62.「沖永良部島の墓制」
「沖永良部島の墓制」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。
明治元年の「神仏分離令」による廃物毀釈。明治四年、死者の届け出制。明治五年、自葬の禁止。明治十一年、葬儀は神官の手で行うこと。明治十年、喪屋の禁止と埋葬指示(p.464)。
結局は鳴物入りで発足した神葬祭の試みは、当初の期待したほどの成果はあげられないまま終わっている。仏教が常民の葬制を完全に支配し得なかったように、神道もまたその影響力を十分に発揮できず、そのために琉球列島の葬制は、かなり原初的な形態をいぜんとしてたもちつづけてきたということは注目すべきであろう(p.463)。
ウジチ山、ヤナ山、フルバ。祟られると言われたりするが、「改葬習俗の成立以前の、死ねば誰もが同じようにして葬られる通常の葬地にすぎなかったのだと私は思う」(p.470)。
喪屋とフルバ、ウジチ山などと呼ぶ場所は、有機的なつながりをもっていたように私は思う。すなわち死と喪屋とフルバは直線的につながっていて、そこではまだ、墓というものの存在する余地はなかったのだということである(p.470)。
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