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2014/06/26

脱皮論 メモ

 琉球弧では、蛇をトーテムとしていた時期がある。蛇トーテム、言い換えれば蛇を祖先とみなしたのである。姿形が似ても似つかない蛇が、なぜトーテムでありえたのか。ここでもぼくたちは、人間と他の植物や動物が、精霊が形を現わしたものとして同等の存在であったことを思い起こす必要がある。そして、さらに蛇を選択したことのなかに、何を人間と同じものとして見出したのかを問わなくてはならない。

 竹富島では、「赤蛇(あかはぶ)は神、青蛇(おうじはぶ)が水神といわれ、また家の祖神ともいう」(上勢頭亨『竹富島誌〈民話・民俗篇〉』1976年)という伝承があった。伝承に留まらず、蛇をトーテムとしたことを名称と挙措で明瞭に伝えているのは、八重山の来訪神儀礼、アカマタ・クロマタである。アカマタという言葉は、琉球語は赤蛇のことである。

 久高島の伝承で、「カベール森の道の西側にアーマン権現という洞窟があり、この洞窟でアカマターと呼ばれる蛇を二匹とったところ、それは兄弟と姉妹であった」(小島瓔禮、「イザイホー調査報告書」1979年)は、アカマタが蛇の名称であること、そしてトーテムであったことを伝えている。

 また、この祭儀に西表島、新城島、小浜島で立つ会う機会を得た喜舎場永珣は、「黒マター親神は一寸姿を現わしたかと思うとすぐまた隠れる。さらにまた一寸現れたかと思うと、またその姿を隠す。そのような動作を九回繰り返したのちに、やっと出現してくる(p.297)」と描写している(「赤マターの神事に関する覚書」『八重山民俗誌』所収)。この姿を現しまた隠れるという動作は、「蛇が穴から出る動作を表す」のだと信じられていると、湧上元雄は報告している(「祭祀・年中行事の位相」(p.196))。

 アカマタ・クロマタはトーテムとしての蛇へ化身することにより来訪神化することが伺えるが、神女たちの中にも蛇は登場している。

 昔の呪女(のろ)神は、よく波布(ハブ-引用者)を制し、アヤナギを這わすといってアラボレ(十五、六才の娘らよりなる、呪女の従者)をたちの頭髪に波布を巻きつけたという。(p.258『奄美に生きる日本古代文化』金久正)

 アヤナギは、「綾蛇」で蛇の美称にあたる。また、谷川健一は、石垣島川平で、次のような話を聞いている。

 川平の群星御嶽(ゆぶしいおん)に各御嶽の神女(ツカサ)があつまって神遊びをした。ハブを手のひらにのせて次々に手渡しながら、心のよしあしをさだめる儀式である。心のわるいツカサのときはハブは首をもたげ、信仰を守るツカサの場合は、ハブは眠ったように、おとなしくなるといわれたという(p.12『蛇: 不死と再生の民俗』

 同様の所作は宮古島にも見られ、神女が晩秋の祭時に際して、冬眠に入りつつあるハブを頭髪に乗せる例がある(国分直一『海上の道―倭と倭的世界の模索』)。これらの蛇との戯れのなかには、蛇トーテムの概念は見られないが、「頭髪にハブを巻きつけ」ることができたように「ハブを制し」たり、「ハブを手のひらにのせて次々に手渡」す所作のなかに、ハブ(蛇)と心を通い合わせられるという形で、トーテム原理の残存を見ることができる。

 アカマタ・クロマタは蛇トーテムであることは、その誕生の仕方によっても示されている。八重山の来訪神儀礼では、来訪神の誕生を「すでる」と表現する。「すでる(しぢる)」とは生まれるという琉球語だ。

 この、「すでる」について深い洞察を示したのは折口信夫だ。「しぢゆんが唯の「生れる」ことでない」。

 清明節のしぢ水に、死んだ蛇がはまつたら、生き還つて這ひ去つた。其がしぢ水の威力を知つた初めだと説くのが、先島一帯の若水の起原説明らしい。此語は其以前ねふすきいさんも、宮古・離島に採訪して来た様である。ある種の動物にはすでると言ふ生れ方がある。蛇や鳥の様に、死んだ様な静止を続けた物の中から、又新しい生命の強い活動が始まる事である。生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語ではすでると言うたのである。気さくな帰依府びとは、しぢ水とも若水とも言ふから、すでる・しぢゆんに若返ると言ふ義のある事を考へたのである。さう説ける用例の、本島にもあつたことを述べた。
 さう説くのが早道でもあり、ある点まで同じ事だが、論理上に可なりの飛躍があつた。すでるは母胎を経ない誕生であつたのだ。或は死からの誕生(復活)とも言へるであらう。又は、ある容れ物からの出現とも言はれよう。しぢ水は誕生が母胎によらぬ物には、実は関係のないもので、清明節の若水の起原説明の混乱から出てゐる事を指摘したのは、此為である。すでることのない人間が、此によつてすでる力を享けようとするのである。(『古代研究〈1〉祭りの発生』

 「すでる」とはただ、生まれるという意味ではない。鳥や蛇のように「生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語ではすでると言うたのである」。それは「死からの誕生」あるいは「復活」と言ってもいい。つまり、アカマタ・クロマタの誕生は、やはり蛇の生まれ方、「すでる」を再現しているのである。

 それでは、その「すでる」蛇に何をみていたのか。ここで折口の洞察は示されている。

我々から見れば、皮を蛻ぐまでの間は、一種のねむりの時期であつて、卵は誕生である。日・琉共通の先祖は、さうは考へなかつた。皮を蛻ぎ、卵を破つてからの生活を基礎として見た。其で、人間の知らぬ者が、転生身を獲る準備の為に、籠るのであつた。殊に空を自在に飛行する事から、前身の非凡さを考へ出す。畢竟卵や殻は、他界に転生し、前身とは異形の転身を得る為の安息所であつた。蛇は卵を出て後も、幾度か皮を蛻ぐ。茲に、這ふ虫の畏敬せられた訣がある。(『古代研究〈1〉祭りの発生』

 折口は、蝶や蛇が卵の殻を破ったり皮を脱いだりするのを注視している。今日のぼくたちは卵は誕生で、皮を脱ぐまでの間は「一種のねむり」の時期であるとみなす。けれど、「日・琉共通の先祖」はそうは考えなかった。皮を脱ぎ、卵を破ってからの生活を基礎としてみていた。そこで、卵になったり、皮を破るまでの間は、転生を測るための「こもり」の期間であると見なした。特に、蛇は卵を出た後も、何度か皮を脱ぐ。

 蛇の皮を脱ぐ行為に見たもの。それは転生だった。つまり、蛇トーテムとは、蛇が皮を脱ぐことのなかに転生、再生を見ていたということである。

 ぼくたちはここで折口の論を一歩、進めなければならないと思う。それは、「しぢ水」を浴びることによって、「すでることのない人間が、此によつてすでる力を享けようとするのである」と考えている点だ。蛇トーテムが失われた段階では、「すでる力」を授かろうとする祈願になるが、蛇をトーテムとした段階ではそうではない。卵を破り、皮を脱ぐことによって再生する蛇に、人間と同じものを見ていたのだ。なぜなら、人間も再生するからである。ことに、何度も皮を脱ぐのが蛇であれば、蛇を選択したことのなかには、豊かな再生力を見ていたと考えられるのだ。

 ネフスキーは1922(大正11)年に宮古諸島で、蛇と人間にまつわる伝承を聞き取っている。

 節祭(シツ)の夕には蛇より先に人が若水を浴びて居ったから、人が若返り、蛇は若返らずに居った。処がある年、蛇にまけて人が後で若水を浴びたから、蛇が若返り人は若返らぬ様になったといふ(富盛寛卓)。

 むかしむかし節祭(シツ)の夕に天から水を下ろして下されたら「人から先に浴びろ」との事でしたが、人間がまけて蛇が先になって浴びたので、人間は仕方なしに手と足とを洗った。だから爪だけがいくらぬいても、つぎからつぎへと生えて来るのである。蛇は死んでもどんどん蘇生してゆけるのである(垣花春綱、『月と不死』)。

 前者の伝承では、「どういう様子で当時若返ったものか」とネフスキーの問いに、富盛は「蛇の様に皮を脱いだものだ」と答えたと言う。この二つの伝承では、トーテムの原理は失われて、人間と蛇は対比されるものとして登場している。と同時に、トーテム原理が失われたことによって、人間と蛇の対称性も失われ、人間は死に蛇は再生するものとして蛇のようにありたいという祈願の対象になっている。ここにはトーテム原理を失うことが生と死の連環を断ち切り、死が生まれたことが示唆されているように思える。

 残存する蛇トーテムが現れるのは来訪神の名称としてだけではない。地名も現れていると思える。宮古島の西の伊良部島と奄美諸島の沖永良部島だ。どちらも島名の本体はイラブだが、イラブとは琉球語で海蛇だ。伊良部島ではスーフツミー、沖永良部島ではフーチャと呼ばれる潮吹きの穴が存在している。高波が潮を空中高く舞い上げ、沖永良部島では、コンクリートで塞がれる前、その高さは「八丈(約24メートル)」に及んだと言われている。その景観は、島人に龍の姿を見させることになった。イラブとは、神化されたトーテムとして名づけられたと思える。

 神名が地名となるのは、大和で、「愛比重(えひめ)」という神名が県名になる例にも見られる。『古事記』では、「愛比重(えひめ)」は、「伊予国(いよのくに)」として神名と島名は二重化されている。ただ、たとえば吉本隆明は「南島論」のなかで、「伊岐島」の神名、「天日登都柱(あめのひとつはしら)」は、「一本の柱のような形をしている」という地形の形状から名づけられているのに対して、イラブ(伊良部、永良部)は、トーテムとしての意味を明瞭に残していると言える。

 ところで琉球弧では、トーテムとしては、蛇よりはヤドカリの方が身近に知られている。

 子どものころ、潮待ちで浜辺のアダンの下で休んでいて、何げなしに側の叔父に「人間の始まりは何からなったのだろう」と問うた。叔父は、前をコソコソ這うて行く子ヤドカリを見ながら「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」と、にっこりと言われた。それが今だに忘れられない。
 その後、壮年期になって、入墨の話を聞いたり読んだりしているうちに、われわれの遠祖の先住民とのかかわりのあることに触れ、あの叔父の言われたことが冗談ではなかったこと、しかも重要な伝承であったことに改めて深い関心を持った。((野口才蔵『与論島の俚諺と俗信』1982年、p.253)

 「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」。人間はアマム(ヤドカリ)からなったそうじゃないか、ということだ。与論の郷土史家、野口才蔵は1918(大正7年)生まれだから、このエピソードは大正の末から昭和の初期にかけてのことだろう。まだ、その当時は、アマムが先祖であることが信じられていたのである。

 小原一夫の『南嶋入墨考』(1962年)では、沖永良部島で左手のヤドカリをシソポライズした動物紋の模様を「アマム」と呼び、「我々の祖先は「アマム」から産れて来、われわれもやはりその「アマム」の子孫であるから、この「アマム」を入墨したのだ」と答えたというように、ヤドカリ・トーテムは戦後のある時期まで生きていたことが分かる。そしてヤドカリ・トーテムは針突(はじち)をその証としていた。

 与那国島には、ヤドカリ・トーテムを示唆する伝承が残されている。

 大昔、南の島から陸地を求めて来た男がありました。その男は大海原の中に、ぽつんと盛り上がった「どに」を発見しました。その「どに」には人間は住んでいませんでした。南から来た男は、この「どに」に人間が住めるかどうかを試みるために、「やどかり」を矢で放ちました。そこから幾年か経って、この「どに」に来てみると「やどかり」は見事に繁殖していました。それで、その男は南の島から家族をひきつれて来て、この「どに」に住みました。(池間栄三「与那国伝説」)

 「どに」とは、島で与那国島を指す「どぅなん」のことを指している。「やどかり」がトーテムであると同時に、「やどかり」の繁殖のなかに、「やどかり」をトーテムとして選択したことも示唆されているように思える。

 石垣島の白保には島生みの伝承に現れるヤドカリはトーテム原理が崩れかかっているものだと思える。

 大昔、日の神がアマン神に天から降りて下界の島を作るように命じた。アマン神は土砂を槍矛でかきまぜ島を作ったあと、アダン林のなかでアーマンチャー、すなわちヤドカリを作った。その後、神は人子種を下し、ヤドカリの穴から二人の男女が生まれた(『八重山歴史』)。

 この伝承自体は、編成を加えられた新しいものだ。その新しさのなかには、ヤドカリがトーテムであることが示唆されながら人間との関係は切断されていて、トーテム原理が崩れかかっていることも含まれる。一方で、人間が出現するのが「ヤドカリの穴」であるように、霊魂の出入口としての洞窟信仰も痕跡を残している。

 琉球弧には、ヤドカリを意味するアマムという言葉が広く分布している。その呼び方は、アマミ(加計呂麻島薩川)、アーマン(白保)、アマナー(佐敷)、アーマンツァー(粟国島)等、バリエーションを持つが、ここに異種の語は見られない。

 言語学の崎山理は、この「アマム」はオーストロネシア語に由来するとしている。そしてそれだけでなく、オーストロネシア語族が、「アマム」の言葉を携えて列島を北上したのは、北上の三回目に当たり、その年代は1800年前(古墳期)と仮説している(「日本語形成におけるオーストロネシア語族の要素」『東アジアの古代文化 (65号)』所収)。ヤドカリを針突(はじち)とし、ヤドカリを先祖とする信仰が近い時代まで生きており、蛇をトーテムとする信仰は痕跡を留めるに過ぎないことからも、蛇トーテムはヤドカリ・トーテムに塗りかえられていったことが伺われる。また、蛇トーテムはその残存を大和においても確認できるのにヤドカリ・トーテムはそれを認めることができないのは、大和ではオカヤドカリが普遍的な存在ではないというばかりでなく、オーストロネシアの第三の北上の時には既にトーテム原理が失われていたからだと考えることができる。

 琉球弧では、なぜ、蛇トーテムはヤドカリ・トーテムに置き換えられていったのか。その経緯を知ることはできなくても、蛇とヤドカリを通底するものを捉えることはできる。そこに共通してあるのは脱皮だ。ヤドカリも蛇と同じように脱皮をする。

 ヤドカリの脱皮の抜け殻は、抜ける前とほとんど見分けがつかない。脱皮したヤドカリは、外皮が硬くなるまでしばらくじっとしていなければならない。外皮が硬くなり、抜けがら同様の色あいを帯びて動き始める。この脱皮の姿に、琉球弧の島人は再生する人間と同じ姿を見出したのだろう。蛇ではなくヤドカリが普遍的なトーテムになった背景には、ヤドカリが琉球弧の島々には普遍的といっていいほど多く存在していること、そしてもしかしたら脱皮するだけではなく、殻を脱いで住み変えるということ、洞窟に豊かに棲息することなどの点に、豊かな再生力と信仰の一致を見たのかもしれない。

 ここにあるのは、折口信夫が「動物の生活の推移の観察が行き届いてゐる筈だ」と書くように繊細な観察力だ。初期の島人はアマム(ヤドカリ)が時間をかけて脱皮し、時間をかけて動き出す様を何度も見てきたに違いない。脱皮するヤドカリの姿をじっと眺める島人の姿が彷彿としてくる。彼らはその豊かな観察のなかで、再生する人間と同じものをヤドカリや蛇に見いだし、そこに同じものを感じとったのである。そして、その豊かな再生力を支えたのは亜熱帯の珊瑚礁環境だった。



 

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