« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »

2014/03/31

17.「喪屋の構造」

 第二部、死霊祭祀の構造。第一章、遷居葬。第一節、喪屋の構造(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 モヤとは死者を置く場所、あるいはその場所で死者とともに身内の者が過ごす建物を指すのが通常の形式(p.103)。

 殯(もがり)。

 ムヤとは生と死の接点をかもしだす場所で、ムヤ以前にも、ムヤ以後にも、死を決定づける何ものもないと思われる(p.104)。
 トギ(伽)をする者も、トギをされる者も、洞窟の前庭に小屋がけをしたのではないか。「もちろん洞窟の中に死者をおくこともできるし、トギする者もその中で過ごせないわけではない。しかしそれでは腐敗が長びく」(p.104)。

 与論島の場合。洞窟の前に死者には筵などを被せておいて腐敗をまち、その後洗骨して洞窟の中に納める。金持ちは、石を四隅みにおいて、その上に棺をおいて骨化したらしい。「後生ぬ門や一門、阿弥陀門や七門、其り開きて、見りば親ぬ前」(昔イキトゥブシ)。一説には、家族の者が洞窟の前の棺を開けてみて、親の死体の腐っていくのを見ながら歌ったものだともいわれる。このときの人たちのことを「トォギ」と呼ぶ(p.110)。

 喜界島の喪屋も沖永良部の喪屋も、洞窟という形をとりながら、そして洞窟を最終的な葬地としながら、その前の段階で喪屋の存在があった。それは(中略)殯の形式を前提としたもので、その殯屋が消滅することによって、洞窟に喪屋という名だけが移行して残った(p.112)。
 喪屋は草屋根の方が作りやすい。しかし石垣で周囲を築くようになってくると、これは喪屋が部落ないに定着してくることを意味する。おそらく喪屋は死者のでないうちから、恒久的な施設として用意してあるのではなく、死者が出た時点で伽をするように臨時に設けられるのが本来の喪屋の特性であったと思う。それでなければ野ざらしの人骨などは存在しえないからである(p.115)。

 つまり、野ざらしの人骨のそばには喪屋があったということか。

 板石墓ももとは茅や竹の葉などで作りあげた喪屋。沖縄のカゲヤは奄美の喪屋の別名(p.118)。
 奄美では祝女や家人などの墓と言われるものはあっても、常民の墓の存在はまだはっきりしない時代が続いていた。その場合、消滅しやすい喪屋の位置も不確定である。共同の葬地がしだいに確立してくると、消滅しやすい喪屋は墓地にその名称を譲ることになる(p.118)。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/30

16.「洗骨文化の成立」

 「洗骨文化の成立」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。
 

深夜、腐敗の状況を心配して鎌を携え、黙々として月の影をふんで、墓地に向かう姿を想像すると、そこには洗骨のもつもっとも本質なものがこめられているように私には思える(p.87)。

 「鼓ねり祭」の詳述(メモ)。

 辛うじて十三世紀頃、那覇波之上洞窟からそれらしい痕跡がみられるところから、およそこの時代を出発点として洗骨文化が開始されたのであろう。波之上はやがて「舟楫を以て万国の津梁と為」すための接点として国際的な重要な港となるので、おそらく東南アジアや中国大陸との文化を接収する過程の中で、洗骨習俗も受容したとみられる。これはやがて墓制の確立、位牌祭祀など、祖先崇拝の風習が色濃くなってくる時代につながっていくわけである(p.98)。
 たぶんその時代は、十四、五世紀の頃、異文化との接点であった首里、那覇を起点として、琉球南北の文化圏に波及していったというのが私の考えである(p.100)


 酒井の説明は説得的だ。これを踏まえると、与論に洗骨文化を持ち込んだのは、花城真三郎らだというのが最も確度が高いことになる。16世紀与論である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/29

15.「考古学的にみた洗骨」

 「考古学的にみた洗骨」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 考古学の成果を洗骨習俗に結びつけて考えてみると、現在の濃厚な祖先崇拝と結びつくような洗骨の風習は少なくとも十三世紀頃までは一般的には存在しなかったと考えられる」(p.83)。

 宮古島。「最終的な形としての洗骨を伴った巨石墓が、十五世紀頃に華南人自身によって宮古島に直接導入されたということになる」(p.86)。


 洗骨は、なんと那覇世以降ということだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/28

14.「洗骨習俗の分布」

 「洗骨習俗の分布」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 種子島の洗骨、トカラの中之島の洗骨は与論島、奄美大島からの移住者によるもの。したがって洗骨の北限は奄美大島。

 ただ、「大島でも地方によっては最初から洗骨しないところもある」(昇曙夢)。

 問題は徳之島。島を二分して、東部は洗骨を行わず、西部は行う。

 「洗骨習俗のもっとも濃厚だとする沖縄本島はどうであろうかというと、ここでも離島や僻地には洗骨習俗をもたない部落が点在する」(p.77)。

 国頭阿波は明治22年頃から洗骨行事を始めた。それ以前は、「海の近い村外れのアダンの茂みの中に納棺せずに放置して、以後なんらの処置はしなかった」(p.77)。久高島の北部にも洗骨の習俗はなかった。

 宮古島。「日を定めて義務として洗骨をするという例は少なく、異常死にのみ洗骨が適用される例がかなり多く、まったくしない例も目立つ」(p.79)。

 八重山群島は、「全島的に洗骨を行っていて、例外を認めることはできない」。ただ、「川平では家族墓ができてからの風習である」という報告は注目してよい(p.80)。

 洗骨地帯においても(中略)、離島まで死者を運んで葬るという伝承、もしくは実例のあるところにおいては、たぶん洗骨しないのが原則であったのかもしれない(p.80)。

 例。笠利の海辺にあるニヤデの小島。今帰仁のヤガンデ島。
 かつての加計呂島もそうだと思う。


 酒井の具体例抽出から言えることは洗骨は琉球弧に普遍的とは言えないということだ。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/27

13.「深夜の饗宴」

 「深夜の饗宴」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。物語のようなタイトル。

 琉球弧では、洗骨時になぜ傘をさすのか。傘の使用は、「深夜の行事の合理化した姿」(p.72)。

 「洗骨は他人に見せるものではない」(与論島)。

 闇を支配するものは、悪霊である(p.73)。

 近年、洗骨のときに傘を使ったり幕を引いたりする以前には、闇の中で、つまり祭りの時期をずらせ、太陽の光をさけ、人目をはばかり、人の足音の杜絶えた時刻を選んで沈黙の秘儀が演じられたものと思われる(p.74)。

 古代日本人にとって闇の恐怖は絶大であった。

 「夜ピョーピョーしりぼう、ムヌ呼び出ゆん」(野口才蔵)。(夜、口笛を吹くとムンを呼び出す」。

 死者を出した隣家の女たちは夜間外出を極端にこわがった(沖永良部島)。

 「闇に対して抱く素朴な感情」。

 私は破滅と腐敗と、その暗さから死者を更生させようとする努力、死者がまさに解放されようとするその複雑で微妙な手続きの一端が、この深夜の洗骨行事の中にこめられているのではないかと思う(p.74)。
 名称のうえでは死者に対する各種の思いやりのある表現がみられるのに、人の寝静まった時刻に他者を混えずに行われるこの行事の背景には、強い死穢観が支配しているからだと思われる(p.74)。

 洗骨は、時期も時間も疎外された時間のなかで行われていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/26

12.「洗骨と死穢」

 「洗骨と死穢」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 この節は与論島の例が多い。

 種子島に移住した与論人の発言。「われわれも土地の風によって土葬する。しかし先祖代々の風習にしたがって洗骨する」。「種子島の風習は埋めっぱなしだ。われわれは牛や馬ではない」。

洗骨文化圏に育った人たちにとっては、埋めっぱなしというのは死者の放棄にも等しいことで、死者に対する丁重な考えを示すその考えの具体的なあらわれが洗骨である。それは最近の火葬の普及によって骨化するというのではなく、時間をおいて、自分たちの手で確かに洗骨をすることが、死者に対する孝行だということである。洗骨にたずさわった人たちはたいてい、最初はためらいがあったが、いざ洗骨をしてみると感激であったと語るが、この実感は土葬地帯の人たちには容易に理解しえないものであろう。(p.69)
 死者は後生という死者の住む世界に安住するまで、まだ半ば生きている。とくに洗骨の場合、死者が自らを喪失して神格化する最大の条件は骨化することがだから、「どのあたりを歩いているか」の基準は、死者の腐敗解体の状況と一致する。(p.69)

 「死者(モイシャルチュ)や四十九日祭んたなや苦労しゅん」(野口才蔵)。
 五十日祭(今では三十日)までは「この期間は腐るために難儀をする時期なので、皆で拝して死者を力づける」ために供養する。(加藤正春)
 この祭りは、「床あげ」、「たなあげ」。これで「しあがる」という。「一段落ついた、ちょうどこの頃を見はからって、ヤブーに頼んで死者の口寄せをしtげもらう」(p.70)

 洗骨というのは、腐敗しつつある死者の肉を洗い清めるということではなく、完全に骨化された状態の死者を洗うことである。少しでも肉が腐敗したまま残っていると、この世にまだ未練があるのだと考えられて忌まれる。(p.70)
 死者が骨化するまでの、生と死の中間に存在する曖昧な期間ともいうべき腐敗解体の時期、およびその腐敗の状況について、当事者たちが抱くなみなみならぬ関心は、骨化は成仏するか否かを決定するだけに、これはたいへん強いものがある(p.71)。
 めでたいのは洗骨が当事者たちが満足できる状態で完了したときのことをいうので、行事そのものがめでたいわけではない。洗骨の日に自然現象に異常があると信じられている理由もこの附近にある。

 与論島では洗骨をする「クーヌカシンミヤー」の日が近づくと、必ず海が荒れる。


メモ
 死の段階を肉体の状況に対応に対応させているのは、地上葬から生まれた観念のように見える。同時に死の段階は後生に行く道程とも対応されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/25

11.「折目行事と洗骨」

 「折目行事と洗骨」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 洗骨はいつするのか。奄美と沖縄では異なる。

 沖縄の場合。七夕。日無し、骨無し、天無し(国頭与那)。七日盆として、祖霊迎えの初日に当たる。

 ただし、盆行事は過大評価できない。「七夕の存在そのものが、琉球列島では大きな比重を占めていない」。「七夕行事ばかりではない。盆行事にかかわる一切がそうである」。「首里、那覇の王府を除けば、一歩王府から外に出た各村々の年中祭祀の中では、盆行事は新しい風習に過ぎず、年中行事としてはむしろ、稲・粟などの祭・ウンジャミ、シヌグなどの行事の方が大きな意味をもっていることがわかる」(p.63)。

 七夕重視以前の洗骨。奄美大島を中心とする島々では、ドンガ、トモチの日。三八(みはち)月。アラシツ・シバアzシ・ドンガの三つの祭りの総称。「この祭りの最終日が洗骨改葬の対象」(p.64)。

 沖永良部島。秋の庚寅(かのえとら)。トールミと呼ぶ。トールは洞窟墓。トールミと似ているのは与論島のギシビラキ(崖開き)。シヌグの年にギシビラキをするが、日取りは三月二十九日で、このとき改葬もする。

 小野重朗は、トモチの日の改葬を古型として、それからドンガ・カネサルなどへ移行したと考えた。沖永良部島、与論島になると、ドンガ系の名称は消えてシヌグが浮上する。

 七夕の導入される以前の沖縄では、改葬をしようとする日はたぶん、シヌグもしくはウンジャミなどの折目の機会が選ばれたのではないかということである(p.65)
 まず三八月という折目、またはシヌグ・ウンジャミという折目は、本来は豊饒の祈願や予祝行事として出発したもので、来訪神のような神は祖霊の形をとるようにみえても、それは死者の浄化されたものの延長にあるのではなく、死者儀礼とは無関係の神行事だというのが私の持論である(p.67)。
 すなわち年中行事と洗骨行事は本来は独立した別行事であったものが、祖霊信仰の高まりと共に、年中行事の中にしだいにくみこまれたのではないかという考え方である。

 ここには「死者に対する強い禁忌感、もしくは死穢観」がある。「要はいちばん日柄の悪い日が、洗骨するのにいちばん都合のよい日なのである。その考え方の底には、骨を洗う行事の死穢観念が濃厚にみられる」(p.67)。


メモ
 奄美、沖永良部・与論、沖縄の三段落が興味深い。そういうことだったのか。また、来訪神は、「死者の浄化されたものの延長にあるのではな」いと言うのはその通りではないだろうか。つまり、先祖は遡れば神と見なされるが、それは来訪神とイコールではない。来訪神は出自が違うと思う。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/24

10.「弔いあげと洗骨」

 「弔いあげと洗骨」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 沖永良部島の例。

・三年忌に洗骨する。
・前日の夕方、身内の者が埋葬所に線香や水、花などを持参して、「ナ-チャ キュラサシャーブンドゥ チケンラティタボリ」(明日はきれいにしますから、どうぞ家にお供されてください」といって、死者の霊を家にお供する。
・仏壇から霊位(位牌)をおろして供物する。
・翌日、身内の者だけ墓所に行って、屋形の下から掘り起こし、頭骨の方から順に棺から出して木の葉で洗う
・このとき傘をさして頭骨を陽に当てないようにする
・自家から持参したきれいな水で骨をゆすぎ、足の方から順に喉仏と頭骨を上になるようにして甕に納めて墓石の下に埋め戻す
・自宅で縁者が集まり供養の縁。招待された人は、必ず夕食は食べなければならない。(p.59)

 何日か前に洗骨のために供養を行う例は与論島にもある(p.60)。

 各島共通しているのは、「まち遠しい」、「あわてないでください」という言葉にもあるように、「この行事はなるべく早くすませた方がよい」という考え方が見られる。洗骨は「親孝行」でもある。「長い間、暗いところにおしこめておいたウヤホーガナシに対する思いやりでもある」(徳之島)p.60。

 屋内と埋葬所の二か所の祭祀。
 1.洗骨の前日、死者を家に招く(死者の霊魂に対する供養)
 2.肉体の部分に対する供養(招かれた人は必ず食事をとるのは、骨噛みの思想の余韻か。p.61)

 沖永良部で御幣を墓の後に立てる。洗骨をもって死者の最後の供養になると考えた。

 単葬地帯のように、埋葬してそれで完了する地域では、霊魂と肉体の分離が曖昧で、それだけに、どうしても三十三年忌のような魂だけを区別した供養が必要になるのであろう。そういった点では、複葬の文化圏における洗骨は、死者の肉体が明確な形で骨化して、死の完了した姿を自分の目で確かめることができるという点では意義がある。三十三年忌の弔いあげの行事と、洗骨行事の供養の内容の重複がかなり頻繁にみられるのは、けっしてこれは別々の性格をもっているのではなく、私流の考え方からすれば、洗骨、改葬の最終行事が三十三年忌の方へ移行したものと思われる。(p.61)

メモ
 洗骨は死を段階化することで、死への移行をゆるやかにすると考えてきたが、三十三年忌と比較すると、死を早めに切り上げたとも考えられることになる。

 「長い間、暗いところにおしこめておいたウヤホーガナシに対する思いやりでもある」という考えは、風葬の段階では起きない。埋葬後も風葬感覚が生きている、ということだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/23

9.「頭骨崇拝」

 「頭骨崇拝」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 人間の抱く素朴な感情は、不滅なものに対する崇敬であって、死後関心をあつめるのは骨の部分だけである。洗骨ということは、要するに不滅なものと腐敗するものを区分けする重要な作業で、いいかえれば嫌悪すべき場所と尊崇に価する場所の撰別である。さらに骨の部分も、頭骨と肢骨とに区分され、洗骨には頭骨だけに関心が集中する。洗骨行事にみられるように、肢骨は洗われると海上に放棄されるか、墓地の後方に用意された窪地に捨てられ、以後は顧みられないというのが通例である。(p.56)

 頭骨に関心が集中するのは体験的に了解できるが、頭骨だけに、と限定されるのは知らなかったので驚いた。与論島では「肢骨は捨場という藪があってそこに捨てたとい」う(p.56)。加計呂麻島では、「洗骨が終わると、雑骨類は舟で沖まで運び、「竜宮へ帰って下さい」といって海に投げるという」(p.57)。

 古くからの伝統的な考え方として頭に霊魂が宿ると信じられていたもので、とくに頭の後方に霊魂の存在を考えている人が多い(p.57)。

 沖永良部島では出生児にマブイを入れる呪術として頭をなでながら呪言を唱え、ホーホーと息を吹きかける(甲東哲)。

 洗骨行事にはっきり示されるのは、まず頭骨から洗いはじめるという慣例が一般的だということである。茂野幽考氏によれば、骨を拾いはじめる頃はさほどの感情はなく、足が出た、これが歯など軽い気持ちで拾っているが、いよいよ頭骨が出てくると、拾いての女たちはたいてい泣きだすという。(p.58)

 これは年月を隔て住んできた死者との感無量の再会というべきものであろう(p.58)。


メモ
 ぼくも洗骨はまさに再会だと捉えてきたが、考えるべきことはもっとありそうだ。琉球弧では霊魂は頭部に宿ると考えられた。場所を特定してイメージしたわけだ。イメージ化は進み、身体が霊魂の衣裳だという概念まで辿りついている。その表象が、入墨。洗骨は、霊魂の宿る場所との再会による死の段階化。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/22

8.「洗骨の名称と意義」

 第二章、「洗骨文化の成立」。第一節、「洗骨の名称と意義」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』

洗骨の名称(部分的に抜粋)

1.複葬の意味
シツアゲ(奄美大島)
ホネアゲ(徳之島山)
クチトイ(座間味島)
フネトイ(宮古島池間)

2.清浄の意味
キヨラサナセオセリュン(奄美大島)
ミィクナス(与論島)
チュラクナスン(今帰仁)
カイシャリスン(八重山川平)

3.再生または先祖拝みの意味
マブリカンガタツ(奄美大島大和村)
トゥルミ(沖永良部島)
ミゥブル(与論島)
タンカー 誕生祝い(波照間島)

 一部しか抜粋していないが、表現の多彩さに驚かされる。与論では、「チュラクナシ」しかぼくは知らなかった。「一つの地域の中で、右の名称一つだけが用いられているというわけではなく、いくつもの呼び方をしている(p.54)」。これは方言の違いではなく、複葬の中で着目している個所の違いだ。

 死者を取り出す、清める、複葬、その際に「軽く」なる、守護神になる。再生。


メモ
 洗骨には、霊魂の再生の観念が込められている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/21

7.「類型をめぐる諸問題」

 「類型をめぐる諸問題」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 いま琉球列島を概観するとき、そこに展開する自然条件、つまり農耕にはあまり恵まれない地層の浅い土壌、水の不便さ、島を囲繞する海、年中を通じて温暖な気候などをみるとき、そこにはやはり、琉球的な環境の中で、自分たちの習俗を伸ばしてきた歴史的な背景を無視することはできない。そこにあらわれているものは、大和文化の踏襲でもなく、または大陸文化の模倣でもなく、きわめて琉球的だとしか言いようのない特殊性を示しているように私には思える。例えば墓制や霊魂観念というものも、表面的には異文化の影響によるものが大きいけれども、ひと皮むけば、そこには自分自身の独自の色あいがにじみ出ている。これまでにふれたように、野ざらしからはじまる各種の葬法の中にそれをみることができる。おそらくこれらの葬法は、いずれも風土と無関係に成立しえないものであろう。(p.44)

 さきにあげた各種の葬法は、異なった類型を示すのではなく、基本的には一つの葬制の型のなかにみられる諸現象。それぞれに共通しているのは、「埋めない葬法」が琉球の葬制を支配している。(p.44)

 ここに二つの考え方がある。ひとつは、死者は故意に埋葬せずに放棄されたもので野ざらしなどはその痕跡。もうひとつは、複葬制の社会では地上葬は第一次のものであるとする考え。これらは複葬制論争となってあらわれたが、終わったわけではない。

 そこで、「問題となった洗骨習俗から整理してみる」。

メモ
 ひとつの可能性として。他界が時間性としてしか表象されなかった時は、風葬は野ざらしのままだった。農耕が支配的になるにつて、他界は空間性を持ち、そこで洗骨が行われ、洞窟は墓所ともなった。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/20

6.「砂葬」

 「砂葬」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 まず砂丘地を葬地とする原則があった。やがて居住地が陸地の方に移動すると、今度はその陸地で埋葬する場合、古い慣習に従って墓穴(いけ)の中に砂を入れる。さらに棺の中い砂を投げ入れるというふうに変化してくる。そして最終的には死者の硬直を柔らげるという口実で砂をかける呪術へと発展していく、これが私の描いた筋書である。(p.42)

 砂地が葬地に好まれた理由。

 1.土壊の浅い土地では埋葬するのに容易である。
 2.再葬するのには、骨化が促進されるために好都合である。
 3.海上他界の観念などが当面、考えられる理由。(p.43)


メモ
 「砂葬」は、酒井の言うように、海上他界の観念とのつながりがあると思う。霊所としての海の向こうと墓所としての砂丘。19世紀になって風葬を禁じられ第一次葬として埋葬を始めた与論でも、「砂葬」にできる立地ではそうしてきたと思える。

 珊瑚礁をそれをとりまく砂浜の美しさ、琉球列島の大きな特色としてすばらしい景観を呈しているが、同時にこの砂浜と葬地が結びあっていることも一つの特徴である。(p.40)

 もうひとつ、備忘のための引用。

 砂地の葬地としてもっとも注目されるのは、読谷村木綿原(もめんばる)遺跡。
 被葬者の多くが貝を纏って埋葬されており、その埋葬地はいずれも標高三~五メートルの海岸砂丘地(p41)。

 cf.木綿原遺跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/19

5.「洞窟葬」

 「洞窟葬」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

トカラ列島
 洗骨改葬の風習はなかった。トカラ観音の洞窟の中は、「もとはあるいは葬地としての性格をもっていたとみられる」(p.29)。

喜界島
 かつては洞窟葬が支配的。ムヤと呼ぶ。「島の各地区にくまなく分布していて、自然に出来た岩礁の裂目を若干人工的に掘りこんで内部を広くして、その中に洗骨した骨を納めた石棺(テラ)をおく」(p.29)。

奄美本島
 「海岸寄りの部落ではかなり頻繁にみられる」。トゥルと呼ぶ。
 「後生が道」伝説。「牛をにがした人が洞窟の奥まで追いかけていき、そこで後生の人と出会うという話」(笠利ツチバマ)。洞窟が一種の他界であったことを暗示。

徳之島
 島を縦半分にして、改葬地帯と非改装地帯に二分される。トゥルと呼ぶ。

沖永良部島
 洞窟はイヨゥ。墓とかかわりを持つ場合は、トゥル。海岸の断崖などを利用したもの。庶民の墓地。

与論島
 洞窟墓はギシと呼び、トゥルという名は影をひそめる。朝戸に亀甲墓があるが例外。東地区の海岸にあるチンパカ(積み墓)。「明治の通達が出るまでは洞窟(ギシ)の前に死者は蓆などに包んで骨化し、洗骨して洞窟(ギシ)のなかに入れたという。洞窟墓は別名ナウシバカ(直し墓、納し墓)。

沖縄本島
 「洞窟をもって自らの葬地としている」。「琉球最初の墓といわれる英祖を祀るヨードレの墓などは典型的な洞窟墓」。
 渡名喜島、ハタクヤダマ、マハラ。久米島、ヤチャノカマ、カーチクガマ。

宮古諸島
 洞窟葬が支配的。仲宗根豊見親の墓は「洞窟を横に掘りこんだ形のもので、その規模は優れた景観を伝えている」(p.33)。
 伊良部島、昔は死亡すると洞窟の中に投げこんだ。池間島、海礁の洞窟に白骨あり。狩俣、パナノミヤ、「丙牛、甲牛の日は火魂が二つ出るとか、人もいないのに三味線の音が聞こえるなどという」(p.33)。

八重山諸島
 川平、有名なのは英雄、仲間満慶山の墓。「海辺からは見上げるような高い場所の洞窟」。「身分のある者の墓も「岩下」。与那国島、ハイムト、「崖下には人骨が累々としていた」(p.34)。


 分布は全島的だが濃淡の差はある。隆起珊瑚礁の島ほど普及、久米島や八重山のように肥沃な土地ほど影が薄い。この濃淡の差は地方差か時代差か。小野重朗は、洞窟墓が基本型で、これを作りにくい地帯が、草屋根型、積石、板石の順で変化したとして、時代差と捉える。考古学の成果は小野の説に有利。嵩元政秀、当真嗣一によれば、3000~2500年前までは確かめられる。ただし、先史時代でも最古式であったかどうかは判断できる段階にはないと慎重。洞窟葬地は表土が浅く古い状況を追跡しにくい。

 とはいえ、洞窟の存在は伝承のなかでは重要な意味を持つ。洞窟を聖地と見る考え方が注目される。タシキ山(徳之島)南山麓の洞窟は、昔人が住んでいたという伝説がある。そこからハマオレの場所の海岸まで神道が通じている。カマチシ洞窟(徳之島)では漂着した人を祀る。崖下のボージガナシ(徳之島)の神体は貝。アマミク、シルミクはタクガーヤマ(沖縄島)という洞窟で子孫を生んだ。洞窟が聖地であり祖霊信仰と結びついている格好の例は沖永良部島のトールミ。

 こうしてみると、洞窟墓は一方では妖気の漂う死者の置場であり、他方では始祖を祀る祭場でもある。どことなく違和感があるが、しかしこの矛盾は何らかの形で調整することはできると思う。そこでまず考えられることは、これには幾つかのいりまじった機能が洞窟の中にあったのではないかということである。それは、かつて洞窟が住居に用いられたことがその原因ではなかっただろうか。(p.36)
 島の四季は温暖で、住居のための建材は不足しているという事情を考えれば、崖地、洞窟を住居としたのは不自然だとは思えない。したがって洞窟との開祖の神の結びつきも、このような環境を背景にして生じたとも考えられる(p.37)。

 洞窟葬とは何か。その成立で支持されてきたのは、埋葬の困難な地質。隆起珊瑚礁の亀裂は死者の住処として重宝な場所。同時に、考古学が指摘するように住居として使用された痕跡は否定できない。「時代的には住居と葬地が重なりあって用いられた痕跡もある」。

 こうした例があるが故に、洞窟が往々にして始祖伝説を生んだり、民間信仰の対象として崇拝されるようになったのではないだろうか(p.37)。


メモ
 洞窟はその向こうに他界が観念された霊所として聖地化された魂の出入口。なぜ、洞窟か。光と闇が交錯する場所。人間でいえば胎児期になぞらえられるのではないか。羊水のなかの闇とほのかな光。魂の出入口であるがゆえに、始祖伝説が生まれたり、来訪神が出現する場所になる。

 「時代的には住居と葬地が重なりあって用いられた痕跡もある」のは、本土の縄文中期、「この時期の集落では、生者の住む住居は死者の住む墓地を真ん中に抱き込むような形につくられ、そこでの日常生活はつねに死の臨在のもとにくりひろげられていたことが考えられるのです」(中沢新一『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』p.100)という言葉を思い出させる。

 霊所が根源。洞窟が住居となった時、墓所とされた。ただし、墓所として認識されたのは、住居を洞窟外に持つようになってから、と仮説しておく。

 重要なことは、「埋葬の困難な地質」だから洞窟葬にされたのが理由の全てではないということだ。埋葬できる地質であっても洞窟葬を選んだ可能性を持っている。それが時間の民が持つ洞窟葬の思想だ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/18

4.「岩上葬」

 「岩上葬」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 岩上葬とも言うべき形態もある。いわゆる岩上墓。酒井は、「万葉集」の一節を思い出してほしいと書いている。「高山の巌の上にいませつるかも」。高山の巌の上におられるままになってしまった。「おそらく山上の岩の上に死者をおいたとみられる」(p.25)。

 「岩上墓でもっともはっきりみられるものは宮古島多良間にある心海上人の墓所であろう」(p.27)。

野ざらしの葬法とちがって、その反面、死者を高きに祀ろうとした背景には、死者によってその尊崇をかちとることのできる階級があった。(p.28)

メモ
 岩上葬の樹上葬との相違は、樹上葬が、巫覡、巫女としてのユタ、祝女を中心としたのに対して、岩上葬が身分を根拠にしていること。共同幻想は個人幻想と分離し、社会は階層化。岩上葬は樹上葬の後と考えるのが自然だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/17

3.「樹上葬」

 「樹上葬」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

 樹上葬を考えるきかっけになるのは、名越左源太の『南島雑話』。酒井は、名越の言及が無ければ、琉球列島において、樹上葬が話題になることは無かったのではないか、と言う。

 「ノロクメノナキカラヲ樹上ニ櫃ニヲサメテ掛置事三年骨洗テ後ニ壺ニ納メ置」(『南島雑話』)。

 洗骨を吊す例もあるが、「死者を何らかの方法で高い場所におこうとした名残りが、洗骨後の骨を吊しておくという風習につながっていくのであろう(p.18)。」

 「樹上に葬られる死者、もしくは洗骨後の骨を吊す風習のもつ本来的な意味は何だったのだろうか(p.19)」。

 酒井がここで注意を向けるのは、猫だ。「猫が死ぬと袋に入れて木に下げる。この風習の中には、神秘的な力をもつと信じられた動物の葬法の裏に、人間の樹上葬の意味がかくされているように思われる」。

 ここで与論の例も出てきて面白い。

与論島の昔話の中に瀕死の人間の魂のをとりにいく猫(ミャー)の話がある。ある夜若者が墓の近くで、明日は病気で死にかけた子供の魂をとりに行こうという猫の会話を聞いて、例の若者は先廻りをして件の家に行って猫の来るのを待ち受け、無事に呪いでもって猫の魂とりを退けたという筋である(『与論島郷土研究会報』七)。このときの呪言は「クスコレバナ、クスコレバナ」(鼻くそくらえ)というものであるが、以来くしゃみなどして魂が驚くとすかさずこの言葉を唱えるという(p.22)。

 鼻炎気味だった父がくしゃみをすると、祖母と母がすかさず、「クスコレバナ」と続けたのを思い出す。あれはこういう民譚とつながっていたのか。

 話を戻すと、そこで酒井は書いている。

猫はたんに動物であるということ以上に、その習性の本質においてはマブイに長けた存在である。琉球列島では狸や狐がいないことも手伝ってか、島民の精神的分野に猫は深い影を落としているようにみえる。このマブイに長けた猫の樹上葬と、同じくセジ高い祝女の樹上葬はおそらく無関係とは思えない。精霊の影の濃いものはとくに、穢れ多き地上におくべきではなく、なるべく地上から離れて高い場所に葬ろうとした考えが、樹上葬という形になってあらわれたと私は思う。(p.23)

 だから、「祝女以前の原初的な形としてのユタ」も、その範囲に入ってくる。「セジ高い」者の樹上葬の反転として、「罪深き者」が樹上葬になる場合もある。

 酒井の挙げる樹上葬の特徴。

 1.セジ高い者の葬法として死者をなるべく高い場所にいこうとした。猫の葬法などにもその傾向が顕著に見られる。
 2.他界観念というものを古くからもっていたとすれば、樹上葬は天上他界観、あるいは複葬制を前提とした信仰というものがこの風習の根底にあったということであろう(p.24)。

メモ
 「精霊の影の濃いもの」が樹上葬になったということは、少なくとも万物にひとしなみに精霊が宿るという段階ではなく、精霊の影に濃淡が出てきて以降だということになる。個人幻想は共同幻想と分離しないまでも分化はしていた。そこで、巫覡としてのユタ、祝女も対象になる。

 そして酒井が、「地下他界観念をもつ文化が、天上他界の観念をもつ文化へ移行するということは容易ではない」(p.20)と言うように、樹上葬は異種族によってもたらされたものかもしれない。その時、土着の地上葬は、樹上葬を受容する土壌を持っていた。ただし、それは常民ではなく、「精霊の影の濃いもの」に限定された。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/16

2.「葬制の分類」

 「葬制の分類」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 琉球列島では「まず、火葬については常民の一般的な慣習の中にはほとんどその痕跡がない。また海上信仰を基本とする生活を保っているのに、なぜか水葬の慣習は存在しない」(p.14)。

 そこで、検討すべき葬制を酒井は、「埋葬」と「地上葬」とに整理する。

 地上葬。「非埋葬という意味」。「野ざらし、樹上葬、洞窟葬など」
 埋葬。「土壙(どこう)、砂壙の如何を問わず、死者を埋葬する状態」。「複葬的措置をとらない形式を前提」。(p.15)。

 ただし、地上葬は即複葬と考えるわけではない。地上におかれた死者は、なんらかの形で複葬制と関わりをもつ場合と単葬で終わる場合もある」(p.15)

 酒井に揺さぶられる前のぼくの認識としては、他界が時間観念のみで捉えられる場合と、空間観念を獲得した後の相違。水平軸な視点に、垂直的な視点、信仰が加わった時の変容と複合。それらを手がかりにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/15

1.「海礁の柩」

 『琉球列島における死霊祭祀の構造』。第一部は「琉球葬制の諸現象」。第一章、「葬制の変貌」。第一節、「海礁の柩(かいしょうのひつぎ)」。

 伊豆青ヶ島の人たちは黒潮を「黒瀬川」と呼んだ。黒瀬川は、「私自身が戦後この島で聞いただけでもどれだけの命を奪ったかわからないほど、いたましい話をのみこんだまま、今もなお滔々として流れつづけている。濃紺というより、むしろ黒に近いこの海の色は、まさしく死を思わせる暗さが漂っている」(p.5)。死のイメージとしての黒潮。

 この黒潮の流れを、逆に遡って琉球列島までくると、この島の海のなんと美しいことか。霜枯れを知らない緑の島を包むようにして広がる海の蒼さは、雨の日などには幾重にも色を変える。台風のときを除けば常に静謐なたたずまいを見せていて、さざ波は衣ずれのようなやわらかな音をたてながら、干瀬のあたりまでくると、小さな襞をつくり、やがては透明となって乳白色の砂丘の中にとけこんでしまうのだ。この渚のほとりには、島の人たちの存在を意味づけるすべてのものがある。(p.5)

 琉球弧で、一転して変わる黒潮のイメージ。

昔、太陽をのせた死者の船が去っていった伝説の時代から、この海は今もなお、現生と後世のきれぎれの夢が結びあう接点となっている。例えば人びとは海に向かって豊穣を祈るかと思うと、虫送りに代表される悪霊もまた海に送る。新生児はその生きるしるしとして海におりて水撫でをするが、死者があればその親族は海に降りて泣きながら潮を蹴る。このようにしてまぶしい海の蒼さに抱かれた海礁のほとりには、生きとし生ける者の息吹きと、悲劇的な破滅の両者が共存している。それが琉球列島である。(p.6)

 海辺、浜辺で生と死が交錯する。これは琉球弧の定義であると言っていいほどかもしれない。

 (琉球弧の「死の構造」は-引用者)祖先崇拝という美しく飾られたものの中に隠されて横たわっている。もっとも基本的、かつ情緒的なもので、よそ者の信仰によって拘束されることのない、自分自身の習慣によって構成されたものである(p.6)

 酒井がまず紹介するのは、「いわゆる曝葬(ばくそう)ともいうべき、死者を地上にさらす葬法」、つまり「野ざらし」だ。

 「野ざらし」の葬法は琉球弧全域に見られた。「野ざらしの人骨は住民にとってはまだ身近な存在であったし、またありふれた風景でもあった。つまり日常生活のすぐ傍にある現実だから、これをとりたてて問題にする意図は感じられない」(p.13)。

 たとえば、与論で狼煙台跡と言われる西の崖には、昔、疫病で多数の死者が出た時、その崖から遺骸を投げ捨てたと、竹さんから聞いたが、それもやむをえなさや残酷という言葉だけでは片づけられないものだ。30年ほど前、場所は忘れたけれど、島の南、アダンや木々の茂る砂地の斜面を四つん這いで登っていた時、砂の白に馴染んで頭骨が横たわっているのを見たことがある。怖いとは感じなかった。

 この常民社会のベースがあったから、日本内地の昔話の影響を受けているのは否めない「歌う髑髏」の昔話も受容されていった(酒井によればこの昔話の南限は宮古島)。

 そこで、酒井の問題意識はこうだ。

 現在の琉球における濃密な祖先崇拝、その反面、放棄されたとみられる野ざらしの人骨、この両極端の現象はいったい何を意味しているのであろうか。(p.13)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/14

『琉球列島における死霊祭祀の構造』

 繰り返しになるけれど、ぼくのモチーフは、琉球弧の精神史だ。そのテキストとして、1987年に酒井卯作が上梓した『琉球列島における死霊祭祀の構造』から学んでいきたい。

 「はじめに」で、酒井は書いている。

 つまり私の真意は、この琉球葬制の伝統を、内地の仏教以前の習俗に置きかえて、死に関するありのままの姿を、その信仰の中に探ってみようというところにある。もちろん、琉球の伝統文化のすべてを日本の古典と結びつけようというわけではない。琉球文化は、大和、中国、南方という各種の外来文化をうまく吸収して成熟してきた社会である。その中で琉球独自のもの、すなわち人間の素朴な感情に育まれた自然観念にもっとも近いものを、篩にかけてみる必要がある。この作業は少しばかり大仰にみえるが、しかしある程度の可能性は残されている。それが琉球文化の良さだり、魅力である。(p.ⅰ)

 これはぼくの問題意識と重なるというだけでなく、「琉球独自のもの、すなわち人間の素朴な感情に育まれた自然観念にもっとも近いものを、篩にかけてみる」という姿勢に共感する。

 そして各群島とも、それぞれ自分たちの土着の言葉をもっていて、お互いに通じないというほどの遠い距離にある。それにもかかわらず、とくに民間信仰の諸相は、その距たりを感じさせないほどの共通性を持っている。この表面上の理由は、琉球王府の支配下にあったということが考えられるが、私はむしろ共通した風土条件がそうさせたのだと思う。(p.ⅱ)

 ここもとても共感できる。ともすると、琉球王国が共通化させた、カムィ焼きの流通が共通化させたという議論に傾斜しがちだからである。王国がなくとも、共通の道具を使っていなくとも、いながらにしてつながっているということはある。酒井の「共通した風土条件」という視点は大切なものだ。

 私がもっとも注目するのは、葬制の初期の段階が、まだいたるところに保存され、もしくは老人の昔語りの中にも十分に伝承されているということである。自然の博物館としての景観を留めている琉球文化が、私どもを魅了するゆえんがそこにある。これから整理しようとする琉球の死霊祭祀の採集作業は、そういった意味でかなり容易であったが、しかしこれももう最後の機会になるだろう。なぜなら、均一化を求める近代化の波はあまりにも大きいからだ。(p.ⅲ)

 ぼくが注目するのも「葬制の初期の段階」だ。酒井の本書による報告から既に30年近く経った今、同じことをするのはもう不可能になっているかもしれない。「最後の機会」を捉えた酒井の収集に頼って、琉球弧の精神史の初源の形を探っていきたい。

 長旅になると思う。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/13

『アフリカ的段階について』Ⅴ

 日本国ではチベットのダライ・ラマのように男性の宗教王(大祝)であるばあいもネパールのクマリとおなじ女性の宗教王(卑弥呼や聞得大君)のばあいもあった。たとえば神話の神武にたいする長兄五瀬命の役割や、大三島の諏訪の大祝のようなものは男性の宗教王(生き神様)であり、初期天皇制はこの男性の宗教王(生き神様)がいる王制(天皇は弟)でありながら、女性の宗教王(生き神様)的な伝習をもった近畿に王家を定めたようにうけとることもできる。これはかならずしも確定的にいうことができないが、日本国の宗教王の在り方は、この二種類のいずれの形も存在していたことは、確言できるとおもえる(p.166 『アフリカ的段階について―史観の拡張』)

 これはアフリカ的段階の王権の在り方を語っている。琉球弧の場合は、「女性の宗教王(生き神様)的な伝習」であり、それが長く続いた。

 これが島嶼しかない環境下ではどうなるか。どこかから王権が出現しなければ、広がりも持てず、したがって凝集もされない。段階を推し進める力はいつも堰き止められ、外からは時間の停滞にしか見えない反復の永続を許容した条件になっただろう。けれどそれは精神の貧困を意味するのではない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/12

『アフリカ的段階について』Ⅳ

 この根本にある課題は文明的な環境が早く進んだ地域と遅く後を追っている地域とが、いずれにせよ均等化するところへ集約されることでは解決にはならない。なぜならアフリカ的な段階には人類の原型的な課題がすべて含まれていることを掘り起こしえなければ、たんに進みと遅れ、進歩と停滞、先進と後退の問題に歴史は単純化されてしまうからだ。人類は文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない。人類が何であるかの課題はそんなところには存在しない(p.114 『アフリカ的段階について―史観の拡張』)。

 琉球弧の島人が散々悩んできたことも同じだ。

 現在の世界史についてのわたしたちの哲学がどうあるべきかはおのずからあきらかなことだ。内在(精神)史としてのアフリカ的段階をおなじ眼の高さから内在化する課題が、同時に外在(文明)史的な未来を認知することと同義である方法を、史観として確立することだ(p.126)。

 吉本は繰り返し、少しずつ言い方を代えて同じことを指摘する。門前でためらっているのでもなければ、もったいぶっているのでもなければ、じらしているのでもない。何度も体当たりしているようなものだ。この言い方が武骨に過ぎるしたら、あの手この手で察知を試みていると言ってもいい。

 アイヌ人を観察したイザベラ・バートの『日本奥地紀行』が評価されている。これに匹敵する琉球人観察記はあるだろうか。

 地域の天候、地勢、地形などの条件に育まれた固有性がアフリカ的な段階ではおおきく物を言う要素となることは、これらの自然条件が次第に外在(文明)条件に変貌した後とは比較にならない(p.141)。

 琉球弧の天候、地勢、地形などの固有の条件についても同じだ。太陽の近さ、夏を頂点としたゆるやか気候、台風、珊瑚礁、離れ島、白砂。

 固有アフリカの現在のさまざまな問題は、南北アメリカの固有史にもあるし、日本列島の原型的な固有性をのこしているアイヌや琉球や本土の固有の古典史にも存在している(p.145)。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/11

『アフリカ的段階について』Ⅲ-5

 いずれにせよ最初の始祖は性交行為を知っていたが、子を生む方法としては知らなかった。子は村落の死んだ祖先の霊がやってきて村落の女性の胎内に入るという別の事柄だった。そういう共通説話からできている。性交行為と妊娠、出産との必然的なつながりを知らなかった段階を象徴しているものとおもえる。もちろん始祖の人間といえども性交の方法を知っていた。しかし子どもが生まれるのが性交行為の結果だという認識に達しなかった。その生理的な理由は性交と愛情から出産までのあいだに十カ月余の距たりがあるためにちがいない。もうひとつは輪廻転生の神話的な確信が祖先崇拝と強力に結びついていたからだとおもえる(p.102 『アフリカ的段階について―史観の拡張』

 これは与論民話(神話)でも同じことが言える。というか、この類型下にある。

 起源をめぐる神話が、セキレイの交尾から性交の方法を学んだとか、動物の性行為をみて性交を知ったとか、風上と風下にして風のそよぎによって妊娠したとかいうように、性交が妊娠とかかわることとしてかんがえられるかぎり、性交の方法を知らないように記述していることは、人(ヒト)の起源を動物生と異質のものとみなしたい最初のモチーフとうけとれる。なぜ人(ヒト)は起源神話として発祥が仮構されるのかといえば、この最初の動物生の否定のモチーフからではないだろうか。この否定のモチーフは物語をつくる原動力であり、ありうべかざることに合理性を与えうる能力の起源にちがいない。アフリカ的な段階の基底にあるこの否定の同一性が、人(ヒト)を差異の同一性という矛盾した類にしているものだ。

 人間は、植物や動物と同じという認識から、動物とは違うという認識まで辿る。そして動物と違うことを言うために、起源神話は、性交の方法を知らなかったという記述を生みだした。もっとも動物生を直接的に示す行為を、もっとも恥ずかしく思い、否定の動機が働いたということかもしれない。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/10

『アフリカ的段階について』Ⅲ-4

 地名について。

 「名前とは人間から土地の地形にいたるまで、かれらのいう精霊の棲家であることを認めることを意味している」(p.87 『アフリカ的段階について―史観の拡張』)

 「植物、動物、その他の生物の呼び名が地名になるとともに地形の名が地名になるということは、すべての原型的、アフリカ的な段階に共通している」(p94)
 「わたしたちは想像でしか事物や生きものに固有の名をつけるという性向を推量することができない。だがアフリカ的な段階で共通にしめされていることからは、感覚、とくに視覚的な形態に意味を結びつけることから名づけが発生するようにみえる。いいかえれば、形態を意味として感覚することができるようになったときがそのはじめになる」(p.95)

 名づけは、その対象に精霊が宿ることと同じ。地名が地形名に由来することをはじめ、名づけは視角が事物の形態を認識したことを意味した。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/09

『アフリカ的段階について』Ⅲ-3

 食べる物が採取できないで欠乏するとき、飢えるときのために備蓄しておくということは、紙一重で食べる物が実る木や草を栽培して備えるという考え方に連結し、接続している。この紙一重は時間ではなく、認識し実行するかどうかの問題だ。ただこの微小な紙一重は木にむかって(おまえは実をつけよ)とまじないをかけても、木の方で素知らぬ貌をしているだけで応じないという体験を反復することによってしか超えられない。いいかえれば異類であるという分離した感覚が萌生えてくることが必要なのだ。仕方なしに精霊を創りだすために司祭者や呪術師たちは、扮装して神のまねごとをはじめる(p.85 『アフリカ的段階について―史観の拡張』

 自然の擬人化が、人間を自然と同一の存在と見なすところから、人間を自然と分離するまで意識が進んだとき、自然は変えられるものだという認識に至る。異類としての分離感覚。そこで、精霊も創りだせるものとされ、仮面仮装の神身体をつくりだす。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/08

『アフリカ的段階について』Ⅲ-2

 「日本の神話の記述は、表面的にはすでにトーテム原理が失われた形しかないが、例外的な記述がないわけではない」。

 たとえば、海神の女トヨタマヒメが子どもを生むとき「本つ国の形を以ちで生む」から見ないで欲しいというのに、のぞいて見てしまうと八尋鰐の姿に化身して出産しているのは、八尋鰐がトヨタマヒメの出自のトーテムを暗示している(p.80)。

 また、イザナギが、姿を見ないで欲しいと言われたのに覗いてみると、イザナミの身体が腐敗して、ごろごろ雷を鳴らしている。

これはトーテム原理が崩壊して、霊魂は身体をはなれ、身体は人間の形を失いつつある描写にあたっている。(p.80 『アフリカ的段階について―史観の拡張』

 ここでトーテム原理が崩壊しているというのは、イザナミが死後、自身のトーテムの姿を復元できなくなっていることを指しているだろうか。

 人間は死ぬと誰でも「命(ミコト)」という神称をつけられる。これは、日本神話の基本の形だといってよい。死者でないばあいも、じぶんから数えて四代以上まえ、父(母)、祖父(祖母)、曾祖父、高祖父・・・・・の高祖父以上は、手がかり神だとされるという伝承もある。こんなふうに人間は四代以上になると神に移行し、先祖の尊崇、トーテムの尊重にゆきつく。トーテムが失われた世界では、自然の現象を左右できるほどの霊魂の普遍化、強大化、超能力化にゆきつく(p.80)。

 自然の擬人化。自然物に精霊が宿る。
 トーテムの設定。遡れば人間が神になる。
 トーテム原理の喪失。「霊魂の普遍化、強大化、超能力化」

 という順番として捉えてみる。トーテム原理が失われるのは、人間が他の自然物と異類である認識の深化によると考えられる。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/07

『アフリカ的段階について』Ⅲ-1

 (前略)ヘーゲルのいうとおり、人間の肉体も他の生物とおなじように<知覚する自然物>だとするナチュリズムでは、人間以上の存在は自然のうちにかんがえられないことになる。だから自然の動きで眼につく現象はすべて、人間によって統御できるものでなくてはならない。風が方向を変え、温度や強度を変え、それが季節ごとに循環する自然現象も、人間の力で変更したり、統御できないとすれば、人間以上の存在を認めるほかなくなってしまう。人間は自然の動きを変えさせることができる存在とみなされるほかない。人間の力能を最高だとすれば、他の動物や植物や無機物自然がもっていない何かがあるからだ。これが精霊、霊魂、守護神、悪鬼、物の怪を生みだす人間の想像力のはじめの形だとかんがえられる。人間がじぶんを最高の存在とみなすとすれば、精霊、霊魂、守護神等々の感官にうつらないものだけが尊崇されることになり、また感官に何とかしてうつる存在のようにみなしたい願望や錯覚や思い込みも当然生れてくる。この可視性(感覚性)と不可視性、あるいは天然の物象尊崇と霊魂尊崇とを接続する原点は、じぶんの先祖をさかのぼることで、ひとりでに人間が神に変身するという概念と、先祖としてトーテム動物や植物や生物を設定する概念とが一致するところにあるといってよい。デュルケム的な言い方をすれば「霊魂とは、一般に、各個人の内に化身したトーテム原理そのもの」(『宗教生活の原初形態』下 岩波文庫)だということだ(p.79『アフリカ的段階について―史観の拡張』)

 もともとは人間をはじめ万物に霊魂は宿る精霊的存在だった。次に、人間と他の自然物との違いの意識が生まれる。共同幻想、対幻想、自己幻想の分化が発生する。祖先の遡及による神を観念し、その元になるトーテムが設定される。巫覡が生まれ、やがて来訪神が生まれる。こうなって、「精霊、霊魂、守護神、悪鬼、物の怪」の顔ぶれが揃う。こう、仮定しておこう。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/06

『アフリカ的段階について』Ⅱ-3

 モルガンのいう野蛮の下層状態といのは、現在の視点からは、人類が無機的な自然や植物や生物や動物を内在的に了解している精神の段階だとかんがえるべきなのだ(p.72『アフリカ的段階について―史観の拡張』)。

 「野蛮の下層状態」についてのモルガンの定義を吉本は次のように言い直している。

人類がただ人類として即時的であった時代で、手当たり次第の果実や木の実を口に入れ、魚類や貝類やその他の生きものを手づかみして喰べていた時代。アフリカの原住民のなかには現在でもこの状態の部族は存在するし、わたしたちの現在でも、そのように無調理の野生物を口に入れることはありうる(p.68)

 バンシルーを採って食べる、あれだ。


 モルガンの「野蛮」、「未開」という言い方を仮に踏襲して、吉本の言い直しを列記してみる。

Ⅰ 野蛮の下層
 「人類がただ人類として即時的であった時代」

Ⅱ 野蛮の中層
 食糧となる自然物の採取手段の客観化、分離、内在化。火の人工化、採取の人工化(弓矢)

Ⅲ 野蛮の上層
 人工化された食糧の保存。製土器。

Ⅳ 未開の下層
 自然物の蓄蔵と栽培の人工化。人類が、無機的自然、植物、動物と自身を区別。分節した言葉を操れる。家族とそうでないものの区別。住居の定着。

Ⅴ 未開の中層
 溶鉄。

Ⅵ 未開の上層
 文字の発明。

 Ⅳは、共同幻想、対幻想、自己幻想の分離の時期に当たっている。ぼくの関心事からいえば、ⅠからⅢの「野蛮」と呼ばれる時代を繊細に掴み取りたいということだ。この間に、トーテムは発生し、共同幻想、対幻想、自己幻想の分化が起こり、来訪神の信仰も発生した。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2014/03/05

『アフリカ的段階について』Ⅱ-2

 「神武紀」以後の記述では、山は神体として頂きの盤石を祭り、河川もまた源流に坐す神として祭るようになり、樹木も神格を与えられた神社になり、自然現象もまたそれぞれ、雷、科戸(嵐)の神などとして、村里の周辺や要所に分離されて、次第に神社信仰にかわってゆく。この最初の自然物の宗教化、自然と人里の住民の分離の意識からアジア的な段階が始まるといっていい。経済的にいえば王権による河川や山の傾面の灌漑水としての管理と整備、平野の田、畑の耕作など野の人工化がはじまったとき、アジア的な段階に入ることになった。なぜなら耕作地を王権から貸し与えられるという名目を獲得した農民層は、貢納いいかえれば農産物、漁獲物、織物などの形で、また軍事や土木の賦役によって租税を収めることになった。ここで貢納制を支配の核心においたアジア的な専制の形が成立することになったからである(p.60『アフリカ的段階について―史観の拡張』)。

 琉球弧で言えば、ウガン(ウタキ・御嶽)ができたとき、意識としてのアジア的が始まる。経済的には、按司世から那覇世にかけて。

第零次
人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

第一次
人間は、全自然を人間の「有機的身体」とし、全人間は、自然の「有機的自然」となる。

 自分の言葉に置き直すと、第一次の段階で、自然は働きかけて有用なものに変える対象に変わる。第零次の、あらゆる対象を擬人化する意識は、木や石などの媒介物に封印されてしまう。琉球弧で言えば、イビがそれに当たる。

 また、このとき共同幻想と対幻想、個人幻想は分離する。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/04

『アフリカ的段階について』Ⅱ-1

 心に留めておきたい個所を引用していく。

 (前略)からだが死ぬときはね、からだの心もいっしょに死んでしまう。でもね、霊の心だけは生きつづけるの。そして人間は一度死んでも、またかならず生まれ変わるんだ。とろが生きている間、ヒッコリーの実みたいにちっぽけな霊の心しか持ってなかったらどうなると思う? 生まれ変わっても、やぱりヒッコリーの実の大きさの霊の心しか持てない。(フォレスト・カーター『リトル・トリー』)

 この霊魂観は草木や自然の光や陰にまみれて生活しているところから必然的に生れている。一年生の草木はめばえ、緑の葉や幹を生長させ、花や実をつけたあとで枯死してしまう。樹木や多年生の草木は実を落し、葉を紅葉させたあとでも、また蘇る季節を持っている。人(ヒト)もそうであるにちがいない。一年生の草のようでもあり、また年輪を重ねてじぶんを積み重ねるものでもある。そういう認知にたどりつくのは必然だといえる(p.37)

このチェロキーの祖母がいう「からだの心」と「霊の心」というのは、わたしたちのいう意識できる心の動きと、無意識であるために身体とかかわりのない「霊」のようにおもえる心の動きとに似ている(p.39)。
 自然の樹木はその場にいたままなのに春がくると、また新しい生命をえたように蘇る。草もまたおなじだ。それをみて生活を繰り返し、世代を継いでいきながら、人(ヒト)もまたおなじでないはずがない。反復して生と死のあいだをつないでゆく霊の心をもつとかんがえたのは、この原型的な段階では当然だったにちがいない(p.40)。
春になるとなにかが生み出されてくるときは、春の嵐が吹くが、それは「赤ちゃんが生まれるときとおんなじ」で、出産のときの「血と苦しみ」を自然がやっている。夏は生命が育つときで、秋は成熟とともに枯れる兆候が萌すときで思い出や悲哀がわいてくる。冬は死の季節。この季節認識の特徴は自然を擬人とみなしていることだ。(p.43)
樹木や生きものと言葉を交わし、情念を交換できているチェロキー族の生活感の深さを、深さとして評価できれば、アフリカ的段階の感性にはおおきな根拠が与えられ、近代主義の皮層な人間理解をくつがえすことができる(p.45)。

 アフリカ的段階では、「生、眠り、夢、死は、まだ連続した感覚体験としてとらえられてい」(p.51)た。

外在的な野蛮、未開、無倫理の残虐さと、内在的な人間の母型の情念が豊穣に溢れた感性や情操の世界とは、たぶんおなじなのだ(p.54)。
全自然物を擬人化していることと、人(ヒト)が疑似的に自然物化したところに存在のレベルをおいていることが、同根になっているのだ(p.57)。

 琉球弧のように春夏秋冬のメリハリがない、厳密には四季の区切りをつけにくいところでは、「反復して生と死のあいだをつないでゆく霊の心」はどういう動き方をするだろう。ハイビスカスは年中、咲き、この季節も海岸ではアオサが採れるというような場所では「冬は死の季節」とは認識されないだろう。生はいつでも多様に姿を現すところでは、「生、眠り、夢、死」の感覚体験の連続性は、よりなだらかなものになるのではないだろうか。死の断絶感が希薄になるというか。そこは掬い上げたいところだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/03

『アフリカ的段階について』Ⅰ

 吉本隆明の『アフリカ的段階について―史観の拡張』から、備忘のメモをしておく。

アフリカ的(プレ・アジア的) 住民は全自然(動物、植物、無機物)の意識がじぶんの意識とよく区別されないため、倫理の意識をもたずに自然にまみれて生存している。いいかえると自然物はみな擬人としての神であるし、自己意識はどんな自然物にもあるし、また移入できるとみなされる。自然にたいしてヒトは魔術をかけることができる(p.24)。

アジア的
全自然(動物、植物、無機物)は習俗として宗教的な尊崇の対象となる(p.24)。

 これは、ぼくがまわらぬ舌で考えてきたことで言えば、下記に対応する。

第零次
人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

第一次
人間は、全自然を人間の「有機的身体」とし、全人間は、自然の「有機的自然」となる。

アフリカ的な段階では宗教はまだ自然にたいする呪術的な働きかけであるとともに、自然物の節片を神格とみなすほど深い自然との交換や交霊にあたっている。動物も植物も土地も交霊が成り立つ関係にはいると、みな人語とおなじに言葉を発し、人(ヒト)に語りかけたり、人(ヒト)の言葉に感応したりできる(p.26)

 これが、アマムをトーテムと見なした根本的な根拠でもある。

 わたしたちがヘーゲルのアフリカ的な世界への理解といちばん離れてしまう点は、原住民が人間として豊かな感情や情念をもたず、宗教心も倫理もまったくしめさない動物状態の野蛮とみなしているところだ。ヘーゲルは野蛮や未開を残虐や残酷とむしびつけ、生命の重さや人間性を軽んじいる状態にあると解釈している。だが現在のわたしたちは西欧近代と深く異質の仕方で自然物や人間を滲みとおるように理解し、自然もまた言葉を発する生き生きした存在として扱っている豊かな世界だとおもっている。文明の世界が残虐で野蛮だとみなしているものは、独特な視点から万有を尊重している仕方だと解することもできる。

 ヘーゲルはいわば絶対的な近代主義といえるところから、世界史を人類の文明の発展と進化の過程とみなした。そこからは野蛮、未開、原始のアフリカ的なものは、まだ迷蒙から醒めない状態としかかんがえられるはずがない。たしかに自然史(自然も対象とする歴史)としては妥当な視方だという考えも成り立つ。だが人間の内在史(精神関係の歴史)からみれば、近代は外在的な文明の形の大きさに圧倒され、精神のすがたはぼろぼろになって、穴ぼこがいたるところにあけられた時期とみることもできる。外在的な文明に侵されて追いつめられ、わずかに文化(芸術や文学)の領域だけを保ってきた。そして文明史はこの内在的な文化(芸術や文学)の部分を分離して削りおとすために、理性を理念にまで拡げる過程だったとみなすこともできる。精神の内在的な世界は複雑さと変形を増したが、輪郭を失って文明の外観からは隠れて見えなくなる過程だったともいっていい。現在が、ヘーゲルの同時代の精神よりも、認識力を進化させたとは到底いえないとしても、内攻して深化してゆく認識を加えたとはいえよう。

 ヘーゲルの同時代は絶対の近代主義が成立した稀な時期といってよかった。時代が歴史を野蛮、未開、原始と段階をすすめるものとみなしたのは、内在の精神史を分離し捨象しえたためはじめて成り立った概念だった。現在のわたしたちならヘーゲルが旧世界として文明史的に無視した世界は、内在の精神史からは人類の原型にゆきつく特性を象徴していると、かんがえることができる。そこでは天然は自生物の音響によって語り、植物や動物も言葉をもっていて、人語に響いてくる。そういう認知は迷信や錯覚ではない仕方で、人間が天然や自然の本性のところまで下りてゆくことができる深層をしめしている。わたしたちは現在それを理解できるようになった。これはアフリカ的(プレ・アジア的)な段階をうしろから支えている背景の認識にあたっている。

 わたしたちは現在、内在の精神世界としての人類の母型を、どこまで深層へ掘り下げられるのかを問われている。それが世界史の未来を考察するのと同じ方法でありうるとき、はじめて歴史という概念が現在でも哲学として成り立ちうると言える。(p.27~29)

 こちら側に引き寄せて言えば、もともとアフリカ的な段階の世界にいた者として、琉球弧の「内在の精神史」を描きたいということだ。


『アフリカ的段階について―史観の拡張』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/02

「詩魂の起源」

 ぼくのモチーフは、琉球弧の精神史。その入口として真っ先に思い出すのは、吉本隆明の「詩魂の起源」という講演録だ。1987年の「現代詩手帖」に掲載されたのを切り取って持ってきた。ずっと気になりながら、放ってきてしまったものだ。もう27年になるが、そろそろ取り組めるかもしれない。


詩的な行為の上限と下限(宗教以前の宗教的感情)

上限。「詩とは魂のある気配みたいなものを、よく察知すること自体」

下限。「言葉を使って他人に対して、あるいは対象に対して、自分の魂の在りかを附けてしまうこと」


詩の精神の原型。

1.「魂とか心は身体をいつでも離れて彷徨い歩くことができると考えられていた」。
死んだら村里のすぐそばにある山の上に行く。また、山の上から迎え火を焚くような迎え方をするといつでも魂は帰ってくる。産土の神杜。七五三。

2.「(魂は)何回も転生できると考えられていました」。
繰り返し生まれ変わって誰かに附く。


詩の精神の行動の様式。

1.山の頂に自由に行き来できる。媒介は、「山、木、尖った棒」。
「詩の精神が「形態」というものについて、初めてある認識を獲得した」

2.海の向こうの島のようなある種の魂のある場所に自由に行き来できる。媒介は「鳥」。
「真上からの視線に詩の精神が初めて気付いた」

3.洞窟のようなものを通って向こう側のどこかの世界に自由に行き来できる。媒介は「太陽の光」。
「光と影の世界を詩の精神が初めて獲得した」


古さの順

3、1(2)、2(1)

1.「山に住む人と里に住む人、言葉を換えて言えば、平地で農耕をやる人達と山で狩をやったり木を伐採する人達との違いと交渉が始まった」ことが元にあって出てきた考え。柳田國男が追求。

2.「海の向こうから稲作を運んで上陸してきて平地に住み着いた人達の持ち運んできた認識とか感覚のパターン」。折口信夫が追求。

3.「人間の詩的精神が自然とか自然物とどんなふうに交感していたか、そしてその交感の仕方が無意識であった時期の詩的行動パターン」。


仏教は、この3つの詩的行動様式に対して継承と切断を行った。

「魂が彷徨い出てまた帰ってくるという行動認識の切断」。
魂は西方浄土へ往き、そこへ行ったらもう帰らなくていい。往き方は修練による。
僧侶の世界のことで、土着はできない。そのため、3つの行動様式も継承される面があった。

浄土教は、修練の否定を行うことで、仏教は土着。
親鸞。修練で往ける浄土はない。「いつでもそういう楽天浄土に往けるある場所を占めることができる」
「魂が往き来きる場所に意味があるとしたら、その位置にしか意味がない」


 吉本は詩的精神について語っているわけだが、そのまま魂のことだから、ぼくたちが考えたいことに直結している。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/03/01

『Seaside Garden Note vol.01 (Yoron Island)』

 うっとりすること請け合いの写真集だ。

 珊瑚礁の海のグラデーション、水の透明感、朝陽の神々しい輝き、夕陽に照らされる雲の怪しさ、田中一村顔負けのアダンの黒の陰影、月夜が生み出すもうひとつの世界、汀の砂の柔らかさ。どれを採っても、飽きるほど観ているはずの与論風景のひとつのはずなのに、いままでみたことがない島の表情に惹きこまれうっとりしてしまう。

 まるで、マブイ(魂)抜けするみたいに。

 それは表紙からも一目瞭然のように、島に贈られる光を繊細に切り取っていることからやってくる印象なのだと、理由のほんの一端を合点する。そしてぼくたちは、どれだけ多くのことを見落とし、感じ損ねているのだろうという内省までやってくる。

 ひょっとして、昔の島人が観ていたのは、この与論なのではないだろうか。昔の与論人は、この写真集のように島を眺めていた。眼は近くのものをきめ細かく未届け、遠くはふたつ向こうの島も認識し、耳は亜熱帯の植物や魚の心を聴き分けていた。その世界の切片を復元するように、この写真集はぼくたちに贈られているのではないだろうか。

 与論の魅力の核心は、与論ブルーなどと言ってしまってステレオタイプ化してしまう言葉の向こうにあるものだ。そのことを心地よく教えてもらった。


『Seaside Garden Note vol.01 (Yoron Island)』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »