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2014/03/04

『アフリカ的段階について』Ⅱ-1

 心に留めておきたい個所を引用していく。

 (前略)からだが死ぬときはね、からだの心もいっしょに死んでしまう。でもね、霊の心だけは生きつづけるの。そして人間は一度死んでも、またかならず生まれ変わるんだ。とろが生きている間、ヒッコリーの実みたいにちっぽけな霊の心しか持ってなかったらどうなると思う? 生まれ変わっても、やぱりヒッコリーの実の大きさの霊の心しか持てない。(フォレスト・カーター『リトル・トリー』)

 この霊魂観は草木や自然の光や陰にまみれて生活しているところから必然的に生れている。一年生の草木はめばえ、緑の葉や幹を生長させ、花や実をつけたあとで枯死してしまう。樹木や多年生の草木は実を落し、葉を紅葉させたあとでも、また蘇る季節を持っている。人(ヒト)もそうであるにちがいない。一年生の草のようでもあり、また年輪を重ねてじぶんを積み重ねるものでもある。そういう認知にたどりつくのは必然だといえる(p.37)

このチェロキーの祖母がいう「からだの心」と「霊の心」というのは、わたしたちのいう意識できる心の動きと、無意識であるために身体とかかわりのない「霊」のようにおもえる心の動きとに似ている(p.39)。
 自然の樹木はその場にいたままなのに春がくると、また新しい生命をえたように蘇る。草もまたおなじだ。それをみて生活を繰り返し、世代を継いでいきながら、人(ヒト)もまたおなじでないはずがない。反復して生と死のあいだをつないでゆく霊の心をもつとかんがえたのは、この原型的な段階では当然だったにちがいない(p.40)。
春になるとなにかが生み出されてくるときは、春の嵐が吹くが、それは「赤ちゃんが生まれるときとおんなじ」で、出産のときの「血と苦しみ」を自然がやっている。夏は生命が育つときで、秋は成熟とともに枯れる兆候が萌すときで思い出や悲哀がわいてくる。冬は死の季節。この季節認識の特徴は自然を擬人とみなしていることだ。(p.43)
樹木や生きものと言葉を交わし、情念を交換できているチェロキー族の生活感の深さを、深さとして評価できれば、アフリカ的段階の感性にはおおきな根拠が与えられ、近代主義の皮層な人間理解をくつがえすことができる(p.45)。

 アフリカ的段階では、「生、眠り、夢、死は、まだ連続した感覚体験としてとらえられてい」(p.51)た。

外在的な野蛮、未開、無倫理の残虐さと、内在的な人間の母型の情念が豊穣に溢れた感性や情操の世界とは、たぶんおなじなのだ(p.54)。
全自然物を擬人化していることと、人(ヒト)が疑似的に自然物化したところに存在のレベルをおいていることが、同根になっているのだ(p.57)。

 琉球弧のように春夏秋冬のメリハリがない、厳密には四季の区切りをつけにくいところでは、「反復して生と死のあいだをつないでゆく霊の心」はどういう動き方をするだろう。ハイビスカスは年中、咲き、この季節も海岸ではアオサが採れるというような場所では「冬は死の季節」とは認識されないだろう。生はいつでも多様に姿を現すところでは、「生、眠り、夢、死」の感覚体験の連続性は、よりなだらかなものになるのではないだろうか。死の断絶感が希薄になるというか。そこは掬い上げたいところだ。


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