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2014/03/19

5.「洞窟葬」

 「洞窟葬」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。

トカラ列島
 洗骨改葬の風習はなかった。トカラ観音の洞窟の中は、「もとはあるいは葬地としての性格をもっていたとみられる」(p.29)。

喜界島
 かつては洞窟葬が支配的。ムヤと呼ぶ。「島の各地区にくまなく分布していて、自然に出来た岩礁の裂目を若干人工的に掘りこんで内部を広くして、その中に洗骨した骨を納めた石棺(テラ)をおく」(p.29)。

奄美本島
 「海岸寄りの部落ではかなり頻繁にみられる」。トゥルと呼ぶ。
 「後生が道」伝説。「牛をにがした人が洞窟の奥まで追いかけていき、そこで後生の人と出会うという話」(笠利ツチバマ)。洞窟が一種の他界であったことを暗示。

徳之島
 島を縦半分にして、改葬地帯と非改装地帯に二分される。トゥルと呼ぶ。

沖永良部島
 洞窟はイヨゥ。墓とかかわりを持つ場合は、トゥル。海岸の断崖などを利用したもの。庶民の墓地。

与論島
 洞窟墓はギシと呼び、トゥルという名は影をひそめる。朝戸に亀甲墓があるが例外。東地区の海岸にあるチンパカ(積み墓)。「明治の通達が出るまでは洞窟(ギシ)の前に死者は蓆などに包んで骨化し、洗骨して洞窟(ギシ)のなかに入れたという。洞窟墓は別名ナウシバカ(直し墓、納し墓)。

沖縄本島
 「洞窟をもって自らの葬地としている」。「琉球最初の墓といわれる英祖を祀るヨードレの墓などは典型的な洞窟墓」。
 渡名喜島、ハタクヤダマ、マハラ。久米島、ヤチャノカマ、カーチクガマ。

宮古諸島
 洞窟葬が支配的。仲宗根豊見親の墓は「洞窟を横に掘りこんだ形のもので、その規模は優れた景観を伝えている」(p.33)。
 伊良部島、昔は死亡すると洞窟の中に投げこんだ。池間島、海礁の洞窟に白骨あり。狩俣、パナノミヤ、「丙牛、甲牛の日は火魂が二つ出るとか、人もいないのに三味線の音が聞こえるなどという」(p.33)。

八重山諸島
 川平、有名なのは英雄、仲間満慶山の墓。「海辺からは見上げるような高い場所の洞窟」。「身分のある者の墓も「岩下」。与那国島、ハイムト、「崖下には人骨が累々としていた」(p.34)。


 分布は全島的だが濃淡の差はある。隆起珊瑚礁の島ほど普及、久米島や八重山のように肥沃な土地ほど影が薄い。この濃淡の差は地方差か時代差か。小野重朗は、洞窟墓が基本型で、これを作りにくい地帯が、草屋根型、積石、板石の順で変化したとして、時代差と捉える。考古学の成果は小野の説に有利。嵩元政秀、当真嗣一によれば、3000~2500年前までは確かめられる。ただし、先史時代でも最古式であったかどうかは判断できる段階にはないと慎重。洞窟葬地は表土が浅く古い状況を追跡しにくい。

 とはいえ、洞窟の存在は伝承のなかでは重要な意味を持つ。洞窟を聖地と見る考え方が注目される。タシキ山(徳之島)南山麓の洞窟は、昔人が住んでいたという伝説がある。そこからハマオレの場所の海岸まで神道が通じている。カマチシ洞窟(徳之島)では漂着した人を祀る。崖下のボージガナシ(徳之島)の神体は貝。アマミク、シルミクはタクガーヤマ(沖縄島)という洞窟で子孫を生んだ。洞窟が聖地であり祖霊信仰と結びついている格好の例は沖永良部島のトールミ。

 こうしてみると、洞窟墓は一方では妖気の漂う死者の置場であり、他方では始祖を祀る祭場でもある。どことなく違和感があるが、しかしこの矛盾は何らかの形で調整することはできると思う。そこでまず考えられることは、これには幾つかのいりまじった機能が洞窟の中にあったのではないかということである。それは、かつて洞窟が住居に用いられたことがその原因ではなかっただろうか。(p.36)
 島の四季は温暖で、住居のための建材は不足しているという事情を考えれば、崖地、洞窟を住居としたのは不自然だとは思えない。したがって洞窟との開祖の神の結びつきも、このような環境を背景にして生じたとも考えられる(p.37)。

 洞窟葬とは何か。その成立で支持されてきたのは、埋葬の困難な地質。隆起珊瑚礁の亀裂は死者の住処として重宝な場所。同時に、考古学が指摘するように住居として使用された痕跡は否定できない。「時代的には住居と葬地が重なりあって用いられた痕跡もある」。

 こうした例があるが故に、洞窟が往々にして始祖伝説を生んだり、民間信仰の対象として崇拝されるようになったのではないだろうか(p.37)。


メモ
 洞窟はその向こうに他界が観念された霊所として聖地化された魂の出入口。なぜ、洞窟か。光と闇が交錯する場所。人間でいえば胎児期になぞらえられるのではないか。羊水のなかの闇とほのかな光。魂の出入口であるがゆえに、始祖伝説が生まれたり、来訪神が出現する場所になる。

 「時代的には住居と葬地が重なりあって用いられた痕跡もある」のは、本土の縄文中期、「この時期の集落では、生者の住む住居は死者の住む墓地を真ん中に抱き込むような形につくられ、そこでの日常生活はつねに死の臨在のもとにくりひろげられていたことが考えられるのです」(中沢新一『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』p.100)という言葉を思い出させる。

 霊所が根源。洞窟が住居となった時、墓所とされた。ただし、墓所として認識されたのは、住居を洞窟外に持つようになってから、と仮説しておく。

 重要なことは、「埋葬の困難な地質」だから洞窟葬にされたのが理由の全てではないということだ。埋葬できる地質であっても洞窟葬を選んだ可能性を持っている。それが時間の民が持つ洞窟葬の思想だ。


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