霊魂の転位が行われるということに他ならない。そして、地位の継承においては、死んだ人と継いだ人を同じと見なしたのは、霊魂が人間の本体と見なされた時代の思考法に基づくものだった。

 折口は「古代人の思考の基礎」の冒頭で、皇族、貴族の生活が神道の基礎になり民間に及んだと書いている。

尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるものも、実は尊貴族の信仰の、一般に及んだものだと考へる。

 しかし、琉球弧の「添い寝」を経た後では、これは逆だと言わなければならない。つまり、添い寝の習俗を基礎にして天皇霊の継承という祭儀は生み出されたのだ、と。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/09

霊魂観(沖永良部島)

 柏常秋の『沖永良部島民俗誌(1954年)』から「霊魂観」を引いてみる。

 霊魂はマブイといい、時にタマシ(魂)とも称える。常民の有する霊魂観は矛盾・交錯を極めて、不鮮明たるを免れない。彼等は霊肉二元論を持ち、肉体は霊魂の宿ることによって、初めて生命体としての機能を発揮し得るものと信じ、その宿る時期を、産児が生まれて母体を離れる瞬間と考え、呱々の声をその証拠と解した。又霊は、機会によっては肉体を脱出することがあり、死及び仮死の状態は、そのために起る現象と解した。そしてその脱出を予防する呪法として、幼児服には必ず背守を取附け、成人の場合でも背縫の綻びた衣服の着用を禁忌した。それは、霊は背守当る部分、即ち頸筋より脱出するものとの信仰があったからである。また一旦遊離した霊の呼び戻しも可能であるとして、不慮死の場合には魂喚いの呪法を行った。今日、女子が死者を取囲み、その名を呼びつつ泣号するのも、元は魂l喚いと同じ意図のものであったかも知れない。子供の霊は、特に脱け易いものとして、その頭髪を刈る時には、必ず前頭部と盆の窪とを少しずつ刈り残した。それは霊が脱けて気絶した時、引っ張って蘇生させるためといわれていた。
 霊の遊離、必ずしも死又は仮死の状態とはならない場合も少なくなかった。その顕著な例は、夢に現れる人の姿をその人の霊魂と思い思い込むことである。その人が若し遠方にいる近親者でもあると、それを不の吉前兆として気に病むばかりか、度重なれば、イミガマラシャなどと称して、祈祷師(ユタ)を招いて祈祷させなねば気が休まらなかった。その他生きている人の霊を目の当たりに見ることも少なくなかった。
 人の死するのを死霊の所為と信じ、それをムン・マジムンと称して極度に恐れ、新亡の出た隣家の婦女子は、夜間の外出をなし得ないほどであった。この恐怖心は葬儀の上にも著しく反映して、或いは死体を折屈めて屈葬の姿勢を取らせ、或は棺の蓋を密閉して墨で錠前を描き、更にその上を太縄で縛って死体の脱出を不可能ならしめた。葬送途上の家々までが、それを恐れて、門に竿類を横たえてその闖入を防いだ。これに反して、近親者の死体・死霊に対しては敬慕・親愛の情がすこぶる篤く、殊に女子に濃厚であったので、死体との添寝を始め、湯灌・洗骨等に至るまで、一に女子によって行われた。
 霊魂には個性があった。だから他と混同する恐れは全くなかった。それは、その個性を構成している容姿・声色・挙動等が死者生前のそれと、全く同一であったからである。つまりこの個性は、在世に受けた記憶の再現したもの、即ち記憶像に外ならないのである。(柏常秋『沖永良部島民俗誌(1954年)』

 霊魂の実在、夢に現れるのは霊魂だということ、霊魂には個性があり他人と混同することがない点は、トロブリアンドの例と全く一緒だ。霊魂の離脱する場所が頸筋だというのは、沖永良部島の方がイメージ化が進んでいる。また、死が死霊に依るものだという認識は、トロブリアンドの場合は呪術(妖術)であり、精霊的な存在とはみなされていない。マジムンに対する恐怖心は、ムルクアウシに対するものと似ている。

 「今日、女子が死者を取囲み、その名を呼びつつ泣号するのも、元は魂l喚いと同じ意図のものであったかも知れない」というのは、その通りだと思う。魂喚いの形式として添い寝はあったのだ。

 「常民の有する霊魂観は矛盾・交錯を極めて、不鮮明たるを免れない」のは、常民の認識の不足のためではなく、感じ関わる存在であることを示している。これは、当時の島人を理解しようとするとき、こちらの構えとして大事だと思う。つまり、整合的で全体観のある認識を持っていたという前提を取り外す必要がある。どう生きられていたかが、大切なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/08

『バロマ ― トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』

 マリノフスキーの『バロマ―トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』は、ぼくたちにとっては、酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』と対をなす資料だ。

 肉体を離脱した霊魂に対して、トロブリアンドの島人には二つの態度が見られる。

 バロマ(霊魂)は、「トロブリアンド諸島の北西約十マイルの所にある小さな島、トゥマ Tuma へ」行く。トゥマには現に生きて住んでいる人みるし、トロブリアンドの人もときに訪れる。もうひとつは、コシ。「霊魂が、死後、村の近くの、故人の菜園とか、海岸、水汲み池などのような、生前の生活区域のあたりでしばらく不安定な生活を送る」。島人は音でコシに気づく。コシを怖がっているが、それはたわいもないいたずらで人をおどかす存在で、島人は本当にはこわがっていない。本当にこわがっているのは、ムルクアウシで、これは生きた女性の分身で人の内臓を食うからである。

 バロマは琉球弧のマブイに該当している。コシは、過程としてみれば、死後四十九日は死者は苦労するということに対応しているが、いたずらをしでかすのはムヌに似ている。人を食うムルクアウシは生霊だが、琉球弧でいえば、キジムナー、ケンムン、イシャトゥなどのムヌがより凶暴化した姿のように見える。もっとも、ムヌは生霊ではない。

 死は、「邪悪な妖術の結果としての死、毒による死、戦闘中の死」という三つの種別がある。戦闘中の死は「立派な死」、「毒による死」は木の上から飛び降りるのと同様に自殺の形式。自殺はかなり一般的で、それは「侮辱を受けた近親者の誰かに対する潔白を示す行為として行われている(p.18)」。島人は自然の原因による病気があるだろうと認めているが、「邪悪な妖術」に落ちた結果とは区別されていて、後者だけが生命にかかわる。

 「邪悪な妖術」だけが死に関わるというのは、琉球弧の死霊と同じだと思える。自殺の意味が現在とはまるで違っている。

◇◆◇

 バロマ(霊魂)は、トゥマで生前とまったく同じような生活を送る。親族にも会う。ただ男性の島人が言うには生前よりも奔放な性生活を送る。幸せな生活に落ち着く。生きた島人のなかには、男女を問わず霊界に入って行ける能力を持つ者もいる。女性の妊娠をバロマが伝えることがあるように、夢がバロマと生きている者との交渉に役割を果たしている。

 「バロマは水(あるいは最近のキリウィナ島民では鏡)に映った映像(サリブ)のようで、コシは影(カイクアブラ)のようなもの(p.34)」。「確かにバロマとコシは映像に似ているし、また影に似ているのだ。ただ、あいつらはまた人間にも似ており、人間のやることとまったく同じように行動するのだ(p.35)」。

 「鏡に映った姿」や「影」は霊魂のイメージ化の度合いを示している。それはまだ素朴なものだと言える。バロマの位置を指定することができないということにも、それは現れている。琉球弧で、後頭部周辺がマブイの位置とされるのはイメージ化が進んでいるのを示している。

 バロマの人間身体の位置だけではなく、死後、バロマが生活する場所についても答えはひとつではない。トゥマの島に住むのか、地下に住むのか、それとも別の場所か。もっとも妥当な解釈は地下のトゥマ、ということだ。

 マリノフスキーは重要なことを言っている。

 ともあれ私は、彼らの観念は、固定化されない形のままになっていること、定式化されるよりは感じられ、バロマの性質やさまざまな存在条件を分析的に検討するよりは、バロマの種々の活動に関わっているものだということだけは確信できるのである(p.40)。

 琉球弧で、マブイの位置が、頭蓋の終わりと胴体の終わりの境界に位置するように思われているのは、トロブリアンドの島人よりは霊魂のイメージ化が進んでいる。しかし、マブイの行き先のあいまいなことはトロブリアンドの島人と変らない。むしろ、トロブリアンドの島人よりも、さまざまな信仰が複合された結果、より混乱しあいまいになっているとも言える。しかし、重要なのは、定式化されるよりは感じられ、分析するよりは関わることで生きられているということだ。だから、現在にいるぼくたちが考えるとき、今はあいまいになっているが、本当は確かなことがあったはずだと考えるのは半分の妥当性しかないのだと思える。もう半分は、当時の島人にとってもあいまいなままであったということに由来する。なぜなら、それは感じられ、関わることで生きられてきたものであり、厳密な定義を施す必要があったものではないかだら。

 ただし、再生については具体的なイメージがある。

 バロマが年老いてくると、その歯は抜け落ち、皮膚はたるみ、皺がよってくる。彼は浜へ行って塩水で水浴をする。それから彼は、ちょうど蛇がやるように、自分の皮を脱ぎ捨てる。そして、また幼い子供になる(p.117)。

 ここにも脱皮のイメージが生きているのをぼくたちは気づく。アカマタ・クロマタなどの来訪神が出現する過程を見るようではないか。

◇◆◇

 八月の終わりから九月の初めにかけた満月の夜、ミラマラという祭りが行われる。ミラマラは収穫祭で、このときトゥマからバロマも帰ってくる。帰ってきたバロマは祭りの間、収穫されたモノを供えられるように歓待されるが、一方で椰子の実を落したり、夢に現れたりして、島人にその存在を感じさせる。しかし、供え物が少なかったり、儀礼を厳格に守っていなかったりすると、旱魃を起こして怒りを露わにする。しかし、祭りの終わりの時は、太鼓の音であっさりトゥマに帰されてしまう。その送りだし方は、足の悪いバロマに対してからかいの言葉を投げるほどで、「何らの神聖さの跡も、厳粛ささえも帯してはいない(p.67)」。

 トロブリアンドでは、霊魂の擬人化は生き生きしていて、霊魂の位置は定かでないものの、生と死の連続性がまだなめらかだ。琉球弧の場合の祖先の霊に対する態度は、トロブリアンドに比べてはるかに厳粛さを持っている。これは言い換えれば、生と死の連続性が断たれてしまっていることを示すように見える。

 ミラマラは踊りの期間だ。そこでは、「バロマを喜ばせるためには全員が悦楽や踊りや性的放縦で一つにならなければならない(p.62)」。

 こういう記述は、シニグが「踊り」を起源に持っていたのではないかという仮説に視野を与えてくれるし、厳粛な農耕儀礼という現在形からはかけはなれたものだったかもしれないことを想定させる。

 儀礼のなかで最も重要なのは、呪文である。

儀礼はただ呪文を進水させるために、特別な送達機制として役立つためにのみ存在している(p.80)。

 これもはっとさせられる観察だ。儀礼において重要なのは呪言(クチ)、もっと大人しくなれば、祝詞であり、儀礼自体は、呪言を発揮させる演出舞台だということだ。

 この呪文においては、祖先の名前が列挙される。列挙すること自体に意味がある。また呪文のフレーズのなかにはトロブリアンドの島人にとって意味不明になった個所もある。だが、それは少しでも言い間違えれば効力を失ってしまうので、固定化され、厳格に伝承されていると見なされる。それは儀礼の参加者を神話上の祖先や創始者に「結合させる鎖」となり、島人にとっては、「それだけで唱えるべきまったく十分な理由となる(p.115)」。

◇◆◇

 妊娠について、科学的な認識がないことについて、むしろマリノフスキーをたじろかせた面もある。

 何人かの原住民の報告者たちは、私が、妊娠させるのはバロマではない、妊娠は土にまかれた種のようなものがもたらすのだと断定的に述べたとき、私の論断の中に整合性が欠けているのをきわめて明確に指摘したのであった。私は、毎日、ないしはほとんど毎日繰返されているその原因が、なぜそれほどまれにしかその結果を生まないのかという矛盾の説明を、ほとんど真っ向から求められたことを思い出すのだ(p.150)。

 性交が妊娠をもたらすという認識の障壁になったのは、妊娠から子の誕生までに十か月の期間があることの他に、性交がかならずしも妊娠に結びつくとは限らないという確率も含まれているのに思い当たる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/07

兄妹論 メモ

 母系社会の根拠を明確に示したのはマリノフスキーだ。彼は、1910年代の後半、ニューギニアの東方のトロブリアンド諸島の原住民を観察するなかで見出している。

 トロブリアンドの社会では、子供は長じると、両親以外に、母の姉妹、つまり伯叔母も「母」と呼び、「父」の兄弟、つまり伯叔父も「父」と呼ぶようになる。兄弟姉妹についても同様で、いとこに対しても、兄弟や姉妹の呼称で呼ぶようになる。この呼称は、親族、氏族のある範囲までは拡げて使うのだ。

 子供は、実の母を「母」と呼ぶ時と母の姉妹を「母」を呼ぶ時とで、きちんと区別して使う。どうやってかといえば、感情的抑揚、前後の関係、言い廻しでその違いを表す。子供は文脈や音を変えて、同じ言葉なのに、実の「母」と伯叔母の「母」を混同せずに使い分けるのだ。

 マリノフスキーは、これは語彙の貧困に由来するものではないことを強調している。トロブリアンドでは、同音異義語がとても多いが、それは比喩なのだという。そしてこの比喩は、言葉の呪術的な機能の側面を持っていると洞察している。たとえば、彼らは青空を比喩的に「黒い雲」と呼ぶが、それは旱魃に雨をもたらすのを期待する呪術的な意味を持っているのだ。これは、伯叔母を「母」と呼ぶ時、それは実際の「母」と同じ役割を担いうることを意味していると思える。

 子供にこの使い分けを覚えさせるのは大変なことだが、子供の方からみれば、一度覚えた「母」という言葉に、新しい意味を加えるのは難ししことであり、それは父と母を中心した家族だけでなく親族や氏族の一員にもなる時に乗り越える壁のことを示している。

 ぼくたちはここで、琉球弧における「をなり」という言葉の使い方について思い当たる。伊藤幹治は「八重山群島における兄妹姉妹を中心とした親族関係」(1962年)のなかで、鳩間島の播種(はしゅ)儀礼の過程で祈願が済むと、火の神に供えたもち米を食べ分けするが、その時、最初に手をつけるのは戸主の姉妹であることが原則であると書いている。では、もし戸主の姉妹がいない場合はどうなるのか。伊藤はその例を挙げている。

 姉妹が不在の場合は、父の姉妹(伯母、叔母)が代行する。姉妹も父の姉妹もいない場合は、父の兄妹の娘、つまり従姉妹が代行する。このどれもいない場合は、自分の直系の孫娘がその任に当たる。これ以外にも、姉妹が遠隔地にいたり死亡していたりする場合は、当人の配偶者(妻)になるし、姉妹が幼少の場合は、父の姉妹(伯母、叔母)が代行することもあるという例を挙げている。

 この例は、トロブリアンド諸島における呼称の拡張と通底していると思える。「をなり」に当るものが姉妹を軸に親族のなかで比喩として拡張され、かつ拡張されていくなかで、その役割が実際の姉妹と同等の意味を持つことが示唆されているのだ。このことは、「をなり(神)」という言葉が実際の姉妹だけではなく、恋人や妻などのさまざまな男女関係に用いられることがある根拠になっているものだと思える。

 「をなり神」という言葉に象徴されるように、琉球弧の母系社会の遺制を大きく残しているが、その母系社会の根拠とは何か。

 トロブリアンド諸島では、子供は父と母のもので生まれ育てられるが、子供が長じると、父は自分と同じ氏族ではないことを知り、代わって母の兄弟、つまり伯叔父が父の役割を担うようになる。成長につれて、家族のもとを離れ、伝承や神話を教わり共同の若者宿に入るが、その過程で母の兄弟の影響を受けて氏族生活に入っていくのである。ただし、家は父方のもとに依然としてあり、もともとの家族の紐帯が壊されるわけではない。

 母の兄弟が父の役割を担うということ、言い換えれば実の父の役割が後退することにはどんな背景があるのか。マリノフスキーの観察によれば、それは父と母の性交により母が妊娠し出産するという知識がないからだ。トロブリアンドでは、子供は母方の祖先の霊魂が再生したものだと信じられており、父と母の性交は子供の誕生には関わりがないとされているのだ。

 たとえば、父の長期の留守の後に、子供が生まれていたとしても、父は喜びこそすれ、そこに母と別の男性との交渉はゆめゆめ思っていない。マリノフスキーは、そのことを単に観察するだけではなく、子供は性交の結果ではないかということを彼らに伝えてみるが、驚かないばかりか、それは嘘だとして積極的に反論されている。しかも、猛烈に、だ。クラヤナという女性は「非常に醜いので」、男は誰でも彼女と性交するのを「恥じて」いて、誰にも劣らず「純潔」であったにもかかわらず六人以上の子供を持っていた、というように。だから、これは単純に知識に欠けるというのではなく、性交による妊娠、出産という認識を受け容れないということなのだ。祖先の霊魂の転生という観念は、彼らの生死を含む生活のなかでの信仰にしっかり組みこまれているので、単なる知識は跳ねつけられてしまうのである。

 この男女の性交による妊娠、出産という認識の欠如、あるいはそれを受容しない信仰が、母系社会の根拠なのだ。ぼくたちは、男女の性交により子供ができることを知っている。けれど一方、祖先の霊魂の転生という観念を信じるわけではないまでも馴染んでいる。この、馴染みや親しみの背景に、この認識の拒否、あるいは欠如があるのを知って驚くとともに、理解できるような親しみを覚える。ここには、心動かされもすると言ってもいい。

 ところで、子供の成長に伴う父の後退の背景にはもうひとつ重要な要素が含まれている。父が後退すると同時に、表に現れるのは母の兄弟だった。つまり、兄弟と姉妹の関係である。なぜ、兄弟と姉妹の関係が前面に現れるのか。

 兄弟と姉妹の関係の特異性をヘーゲルは洞察している。

 夫婦の関係と親子関係は、関係をなす両項が感情的に交流するか、等しくないありかたをするかの、いずれかである。これにたいして、純粋な関係にあるのが兄弟と姉妹の関係である。兄弟と姉妹は同じ血を受けていながら、その血が両者のあいだで安定と均衡を保っている。だから、どちらも相手を求めたりしないし、自分の自立性を相手にあたえたり、相手から受けとったりもしないで、自由な個人としてむかいあっている(p.308)。

 兄弟というものは姉妹にとって安定した対等の存在であって、両者のあいだの相互承認は純粋で、自然な関係が混じりこんではいない。だから、この関係にあっては、個がどうでもよいと考えられることはないし、個の共同体的な価値が偶然に左右されることもない。個としての自己が相互に承認されるさまは、血縁上の均衡が保たれていることからしても、両者の欲望が入りこまないことからしても、まさに利にかなったものということができいる。だから、兄弟を失うことは姉妹にとって埋めあわせるようのないことであり、姉妹の兄弟にたいする義務こそ最高の義務である(p.309『精神現象学』G.W.F. ヘーゲル、長谷川宏(訳)))。

 兄弟と姉妹は、夫婦のように「どちらも相手を求めたりしないし」、親子のように、「自分の自立性を相手にあたえたり、相手から受けとったりもしないで」、「自由な個人としてむかいあっている」。血縁という近しい間柄でありながら、「両者の欲望が入りこまない」ので、「個としての自己が相互に承認されるさま」は「純粋」である。だから、「兄弟というものは姉妹にとって安定した対等の存在」である。

 このヘーゲルの洞察を引き継いだのは吉本隆明だった。

 ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の〈対なる幻想〉のうち〈空間的〉な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである。兄と妹、姉と弟の関係だけは〈空間〉的にどれほど隔たってもほとんど無傷で〈対なる幻想〉としての本質を保つことができる。それは〈兄弟〉と〈姉妹〉が自然的な〈性〉行為をともなわずに、男性または女性としての人間でありうるからである。いいかえれば〈性〉としての人間の関係が、そのまま人間としての関係でありうるからである。それだから〈母系〉性社会のほんとうの基盤は集団婚にあったのではなく、兄弟と姉妹の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致するまでに〈空間的〉に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる(p.162)。(p.164『共同幻想論』吉本隆明)。

 兄弟と姉妹の関係は性的な行為なしに、男女の関係に象徴されるような対としての関係を持つことができる。それは永続的であるがゆえに空間的な拡大にも耐えることができる。そしてそれこそは母系社会が親族を展開するときの根拠になったものだ。ぼくたちは母系社会の根拠を見てきたが、ここで母系社会の本質を知ることができる。

わたしのかんがえでは〈母系〉制の社会とは家族の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致している社会というのが唯一の確定的な定義であるようにおもえる。

 対幻想が共同幻想に同致するというのは、本来異質なものである対幻想と共同幻想を同一のものとして一致させるということだ。「わたしたちは家族である」という対幻想を、「われわれは家族である」という共同幻想にまで拡大したということだ。

 ここで「家族」という言葉には、現在の語感に付着した意味をまとわせるとしたら言い換えることもできる。マリノフスキーはトロブリアンドの島人の口にのぼった「兄弟姉妹は同じ肉体でできている。彼らは同じ母から生まれたものであるから」という言葉を書きとめているが、それにちなめば、「われわれは同じ肉体」である、あるいは「われわれは一体である」と言ってもいい。この、「われわれは一体である」ということが共同幻想でもあったということが母系社会の本質なのだ。

 ぼくたちは琉球弧もかつて兄弟姉妹が親族展開の梃子になった母系社会であったことを、兄妹が始祖になる伝承や説話、神話のなかに見出すことができる。それは琉球弧全域に分布しているものだ。

 島コーダ国コーダが島を建設して、島は建設したが島が地揺れし、土がぐらついて、此処踏めば彼処上がり、彼処踏めば此処上り、仕方がないので神に相じた(相談した)。相じた処が神様が言われる。汝程の島コーダ国コーダ、その位の事が分からなかったのか、東の岸には黒石置け、西の岸には白石置け。国は建設したが、人間造ることができない。又神に相じた。神様は、土で仏様のごと造って息を込めれば人間ができる、と言われる。
 人間は造ったが、子の出来るような方法は如何であろうか。又神様に相じたい。神様が言われる。えけが(男)の家は風上に造れ、女子の家は風下に造れ。造った処が、風上の男の息が、風下の女の息にかかって、子が出来るようになった。(岩倉一郎、沖永良部島)
仲のよいフナキー(兄と妹)がいた。兄と妹と二人で小舟に乗った。舟は、凪であったが海の上をすべるように進んだ。海の真中で小舟のハジ(かじ)がひっかかってしまった。そこは瀬になった。海水は、左、右と前後にひいて大きな浅瀬になった。そしてたちまち島になった。二人はオーテントーサマ良い島を産みくださり感謝しますと拝む。兄は”良い島だ”妹は”よい島”にしようと話す。二人は、たいそう喜び家を建ててそこを国垣と呼んだ。ある日天を飛んでいた二羽のホートイ(白鳥)が夫婦のちぎりを結んだのをみて、フナキーはおどろきまねて仲むつまじく暮らしているうち、たくさんの子が生まれる。その子孫は、島一杯になり盛んになった(栄喜次郎、与論島)。
むかしむかし古宇利(フイ)島(運天港の入口にある小さい島)に男の子と女の子が現われた。二人は裸体でいたが、まだこれを愧ずるという気は起らなかった。そして毎日が天から落ちてくる餅を食って無邪気に暮していたが、餅の食い残しを貯えるという分別が出るや否や、餅の供給が止まったのである。そこで二人の驚きは一通りではなく、天を仰いで、
 たうたうまへされ、たうまうまへ(お月様、もしお月様)
 大餅ちやと餅お賜べめしよれ(大きい餅を、太い餅を下さいまし)
 うまぐる拾うて、おしやげやべら(赤螺を拾うて上げましょう)
と歌ったが、その甲斐も無かった。彼等はこれから労働の苦を嘗めなければならなかった。そして朝な夕な磯打際でウマグルなどをあさって、玉の緒を繋いでいたが、或時海馬の交尾するのを見て、男女交媾の道を知った。二人は漸く裸体の愧ずべきを悟り、クバの葉で陰部を隠すようになった。今日の沖縄三十六島の住民はこの二人の子孫であるとのことだ。(伊波普猷「お隣りのお婆さんから聞いた話」)
昔々大昔のことヴナゼー兄妹があった由。或る晴れた日のこと外の人々と共に野良に出て畑を耕していると、にわかにはるか彼方の海から山のような波がよせて来るのを見つけ、兄は妹をいたわりつつ高い岡にのぼって難をしのいだとのことである。周囲見まわして見ると人は一人もなく地上に一切のものと共に津波にさらわれてしまった。兄妹は致し方なく草のいほりを作り妹背のちぎりを結んだのであった。そして二の間から先づ一番初めに生れたものはアジカイ(シャコ貝)で、その次に始初めて人間の子が生れて、これからだんだんひろがってこの島一ぱいに人々が繁昌したと云うとのことである。島人は今ヴナゼー御拝(オガン、一種のお宮)を二人を島立ての神として祭ってある。(宮古島)
アマン神が、日の神の命で、天の七色の橋からとった土石を大海に投げ入れて、槍矛でかきまぜて島を作り、さらに人種を下すと、最初にやどかりがこの世に生れ出た。地中の穴から男女が生れた。神は、二人を池の傍に立たせ、別方向に池をめぐるように命じた。再び出会った二人は抱き合い、その後、八重山の子孫が栄えたという。(石垣島白保)
むかし天にアマミクという神がいた。天帝は地上におりって島をつくれと命じたので、マミキクがおりてみると、霊地のようにみえたが、東の海の浪はうち寄せては西の海へ越えてゆき、西の海の浪はうち寄せて東の海へ越えていた。アマミクは天帝に土石草木を給わりたいといって、もらいうけて島々の御嶽と森をつくった。数万年たっても人がいないので、アマミクは天帝のところへゆきひと種を乞うた。天帝はじぶんの男女の子をくれた。この兄(弟)と妹(姉)神は性的な結合はしなかったが、住み家がならんでいたので、ゆききして吹く風をなかだちにして、女の神は受胎した。そして、三男二女を産んだ。長男は国王の始祖で天孫氏といった。二男は諸侯のはじめ、三男は百姓のはじめ、女は聞得大君のはじめ、二女はノロのはじめになった。(『中山世鑑』)

 ここで、始祖が兄妹であることは石垣島の伝承のみが明示されていなかったり、宮古島と石垣島では、はじめは子供の作り方をしらなかったのことは触れられておらず、代わりに最初に産んだのが、宮古島は「シャコ貝」、石垣島は「やどかり」ということが強調されていたりという特徴はさまざまだが、一対の男女から人間の歩みが始まったことは貫徹され、その一対が石垣島を除けば兄妹であることが明示されている。

 子供の作り方は、「海馬の交尾するのを見て」、「二羽のホートイ(白鳥)が夫婦のちぎりを結んだのをみて、フナキーはおどろきまねて」と、古宇利島と与論島の伝承や説話が繊細さを残している。『中山世鑑』では「ゆききして吹く風をなかだちにして」と、抽象化とおすまし化を受けている。また、沖永良部島では「風上の男の息が、風下の女の息にかかって」と、さらに抽象化が進んで、童話の趣きも持っている。

 ぼくたちはここに琉球弧が母系社会であったことを認めることができるが、同時に、最初に生まれたのがやどかりやシャコ貝であったり、性交の仕方を「海馬の交尾するのを見て」、「二羽のホートイ(白鳥)が夫婦のちぎりを結んだのをみて、フナキーはおどろきまねて」など、動物に教わったりする、その島人の視線のなかに、自然を擬人化し、動植物と人間とを区別せず同じものと見なした人間観、自然観が宿っているのを見出すことができる。これはある意味でとても豊かな感じ方ではないだろうか。

 それとともにひとつの疑問を抱かせる。それは男女の性交が子供を産むことにつながることを、これらの伝承や説話、神話は盛り込んでいることだ。いままで見てきたように、母系社会は、男女の性交が子供を孕むという認識の無いこと、またはその認識を受容しないことを根拠に成立したことを見てきた。しかし、琉球弧の伝承や説話、神話が語ることを踏まえれば、その認識を受け容れた後にも母系社会は続いたことを意味している。言い換えれば、兄妹が始祖になる琉球弧の伝承、説話、神話は、性交と出産の関係の認識の後に創られたものだということだ。そしてそうなら、それ以前の伝承、説話、神話があったということを意味する。

 ここでも、マリノフスキーは示唆を与えている。 

原住民の伝承にれよれば。人類は地下から発生した。そしてその地下から、兄と妹とのひと組が異なった特定の場所に現われたのである。若干の伝承では、女性だけが最初に現われている。(中略)さて、兄妹を伴うか、伴わないかは別として、最初の女子は常に夫あるいはその他の男子の伴侶者なしに子供を産むと想像されている(p.150『未開家族の論理と心理』)。

 トロブリアンドにおいても始祖は兄妹である。しかし二人は地下から別々の場所に現れ、かつその妹は性行為なしに子を生むと伝承されているのだ。これは、男女の性交は子の出産には何の関係もなく、先祖の霊魂の転生であるという母系社会の根拠と矛盾なく整合されている。ぼくたちはここから琉球弧の兄妹始祖の伝承や説話、神話の原型を遠望することができるだろう。

 母系社会の進展のなかで、子の誕生を、祖先の霊魂の再生という信仰その外に、男女の性交の結果という認識を受け入れたこと、受け入れる過程は大きな衝撃が伴ったと思える。世界観を覆しかねない認識の転換を含むからである。霊魂の転生という信仰は捨てられない。しかし、性交の結果の子生みという観念を組みこまなければならない。こうした矛盾を背負い、それに応えようとしたのが、白鳥や海馬の交尾をまねるという性行為の間接化なのではないだろうか。人類の歴史のなかで、人間が性行為を知らなかった時代はない。そうだとしたら、はじめ性交を知らなかったという口頭伝承は、ほんとうは性交の結果、子供が生まれることを知らなかったことの虚構化、物語化なのだと思える。

 トロブリアンド諸島においても既に兄妹婚は禁忌になっている。子の成長につれ後退する父も、妊娠から出産までは、妻と同様に、その期間に特有のタブーを守り、儀礼をとり行う。しばしば夫婦間の精関係も禁止される。その上、夫は陣痛と出産の状況をまねる行為を行ってまで、妻に寄りそうこともする。子が生まれるためには二人は夫婦でなければならない。子が氏族のなかで認知を受けるには、二人は結婚していなければならないのだ。この父の役割の重要性をトロブリアンドの島人は、「子供を両腕に抱きとる」存在と表現している。

 母系社会の親族が母とその兄妹の関係を梃子に展開するなら、妊娠から出産までの役割を母の兄弟が担うことはないのだろうか。マリノフスキーは明確に否定している。「彼女は自分の兄妹の中に自然なる主人および保護者を有している。しかし、兄弟は、彼女が守護者を必要とする全部にわたって彼女の面倒をみる地位にあるのではない(p.175)」。妊娠中、女性は「男から心をそらす」必要があるが、「厳格な兄弟姉妹のタブーのために、彼は彼の姉妹の性に関することを考えることすら慎重に避けなければならなからである(p.175)」。

 母系社会は、親子婚はもちろん兄妹婚の禁忌のうえに展開され、兄妹姉妹の関係を梃子に親族や氏族を生みだしていく。だから、兄妹始祖の伝承や説話、神話における兄妹の性交の語りは、幻想上の観念上の行為であり、母系社会の本質を言い当てた行為であることを語っているのだ。

 ぼくたちはここに、母系社会の根拠の深さと長さを知るとともに、「をなり神」の根底の深さを知ることになる。

『精神現象学』(G.W.F. ヘーゲル、長谷川宏(訳))


『共同幻想論』(吉本隆明)


  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/06

祝(はふり)とソールイガナシ

 初期共同体の神事と現世の統治形態には、姉弟(女-男)の他に、兄弟(男-男)という系列もあった。

 神話はあらわには記述していないが、じっさいの遺跡や、神話のかくされた記述をたどると、この逆のばあいもありうる。はじめの自然都市の首都である山頂の神の降臨地に到達し、そこに座って神の降りてくるのをまつと、じぶんも生き神として再生できるのは男性である。そのための修練をうけるのも男性だ。そういう原理も、日本(やその周辺)で痕跡を残している。いずれにしてもはじめの自然都市は、単性的な禁忌を原理にして、その都市に住む者は形のない女巫または男巫の一方か神だけで、その都市に入るものは境界のところで検閲をうけ、それに適合したものだけが、自由に出入りできたのだ(p.216『ハイ・イメージ論〈1〉』吉本隆明)。

 ここで「神話のかくされた記述」は、神武の勢力を宇陀で迎える兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)や、

 じぶんは仇敵を殺すことができなかったが、お前は仇敵を殺すことができた。だから兄だといっても、統治者というわけにはいかない、そこでお前は統治者として天下を治めてもらいたい。わたしはお前を助けて、忌人(神人=祝)となって神殿に仕え、祭りを司ることにしよう(p.219)。

 とした、次兄の神八井耳と末弟建沼河耳(綏靖天皇)が挙げられている。神武自身も兄弟(男-男)系で動いているが、母系の原理に添って婚姻を結んでいる。

 これらのような典型的なパターンは琉球弧にあるのか、分からないが、似ていると思わせるのはソールイガナシだ。

 ソーリィガナシは毎朝グルガーに瓢をもつてゆき沐浴してカベールの神に豊漁を祈願する。ソーリィガナシは庭に阿旦(パンダナス)の木を植えてウミジョー(竿)を立てておく。祝女や根神が農耕の司祭者であるのに対して、ソーリィガナシは海の神事の司祭者として、この地位にあるものは最早普通人ではないのである。この地位についたものは如何なる目上の人にも頭を下げて挨拶せず、合掌するだけである(p.53「久高島島の三月の祭」国分直一、1957年)

 ここには「忌人(神人=祝)」の性質がゆるやかに認められる。

 琉球弧では母系の原理が強かった。そこで、久高島のソールイガナシも父系の原理で登場しているのではなく、母系社会のなかの男子結社のなかから生み出されている。イザイホーにおいては、母系の原理が見られ、三月の浜下りでは男性の「忌人(神人=祝)」が顔を出す。二つの祭祀集団はもともと異種族、あるいは島へ到来した出自や時期が違っていることを示すと思える。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/05

神の類型仮説メモ

 琉球弧に現れる神の類型仮説メモ。

1.生者(生き神、姉妹は「をなり」神)
2.祖先(身近な人、遡れる範囲)
3.浄化された祖先(2が、33年忌などを開けて浄化されたもの)
4.祖霊(抽象的な先祖の霊)
5.始祖(われわれを作りだした。われわれの元の姿)
6.新しい技術をもって到来した人々
7.高神

 7類型は厳密に区分できない、あるいは区別して認識されているわけではない。ただ、これらのどこかで、そしてどれかとどれかをまたぐように表象していると捉えることで、見えてくるものを掴んでみたい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/04

国民の承認

 7月1日の首相官邸前のデモに参加した。これはちょっとやばいのではないかという身体的な反応からだった。永田町駅は交通止めされていて、国会議事堂をぐるりとまわったが、総理官邸前の交差点は既に人で満ちていて、先へ進むのを諦めた。教条的ではないコールとしなやかないでたちを期待する気持ちがあったが、それは半分は満たされたように思う。夕方、6時近い頃、閣議決定がされたという報が現場に伝わるとシュプレヒコールの声に緊迫感が増した。

 日本人という自認が自然な形ではやってこないので、大和は異国という感覚は、次第に弱まっているが、消えていない。沖縄の米軍基地にしても、異国である日本とアメリカが酷いことをしているという認識に傾きがちだ。けれどそれでは傍観的な態度に終始してしまう。やばいという身体的反応はそれも理由だったかもしれない。

 その手前にあったのは、基本的な人権や生活権を損なう恐れがあるという認識だった。その可能性のある決定に従う気はないという意思表示。そして、憲法、とりわけ9条を空文化する決定には反対だ。それを、国民の信を問うことなく決定することに、なお反対だ。

 「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」の5項目。

また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。

 少なくとも、これは「国会の承認」ではなく、「国民の承認」とすべきところだと思う。

 閣議決定の報せが現場に届いた時、ふと村山富一の、「自衛隊合憲、日米安保堅持」という発言を思い出した。考えてみればあれから20年、決定のひとつひとつは何も変えないように見えても、ことは忍び足でやってくるというのはこういうことかと合点する。

 70年間、他国と戦争をしていないという資産を生かし、東アジアと信頼関係を構築する。かつ、対米従属を相対化し、日米安保条約を解消する。そのことにより基地を経由した戦争協力も解消する。しかも、それをアメリカとの信頼関係を構築するなかで行う。という、ビジョンを腹の底に据えた政権を、ぼくは望む。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/03

ヒメ-ヒコ制、メモ

 ヒコ-ヒコ制とヒメ-ヒコ制。日本列島における初期の統治形態の場合。

 「男・男」の場合、年長者が神事を担当し、若いほうが地上を治めた。
 「男・女」の場合は、女性のほうが神事を司り、その夫なり、姻戚関係にあった男が地上を治めた。
 このふたつのパターンが分立していたように思います。
 『古事記』にはこの二類型が最初から出てきますから、おそらくこのふたつが日本における共同体のあり方、つまり国会以前の国家のあり方だったと考えられます。(吉本隆明『日本語のゆくえ』

 神武東征のなかで長男である五瀬命が宗教的な神事を司り、若御毛沼命(神武天皇)が地上の統治を司る。神武の勢力が大和の国に盤踞したとき、その地域にはすでに「男・男」の共同体も存在していた。

 その他、諏訪の大祝(おおはふり)。神事を司る大祝は男、地上の支配者も男。大三島を根拠に瀬戸内海を支配していた河野水軍も、兄が神事を司り、弟が海賊的な行為で支配(『瀬戸内軍事史』)。河野水軍は、のちに倭寇として恐れられる。和歌山の枯木灘も水軍が発達。村対抗のカヌー競争。

 邪馬台国の卑弥呼の場合は、女がシャーマン的な神権を握り、兄弟なしいは夫が政治的な権力を掌握。

 琉球弧の場合、聞得大君と国王は、初期には、姉妹が聞得大君になるが、次には王妃に変わる。この背景には父系の強まりを見ることができる。

 「男・女」の象徴的なケースは、姉・弟の形を取る。「男・女」が、姉が神事、弟が地上というように「姉」と「弟」となって現れるのは、日本本土の場合、アマテラスとスサノヲのように、神話時代に押しやられている。

 アイヌラックルでは、山城の奥深くで姉(巫女)にいつくしまれて育てられたのち、悪神を退治し、姉のすすめる女性を妻にする物語がある。そしてアイヌラックルは『記』『紀』のスサノヲの伝説によく類似しているとおもえる(吉本隆明「表出としての神話」「南島論」)

 琉球弧のなかでは、「姉・弟」の形は、ユタ、ノロの伸長とともに多く出現したと思えるが、神話や民間伝承のなかにあるかどうかは知らない。『中山世鑑』において、アマミクだけが神話に登場するのは、その痕跡かもしれない。与論のアージニッチェーでも、ニッチェーは兄でインジュルキは妹だ。
 

『日本語のゆくえ』



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/02

『未開家族の論理と心理』

 マリノウスキーの『未開家族の論理と心理』で、まず目を引かれるのは、呼称のことだ。子供は、「父」、「母」を自己の両親に使うが、長じると、母の姉妹も「母」と呼び、父の兄妹も「父」と呼ぶ。そして、父、母だけでなく、兄弟、姉妹も「遠い親族および氏族員のある層にまで拡張して用いる(p.26)」。

 父を示す「タマ」は「わたくしの母の夫」を指し、長じて父に代わって登場する男を「カダク」と呼ぶが、それは「わたくしの母の兄妹」を指している。

 子供は母の姉妹にまで母という言葉を用いるとき、その使い方はとても困難だが決して「この二人を混同せず、また二つの観念を混同しない(p.99)」。どうやって使い分けているのかと言えば、感情的抑揚、前後の関係、言い廻し(p.97)によってだ。トロブリアンド諸島は同音異義語が多いが、それは言語の貧困や語法の粗雑に基づくものではなく、比喩なのだ。母の姉妹には、母の比喩としての「母」を用いている。母方の伯叔母は母に相当する可能性を有している存在なのだ。

 「原住民は青空を比喩的に黒い雲と呼び、その非人間的な力に旱魃を雨に変える拘束的義務を課する」(p.98)ように、呪術における語法と相同している。

 これらのことは、ぼくたちが「をなり」と呼ぶとき、それは姉妹に対してだけではなく、従姉妹のこともそう呼んだ時期があるかもしれないという考えに導かれる。そしてこの比喩の語法は、をなりに該当する姉妹がいない時、親の伯叔母や従姉妹、孫娘、妻にも適用されることにもつながっている。

◇◆◇

 「子供の肉体をつくりあげるものはただもっぱら母親だけであって、夫はその形成に全然たずさわらない(p.120)」と考えられている。なぜなら、「霊魂の子は人類が新しい生命の供給を引き出しうる唯一の源泉(p.135)」だからである。「精液は原住民の思惟においては、なんら生殖的価値を授けられていない(p.130)」のだ。つまり、性交が子供を孕ませる認識がないのである。

 そしてこれはただ、知らないというだけではない。この認識を伝えても認めない、積極的なものだ。「首尾一貫していないとしても、完全に整合的、自己充足的なものである(p.146)」。

 わたくしは誘導尋問を用いることや原住民の考えを否定することによって彼らの考えをひき出すことにけっして臆病ではなかったが、受胎の原因の討議において、わたくしは自分の擁護する見解に対して、原住民が猛烈に反対することに幾分驚き、気が進まなくなり、納得しなくとも、すぐに折れてしまった(p.155)。

 たとえば、クラヤナという女性は「非常に醜いので」、男は誰でも彼女と性交するのを「恥じて」いて、誰にも劣らず「純潔」であったにもかかわらず六人以上の子供を持っていた、などと積極的に反論されるのだった。

 ただし、「処女は妊娠することができない」ということも信じられている。ある説明によれば、受胎する道がないからで、口が大きく開いていると、霊魂が気づき、子供を授けるというものだが、同じ説明者が、霊魂が頭から入ることを言いもして一貫はしていない。一方で、子供のために道は開かれなければならないが、それは必ずしも性的交渉によってもたらされる必要はないとも言われている。

◇◆◇

 父は惜しむことなく子供の面倒をみて、深い情愛を感じささげ、教育にもたずさわる。母とも親密な関係にあって、家庭の主人である。しかし、子供が成長すると、父は後退し、代わって母の兄妹が登場する。が、完全にとってかわられるわけではなく、「死に当ってさえも親子関係の紐帯は破られることはない(p.77)」。

 女性は妊娠すると、タブーを守り儀式的な規則をまもらなければならない。そしてしばしば夫との性関係も禁止される(p.51)。同時に夫も種々のタブーや儀式を遵守する他、クウヴァドも行う。クウヴァドとは、「夫が陣痛と出産状況をまねる」ことだ。こんなことまでやってのけるのも妻子の幸福のための努力なのだ。

 子供が生まれるためには、二人は結婚していなければならない。「子供を両腕に抱きとる(p.175)」存在が必要なのである。母の兄妹はその役をなしえない。「彼女は自分の兄妹の中に自然なる主人および保護者を有している。しかし、兄妹は寛恕が守護者を必要とする全部にわたって彼女の面倒をみる地位にあるのではない(p.175)」。妊娠中、女性は「男から心をそらす」必要があるが、「厳格な兄弟姉妹のタブーのために、彼は彼の姉妹の性に関することを考えることすら慎重に避けなければならなからである(p.175)」。

 さらに、子は父に似ると考えられている。母には似ないどころか、似ていると指摘することは侮辱と捉えられてしまうほどだ。なぜ、父と似るのか。母と子は肉を同じくしているが、顔は似ていない。父が似るのは、一緒にいるから固まる、型取るからだ、と言われている。

 長じるに及んで疎遠になる父との紐帯を維持するための、無意識のバランス感覚だろうか。

◇◆◇

 霊魂は死後、死者の島であるツマ(Tuma)へ移り、現世と似た、ただ現世より愉快な生活を送るが、不断の若返りに倦むと、ふたたび現世へ復帰したくなることもある。霊魂はふたたび嬰児にかえる前に塩水で沐浴しなければならず、その後、海に出て、「流木、木の葉、樹皮、かれた海藻、海の泡沫(p.136)」、その他、浮遊している軽い物質」に乗って漂うと言われている。そうではないという意見もある。年長の霊魂が嬰児を運んで、妊娠する女性の夢に現れる。夢を見た女性は、「嬰児を彼女に授けたのが誰であったかを話すことが多い(p.138)」。

 多くの人は「胎児が誰の肉体再現であるか-胎児がその前世において誰であったか-ということは誰も知らない」、「唯一承認されている規則は、氏族および亜氏族の継続性が一貫して保存されているという規則である(p.144)」。

 霊魂が再生するまでのプロセスのあいまいさは琉球弧においても共通するものだ。

◇◆◇

 (霊魂の若返りの力は-引用者)、人類の祖先たちが地下に住み、いまだ地表へあらわれてこなかった時代に、かつて全人類によって共有されたものであった、。今日でも、われわれは、蟹、蛇、蜥蜴のような穴居動物や爬虫類は、大気の中に住んでいる動物の持たないところの脱皮して若返る力を有しているのをみる。人類は地表に出てきた後、しばらくの間、この能力を保っていたが、情況神話(circumustantial myth)の中で物語られているように、ただ不注意と悪意のために、それを失った。地下の世界であるツマにおいては、霊魂はいまなおこの幸福な特権を完全に享受している(p.134)。

 ツマは「死者の島」である一方で、地下とも言われているのは興味深い。本源的には「地下」であると思われる。そしてツマが脱皮のできる世界であるということは、人間が脱皮のできた時代を他界として表象しているということだ。これは重要な点だと思う。

原住民の伝承にれよれば。人類は地下から発生した。そしてその地下から、兄と妹とのひと組が異なった特定の場所に現われたのである。若干の伝承では、女性だけが最初に現われている。(中略)さて、兄妹を伴うか、伴わないかは別として、最初の女子は常に夫あるいはその他の男子の伴侶者なしに子供を産むと想像されている(p.150)。

 これも面白い。性交が子を孕むという認識のない段階から、地下から現れたのは、「兄と妹」だった。ということは、兄妹始祖神話にはまだ原型があって、「はじめ性交を知らなかったが海馬(ジュゴン)の交尾をまねて性交し子を生んだ」というくだりは、性交と出産についての認識を受容した後に、加えられたものだということだ。

 兄弟姉妹の紐帯の強さについては、「兄弟姉妹は同じ肉体でできている。彼らは同じ母から生まれたものであるから(p.121)」という原住民の言葉によっても明かされている。

男子なくしてどうして子供を産んだのかということを素直に尋ねると、いつも原住民たちは多少の粗雑さまた、冗談にまぎらわして彼らが容易に用いることができた穴あけの若干の手段を挙げ、そしてそれ以上の必要がないことがあきらかであったと述べるのである(p.151)。

 子の誕生は霊魂の仕業であれば、男子が不要なのは信仰上、当然のことだった。

 
 自分の関心に引きよせると、『未開家族の論理と心理』のポイントは上記になると思う。母系社会について、たくさんの示唆を与えてくれた。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/07/01

なぜ、兄妹なのか

 兄妹始祖神話は、兄と妹がはじめ性交を知らなかったが、海馬の交尾を真似て、風を仲立ちにして子を孕むという展開を持つ。

 なぜ、兄妹なのか。それは、母系社会においては、母子関係がもっとも重要な意味を持ち、かつ、子の後見者や保護者としては、母の兄弟が大きく登場してくるからだ。つまり、母である姉か妹と、その兄弟が父母の役割を担うことになる。これが、「兄妹」であることの意味だ。

 なぜ、実の父は後退するのか。それは子を孕み、出産することに、父は何の関係もないと見なされるからだ。性交が子供を生むことについての認識が無かったのである。

 「はじめ性交を知らなかったが、海馬の交尾を真似て、風を仲立ちにして子を孕む」という展開には多義的な意味が込められている。人類は性交を知らなかった時期を持たないのだから、「はじめ性交を知らなかった」というのは別のことを言おうとしている。それは、性交を知らなかったのではなく、性交の結果、子が生まれることを知らなかったということだ。もうひとつは、兄妹婚が既に禁忌にされていることを暗に言おうとしている。そして重要なのは、神話の性行為は実際の性行為ではなく、幻想的な、観念上の行為だということである。

 「海馬の交尾を真似て、風を仲立ちにして」というのは、自然や植物と人間を同一視しているとともに、虚構の物語を生むことで動物生を否定するモチーフも内在させている。

 また、兄妹始祖神話は、母系社会の進展ののち生み出された後に生まれている。既に性交と子の出産の関係の認識を持っているからである。そして対幻想を共同幻想に同致させることに神話の本質を持っている。対幻想を共同幻想に同致させるとは、言ってみれば、「われわれは家族である」という観念に共同体の信憑を置いたのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »