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2014/06/13

『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』、再読

 吉成直樹の『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』(2003年)は、琉球弧の民俗に対して異議を申し立てる形で展開されている。

 「ニライ・カナイ」は海の彼方、あるいは海の底と言われているが、もともとは地下(洞窟)という認識があること、「来訪神」は、祖先、祖霊と考えられているが、それとはまったく違う観念であること、「御嶽」の認識はさまざまだが、それらは種々の信仰が複合されてできていること、「オナリ神」信仰は古いものだと言われているが、実は新しいのとはないか、ということ。これらだ。

 「定説」そのものに対する無知のため、定説に驚いたり、定説の根拠を改めて考えさせられたりしたが、おおくは吉成の展開に違和感なく読み進めることができた。

 吉成は、二ライという言葉の原義が、「土の中」であるという言語学の理解を援用して、「八重山の二ライ系の他界(地下他界)と結びつく仮面仮装の来訪神儀礼が古く、女性神役が中心になる二ライ系の他界(海上他界)に結びつく儀礼は相対的に新しい」(p.21)としている。

 前者は八重山のアカマタ・クロマタ、マユンガナシ、宮古島のパーントゥ、沖縄島安田のシヌグ、後者は久高島島のウプヌシガナシーウガンダテ、奄美のウムケー・オーホリ、竹富島のユークイがその例である。前者は男性による仮面仮装により、後者は巫覡による憑依という型を取る。

 仮面仮装型と憑依型とは、それだけでは新旧の判断はつけられないが、他界観の新旧から、琉球弧では仮面仮装型が憑依型に先行して祭祀化されたことになる。

 住谷一彦とヨーゼフ・クライナーは、アカマタ・クロマタは男女の祖神とは「祖先」、「祖霊」ではなく、「人類全体の祖ないし親である太祖」であると指摘している。この認識を支えているのは、

実際に、アカマタ・クロマタが男女の祖神と人々によって考えられていることである。さらに、『おもろそうし』のなかには「ニライカナイのかみ」という表現はまったくなく、ただ「にらいとよむ大ぬし」とされ、男女の性別も不詳であり、ましてや夫も妻もいない非人格=無個性的であることが特徴であるということである。したがって、琉球神話にみられる男女二柱の祖神、アカマタ・クロマタが男女の祖神とされることも、それほど古いものではない、ということになる(p.64)。

 「にらいとよむ大ぬし」は、「にるやとよむ大ぬし」のことだと思うが、これがこの議論に援用されるべき神の資格を持つかどうか分からないが、「夫も妻もいない」ことから、「アカマタ・クロマタが男女の祖神とされることも、それほど古いものではない」という導きは面白いと思う。アカマタ・クロマタが男女二神であれば、農耕祭儀の神ということになるが、洞窟他界を観念するこの祭儀には、それでは農耕祭儀以前の姿は想定できるだろうか、という課題が浮上する。言い換えれば、アカマタ・クロマタ以前の来訪神祭儀は無かったのだろうか。

 御嶽については自分の理解を書いておきたい。御嶽の場所は、旧集落跡である。農耕地を求めて丘陵地から平地へ移住した際、旧集落は聖域化された。そこは神のいます場所になり、多くの場合、性的な禁制を伴い、男性のみあるいは女性のみが入れる場所になる。そこに接して根人となる人物の住居が設けられ、そこから新しい集落が展開される。

 旧集落であれば、その境界近くの御嶽になる場所から、多くの人骨が出る場合がある。ただ、二体、一体という場合は、後に埋められたものでなければならない。兄妹始祖神話が重要である段階では二体が埋められ、ノロが主導権を握った段階ではノロが埋められる。だから、御嶽とは葬所であるという定説のひとつは、現象を示すものであって、本質的な定義にはならない。

 吉成は、ここで祀られる神とは、「祖先」や「祖霊」ではなく、「始祖」であろうとしているが、シマ(島)の守り神として最高あるいは唯一の存在として表象されるものが対象になるということではないだろうか。シマ(島)の象徴的な秩序を維持する神という抽象度の高い存在だから、その時々の支配的な共同幻想が指定した神が信仰の対象になる。それが、兄妹二神の場合もあれば、ノロを中心とした神女組織が整備された時には、天上他界とオボツ信仰に基づく神ということになる。

 オナリ神信仰は、兄妹始祖神話とともに信仰化されたものだ。

兄妹にして原夫婦という男女関係のなかには、ありとあらゆる男女関係が含まれているとかんがえるべきなのである。つまり、この世のはじまりに存在した、たった一組の兄妹であり、かつ夫婦という関係のなかには、男、女一般という関係も含まれるということである(p.187)。

 こちらの問題意識に沿った言い方にしておきたい。母子関係を時間軸に、兄弟関係を空間軸に据えることで対幻想を共同幻想に同致させたのが、初期の農耕社会だった。

 筆者は、これまでみてきたように「オナリ」という言葉が、兄弟姉妹という関係を基本にしながら、あらゆる考えうる男女関係にまで意味を拡大させているのは、琉球列島に広く認められる「兄妹始祖神話」が起訴にあるからだと考える(p.187)。

 兄妹が空間的な拡大に耐えうる対幻想だからこそ、兄妹始祖神話は生まれた。兄弟姉妹は、いわゆる男女関係なしに永続する対幻想だということが、この神話を支えている。その意味では、吉成が言うよりは基盤を持った信仰なのだ。

 「おわりに」で、「琉球列島の伝統的な思考のあり方として、つねに祖型的世界、始原の世界にたちかえるという発想がその根源にあり、しかも徹底しているということである(p.208)」と書くが、重要な認識だと思う。これも、こちらの問題意識で言い換えると、「祖型的世界、始原の世界」とは、野生の思考の時代のことであり、アフリカ的段階のことだ。 

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