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2014/05/04

50.「骨噛みと再生」

 「骨噛みと再生」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 骨噛みの意図。ムン(悪霊)の呪詛か、マブイ(守護霊)の継承か。

 琉球列島の具体的な伝承のなかからは呪詛としての要素は見出せず、セジづけ、良き死者に対する積極的な礼拝、もしくは合体を意味していたのではないか(p.374)。

 「併し食人習俗の近親の肉を腹に納めるのは、之を自己の中に生かさうとするところから、深い過去の宗教心理をうかゞはれる」(折口信夫)。

 再生信仰の具体的なしぐさとして骨噛みは存在する(p.375)。

 「琉球を中心とする骨噛みの伝承は、人間の魂の永世を願う、もっとも感動的なものとして捉えることができると思う」(p.375)。

 例えば二ライ信仰にみられるような、遥かに隔たった場所に死者の魂を送るのではなく、むしろ自己の中に死者の魂を内在させることによって永生をはかろうとする再生信仰の方が、より伝統的な姿であったような気がする(p.375)。

 霊魂が再生を繰り返すという段階では、他界は存在しなかった。ということは、再生の遅延、あるいは霊魂が死者の身体を離れ、再生するまでの時間があり、それがどこかへ溜まっているという概念が霊所として他界概念を生んだということになるだろうか。

 「添い寝」に見られるように、即時的な霊魂の転移と再生が元の形だった。しかし、誰かの死と誰かの出生にはそもそも時間的なズレがあることを意識化したとき、霊所は発生したと考えることができる。

 このような再生信仰を支える感情は、大自然の変化を目のあたりにみて生きる人たちが抱く共通したものであろう。常に始めと終わりを繰返す天体の変化や、穀物の生成と収穫、死後の魂が再び元に帰るという考えをこれらの自然のたたずまいは教えてくれる。昔話の「花咲爺」が支持される背景もここにある。人間をとり巻く自然がそうであるように、そこに生きる人間の世界にも消滅としての死は存在しない。死はかならず生に還元される。それは雨のあとの夕映えが明日の天気を予想されるように、慟哭にはじまる死は、再生するという希望のためにその悲しみは償われる。この内在する死を自己の外におくとき、すなわち位牌、墓石、聖地などのように何らかの形代を設けて死者の魂を祀ろうとするとき、そこから祖先信仰は芽生え、かつ形式化していく。もし死者の魂を自己の中に内在させているとしたら、そうした社会では祖先崇拝の成立する余地はないと思う。なぜなら自らが死者の魂の記念碑を内蔵しているので、外部に死者のための場所を設定する必要はないからである。死者はつねに魂のど真中に位置している(p.376)。

 酒井の筆致が論理から抒情に移った時の文章はいつも心地いい。けれど祖先信仰はそれほど新しい概念ではないと思う。それは出生を霊魂の再生とみなせば、その反復のなかで祖先という概念は必然的に生まれるからだ。そうでなければ、アマンというトーテム動物の設定も生まれない。祖先信仰が過剰化されるのは、死が間接化され弔いが長期化されるなかに想いが過剰化される契機があり、また、他界が空間化されることで、墓の大きさを競うというような虚栄も生まれるという、別の側面に理由を求めなければならないと思う。

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