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2014/04/30

47.「枕飯の共食」

 第四部、「再生信仰の諸現象」。第一章、「骨噛みにみる共食と再生」。第一、二節、「はじめに」、「枕飯の共食」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 「枕飯は死者のための忌の召しであり、四十九日の餅は忌明けの食い別れの餅」(p.353)。

 しかし、「沖縄では枕飯、つまりカタチノメー(人の形の意か)を食うし、四十九日の餅もまた頭(ちぶる)の餅といってこれを食う」。だから、この二つの行事はもともと一つのもので、「仏教の行事が死者の供養を引きのばしたために、一つの行事が二つに分化してしまったのではないか」。

 見逃せない特徴は、「枕飯と同様に獣肉の共食が目立つこと」としている。たとえば、この日に豚を殺して死者の供物とする風習だ。

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2014/04/29

46.「他界観念についてのまとめ」

 「他界観念についてのまとめ」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 琉球列島ではとくに、死者の魂の赴く他界というのは、存在しなかったろうというのが、現在の私の考えである(p.339)。
 海上や山頂を拠点として、そこから人界に訪れてくる神を送迎する信仰は、死者の延長上にあるものではなく、まったく独自の世界であって、後生ろニライの両者は永遠に交わることのない異質の世界観に立つ信仰だと思う。(中略)つまり死者の住む世界を、新たに海上や山頂に設定しようとしたのは、祖先信仰の高まりによるもので、これが豊穣をもたらす神概念と混同したというのが私の今の考えである(p.341)。
 死者の魂の赴く世界は、人間の魂以外の遠い場所に設けるのではなく、マブイ別しによって別されたよい魂は身近にあって、新しい世代に継承されていくというのが元の形ではなかっただろうか(p.341)。

 琉球弧にはもともと「死者の魂の赴く他界というのは、存在しなかった」のは、実はとても大胆でラディカルな主張だ。だが、素朴なものであれ後生を想念するように他界は発生している。けれど、酒井の主張が空疎だというのではない。足と見聞で丹念に、そして繊細に観察した労は、驚くべきことに突き当たっているように見える。それは、他界は発生しているが、他界が発生する前の面影をまだ宿しているということである。

 思うに、来訪神とは他界観念を発生させてしまった衝撃が産みだしたものではないだろうか。この世ならざるものがあるということを、人間の想像力が観念したとき、大きな衝撃があったに違いない。それは同時に、誰もが精霊を見、交流することができなくなることを意味した。その可視と交流を再現するために、来訪神はやってくるのだとしたら、それは精霊の権化のような姿を取るだろうし、何者かを思念すれば始祖の形を取るのが自然だろう。だが、精霊の権化や始祖であることは、折口が言うように忘れられてしまう。すると、祖霊として表象することもあるだろう。忘れるということは、もはや精霊も始祖も信じられなくなっているのだから。

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2014/04/28

45.「葬地への畏怖」

 「葬地への畏怖」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 葬地への強い禁忌感。たとえば、指差しの禁忌。「墓かてぃ指ねぇゆるむやあらんぬ」。もし指したら、クッティクッティクッティと言いながら指に唾を吐きかける(野口才蔵)。この呪言は知らなかった。

 与論島では以前は膝を立てて紐で縛った。現在では埋葬地に設けられる霊屋(ガンブタ)をアオ竹で縛る。これは与論独特の風景。吹き飛ばされないようにと言うが、「死者を縛る風習が、棺を縛る風習への移行することによって、死者に対する恐怖感が間接化していく傾向がここにもみられる(p.336)。

 与論でも、死体を縛っていたことがあったのは知らなかった。これも驚く。葬地に入ることへの厳しい禁忌観念。

 琉球社会における死に対する考えは、親密感とはおよそ正反対の、妥協を許さない厳しさが、その風習のいたるところにみられる。葬地に対する畏怖感はその一つのあらわれであろう(p.339)。

 これはその通りだと思うが、禁忌には畏怖と、親愛や安心の両義性を持つということではないか。酒井は、現在、流布されている親密感への反発から、畏怖感を強調するが、論が畏怖のみに寄ってしまっている気がする。

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2014/04/27

44.「葬地と逆さ竹」

 「葬地と逆さ竹」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 墓所に設けられる標識。「梢付塔婆(うれつきとうば)」。柳田國男は、「古来の神を祀る為にもっとも必要であった祭の木が、名を変へ形をやゝ改めつつ」変化したものであることを示唆した。

 琉球列島も内地と大きな違いはない。

 葬制が形式化する以前においては、いわゆる「祭りの木」なるものは必要だったのだろうか、が問題である。葬地すらも明らかにしなかった時代、死者をおけば、以後はけっしてそこに足を運ぶどころか、指もささないという時代、それもまだこの頃の話である。そうした時代に、はたして死者のために設ける魂の依り木というものが重要な役割をはたしていたかどうか私は疑問である(p.327)。

 「息つき竹」。死者の魂の招ぎ代。あるいは、モガリの形式の変化したものという説がある。

 死というもののもつ本来の意味や標識の複雑な作り方からすれば、死者への配慮のあらわれとしてみられる「祭りの木」や「依り代」の性格よりも、その起源は、(中略)モガリに似た形式から出発したものとみるのが穏当のような気がする。もっと正確にいうと、モガリといえないまでも、それに似た、死者への禁忌観念というような意味から生じた植樹の風習であったのかもしれない(p.327)。

 問題の整理。

・葬地に立てられた「拝み木」や「祭りの木」は、葬地に立てられる柴や杖と関係がありそうだ。
・「息つき竹」や杖などは、喪屋の名残りとみられる。
・死霊観念の濃厚さを考えると、「逆さ竹」に象徴されるように、死者との断絶、もしくは死霊の抑圧という考え方があって、それが柴立て、杖立て、拝み木へと変化していったとみることもできる。(p.332)

 ぼくは祖霊との交感の象徴のバリエーションとして見ていいのではないかと考える。「死者との断絶、もしくは死霊の抑圧」を元には考えにくい。

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2014/04/26

43.「柴折りと死の伝承」

 「柴折りと死の伝承」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 「墓制が確立する以前」の埋葬方法は何だったのかという問題意識。そこで、「石積み、もしくは柴おきの習俗」への着目。

 「柴をおく場所が山奥や峠であること。そこには行路死をはじめとして、少なくとも異常な死方をした者の伝説がつきまとっていること」。

 「柴折りと行路死者の伝承の生じる理由は何か」という前振りが置かれている。これまでの説は、旅の安全祈願や霊域の標識、そして非業のな死に方をした者の葬法のひとつ、というもの。酒井は次節で、もう少し何かを見ようとしている。

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2014/04/25

42.「死と霊境」

 「死と霊境」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 ここは要点のみを押えておく。

 死者と生者との境は、村と村の境はもちろん、川や部落内の岐れ路、極端には雨だれの内と外(「後生は雨だれの外」という諺(知念)-引用者注)にさえも現世と他界の境を意識していた。たかが地先の島だとはいえ、アオの島は越えがたい遠さにある(p.315)。

 酒井は、地理的な距離は近くても、心的な距離は断絶を持つもので、他界は遠くにあることを主張している。

 依然として、ぼくの考えは、農耕社会以後はその通りであるということになる。「アオの島」にしても、漁撈・採取の段階と農耕が主となって以降とでは、島人の見方が変わったはずである。

 死が近しいものだったというより、死が連続的であった観念を残しているということではないだろうか。

 アヲヌ・トゥサン(距離が遠い)、アヲヌ、チキャサ(距離が近い)、アダアヲヌアッカナ(まだ距離があるではないか)と、アヲについて、間を意味する言葉も引いて、やはり距離感を強調している。ぼくには、「アヲ」が時間的な距離を指すこともあるのが興味深い。他界が時間としてのみ考えられていた言葉の名残りを見る思いがするからだ。

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2014/04/24

41.「死者をおく島」

 「死者をおく島」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 例として挙げられているのは、大島南西部、焼内湾の枝手久島(イザトバナレ)。大島北端のニャデ。今帰仁湧川のヤガンナ島。勝連浜比嘉のクバ島。

 「後生とは仏教用語を借りたもの」(p.308)。

 沖縄諸島では、あの世を後生と呼んでいるが、それを事の外近い処のやうに考へて居るさうである。眼にこそ見えないが招けば必ず来り、又は自ら進んでも人に近づくことが有るとすると、月や季節の替り目のみに、日を定めて行はるゝことよりは、なほ近い処を想像しなければならなかった」(柳田國男「先祖の話」)。

 柳田のこの考えが軸になって、「死の世界を身近な所、親しいもの」と先学の人たちは理解してきた、と酒井は指摘している。そして、「死をどのような美しい言葉で飾り、またどのようなやわらかな感情で包んでみても、結局、死は腐敗であり恐怖であり、それ以外の何ものでもない」として、「死者への愛情の深さ」などで装飾されることに異議を唱えている。

 酒井のアプローチとは異なるが、死者への愛情というより、生死が連続的なものだった漁撈採集段階、アフリカ的段階の思考法が強く残存しているということではないだろうか。そこでは他界はないといっても、いたるところにあるといっても同じである。

 「死者をおく島」は、洞窟の次にくる段階とばくぜんと想定したが、この節を読み、洞窟バリエーションのひとつでありうると思いなおした。

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2014/04/23

40.「他界の色」

 「他界の色」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 沖縄の周辺に散在するアォ、ワォと呼ぶ島が、すべて葬地だとは断定できないが、少なくともその多くが、海を越えた場所、もしくは共同社会の圏外に設置されたということである。おそらくそこには、死に対する基本的な考え方、または他界に対する伝統的な観念が働いていたためではないだろうか(p.303)。

 この節では、「青」が死の世界の色であるという仲松弥秀や谷川健一の説が採られ、常見純一が国頭を調査して、「赤」を死、「青」を生と位置づけた説(「青い生と赤い死」)は簡単に退けられている。しかし、ことはそう単純ではないと思える。常見の説には説得力があるからだ。

 言語学の崎山理は、「日本語の混合的特徴―オーストロネシア祖語から古代日本語へ音法則と意味変化―」(2012)のなかで、「白、黒、赤、青」は最初は色彩名ではなかったと書いている。

・「光」 > シラ「白」 / シロ「白」/
・「闇」 > クラ「暗」 / クロ「黒」 / クレ「暮」
・「昇り」> アカ「赤,明」 / ― /アケ「朱、開、明」
・「中空」> アワ(アハ)「淡」/ アヲ「青」

 これで見ると、白と黒は色彩ではなく明度を指している。「青」の元になる「中空」も同様だ。

 「青は本来、白と黒の中間を示し、時には白、黒もさす(『日国辞』)」
 「『源氏物語』もすべて「淡い」を意味する」
 「近江の語源とされるアハ-うみ「淡海,相海」『万葉集』、アフ-み「阿布彌、阿甫彌、阿符美」『日本書紀』の歴史的仮名遣いにはワ行音との混乱があり、アワ - うみが本来の語源であると考えられる。平均40 mしかない琵琶湖の湖面は中空の色を反射して鏡のように刻々と変化する。古代人はそれを熟知していたと思われる」

 地名も初期の語法を残すとすれば、奥武島などのオーが、本来は「淡い」という意味で、「中空の色を反射して鏡のように刻々と変化する」島近くの海面のさまを頼りに名づけられたものだと解することができる。

 与論では、赤崎、寺崎、黒花が、この色彩、明度をめぐる色名で表されている。寺崎の「寺」は「白」だ。黒花の「花」は突端を意味し、喜屋武では無鼻崎と「鼻」の字が当てられている。

 「青」は本当に死の色だろうか。与論でも、イシャトゥを避けるための呪言に「アーミャー(赤猫)」(「無学日記」)があるが、この言葉では、「赤」は死に近い意味で使われている。一方、島の東南端の「赤崎」は、「昇り」という意味にとても適った地名だ。


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2014/04/22

39.「豊饒と死」

 「豊饒と死」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 ニライ・カナイという聖地は、豊饒と幸運をもたらす来訪神のいます場所だというのが現在の私の考えであるが、それでは、その来訪神というのは、死者の延長上にある先祖のことであろうか、またはそれ以外の何かであろうか(p.292)。

 死者の延長上の先祖とは直接的につながらないが、始祖として、あるいは祖霊として表象されるのではないだろうか。

 「海なん死(もい)しゃる人や竜宮なんど御座(いえ)る」(野口才蔵・与論島)。「ニライ・カナイという海上の聖地は、死者の魂の最終的に留まる場所というように見える」。他界と認識された場所に霊魂は集まり、そこが他界の入口であれば、そこから来訪神も出現する。

 (前略)琉球では死者の魂の赴くべき方向というのは、古くは存在しなかったのではないかとも考えられる。それは死霊への恐怖、墓制や位牌祭祀を拒否しつづけてきたことと考え合わせると、明確な後生感は必要としなかったのかもしれない(p.296)。

 これは大胆でラディカルな見解だ。これは、漁撈採取の段階では、空間としての他界は存在しなかったことだけではなく、他界が存在しなかった時間まで遡及できるかもしれないことを示唆している。

 弥生遺跡・木綿原の十二体の人骨は、方位はまちまちで「特性はまったくない」。「シャコ貝を人骨の上においた痕跡があり、これが海上他界を意味するとも考えられるが、私はむしろこれを死霊の鎮圧と考えた」(p.296)。

 トーテムや魔除けの可能性はないだろうか。

 酒井は、「死者の魂が浄化されて祖霊化し、それが来訪神となって豊饒をもたらすために部落に訪れる」(p.297)という考え方は間違いであると指摘している。これは同感だが、

 私の考えからすれば、死者の魂は肉体の中に再生することはあり得ても、その住み家を、海上や山頂など肉体の外の特定の場所に設定することはないだろうということである(p.297)。

 これは初期の段階でのことであり、時代がくだればそう設定されたのだと思う。

 

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2014/04/21

38.「霊魂と他界」

 第三章、「霊魂と他界」。第一節、「方位と原郷」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 酒井の論も本格化していく。ぼくが取っ組みあいたいことも同じことだ。

 豊饒をもたらす原郷と信じられているニライ・カナイは、どの方向か。

 伊波普猷。最初は北方だったが、三山統一後、東に変わった、とした。
 柳田國男。「それはただ新しい名の入用は以前からなかったまでで、ニルヤはそう簡単に北から東へ更え得られるような信仰ではなかった」(「海神宮考」)で、東方浄土観の確立を試みた。
 谷川健一。伊波と同様。

 酒井。「東方に対する聖地観念は、本来は常民自身のものであったはずである」(p.286)。


 折口信夫。洞穴に死者を放ったり水葬したりする二つの形が融合して「洞穴を彼岸へ到る海底の墜道の入り口という言ふ風に考へ出したものと思ふ」(「国文学の発生」)として、「最終的に死者の魂の赴くところは暗い洞窟の奥ではなく、二ライ、すなはち海上のはるかな場所に死の場所を想定された」(p.287)。

 柳田國男。「黄なる泉の流れるといふ土の底まで入っていく場合など有り得なかった」、「ニライ・カナイは「根本一つの言葉であり、信仰である」(根の国の話」)。

 両氏の考えにずれはあるが、最終的には地下でないことは一致している。

 谷川健一。死者の赴く場所がニッジャ、ニズラという地下世界という考えに立ち、冥府は地底を通って海に通じる。だから「太陽が東の洞窟から出て西の洞窟に沈み、地の底を通り、ふたたび東の洞窟に出るという円環を模したものである」(「常世論」)

 これらは宮古島の地下他界説に関連したもの。
 古い歌謡や神歌などいあらわれた根の国は、地下ではない。「河良原のフサ」は、「降りる」という表現からは地下ではなく天が示唆される。

 「それにもかかわらず宮古島ではとくにネーラが地下の洞窟でなければならないのは、これはたぶん洞窟葬の影響ではなかったかと私は思う」。

 アカマタ・クロマタ。山の奥、もしくは洞窟から出現。しかし、これは「後世になってからの変化という感がする」(p.288)。

 来訪神マヤノカミ(マユンガナシ)、(八重山川平)。マヤノカミは神そのものでjはなく、ニライ・カナイの神、ニランタウフヤンの「身代わり」。ニランタウフヤンは部落の滞在神。

 「おそらく々八重山地方の来訪神アカマタ・クロマタも、山の奥や洞窟は農作物の種播かれて収穫するまでの期間の仮の場所で、ほんとうは二ライを拠点として、そこから来訪する神であったに違いない」。

 それでなければアカマタ・クロマタをニロ神(ニライ神)と呼ぶ理由がない。これは沖縄国頭のシヌグ祭りに神が山からおりてきて、最後は海に送る行事で結ばれることも同じ原理であろう。宮古島でいうねーらという世界が「根
」の信仰に由来したもので、元の形は海上にあったとした柳田説に私が共感する根底がここにある。

 宮古島。二ライという言葉は影が薄いが、海上信仰はある。竜宮である。竜宮というと、海の底という感じがするが、これは沖縄本島でいうところの二ライ。宮古島でも海上聖地の考えは濃厚。竜宮が海上聖地であったとすれば、同時に太陽の出る方向を志向する。したがって、谷川が宮古に東方観念が存在しないというのは、実情と合わない。

 「いわゆる原郷観念というものは、地下世界ではなく、海上の、しかも東(あが)りの方であったことを示していると思う](p.289)。

 常民たちの生活の中には、日没と同時に横行する悪霊(ムン)への恐怖があり、これは太陽をまち望む心につながる。また内地にはみられぬほどの強烈な火の神信仰の存在は、これも太陽信仰の強さと関係があろう。つまり「王権の思想」以前に、太陽を軸とする信仰があって、これによって東方浄土観は支えられていたのではなかっただろうか(p.291)。
 こうして琉球列島における方位感の中で、原郷観念の問題を整理してみると、部落の位置で若干の相違はあっても、全体としては、東方海上への志向が濃厚で、部分的には南方への関心も見逃せない。川平のマユンガナシを祀る家が南風野(はえの)家であり、久米島最高の神女が君南風(ちんべえ)であることにも意味がある。私はさきに東方をもって人間未来の生活への憧れの地、南方を豊かであった過去過去の世界といったが、あるいは農耕社会の方位感は太陽を軸とする東方、海の平穏を期待する漁撈社会では南方の方位感が濃厚だという考えも捨てきらないでいる(p.292)。

 王権によって島人の信仰が容易く変わるわけではなく、かつ島人の信仰こそが重要であるとする酒井の視点にはとても共感する。

 琉球弧の島々に他界観念の方向がさまざまに存在するのは、それだけ時代ことに違う信仰を持った人の渡来があったということ、もともといた島人も漁撈社会から農耕社会への生産様式の変化によって共同幻想への関わりが変われば、信仰を変えることもあったこと、そしてアジア的社会の特質よろしく島人に根本的な改宗を迫ることは無かったことなどが混在の理由をなしていると思える。

 ここまでのところで、ぼくの考えをメモしておくと、最初の他界観念は洞窟だった。そこには光と闇の認識がある。光をもたらすものが太陽であってみれば、その段階で東方に対する信仰があっても不思議ではない。また、酒井が言うように、やってきたる原郷として南方を志向するのとも矛盾しないと思える。違う軸を持ち込んだのは、農耕をもたらした人々であり、彼らに東方への志向が強く、海上の島の他界観念はここで強化、定着されたのではないだろうか。

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2014/04/20

37.「垂直他界」

 「垂直他界」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。


1.天上他界

 「死者の魂が天に帰っていくという思想のはっきりしているのは、最終年忌の祈願の内容である(p.277)」。

・「天に昇りんしょうれ」(宇検村)
・三十三年忌をすぎると神になって山に登る。椎の木の方枝だけ残して墓地に立てる。「山をたてて差し上げますので、山へ行って下さい」(ヤマタテ)。奄美南部
・三メートルくらい、椎の木を立てる。この木から天に昇る(加計呂麻島須子茂)

 内地の「梢(うれ)つき塔婆」と変わらない。「奄美のこの例は、いわゆる梢(うれ)つき塔婆の延長にあるような気がする(p.278)。

・墓前で盛んに火を焚き、その煙にのって天に昇る(喜界島)。
・「暫(あま)く人間(みんぎぬ)や仮ぬ宿、後生ぬ天宮(あまみや)や皆があしゃぎ」(野口才蔵、与論島)。天に通じる道しるべにはガジュマルの木が重要な役割を果たす。
・三十三年忌に竹をたてる(与那)。
・三十三年忌、「今日からは天の星となって子孫をお守りください」(多良間島)
・紙製の塔婆をつくり、それを焼く。「天に昇って神になる」(八重山)。

 最終年忌に死者が昇天するために用いられるものが、琉球北部では椎の木が目立ち、ガジュマル、榊(さかき)・柴などがそれに続く。沖縄では天に昇る手段として竹が使われ、八重山では紙塔婆となる(p.281)。

 天の言い方だけをみると、輪廻転生はここで打ち切られるようにも見える。


2.地下他界

・岩屋の洞窟を通って、その奥に後生があると信じられていた。病気が重くなると、魂がこの岩屋に走ったといって馬を引いて魂を迎えに行った。「後生が道」(笠利土濱、p.282)。
・洞窟をもって来世に通じるとみた例は宮古島に多い。
・アカマタ、クロマタ。古い方の面形はナビンドウという洞窟の最奥の地下数丁ほど下りていって、浪音の聞こえる暗闇の裡に捨てる(小浜島プーリ、p.283)。

 琉球列島では地下他界を考えようとすれば、それは土の下という感覚ではなく、むしろ洞窟の奥、木立の茂った場所というように、葬地の形態をそのまま他界観念の中に反映させている。つまり、他界観は葬法を前提として一つの型が出来あがっていくということであろう(p.283)。

 ぼくは地下他界というより、洞窟他界と言う方がしっくりくる。「葬地の形態をそのまま他界観念の中に反映させている」というより、洞窟や「木立の茂った場所」の闇に他界を見たのである。


 東西南北に対して、天上と洞窟(地下)は、他界の新旧を示すように見える。洞窟は最初の他界であり、天上は最新の他界である。最新の他界には、霊魂の転生という概念が無くなっているとすれば、仏教とともに、あるいはそれ以降に受容されたものだ。ここでの、地下他界の事例はとても重要だと思う。


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2014/04/19

36.「平行他界」

 第二章、「方位にみる他界観念」。「はじめに」と「平行他界」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

1.東方他界

・国王、聞得大君による「東御巡(あがりうあみ)り」。本島東南部の海に面した玉城は琉球発祥の神話を持ち、その沖の久高島は五穀発祥の伝承の地。
・与論シヌグの麦屋地区でもシヌグの最後の神送りには赤崎御願の下方で東方に向けて送る。「大東、大口」からアマミキヨが東方海上から来訪されると信じられていた。
・祝女の葬式のとき、東方への意識は鮮明に見られる。
・病人、産育のときも東方重視。

・死者は北枕、埋葬の時は頭は東(与路島)
・死者は西枕、僧侶がくると東向き(糸満)
・死者は南向き、僧侶の読経のとき東向き(宮古島砂川)

 「琉球の他界観念は、その特色としては東方浄土が強く意識されているという点は見逃すことはできない。ただ死者が浄められた状態で東方の豊穣の地に赴くという考えは、あるいは祖霊信仰の高まり、それは東方海上の二ライ信仰を背景にした死者への温かい配慮から、後世になってしだいい形作られてきたという考えも捨てきれない」(p.266)。


2.西方他界

 「事例からする限り、西方を死者の赴く場所と考える例が圧倒的に多い」。

・西枕の風習は内地はもちろん、琉球列島の南北のほとんどの島でこの風習がみられる。
・西方浄土は、仏教の教理を背景にしたものかもしれない。ただし、それ以前からあったとする説もある。


3.南方他界

 南に対する憧れ、一種の禁忌感の織り混ざったもの。日常生活や年中儀礼の行事のなかに頻繁に現れる。

・「真南風為すメガガマ」(宮古島神歌)。神をまつ心と恋人をまつ心の両方にかけた歌。
・「奥山の山のびど山の猪のまあ中」と南に向かって弓を射る(与論島シヌグ)。
・パイヌスマに向かって行う虫払い(宮古島狩俣)

・生きている人は東枕。死人は南枕(加計呂麻島嘉入)。
・枕は南向き、墓も南向き(徳之島徳和瀬)。
・死者は南枕。埋葬は西向きが多い(与論島)。
・死者は南枕(八重山川平)。

もし東方に対する浄土観の起因が太陽のアガリにあるとすれば、南へのそれは、民族の北上といかないまでも、やわらかな季節の訪れに伴う豊饒への期待がみられる(p.273)。


4.北方他界

 琉球列島では北の方をなぜニシというのか。

・アマミキヨの南下、ついで第一尚氏。「民族の北方観念は、これを機に東方に変わった」と伊波普猷は言った。「仮に他界観念が民族の原郷観念と結びつくとすれば、伊波氏の説をとる限り、琉球の原郷は北にある」(p.274)。

・死者はまず南枕、埋葬する時は北枕(与論島)。
・大体は西、稀に北枕(久高島)。
・宮古島における他界観念は北へ北へ志向している。

 「断片的ながら全島的に分布している」。「西と北は、つねに不毛の地」。


 要するに死者の枕の向きは東西南北どちらの向きにもあるということだ。そのうえ島ごとに違うだけでなく、島の中でも違う。もちろん、これは琉球弧の島人のおおらかさというより別のことを物語る。死者の枕向きをマッピングして眺めてみれば何を示唆してくれるだろう。もっとも、酒井の事例から伺えるのは、西、東・南、北の順になりそうである。

 聞得大君と与論麦屋の東方浄土観念を並べてみると、後者の性格もよく分かる。アマミキヨ信仰を受容したということだ。与論麦屋の島人が最古の島人の子孫であるとすれば、アマミキヨ伝承はもともとではなく、ある時期に信仰化したのだ。

 南北については、島人の出身に対する信仰。東西はアマミキヨ信仰と仏教信仰としてみると、いずれかの信仰の強度によって向きが決まっていると大ざっぱには言えるのではないか。もちろん、酒井が指摘するように西は、仏教の影響ばかりとは考えにくく、正確さを期すには繊細に見ていく必要がある。


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2014/04/18

35.「舟葬とニライ信仰」

 「舟葬とニライ信仰」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 棺を作るのには各島ともとても苦労した。「本来は死者は大気に曝して骨化を促進する形式をとっていた琉球列島において、棺の使用が困難で、かつ不自然でもあったということを右の事例は教えている。少なくとも常民の社会では棺の使用は後世的なものであった。そうだとするとフネが船であり、船が柩でもあるという理由だけのために、舟葬、もしくはこれが直ちに海上他界と結びつくということは、琉球葬制お歴史からすれば考えられないというのが、現在の私の考えである(p.255)」。

 そこで、舟葬は退けられている。

 いくつかの島で、死んだらどどの行くのかと老人に聞いてみた。
 「グソ(後生)に行く」
 「グソはどこですか?」
 少しばかり考えてから、墓地の方を指さす。

 「確かに常民たちはグソに行くといっても、二ライに行くとはいわない」(p.256)。

 死後、二ライに赴いたという伝承はある。
 
・根間の七歳の子が継母の悪だくみで底知れぬ洞穴に落され、そこからさらに奥にある「ニィラ」の国に行き、そこで神に助けられて現世に戻り、やがて世のためにつくして「根入りや下りあらふむ真王」として今の住屋御獄に祀られた(宮古島の神話)

 「ここではニライは海上というよりも洞穴の奥の、その果てにある世界と考えられている」(p.257)。

 「死後、死者の魂がニライの海上にその浄土を求めて去っていくという信仰は、(中略)英雄か、祝女などはやや例外としてあり得たようだ(p.257)。

 「常民たちの葬式でも、東方聖地に魂が去っていく話」はある(p.258)。

 酒井の事例を頼りに自分のここまででの自分の仮説を対置させておきたい。もともと他界が時間性としてしか疎外されなかった段階では他界はどこにもないし、どこでもあると言ってもいい。それは墓地を指さした老人の感覚だ。ついで、最初に他界となった空間は洞窟の向こうである。宮古島の神話が語るように、二ライという言葉も、もともとは洞窟の奥を指していたかもしれない。後になって、海上他界の信仰が入ってくる。これは島人にはあまり受容されず、英雄や祝女の他界観念として存在した。天上他界もどこかのタイミングで入っている。

 

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2014/04/17

34.「海からくる祖霊」

 「海からくる祖霊」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 死者の霊を海から迎える信仰。

 海に原郷を求めようとした考えは、特定の神事に限らず、日常生活の中にも影を落としている。その典型的なものは、はじめにふれた入墨の紋様である。琉球の女性たちが、痛さをこらえて突針した紋様の中に、アマンと呼ばれる特定の形式があり、琉球列島は北から南までのほとんどの島で、この小さな紋様が手の甲の一角にその位置を占めている。ご存知のように、入墨の紋様は島ごと、また人ごとに違う。しかし琉球列島の南北の各島で完全に一致しているのは、左手の手首に必ず丸味の紋様を一つだけいれて、これをアマン、アマングヮなどと呼んでいることである。小原一夫氏の『南嶋入墨考』によればアマンとは島々ではヤドカリの意味で、ヤドカリから人びとは生まれたので、その祖先のしるしだという。野口才蔵氏によると、与論島では祖先はアマンからなったものだから、死後はその根源に帰るという意味でアマンの入墨をするのだという(『奄美郷土研究会会報』二三)。私がみた宮古の多良間嶋の土地メガさんのアマンの左手首であるが、メガさんはアマンとは蟹のことであるらしいという。アマンがヤドカリにせよ蟹にせよ、女性がこの紋様に執着したのは、アマンというその名が暗示するように、海上信仰のアマにつながっていたのではないかということである(p.249)。

 アマムは琉球弧のトーテム動物であり、これを海上信仰と結びつけるのは言葉の罠ではないだろうか。お馴染みのアマ・マジックである。

 アマムが広く琉球弧で共通しているとすると、崎山理の言うように1800年前、第三次のオーストロネシア語族の北上とともにこの言葉がやってきたとすれば、アマムをトーテム原理とする人びとが渡来した可能性はないだろうか。


 本書に戻る。

1.大和から琉球にかけて柩をフネと呼ぶのは、あるいは死者を海上に送ろうという名残りを示しているのかもしれない(p.250)。

2.トカラ列島などでは死者の霊は海を越えて特定の島に行くという信仰があり、宮古島などでもやはり同様な伝承がある。これとともに、最終年忌に死者は海に出るという徳之島や、改葬後の雑骨を竜宮に送る加計呂麻島の事例は注目される。死の直後のモノオイもまた海に向かって行われる。(cf.「海に去る死者」

3.死者の魂の赴く場所が海であったという一般的な考えの裏づけとして、祖霊の来訪が海上からとする信仰が注目される。奄美のコスガナシ、沖永良部のウミリ祭り、徳之島のハマオリ、沖縄の海神祭、シヌグなど、年中行事の大きな折目に、神々は足を潮でぬらしながら常に海から訪れる。

・シバサシのコスガナシ迎え。この日に門口で藁火を焚く。竜宮から濡れてきたコスガナシの足を暖めるため(大島瀬戸内)。

・与論のピッチャイプドゥンの伝承も挙げられている。(cf.「ピッチャイプドゥン」

4.人間が果報を求めるような時も、多くの民間信仰の中にも、海上聖地が濃厚に意識されている(p.251)。

 これらが海上信仰の要約。

 

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2014/04/16

33.「海に去る死者」

 「海に去る死者」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 琉球列島ではニライ・カナイという海上信仰が古くからあった。これは琉球の常民社会では大きな位置を占めている一種の聖地信仰である。私が本章で考えてみたいのは、この海上信仰と祖霊信仰との関わりである。これをさらに具体的にいうと、一望千里に広がニライ・カナイという海上の聖地をもって死者の魂の原郷とみるか、またはまったく異質の世界として捉えるかということである(p.240)。

 自分の実感を言ってみれば、与論ではニライ・カナイという言葉はほとんど聞かない。海上信仰は濃厚にあるものの、それをニライ・カナイという言葉で表現することは少ないように見える。他の言葉があるわけでもない。ニライ・カナイという言葉に対しては距離感がある。むしろ、首をはねられたアージ・ニッチェーの妹、インジュルキが、「ニリャバイシリ、ハネーラバイシリ」と叫んだ、ニライ・カナイを指す呪言の印象の方が強い。与論感覚からすれば、ニライ・カナイという言葉はひとり歩きしていないように見える。

 ただ、ニライ・カナイはそれがどこを指すかは置くとしても、海上他界の信仰の地であるとともに、来訪神の出現地であるとは言えると思う。

 酒井はここで、折口信夫と柳田國男の言葉を引いている。重要な個所だと思うので、煩をいとわず引用してみる。

 にらいかないは元、村の人々の死後に霊の生きてゐる海のあなたの島である。そこへは、海岸の地の底から通ふ事が出来ると考へる事もある。「死の島」には、恐しいけれど、自分たちの村の生活に好意を期待することの出来る人々が居る。かうした考へが醇化して来るに連れて、さうした島から年の中に時を定めて、村や家の祝福と教訓との為に渡つて来るものと考へる事になる。(折口信夫「古代生活の研究」)
 二ライは此方の根国又常世の如く、かつては死者の行く処として望み又慕われて居た時代があったろうかということを考えて見る。南方では死者の世界を、あの世又はグショ(後生)と呼ぶらしいが、その後生の観念が島毎に又は家毎に、甚だしく区々になって居て、是からの現地調査に、まだ多くの収穫を約束するかと思われる(柳田國男「海神宮考」)

 酒井は、折口と、断定を避けた柳田を比較して、「重要な問題の結論を後世の人に委ねようとする柳田氏の慎重さと、一つずつけじめをつけておこうとする折口氏の几帳面さの相違でもあろうか」と指摘している。酒井の指摘は優しいものだが、ここには山上他界を追求した柳田と海の彼方の常世に目を凝らした折口の差を見ることもできるだろう。

 二人の後世に蓄積された事例をもとに、酒井は琉球列島で柩をフネと呼ぶことに着目して、「海上を死者の世界とした痕跡がこの名称のなかにこめられている」と指摘している(p.244)。

 酒井はいつものように豊富な事例を挙げるが、ここにはいくつかだけ。

・改葬が終わると雑骨を船につんで海に出る。沖あいに出たところで「竜宮に帰って下さい」といってその雑骨を海に投げる。ただし、頭骨は捨てないで残す(加計呂麻島)。
・死の直後、灯の神(竈)をもって浜に捨て、いっしょに持参してきたサンを海に流して祈る(与那城)。

 どの事例も、目に浮かぶように身近な気がする。

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2014/04/15

32.「はじめに(海上他界)」

 第三部、「琉球列島の他界観念」。第一章、「海上他界」。第一節、「はじめに」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 「かつて琉球の女性たちは、後生に行けないから、という理由のために、手の甲に入墨をした(p.239)」。

 島に針師がいないからと、「転んでも、まだベソをかくあどけない少女が、「後生に行けないから」という理由のために、痛みをこらえて、必死に自分で突針をする光景を想像すると、琉球の婦人たちが、これほどまでに執着した後生とはいったい何だったのかを、改めて考え直さざるをえないような気がする(p.239)。

 アマムならアマムを描いた時、それはトーテムだった。同時に、身体は霊魂の衣裳と見なされた。やがて、そのトーテム原理が崩れ、時が経つと、おしゃれや好奇心に動機が変わっていく。そう捉えてきたが、後生の切符と捉えられてきた段階のあることが分かる。これも動機として古いが、「後生に行けないから」というだけが全ての理由ではなかったことは押えておきたい。

 (前略)その原郷土への復帰を知ることは、民族の移動の歴史を知る手がかりになる、とまではいかないまでも、他界観念が社会集団の共同意識としてある限り、文化の類型の特色としてtこれをあるていど捉えることはできると思う。とくに琉球の女性たちが必死に追い求めた後生感は、どのような形で存在したか、もしくは存在しなかったのか、ここでは死者の魂の帰属をめぐって、その性格を検討してみる(p.240)。

 この問題意識は、「もしくは存在しなかったのか」ことを含めて、ぼくたちのそれにぴたりと重なる。展開が楽しみだ。

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2014/04/14

31.「マブイ別しと死の完了」

 「マブイ別しと死の完了」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 守護霊としてのマブイの除去、つまり脱霊によって、死者は自分の死を認めるのがマブイ別し(p.224)。

 マブイ別しはモノ追いと似ているために混同しやすいが、これはまったく異質のもの(p.229)。

ユタは人間の霊魂の部分だけを司る女性で、男性は稀である。通常、彼女たちは死者に手をふれることはもちろん、死者を見ることすらしない。墓地に立ち入ることもない。僧侶たちが死者のために果たした役割からみると、ユタは死者の魂だけを中継ぎする、きわめて限定された職能をもつ女性たちである。そのユタは死の直後のモノ追いにはほとんど参加しない。モノ追いは、葬儀に参加した親族の中の男性によって行われるのは事例によって示したとおりである。ところがマブイ別しの方の主役はユタであり、宮古島ではカンカカリヤーという神職の女性がやる場合もある(P.230)。

 マブイ別しの時期。野辺送りから百日(大体は三日から四十九日)。

 死後五十日前後が、いちばん妥当な気がする。それは死者の腐敗完了、もしくは骨化の完了した時期(p.231)。

 内地においては、四十九日の中陰の行事をもって忌明けと呼ぶ言葉に馴れてきた。これまでの部落内での厳しい忌の生活から解放されるのが中陰の行事であるが、琉球列島のそれは少しばかり意味あいが違う。ここではむしろ内地の三十三年忌にみられる最終的な弔いあげが四十九日に集中する。死者が先祖になる日、死者が自分の死を認める日、つまり死と生の境界をこの四十九日に設定しており、それ以後の供養はもう行わない(p.233)。
 四十九日というのは仏教の影響が無視できないが、それだけではない。「忌が晴れる」ということではなく、死穢からの解放というのが根底にあり、「忌の観念はきわめて稀薄」(p.233)。
 葬送儀礼の中でいつをもって最終の供養とするかは、じっさいはかなり早い時期の、死者の骨化前後の時期ではなかったかと思う。危篤の病人のアビケェン(呼び返し)にはじまり、モノ追いを経てマブイ別しに至る行事は複雑にみえても、短かい期間に、うまく納得できるような形で調整されているのが琉球に限らず、日本古代の葬制ではなかっただろうか。すなわち人間には肉体の死があり、次いで死をもたらした悪霊(ムン)の排除を行う。そして最後には守護霊としてのマブイとの訣別がある。これで死は完成する(p.236)。

 とても説得力がある。土葬後の洗骨改葬は、遅延された五十日祭なのかもしれない。マブイ別しで「さっぱりした気持ちになる」という加計呂麻島の事例にある声は、洗骨改葬の時のそれと一緒である。


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2014/04/13

30.「モノ追いにみる死霊」

 「モノ追いにみる死霊」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 死の完成の手続きとしてのムン(モノ)排除。ムンは悪霊。大和口のモノ。内地では形骸化して、モノおじする、モノノケなどの古典的な表現のなかに、「辛うじてその余韻を残している(p.213)」。

 折口信夫は、「ものとは魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には鬼の字をものといふ語にあてゝ居る。物部氏は天子様の御神体に此倭を治める魂を附着せしむる行事をした」(「大嘗祭の本義」)として、もともとは霊魂そのものの意であったとしている。

すぢの守護から力を生じるとして、すぢを言はぬ世には、まぶり(守り)を以て魂を現した。体外の魂、正邪に係らずものと言ふ様になった。(「若水の話」)

 これに対して酒井は異を唱える。

 マブイは(中略)人間が正常であるために欠かせない一種の守護霊であり、ムン・モノは、これをどのように好意的に解釈しても、守護霊に通じる性質のものは見当たらない。(中略)。この両者はおそらくはじめから混合しえない明暗二つの霊魂で、その中で、ムンは、常に人生の暗黒の部分を支配している(p.214)。

 と、琉球弧の見聞から書いている。

 人間が、動物や植物などの他の自然と人間を区別していなかった頃は、霊魂の呼び名は同一だったと思う。それがムンであったかどうかは分からないにしても。人間が他の自然物と自分を区別して呼び名の違いと正邪の違いが起きた。マブイは「守り」を含意するとともに、人間と他の自然物との区別の標識になっているのではないだろうか。そういう意味では、折口のムン理解は射程を持っていると思える。


ムン払いの事例 

 葬送をすませると、親族は息を引き取った部屋で車座に座る。成人三人が円座の周りを七回廻り、外にかけだす。もう一人の男が「マブイはどこだ」と叫び、石を投げながら三人を追いかける。三人は「ここだ」と答えながら追いかけられ、海岸まで行って終える。四人の男は部屋に戻ると、円座を五回廻り、生前死者の使用したものなどを持って海に捨てに行く。これが終了してから親族も海岸に下りて足で波を蹴る。いわゆるシュケリ(昭和初期、糸満)。

 死の直接の原因と信じられている死霊の排除。「その排除の仕方が、いかにも琉球的である。ムンを得体の知れない悪霊として捉えるのではなく、これを擬人化して、往々にして目に見える霊魂として具象化している場合さえある(p.219)」

 酒井が「琉球的」というところを、ぼくたちは人類の初期に見られる自然の擬人化として普遍的と言いたいわけだ。

 酒井はまた、糸満の例のように、悪霊役がいるのが原初的ではないかとしているが、同感だ。

 モノはどこまで追っていくか。墓地、海辺、四辻、その他部落外。生活圏の外。

 それほどまでして生活圏から離れて遠くへ死霊を追い出そうとする背景には、モノに対する畏怖感がその根底になければならない。(p.222)
 すさまじい形相をしてホーハイ、ホ-ハイと叫びながら松明をかかげて走り廻る光景は、土地の人がみていても恐ろしいという(p.222)。

 酒井の島人の素朴な感情を重視した酒井の考察に、恐怖の共同性としての共同幻想の関与を指摘しなければいけない。モノ追いが追い出されるのは、空間的に疎外された他界の場所までだ。そしてそれを司っているのは、島の共同幻想である。だから、追いだす範囲は空間的な他界の場所を示唆しているはずである。

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2014/04/12

29.「葬宴と死の確認」

 「葬宴と死の確認」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 ナァチャミ(ヌゥチャミ)。死後三日目に墓地に行って故人の名を呼んだり、知人一同が慰安の時を過ごす。「慰み」か。

 これは、死者への追慕を示す行事と考えられているが、それだけではない。本来の意味は別のところにある。として、酒井がたくさんの事例を挙げて言うのは、死の確認ということだ。

 恐らくわが常民の社会では、この絶命を確かめる第二の手段として、三日めの行事に大きな役割を託したのではないかというのが、現在の私の考えである。それではなぜ三日めなのか、それはたぶん三日めあたりから、死者の腐敗が目にみえてはっきりするからであろう。つまり肉体の完全な終焉を、腐敗という形で認め、それを自分の目で確かめることができるからで、その猶予の期間が三日であったと私はみる(p.207)。

 「内地では不思議にこの三日めの行事が少ない」。「仏教の影響の薄いとみられる琉球列島における三日の、もしくは七日めの風習は、やや特殊であるとともに、この行事はかなりの古い伝統的なものであったようだ」(p.206)。

 そして死の確認というだけではなく、「最後の供養と思われる意図が、かなり濃厚にみられる(p.211)」。

 「慰み」にみられるように、死者は埋葬するのではなくて、屋外の地上におかれ、いわゆる喪屋生活の中で腐敗が確かめられる機会があるので、そこで死を確認するという意図は十分に果たすことができた。むしろこの方が、現在のように屋内に死者をおいて、翌日野辺送りをするという方法よりも、いっそう風土にあった確かな仕方であったと私は考える(p.213)。

 三日めという終わり。

 

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2014/04/11

28.「脱霊と死」

 第三章、「脱霊と死」。第一節、「死の名称と絶命」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 死の名称。

名詞
・モール(奄美大島、徳之島、沖永良部島)
・モイ(与論島)

動詞
・モルシュン、モーシュン、モイシュン
・マリシャンドウ(喜界島)
・マーイサン(久米島)
・マースン(喜屋武)
・マル(八重山)

 マル。日本古語では「転ぶ」の意。死の状況を転ぶという意味の忌言葉で表現したのではないか。マルは「生まれる」という表現にもつながる。死から生への還元を意味する信仰がマルという言葉の中にこめられていたと思う(p.197)。

 マルには、生と死の意味が二重化されている。輪廻転生。

 死の認定の仕方。

前兆
・野鳥が屋内に迷い込んだとき、犬の遠吠え、烏の啼き方、棺桶を作る物音。人魂(ちゆたま)という火の玉の流れ、サキマブリの現象。

絶命を確かめる方法
・脈拍の停止。
・鼻の下、膝小僧、小指の爪のつけ根などに灸をすえてその反応をみる。
・水や塩水をふくんで危篤の病人に吹きかけてみる方法。
・病人の口に粥をいれて、喉を通らなかったら絶命。
・病人の名を呼んで「呼び起こす」のはその後の作法。

後生戻り(生き返り)の実話はたくさんある。


 死の認定が難しかったのは、今も昔も変わらなかった。マルという言葉の意味の二重性ははっとする。


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2014/04/10

27.「守護霊の憑依」

 「守護霊の憑依」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 マブイの他に「セー」という言葉がある。折口信夫によれば、古くはスジ、セヂと呼んだ。マブイと区別するのは難しい。「セーは魂の神聖さを示す言葉のような気もする」(p.185)。

 セヂ高いという言葉は今でも耳にする。ここでは、マブイに対する察知力のことだと解しておく。

マブイは抽象的な形ではなく、具体的な姿で映像化している。マブイが親子であるいていたとか、猫小(マヤグヮ)か豚小(フアグワ)のような形で走っていたとか、若干の恐怖を混じえてこれをみた人の話が多いのはそれを物語るものであろう。(p.185)。

 したがって、マブイはその人、動物と同じ形をしていると表象されたのだと思う。三角形というのは、マブイを象徴化した時の図形化に当たっている。

 酒井はここで丹念に、大島から八重山まで、12のマブイ憑依の例を挙げている。

そこにみられるマブイの霊質は、肉体と同じように、思考をし行動するところの、単純にしてきわめて無邪気な霊体だということであろう(p.193)。

 マブイの定着が人間の成熟の意味。

 霊魂が宗教観念や哲学の世界に凝結してしまう以前の、素朴な呪術的環境を整然として具象化のまま伝承しているのが琉球列島である(p.194)。

 言い換えれば、霊魂と身体が二重化される初期人類の状態をある程度に置いて保存してきたということだ。


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2014/04/09

26.「背守りと守護霊」

 「背守りと守護霊」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 マブイの場所と形態。

 霊魂が安定した大人の場合と違って、幼児のようにまだ不安定な人間のマブイは容易に遊離する。したがって、突発事故などのためにマブイが遊離する以前に、普段から何らかの方法でマブイを定着させる注意が必要であった。その方法の一つが大和をはじめ各地に残る「背守り」で、産着の後襟につける三角布がそれである(p.180)。

・ハビラ(蝶)袋。白米三粒と白髪三本を入れる(加計呂麻島)。
・名付け祝いのとき、初着の後襟に長寿者の白髪と白米三粒を縫いこむ。「マブイ袋を縫う」(与論島)。
・古くは魔よけとして臭いの強い植物をいれた。チャジフド(徳之島)。

 「人間の魂は後頭部から背中にかけて留まっていて、その附近から出入りすると考えていた」(p.182)。

 マブイの形は三角形。

近年この三角形をもって女性の陰部にたとえ、生産と豊穣に結びつく呪術と説く人もいるが、この説を私はとらない。それは柳田國男氏が考えるように、人間の生きる原動力となる心臓の形からの連想というのはいちばん説得力がある。ただ心臓からくる原動力というのは、呼吸をして生きていく肉体の部分の象徴で、その場所は胸部である。これに対して魂の活源はむしろ後頭部辺りにあり、その出入口が背守りの部分ということになる。しかしそのいずれにせよ、霊魂をもし形であらわすとすれば三角の形がいちばん妥当であろう(p.184)。

 しかし、「イキマブイが笑っていると、もう取り返しはできないが、うつむいているときにはまだつれ戻すことができる」と沖縄で言われるように、マブイそのものは人間の身体と同じ形をしていると認識されているのではないだろうか。だから、三角形というのは、マブイの象徴の形である。そして、マブイの象徴という時、その元になるのが「女性の陰部」というのは論外としても、「心臓」であるかどうかも疑わしい点があるのではないだろうか。初期の琉球弧人にとって、その象徴になるのが、直接的な視角に入らない心臓であるとするのは抽象度が高すぎる気がする。それよりは、加計呂麻島で「ハビラ(蝶)袋」と呼ぶように、ハビラ(蝶)にマブイの象徴を見るのであれば、ハビラの三角形なのではないだろうか。

 「以前婚礼の宴にハビラ(蛾)が三匹、三味線にあわせて調子よく舞いあがった。音曲がやむとそのハビラは畳に落ちた。そのハビラは酒好きであった亡き祖父の姿によく似ていたので、たれかが「祖父を躍らせよ」といって音曲を鳴らすと、そのハビラはまた空中で舞いはじめたという(大島瀬戸内町)」(p.184)

 この例では、ハビラを象徴としているのではなく、ハビラに祖父の姿をみるという抽象度の高い見立てが行われている。この見立てを通じて、三角形はマブイの象徴と化したのではないだろうか。

 柳田國男は、魂だけではなく、餅の紡錘形や握飯の三角形も、「心臓」をかたどるものと考えたが、吉本隆明は「山容」に求めている。

 餅の紡錘形や握飯の三角形を、柳田はひとの心臓をかたどるものとしている。その根拠とかんがえられたのは、山の神祭りのときに家族の数とおなじ数の餅を供えたり、子供がひとりずつ親に鏡餅をすえる風習によることがとてもよくわかる。だがこれは根拠がすくない気がする。機能的にいえば餅や握飯の形がそう作りやすいからということにおもえるが、それよりも山容から発生した形態の起源につながる相似形の感覚によっているように見える。(「形態論」『ハイ・イメージ論〈1〉』

 山頂の巨石や樹木が最初の信仰の場所ではなく、洞窟であった琉球弧には、「山容」も当てはまらないと思える。



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2014/04/08

25.「霊質としてのマブイ」

 「霊質としてのマブイ」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

マブイは人間の肉体の中にあって、生きている限り、その人間を守護していく霊質で、文字通り「護り」だとみられる。人格を形成するのは、したがってこのマブイであって、「お守袋」を首に下げるような、肉体の外に守護霊を設ける方法とは対照的に、琉球ではこれを肉体の中に確保する(p.173)。

・タマシィ、シィという言い方もある。
・ヤマシィは、木に宿る霊魂。
・イキマブイは正常な人間の霊魂。シニマブイは死者の霊魂。
・マブリはハベラ(蝶)の形をしていて、生きている人のマブリは黒く、死んでいる人のマブリは白い(大島南部)。
・人によってその数は違い、一つしかマブリをもたない人は、気をつけなければいけない。マブリは遊び好きで、帰るのを忘れることがある(大島南部)。
・「生きマブイと死マブイと別りよおう」と出棺時に唱える(伊計島)。
・イキマブイは、生霊として祟りのある霊魂に属する場合もある。
・サキマブリは死霊の意味。

 マブイは「もう一人の自分であり、肉体と同様に行動し知覚する霊体」。「人間、動物の区別を問わず、生きとし生けるものの、すべてを支配しているものはマブイ」(p.179)。

 「ハベラ(蝶)の形をしていて、生きている人のマブリは黒く、死んでいる人のマブリは白い」という形態や色の認識、人によって数が違うことも興味深い。「添い寝」で霊魂の転移ができるのもそういうことか。


 

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2014/04/07

24.「はじめに(「霊魂観念の諸相」)」

 第二章、「霊魂観念の諸相」。第一節、「はじめに」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 死を決定するのは肉体の死ではなく、霊魂の死である。霊魂の死というより、正しくは脱霊であろう。死という破局に直面したとき、肉体のほかにもう一つ、目に見えぬ(往々にして見えるときもある)霊魂の始末をしねかればならばならない(p.172)。

 この括弧書きがいい。「往々にして見えるときもある」。

 じつは琉球列島でもっとも興味があり、かつ参考になるのは、この霊魂観念のきわだった特性であろう。つまり、霊魂に対する考え方が具体的、かつ普遍的で、霊魂の自在性という、かなり浪漫的な様相が、死をめぐる諸習俗の中に遍在しているようにみえる。

 同感だ。この先の展開が楽しみだ。

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2014/04/06

23.「遷居葬の成立」

 「遷居葬の成立」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 ここまでの酒井の想定を描いてみる。

1.死者が出ると家を出て、「巣変え」、つまり居を変えた。家が喪屋になる。

2.家屋が巨大化し、祭場が屋内に固定化するにともなって、死者は屋外に移され、住居が果たしていた喪屋も屋外へ移される。

 この過渡期に「擬葬」(死者の置いておった座敷に着物を重ねて死人の格好に見せかける)、蚊帳や網で死者を囲う特異な形式が生れた。

また死者のための家型の厨子瓶や墓所は、死後の世界が生前同様の生活を営んでいることを意味するばかりでなく、本当は住居そのものが死者の家であったものが、死者が屋外に移されることによって、家もまた模型として死者とともに移動したものと解釈できないだろうか。

 いうなれば生きている人間の知恵と狡猾さによって、死者のもっている絶対的な権威を損なわないように、その領域をせばめながら、死者の置かれた場所と生者のそれを入れ替えていった過程が、喪屋の歴史ではなかったかと思う(p.170)。

 すると、与論のガンプタも、それか。

 中央集権制を確立するまでの間、「なぜ天皇は一代ごとに遷都する必要があったのかも考えてみる必要がある。権力の座にある者ほど、その死霊の祟りというものもまた強烈であったということがおそらくその本当の理由であろう(p.171)。

 ここは、母系制が強く残っていて、天皇が妻問いしていたという吉本隆明の理解に説得力を感じる。

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2014/04/05

22.「死者の巣変え」

 「死者の巣変え」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 一つの基本的な形式として、死者の家に対する強い畏怖感があって、そのために一時的、というより永劫にその家を放棄する例が多かったのではないかとみる。死者と添い寝、褥移しなどの習俗の起因は、死者は母屋に留まり、むしろ生者の方が褥を移し新たな生活の場を他に求めたのではないだろうか(p.165)。

 「イキチュンチュヤ・スィゲーシュン」(生きている人は巣を変える」。(死後の「マブイ別し」の時によく使う言葉。大島南部、p.165)。

 「死人を大いに忌み、死すれば家を捨つ。埋葬なし、棺を外におき、親族知己集飲す」(柳田國男、知念村の聞き書き)。

 死者に対する行為の一つ一つが強い霊魂観念に支えられている。死者の出た家の「巣を変える」考え方はその具体的な例(p.167)。

 「すなわち死者に対する素朴な感情は、尊崇や親近感というものより、もっと外の、遥かな遠い場所にある」(p.167)。

 「家を捨つ」ことは思いもしなかったので驚くが、同時に農耕民ではないことも示唆するように思える。


 

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2014/04/04

21.「褥(しとね)移しと忌屋」

 「褥(しとね)移しと忌屋」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 ここは要点だけ、つかんでおく。

 「死者の出た家はおそらく死者を家に置くか、または置かないにしても、死者の霊の存在を意識して家を離れる」。そして親戚の家か、海辺などに仮屋を作って籠った。そこには、強い死穢観があった。それが薄らぐ時代になり、家族も家を離れなくなると、死者を置く場所と家族の住む場所の二つの名称は、一つの家に同居する形になる。家の中での褥移しにはこの状況変化に対応している。

 酒井は喪屋は住居自体だったのではないかと考えている。そして家を喪屋にして、家族は外に出たのではないかとしている。そう、考えているのだろうか。

 次節以降で確かめたい。

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2014/04/03

20.「網の呪力」

 「網の呪力」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 「琉球列島では身近な人たちが死者と共にその蚊帳の中で籠るところがある(p.145)」。これは「内地ではあまり例のみられない」こと。

 蚊帳の死者を隠すためというのが要点。ただし、蚊帳は新しいものであってみれば、それ以前があるはずである。

・他人に見せないために死者の周りに筵をはる(徳之島母間)。
・二番座に網をめぐらして、その網に芭蕉布の反物を吊し、その中に死者を西枕にして寝かせた。ユーグミルン(夜ごもり)(今帰仁)。
・夕方死亡してその日に野辺送りができないときは死者に網をかぶせておく(宮古島狩俣)。ダクトマラ(通夜)。
・二番座の空いている方に幕をはる(竹富島)。

 蚊帳や網は、喪屋の名残りである。「喪屋は、もともと住居から離れた場所に設けられたのではなく、たいへん近い場所から出発するということで、近い場所、すなわち住居そのもののことである」(p.150)。

 網の持つ呪術性は、蚊帳のそれよりはるかに濃厚。

・投げ網の上部に魚が出るような小さな穴(ケンムンの穴)を作る。ケンムンが抜け出るようにしておかないと後でひどい目に会う(大島)。
・ケンムンに会うと灸のあとのようなものができるが、そんなときは網をかぶったら大丈夫(徳之島山)。

 網の目が悪霊をさける呪いとなるのは産育習俗のなかにも見られる。

・産明け六日めに、家の入口に網をはった(伊計島)。
・産婦や生児は身体が弱って悪霊(やぶりむぬ)がつきやすいので、網をかぶせておく(与論島)。

 網を使う意図は、各島共通していて、当日葬式ができないときなどの場合。悪霊から死者を守ろうという意図があったためだとも考えられる(p.152)。

 現在では、ゴミに網をかけて烏除けにしているのが、いま、網の目に不思議な力を感じるとしたら、そういう場面しかない。

日本人にとって蚊帳というのは昔から情緒の深い夜具の一種であった。蚊帳というものは蚊から逃れるための夜具にちがいないが、しかし忍びよる夜の闇のしじまの中で、やわらかく人びとを包み、やがては距てられた者同士を、自他の区別もない一つの心に溶かしてしまうものだ(p.154)。

 詩情豊かな導入部だった。

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2014/04/02

19.「擬葬と転生」

 「擬葬と転生」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 伊計島のグミカーウーユン。

 死者を墓に送った後、その夜は、死者を置いてあった座敷に、着物を重ねて死人の格好にみせかけておき、その周囲で近親の者は泣きまねをする。さらにその泣きまねをしている人達の周囲を松明をもった人が七回まわる。松明をもった人は、やがて浜に置いてその松明を捨てて手足を洗い、潮を三回はねて、道を変えて後をふり返らずに帰宅する(p.134)。

 酒井はこの例から出発する。「死者を置いてあった座敷に、着物を重ねて死人の格好にみせかけてお」くのはなぜか、と。そしてこのやり方の原形に向かって事例をひろいながら、「死者との添い寝」という形式を見出す。

・夜半に通夜が終わった後、女子だけは居残って死者と枕を並べて添い寝した(沖永良部島)。
・身内の者は死者と同じ部屋で寝るが、死者の廻りに寝る者はほとんど死者の子である(大島住用村)。
・死者を送りだした後で、その葬家では一同が集まって七日間夜伽をする(与論島)。
・ウイトギ(初伽)、死が近づくと親戚が集まり、ヤブーを呼んで祈ってもらう。ヨトギ、死亡した日に親族が集まって死者を坐らせ、その前で家族が死者が家族の名前を呼ぶ(与論島)。
・肉親の夜伽を「抱きとまうず」(死者を抱きながら泊る)と言う。夫婦の場合はその配偶者、もしくは母親が、故人と寝床を並べ、あるいは一所に添い寝しながら夜を明かす(宮古島砂川、友利)

 「死者との添い寝の中には一種のヌジファー、つまり霊魂の転移という意図も隠されているようだ」(p.139)。
 酒井は、折口信夫を引いている。

 以前は長い間、生死が訣らなかったのである。死なぬものならば生かへり、死んだのならば、他の身体に魂が宿ると考へて、もと天皇霊の著いてゐた聖躬(せいきゅう)と、新しく魂が著く為の身体と一つ衾で覆うておいて、盛んに鎮魂術をする」(折口信夫「古代人の思考の基礎」)

 酒井は、折口の言葉に対して、「天皇霊に限らず、すべての人間の魂は転移することが可能であったと思う(p.141)」と書いているが、これは当然、そうだ。

 「琉球列島ではとくに、内地にはみられない特異な形として、この考えが保存されている」。

・神女となるべき女が、いざ成巫するというとき、その女性は自家の一室を区切って一つの褥を用意して、二つの枕をつくり、そこで自分と神と添い寝する式(八重山地方)。ヤマダキ、カミスデ。
・「膝抱人(チンシダチャー)」。死者が出ると、長男が枕元に坐り、あとは年の順。通常の場合は、孫に当たる者が「膝抱人(チンシダチャー)」になる(浦添)。
・三男二女の構成が理想。長男は病人の頭部、次男は左背、三男は右背、長女は左膝元、次女は右膝元。二人の娘のことを「膝抱人(チンシダチャー)」呼ぶ(那覇)

 それは生命の充実した者、もしくは神秘な力をもつウナリ神(姉妹神)の手によって、危篤の人間の生命を補強をするというばかりではなう、これとは逆に、孫なり、その他の生命の中に死者の魂が再生していくという考え、すなわちスデル考えが潜んでいたのではないかとも考えられる(p.143)。

 死者と添い寝をする風習は、「危篤の人間に生者の魂を移して蘇生をはかる呪い」というより、「死すべき人の魂を生者が受け継ごうとするための呪いではないか」。「死者との伽の風習は霊魂の継承という意味で捉えたい」(p.144)。「殯(もがり)というものの古い習俗もこれと同じ形式ではなかっただろうか」。

 酒井は、「危篤の人間に生者の魂を移して蘇生をはかる呪い」と、「死すべき人の魂を生者が受け継ごうとするための呪いではないか」との二つの考えのうち、後者を強調している。というより、前者に傾きがちな解釈に対して、後者を対置しているが、その通りだと思う。

 酒井が引いた引用文の後を見ると、折口はこう続けている。

 中休みをなさつた聖躬が、復活なさらなければ、御一処にお入れ申した、新しく著く御身体に、魂が移ると信じた。死と生と、瞭らかでなかつたから、御身体を二つ御一処に置けたのである。生と死との考へが、両方から、次第にはつきりして来ると、信仰的には、復活するが、事実は死んだと認識するやうになる。そして、生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた。出雲の国造家の信仰でも、国造の死んだ時には猪の形をした石に結びつけて、水葬したが、死んだものとは、少しも考へなかつた。其間に、新国造が出来たが、宮廷に於ける古い形と等しく、同じ衾から出て来るので、もとの人即、死者と同じ人と考へられてゐた。従つて、忌服即喪に籠る、といふ事はないのである(折口信夫「古代人の思考の基礎」)。

 ここで転移する「天皇霊」は、魂といっても支配者としての宗教的威力を含むので、琉球弧の「添い寝」とそのまま同一のものと見なすことはできない。むしろ、「添い寝」の習俗があったからこそ、「天皇霊」の「鎮魂術」も成立したのではないだろうか。

 「生きてゐた者が出て来ても、一度死んだ者が、復活したのと、同じ形に考へた」のは、死が時間的な移行のみを指した「古代人の思考」がよく現れていると思う。酒井は、「添い寝」の対象が「女」であることに着目しているが、ぼくは浦添の例にある「孫」に惹かれる。与論島の童名であるヤーナーは祖父母から受け継ぐのと、同一だと見なせるものだ。

 死に際した「添い寝」は深い意味を持つと思う。大和の天皇の世襲大嘗祭と、琉球の聞得大君の御新下りでは、神との「共食」と「共寝」を祭儀の核心に置いている。この、権威継承における神との「共寝」は、生死における「添い寝」を母胎として生み出されたと見なせるのではないだろうか。

 

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2014/04/01

18.「屋内葬と屋敷神」

 「屋内葬と屋敷神」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 この節は難しかった。難所にさしかかっているのかもしれない。

 自分の住居を喪屋(ムヤ)とする考え方への注目。「屋外の葬地だけを喪屋と呼んだ奄美を中心とする琉球北部の例に対して、沖縄以南の地方では葬地ではなく、自らの住居をもって喪屋と呼ぶ傾向が顕著である」(p.120)。

 この風習の母体となる伝承。

 柳田國男、「炭焼小五郎が事」。注意するのは、「東北と南島に濃厚に存在する死者と竈の関係」。

・大晦日、貧しい老夫婦のところにグットゥ(盲目)が宿を請う。地炉の前に寝せて、翌朝見ると、黒焦げになっている。三日すんだらお上に届けようと、グットゥを押し入れにかくして三日目に見たら、黄金になっていた。お上に届けると、黄金は褒美にくだされ、老夫婦は金持ちになった(徳之島)。

・(長者の家に物乞いにきて、そこの主婦におさまっている別れた元の妻をみて、恥と悔いに堪えず、竈の前で死んでしまう(「炭焼小五郎」の話の筋)。女は急いで竈の下に穴を掘って埋めようとする。そこに夫が帰って理由を聞く。女房は竈のおかげで金持ちになったから、なお栄えるために竈を作っていると言って手伝わせて、神として祀り、ますます繁昌した(与那国島)。

・驚いて死んだ男を便所の裏に埋めると、そこから草が生えた草が煙草だった(宇検村)。

 内地を含めて、琉球列島の昔話の中で死者が葬った場所が竈の近くであったり、高倉の下(沖永良部島の例。「クラヌシチャバカ(与論島)」-引用者注)であったり、もしくは家の庭であったりするのは、その物語の成立する条件として、じっさいに葬地を設定するのに屋敷の中を選んだのではないかという痕跡を、これらの話の中で探ってみたかったのである(p.125)。

 酒井の関心から逸れるが、これは農耕社会の定着が生んだ民譚だと思う。対幻想を定着させることに利害の方向が向けられている。死ぬのは、盲者であり、貧者となった元夫であるというように共同幻想から疎外を受けた者たちだが、なかでも元夫という対幻想にとって矛盾した存在、対幻想が破たんして次の対幻想を持てない者が死に、それが冨をもたらすことになっている。怖い話だが、ここで対幻想の象徴になっているのが、竈と女だ。

 次に酒井が取りげるのは屋敷内に葬地を設けた例。

・与論島のシヌグ祭。市来屋敷の西の隅にチアラの神の骨という伝えのある骨壺がある。春秋の彼岸には市来家が骨壺を開き、粟盛で骨をふく儀式が親族一同の前で行われる。

・海から頭骨が流れついたので、拾い上げて屋敷の隅に祭ったところ、貧しかった家が次第に金持ちになった(今帰仁)。

・二、三男が死ぬと、屋敷の子の方角に二、三坪の囲いをして埋めた(宮古島)。

・戦後までは家の裏、屋敷の内に祖先を葬った。部落内では六ヶ所の家の裏に墓があった(八重山地方)。

 死亡することを「シーヌヤーに往く」という(石垣市)。シィは霊魂のこと。シィヌヤとは、死者の霊魂のいる家ということにもなる(p.130)。

 屋内の葬地は、守護神としての屋敷神のような性格を持っている。いとおしさと尊崇の念で説明されるが、死者に対する強烈な畏怖感、「葬地に対する禁忌感は内地のそれよりも濃厚」という矛盾がある。これをどう考えるか。

 と、酒井は進めている。

 ここでも酒井の関心から逸れてしまうが、葬地を屋内に置くのを島人の富裕の問題を除くと、他界が空間的に疎外されていないことが気になる。これは、農耕社会以降にも、時間としての他界観念が強固なことを物語らないだろうか。でも、結論を急がずに、酒井に耳を澄まそう。

 「葬地に対する禁忌感は内地のそれよりも濃厚」ということは、知らなかった。

 

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