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2014/06/30

『人類が永遠に続くのではないとしたら』

 加藤典洋の『人類が永遠に続くのではないとしたら』は、3.11を起点にして、これ以上にない真摯さで歩んでいる。

 3.11の原発事故が明らかにしたのは、保険が利かないという限界を超過した問題だった。これまで消費社会論と地球の限界を論じた『成長の限界』や『沈黙の春』などは接点を持たなかったが、この事故は、北の豊かな側から有限性の近代を考える内在的な理由になる。有限性を根拠にしてどのように生きて行けばよいか。そこに浮上するのが、することも、しないこともできるという偶発的契機のあるコンティンジェントな自由である。

 新潮に「有限性の方へ」と題された連載の時から読んでいたので、待ち望んだ出版だった。本は個人的な契機しかふだん考えないが、これはなんというか、多くの人に読まれてほしいと思う。


 頷かされることの多い内容だから、ぼくの考えてきたことと違う点のみを挙げておく。

 全自然を、じぶんの<非有機的肉体><自然の人間化>となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間の相互のからみあいを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで、<疎外>または<自己疎外>とかんがえたのである。(吉本隆明『カール・マルクス』)

 ここで人間が自然の「有機的自然」になるとは、政治家になると声が大きく威圧的な風になっていき、教師がなにかといえば説教臭くなり、可哀そうに就職活動中の若者が、常に何事にも好奇心一杯ですといったポジティブ満載調になるような、反作用のことをイメージしていた。ネガティブな例ばかり挙げたが、同様に大工が武骨な手と昇りのうまいしなやかな身体を身につけたり、海人が肺活量を増進させ、海中生物のような身のこなしになるのも同じことだ。

 ところで、加藤はこう書いている。

 では人間が自然化するとはどういうことか。私の考えでは、その意味は二つであって、人間が自然との交渉において生物種としての人間を自分のなかに作りだすということが一つ、またそこでは、人間の意図、行動もまた、自然史的な過程の一コマとして、必要とあらば「力能」の作用へと換算可能な自然的事象とみなされうる存在となるということが、そのもうひとつである(p.229)。

 前者は、人間は自然との交流過程のなかでしか生きられないことを示すものだ。ところが、人間が「「力能」の作用へと換算可能な自然的事象」となるのは、それは自然との相互作用に入るための前提だと考えてきた。柱を昇り、釘を打てなければ大工になれないように、コードを知らなければプログラムは書けないように。「人間が自然化」するとはむしろ、「力能の作用」の反作用を受けることを示している、と。

 加藤はここから人間と自然の不断の交流過程のなかで、人間の入力が生む人間と自然の変化によるフィードバック作用を重視している。これを反省的に受け留めれば、ぼくの理解の仕方では、加工された自然の変化による反作用がうまく掬い取られないということになるだろうか。ぼくはそこで、人間が対象とする自然を四つの段階として捉えてきたが、それでは巨視的に過ぎるということかもしれない。

 ともあれ、加藤のこの本は、人間と自然の相互関係の大きな転換を、「無限性の近代」と「有限性の近代」として抽出している。その先に人類の終わりにまで視線を届かせようとするものだ。


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2014/06/29

琉球弧の兄妹始祖神話(民話)

 琉球弧の兄妹始祖神話(民話)を北から南へ挙げてみる。

 沖永良部島
 島コーダ国コーダが島を建設して、島は建設したが島が地揺れし、土がぐらついて、此処踏めば彼処上がり、彼処踏めば此処上り、仕方がないので神に相じた(相談した)。相じた処が神様が言われる。汝程の島コーダ国コーダ、その位の事が分からなかったのか、東の岸には黒石置け、西の岸には白石置け。国は建設したが、人間造ることができない。又神に相じた。神様は、土で仏様のごと造って息を込めれば人間ができる、と言われる。
 人間は造ったが、子の出来るような方法は如何であろうか。又神様に相じたい。神様が言われる。えけが(男)の家は風上に造れ、女子の家は風下に造れ。造った処が、風上の男の息が、風下の女の息にかかって、子が出来るようになった。(岩倉一郎)
 古宇利島
 むかしむかし古宇利(フイ)島(運天港の入口にある小さい島)に男の子と女の子が現われた。二人は裸体でいたが、まだこれを愧ずるという気は起らなかった。そして毎日が天から落ちてくる餅を食って無邪気に暮していたが、餅の食い残しを貯えるという分別が出るや否や、餅の供給が止まったのである。そこで二人の驚きは一通りではなく、天を仰いで、
 たうたうまへされ、たうまうまへ(お月様、もしお月様)
 大餅ちやと餅お賜べめしよれ(大きい餅を、太い餅を下さいまし)
 うまぐる拾うて、おしやげやべら(赤螺を拾うて上げましょう)
と歌ったが、その甲斐も無かった。彼等はこれから労働の苦を嘗めなければならなかった。そして朝な夕な磯打際でウマグルなどをあさって、玉の緒を繋いでいたが、或時海馬の交尾するのを見て、男女交媾の道を知った。二人は漸く裸体の愧ずべきを悟り、クバの葉で陰部を隠すようになった。今日の沖縄三十六島の住民はこの二人の子孫であるとのことだ。(伊波普猷「お隣りのお婆さんから聞いた話」)
 宮古島
 昔々大昔のことヴナゼー兄妹があった由。或る晴れた日のこと外の人々と共に野良に出て畑を耕していると、にわかにはるか彼方の海から山のような波がよせて来るのを見つけ、兄は妹をいたわりつつ高い岡にのぼって難をしのいだとのことである。周囲見まわして見ると人は一人もなく地上に一切のものと共に津波にさらわれてしまった。兄妹は致し方なく草のいほりを作り妹背のちぎりを結んだのであった。そして二の間から先づ一番初めに生れたものはアジカイ(シャコ貝)で、その次に始初めて人間の子が生れて、これからだんだんひろがってこの島一ぱいに人々が繁昌したと云うとのことである。島人は今ヴナゼー御拝(オガン、一種のお宮)を二人を島立ての神として祭ってある。
 石垣島白保
 アマン神が、日の神の命で、天の七色の橋からとった土石を大海に投げ入れて、槍矛でかきまぜて島を作り、さらに人種を下すと、最初にやどかりがこの世に生れ出た。地中の穴から男女が生れた。神は、二人を池の傍に立たせ、別方向に池をめぐるように命じた。再び出会った二人は抱き合い、その後、八重山の子孫が栄えたという。
 『中山世鑑』
 むかし天にアマミクという神がいた。天帝は地上におりって島をつくれと命じたので、マミキクがおりてみると、霊地のようにみえたが、東の海の浪はうち寄せては西の海へ越えてゆき、西の海の浪はうち寄せて東の海へ越えていた。アマミクは天帝に土石草木を給わりたいといって、もらいうけて島々の御嶽と森をつくった。数万年たっても人がいないので、アマミクは天帝のところへゆきひと種を乞うた。天帝はじぶんの男女の子をくれた。この兄(弟)と妹(姉)神は性的な結合はしなかったが、住み家がならんでいたので、ゆききして吹く風をなかだちにして、女の神は受胎した。そして、三男二女を産んだ。長男は国王の始祖で天孫氏といった。二男は諸侯のはじめ、三男は百姓のはじめ、女は聞得大君のはじめ、二女はノロのはじめになった。

 兄妹であることは石垣島の神話のみが明示されていない。はじめは子供の作り方をしらなかったのは、宮古島と石垣島では触れられていない。代わりに、強調点は別のところにあって、最初に産んだのが、宮古島は「シャコ貝」、石垣島は「やどかり」と、トーテムを指しているらしいことに特徴がある。

 子供の作り方は、「海馬の交尾するのを見て」と、古宇利島の神話が繊細さを残している。『中山世鑑』では「ゆききして吹く風をなかだちにして」と、抽象化とおすまし化を受けている。沖永良部島では「風上の男の息が、風下の女の息にかかって」と、さらに抽象化が進んで、童話化されている。

 古宇利島において、「餅の食い残しを貯えるという分別が出るや否や、餅の供給が止まった」ということには目がとまる。ここには貯蔵を始めたことにより、自然は常に充分な贈与を送ってくれるわけではないという異和と農耕の意識化の記憶を保存しているように見える。

 『中山世鑑』以外では、沖永良部島と石垣島白保のものがより神話的である。

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2014/06/28

「兄妹始祖神話」の背景

 兄弟始祖神話の背景を再度、押えておく。

 〈母系〉制社会のほんとうの基礎は集団婚にあったのではなく、兄弟と姉妹の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致できるまでに〈空間〉的に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる(p.162『共同幻想論』)。

 空間的に拡大するということは、近親相姦が禁止され、兄弟姉妹を軸に親族が展開されることだ。

兄弟と姉妹のあいだ、母と息子のあいだ、父と娘のあいだでの性的な行為は禁止される。これはおなじ氏族のなかでの婚姻の禁止と、他の氏族との外婚制にまで発展してゆく(p.106『母型論』)。

 ここまでくると、兄妹始祖神話の共同幻想は対幻想と同致できる段階になる。

そしてわたしたちが兄神妹神が始祖として洪水にあったあとに、とりのこされて夫婦になり、人間の子孫を殖やすという神話が、現実的な対幻想のあり方と同致できる段階をじっさいに想定してみる。その段階まできたときには兄と妹ではなくて弟と姉のふたりがのこされるはずだ。そして姉が神話的段階にまだのこされているときに弟はすでに民話的行為の段階にまで移行している場面をかんがえなければならないとおもえる(「南島論」1989年)。

 スサノヲとアマテラスの挿話はこの段階にあるものと見なせる。

 兄妹始祖神話は、はじめ性交を知らなかったが、セキレイの交尾をまねたり、風に仲立ちされたりしながら、性交し子孫を殖やす構成になっている。

いずれにせよ始祖の兄妹は、はじめ性交を知らなかった、それでも兄妹が人間の始祖になたというのは、この神話や伝承をもつ地域が「母」系が優位だった初期社会の遺風をおおきくのこしていることを暗示している(p.103『母型論』

 なぜか。母とその兄弟によって親族が展開されるからである。神話にあらわれる兄妹の性行為は、現実のそれを含んだかもしれないが、本質的には幻想的な行為であることが重要だと思える。

いいかえれば兄妹の性交が禁忌であることを暗示しながら、それでも兄妹が人間の始祖だとされていることが大切だといっていい(p.103『母型論』

 「はじめ性交を知らなかった」ということには、「兄妹の性交が禁忌であること」が暗示されている。

わたしたちの理解からすれば、このばあい自然現象としての風が神格化されて兄妹の二神と同一化のレベルにあるという神話的な認識なしには、この性交挿話は成り立たないとおもえる(「南島論」1989年)。

 自然の擬人化による同一視。ただ、それだけではない。

起源をめぐる神話が、セキレイの交尾から性交の方法を学んだとか、動物の性行為をみて性交を知ったとか、風上と風下にして風のそよぎによって妊娠したとかいうように、性交が妊娠とかかわることとしてかんがえられるかぎり、性交の方法を知らないように記述していることは、人(ヒト)の起源を動物生と異質のものとみなしたい最初のモチーフとうけとれる。なぜ人(ヒト)は起源神話として発祥が仮構されるのかといえば、この最初の動物生の否定のモチーフからではないだろうか。この否定のモチーフは物語をつくる原動力であり、ありうべかざることに合理性を与えうる能力の起源にちがいない(p.102『アフリカ的段階について―史観の拡張』)。

 一方で動物生への否定のモチーフを胚胎している。

 ぼくはここにもう一つ加えたいと思う。「はじめ性交を知らなかった」というのは、動物生としての人間の歴史にはそのような段階は無かったのであり、ここには「兄妹の性交」の禁忌と同時に、性交が子供の誕生につながることを知らなかった(あるいは、その認識を受け入れなかった)ことも暗示されていると思える。兄妹始祖神話とは、人間の性交が子供を生むという認識が無かった段階を背中越しにして生み出されたものだ。その意味からも「この神話や伝承をもつ地域が「母」系が優位だった初期社会の遺風をおおきくのこしていることを暗示している(p.103『母型論』」)ものだ。


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2014/06/27

「八重山群島における兄弟姉妹を中心とした親族関係」

 オナリ神というのは、分からるのだが分からないと思ってきた。ぼくには姉妹がいないからだ。姉妹がいなかったらオナリ神がいないのだろうか、と。

 伊藤幹治の「八重山群島における兄弟姉妹を中心とした親族関係」(1962年)はそれに示唆を提供している。

 鳩間島の播種(はしゅ)儀礼の一日目、アサダニ。戸主によって在来種(ウシノ)の種蒔きが行われる。

家々では、糯米(もちごめ-引用者)・粳米(うるごめ-引用者)で飯初を作って火の神・座の神に供えて祀るが、戸主の姉妹が火の神・座の神を拝みに訪れる。そして祈願がすむと、伊江の分食をすることになっている。ことに火の神に供えた飯初(糯米5ヶ)は、ソージ・イバチ(精進飯初?)といい、子供に食べさせたりすることができない。この飯初を分食するとき、最初に手をつけるのは、戸主の姉妹であることが原則とされる(p.343)。

 この飯初に最初に手をつけるのがオナリ神の役割だ。では、姉妹がいない場合はどうするのか。この場合は、父の姉妹、つまり、伯母か叔母が代行することになっている。

 伊藤は、このようにして、他の場合にもみられるオナリ神の代行者の例を挙げている。

1.兄妹に対して姉妹
2.姉妹が不在の場合は、父の姉妹(伯母、叔母)
3.姉妹も父の姉妹を欠いている場合は、父の兄妹の娘(従姉妹)

4.1~3を欠く場合は、自己の直系の孫(娘)
5.姉妹が遠隔地へ移住または死亡の場合、当人の配偶者(妻)
6.姉妹が幼少の場合、父の姉妹(伯母、叔母)が代行

 こうしてみると、姉妹、伯母・叔母、従姉妹、孫娘、妻が挙げられるが、親族のなかの女性が優先順位を与えられて全部、揃うことになる。「父方の」となっているのは、1962年には父系が優位になっていることを示している。

 これはオナリ神の裾野であり、オナリという呼称が姉妹以外に拡張される根拠になっているものだと思える。


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2014/06/26

脱皮論 メモ

 琉球弧では、蛇をトーテムとしていた時期がある。蛇トーテム、言い換えれば蛇を祖先とみなしたのである。姿形が似ても似つかない蛇が、なぜトーテムでありえたのか。ここでもぼくたちは、人間と他の植物や動物が、精霊が形を現わしたものとして同等の存在であったことを思い起こす必要がある。そして、さらに蛇を選択したことのなかに、何を人間と同じものとして見出したのかを問わなくてはならない。

 竹富島では、「赤蛇(あかはぶ)は神、青蛇(おうじはぶ)が水神といわれ、また家の祖神ともいう」(上勢頭亨『竹富島誌〈民話・民俗篇〉』1976年)という伝承があった。伝承に留まらず、蛇をトーテムとしたことを名称と挙措で明瞭に伝えているのは、八重山の来訪神儀礼、アカマタ・クロマタである。アカマタという言葉は、琉球語は赤蛇のことである。

 久高島の伝承で、「カベール森の道の西側にアーマン権現という洞窟があり、この洞窟でアカマターと呼ばれる蛇を二匹とったところ、それは兄弟と姉妹であった」(小島瓔禮、「イザイホー調査報告書」1979年)は、アカマタが蛇の名称であること、そしてトーテムであったことを伝えている。

 また、この祭儀に西表島、新城島、小浜島で立つ会う機会を得た喜舎場永珣は、「黒マター親神は一寸姿を現わしたかと思うとすぐまた隠れる。さらにまた一寸現れたかと思うと、またその姿を隠す。そのような動作を九回繰り返したのちに、やっと出現してくる(p.297)」と描写している(「赤マターの神事に関する覚書」『八重山民俗誌』所収)。この姿を現しまた隠れるという動作は、「蛇が穴から出る動作を表す」のだと信じられていると、湧上元雄は報告している(「祭祀・年中行事の位相」(p.196))。

 アカマタ・クロマタはトーテムとしての蛇へ化身することにより来訪神化することが伺えるが、神女たちの中にも蛇は登場している。

 昔の呪女(のろ)神は、よく波布(ハブ-引用者)を制し、アヤナギを這わすといってアラボレ(十五、六才の娘らよりなる、呪女の従者)をたちの頭髪に波布を巻きつけたという。(p.258『奄美に生きる日本古代文化』金久正)

 アヤナギは、「綾蛇」で蛇の美称にあたる。また、谷川健一は、石垣島川平で、次のような話を聞いている。

 川平の群星御嶽(ゆぶしいおん)に各御嶽の神女(ツカサ)があつまって神遊びをした。ハブを手のひらにのせて次々に手渡しながら、心のよしあしをさだめる儀式である。心のわるいツカサのときはハブは首をもたげ、信仰を守るツカサの場合は、ハブは眠ったように、おとなしくなるといわれたという(p.12『蛇: 不死と再生の民俗』

 同様の所作は宮古島にも見られ、神女が晩秋の祭時に際して、冬眠に入りつつあるハブを頭髪に乗せる例がある(国分直一『海上の道―倭と倭的世界の模索』)。これらの蛇との戯れのなかには、蛇トーテムの概念は見られないが、「頭髪にハブを巻きつけ」ることができたように「ハブを制し」たり、「ハブを手のひらにのせて次々に手渡」す所作のなかに、ハブ(蛇)と心を通い合わせられるという形で、トーテム原理の残存を見ることができる。

 アカマタ・クロマタは蛇トーテムであることは、その誕生の仕方によっても示されている。八重山の来訪神儀礼では、来訪神の誕生を「すでる」と表現する。「すでる(しぢる)」とは生まれるという琉球語だ。

 この、「すでる」について深い洞察を示したのは折口信夫だ。「しぢゆんが唯の「生れる」ことでない」。

 清明節のしぢ水に、死んだ蛇がはまつたら、生き還つて這ひ去つた。其がしぢ水の威力を知つた初めだと説くのが、先島一帯の若水の起原説明らしい。此語は其以前ねふすきいさんも、宮古・離島に採訪して来た様である。ある種の動物にはすでると言ふ生れ方がある。蛇や鳥の様に、死んだ様な静止を続けた物の中から、又新しい生命の強い活動が始まる事である。生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語ではすでると言うたのである。気さくな帰依府びとは、しぢ水とも若水とも言ふから、すでる・しぢゆんに若返ると言ふ義のある事を考へたのである。さう説ける用例の、本島にもあつたことを述べた。
 さう説くのが早道でもあり、ある点まで同じ事だが、論理上に可なりの飛躍があつた。すでるは母胎を経ない誕生であつたのだ。或は死からの誕生(復活)とも言へるであらう。又は、ある容れ物からの出現とも言はれよう。しぢ水は誕生が母胎によらぬ物には、実は関係のないもので、清明節の若水の起原説明の混乱から出てゐる事を指摘したのは、此為である。すでることのない人間が、此によつてすでる力を享けようとするのである。(『古代研究〈1〉祭りの発生』

 「すでる」とはただ、生まれるという意味ではない。鳥や蛇のように「生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語ではすでると言うたのである」。それは「死からの誕生」あるいは「復活」と言ってもいい。つまり、アカマタ・クロマタの誕生は、やはり蛇の生まれ方、「すでる」を再現しているのである。

 それでは、その「すでる」蛇に何をみていたのか。ここで折口の洞察は示されている。

我々から見れば、皮を蛻ぐまでの間は、一種のねむりの時期であつて、卵は誕生である。日・琉共通の先祖は、さうは考へなかつた。皮を蛻ぎ、卵を破つてからの生活を基礎として見た。其で、人間の知らぬ者が、転生身を獲る準備の為に、籠るのであつた。殊に空を自在に飛行する事から、前身の非凡さを考へ出す。畢竟卵や殻は、他界に転生し、前身とは異形の転身を得る為の安息所であつた。蛇は卵を出て後も、幾度か皮を蛻ぐ。茲に、這ふ虫の畏敬せられた訣がある。(『古代研究〈1〉祭りの発生』

 折口は、蝶や蛇が卵の殻を破ったり皮を脱いだりするのを注視している。今日のぼくたちは卵は誕生で、皮を脱ぐまでの間は「一種のねむり」の時期であるとみなす。けれど、「日・琉共通の先祖」はそうは考えなかった。皮を脱ぎ、卵を破ってからの生活を基礎としてみていた。そこで、卵になったり、皮を破るまでの間は、転生を測るための「こもり」の期間であると見なした。特に、蛇は卵を出た後も、何度か皮を脱ぐ。

 蛇の皮を脱ぐ行為に見たもの。それは転生だった。つまり、蛇トーテムとは、蛇が皮を脱ぐことのなかに転生、再生を見ていたということである。

 ぼくたちはここで折口の論を一歩、進めなければならないと思う。それは、「しぢ水」を浴びることによって、「すでることのない人間が、此によつてすでる力を享けようとするのである」と考えている点だ。蛇トーテムが失われた段階では、「すでる力」を授かろうとする祈願になるが、蛇をトーテムとした段階ではそうではない。卵を破り、皮を脱ぐことによって再生する蛇に、人間と同じものを見ていたのだ。なぜなら、人間も再生するからである。ことに、何度も皮を脱ぐのが蛇であれば、蛇を選択したことのなかには、豊かな再生力を見ていたと考えられるのだ。

 ネフスキーは1922(大正11)年に宮古諸島で、蛇と人間にまつわる伝承を聞き取っている。

 節祭(シツ)の夕には蛇より先に人が若水を浴びて居ったから、人が若返り、蛇は若返らずに居った。処がある年、蛇にまけて人が後で若水を浴びたから、蛇が若返り人は若返らぬ様になったといふ(富盛寛卓)。

 むかしむかし節祭(シツ)の夕に天から水を下ろして下されたら「人から先に浴びろ」との事でしたが、人間がまけて蛇が先になって浴びたので、人間は仕方なしに手と足とを洗った。だから爪だけがいくらぬいても、つぎからつぎへと生えて来るのである。蛇は死んでもどんどん蘇生してゆけるのである(垣花春綱、『月と不死』)。

 前者の伝承では、「どういう様子で当時若返ったものか」とネフスキーの問いに、富盛は「蛇の様に皮を脱いだものだ」と答えたと言う。この二つの伝承では、トーテムの原理は失われて、人間と蛇は対比されるものとして登場している。と同時に、トーテム原理が失われたことによって、人間と蛇の対称性も失われ、人間は死に蛇は再生するものとして蛇のようにありたいという祈願の対象になっている。ここにはトーテム原理を失うことが生と死の連環を断ち切り、死が生まれたことが示唆されているように思える。

 残存する蛇トーテムが現れるのは来訪神の名称としてだけではない。地名も現れていると思える。宮古島の西の伊良部島と奄美諸島の沖永良部島だ。どちらも島名の本体はイラブだが、イラブとは琉球語で海蛇だ。伊良部島ではスーフツミー、沖永良部島ではフーチャと呼ばれる潮吹きの穴が存在している。高波が潮を空中高く舞い上げ、沖永良部島では、コンクリートで塞がれる前、その高さは「八丈(約24メートル)」に及んだと言われている。その景観は、島人に龍の姿を見させることになった。イラブとは、神化されたトーテムとして名づけられたと思える。

 神名が地名となるのは、大和で、「愛比重(えひめ)」という神名が県名になる例にも見られる。『古事記』では、「愛比重(えひめ)」は、「伊予国(いよのくに)」として神名と島名は二重化されている。ただ、たとえば吉本隆明は「南島論」のなかで、「伊岐島」の神名、「天日登都柱(あめのひとつはしら)」は、「一本の柱のような形をしている」という地形の形状から名づけられているのに対して、イラブ(伊良部、永良部)は、トーテムとしての意味を明瞭に残していると言える。

 ところで琉球弧では、トーテムとしては、蛇よりはヤドカリの方が身近に知られている。

 子どものころ、潮待ちで浜辺のアダンの下で休んでいて、何げなしに側の叔父に「人間の始まりは何からなったのだろう」と問うた。叔父は、前をコソコソ這うて行く子ヤドカリを見ながら「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」と、にっこりと言われた。それが今だに忘れられない。
 その後、壮年期になって、入墨の話を聞いたり読んだりしているうちに、われわれの遠祖の先住民とのかかわりのあることに触れ、あの叔父の言われたことが冗談ではなかったこと、しかも重要な伝承であったことに改めて深い関心を持った。((野口才蔵『与論島の俚諺と俗信』1982年、p.253)

 「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」。人間はアマム(ヤドカリ)からなったそうじゃないか、ということだ。与論の郷土史家、野口才蔵は1918(大正7年)生まれだから、このエピソードは大正の末から昭和の初期にかけてのことだろう。まだ、その当時は、アマムが先祖であることが信じられていたのである。

 小原一夫の『南嶋入墨考』(1962年)では、沖永良部島で左手のヤドカリをシソポライズした動物紋の模様を「アマム」と呼び、「我々の祖先は「アマム」から産れて来、われわれもやはりその「アマム」の子孫であるから、この「アマム」を入墨したのだ」と答えたというように、ヤドカリ・トーテムは戦後のある時期まで生きていたことが分かる。そしてヤドカリ・トーテムは針突(はじち)をその証としていた。

 与那国島には、ヤドカリ・トーテムを示唆する伝承が残されている。

 大昔、南の島から陸地を求めて来た男がありました。その男は大海原の中に、ぽつんと盛り上がった「どに」を発見しました。その「どに」には人間は住んでいませんでした。南から来た男は、この「どに」に人間が住めるかどうかを試みるために、「やどかり」を矢で放ちました。そこから幾年か経って、この「どに」に来てみると「やどかり」は見事に繁殖していました。それで、その男は南の島から家族をひきつれて来て、この「どに」に住みました。(池間栄三「与那国伝説」)

 「どに」とは、島で与那国島を指す「どぅなん」のことを指している。「やどかり」がトーテムであると同時に、「やどかり」の繁殖のなかに、「やどかり」をトーテムとして選択したことも示唆されているように思える。

 石垣島の白保には島生みの伝承に現れるヤドカリはトーテム原理が崩れかかっているものだと思える。

 大昔、日の神がアマン神に天から降りて下界の島を作るように命じた。アマン神は土砂を槍矛でかきまぜ島を作ったあと、アダン林のなかでアーマンチャー、すなわちヤドカリを作った。その後、神は人子種を下し、ヤドカリの穴から二人の男女が生まれた(『八重山歴史』)。

 この伝承自体は、編成を加えられた新しいものだ。その新しさのなかには、ヤドカリがトーテムであることが示唆されながら人間との関係は切断されていて、トーテム原理が崩れかかっていることも含まれる。一方で、人間が出現するのが「ヤドカリの穴」であるように、霊魂の出入口としての洞窟信仰も痕跡を残している。

 琉球弧には、ヤドカリを意味するアマムという言葉が広く分布している。その呼び方は、アマミ(加計呂麻島薩川)、アーマン(白保)、アマナー(佐敷)、アーマンツァー(粟国島)等、バリエーションを持つが、ここに異種の語は見られない。

 言語学の崎山理は、この「アマム」はオーストロネシア語に由来するとしている。そしてそれだけでなく、オーストロネシア語族が、「アマム」の言葉を携えて列島を北上したのは、北上の三回目に当たり、その年代は1800年前(古墳期)と仮説している(「日本語形成におけるオーストロネシア語族の要素」『東アジアの古代文化 (65号)』所収)。ヤドカリを針突(はじち)とし、ヤドカリを先祖とする信仰が近い時代まで生きており、蛇をトーテムとする信仰は痕跡を留めるに過ぎないことからも、蛇トーテムはヤドカリ・トーテムに塗りかえられていったことが伺われる。また、蛇トーテムはその残存を大和においても確認できるのにヤドカリ・トーテムはそれを認めることができないのは、大和ではオカヤドカリが普遍的な存在ではないというばかりでなく、オーストロネシアの第三の北上の時には既にトーテム原理が失われていたからだと考えることができる。

 琉球弧では、なぜ、蛇トーテムはヤドカリ・トーテムに置き換えられていったのか。その経緯を知ることはできなくても、蛇とヤドカリを通底するものを捉えることはできる。そこに共通してあるのは脱皮だ。ヤドカリも蛇と同じように脱皮をする。

 ヤドカリの脱皮の抜け殻は、抜ける前とほとんど見分けがつかない。脱皮したヤドカリは、外皮が硬くなるまでしばらくじっとしていなければならない。外皮が硬くなり、抜けがら同様の色あいを帯びて動き始める。この脱皮の姿に、琉球弧の島人は再生する人間と同じ姿を見出したのだろう。蛇ではなくヤドカリが普遍的なトーテムになった背景には、ヤドカリが琉球弧の島々には普遍的といっていいほど多く存在していること、そしてもしかしたら脱皮するだけではなく、殻を脱いで住み変えるということ、洞窟に豊かに棲息することなどの点に、豊かな再生力と信仰の一致を見たのかもしれない。

 ここにあるのは、折口信夫が「動物の生活の推移の観察が行き届いてゐる筈だ」と書くように繊細な観察力だ。初期の島人はアマム(ヤドカリ)が時間をかけて脱皮し、時間をかけて動き出す様を何度も見てきたに違いない。脱皮するヤドカリの姿をじっと眺める島人の姿が彷彿としてくる。彼らはその豊かな観察のなかで、再生する人間と同じものをヤドカリや蛇に見いだし、そこに同じものを感じとったのである。そして、その豊かな再生力を支えたのは亜熱帯の珊瑚礁環境だった。



 

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2014/06/25

「火の神考」

 伊波普猷の「火の神考」(1929・昭和14年)。

 火の神。御年の神(稲の事を統べ知る神)に相当する「にらいの大ぬし」の分身ともいうべきもの。「にらい・かない」から渡来して、聞得大君御殿等に陳在し、御嶽等でも祀られていた。竈のあるところにはどこにも祀られている。

 「火の神(かん)がなし」、「おかまがなし」という。「御三つ物(もん)」というのは、竈の原始的形式、石を三個∴形に鼎立させたところからきた名称。

 火の神は日本の古代に於ける如く、やはり女神(めがみ)だと考えられている。
 作物に関する祈願でも火の神を先にして祖霊を後にする。家移(わたまし)の時の行列でも火の神がさきがけをする。他家の火の神を拝するのは禁物。家族専属の神。分家するときは、本家の火の神の香炉中の灰をわけて、新しく火の神を祀る。


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2014/06/24

「沖縄における火の神信仰の史的考察-特に火の神の出自をめぐって」

 上江洲敏夫の「沖縄における火の神信仰の史的考察-特に火の神の出自をめぐって」(1976年)。「特に火の神の出自をめぐって」に期待したのだが、欲張りだった。

 火の神信仰は、「中国の民間信仰的道教の竈神信仰」の影響を受けている。

 『久米島仲里間切旧記』によると、「乙女の小腰・若娘の小腰」として、火の神は女神として表象されている。

 伊波普猷は、お部屋島年中祭祀の「タケナイヲリメ」のミセゼルを最古の形式を保存するものとして、「火の神が一家内の事をニライ・カナイに通す(報告する)という信仰の、道教の宏通以前からあったこと」の証左として見ている。

沖縄における火の神は守護神として盤石の位置を占め、一般的な諸種の守護活動や日神及びニライ・カナイへの中継ぎの機能神へ<お通しの神>として絶大な信仰を集め、それが日常生活の中に根強く浸透していることから、一般民衆の生活思想に深い影響を与え、大きな役割を果し関与してきた(p.45)」

 火の神は、琉球王朝の政治体制にも組み入れられたわけだが、それよりは、

火の管理者である主婦は、一家の火を絶やすことなく火を管理するのが重要な仕事であり、隣家に火種をもらいに行くのは主婦の恥と考えられていた。(p.43)

 ということの方が大事だ。「家を象徴するものが火の神で、火の神は女性によって象徴される」(酒井卯作)。

 火の神は対幻想の神として定着している。それ以前の姿があったかどうかが、ぼくの関心になる。火の神は火神信仰と結びつけられているが、ニライ・カナイへの「お通し」であれば、ニライは洞窟の奥を指した時代まで遡ることは可能である。洞窟の奥としての二ライの根底にあるのは、太陽の光と洞窟の奥の闇という認識だと思う。そして、家屋の中で、光の役目を担うのは火の神だった。


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2014/06/23

マブイの形態

 琉球弧では、マブイ(霊魂)の形態は三角形と認識されていた。象徴的なのは、産衣に縫いつける三角の布や袋で、「ハビラ(蝶)袋」(与路島、加計呂麻島)、「マブヤ布」(沖永良部島)、「マブイ袋」(与論島)(p.184、酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)などと呼ばれている。

 この形態認識の元になっているものは何か。柳田國男は、「心臓」をかたどったものではないかとしている。 

 餅のこと円錐形は握飯の三角と、あるいは考え合すべきものではなかったろうか。
 三角な握飯のもっとも正式に用いられるのは、信州などにも行われている年取の晩の供物、すなわちミタマ様の飯と称して、歳棚の片端または一段と低い処に、平年は十二個とかまたは家の人の数だけとか拵えて、皿や折敷に載せて上げて置くものであるが、これとやや似たことを盆の魂棚にもする土地がある。
 それで私は今後この類の式の餅の形を、あまり変化してしまわぬうちに詳しく記述しておきたいと念ずるのであるが、その前に自分の想像を言ってみるならば、これは人間の心臓の形を、象ったていたものではないかというのである。(柳田國男『食物と心臓』

 しかし、人間や動物の内部に形態の起源を求めるより、動物や植物に精霊が宿るとするなら、その生きた姿のなかに、その姿を求めるのが自然な気がする。つまり、日常的な知覚のなかにそれを求めることが。琉球弧でそれに該当するのは蝶だ。

 「南島では屡、蝶を鳥と同様に見てゐる。神又は悪魔の使女ヴナヂとしてゐるのは、鳥及び蝶であつた。」(折口信夫「若水の話」)

 蝶は、「神」や「悪魔」を運ぶだけではなかった。

一 吾がおなり御神の
  守らてゝ おわちやむ
  やれ ゑけ
又 弟おなり御神の
又 綾蝶 成りよわちへ
又 奇せ蝶 成りよわちへ
(我々のおなり御神が、守ろうといって来られたのだ。やれ、ゑけ。おなり御神は、美しい蝶、あやしい蝶に成り給いて、守ろうといって来られたのだ) (『おもろさうし』

 「神」は「蝶」に化身するものでもあった。

 「以前婚礼の宴にハビラ(蛾)が三匹、三味線にあわせて調子よく舞いあがった。音曲がやむとそのハビラは畳に落ちた。そのハビラは酒好きであった亡き祖父の姿によく似ていたので、たれかが「祖父を躍らせよ」といって音曲を鳴らすと、そのハビラはまた空中で舞いはじめたという(大島瀬戸内町)」(p.184、酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』))

 この例では、蝶ではないが、「ハビラ(蛾)」と死んだ祖父を同一視している。そして同一視しているだけではなく、「亡き祖父の姿によく似ていた」と抽象度の高い擬人化による見立てが行われている。

 蝶が、霊魂でもあることについて、島尾敏雄はとても分かりやすく説明している。

石牟礼 あの、あやはびら、という言葉は「生き魂」ですか。
島尾 はい、「生き魂(マブリ)」でもあります。言葉そのものの意味は模様の蝶とということですが。つまり、アヤは模様、ハベラというのは蝶ですね。しかし蝶はマブリでもあります。マブリには「生き魂(マブリ)」と「死に魂(マブリ)」がありますけれども、蝶はそれらの象徴のように言っているようですね。そして、それはまた三角の形で表わします。ですから昔から三角模様というのが色んなものについています。それはハベラですね。ハベラというのは、つまり、マブリなのです。守り神の意味もこめられています。(「綾蝶生き魂 南島その濃密なる時間と空間」『ヤポネシア考―島尾敏雄対談集』

 「蝶はマブリでもあります」というのは、「蝶」に霊魂(マブイ)の象徴を見ているということだ。蝶をマブイと見立てることによって、相似形としての三角形の形態認識は起こっていると思える。

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2014/06/22

「南西諸島のGeheimukult-新城島のアカマタ・クロマタ覚え書-」

 住谷一彦の「南西諸島のGeheimukult-新城島のアカマタ・クロマタ覚え書-」(『南西諸島の神観念』所収)。この本自体は、1977年が初版だが、論考は1963年に書かれたものとある。「Geheimukult」は秘儀。この論考は、注がとても示唆的だ。

新城の場合には、このアカマタ・クロマタが粟の豊年祭に現れ、親の方が米の豊年祭にだけ出現することが止目されよう。しかも、このアカマア・クロマタは、別称をフサマロといい、波照間島で雨乞い行事アミニゲー(旧一〇月ネノミズノエの日)にあらわれる仮面仮装の神人(したがって、その仮面)がフサマラとよばれているのと何らかつながりがあるのではないだろうか(p.42)。

 前に考えたように子神が「粟」の豊年祭に現れ、「稲」の豊年祭に親子が現れるのは、もともと「神-粟」の豊年祭だったものに、「稲」が本格化し、「親子-稲」、「子-粟」と二重化したと考えることができる。アカマタ・クロマタ祭祀は単色ではなく編成を受けたことがあるのだ。

 しかし、子神は「フサマロ」という別称を持つ。湧上元雄も「西表島古見むらのプール」(『沖縄民俗文化論―祭祀・信仰・御岳』所収)で、「全身シツカザにおおわれた白面のフサマラー(草をまとったまれびと?)が身をふるわすと、微妙に全身揺れ動いて、彷彿としてきたりうける霊のいますかと錯覚されるから妙だ(p.187)」と、古見の子神シロマタに「フサマラー」という別称のあることを書きとめている。

 この別称とは、アカマタ・クロマタの古名ではないだろうか。住谷が「何らかつながりがあるのではないだろうか」と書くように、ここにはつながりを見出せるかもしれない。

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2014/06/21

「西表島古見むらのプール」

 湧上元雄の「西表島古見むらのプール」(『沖縄民俗文化論―祭祀・信仰・御岳』所収)から。

 マイダツ(前立。体力精神のすぐれた者が選ばれる)の持つ赤白二旒のシルシ旗(船漕ぎにも使用される)を先頭に、ミバライと称する太鼓打ち、銅鑼たたきについで、右手にパク(矛)を携えた二神がジーシトゥ(地人)という大勢を従えていいよいよ登場。人々に神出現を告げる警戒と威嚇の「ヤークリ、ホッホ」の叫びがおこり、鳴り物の音の高まりにつれて、昂奮と緊張は一段と増す。
 「ウプユーバ ムチワール、ミキリユーバー ムチワーツル(大世をば持ってきたぞ、大豊作を持ってきた)」と歌い出すトゥール(道行)ユンタにつれて、まず白マタが進み寄ると、縁下に控えたヤームトゥのティシュ(亭主)の「白マタ、サレー」の挨拶によって、司、村人たちが拝礼する。
 その瞬間、全身シツカザにおおわれた白面のフサマラー(草をまとったまれびと?)が身をふるわすと、微妙に全身揺れ動いて、彷彿としてきたりうける霊のいますかと錯覚されるから妙だ(p.187)。

 湧上は感じるべきことを感じている。よほど感じ入ったとみえて、別のところでも、「赤面の赤マタと白面の白マタは、シツカザ(西表三味線カズラ)に身をつつみ、体をふるわすと、細い草の先端が微妙に揺れ動いて、宙に浮かんでいるように錯覚されるから妙だ(p.201)」と書いている。


 

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2014/06/20

「赤マターの神事に関する覚書」

 喜舎場永珣の「赤マターの神事に関する覚書」(『八重山民俗誌』所収)が出版されたのは1977年だが、喜舎場自身は1972年に没しているので、この記事を書いたのはそれ以前だということになる。『八重山民俗誌』以前に公表されたものなのかどうかは分からないが、「近年は研究者達によって徐々にではあるがその内容が学問的に公開されつつある」ので、「この際公表してもよいと考えるようになった」とあり、1972年から遠く遡ることはないと考えられる。というのも、「赤マターの神事に関する覚書」を他の民俗記事と比べた時に、その際立った特徴は、取材の時期の古さにある。

 まず、石垣島宮良のアカマタ・ウロマタは1915(大正4)年から「昭和初期」にかけて。西表島古見は、1928(昭和3)年と1929(昭和4)年、新城島が1930(昭和5)年、小浜島が1931(昭和6)年である。

 この取材時期の古さに依るものか、別の際立った特徴も生み出している。現在、アカマタ・クロマタ・シロマタの三神が出現することで知られる西表島古見では、クロマタが親神でアカマタ・シロマタが子神であるというだけでなく、それぞれに子神を擁しているのだ。また、他島は現在、アカマタが男神、クロマタが女神と報告されているが、「赤マターの神事に関する覚書」では、アカマタは女神、クロマタは男神と反転している。

 現地に住んだ者の取材記事であるなら、ここに間違いは認めにくいとするなら、「色」は反転したということだ。古見のアカマタ・クロマタ・シロマタは、クロマタとアカマタ、シロマタに親子設定があるだけでなく、それぞれに子神を持つことは、そのまま受け取ってよいと思われる。古見については、三神の子神を廃した経緯を持つということだ。

 1930(昭和5)年に一度だけ取材した新城島について、喜舎場が首を傾げていることがある。

 しかしながらこの「ダートゥダー」についてどうも不可解なる伝承に「小豊年祭」の時に現れる「アカマター」の小神である。実はこの新城島の豊年祭は稲の収穫時の一月前の粟の収穫時にも「前」プール或いは「小」プールと称して行事を取り行っているが、この「小豊年祭」にもアカマター神の子神が出現する。そして本来の稲の収穫時には本来の豊年祭として「大豊年祭」が行われる。その際には本来のアカマターの両親神が出現するのであるが、この新城島の「小豊年祭」時のアカマターの子親は実は小浜の「ダートゥダー」の流れであるとの古老の伝承である。すると新城島における「ダートゥダー」は一種の世持神としては祭っていたわけで、小浜におけるような悪霊神的な神ではないことになる。いずれにしてもこの新城島の古老伝承はどうも不可解な伝承と言わざるを得ない。又或い意味では「小豊年祭(粟の収穫を祈る)」の行事が近世になって廃止されて「大豊年祭(稲の収穫を祈る)」行事に併合された結果アカマター神の親子四神になったのではないかとも思考される。ともかくこの新城島のアカマター神は四神であるが、この神行事そのものは小浜島からの伝播である。伝承そのものは小浜の伝承が至当であるが、そのことは今日小浜に伝わるこの「ダートゥダー」の歌意からみても、これがアカマターのような世持神ではなはないことは明確である。あくまでその歌の意味は悪神的な歌意でしかない(p.328)。 

 新城島の古老は、子神の祭儀を「ダートゥダー」の代替だと伝承を語るが、その祭儀内容は「ダートゥダー」とは似ていないのが不可解だというのである。ここは、「小豊年祭(粟の収穫を祈る)」の行事が近世になって廃止されて「大豊年祭(稲の収穫を祈る)」行事に併合された結果、アカマター神の親子四神になったのではないか」という喜舎場の「思考」が妥当に思える。

 しかし、喜舎場は別のところでは、「明治末年に至って「ダートゥダー」の行事を廃止して「アカマター行事に組み入れ、今日では赤黒両親の子神と化してしまった。ゆえに本来は二神である」と書いているのでややこしい。

 喜舎場の考えを最大限に生かせば、近世に親子四神になったが、どこかの時点で子神が廃止された。しかし、明治末年になって、子神を復活させ、その時同時に、ダートゥダーを廃止したので、子神をダートゥダーの流れという伝承になった、ということになる。

 ここでぼくたちが重要だと思えるのは、子神は粟の収穫時の「小豊年祭」に出現し、親子神は稲の収穫時の「大豊年祭」に出現する、ということだ。子神に独立した役割があるということは、親子という関係とは別の意味を持つということである。それは、もともと粟の収穫時の豊年祭に出現していた神が、稲の収穫時の豊年祭が力を増した時に、親子の子として組み込まれたということだ。

 こう考えると、西表島古見の神々に対しても視点が生まれる。古見の場合、クロマタが親神として設定され、シロマタ、アカマタは子神とされているが、クロマタが「士族」、シロマタ、アカマタが「百姓」の部落集団で演じられることを踏まえれば、クロマタ-シロマタ、アカマタの親子関係は、近世以降に形成されたものだと見なせる。すると、クロマタ、シロマタ、アカマタそれぞれの親子は、新城島の親子と同型、つまり、子神は粟の収穫祭、親子は稲の収穫祭を担う段階があったのではないだろうか。それが、クロマタがシロマタ、アカマタの親という関係を生ずるに及んで、稲に吸収されたとするのだ。

 喜舎場は、禁忌感の強い祭儀のなかで、「絶えず村人の尾行人が付いていた」なかで、席を立ってはメモを取ることを繰り返して記録を取った、とある。そうするうち信頼を得て、古見では「これまで全く秘密のベールに包まれていたこの神事の細部に至るまで話を聴くことが出来た」という。

黒マター親神は一寸姿を現わしたかと思うとすぐまた隠れる。さらにまた一寸現れたかと思うと、またその姿を隠す。そのような動作を九回繰り返したのちに、やっと出現してくる(p.297)。
このように黒マター神も赤マター・白マター神もその頃はそれぞれ御嶽から御嶽へと各御嶽を歴訪するが、すべて神謡を唄いながらの移動である。この時が最もこの神祭のクライマックスに達する時である。その異様なる状態はまさしく往昔における南島の村落共同体の一体感を現世に具現せしめた感を懐かせる(p.301)。
 (神が聖地に戻る際-引用者)これ以上は村人達も同行が許されない。あとにはギャラムヌのみがその御同伴を許可される。赤マター・白マターの両神組はそこからくねりくねった山道を約一丁ほど登って行かれたのちに後方の部落民の方を度々振り返えられる。松明の明りに照られされたこの神の姿を村人等は深く垂れて伏し拝みながら泣く。この神が後方を振り返えられる姿は別離を惜しむ動作である(p.301)

 長い取材過程は、生々しい記録を残してくれている。


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2014/06/19

「南部琉球における象徴的二元論」

 村武精一の「南部琉球における象徴的二元論」(『神・共同体・豊穣―沖縄民俗論』(1975年))から。

 村びとは、一般に、これら二神の対比と象徴的な性的結合によって、収穫が祝われ、つぎの年の穀物の豊作と幸がもたらされると、信じている。もし何らかの事情で、神々が〈生まれず〉、出現しないということになれば、来年には穀物の凶作と不幸がもたらされてしまうという(p.228)。
 男神と女神の二神は、地の底から出現し、儀礼の完了とともに、《この世》から消え去ってゆく。これは、二神がそれらの始源の世界に帰ること、つまり、二神の象徴的《死》を示唆している。さらに二神の《誕生》/《出現》と、《死》/《帰去》過程は、現在でも村の内部ではきびしい秘密となっている(p.229)。

 西表島古見村。

三神の《誕生》について、注目すべきことは、親/黒神は、南の聖地(《山》)から〈生まれ〉、黒祭祀集団の草分け宗家を訪ねるが、子/赤・白神は、umutu という森のなから(ママ)浜を経て、まず、《女性》/赤集団の宗家を訪ね、ついで《男性》/白集団の宗家を訪ねる(p.232)。

 男女と親子は、何らかの編成を経てこの形に落ち着いたのだと思える。

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2014/06/18

「八重山・黒島と新城島における祭祀と親族」

 植松明石の1965年の論考、「八重山・黒島と新城島における祭祀と親族」(『沖縄の社会と宗教』所収)から。

 アカマタ、クロマタはその面の色の赤、黒に由来するといわれ、上地ではアカマタが男神、クロマタが女神である。下地でもアカマタは男神、クロマタは別にアオマタとも呼ばれその顔の色が緑色(草色)で女神である(p.289)。

 この指摘も重要なものだと思える。緑色(草色)の面は、古代の色概念として「青」と呼ばれた。さらに、神名としては、色彩ではなく、明度寄りに「黒」とされたと理解できる。

 新城島のアカマタ・クロマタは、ミラヤア(八重山では一般にナビンドウと呼ばれる)のニーレイスクという手の届かぬ深い土の底から生まれてくることになっている。「このニーレイスクの語感は、下地の人によれば、「はかりしられぬ」「遠い遠い」であるという。この神になる人・或いはこの神はニイルピトゥというが、信仰深いこの島の人々は、ニイルピトゥという用語もみだりに口にすることが、はばかれている(p.290)」。

 洞窟他界としてのニーレイスクと、強い禁忌感。

 アカマタの象徴は太陽、クロマタの象徴は月。(p.295)

 新城島上地では、アカマタ・クロマタのそれぞれの親子神。下地では、アカマタ・アオマタのそれぞれの親子神が出現する(p.289)。

 下地では、赤、黒の対を、色彩概念の象徴性に添って、青、赤へ編成している。

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2014/06/17

「八重山群島におけるいわゆる秘密結社について」

 宮良高弘の1962年の論考、「八重山群島におけるいわゆる秘密結社について」から、抜き書きしていく。

 アカマタ・クロマタは実際には、さまざまな異名を持つ。

 「実際のところニイルビトゥ・ミユートガナシ・ユムツンガン・シーヌピィトゥ・フサマラー・パンバラーなどさまざまな異名がある。(p.207)」

 ニイルビトゥは「根の人」、ミユートガナシは「夫婦」、ユムツンガンは「世持神」、シーヌピィトゥは「後の人」。

 更に、フサマラーの「フサ」は草の意であり、「マラー」は稀に訪れてくる人、つまり賓客を表すのであるから、全身を草でおおった仮面仮装者の意であろう。パンバラーもこれと同様な意である。波照間島でも「雨乞い」にフサマラーが出現するが、ここでは水の神様であり秘儀はともなっていない。いずれにしても、これらの名称は、「アカマタ・クロマタ」の一面を強調した名称である(p.207)

 フサマラーとは、「草から生まれし者」だ。そして、「水の神様」であることは押さえておきたい。

 西表島古見のクロマタの伝説は面白い。

 昔、山の幸海の幸をとる下幸二という屋号の家の男の子が、ある時犬をつれて山に猟にでかけたが、何日たっても帰らない。部落の者が総動員で探しても見つからなかったので、当然その子は死んだものとして、焼香していた。ところが嵐の吹く大の夜のことであった。その子の母親は、家の外から「おかあさん」と呼ぶ声を聞いた。それは、まさしく先年いなくなった男の子との声であった。不審に思って問い尋ねてみると、その声の主は次のように答えた。「私はおかあさんにも会えぬ身となりました。神になってしまったのです。しかし、おかあさんがどうしても私の姿をみたかったら旧暦六月の最初の壬の日にどこそこまでおでください」と。そして声の主はそのまま立ち去ってしまった。おかしいと思いながらも母がのその日に指定されtた場所へ行くと、その男の子の姿が瞬間的ではあるが本当に現れたのである。そして、それからは毎年旧暦六月の発の壬の日に限って現れた。しかし、その現れる場所はその年によって違っていた。ある年には、部落の近くに現れ、また、ある年には遠ざかったところで現れた。その現れる場所をよく考えてみると、豊年の年には部落の近くに現れ、凶作の年には部落から遠い所に現れるということ分かった。そこで。部落の人々はこれは豊年の神に違いないと信じ、何とかしてその神を毎年部落にの近い所へお招きして豊作をもたらしていただきたいもだと考えた。このようにして、その神の面をこしらえて、それを部落の中へお連れしたら毎年豊作になるに違いないと思い立ち、面を神にかたどってこしらえていたのである。面を作ったその年から不思議ににその神の姿は現れなくなった。神がその面に宿ることになったからである(p.210)。

 この伝説自体が後代の編集を相当に受けており、かなり新しいものだと見なさざるをえないが、祭儀を演じる男性の秘密結社からは疎外された母(女性)と子は直接、コミュニケーションできることが分かる。また、男性結社のほうは、逆に仮面の祭儀とすることで、他界とコミュニケーションできるという点で対照的だ。

 また、この伝説からは仮面仮装の来訪神が、死者の世界からやってきて、かつ、豊年をもたらすために人間が作り出したものだという由来は正直に告白されている。伝説としては、最後の「神がその面に宿ることになったからである」は不要で、無い方が物語として豊かだと思う。

 出現したシロマタ、アカマタの二神は対をなして出現して、路上で親であるクロマタに出会うことは禁忌とされている(p.221)。

 これは、親子と措定されるシロマタ、アカマタとクロマタは、来歴が異なることを示唆するのかもしれない。

 「アカマタ・シロマタ」は、村人達に見送られながら山中に消えてゆく。村人達は、来年しか見られない神様に別れをおしむ。老人達の中には、名残りおしさのあまり、涙を流す姿も見られるのである(p.224)。

 これは、この祭儀が、島人にとっても祭りとしての本来の意味を失っていないことを示すように思える。大切な描写だ。


 

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2014/06/16

原像としてのフサマラー 2

 アカマタと聞いて、ぼくたちが真っ先に想起するのは赤蛇である。与論ではアーマッタブと呼ぶ。

 また、久高島には「カベール森の道の西側にアーマン権現という洞窟があり、この洞窟でアカマターと呼ばれる蛇を二匹とったところ、それは兄弟と姉妹であった」(小島瓔禮、「イザイホー調査報告書」1979年)という伝承がある。

 喜舎場永珣は「赤マターの神事に関する覚書」(『八重山民俗誌』所収)のなかで、「黒マター親神は一寸姿を現わしたかと思うとすぐまた隠れる。さらにまた一寸現れたかと思うと、またその姿を隠す。そのような動作を九回繰り返したのちに、やっと出現してくる(p.297)」と描写しているが、湧上元雄によれば、これは蛇が穴から出る様子を表現すると村人に考えられている」(「祭祀・年中行事の位相」1976年)(p.87『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』(2003年))。

 アカマタとは蛇、もっと言えば、蛇をトーテム(自分たちの祖先)とする人々が名づけたものだと言えるのではないだろうか。

 吉成直樹は『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)において、蛇トーテムと海上他界の結びつきを指摘している。

 江南を原郷に持つ女性シャーマン、龍神=海神信仰が、「遅くとも縄文後期には琉球列島に登場し」ているという想定、『隋書』の、婦人が虫蛇の文を入墨するという記述(国分直一)など、琉球弧を含む周辺の文化圏の共通性から、吉成は考察している。

 奄美のアラボレでは、ノロが十五、六歳の従女の頭髪にハブを巻きつけるが、このハブは「四月送、すなわち海神の憑依する形式を持つマレビト祭祀であるウムケー・オホーリに結びついているのを知ることができる」(p.138)としている。

 蛇トーテムは、与論でも蛇を神と祀ることがあるから実感的にも頷くことができる。これが海上他界と結びついていたとすれば、アカマタ・クロマタ祭儀においては、蛇トーテムとともに海上他界も受容されたことになるが、それはこの祭儀における洞窟他界と海上他界の併存から伺い知ることができると思える。

 ここで、アカマタ・クロマタが最初から、蛇トーテム=海上他界信仰者によって形成されたとは考えられない。それなら、アカマタ・クロマタも海上から来訪するのでなければならないはずだ。

 そこでぼくたちは、原像として「雨乞い」のフサマラーがあり、蛇トーテムが複合される段階と、時期の前後は分からないが、粟の豊年祭に編成される段階があり、ついで稲の豊年祭へと編成されたという考えを持つことになる。

 雨乞いは、農にとって重要だが、狩猟・採取の段階でも生命にとって不可欠である。また、アカマタ・クロマタの来訪神を「草から生まれし者」、つまり精霊そのものと見なす信仰の濃厚にあるのを認めることができる。これらの要素は、祭儀自体は、粟、稲と農耕段階のものへ移行しているが、アフリカ的段階まで届くものとして捉えることができる。

 

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2014/06/15

原像としてのフサマラー 1

 新城島のアカマタ・クロマタでは、親子二神が豊年祭に出現するが、粟の豊年祭には子のみが、そして稲の豊年祭には、親子が出現するという相違を見せる。これは、粟の豊年祭としてあった祭儀に、稲の農耕が拡大する及んで、親が設定され、従来の神は子に位置づけられ、稲の豊年祭には親子や、粟には子が残存したと考えることができる。

 アカマタ・クロマタ祭儀は、粟から稲への農の移行の段階で編成を受けたと想定することができうる。

 そして子は、粟の豊年祭に出現するというだけでなく、フサマロという別称を持っている。また、湧上元雄によれば、西表島古見のシロマタもフサマラーと呼ばれている。この別称の意味するものは何か。

 波照間島の雨乞いでは、「極端な旱魃のときに限って、二度、三度目のアミニゲヱ・アサニゲヱのあとに二日間のスーニゲヱがある(p.438)」。そしてこのスーニゲヱも、1955年頃までは、フサマラの儀礼だった。コルネリウス・アウエハントは、詳しく調査していないので、充分に説明することはできないと断った上で、フサマラについて書いている。

 以前、スーニゲヱの二日間、それぞれの村では、仮面をかぶった青年が演じる一対のフサマラ(ひとりは男と、もう一人は女)が御嶽の敷地ちかくの森、フサマラヤマから現れた。これらの青年は、マーニの葉や蔓、乾いたバナナの葉でできた肩マントのような衣裳をつけ、わざと木炭で汚した瓢箪でつくった面やシュールの遷移で作ったかつらをつけた。彼らは杖にマーイの柄を用い、それぞれ御嶽の井戸の水を入れた瓢箪を持つ二人の青年のトゥムを従えていた。こうして御嶽から御嶽へと移動し、東(ミシク)から西(ア-スク)まで、十人のフサマラと十人のトゥムが、最後にはフタムリィの井戸に集まった、。フカの村人ととともに、彼らはこの井戸を九回巡った。彼らがもってきた一つの瓢箪の水がここに捧げられ、もうひとつの瓢箪の水はアースクのマソーミへの供え物になった。御嶽に到着すると、彼らは神司に迎えられた。
 アースクの雨乞いの歌をうたい、神司を囲んで九回ゆっくりとまわるフサマラ、トゥム、村人は、神司から小さな竹の箒で水を振り掛けられた。フタムリィゲーの水を彼らの瓢箪に入れてから、ブイシ、ブスク、アラントゥ、ミシクのフサマラとトゥムは東に向かって、帰りの巡行を始めた。それぞれのウガンに立ち寄るたび少人数になりながら、最後は二人のフサマラとトゥムが自分たちの村の御嶽に戻った。同様の儀礼(水を捧げ、それぞれの御嶽のフサマラの歌をうたい、神司が水を振り掛ける)がそれぞれの村で繰り返され、そのあとフサマラはフサマラヤマに消え、そこで彼らは衣裳をぬぎ、杖や仮面をそこに残した(p.441)。

 フサマラーもまた、男女神で現れる仮面仮装の来訪神であったことが分かる。しかも、フサマラーは「雨乞い」、つまり「水」の予祝に出現する。

 吉成直樹は『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)のなかで、アカマタ・クロマタ祭儀と「水」のむすびつきについて書いている。

 小浜島のアカマタ伝承では、面が水源地に立てられて祈願の対象になり、あたりの農作物は見事だったということ、川平の雨乞いでは、その祈願の対象となるのはマユンガナシであったことを、吉成は挙げている。

 アカマタ・クロマタ・マユンガナシなどのマレビト-これらはフサマロ、フサマラー、マーランセンなどの別称をもつ-が水をもたらす存在であるとすれば、これらと同じ仮面仮装の神であり、同系の名称を持つ波照間島のフサマラが、一〇月の「ネノミズノエ」の日に行われる雨乞い(アミニゲー)に出現する理由を容易に理解することができる。波照間島のフサマラもまた水をもたらす存在なのである。このフサマラは、八重山の仮面仮装のマレビロ祭祀のなかでは孤立した存在であるあのような印象を与え龍が、名称や性格などの点で、アカマタ・クロマタ、マユンンガナシなどと同一のカテゴリーに括ることができるのは明らかである(p.111)。

 こうして、アカマタ・クロマタは、豊穣と水の祭儀として二重化されるが、これは、「粟」以前の表情を「水」として残しているということではないだろうか。つまり、「雨乞い」としてのフサマラーがあり、そこに「粟」の祭儀がかぶさり、アカマタ・クロマタ祭儀になった。フサマラーは別称として生きることになった。「水」は粟の豊穣に欠かせないものであり、両者は仮面仮装という共通項を持っていた。

 また、フサマラが通常の雨乞い(アミニゲー)でも叶わない旱魃の時に行われたということは、神女による祭儀が中心となったとき、古層の「雨乞い」は、通常から外され、非常時のなかに存在場所を見出したのかもしれない。

 ここでもうひとつ、ぼくたちはフサマラという別称に対して、アカマタ・クロマタという名称の由来を追うことができる。


『HATERUMA―波照間:南琉球の島嶼文化における社会=宗教的諸相』(コルネリウス・アウエハント、2004年)

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2014/06/14

兄妹始祖神話の根底

 兄妹始祖神話の根底にあるものを確かめておきたい。

 夫婦の関係と親子関係は、関係をなす両項が感情的に交流するか、等しくないありかたをするかの、いずれかである。これにたいして、純粋な関係にあるのが兄弟と姉妹の関係である。兄弟と姉妹は同じ血を受けていながら、その血が両者のあいだで安定と均衡を保っている。だから、どちらも相手を求めたりしないし、自分の自立性を相手にあたえたり、相手から受けとったりもしないで、自由な個人としてむかいあっている(p.308)。

 兄弟というものは姉妹にとって安定した対等の存在であって、両者のあいだの相互承認は純粋で、自然な関係が混じりこんではいない。だから、この関係にあっては、個がどうでもよいと考えられることはないし、個の共同体的な価値が偶然に左右されることもない。個としての自己が相互に承認されるさまは、血縁上の均衡が保たれていることからしても、両者の欲望が入りこまないことからしても、まさに利にかなったものということができいる。だから、兄弟を失うことは姉妹にとって埋めあわせるようのないことであり、姉妹の兄弟にたいする義務こそ最高の義務である(p.309『精神現象学』G.W.F. ヘーゲル、長谷川宏(訳)))。

 兄弟と姉妹は、夫婦のように「どちらも相手を求めたりしないし」、親子のように、「自分の自立性を相手にあたえたり、相手から受けとったりもしないで」、「自由な個人としてむかいあっている」。血縁という近しい間柄でありながら、「両者の欲望が入りこまない」ので、「個としての自己が相互に承認されるさま」は「純粋」である。だから、「兄弟というものは姉妹にとって安定した対等の存在」である。

 このヘーゲルの洞察を吉本隆明は引き継いで、言う。

 ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の〈対なる幻想〉のうち〈空間的〉な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである。兄と妹、姉と弟の関係だけは〈空間〉的にどれほど隔たってもほとんど無傷で〈対なる幻想〉としての本質を保つことができる。それは〈兄弟〉と〈姉妹〉が自然的な〈性〉行為をともなわずに、男性または女性としての人間でありうるからである。いいかえれば〈性〉としての人間の関係が、そのまま人間としての関係でありうるからである。それだから〈母系〉性社会のほんとうの基盤は集団婚にあったのではなく、兄弟と姉妹の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致するまでに〈空間的〉に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる(p.162)。

 アマテラスとスサノオであいだにかわされた行為は、自然的な〈性〉行為、いいかえれば姉弟相姦の象徴的な行為を意味していない。姉妹と兄弟のあいだの〈対なる幻想〉の幻想的な〈性〉行為が、そのまま共同的な〈約定〉の祭儀的な行為であることを象徴している。べつのいい方をすれば、姉妹と兄弟とのあいだの性的な〈対幻想〉が、部落の〈共同幻想〉に同致されることを象徴している(p.164『共同幻想論』吉本隆明)。

 「アマテラスとスサノオであいだにかわされた行為」は、動物の交尾から教わって性行為をしたという記述ではないが、意味としては同じことだ。それは自然な性行為ではなく、対幻想を共同祭儀の核に埋め込むための幻想的な行為として意味を持つ。兄弟と姉妹の対幻想が、空間的な拡大に耐えられることを梃子に、対幻想を共同幻想に同化させ一致させた。これが、兄弟始祖神話の構造だ。

 ヘーゲルが世界史の外に起き、野蛮とみなしたアフリカ的段階の神話思考が、彼の洞察に則っていることを知ったらヘーゲルは驚くだろうか。

 洪水のあと兄神妹神だけがとりのこされて、ふたりは結びついて子孫をうみ、人々の始祖となったという神話は、研究者によって南中国や東南アジアの諸種族のあいだに分布していることが知られている。じっさいに兄(弟)姉(妹)のあいだに近親相姦が行われた時期がこれらの地域をふくめた南島にあったかどうかを、言うことができない。ただ神話的な対幻想と現実的な対幻想が同致できるような共同体の段階を想定することはできる。そしてこの段階がなんらかの条件で持続的な時期が、南島をふくめた南中国や東南アジア諸種族のあいだでは存在しえたということは象徴的に言われているとおもえる。(「南島論」)

 神話の性行為と現実の性行為との間の距離を踏まえること。


『精神現象学』(G.W.F. ヘーゲル、長谷川宏(訳))


『共同幻想論』(吉本隆明)

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2014/06/13

『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』、再読

 吉成直樹の『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』(2003年)は、琉球弧の民俗に対して異議を申し立てる形で展開されている。

 「ニライ・カナイ」は海の彼方、あるいは海の底と言われているが、もともとは地下(洞窟)という認識があること、「来訪神」は、祖先、祖霊と考えられているが、それとはまったく違う観念であること、「御嶽」の認識はさまざまだが、それらは種々の信仰が複合されてできていること、「オナリ神」信仰は古いものだと言われているが、実は新しいのとはないか、ということ。これらだ。

 「定説」そのものに対する無知のため、定説に驚いたり、定説の根拠を改めて考えさせられたりしたが、おおくは吉成の展開に違和感なく読み進めることができた。

 吉成は、二ライという言葉の原義が、「土の中」であるという言語学の理解を援用して、「八重山の二ライ系の他界(地下他界)と結びつく仮面仮装の来訪神儀礼が古く、女性神役が中心になる二ライ系の他界(海上他界)に結びつく儀礼は相対的に新しい」(p.21)としている。

 前者は八重山のアカマタ・クロマタ、マユンガナシ、宮古島のパーントゥ、沖縄島安田のシヌグ、後者は久高島島のウプヌシガナシーウガンダテ、奄美のウムケー・オーホリ、竹富島のユークイがその例である。前者は男性による仮面仮装により、後者は巫覡による憑依という型を取る。

 仮面仮装型と憑依型とは、それだけでは新旧の判断はつけられないが、他界観の新旧から、琉球弧では仮面仮装型が憑依型に先行して祭祀化されたことになる。

 住谷一彦とヨーゼフ・クライナーは、アカマタ・クロマタは男女の祖神とは「祖先」、「祖霊」ではなく、「人類全体の祖ないし親である太祖」であると指摘している。この認識を支えているのは、

実際に、アカマタ・クロマタが男女の祖神と人々によって考えられていることである。さらに、『おもろそうし』のなかには「ニライカナイのかみ」という表現はまったくなく、ただ「にらいとよむ大ぬし」とされ、男女の性別も不詳であり、ましてや夫も妻もいない非人格=無個性的であることが特徴であるということである。したがって、琉球神話にみられる男女二柱の祖神、アカマタ・クロマタが男女の祖神とされることも、それほど古いものではない、ということになる(p.64)。

 「にらいとよむ大ぬし」は、「にるやとよむ大ぬし」のことだと思うが、これがこの議論に援用されるべき神の資格を持つかどうか分からないが、「夫も妻もいない」ことから、「アカマタ・クロマタが男女の祖神とされることも、それほど古いものではない」という導きは面白いと思う。アカマタ・クロマタが男女二神であれば、農耕祭儀の神ということになるが、洞窟他界を観念するこの祭儀には、それでは農耕祭儀以前の姿は想定できるだろうか、という課題が浮上する。言い換えれば、アカマタ・クロマタ以前の来訪神祭儀は無かったのだろうか。

 御嶽については自分の理解を書いておきたい。御嶽の場所は、旧集落跡である。農耕地を求めて丘陵地から平地へ移住した際、旧集落は聖域化された。そこは神のいます場所になり、多くの場合、性的な禁制を伴い、男性のみあるいは女性のみが入れる場所になる。そこに接して根人となる人物の住居が設けられ、そこから新しい集落が展開される。

 旧集落であれば、その境界近くの御嶽になる場所から、多くの人骨が出る場合がある。ただ、二体、一体という場合は、後に埋められたものでなければならない。兄妹始祖神話が重要である段階では二体が埋められ、ノロが主導権を握った段階ではノロが埋められる。だから、御嶽とは葬所であるという定説のひとつは、現象を示すものであって、本質的な定義にはならない。

 吉成は、ここで祀られる神とは、「祖先」や「祖霊」ではなく、「始祖」であろうとしているが、シマ(島)の守り神として最高あるいは唯一の存在として表象されるものが対象になるということではないだろうか。シマ(島)の象徴的な秩序を維持する神という抽象度の高い存在だから、その時々の支配的な共同幻想が指定した神が信仰の対象になる。それが、兄妹二神の場合もあれば、ノロを中心とした神女組織が整備された時には、天上他界とオボツ信仰に基づく神ということになる。

 オナリ神信仰は、兄妹始祖神話とともに信仰化されたものだ。

兄妹にして原夫婦という男女関係のなかには、ありとあらゆる男女関係が含まれているとかんがえるべきなのである。つまり、この世のはじまりに存在した、たった一組の兄妹であり、かつ夫婦という関係のなかには、男、女一般という関係も含まれるということである(p.187)。

 こちらの問題意識に沿った言い方にしておきたい。母子関係を時間軸に、兄弟関係を空間軸に据えることで対幻想を共同幻想に同致させたのが、初期の農耕社会だった。

 筆者は、これまでみてきたように「オナリ」という言葉が、兄弟姉妹という関係を基本にしながら、あらゆる考えうる男女関係にまで意味を拡大させているのは、琉球列島に広く認められる「兄妹始祖神話」が起訴にあるからだと考える(p.187)。

 兄妹が空間的な拡大に耐えうる対幻想だからこそ、兄妹始祖神話は生まれた。兄弟姉妹は、いわゆる男女関係なしに永続する対幻想だということが、この神話を支えている。その意味では、吉成が言うよりは基盤を持った信仰なのだ。

 「おわりに」で、「琉球列島の伝統的な思考のあり方として、つねに祖型的世界、始原の世界にたちかえるという発想がその根源にあり、しかも徹底しているということである(p.208)」と書くが、重要な認識だと思う。これも、こちらの問題意識で言い換えると、「祖型的世界、始原の世界」とは、野生の思考の時代のことであり、アフリカ的段階のことだ。 

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2014/06/12

『野生の思考』と琉球弧

 西洋人が未開人と呼ばれる人々の思考について考察したものではなく、西洋人がぼくたちの思考について考察したものだと考えてみたら読みたくなったのが、レヴィ・ストロースの『野生の思考』だった。すると、のっけから「琉球列島の後進地域の住民」について、木や貝類、魚類名前の豊富さや特性、修正、雌雄の別もよく知られているという報告が引用されていて可笑しかった。やはり、観察対象だっただのだ。

 この本は、それまでの西洋人の中で考えられていたトーテミズムに対する反論の形をとっているので、その点については、要点のみを確認するにとどめることにする。 

トーテム制度が援用するのは、社会集団と自然種[動植物の種]の間の相同性ではなくて、一方で社会集団のレベルに現われる差異と、他方で自然種のレベルに現われる差異との間にある相同性なのである。それゆえこれらの制度は、一方は自然の中に、他方は文化の中に位置する二つの差異体系の間の相同性という公準の上にのっている。(p.136)

 しかし、琉球弧では複数のトーテム信仰が琉球弧に併存していたことは知られていないので、差異関係が問題になるのではなくて、依然としてトーテム信仰の中身が問題になる。あるいは、蛇トーテムのなかにヤドカリ・トーテムが入った時に、差異をあらわす役割を果たしたことはあったのかもしれない。AシマとBシマの差異は、蛇とヤドカリのようだ、というように。

 けれど蛇とヤドカリは、共時的な差異というより、通時的な移行の関係であったのかもしれない。それは両者が共に、「脱皮」をする動物であり、脱皮による再生というモチーフに適っている動物たちだ。

 それにしても、なぜ蛇でありヤドカリであったのか。蛇は流入した信仰だったが、ヤドカリについては琉球弧で発生したトーテム信仰である可能性も残している。なぜ、ヤドカリだったのか。

 他のクラスの動物より鳥類の方が種ごとにに人間の名をとりやすいのは、まさに、鳥が人間とは異なっておればこそ人間になぞらえてよいからなのである。鳥は羽毛に覆われ、翼があり、卵生であるし、また生理的にも、空気中を飛びまわれるという特権があって人間社会とは分離している。
 この事実によって鳥類は、人間のコミュニティから独立した別のコミュニティを形成している。しかし、そのコミュニティは、まさにその独立性そのもののゆえに、別個ではあるがわれわれの社会と相同の社会であるように思われるのである。鳥は自由を愛する。すみかを作って海底生活をし、子供を育てる。同じ種の他の成員と社会的関係を持つこともしばししばである。そして相互に、人間の言語を思わせる音響的手段でコミュニケーションを行う。  したがって、鳥の世界を人間社会の隠喩と考えるためのあらゆる条件が客観的に揃っている。それにまた人間社会は、別のレベルにおいて、鳥の世界と文字どおりパラレルなのではないか?(p.245)

 これは鳥の命名についてのものでトーテム信仰について述べたものではないのだが、ヤドカリも「人間とは異なっておればこそ人間になぞらえてよい」という思考法は、確かにここにも存在している。鳥ほどの相同性を示してはいないが、独立性は保っている。鳥ほどの相同性はないが、人間社会の隠喩を保っているという思考が、ヤドカリ・トーテムの中にも働いているとしたら、どこに相同性を見出したか。その着目点が重要だといことになる。

 鷲、熊、リス、蜜蜂など、挙げられているトーテムの多彩さに驚くが、半人半獣も対象になることがあるのにも驚かれされる。こうしてみると、琉球弧のトーテムは単色で種類が少ないのではないだろうか。

 しかし集団のトーテムではないが、個人に目を移すと、複数の例を見出すことができるかもしれない。童名だ。

 この中でも、ウシ(牛)、カミ(亀)、マチ(松)などがそれに該当する。これらは、童名のなかで古層に属している可能性を持つ。火の神信仰とのつながりがあるハマドゥ(竈)や心情に属するカナ(愛)などがつけられるのは、既にとーテム原理が拡散、あるいは崩壊した後のものだと想定してみれば、童名の層分離にひとつの視点を提供してくれる。ウシやカミは明確なトーテムとは言えないかもしれないが、トーテム的な信仰原理は働いていたと見なせるものだ。

『野生の思考』(クロード・レヴィ=ストロース)

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2014/06/11

「琉球列島文化の多様性の歴史的生成過程」

 吉成直樹の『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)。「琉球列島文化の多様性の歴史的生成過程」。


1.地下他界・「人類の始祖」観念・男子結社

・琉球列島の最古層にあったと考えられる仮面仮装のマレビト祭祀。
・八重山のアカマタ・クロマタが典型的な例。痕跡は琉球列島全域に認められる。
・アカマタ・クロマタ祭祀に結びつくニーラスク、ニーローなどの二ライ系の名称を持つ他界は、本来、男女二神の始祖が出現した地下他界を意味していた。

琉球列島において広くみられる死者を洞窟などに埋葬する慣行は、あるいはこの他界観と関係するかもしれない(p.197)。

 他界が空間化されたとき、その場所は洞窟だった。だから、洞窟(洞穴)他界と埋葬は同致したとみなせる。

 仮面仮装のマレビトは、従来、祖先あるいは祖霊を表現するものと、一般的には考えられてきたが、宇宙創世時の人類の始祖としての性格を持ち、祖先、祖霊の観念との間には大きな断絶がある(p.198)。

 本当を言うと、「祖先あるいは祖霊を表現するものと、一般的には考えられてきた」ということに驚いてきた。ふつの島人はそうは思ってないんじゃないかな、とも。「祖先、祖霊の観念との間には大きな断絶」があるのは当然だとして、それが「宇宙創世時の人類の始祖」だということは頷けないでいる。マレビトは作りだした精霊であれば、もっと奔放なものであっていい。それは死と琉球弧亜熱帯自然を体現しているものだ。あの、姿形の多彩さはそれを示しているのではないだろうか。

 このマレビト祭祀を大きく特徴づけているのは、《死と再生》のモチーフであり。それは八重山離島のマレビト祭祀において顕著に認められる。時として、《死と再生》のモチーフは、スデ水(若返るの水)との結びつきを持つ。

 これは重要だと思う。洞窟(洞穴)他界を持った後にも、死と生が連続した感覚を濃厚に保持し続けたというように見える。この、死と再生の連続感が失われるにつれ、マレビトは来訪する意味を帯び始める。

・全体としては稲作と結びつく
・新城島では、親のアカマタ・クロマタは、稲の豊年祭。子のアカマタ・クロマタは、粟と稲の豊年祭の両方。
・多良間島のスツウプナカ祭祀は粟。

 
2.海上他界・蛇霊信仰(蛇トーテム的観念)・女性シャーマン

 神女に海神が憑依する形式のマレビト祭祀。

・奄美で、ナルコ・テルコ(海上他界)からの海神を迎えるウムケー・オーホリにおいて、少女の頭髪にハブを巻きつけるのが典型例。
・かつでは琉球列島全域での分布が示唆される。
・龍蛇を文身する習俗。
・シャマニズム的要素はこの祭祀複合からもたらされた
・華南沿岸と台湾を含む世界との交渉によってもたらされた可能性。

1に与えた影響。
・アカマタ祭祀が蛇的シンボルを持つ。
・地下他界が、海底などを含む水平的方向へと変移する場合があった。
・東方洋上の若太陽(ワカテダ)に対する信仰との関係。


3.海上他界(龍宮)・漁撈神・男性年齢階梯組織

 久高島のソールイマッカネー、多良間島のスツウプナカが代表例。

・沖縄諸島と宮古諸島において強く見られる。
・男性が神に祈願する(オナリ神信仰にもとづく仕掛けにはなっていない)


4.御嶽・始祖神~オボツ神・ノロ=神女組織

 開拓祖先、あるいはノロなどのセジ高いものを祀る場所としての要素と天上の神が降臨する場所としての要素。
・宮古島・狩俣のウヤガン祭祀。大神島のイイサドウ神事。
・始祖神(霊)を機軸とする。
・12世紀に南漸した北方的文化要素
・沖縄本島北部は、奄美とともに、天上から降臨する神の観念がいちはやく定着した。


 吉成は「できるだけ大きな見取図を描くことを念頭に(p.196)」おいたと書いているが、琉球弧の精神史を追う者にとっても、見取図になってくれるものだ。

 ぼくたちが漠然と、そうではないかなと考えてきたことに、具体的な言葉を与えてくれているものだ。このなかでは、龍宮信仰は漠然とした視野のなかにも入っていなかったもので新鮮だった。

 
 はじめに、琉球弧の自然環境との関係のなかで、洞窟(洞穴)他界が生み出される。それとともに精霊を作りだす行為も生まれた。次に蛇をトーテムとする観念がやってくる。この時の海上他界は、渡来した方向性から南方を指すかもしれない。御嶽の原形となるイベが聖域として成立するのもこの時期であったも不思議はない。そして、1800年前とされるオーストロネシア語族の三回目の渡来によるアマムがトーテム化される。そしてトーテム動物としてはこれが主流になる。

 大和から龍宮信仰、そして朝鮮を含む北方から天上他界を伴ったオボツ神がやってくる。神女の樹上葬はこれ以降だと考えられる。

 与論の郷土史家、野口才蔵は、赤崎ウガンの神について、祭主から「アーマッタブ(赤蛇)」と聞いて驚いたというエピソードを書いているが(p.62『南島与論島の文化』)、蛇トーテムの観念の残滓を見ることができる。もうトーテムとして出現することはできなくなっているが、巫覡によって辛うじてウガン(聖地)に横たわる姿が幻視されたのだ。

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2014/06/10

「ふたつの祭祀複合とシャマニズム的要素」

 吉成直樹の『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)。「ふたつの祭祀複合とシャマニズム的要素」。

 海(ニライ)の神を核とする祭祀の担い手であるムトゥガミの女性神役は、同時に「ティンユタ」と呼ばれる”シャーマン”としての性格を持つ存在であり、御嶽祭祀を担うノロ=神女組織とはその点で大きく異なっている(後略)。簡単に言えば、ムトゥガミ群に認められるシャマニズム的色彩は、ノロ=神女組織のそれとは違い、きわめて濃厚なのである(p.191)。
 海のはるか彼方から訪れる神が憑依する神女に、シャーマンとしての性格が濃厚に認められるのは、なぜであろうか(p.193)。
あえて憶測を述べれば、前者(御嶽を核とする祭祀複合-引用者)は、基本的に、北方からの流れを汲むシャマニズムであろうし、後者(海神を核とする祭祀複合-引用者)は、龍型垂飾の系譜などから考えて、華南からの流れを汲むシャマニズムであえるように持われる。とすれば、琉球列島においては、後者の要素が強く根づいている、と考えられることになる(p.194)。

 これは、本質的にはユタが巫覡であり、ノロが巫女である点に帰せられると思う。ユタは自己幻想を共同幻想に憑かせるシャーマンであるのに対し、ノロは対幻想の対象を共同幻想に選択する。もちろん、ノロからユタになった女性もいて、巫覡的な力を保持したノロも存在したから、両者は交わりを持った領域の力を持っていた。琉球弧は巫覡の力が保持され発揮できる環境だった。

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2014/06/09

「御嶽の構成要素」

 吉成直樹の『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)。「御嶽の構成要素」。

 御嶽。ウガン(拝み)という名称とともに沖縄諸島で用いられる。
 奄美は神山、オボツ山。宮古はスク、八重山ではオン、与那国島ではワー。

 御嶽の構造。
・うっそうとした木立におおわれたなかにある神女以外は立ち入ることができない聖域。
・一番奥には、「イベ」と呼ばれる樹木や石などがある。
・「イベの前」。一般の人が祈願する場所。

 加計呂麻島の神山(J・クライナー)

1.オボツ山。祭祀のときに天からオボツの神が、この山の木に降臨する神山。
2.イヤンヤ(岩屋)。岩や洞窟の中に「昔の人の骨」が散らばっており、死者の行くグショ(後生)の地下他界への入口とされ、非常に恐れられている神山。
3.イベ。村に近い場所か村のミャー(広場)に接する、平坦地の小さな林か藪とその中の空き地にある拝所、あるいはオボツ山の斜面やミャーそのものにある拝所。形態としては、珊瑚岩で積んだ小高い塚、石で囲まれた一段高くなった土台と木、自然石など。この神山には、常に村にあって村を守る神(シマ守り神=島高祖、島建世建神)の観念が結びつく。

 この分類から言えるのは、オボツ山の樹木が神の降臨地点であり、いわばオボツ山が神の領域。イベは、神と人間の領域の接点に位置する。

 イベの神山、御嶽のイベ拝所は、天上から降臨し、島立てした始祖、ノロなどを祀る聖域。御嶽には、オボツ信仰の影響が濃厚に認められる。

琉球王朝が、イベを、あくまで天上の神と結びつけることによって、村々のイベとそれを祀る神女群-琉球王府が聞得大君を頂点とする神女組織を整備する以前にも、村々では神女たちが祭祀を営んでいた-を基盤にしつつ、支配体制を築き上げようとする意図があったことを示している(p.165)。

 つまり、島人のもともとの聖域に、琉球王朝がかぶさってきたということだ。

 まず、山に開拓始祖を埋葬し、祭祀する形態があった。そこに、ノロなど神女の骨を祀り、山神と同一視した。

 ここでは深入りしないが、吉成はさらにこの古層に、与路島、加計呂麻島の起源伝承から、男性による祭祀形態の可能性を指摘している(p.171)。

 御嶽を構成する要素。
1.開拓祖神、あるいはノロなどの神女の墓所
2.天上の神が降臨する場所
3.大和の山岳信仰であるタケ

 3は、大きな役割は果たしていなかったとしても、ある程度の影響という意味で入れられている。
 このなかでは、2の天上(山頂)からの降臨する場所というのが古型だ。

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2014/06/08

「オボツ・カグラをめぐる問題」

 吉成直樹の『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)。「オボツ・カグラをめぐる問題」。

 オボツという言葉は、与論では耳にしたことがないのでな馴染みがないのだが、樹上葬、台上葬が分布する地域とほぼ重なりあうという(p.146)。樹上葬の伝承は与論にもあるから、そこが接点だということになる。

 大林太良によれば、樹上葬は、人間を再生させるために天神に捧げるもので「骨からの再生」という観念に基づく。樹上葬が記録されている『南島雑話』でも、天上他界にかかわる葬制として捉えられているから、樹上葬は天上他界観に支えられている。

 オボツは御嶽との結びつきを持ち、オボツ信仰が、聞得大君を頂点とするノロの祭祀組織と関わっていることから、「オボツは天上界を意味する言葉として、また琉球王府の支配体制の基礎をなすイデオロギーとしって、ある一定の影響力を持って、民間に下降・展開したということになる(p.144)」。

 大林太良は、樹上葬が北アジアの狩猟民文化に典型的にみられ、また、朝鮮では「天然痘など特定の病気で死亡した場合に限り、樹上葬を行う」ことから、日本の樹上葬は、北方的な文化の系譜を引くことを指摘している(p.147)。

 琉球弧における北方的文化要素といえば、樹上葬だけではなく、鉄器やアマミキヨがあり、また、琉球王朝も北方からの勢力によるものという説ながある。そこから、吉成は、「天上から降臨する神の観念が、琉球王朝の支配イデオロギーとして洗練され、やがて民間に下降・展開することになったと考えられるのである(p.152)」としている。

 ぼくたちの問題意識を添えておけば、樹上葬は、この北方文化の要素の南下によって導入されたとして、洞窟他界と海上他界の視線を持った琉球弧が、12世紀の、この南下の前に、天上他界という観念、これは山上他界でもいい、を持っていたかどうかということだ。

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2014/06/07

「海神憑依の祭祀構造」

 吉成直樹の『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)。「海神憑依の祭祀構造」。

 国頭、謝名城のウンジャミ。
 前の晩に、お籠り。ノロなど主たる神役=神女たちが小屋に籠って祈願。
 アラハンサガ(神女の就任式)。神女に降臨接触。アラダムト(新しい神女)は、男子禁制のなかで神の乗り移りの儀式を行う。
 翌日、ニライ・カナイの神を迎える儀礼(目に見えない、観念的、抽象的神)。
 昼、ノロの家に集まり、白衣、城ハチマキをし、六尺ほどの神弓と矢を持ち、赤いウチワをもって、男性神役の打つ太鼓に先導されて、謝名城の小高い森のなかにある祭場に向かう。祭場にはアシャギと庭がある。
 神女は村人と神酒のやりとり。
 「遊ビビラムト」という神女が数名、山の神と海の神へ祈願したあと、弓状の棒を持って「ウンクイ・ウンクイ(豊饒を乞う)」と唱えながら円を描いてまわる。
 神女たちは、着替える。白衣裳から、赤、黄の色のついた衣裳、頭につる草などでつくったハーブイ(冠)を被り、弓状の棒をもって、歌い、踊る。ニライ・カナイと神と一緒になって踊る。
 縄遊び。ニライ・カナイの神々を送る。二本の縄で舟を象徴させ、その中で幾人かの神女が踊る。

 ウンジャミで、神女は「弓」によって神が憑依し、「白衣裳から、赤、黄の色のついた衣裳、頭につる草などでつくったハーブイ(冠)を被り」、神そのものになる。

 奄美大島、加計呂麻島のウムケー、オーホリも、神の憑依を基礎とするマレビト祭祀。

 これら沖縄諸島や奄美諸島にみられる海からのマレビトを迎える祭祀では、単に、神女が、その仕草などによって、目に見えない抽象的な神を迎え、送るとうことを儀礼的に表現するばかりではなく、神が特定の神女に憑依し、その神女が海神そのものを演じる、という構造をもつ(p.129)。
 (先学を踏まえると-引用者)女子シャーマン、龍神=海神信仰という結びつきが、遅くとも縄文後期には琉球列島に登場し、女性シャーmンの系譜は中国河南に求められる、ということになる(p.132)。

 大林太良は、「琉球列島も、みずからの祖先を蛇と考える龍蛇トーテム的観念をもつ地域であった、とみなしている」(p.132)。

 神女に憑依するのが蛇霊であることを示す事例もある。
 蛇霊信仰も、海上他界観とむすびつくものであったと考えられる(p.135)。

メモ
・洞窟(洞穴)他界 男性 仮面仮装の来訪神
・海上他界 女性 憑依による来訪神 蛇がトーテム

 ということになる。海上他界も古い、ということだ。ただし、両者でいえば、洞窟(洞穴)他界が他界観としても古いと思える。

 謝名城のウンジャミは、無くなってしまった与論ウンジャミの形を探る上で重要だ。

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2014/06/06

「水による《死と再生》」

 吉成直樹の『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)。「水による《死と再生》」。

 住谷一彦が指摘するように、これらの祭祀が《死と再生》の構造をもつのであれば、アカマタ・クロマタが一年の豊饒感謝祭と翌年の予祝祭との境界に誕生し、また川平などのマユンガナシが南島の夏正月ともいうべきシツ(節)の日に出現するなど、これらのマレビト祭祀が一年のもっとも重要な折り目に行われることは見過ごすことができないであろう。なぜならば、これらのマレビト祭祀の根底には、神々が死に、ふたたび蘇ることによって、世界もまた再生されるという死す-換言すれば、円環的な時間サイクルのなかで、世界は永遠に祖型的世界に回帰してゆくという思想-を読み取ることができるからである。この限りでは、他界から人びとを訪れ、祝福、そしてふたたび立ち去って行くという常識的なマレビト像の様相は一変することになる(p.102)。

 吉成が「マレビト」という言葉を使い、ふつう用いられる「来訪神」という言葉を使わない理由が、ここで分かる。死と再生であれば、「訪れる」ことは矛盾するからだ。もしかしたら「神」と見なすことすら矛盾になってしまう。

 数々の来訪神が「死と再生」のメタファーを持つものか確かめてみなければならないが、琉球弧において他界が時間的な奥行きや世界像を持っていないという、ぼくたちの視点と接点を持つのかもしれない。生と死が連続であるという時代の観念を多く引きずっている度合いに応じて、「来訪」は「誕生」に近づくと思える。

 ある種の動物にはすでると言ふ生れ方がある。蛇や鳥の様に、死んだ様な静止を続けた物の中から、又新しい生命の強い活動が始まる事である。生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語ではすでると言うたのである。(折口信夫「若水の話」)

 この折口の示唆にあふれる文章を引いて、吉成が説いていくのは、八重山の仮面仮装のマレビト祭祀が、脱皮をモチーフにしたスデル(誕生、j復活、再生)ことを包含しており、そのスデルを媒介するのが、スデ水であることだ。

 大林太良によれば、このような「脱皮型の死の起源神話」は世界的にみられるものの、特に東南アジアからオセアニアにかけての地域に濃密に分布しており、日本はその分布域の北限にあたるという(p.108)。

 これは、他界の時間性が長期にならないのは、死の季節がない自然環境に依るものではないかと考えてきたぼくたちの仮説とも符合する。

 住谷一彦とJ・クライナーは、これらのマレビトを端的に、人類全体の祖ないし親である太祖であるとし、普通に考えられる「祖先崇拝」の祖先とは基本的に異なることを指摘している。この見解は、これまで論じてきたことを踏まえるならば、支持することができる。ただし、ここで人類全体というのは、琉球列島のシマが、それぞれ独自の小宇宙をなしていたことを前提とするものである(p.114)。

 来訪神と祖先崇拝の祖先とが異系列であることは、当然のことだと思う。それより、「土中」と同様、「人類」という表現にも違和感を覚えてきたが、「琉球列島のシマが、それぞれ独自の小宇宙をなしていたことを前提」という認識を元にしたものであれば氷解する。これも、琉球弧の内側から言えば、人間(ミンギヌ)という表現でいいのだと思う。

 ただ、「祖先崇拝」の「祖先」とは異なるものの、「人類全体の祖」でもないのではないだろか。マレビトは、もっと奔放なものだと思う。マレビトは他界を強烈に意識させるが、それは単に死の世界というだけでなく、生と死がひとつながりだった過去の、人と自然との関わりを想起させるものとして意味を持つのではないだろうか。土地の精霊の凝集化された姿とでも言うように。

 琉球列島の仮面仮装のマレビト祭祀に出現するマレビトとは、「始祖としての蛇」ではなかったか、と考えられるのである。そのように考えるならば、八重山諸島においてニライ系の名称を持つ地下他界から出現するマレビトが、スデ水によって脱皮するように再生するばかりでなくはなく、水をもたらす水神としてつの性格をもつ理由も理解できよう(p.117)。

 かつ、二ライ系の地下他界から龍宮への海上他界への転位を可能にしたのは、地下他界から出現するのが「始祖としての蛇」ならば、「龍=蛇」という考えに引かれてのことだ、としている(p.117)。

 ぼくはここに、洞窟(洞穴)他界と海上他界は水平視点という共通性もあるのではないかということも添えておきたい。また、崎山理によれば、アマムという言葉を伴ってオーストロネシア語族が北上したのは1800年前と、比較的新しい。それであれば、それ以前のトーテムがあったはずだと思ってきたが、それは蛇だということが分かる。


 折口信夫は、吉成の引用箇所の後段では次のように書いている。

 すでると言ふ語には、前提としてある期間の休息を伴うてゐる。植物で言ふと枯死の冬の後、春の枝葉がさし、花が咲いて、皆去年より太く、大きく、豊かにさへなつて来る。此週期的の死は、更に大きな生の為にあつた。春から冬まで来て、野山の草木の一生は終る。翌年復春から冬までの一生がある。前の一年と後の一年とは互に無関係である。冬の枯死は、さうした全然違つた世界に入る為の準備期間だとも言へる。
 だが、かうした考へ方は、北方から来た先祖の中には強く動いてゐても、若水を伝承した南方種の祖先には、結論はおなじでも、直接の原因にはなつてゐない。動物の例を見れば、もつと明らかに此事実が訣る。殊に熱帯を経て来たものとすれば、一層動物の生活の推移の観察が行き届いてゐる筈だ。蛇でも鳥でも、元の殻には収まりきらぬ大きさになつて、皮や卵殻を破つて出る。我々から見れば、皮を蛻ぐまでの間は、一種のねむりの時期であつて、卵は誕生である。日・琉共通の先祖は、さうは考へなかつた。皮を蛻ぎ、卵を破つてからの生活を基礎として見た。其で、人間の知らぬ者が、転生身を獲る準備の為に、籠るのであつた。殊に空を自在に飛行する事から、前身の非凡さを考へ出す。畢竟卵や殻は、他界に転生し、前身とは異形の転身を得る為の安息所であつた。蛇は卵を出て後も、幾度か皮を蛻ぐ。茲に、這ふ虫の畏敬せられた訣がある(「若水の話」)。

 「冬の枯死は、さうした全然違つた世界に入る為の準備期間」だという見なしは、「北方から来た先祖の中には強く動いてゐても、若水を伝承した南方種の祖先には、結論はおなじでも、直接の原因にはなつてゐない」という考えは、ぼくたちの仮説に接続できるものだ。冬という季節ではなく、動物の観察に基づいた。とりわけ、卵おから出現し脱皮をする「這ふ虫」に。そこで、「卵や殻」は、「籠る」のであり、「他界に転生し、前身とは異形の転身を得る為の安息所」だった。

 ここに他界が時間として伸びてゆかず、すぐに転生、再生へと接続される象徴に「這ふ虫」を見ていたことになる。ぼくの関心からいえば、他界は発生したが、それは一時的な時間性しか持ち得なかった。それはすぐに転生、再生へと環流する構造だった。


 

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2014/06/05

「マレビト祭祀と他界観」

 吉成直樹の『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』(1995年)から。

 琉球列島における龍宮信仰は、周圏的な分布。
 古い波は奄美や八重山(中世)。豊饒や旅の安全を祈る。
 新しい波は沖縄本島や宮古(近世)。豊饒や航海の安全を祈る(男性の漁撈との関係)。
 大和の龍宮信仰を受容したもの(下野敏見)。

 二ライ系名称(ニルヤ、二―ラスク、ニーロー等。N音で始まる、記紀神話・神代巻に登場する「根の国」と同根(柳田國男)。
 
 ある場合は、ニライが龍宮の名に置き換わり、ある場合は併存。

 二ライに結びつくマレビト祭祀が奄美、八重山に残り、龍宮信仰が盛んになった沖縄、宮古では、久高島と同様に、ニライから龍宮への置換が起きている。

 アカマタ・クロマタ(西表島(古見)、小浜島、新城島(上地、下地)、石垣島(宮良))。
 ナビンドゥという洞穴から出現(ニーレスク、ニーレイスク、ニーロー、ニーレー)(p.82)

 安田シヌグ。山から出現するが、頂上にある洞穴が重要な意味を持っている。宮古島のパーントゥは、イマリガーという古井泉から出現。石垣島(裏石垣)のマユンガナシもナビンドゥという洞穴から。

 洞穴と始祖というふたつの要素は、「土中からの始祖」神話で結びつく。

 久高島のマレビト祭祀は、現在は龍宮信仰に結びついているが、カベールの道の西側にアーマン権現という洞窟があり、この洞窟でアカマター(蛇)を二匹とったところ、それは兄妹と姉妹だったと、断片的に「土中からの始祖」神話を示唆する伝承が存在する(p.90)。

なお、「土中からの始祖」神話では、「土中」からではなく、「洞穴」から人類が出現したとされることが少なくないことを付け加えておきたい。琉球列島のような隆起珊瑚礁によって形成された島々が多い地域では、「土中」ではなく、「洞穴」からの出現のほうが自然なのである(p.91)。

 マレビト祭祀に結びつくのは、イモではなく粟。新城島では粟の収穫祭にも同一の信仰がみられる(p.89)。

男性によるマレビト祭祀が「土中からの始祖」神話と結びついていたとすれば、(中略)山から出現するマレビトというモチーフは、山地型の文化の影響によって変容したものとみなすべきではなかろうか(p.98)。


メモ
 「土中からの始祖」神話という表現には違和感を持ってきたが、「「土中」ではなく、「洞穴」からの出現のほうが自然」と言われると解消する。琉球弧の内側から考えるものにとっては、洞窟(洞穴)からの始祖神話という方がしっくりくる。

 また、安田シニグも「洞穴」をモチーフにしているという指摘ははっとさせられた。ぼくはこれまでともすると、与論シニグは山がないのでやむなく海上から迎えるという言い方もしてきたからだ。「洞穴」モチーフがあるのであれば、安田シニグにしても、「山地型の文化の影響によって変容」したのではなく、山頂の「洞穴」をもともと指定したのかもしれなかった。

 琉球弧の精神史にとって重要なのは、洞窟(洞穴)を出現地にした来訪神が、秘儀的な男子結社をもとにし、粟の祭儀であり、それは琉球弧全体に分布していたかもしれないということ。それが、中世、近世という二度の大和からの波で、龍宮信仰という海上(海底)他界によって変容したということだ。

 洞窟(洞穴)から海上(海底)という視線変更は根本的なものではなく、同じ水平視線の範疇だという視点も持っておきたい。

 また、ここからは、与論において二ライ系の語彙が希薄な理由も示唆される気がする。龍宮語彙も豊富なわけではない。


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2014/06/04

霊魂から精神へ

 人は、死と霊魂の転位との間の時間的な差異を意識したとき、他界を生みだした。それは最初、闇の向こう側として表象された。その場所として指定されたのは洞窟だった。洞窟やそれに類した暗がりの向こう側が最初の空間としての他界だった。

 しかし、野ざらしの葬法も多いこと、洞窟においても名前なしに置かれたことをみれば、より多く時間的な疎外された観念として存在した。その後、これが両墓制へと展開することもなかったことは、時間的な表象としての他界が強かったことを意味している。また、洞窟の奥の暗がりは、他界への入口だが、他界からみれば現世への入口である。そこで、来訪神をそこを通って、現世に出現するようになる。

 しかも他界は時間性としてもその中身は豊潤になっていない。仏教用語を借りた後生(ぐしょう)も、(労働を除いて)生前と代わらない生活をしているという素朴なものだ。これは「死と霊魂の転位との間の時間的な差異」が、子供の童名が祖父母のそれを継承するように、きわめて短く、一時的なものに留まることを意味しているのではないだろうか。そして、この背景にあるのは、琉球弧に冬の季節がなく、かつ亜熱帯の植物群と珊瑚礁に恵まれているため、死の季節が時間として認識されない風土条件から来ていると思われる。花が季節を問わず咲いているように、島々は常に再生の息吹にあふれている。

 また、霊魂の転位による子の誕生という信仰のもとで、母系社会が生み出された。

 この神話(兄妹神話の-引用者)をもった「母」系優位の初期社会がどうして出現したかといえば、男女の性交をふくむ性行動、いいかえれば子どもからみた「父」「母」との性交と「母」の受胎、妊娠、出産とのあいだに関係のあることを認知できないところから由来している。これは重要なことだ。すぐに気がつく常識でいえば、受胎から出産までのあいだに十か月の遅延があるため、性交がすぐに受胎につながったとしても、十か月の空白をこえて性交が妊娠、出産とかかわりがあることを、初期社会の原住民たちは認識できなかった(p.109『母型論』吉本隆明)

 この母系社会では、母方から父方へ、婚姻関係が続く限り、永続的な贈与がつづく。この贈与の動機は何か。

 (前略)母(妻)の側の氏族にとって父(夫)の側の氏族との関係を生じることが正体のわからぬ〈霊威〉をもたらすからだと想定したほうがまだましなような気がする。この得体の知れぬ〈霊威〉はどこから発生するのか。べつの氏族からきた父(夫)がじぶんの母(妻)系の氏族の子どもを妊娠し、出産させてくれたじぶんの氏族の親しい〈霊〉と交換できる無意識の存在、これが正体のわからぬ父(夫)の〈霊威〉という概念を発生させた原因ではないのだろうか。(p.124『母型論』吉本隆明)

 ここで、父(夫)が、複数の母系の氏族との婚姻関係を結べは贈与は多重化され、「不変的な贈与制度はいわな不変的な贈与ともいうべき貢納制に転化され(p.127)」る。こうしてアジア的な段階に実質的に入っていく。

 性交と出産のつながりに関する認識が生まれると、霊魂は後退する。そしてもっと普遍的な「精神」という概念に取って代わられる。



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2014/06/03

『琉球列島における死霊祭祀の構造』を読み終えて

 酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』を読み終えた。長い文章であるにも関わらず、次を読むのが楽しみでしばしば仕事をそっちのけにして読みふけっていた。そうできたのは、関心の所在が切実なものばかりだったということもあるが、視点の置き方がとても共感できるものだったので、心地よく読むことができたからだ。出身者であるものの薄ぼんやりとしか見えていない琉球弧のイメージに、細やかな視野を与えてくれるようで、久しぶりの雨に歓喜して根の一本一本から水を吸い込む植物のようだった。

 もっとも関心を持ったのは、死者との添い寝やチンシダチャー(膝抱き人)のように、霊魂の転位が間を置かずに即時的に行われることだ。マブイ(霊魂)を移す行為がマブイを宿すことになる。だから、マブイを込めるまでは人間でなく、現在からみれば残酷に見える死産児の扱いも生まれるし、カジマヤーでの時間的な他界への疎外も生まれる。こうした即時的な霊魂の転位のあるところでは、霊魂の留まる場所という概念は発生しない。

 言い換えれば、人間は、死と霊魂の転位との間の時間的なズレを意識した時、他界概念を生みだしたのではないかということだ。

 もちろん、琉球弧で他界は発生していて、霊魂は一時、どこかに留まり、やがてそれが女性の体内に宿り、新たな生が誕生するという観念に移行もしている。けれど、その形態よりも、即時的な霊魂の転位の観念の方が強固だというのが、特異なのではないだろうか。あるいは、原初の段階の観念を残しているのが琉球弧だと言ってもいい。そこでは他界は無いと言っても、遍在していると言っても同義である。遠くはニライ・カナイから近くは、雨だれの下、竈の傍まで他界を表象するのは、その現れである。もう少し言えば、洞窟の奥にしてもニライ・カナイにしてもそれが他界概念を支配していないのは、他界の発生以前の在り方を残しているからではないだろうか。

 共同幻想は対幻想や自己幻想と分化しているが分離はしていない。分化を機に、誰もが霊魂を見、憑依ることはできなくなり、巫覡としてのユタを生む。だが、分化直後の世界が生々しく残っているので、ノロもユタ的な力を発揮することができるし、普通の主婦が疾病や出産を契機にユタになることもできる。そして子供は簡単にマブイが抜けたりもする。

 ミッシェル・フーコーは、臨床医学の側から、死は点ではなく徐々に進行するプロセスであることを指摘したが、琉球弧の島人は、それとは違う仕方で、添い寝をし、ムン祓いをし、マブイ別しを行い、喪屋で殯を行い、あるいは死の翌日、三日めに墓で故人の名を呼んだり、という過程を通じ、同じことを儀礼のなかで実践し知っていたということではないだろうか。

 また、考えを新たに、というか、はっきりさせてくれのは、洗骨儀礼が14、5世紀に始まった新しいものであるということだ。しかし、単に新しい風習に過ぎないというだけでなく、それを再生信仰の機会に捉えているということが、琉球弧感覚なのだと思える。

 『琉球列島における死霊祭祀の構造』は、可能な限り、遠い場所まで見に行っている気がする。この本は、これ自体が豊饒な珊瑚礁であるというだけでなく、ここから伝承や民譚の原典に向かう強力なハブにもなってくれる。貴重な、ラディカルな、重要な労作だと思う。ぼくにとって大事な本だ。

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2014/06/02

78.「再生と不死」

 「再生と不死」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 野ざらし。複葬制の第一段階ではなく、当初から放置されたもの。
 ムンとマブイの二つの霊魂の処方によって死は完成していく。
 ムンの除去(モノ追い)、そしてマブイの引き離し(マブイ別し)。
 この二つが伝統的な琉球葬制。

 「最初から肉体はマブイの包装物にすぎなかったのである」(p.607)。

 琉球列島では、濃厚に伝承された喪屋制の中で、かつては死と対峙してきた現実的な歴史がある。死臭、腐敗、骨化と、破滅していく人間の悲惨なさまがわりを、自分の目で確かめてきた経験をもっている。つまりほんとうの死を知っているのだ。現代社会は、その「ほんとうの死」から目をそらし、舌触りのよいオブラートで死の醜さを包み近でしまった案感がある。死者の偉大さをたたえて花輪で化ありがとうございます。zり思わせぶりの弔辞で悲しみを泡立て、そして壮大な祭壇w容易し、死者の記念碑を構築してきら。しかし、こおにょうに死を飾れば飾るほど、死の本来の姿から遠ざかってしまう。つまり、腐敗解体していく人間の「ほんとうの死」から目を背け、死を表面的にしか見なくなってから、死を美化する傾向が変わって登場する。すなわち「作られた死」への傾斜である(p.608)。

 琉球葬法
 1.霊魂を除去して早急に死者を放棄し、いっさいのものを忘却する
 2.二次三次と複葬の手続きをふんで、霊魂の慰撫につとめる
 前者を伝統的なものとみなした(p.609)。

 出生と同時に行われるマブイゴメ、死に際して欠かせないマブイ別し、その別されたマブイは、また新しい生のマブイゴメへと反芻していく。これが琉球の、というより、あるいは日本人の原信仰であって、死によって、その霊魂は海上はるかな場所に去っていくというような他界観念に共鳴できない理由がそこにある(p.610)。
 死が生に還元されていくような信仰は、おそらく祖先信仰とは相容れないだろうと思う。それは、巨大な墓や位牌祭祀にみられるように、死者を人間の魂の外に祭場を設けて祀るのが祖先祭祀であるが、死者の守護霊を継承していこうとする再生信仰を基盤とする社会では、それを形のある霊代として外部に設定する必要はなかったからである。琉球列島で墓制や位牌祭祀の成立がおくれたという理由も、再生信仰がその基盤にあったからと考えられるし、火葬が古くからなかったということも、火葬が再生を拒否すると考えられていたからであろう(p.610)。

 「琉球列島で墓制や位牌祭祀の成立がおくれた」のは再生信仰があっためだとするのは、再生信仰に位牌祭祀はそぐわないというのは頷ける。「巨大な墓や位牌祭祀」という祖先崇拝の過剰化は、再生信仰が信じられなくなった後の現象だと言うことができる。

 この死を絶望的で、そして悲しくさせたのは仏教であろう。(中略)。つまり仏教でいう死者の住む世界は「往生」であって、そこは生きている者の住む現世に戻ることの絶対に許されない、隔絶された世界である。この戻れないという考えが、結局、死をいちだんと悲しいものにしてしまう。再生信仰を基盤とする社会では、因果応報の思想はほとんどその意味をもたない。琉球列島に因果応報の考えの薄いとみられるのはそのためであろう(p611)。

 仏教は、死を絶望的で悲しくさせたというより、現世の辛さ苦しみを、繰り返さなくて済むようにしたと言ったほうがいいのではないか。ただ、「琉球列島に因果応報の考えの薄いとみられる」のは実感的にわかる。

 不老不死の薬を求めて流浪した、除福の伝説をのせて、黒潮は琉球列島の東を北に向かって流れている。そして、奄美の古老たちが口をそろえていう「いちばん亡霊の多いところ」の種子ヶ島の近くを横切って、太平洋側を伊豆七島の沖に向けて流れていく。これが青ヶ島の人のいう「黒瀬川」である。数知れぬ不幸と、未知なるものを携えて流れつづけるこの黒瀬川の源流のほとり、琉球の島々を囲繞する美しい渚には、今日もまた衣ずれを思わせる静かな波が、忘却をつなぎあわせる空しい努力を続けている。その波の音の中で、人びとは人間の本性の中にひそむ、飾り気のない素朴な感情で、死と言う破局を償うために、いくつもの節目のある一本の輪をたぐりながら、生から死、死から生へと、終ることのない時を数えているのである(p.612)。

 ほんとうに美しい本文の終わり。


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2014/06/01

77.「葬地の聖地化について」

 「葬地の聖地化について」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 お嶽(うたき)に祀られている人骨やその伝承からみると、そこに浮かび上がってくるのは開祖、英雄、夫婦、兄妹などというのが祭神の共通した性格(p.598)。

 奄美は、琉球の文化圏でありながら、お嶽の名は消えて、イベ、ウブなどと呼ばれているが、沖縄のお嶽信仰の古い姿を彷彿とさせるものがある(p.600)。

 寺院の役割がうすい琉球列島では、年忌供養はあまり大きな意味をもたない。

 お嶽やウブなどに祀られる者は、一部の特定の人に限られていて、そこは浄化されたといえども、常民の死者の魂の祀られる場所ではなかった(p.601)。

 死者が始祖としての神になり、またはお嶽に祀られるという風習は生じえないと私は思う(p.602)。

 嶽は常民を祀る葬地ではないというのは、酒井の言う通りだと思うが、そこは葬地というより神の住処というのが正確ではないだろうか。つまり、葬地が聖地化されたわけではない。人骨が発掘されているが、それは必須の要件にはならない。

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