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2014/06/12

『野生の思考』と琉球弧

 西洋人が未開人と呼ばれる人々の思考について考察したものではなく、西洋人がぼくたちの思考について考察したものだと考えてみたら読みたくなったのが、レヴィ・ストロースの『野生の思考』だった。すると、のっけから「琉球列島の後進地域の住民」について、木や貝類、魚類名前の豊富さや特性、修正、雌雄の別もよく知られているという報告が引用されていて可笑しかった。やはり、観察対象だっただのだ。

 この本は、それまでの西洋人の中で考えられていたトーテミズムに対する反論の形をとっているので、その点については、要点のみを確認するにとどめることにする。 

トーテム制度が援用するのは、社会集団と自然種[動植物の種]の間の相同性ではなくて、一方で社会集団のレベルに現われる差異と、他方で自然種のレベルに現われる差異との間にある相同性なのである。それゆえこれらの制度は、一方は自然の中に、他方は文化の中に位置する二つの差異体系の間の相同性という公準の上にのっている。(p.136)

 しかし、琉球弧では複数のトーテム信仰が琉球弧に併存していたことは知られていないので、差異関係が問題になるのではなくて、依然としてトーテム信仰の中身が問題になる。あるいは、蛇トーテムのなかにヤドカリ・トーテムが入った時に、差異をあらわす役割を果たしたことはあったのかもしれない。AシマとBシマの差異は、蛇とヤドカリのようだ、というように。

 けれど蛇とヤドカリは、共時的な差異というより、通時的な移行の関係であったのかもしれない。それは両者が共に、「脱皮」をする動物であり、脱皮による再生というモチーフに適っている動物たちだ。

 それにしても、なぜ蛇でありヤドカリであったのか。蛇は流入した信仰だったが、ヤドカリについては琉球弧で発生したトーテム信仰である可能性も残している。なぜ、ヤドカリだったのか。

 他のクラスの動物より鳥類の方が種ごとにに人間の名をとりやすいのは、まさに、鳥が人間とは異なっておればこそ人間になぞらえてよいからなのである。鳥は羽毛に覆われ、翼があり、卵生であるし、また生理的にも、空気中を飛びまわれるという特権があって人間社会とは分離している。
 この事実によって鳥類は、人間のコミュニティから独立した別のコミュニティを形成している。しかし、そのコミュニティは、まさにその独立性そのもののゆえに、別個ではあるがわれわれの社会と相同の社会であるように思われるのである。鳥は自由を愛する。すみかを作って海底生活をし、子供を育てる。同じ種の他の成員と社会的関係を持つこともしばししばである。そして相互に、人間の言語を思わせる音響的手段でコミュニケーションを行う。  したがって、鳥の世界を人間社会の隠喩と考えるためのあらゆる条件が客観的に揃っている。それにまた人間社会は、別のレベルにおいて、鳥の世界と文字どおりパラレルなのではないか?(p.245)

 これは鳥の命名についてのものでトーテム信仰について述べたものではないのだが、ヤドカリも「人間とは異なっておればこそ人間になぞらえてよい」という思考法は、確かにここにも存在している。鳥ほどの相同性を示してはいないが、独立性は保っている。鳥ほどの相同性はないが、人間社会の隠喩を保っているという思考が、ヤドカリ・トーテムの中にも働いているとしたら、どこに相同性を見出したか。その着目点が重要だといことになる。

 鷲、熊、リス、蜜蜂など、挙げられているトーテムの多彩さに驚くが、半人半獣も対象になることがあるのにも驚かれされる。こうしてみると、琉球弧のトーテムは単色で種類が少ないのではないだろうか。

 しかし集団のトーテムではないが、個人に目を移すと、複数の例を見出すことができるかもしれない。童名だ。

 この中でも、ウシ(牛)、カミ(亀)、マチ(松)などがそれに該当する。これらは、童名のなかで古層に属している可能性を持つ。火の神信仰とのつながりがあるハマドゥ(竈)や心情に属するカナ(愛)などがつけられるのは、既にとーテム原理が拡散、あるいは崩壊した後のものだと想定してみれば、童名の層分離にひとつの視点を提供してくれる。ウシやカミは明確なトーテムとは言えないかもしれないが、トーテム的な信仰原理は働いていたと見なせるものだ。

『野生の思考』(クロード・レヴィ=ストロース)

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