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2014/04/29

46.「他界観念についてのまとめ」

 「他界観念についてのまとめ」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 琉球列島ではとくに、死者の魂の赴く他界というのは、存在しなかったろうというのが、現在の私の考えである(p.339)。
 海上や山頂を拠点として、そこから人界に訪れてくる神を送迎する信仰は、死者の延長上にあるものではなく、まったく独自の世界であって、後生ろニライの両者は永遠に交わることのない異質の世界観に立つ信仰だと思う。(中略)つまり死者の住む世界を、新たに海上や山頂に設定しようとしたのは、祖先信仰の高まりによるもので、これが豊穣をもたらす神概念と混同したというのが私の今の考えである(p.341)。
 死者の魂の赴く世界は、人間の魂以外の遠い場所に設けるのではなく、マブイ別しによって別されたよい魂は身近にあって、新しい世代に継承されていくというのが元の形ではなかっただろうか(p.341)。

 琉球弧にはもともと「死者の魂の赴く他界というのは、存在しなかった」のは、実はとても大胆でラディカルな主張だ。だが、素朴なものであれ後生を想念するように他界は発生している。けれど、酒井の主張が空疎だというのではない。足と見聞で丹念に、そして繊細に観察した労は、驚くべきことに突き当たっているように見える。それは、他界は発生しているが、他界が発生する前の面影をまだ宿しているということである。

 思うに、来訪神とは他界観念を発生させてしまった衝撃が産みだしたものではないだろうか。この世ならざるものがあるということを、人間の想像力が観念したとき、大きな衝撃があったに違いない。それは同時に、誰もが精霊を見、交流することができなくなることを意味した。その可視と交流を再現するために、来訪神はやってくるのだとしたら、それは精霊の権化のような姿を取るだろうし、何者かを思念すれば始祖の形を取るのが自然だろう。だが、精霊の権化や始祖であることは、折口が言うように忘れられてしまう。すると、祖霊として表象することもあるだろう。忘れるということは、もはや精霊も始祖も信じられなくなっているのだから。

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