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2014/05/31

76.「祖霊信仰の成立要素」

 「祖霊信仰の成立要素」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 死者を記録するいっさいのものがなく、むしろそれを忌避しようとする気配さえみられる状況の中で、死者の延長にある系譜上の祖先を祀るということに、どれほどの可能性があったのだろうか(p.588)。

 死者儀礼というものは、もともと何ヶ月、何年とかけて完了するものではなく、短期間で完了したというのが私の持論である。洗骨の風習はたぶん十五、六世紀頃からのものだと考えられるが、この風習のなかった時代、もしくはあったとしても、古い伝統を保持している社会では、マブイ別しの時期が死者最終の行事となるはずである。この死者から分けられたマブイは、どこまで行っても、また何年たってもマブイであって、豊饒をもたらすニライの神になりえないだろう。もし死者の霊が後日浄化されて祖霊となり、その祖霊は海上はるかな場所の聖地にとどまるというような信仰があったとすれば、再生信仰の余地はなくなってしまう。つまり二ライ信仰にみられる豊饒をもたらす神、例えば、シヌグ神やマヤの神、アカマタ・クロマタなどのように、日を定めて訪れてくる神は死者の浄化された形の神ではなく、それ自体独立した神であるということは、すでに海上他界の項でのべたとおりである。大陸から儒教、大和から仏教が葬制を複雑にしてしまったが、琉球の本来の霊魂観念は、人間の守護霊としてのマブイと、幸運と豊饒をもたらす精霊という二つの異なった霊魂観念によって確立されていて、この両者は永遠に交わることのない平行線をたどる性質のものだと私は考える。これはさきに紹介した谷川氏や外間氏の見解とはまったく逆の考え方になる。
 一つの民族の原信仰とは何であろうかというとき、文化の受容過程を理解することは欠かせない要件である。琉球列島はもちろん、日本全体の古い文化の中で、死者の霊魂の住処を、常世、もしくは墓地など、他界を人間の魂の外に設定する考えを私はとらない。なぜなら、それでは再生信仰の存在が無意味になってしまうからだ。要するに、他界観念と再生信仰はまったく違った世界観だというのが、現在の私の基本的な考え方である(p.592)。

 酒井の主張が極まったところで、勢い引用も長くなった。先祖とシヌグ神やマヤの神、アカマタ・クロマタなどの来訪神が異系列であるのはその通りだ。両者は出自を異にしている。けれど、それも時間をもっと遡行すれば、両者はつながる。トーテム動植物とは祖先の元型みたいなものだろう。現在の先祖崇拝の過剰化の歴史が新しいのもその通りだと思う。しかし、これもまた先祖の概念自体は古いものだし、尊ばれてもきたのではないだろうか。

 先祖の霊魂は、設定された他界に一時、留まり、再び再生するという信仰はある段階から生まれた。問題は、琉球弧の場合、その死による霊魂の転位が即時的に行われる場面も多いこと、また、他界の設定が集約化されておらず、いたるところ他界だった時代を大きく引きずっていること。だから、現在、流布されているニライ・カナイのみに集約して語ることはできない、ということではないだろうか。他界を人間の魂の外に設定しても、再生信仰は成り立つと思える。


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2014/05/30

75.「正月十六日の墓祭り」

 「正月十六日の墓祭り」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 正月十六日は、もともと中国の信仰から発したものであろう。(中略)。琉球では唐栄の流れを汲む人たちか、大陸に学んだ琉球の学者たちが、墓制をはじめとして各種の先祖崇拝の信仰を普及させたことは想像に難くない(p.585)。

 常民社会における先祖崇拝の時代の上限は、おそらく幕末の頃だろうと考えている(p.585)。

 つまり、酒井は琉球弧の祖先崇拝を近代以降と見なしているわけだ。近代以降かどうかはともかく、祖先崇拝に傾斜する契機を考えることはできる。ひとつはトーテム原理が崩壊することにより、トーテム動植物との関わりが忘れられてしまうこと、次には再生が信じられなくなり、死者に対して信仰の比重がかかっていくこと、だ。


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2014/05/29

74.「聖地巡拝」

 第二章、「祖先信仰の成立」。第一、二節、「はじめに」、「聖地巡拝」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 日本民俗学での使いわけ。
 先祖。血縁を辿った古い死者。
 祖霊。きわめて抽象的な先祖の霊魂。屋敷神や田の神など。

 おそらく、はじめは豊年や健康祈願などのために神々への聖地の群行があった。琉球王の東詣りはその流れを汲むもので、それは東方に対する古い信仰に支えられたものであった。(中略)たぶん王政の爛熟した幕末以前頃から、「世乞い」の意味をこめて霊地の巡拝をはじめたのが今の東詣りや今帰仁詣りであったと思う。(p.580)

 与論シニグの神道歩きも、この位相同型だ。

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2014/05/28

73.「死の呪術師」

 第七部、「琉球社会における死の構造」。第一章、「死の呪術師」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 神事についてはノロ、ツカサがいる。私的な祈願をする職能者にユタがいる(p.559)。ユタに対する取り締まりは、1475年の記録がみられる(「中山世譜」)。「ユタ狩り」は昭和初期まで続けられた。

 ノロ、ツカサには家柄がある。ノロは独身で終わる例がある。ユタにも家系がある。しかし家系がすべてではなく、神秘的な感性は絶対条件である。

 根神は必ずしも根所から出るとは限らない。サーダカ生まれというのは、根人の家筋を言うのではなく、女の神がかりの状態を言う(国頭)。

 宮古島では、クジで神人が選ばれる。多良間も狩俣も同じ。もともと宮古にはカンカカリヤーという女性がいる。池間島では、カカランマという神女がツカサの選定をした。ノロの選定にもユタが積極的に参加した。ノロ一門でも、それだけでは継承の資格はなく、セジ高さ、神ダーリを必要とした。

 ノロもユタも神霊の憑依ということが重要な要素で、両者の本質的な違いはどこにあるか、その境界はたいへん曖昧になる(p.564)。

 神女であるノロがユタに転向していく場合もある。沖永良部島では、島建神話をユタが暗誦して伝えた。

 柳田國男は、「海南小記」で、ユタの夢物語を信じなくなった時代、果たしてそれが幸福かは疑いがあるとしてユタの存在に同情の目を向けた。

 「ユタは神々のいる世界と祖霊のいる冥界に瞬間にして入ることができる。彼女たちの眼前の空間は忽然として神の世となり冥界となってしまう」(宮本演彦)。ユタのもつ呪術性の多様さと神秘性を適切に表現している(p.567)。

 ほんとうは琉球のすべての女性が、その本性においては呪術的な機能を内に秘めているらしい。彼女たちは異常な事態でもない限り、尋常一様な女性で終わるが、例えば、疾病、死、産育など、必要に応じて、それなりに呪術的な機能を発揮する(p.568)。

 マブイゴメ、マブイ別しなど、日常生活に直結した行事に大きな役割を果たす。神事に携わるノロがユタが担当した例もある。

 徳之島の野辺送りのウムイ。沖永良部島の念仏(みんぶち)。ほとんどが一族縁者のふつうの女たちが心を込めて歌う。挽歌。

 沖永良部島のクォイ、徳之島のクヤ。

 ウムイ、という品のよい言葉で死者を送る歌が生まれる以前には、クォイとかクヤという土着の表現の仕方があって、それは今よりももっと単調で、もっと切々とした言葉で死者を送ったのではないかとう気もする。そして、その当事者は沖永良部島のように、ふつうの女性たちであったろう(p.572)。

 ノロとユタの本質的な違いは、ユタが自己幻想を共同幻想に憑依させることができる巫覡であり、ノロは共同幻想を対幻想の対象にした巫女という吉本隆明の定義が最も明確だ。ノロに独身で終わる例があるのは不思議ではない。ただ、琉球弧の場合、両者は交わる部分をもっている。つまり、ノロでもユタの力をもつ者もいた。

 「ユタは神々のいる世界と祖霊のいる冥界に瞬間にして入ることができる。彼女たちの眼前の空間は忽然として神の世となり冥界となってしまう」。ユタの語りは共同幻想の構造ではなく内容を伝えることができる存在だ。

 ユタは女性だけではなく男性でもなれる。与論にも男性巫覡はいた。ふつうの女性でもユタになることがあるのは、誰もが憑依した時代の名残りを色濃く留めているということだ。言い換えれば、共同幻想が未分離だった時代の在り方を。


 

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2014/05/27

72.「位牌以前」

 「位牌以前」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 火の神は、代々にわたって継承されなければならない性質のもの(p.551)。

 死によって火の神が取りかえられるということは「代をかえる」という言葉や、死者の家では火を一度消してつけ直すという風習(宮城島)に見られるように、死によって穢れたものの一時的な排除と、次に予期される新しい生の獲得への祈願が込められている(p.552)。

 (死者の住居を捨てる例は-引用者)けっして、家の断絶を意味しない、家は所詮、雨露をしのぐ仮の宿にすぎない。人間が抱く不滅なものに対する憧憬や、永世への願望をつなぎとめるには、家はあまりに小さく、かつ壊れやすい。その小さい家の中で、魂の終焉や生成、さらにはこの両者を結びつける役割を果たしているのが火の神信仰であろう(p.552)。

 ピッチュル(神石)が、香炉、火の神へと移行したとも考えられる(p.555)。

 死者の影を伴う霊魂、つまり先祖という意味以外の何かが、火の神信仰の原像なのである。位牌祭祀以前に何かがあったとすれば、火の神やクバの葉に象徴されるもっと普遍的、かつ土俗的な信仰について私どもは注目すべきだと思う(p.556)。

 先祖以外の何かというのは、火の精霊になるのではないだろうか。ピッチュルも神石は、精霊の宿る石である。


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2014/05/26

71.「火の神と主婦権」

 「火の神と主婦権」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 婚姻に際して拝まれる火の神は嫁方のみで、聟方の火の神は拝まれない。聟入婚の婚姻制によるもの(p.549)。

 つまり、「火の神」は、母系制のうえに成立したということか。いや、火の神が母系制の上で、家に定着したと言うべきか。

 火の神が軸になって回転する家の神は、司祭者である主婦がその対象である(p.549)。

 火の神。家のなかでの他界への入口。

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2014/05/25

70.「竈神と屋内神」

 第二章、「家の神と火の神」、第一節、「竈神と屋内神」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 琉球列島の人の神は竈の神のこと。

・出産の終わった精進取(ソージトリ)に、産床を清め、竈の灰をとりかえる(波照間島)。
・産児に産湯を浴びせた後、まず竈を拝ませて家族の一員になったことを火の神に報告する(那覇)。
・粟のスクマ(初穂祭)には、当日に熟した穂を竈に供えて収穫を感謝する(波照間島)。
・火の神を拝むのは日常的な行為。

 家と火の神も不可分。家の数え方。
・一煙(くぶ)い、二煙(くぶ)い(宮城)
・本家、火元(ピムツ)、分家、火別れ(ピパカリ)、家族、火人数(ピニンズ)(川平)
・火の神、ヤーヌシガナシ(与論島)

 火の神は家の象徴。

 死にいたると、火の神を放棄し、新しく取りかえる。主として、家の主婦、主人に限定される。

 つまり、「火の神」とは、対幻想の象徴になっている。しかも、それは夫婦の対幻想に限定され、世代という概念をもたない。


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2014/05/24

69.「位牌祭祀の成立」

 「位牌祭祀の成立」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 名門一族においてすらも十七世紀以前には位牌は必須のものでなかった(p.535)。

 常民の社会では位牌祭祀は負担だった。
・死霊を恐れる感情が強かった。
・家屋の構造に、仏壇や神棚を設けるゆとりはなかった。

 琉球的な色合い。幼児のためには位牌はつくらない。

 マブイ込めを行って人間になる。言い換えれば、マブイによって人は生まれるかもしれないが、その定着はあやうく、弱かったり抜けだしやすかったりしたということだ。

 位牌祭祀は常民社会にぽいて、武家社会より少し遅れて、十九世紀後半ごろから定着していく。しかも官からの強制によって(p.537)。

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2014/05/23

『殯の森』

 奄美大島を舞台にした『2つ目の窓』で、河瀨直美監督に関心を持ち、作品歴に『殯の森』とあったので、観てみた。なにしろ、「殯」をめぐるテーマにこのところ親しんでいる。

 映画『めがね』が、忙殺を是とする生き方をしている主人公が、霊魂(マブイ)抜けするような島の環境に浸かって、ゆるやかに生に帰還する物語だとすれば、映画『殯の森』は、子を亡くして自失している主人公が、老人の死への道行きに随行することで、ゆるやかに生に帰還する物語だった。

 両映画は、ひとつの共通する道具立てで交錯している。それは、携帯がつながらないということだ。そのことによって、両作品は、現実からの接点を亡くした世界を目指している。もっとも、『めがね』はそれはフィクションであり、ユーモアとして設定されているが、『殯の森』の場合は、カメラの動きがドキュメンタリーのそれを模したように、リアルさを追求しており、中身もあくまでシリアスだった。『めがね』の舞台は海であり、『殯の森』は森と、両極と言ってよいほど対照的だ。

 けれど、つながらない携帯以外にも、時代の負荷を背負った女性が主人公であることや、途中で寝てしまうかもしれない点は、とても似ていた。心動かされるという点でも。

 『殯の森』の主人公は、子を亡くしたことで自責の念にかられている。そのことがあって、どう生きていったらいいか、分からない。介護施設に勤めながら、半分、痴呆化しているかもしれない老人にもどう接していいか、分からない。けれど、ひょんなきっかけで茶畑のなか、かくれんぼしたことから親しみを覚えて行く。主人公は、無意識に、亡くした人を忘れられず、生に帰還できない似姿を老人に見ているのだ。

 老人は、妻の三十三年忌を迎えるが、まだ妻のことが忘れられない。坊主に、もう仏さんになって、ここへは帰って来ないと言われる。老人もまた、どう生きていったらいいか、分からないままなのだ。老人が誘ったのだろう、主人公にどこかへ連れていってもらうのだが、車を道脇きでスリップさせたのを機に、老人は森のなか入っていく。ためらいものなく、どんどん進んでいく。しっかりした足取りで突き進む。主人公は、当惑しながらもついて行く。途中、携帯につながらなくなり不安を募らせたり、雨で急流になった川でパニックを起こしたりしながらも歩みを止められない。

 しかし、森の中で、淡いエロスを含んだ一夜を経た後は、実質、他界の世界に入っていった。老人は若いままの妻と出会いダンスを踊るし、救助を思わせるヘリコプターが上空を過っても、助けを求めようとはしない。老人が、納得できる場所まで赴いて、はじめて老人は、そこに浅く土を掘り、妻の元へ旅立とうとする。そこで死に触れることで、主人公は生へと帰還する契機を掴み取っているのだと思う。

 映画の最後、スクリーンに「殯(もがり)」の説明として、「敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと」と字幕が出る。でも、琉球弧のその世界を見ていると、この説明は物足りない。「死者の傍にしばし寄り添うこと」と加えてほしい。


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2014/05/22

68.「クバの葉と位牌」

 「クバの葉と位牌」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 大和と琉球が袂を分つ以前は、クバの葉に抱く感情は共通していたであろうこと、クバの葉の信仰を携えて、民族は北上したのではないか、というのが柳田國男の描いた構想(「海南小記」にて)(p.531)。

 クバは神が降臨するためという以上に、神の霊代(たましろ)の意味ではないか。位牌棚とは別に、その他の神々とは別に、先祖を祀るしぐさとしてクバの団扇を立てている。(p.532)。

 「クバの世」。クバが社会集団の信仰の象徴としてある(p.533)。

 クバは単なる団扇じゃないわけだ。それは御願の神木でもあった。大和における巨木に相当するものだ。

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2014/05/21

67.琉球弧の「位牌祭祀」

 ここは節をまたいで各島の「位牌祭祀」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)を見ていく。

 沖縄本島

 十五世紀には旧家で祀られていた、しかし上流社会でも一般的ではなかった。首里、那覇の政治、文化の中心地で定着するのは十七世紀(p.518)。

 その波及の仕方はかなり強制によるものではあったが、しかしそれでもなお徹底できなかった(p.520)。

 宮古諸島

 宮古島の位牌祭祀の経過をみても、結局沖縄本島と同じような足どりをたどっている。恵隆が位牌を持参して祀りはじめてたとしても、祥雲寺に位牌を供えてあったとしても、それは常民社会においては直接関係のないことであった。墓地さえも定かにしないという社会において、為政者が死者への孝行を説くとうことは困難なことであり、死者への畏怖感の強いところほど、死者のために祭壇を作り、位牌を祀るというのは無駄とも思える作業である。昭和になってもなお、位牌祭祀になじめなかった常民社会の底にある微妙な感情を、上層階級では十分に理解しえなかったようである(p.523)。

 八重山諸島

 八重山地方の位牌祭祀の特徴は他島とほとんど差はない。「桃林寺の存在に直接かかわりなく、十七世紀に首里から役人の手によってもたらされ、十八世紀になってもまだ位牌祭祀のないところもあったとみえ、その勧告を行っている。しかしそれでもなお、常民社会では幕末の頃にやっと定着するという経過がみられる」(p.526)。

 奄美諸島

 沖縄本島の位牌祭祀は大陸と大和の影響。奄美は琉球と大和の影響。

 特筆すべきは明治三年の廃仏毀釈。明治新政府が神仏分離を行おうとして躊躇しているうちに、鹿児島県は何のためらいもなくこれを断行した。海を越えて奄美諸島にもこの波は押し寄せてくる。明治九年に信仰自由の通達があるまでの数年間のうち、薩摩領内の寺領は没収され、梵鐘や仏像などは兵器や通貨に変え、藩の財政は大いに利益をあげた。「他の県では類をみないこの事件は、奄美地方の信仰形態を根底から揺るがせる結果となったのは当然である(p.527)」。

 在来の琉球色に彩られていた宗教色もまた、(中略)仏教色、浄土真宗の場合はとくにその影響をひそめ、代わって神社神道が大きな影響力を行使する(p.527)。
 しかし明治の不幸な事件に直面したとはいえ、位牌の成立の過程は、他の諸島と同じような足どりで変化してきていることが想像できる(p.530)。

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2014/05/20

66.「位牌祭祀の現状」

 第六部、「屋内祭祀の構造」。第一章、「位牌祭祀の構造」。第一節、「位牌祭祀の現状」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 世継ぎは長子に限っていなかった。久米島では末子継続は近年まで続いていた。生産基盤が弱いところでは、分家を促進させるだけの力がない。そのため家内に祀られる位牌も兄弟重牌になる。

 女性相続の禁忌もあるが、「聟入婚」が近年まで続いている。子供が大きくなるまで男が嫁の家に通った(p.508)。

 位牌は確かに死者の霊代(たましろ)としての意味をもっているが、霊代はそれを構成する一部にすぎず、家そのものが霊代である。「かつて死霊観念の濃厚であった時代には、家に死者の魂の残留を意識したがために、住居を捨てて転居したということもありえたのである(p.512)」。


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2014/05/19

65.「琉球墓制の性格」

 「琉球墓制の性格」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 墓制の順序。

 1.洞窟墓 散骨
 2.石積墓(亀甲墓)
 3.石塔 破風墓

 琉球列島の葬制の沿革をみるときに、両墓制の成立は困難であり、複葬制の成立すらも歴史的には新しい風習と考えている(p.497)。

 珊瑚礁より成り立った地質の故に、地表が浅く、埋葬することが困難という理由から、どしても地上葬の形式をとらざるをえない(後略)。山野に「放置された」とみられる人骨は、その埋葬できないという地質上の理由によるものとみられる(p.498)。

 野ざらしや洞窟墓をどう理解するかというと、これは死霊観念の強さのために、死者はなるべく境界の外へ放棄しようとするか、洞窟の中に押し込めようとする意図が直接の理由であったと思う。とくに注意してみたいのは、死者を放棄するのは(中略)、マブイ(守護霊)を除去してしまえば、肉体はまったく価値のないものである。そういう考えから、死後に行われるマブイ別しを機会に、死者は放棄されて顧みられないというのが古風な形であったろう。埋葬できないという地質上の理由と、死霊に対する考え方は相互に関係しながら、こうして琉球の特殊な墓制を作りだしていくので、葬式のことをカクス(八重山)、ステル(宮古)、オサエ(奄美)などの言葉はその付近の事情をうまく表現している(p.499)。

 「野ざらしや洞窟墓」は、光と闇が交錯して他界への入口となる場所だから、その境界域として葬地に指定された。琉球弧では死霊観念だけというより精霊観念が強い。ということは肉体より霊魂を人間の本質と見なしたということだ。それが、「カクス(八重山)、ステル(宮古)、オサエ(奄美)」という言葉の意味である。


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2014/05/18

64.「墓制の起源」

 第二章、「墓制の起源」。第一節、「名称にみる墓の形態」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

奄美諸島
・パカ、トーロ、ムヤ、ハヤ、テラ、ウブ、ギシ
沖縄本島
・パカ、ハラ、シンジュ、ツカジュ、モー、ガマ、グシュ、トーシ
宮古諸島
・パカ、モト、ツカジュ、ミヤカー、ガマ
八重山諸島
・パカ、ヌーヤ、シー、イシヤー、フ(ホ)カヤー(p.482)

 墓地は、その地域の立地条件を背景にして成立し、そのまま墓の名称となってあらわれている(p.484)。

 洞窟が墓の名。集落が平地に発展している沖縄本島や八重山では、ハラ、モーのように原野を意味する表現(p.484)。

 地名がそのまま墓地を指している。

 葬地には、ただ丸石などを置いてやがては忘却した。石に死者の名を刻むようになると、死者の形代のような新生な意味を添えて半永久に記念碑として残るようになる。これが現在の墓と呼ばれるものの出発点。「祖先の記念は今の人が想像して居るやうに、文字の刻んだ冷たい石の塔では無かった。亡骸はやがて朽ちて行くものとして、遠く人無き浜や谷の奥に隠して、之を自然の懐に返して居たのである」(柳田國男)(p.486)。


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2014/05/17

63.「奄美大島小湊の墓制」

 「奄美大島小湊の墓制」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 モヤ(平地につくられた共同墓)。

・墓の管理は親族によってではなく、講集団によって行われた。
・庚申(かねさる)と墓制は、本来は直接関係はなかった。

 もともと洗骨、改葬の儀礼は恐れに満ちたものであったために、三、八月の最後のドンガに行ったものである。ところが祖霊信仰が高まってくるにしたがって洗骨、改葬を伴う墓祭りの日が引き上げられて、シバサシ、カネサルに行うようになった(小野重朗)。(p.477)。

 小湊の島立神話。
 昔、琉球からイーマランコラという兄妹の二人が小湊に漂着した。やがてこの兄妹二人が中心になって現在の集落が形成された。山頂のほとりに二つの巨大な石があり、その一つは昔、男神(エイリ神)が海から運んできたもの、他の一つは女神(ウナリ神)が運んできた。これが小湊の島立神石。この神石から真正面にむかったマー(ミヤ)という広場のあたりから部落が開けた(p.472)。


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2014/05/16

62.「沖永良部島の墓制」

 「沖永良部島の墓制」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 明治元年の「神仏分離令」による廃物毀釈。明治四年、死者の届け出制。明治五年、自葬の禁止。明治十一年、葬儀は神官の手で行うこと。明治十年、喪屋の禁止と埋葬指示(p.464)。

 結局は鳴物入りで発足した神葬祭の試みは、当初の期待したほどの成果はあげられないまま終わっている。仏教が常民の葬制を完全に支配し得なかったように、神道もまたその影響力を十分に発揮できず、そのために琉球列島の葬制は、かなり原初的な形態をいぜんとしてたもちつづけてきたということは注目すべきであろう(p.463)。

 ウジチ山、ヤナ山、フルバ。祟られると言われたりするが、「改葬習俗の成立以前の、死ねば誰もが同じようにして葬られる通常の葬地にすぎなかったのだと私は思う」(p.470)。

 喪屋とフルバ、ウジチ山などと呼ぶ場所は、有機的なつながりをもっていたように私は思う。すなわち死と喪屋とフルバは直線的につながっていて、そこではまだ、墓というものの存在する余地はなかったのだということである(p.470)。


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2014/05/15

61.「宮古諸島の墓制」

 「宮古諸島の墓制」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 親所(うやどころ)、元(むと)は墓を指す。ミヤカーという石積み、もしくは巨石で覆うた墓がある。とくに巨石墓といわれるものの規模は、他島では類をみないほどの豪壮な構え(p.457)。

 「墓地はやたらに人に教えるものではない」という言葉も残っている。

 島役人たちが模合墓を作らせたいちばんの理由は埋葬地の整理により耕作地の拡張を図りたかった。それが証拠に洞窟内は近年まで続いていたのに干渉を受けなかった。

 「葬地すら明らかではなく、葬地に死者をおしこめてしまうと、そのまま、なんらの行事もせずに、忘却してしまう型(p.450)」。しかし、他の諸島と同様、「その歴史的な背景には特異なものは存在しない」(p.457)。

 

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2014/05/14

60.「沖縄本島の墓制」

 第五部、「琉球墓制の成立」。第一章、「墓制の諸現象」。「はじめに」、「沖縄本島の墓制」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 おそらく他の群島の墓制は、この沖縄本島の墓制を軸にして展開し、かつ変貌していったとみられる(p.435)。

 琉球最初の墳墓といわれる玉陵の構築が一五〇一年、伊江王子を祀る亀甲型の墓が一六九〇年頃の構築としよう。だとすると、およそこれらの時代を上限として、墳墓は祖先崇拝という名目に支えられ、その宗教的な価値を高めながら、まず王家、そして系図持の社会から流行のきざしを見せはじめ、一七世紀から一八世紀にかけて、武家社会では墓作りの最盛期であったと想像される。こうした傾向はやがて、無系の常民階級を刺戟し、階層的には上層から下層社会へ、地理的には首里、那覇附近から各地方に波及していくことになる(p.449)。

 破風墓(ヤーグヮーバカ)、亀甲墓(カメノクーバカ)。

 内地の場合は労働手間の賃借や婚姻、出産にはじまる人生儀礼の強力参加が重要な条件となっているが、沖縄の門中の機能は墓祭り、つまり先祖祭祀という、かなり限定した意味でしかその役割は果たさない(p.440)。

 現在の死者に対して抱く濃厚な関心、祖霊信仰に対する考え方が門中墓の形式に如実に示されてる。これは、始祖との関わりをもつと信じられる井泉や聖地を巡拝する「東詣り」や「今帰仁詣り」などの形となってあらわれる(p.440)。

 本島北部では大正期になってから。門中集団は中南部に濃い。
 奄美には門中という言葉はない。父方、ヒキ。母方、ハラ。沖縄本島、宮古・八重山でも広い範囲で使われる(p.442)。

 門中は血縁だけではない。これは与論のサークラも同じだ。

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2014/05/13

59.「再生信仰の諸現象、まとめ」

 「まとめ」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 豊饒をもたらす原郷とみられる聖地と、死者の延長上にある他界と再生信仰は区別して考える。 霊魂はマブイ(守護霊)とムン(悪霊)。マブイは別名セジ(霊・筋)(p.431)。

 童名(わらびな)。
・山中で迷子になっても、けっしてその人の童名は呼ばない。クンムン(妖怪)に知られてとりかえしがつかなくなるから(大島)。
・危篤の病人の魂呼ばいをするときは、老人であってもその人の童名を呼ぶ(沖縄)。
・長男、長女は父方の祖父母。次女、次男は母方の祖父母の名を継承する。
・男子は種子方(たねかた、父方)、女子は産方(なすかた、母方)の名をつける(八重山)。
・命名のときのユングトゥ(祈り詞)。「良カ人ナラニバナラヌ、ウラ名ヤ○○親ヌ名ドゥ、体強ク、生命長ク、クェツキラサン(山田実)。「親神や身の上」(野口才蔵)。与論島。
・自分の守護霊であるマゥを所有する(宮古島の女性)。

 老人の死をカジマヤーを呼ぶのは、おそらく回転を意味するもので、「生れ姿に戻る」資格をもつ理想的な死者である(p.432)。

 名の継承、死水を汲む場所は産水(うぷみじ)を汲む場所と同一、汲む者は「嘉例の人」、その水は「生き水」。骨噛みの伝承、「内地では人体になぞらえた餅であり、琉球では動物である。これを食うことによって死者の霊魂の転位をはかろうとしたものであろう」。これは「枕飯」の共食という形で残されている。

 琉球列島ではとくに、死者の魂を内在させていこうとするセジ(霊)づけの思想が濃厚にみられることである。後世になって、各種の異文化を吸収した後も、例えば洗骨や年忌などの行事のすべてに、かつて自分たち独自の世界であった信仰を、うまく調和させて維持してきている(p.432)。

 童名とは、マブイの名である。先祖の霊の連なりからなる神と来訪神は別である。出現する場所を同じくしているのは、他界への出入口を通るからだ。

 カジマヤーは、時間的な他界への疎外行為だ。しかし、それは即、再生へと接続する行為でもある。ここが、「遠野物語」の民譚の、「ダンナノハナ」や「蓮台野」という空間的な他界への疎外と違いだ。


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2014/05/12

58.「洗骨と再生」

 「洗骨と再生」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 洗骨
・波照間島、タンカーヨイ(誕生祝い)。洗骨は死者の魂の新たなる誕生。
・与論島。「骨を新しくする」。波照間島と同じ意味。

 年中行事として毎年、行っているところも多い。「洗骨とは洗うことによって、穢れ多き死者が生誕以前の状態に戻り、そこから新たな生を獲得する手段として存在する行事」(p.427)。

・与論島市来家のチアラの骨を泡盛で拭く。
・洗骨は七、十三、三十三年忌というふうに数回にわたって行う(与論島)、加藤正春。
・初めて、ミーウガン(新拝み)、以後の洗骨はマタウガン(再度拝み)(p.426)。


 古宇利島の神事。
 「二人(神職)は獄中に入り祈祷を行ひたる後、白衣を抜きて裸体となり、酒饌(ミキ)を以て其髑髏を洗浄し白布巾にて拭去る。是彼らの祖先より伝はりし神秘的祭祀なり。(「沖縄県国頭郡誌」)(p.428)

 「神体である人骨と神女の婚姻が明確な形で示されている」(p.428)。

 「添い寝」といい、神女の誕生時の同衾(p.417)といい、この例といい、共寝の事例が豊富なことに驚く。

沖永良部島。西見シヌグ(p.429)。
 三日め、「西見シヌグのウッタハチブル」(ウッタは墓、ハチブルは面形(おもがた))。
・ウッタ墓から面を被った神々の出現。
・男子四人。二人は女装して、男二人は舟を漕ぐ真似をし、女装の二人は太鼓にあわせて上手に踊る。

バントゥ(宮古島島尻)
・仮面の神は三人。ウヤパー(親)、ナカパー(中年)、フファバー(子供)。
・通行人めがけて泥を塗るが、これによって厄を祓うと信じられている。
・バントゥの出現する場所。老人によってはムトゥ(墓)から出現すると言う人もいる。テラ(聖地)という人もいる。参井からという人も。
・「いずれにせよ神出現の場所は信仰の根源となる場所であることに変わりはない。

アカマタ・クロマタ(小浜島)
・アカマタ(男)、クロマタ(女)
・出現する場所はナビンドゥ。神域でその奥は浪の音のする洞窟に通じている。
・二日目に神女たちはウムイ(神歌)を唱えながら、この二神の面形に水を注ぐ。神の蘇るための復活の水。


1.洗骨、神の出現する場所は墓所、または信仰上の聖域
2.折目ごとに骨を洗うことと面形に水を注ぐことは、そのいずれも蘇生する魂を意味する
3.仮面は男女二神。場合によっては神との婚姻(p.430)。

 人骨を洗うのはいかにも原始性があって古い形式のようにも思えるが、洗骨を新しい風習とみる私の考えからすれば、面形に象徴される神の再生信仰を下敷きとして、洗骨習俗に転じたとみるのが妥当のように思える(p.430)。


 神の出現する場所は、他界の入口ということだ。それが洞窟という古代の認識が残っているところでは洞窟からになるし、観念的な他界の場所が希薄であれば墓ということになる。

 広い分布ではなかったかもしれないが、洗骨習俗ははもともとも存在していたのではないか。それが、神とみなす人骨を洗う信仰につながった。そう見るのが自然に思える。

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2014/05/11

57.「滴血確骨と生の充足」

 「滴血確骨と生の充足」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 滴血確骨(てきけつかっこつ?)
・死者の骨に血を塗る風習。多くの枯骨の中から血縁の骨を選別する方法として、親族であった骨にはこれが吸着し、他人の骨と判別できるという考え(p.418)。

 血は生命の根源で、一切の宗教的な功徳はこの血によって代表される。これは肉や骨など他のものでは代えることができないもので、血の呪術的な効用は、したがって魂の蘇生、あるいはセジ(霊)づけに大きな役割を果たす(p.424)。

 そういった意味で洗骨改葬にともなう滴血は、たんなる「確骨」ということにとどまらず、そこには死者再生の信仰がこめられていたと考えられる(P.424)。

 当初は人間の血を塗った。それを動物の血で代替。これを基本としたセジ(霊)づけの信仰。

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2014/05/10

56.「七度の生」

 「七度の生」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 八重山川平。
 祝女(つかさ)が一人前の神女として誕生するとき。ヤマダキ(ヤマとは聖地お獄のこと)の行事。目には見えない神と同衾。この後で、海岸におりて潮水を浴びることを、ナナサイノハナヲカメルという。七水を浴びるというのは、新しい神としての精霊を獲得することを意味している(p.406)。

・死を象徴する後生衣を次の世帯主がカドフリに着る(大島宇検)
・「死人の着物をきると健康になる(多良間島の諺)」

 これも、霊魂の転移と同じ考え方だ。

 七という数字は、日本においても発生、誕生、もしくは節目をあらわすという意味で重要な数字である(p.417)。

・「後生の門や一門、阿弥陀や七門」(与論島)。

 七つの峠を越せば穢は聖に戻り、七つの門をくぐれば死は生に還元される(p.418)。

 柳田國男が『海南小記』に書きとめたナナユーフィの伝説からスタート。父のために七度身を売って農奴となり、七度身を贖ってついに長者となったというもの。ここに再生信仰を見ようとしている。

 ナナユーフィの伝承は、農民たちの悲しかった毎日の苦労を裏書するとともに、なおその根底には、よりよい明日を夢みる永世の思想がひそんでいたようだ(p.418)。

 

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2014/05/09

55.「天下る死」

 「天下る死」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 月と生き水
 月の中に生き水を担いだ天からの使いの女の絵が残っているのは、生き水を神様からもらってくる途中、人間は桑の実をとって食べているうちに遅くなった。そうすると蛇などが先に浴び、人間は生き水を浴びることができなかった。そのために蛇は脱皮し、人間は脱皮できなくなってしまった(p.409)。

 日本内地では月に映る影は兎の餅つき。琉球では水汲みの姿。
 餅つきの影は農耕地帯に多く、水汲みは、アイヌ、北欧など、水を渇望する国が目立つ(p.410)。

 三十三年忌を星の夜に行う意味。「天に昇って星になってください」(天上他界)。

 節目の行事に死者の魂は天に留まり、おりる場所を間違えさえしなければ、再び人間の魂の中に蘇ると考えていたようだ(p.411)。

 天にも魂は留まるということ。山頂はないのだろうか。

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2014/05/08

54.「産水と死水」

 第三章、「死と再生」。第一節、「産水と死水」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 水は、火の神と同様、あるいはそれ以上に、人間のセジ(霊)づけに大きな役割を果たしている(p.395)。

 家ごとに所属する井泉(かわ)。婚姻での入家で行われる「水盛り」、親との別れの「水盃」。

 水盛り、あるいは水撫(うぶな)でというのは、いいかえれば自らの帰属を示すための水祈願。「水は内地の習俗では想像を超えるほどの密度の濃い信仰を内蔵している(p.396)」。

 生の終焉である死水も、この産井から水をとる。
 産水(生まれて初めて使う水)、湯灌(葬儀に際し遺体を入浴させ、洗浄するこ)、洗骨で、同じ用語が使われる。
 たとえば、伊是名島。産水はウイミジ、湯灌もウイミジ、洗骨も産井からとる(p.402)。これは再生信仰によるものだろう。

 大島竜郷赤尾木。
 湯灌用の水はなるべく遠くの井泉から汲んでくる。水汲人と逆剃刀を当てる人との問答。
 「その水は何水か」
 「これは死水です」
 「その水は何水か」
 「これは死水です」
 「その水は何水か」
 「クンミジィヤ スィディルミィジィ(この水は生き返る水だ)」
 この答えを聞いて初めて水を受け取る(p.403)。

 チンシダチャー(膝抱人)の例(p.405)。

 「死を再び生以前の世界に戻そうとする信仰がその支えになっているような気がする」(p.407)。


 

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2014/05/07

53.「生と死の反芻」

 「生と死の反芻」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 「十字路のような分岐点は、地理的にはカジマヤーであり、そのカジマヤーは霊境をも意味している」(p.390)。

 「琉球列島では命名、もしくは井泉に下りて水撫でをすまさぬ子は、人間としては認知されていない」。現代からみると残酷な葬法にも見える。しかし、日本、台湾にも、「死産児は冷酷に扱えば扱うほど、次に生まれる子は、よりよい状態で再生するという考えがあった」(p.391)。

 川平で通行人に踏みつけさせるサンは、死霊の鎮圧の意味ではなく、もとは惜しまれながら死んでいった人間の再生を願う呪いとしてあったものが、死者を埋めて踏むことをせず、サンをもってこれに代用したものであろう(p.391)。

 長寿葬のカジマヤーの。四つ辻は善悪いろいろの霊魂の住むところ。カジマヤーに埋められて人に踏まれ、そして新しい出生の機会をうかがっている若葉の魂のための、再生の願いの意図が、カジマヤーの元の姿ではなかったか(p.391)。

 川平では主産した子供の初歩きを「道見せ」といって、近くの三叉路まで出て帰宅する。これはカジマヤーにいる先祖の霊魂を獲得する呪術であろう(p.392)。

 三叉路もまた霊所であった。というより、これはどこでも他界であった観念が強く残っているということかもしれない。

 死産児の屋内葬。葬る場所の多くが、火の神(竈)の近く。それは、伝承にいう家を守るためではなく、それを祀る女性に再び宿るという信仰があったのかもしれない(p.392)。

 生命の余っている者と欠けた者が、お互いに融即しあって永生を願うというこの風習のもつ意味は、死は回転しながら再び生に還元されていくという信仰を暗示している。つまり生と死とは、それぞれ異なった二つの世界に住み分けているのではなく、両者は、始めから終わりへ、終わりから始まりへと、相互にその位置を確認しながら、また元に戻る「尻とり遊び」に似た現象を示している(p.393)。

 霊魂と再生。「尻とり遊び」のたとえが面白い。


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2014/05/06

52.「長寿葬」

 「長寿葬」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 長寿者の死は一種の慶事。

 カジマヤー、またはト-カチの前夜。
 当人が寝込んで枕元に死者の時と同様、枕飯を供える。長男が、「もうあの世に行かれる年頃ですからおひきとりください。そして後生で子孫の繁栄を見守って下さい」と言う。一夜明けると、盛大な祝宴(p.387)。

 「いわゆる擬葬とも考えられる長寿者の生きながらの葬式というものが、沖縄本島の各地にわたって、古くから行われていたということが想像される」(p.388)。

 「遠野物語」の「ダンナノハナ」や「蓮台野」の民譚を思い出す。そこでは、生きながらにして空間的な他界に疎外されるが、琉球弧の場合は、時間的な疎外しか受けないことに気づく。

 カジマヤー(風車)。「長寿者の死が、たとえ絶命しようと存命中であろうと、新しい生に還元されるという考えがその中にこめられている」(p.389)。

 
 

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2014/05/05

51.「幼児葬」

 第二章、「幼児葬と長寿葬」。「はじめに」と「幼児葬」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 幼児葬と長寿葬。対照的な死だが、どこかで結びあっているのではないか。
 
 死産児の呼称(ミジグヮ-奄美に多い。チィムラシ(血塊)-沖縄)。

屋外
・与論島では生後七日以内の名づけのすまない子は墓地の隅に埋めるが、昔はワラビガシャ(童を葬る崖)があって、そこにおいたまま、葬式はもちろん、年忌その他いっさい行わない(山田実)
・死産児(アクマ)や異常死者は、アヲグムイという海辺の奥に葬った。死産児の場合は刃物で切ってすてた(池間島)。

屋内
・竈を中心としたところ、もしくは雨だれが多い。

 「位牌祭祀以前の家の守護神は火の神であったろう(後略)。死産児は火の神の保護のもとにおこうとしたことも考えられる。なぜなら火の神の祭祀は主婦の役目であり、いいかえれば火の神は女の神である」(p.383)。

 死産児の扱いには、死霊の抑圧、あるいは守護神化という対極がみられる。

 

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2014/05/04

50.「骨噛みと再生」

 「骨噛みと再生」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 骨噛みの意図。ムン(悪霊)の呪詛か、マブイ(守護霊)の継承か。

 琉球列島の具体的な伝承のなかからは呪詛としての要素は見出せず、セジづけ、良き死者に対する積極的な礼拝、もしくは合体を意味していたのではないか(p.374)。

 「併し食人習俗の近親の肉を腹に納めるのは、之を自己の中に生かさうとするところから、深い過去の宗教心理をうかゞはれる」(折口信夫)。

 再生信仰の具体的なしぐさとして骨噛みは存在する(p.375)。

 「琉球を中心とする骨噛みの伝承は、人間の魂の永世を願う、もっとも感動的なものとして捉えることができると思う」(p.375)。

 例えば二ライ信仰にみられるような、遥かに隔たった場所に死者の魂を送るのではなく、むしろ自己の中に死者の魂を内在させることによって永生をはかろうとする再生信仰の方が、より伝統的な姿であったような気がする(p.375)。

 霊魂が再生を繰り返すという段階では、他界は存在しなかった。ということは、再生の遅延、あるいは霊魂が死者の身体を離れ、再生するまでの時間があり、それがどこかへ溜まっているという概念が霊所として他界概念を生んだということになるだろうか。

 「添い寝」に見られるように、即時的な霊魂の転移と再生が元の形だった。しかし、誰かの死と誰かの出生にはそもそも時間的なズレがあることを意識化したとき、霊所は発生したと考えることができる。

 このような再生信仰を支える感情は、大自然の変化を目のあたりにみて生きる人たちが抱く共通したものであろう。常に始めと終わりを繰返す天体の変化や、穀物の生成と収穫、死後の魂が再び元に帰るという考えをこれらの自然のたたずまいは教えてくれる。昔話の「花咲爺」が支持される背景もここにある。人間をとり巻く自然がそうであるように、そこに生きる人間の世界にも消滅としての死は存在しない。死はかならず生に還元される。それは雨のあとの夕映えが明日の天気を予想されるように、慟哭にはじまる死は、再生するという希望のためにその悲しみは償われる。この内在する死を自己の外におくとき、すなわち位牌、墓石、聖地などのように何らかの形代を設けて死者の魂を祀ろうとするとき、そこから祖先信仰は芽生え、かつ形式化していく。もし死者の魂を自己の中に内在させているとしたら、そうした社会では祖先崇拝の成立する余地はないと思う。なぜなら自らが死者の魂の記念碑を内蔵しているので、外部に死者のための場所を設定する必要はないからである。死者はつねに魂のど真中に位置している(p.376)。

 酒井の筆致が論理から抒情に移った時の文章はいつも心地いい。けれど祖先信仰はそれほど新しい概念ではないと思う。それは出生を霊魂の再生とみなせば、その反復のなかで祖先という概念は必然的に生まれるからだ。そうでなければ、アマンというトーテム動物の設定も生まれない。祖先信仰が過剰化されるのは、死が間接化され弔いが長期化されるなかに想いが過剰化される契機があり、また、他界が空間化されることで、墓の大きさを競うというような虚栄も生まれるという、別の側面に理由を求めなければならないと思う。

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2014/05/03

49.「骨正月」

 「骨正月」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

1.四十九日の忌明けには死者になぞらえた餅を食う。
2.その餅も元をたどって行くと獣肉との結びつきが感じられる。
3.九州および琉球列島ではとくに死者の骨噛みの伝承が濃厚で、葬式に行くことを骨噛みに行くという話が多い。
4.琉球列島では今日その多くの土地で獣肉を供物として使うが、これは昔、死者の骨噛みを改めさせたという話がある(p.369)。

 与論のミニタヤマの笑い話もこの系譜の事例として挙げられている(p.366)。

・枕飯。これはカタチノメーといって食う。
・四十九日の餅。骨餅ともいうが、これを人体になぞらえて食う。
・折目行事前後にホネキリメシを食う。骨正月などともいう。
・改葬制度の土地、または火葬にしたときなど、骨を噛む伝承がある。またじっさいに噛んだ例もある(p.370)。

 枕飯のような忌の飯を食わないのが原則だったのではなくて、積極的に忌の飯を共食する慣行が先にあって、この習俗が衰退したのではないか(p.370)。

 すると、「骨噛み」に込められた意味が大事になってくるのだろう。


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2014/05/02

「吉本隆明のDNAをどう受け継ぐか」

 シンポジウム、「吉本隆明のDNAをどう受け継ぐか」を聞きに、新宿、紀伊国屋ホールへ足を運んだ。濃密な、あっという間の二時間で、それぞれの話題について、もっと話を聞きたかった。顔ぶれがそろうと語りの幅と深さがぐっと拡張される。

出演:中沢新一×内田樹×茂木健一郎×宇野常寛 スペシャルゲスト:よしもとばなな

中沢新一(なかざわ・しんいち)
1950年、山梨県生まれ。哲学者、思想家、人類学者、宗教学者。明治大学特任教授、野生の科学研究所所長。多摩美術大学美術学部芸術学科客員教授。

内田 樹(うちだ・たつる)
1950年、東京都生まれ。武道家。神戸女学院大学名誉教授。多田塾甲南合気会師範。「凱風館」主宰。

茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)
1962年、東京都生まれ。脳科学者。(株)ソニーコンピュータサイエンス研究所上級研究員、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特任教授。

宇野常寛(うの・つねひろ)
1978年、青森県生まれ。評論家。雑誌『PLANETS』主宰。

よしもとばなな
1964年、東京都生まれ。小説家。吉本隆明氏の次女。

 冒頭のよしもとばななさんの挨拶は心に沁みるものだった。話すのが苦手で、と、iPadに書いてきたものを読むスタイルを採ったのだったが、ご本人もそうおっしゃっていたように、それは父譲りなのかもしれないと思った。もっとも、吉本さんほどではないのだけれど。大衆に寄りそってきた人が大衆の残酷さ(言葉が違ったと思うが思い出せない)に直面して愕然とするという吉本さんの表情は、家族しか分からないことだ。でも、いかにも吉本さんを感じる。

 内田さんは、『自立の思想的拠点』『擬制の終焉』で書かれた安保闘争の総括について触れた。再読して、自分が文章の展開まで覚えているのに驚いた。エビデンスのないことを言うのに命がけの跳躍をしなければならない時がある。そのときの踏み台に吉本隆明がなっていたのに気づかされた。そこには、吉本の断言力があまりにも強いので、わしづかみにされた読者は、知らず知らず吉本の観方で見てしまう、そういう「現実編成力」もあるという指摘は、よく分かると思った。茂木さんは、「旅の途中で乞食にあって施しをして、帰りの道でまた同じ乞食に会ったがその時は施しをしなかった。でもそれでいい」という吉本さんの言葉を印象的なものとして挙げていたが、ぼくも往きの道、還りの道のことをよく理解していなくて、道を間違えるということがあった。ぼくの場合は、誤解に基づくものだけれど、「現実編成力」の強度は、吉本読みにつきまとう呪力でもあると思う。

 江藤淳との対談について、途中の経路は違うけど、ぐるっとまわって一致する点への着目もあった。「大衆と知識人」という枠組みのなかで、知識人が大衆を導くという構図があった。吉本は、大衆に重心を置くことでこの構図を見事に転倒させたが、ここに言う「大衆」とは、「大衆の原像」とは大日本帝国臣民のことだったのではないか、江藤淳とはそこで一致していたのではないかという読み換えは、加藤典洋の『敗戦後論』を思い出させるもので、深く頷かされた。この、ぐるっとまわって一致するところに、思想の幹があり、それを絶やしてはいけない、とも。

 中沢さんは、吉本さんとの交流も深い。だから、エピソードがふんだんにあって楽しかった。昭和天皇について、ああいう大きな人は美空ひばりと手塚治虫を道連れにした。麻原彰晃もその手だから、ぼくと中沢さんと両腕に抱えて海に飛び込みかねない。その後に、吉本さんが水難に会って心配したというエピソードはぞっとした。ぞっとしたのは、それが真実ではないかと思わせるからだ。生霊と言うつもりはないけれど、世のバッシングの心労なのは確かではないだろうか。

 吉本隆明は「概念の創造家」だというコピーも吉本を真っ芯で言い当てていると思う。ときに、中沢さんの話し方は、右手の差し出し方、身の乗り出し方、その身振り手振りが吉本さんを彷彿とさせるものだった。あれは形態模写だとしたらすごいものだ。身のこなしがしなやかで、宇野さんへの応答もしなやかで、これもすごいものだと感じ入った。宇野さんの語りは、世代を反映して、そのことがいちばん印象的だった。言ってしまえばちゃらく感じたし、『ハイ・イメージ論』で、吉本さんが実現できなかったことを実現するのが自分たちのすべきことではないかという発言には、浅い掬い取りを感じないわけにいかなかったが、そこに真正面から回答するのではなく、「宇野さんにはアフリカ的段階があるのかなぁ」と、柔らかく切り返して本筋をずらさなかった。あ、あれが円月殺法か(笑)。

 中沢さんも読むべき吉本として、『ハイ・イメージ論』を挙げたが、その同じこととして、「アフリカ的段階」もキーワードに挙がった。このところ、ぼくもそのことばかり考えているので、「アフリカ的段階」を起点にした仕事を展開していきたいという中沢さんには期待が膨らむ。

 大日本帝国臣民はいない。いや、本当にいないんだろうか。ぼくたちのなかには「アフリカ的段階」があるのではないか。そういうやりとりのうちに、内田さんの問題提起が拡張されていくのだった。

 吉本さんと茂木さんの対談、『すべてを引き受ける」という思想』が2012年に刊行されたとき、ぼくはほんの少し狡さを感じてしまった。ずっと前に行われた対談について、吉本さんの他界後に出版したことについて、遺族の了解を得ているとはいえ、フェアでないものを感じたのだ。茂木さんは、出版が遅れたことについて、これをどうしたらいいんだろうと途方に暮れたまま、その宿題を残したまま吉本さんが亡くなってしまったと率直に語ってくれて、小さなわだかまりが氷解するようだった。

 茂木さんは、吉本さんの文体のポエトリーを指摘。自分が日頃、読む科学論文とはまるで違うことをしきりに指摘。そこから、丸山真男は翻訳されているけれど、吉本さんの本は翻訳されていない。翻訳されえないのではないかという展開もあった。吉本さんの思想は、西洋が普遍的ではなく、西洋に対して遅れたと言われる地域が、せりあがって来た時に、普遍性を持つものではないかと思う。

 同じことだけれど、「アフリカ的段階」の水脈を求めること。それは自身のテーマとしても引き受けたいもので、あの場を共有できてよかったと思う。紀伊国屋ホール。考えてみれば、吉本さんの「芸術言語論」の続編の講演もそこで行われたような覚えがある。それ以来の紀伊国屋ホールだったが、もう吉本さんの講演を追うことは叶わず、吉本さんについての語りを追うことしかできなくなったのはやはりさびしい。吉本さんがいないということを、改めて知らされた晩でもあった。



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2014/05/01

48.「血食の倫理」

 「血食の倫理」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 小野重朗。沖縄を豚の文化地帯、本土を餅文化地帯の二つに分ける考え方を退けて、獣肉を重視する古い食生活の姿を想定。かつ、獣肉は神への供犠というのではなく、供物にして共食する。(p.359)。

 ウンジャミでは昔は猪、今は鼠。シヌグでは動物の供物はなく餅と魚。これらを一つの祭りの変化と見なせば、供物も、獣肉から餅、魚への変化をみることもできる(p.359)。

 枕飯を食うことと、四十九日の骨餅を食うことの行事はもとは一つの行事であったこと。さらにその以前には死者がでると人びとはそこに集まって獣肉を供え、ともどもに食ったであろうということである(p.360)。

 「琉球列島における血忌の考えは現在の内地のそれとは比較にならないくらい希薄」(p.358)。

 「琉球列島では正月前になると、海辺では豚の悲鳴が横溢した」(p.356)。

 ここから本題の「骨噛み」の習俗に入っていく。


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