« 与論史3 按司世(あじゆ) | トップページ | 与論史4 那覇世(なはんゆ) »

2014/02/23

『ぼくの沖縄〈復帰後〉史』

 コンサートか集会の会場の、時には舞台近くで、時には舞台が小さくしか見えない遠くの席で、また時には会場の外で流れてくる音響だけが頼りにして、その場に居合わせているような昂揚を覚えながら、新城和博の『ぼくの沖縄〈復帰後〉史』を読んだ。

 昂揚の一端は、ぼくが新城と同い年という理由からやってくるだろう。そのため「〈復帰後〉史」の話題のひとつひとつに、世代的な違いを考慮せずに読むことができる。世代間ギャップは激しさを増していることを思えば幸運なことだ。

 新城が出した89年の『おきなわキーワードコラムブック』に衝撃を受けて、その後に創刊された雑誌「Wander」も買い求めていた時のことも鮮明に思い出す。衝撃の中身は、都市的な風俗を除けば、沖縄が与論とこんなに近いのかという驚きが最も大きい。ぼくにとっては、この本とりんけんバンドが、沖縄との近さの自覚的な発見になった。
 
 また同時に、沖縄は、沖縄の身体的な部分を発掘せざるをえない所まで来ているのかということと、これを与論や奄美でやれるようになるのはまだまだずっと先のことだという、都市化への驚きもあった。それは、本書でも、ゆいれーるによる視点の高度化と沖縄島の郊外化として再確認することになる。

 1978年のナナサンマルの、たしか数日前はぼくも、部活動の交流で沖縄にいた。中学生だったが、既に、鹿児島県本土の中学校の部員として沖縄の中学生と交流することに複雑な心情だったのを覚えている。当時、その心情の中身を説明することはできなかったにしても。

 「ナナサンマル」の当日、僕はビートルズのフィルムコンサートを観るために、ニ中前のバス停から銀バスに乗った。当時は頻繁にビートルズのフィルムコンサートがあったのだ。その日は確か映画「レット・イット・ビー」と「イエロー・サブマリン」を、東町にあった当時の労働福祉会館で上映していた。(p.30)

 新城のこの記憶は確かだ。ぼくもあの時、那覇の宿泊先のホテル近くの電柱に、「イエロー・サブマリン」のイラストが描かれた宣伝チラシが貼ってあって、沖縄に残ってこの映画を観に行きたいと思ったのだから。

 この本のおかげで思い出したこともある。

 高校野球を語ることは、沖縄にとってひとつの文化であり、同じ物語を共有することだった。復帰前だと、首里高校野球部の「まぼろしの甲子園の土」、「興南旋風」初のベスト4。僕らの世代では、なんといっても復帰後の一九七五年、初の選抜で快進撃を続けた豊見城高校が東海大相模に九回裏ツーアウトランナー無しから逆転負けした試合である。(p.151)

 そう、思い出した。まだ小学生だったが、沖縄のチームを、自然に、でもただならぬ加担の気持ちで応援するのに、自分で気づいたのが、この時だった。そう、豊見城高校だった。

 連鎖的に思い出したのは、鹿児島県本土の高校にいた時、柄にもなく応援団長をやったことがあって、練習を兼ねてか勝手にだったか忘れたが、野球の練習試合があると自校の応援に球場へ駆けつけていた。その日は、沖縄の高校(確か、興南高校ではなかったか)との練習試合だった。ぼくは、気持ちを押えられず、応援の団員を二手に分けて、片方は自校、もう片方は沖縄の高校を応援するように配置したことがあった。

 高校生になった当時も、この心情をうまく説明することはできなかった。特に、まわりは鹿児島の同級生とあっては、黙するしかなかったと思う。

 これは同世代の同時代体験から来る個人的な感想と連想だけれど、『ぼくの沖縄〈復帰後〉史』の本領は、沖縄イメージの変遷が辿れるところにある。

沖縄イメージの変遷は、復帰後から振り返ってみると、「沖縄戦のビジュアル資料の衝撃」、「亜熱帯・無国籍的リゾート」、「琉球王朝文化の再現(レプリカ)と沖縄ポップの登場」、「長寿、癒しのウエルネスな島」、「バーチャル・リアリティとしての沖縄の自然」、「消費行動の郊外化」と変遷してきた。さて現在の沖縄イメージはなんだろうかと、もやもやした気分でいたのだが、「沖縄文化のレビュー化」という言葉で、個人的には腑に落ちたのである。
 「レビュー」には「批評・評論」という意味があるが、今後「批評的視覚化」という表現が、沖縄から立ち上がってくるのか、ちょっとだけ期待したいところである。(p.194)

 沖縄の身体性の掴み直しは、高次化しているのだと思う。文化演出の高次化と政治状況の閉塞化が、この本から見えてくる沖縄の現在形だ。

ニ〇一ニ年からニ〇一三年にかけて、オスプレイ配備撤回、新基地建設反対への動きは、復帰後、多分初めてであろう。「オール沖縄」としてまとまりをみせていました。一三年一月、三八市町村と四一市町村議会議長、そしてニ九人の県議が東京へ赴き、抗議要請文を「建白書」として国に渡します。その後の日比谷野外音楽堂での抗議集会とデモの様子は、中央のマスコミでは大きく取り上げられませんでしたが、画期的なものでした。それがわずか一年たたずして、国のあからさまな予算案の提示に「一四〇万県民を代表してお礼を申し上げる」という仲井真知事の発言になるとは。その一四〇万とは、いったいどこにいる県民のことなのでしょうか。新しい基地も、オスプレイも、ばらまきも予算もまとめて「お・こ・と・わ・り」という気分になりました。(p.196)

 「お・こ・と・わ・り」には、りんけんバンドの、「速やかに沖縄の逆襲が行われんことを」というコピーが残響していると思う。

|

« 与論史3 按司世(あじゆ) | トップページ | 与論史4 那覇世(なはんゆ) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/59178724

この記事へのトラックバック一覧です: 『ぼくの沖縄〈復帰後〉史』:

« 与論史3 按司世(あじゆ) | トップページ | 与論史4 那覇世(なはんゆ) »