« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »

2014/02/28

与論史8 大和世

さいはて期(1953年~1971年)

 復帰後、与論は「沖縄の日本復帰運動」と「観光」で本土の注目を浴びることになりますが、どちらも、与論が国内のさいはての地ということが意味を持っていました。

 島のなかでは、現在、奄振で通称される「奄美群島復興特別措置法」により1954年から復興が開始されます。

 復興の過程を追ってみると、復帰前の「高千穂丸」を皮切りに新造船が就航。江ヶ島桟橋(1963年)により小型船は接岸できるようになりました。陸では、オートバイ、タクシー、バスが導入されていきます。生活基盤では、電灯に続いて、プロパンガス、水道、そして電話、テレビが入り始めます。産業では、製糖工場(1962年)、医療では与論診療所(1955年)、教育では学校給食(1963年)。また、他島にわたる負担を軽減したいという思いは、大島高等学校与論分校の設立(1967年)に結実しました。

 こうして見ていくと、本土のいわゆる「高度経済成長」は、与論では文明としての近代化を同時に伴っていました。近代化以上、高度経済成長未満というのが実態ではないでしょうか。そして島人が古いものを脱ぎ捨てようとした頃、菊千代は、与論民具館を設立(1966年)しています。

 1967年に「東洋の海に浮かぶ輝く一個の真珠」と形容され、1968年にはNHKの「新日本紀行」で与論が紹介されて、観光客が増え始めます。そして観光地としての与論は、「ヨロン」と表記されるようになります。

ヨロン期(1972年~1982年)

 1963年以降、毎年、与論と辺戸岬の間、海の国境では、沖縄の日本復帰を目指す海上集会が開かれてきました。ひょっとしたら与論は、奄美の復帰よりもこの運動に主体的に取り組んできたのかもしれません。

 沖縄の日本復帰(1972年)の実現は、与論が「さいはて」では無くなることを意味しましたが、復帰後も観光客は急増し、1979年には15万人まで増えています。人口1万人足らずの島に年間15万人もの若者が訪れるのですから、島内の光景は一変しました。道に浜に、観光客があふれたのです。

 ヨロン期は、与論の島人が商業と交流を知る機会でもありました。そこで与論献奉が重要な役割を果たしただろうことも想像に難くありません。

 1976年に与論空港が開港し、本土との距離は大きく縮まりました。島外に出た出身者も帰りやすくなりましたが、航空運賃が高くつくという意味では、観光客が二の足を踏む理由にもなっていったでしょう。

 1979年をピークに、1980年以降、観光客は減少に転じます。そして、人口変動の激しかった与論ですが、1982年には、その後、長期的な傾向になる人口減少も始まりました。

パナウル期(1983年~2002年)

 1983年の「パナウル王国」は観光振興が目的ですが、考えてみると、島内的にも意味を持ったのではないでしょうか。名称のパナ(花)もウル(珊瑚)も、捨て去ろうとしていた島言葉から採られています。外向的な顔を持つ「パナウル王国」は、島を見つめ直す内向的な側面も持っていました。

 喜山康三による1987年以降の百合が浜港建設反対運動も、その現れのひとつだったでしょう。与論中学校でも教鞭をとった薗博明は、この運動を「奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初の取り組み」と評価しています。もちろん、開発にも島人の生活が関わっているので難しい問題には違いありませんが、今も「百合が浜」も消えることなく存在し、旅人を最も魅了する場所であり続けているのは、かけがえのないことだと言えます。

 島を見つめ直すという点では、1990年に「ヨロン・おきなわ音楽交流祭」が、1992年には、ゆんぬエイサーが始まっており、琉球弧の身体感覚を取り戻す動きも始まりました。

 与論でのことではありませんが、1995年、薗博明らは鹿児島県知事を相手に「自然の権利」訴訟を起こしています。ゴルフ場建設反対に端を発したものですが、なんと薗たちは原告を「アマミノクロウサギ、オオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケス」にしたのです。判決では、原告に「原告適格を認められない」と訴えは却下されています。法律としてはそうとしか答えようがないものですが、しかし原告の意図を汲んだ「重要な課題である」という回答も得られたのでした。この、琉球弧の身体感覚を取り戻す動きのなかに、「奄美世」の自然観が蘇えっているのに気づかされます。

 1996年の「与論徳州会病院」、1999年の「介護老人保護施設風花苑」の開設は、島人にとってはもちろんですが、観光だけではなく島に移住して住むことが選択肢になるための条件として重要でした。

 一方、1998年の白化現象により、パナウル王国の看板である珊瑚が死に瀕する状況に陥り、復活に向けた努力も始まりました。

単独期(2003年~)

 2003年は重要なことがいくつかありました。まず、沖永良部島との合併問題での住民投票で86%の島人が反対を表明し、与論が単独町の道を選択したことです。これは、与論の島人が自分たちのことを自分で選択するという機会として重要な意味を持ちました。

 また、Iターンで当時、与論に在住していた植田佳樹を中心にしたNPOの働きかけで、離れ島のなかではいち早く、ADSLサービスが導入されました。飛行機、船があるとはいえ、離れ島の宿命を背負っている与論にとって、海の外と常時つながっている状態を早期に実現したことは大きな意義があります。

 そして、火葬場「昇龍苑」の開設です。「奄美世」以来の自然との一体感のなかで培った感性は、1902(明治35)年の風葬の禁止につぐ火葬の開始で、直接的な表現の行き場を失いました。これは、与論の精神史にとっては「奄美世」の終りを意味すると同時に、文明史のなかでは近代化の完成を意味したのではないでしょうか。

 これから、「奄美世」感覚を蘇らせたり回復したりするには、新しい表現の形が必要になります。菊秀史の努力で、2008年に、2月18日が「与論言葉の日」になり、かつて「方言禁止運動」の場だった学校が方言を教える場になるという転換が起きたのは、その基本になるものです。

 2007年、与論を舞台にした映画「めがね」は、「この世界のどこかにある南の海辺」という表現で、「パナウル王国」の次の新しい与論のイメージを構築してくれました。
 こうして現在の与論につながります。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014/02/27

与論史7 アメリカ世

 敗戦後の米軍統治を、与論はどう受け止めたのか。郷土史家の野口才蔵の記述を追ってみます。

それは、奄美の民族にとっては、有史以来味わったことのない、鉄鎚の下るような宣言であった。そうした当時を体験した郡民には、今なお暗い過去の思い出として、年輪の中に深く刻まれていることだろう。祖国・母国日本から生木を裂くように引き離される身の哀れさ、心の痛さをしみじみ味わった。(『与論町誌』)

 1946(昭和21)年、北緯30度線以下の地域が米軍統治下に置かれることになった「ニ・ニ宣言」に対して、野口は「鉄槌の下るような」と書きます。これを書いているのは、1988(昭和63)年ですが、「奄美の民族にとっては、有史以来味わったことのない」というフレーズは、復帰運動の時に繰り返された常套句の受け売りです。「奄美の民族」とは、近代民族国家で育った者が、その認識を元に、1609年以降に薩摩の直轄領になった地域を呼んだものですが、しかしもともと「奄美の民族」が存在していたわけではありません。また、「有史以来味わったことのない」ことにしても、有史以来生きているわけではないから分かりようがないという以前に、「祖国・母国日本から」、「引き離される」という表現そのものが近代以降の認識の仕方です。だから、「鉄槌の下るような」と書く野口の真意は言葉の意味からは汲み取れません。

 真意を汲み取るには、「鉄槌の下るような」という受け止め方が、「祖国・母国日本」から「生木を裂くように引き離される身の哀れさ、心の痛さ」を伴ったことに注目する必要があります。するとここからは、離れ島の弱小感を持つ者が、所属する国民国家から分離された時、その不安、心細さを、まるで親から引離された子のように感じていることが見えてきます。それが、「暗い過去」として思い出す際の心情の核心にあるものです。

 しかし、蓋を開けてみれば、アメリカを否定すべき相手ではありませんでした。

現在の茶花墓地北隣の浜に米軍のヘリコプターが低空飛行して、缶詰袋などを投下した光景は、まだ昨日の感じがする。こうして与論を含む日本全国に食料や衣服を無償配布できるアメリカの偉大さに心服したものだった。(『与論町誌』)

 42年前のことを昨日のことのように思い出す程、米軍による食糧配給は強烈な印象を残し、野口はアメリカに「偉大さ」を感じ、「心服」するのです。
 そして、アメリカ世の8年間を、野口はこう回想します。

戦後のどさくさから、世相は年ごとに変化していったが。しかし、日本官僚の極端な統制になれてきた島民たちは、植民地的米軍制下における民主社会では、常に精神的空白感に、うつろな人生を過ごしている思いだった。学校の三大節の儀式もなく、国旗掲揚は禁じられ、「君が代」の歌は聞けなくなり、「天皇」に関することが生活の場から消えてしまい、正月も旧正月から新しく変わり、全く帯をはずしたしまりのない感じの毎日だった。こうして日本とアメリカの混血児みたいに育てられながら、八カ年という歳月を過ごしてきたのである。(『与論町誌』)

 皇民化教育を受け、兵役の経験を持ち、30歳になる時に敗戦を迎えた野口が感じる「精神的空白感」や「うつろな人生を過ごしている思い」には、青年期をあげて打ち込んだものが無くなってしまったことに対する虚脱感が滲んでいます。マブイ(魂)の抜けたような心持ちだったことでしょう。そして、「君が代」や「天皇」に対する挫折感がないのは世代的なものでもあれば、奄美的でもありました。

 しかし、「しまりのない感じの毎日」と書く回想からは、奄美の知識人や名瀬に見られた切迫感がありません。いつも事態は有無を言わせぬ決まった形で訪れるという小さな離れ島の経験値は、習い性になって、どことない呑気さを漂わせています。

 だから、沖永良部島と与論島が返還の対象から除外されると噂された「二島分離報道」に与論の島人も慌てたわけです。

 なぜに帰さぬ永良部と与論 同じはらから奄美島
 友よ謳おう復帰の歌を 我ら血を吐くこの思い

 野口もこの「復帰の歌」を「声がかれるほど」歌ったといいます。与論の島人も、1952(昭和27)年になって切迫感を持ったのでした。

 しかし、この切迫感には、奄美の知識人に見られなかったものがあります。
 奄美の島々は、薩摩の直轄領になって以降、言葉や服装は「琉球人」でありながら、琉球との関係に制限される統治のなかで、「琉球人」は宙づりにされた状態になりました。近代になり、琉球王国に終止符が打たれ、「沖縄県」と「鹿児島県大隅国大島郡」になった時、沖縄は「沖縄人(ウチナーンチュ)」という自称を獲得しますが、奄美は自称の共同性を失いました。奄美には、たとえば「奄美人(アマミンチュ)」という共同性はなく、与論なら与論人(ユンヌンチュ)という個別性しかなかったからです。奄美全体でみれば、「大和人ではない日本人」ではあっても、その否定形を埋め対置する自称を持たなかったのです。

 そこで奄美の知識人から生み出されたのは、「奄美は大和である」という強弁でした。しかしこれは現実感の乏しい、自己欺瞞を潜ませたやみくもな主張でした。

 野口には「奄美の民族」という復帰運動時の常套句は使っていますが、与論は大和であるという強弁には至っていません。そしてそれは与論の島人にも言えることだったのではないでしょうか。

 そこにイデオロギー的な茫然自失はなかった。けれど、生活実感に根差した茫然自失はありました。与論の島人が復帰を願ったのは、エンゲル係数82.7%とも言われる生活を何とかしたい、貧困から脱したいということに尽きたでしょう。復帰運動の際、沖縄を含めた復帰なのか、奄美単独なのかという議論もありましたが、これは実質的な選択肢にはなりえず、そうするしかないものだったのではないでしょうか。そうでなければ、沖縄に対する単なる裏切りになってしまったでしょう。

 復帰嘆願署名が100%になり、「復帰の歌」を「声がかれるほど」歌ったのは、貧困の切迫感による茫然自失というもので、訴えというより叫びに似ています。

 しかし、これは復帰運動終盤の頃のことで、野口のいう「しまりのない感じの毎日」には、別の顔もあります。アメリカ世では、名瀬を中心に多様な文化活動が花開いたと言われますが、与論では敗戦後すぐに若い世代が与論村連合青年団を結成しています。青年団は電気促進事業を提案し、それが実る形で復帰の前後に村営発電所を開設し、島に電気を灯しました。与論では文化にはまだ手が届かない。その手前で、その助けになる光を手にしたのでした。

 野口の虚脱感とは別に、蘇鉄にも頼らざるを得ない食生活であったとしても、若い世代は元気な顔を見せていたのです。活気という面では、与論でも沖縄と鹿児島への密航がありました。儲けたり儲けなかったりだったようですが、きっと海人の血が騒いだことでしょう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014/02/26

与論史6 大和世

 与論の島人にとって明治近代を知ることになったのは、1869(明治2)年、廃仏毀釈の急先鋒だった薩摩の命によって東寺や仏像が破壊されて菅原池に投げ込まれた時だったのではないでしょうか。しかし、与論の精神史から見れば、1870(明治3)年から翌年にかけた神女(ノロ)の廃止、ウガンの常主神社への合祀、シニグ祭、ウンジャン祭の廃止、1876(明治9)年の「入墨禁止」、そして1902(明治35)年の風葬禁止という目に見えない破壊がより深刻だったでしょう。それは、「奄美世」から続く自然との一体感のなかで育んだ自然観に致命傷を与えるものだったからです。この自然観を長期に保存してきたのが琉球弧の特徴ですが、それは簡単に消し去れるものではありません。現に1890(明治23)年に20年もシニグ祭は復活し、針突(ハジチ)は明治の終り頃まで続きました。

 そして新しく生み出された国民という概念の元、島人も名字を持つことになり、1875(明治8)年に、一斉に名づけが行われました。それは日本人になるという最初の印でもあったでしょう。翌1879(明治12)年、与論は奄美の他島とともに「鹿児島県大隅国大島郡」として日本に組み込まれました。より大きく言えば、この時、琉球弧の島々は「沖縄県」と「鹿児島県大隅国大島郡」とに別れて日本になったのです。

 琉球弧の近代が抱えたのは、「大和人ではない日本人」として「日本人」になるという困難でした。沖縄の場合、それは全員に共通していたのに対して、奄美の場合、大和人のなかの少数者としてその困難に向き合わなければならなかったという違いが、そこにはありました。

 奄美の場合、その困難は、まず黒糖の問題として現れます。1873(明治6)年、大蔵省は黒糖の自由売買を許可しますが、県は士族や船主などに大島商社を作らせ、藩時代と同様の専売制を敷きます。同じ頃、国は砂糖増産を目論んで「大島県」を構想します。奄美を鹿児島県に置くのではなく、国が直接関与できる形にしようとしたわけですが、これは大久保利通が頷かなかったともあり実現しませんでした。奄美の島人は自由売買を求めて大島商社に反撥します。この時、生れたのが「勝手世運動」です。それはこの運動を主導した丸田南里の言葉に象徴させることができます。

 人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。

 「勝手」、つまり自由に黒糖を売買することを求めた丸田の言葉は、近代の理念を汲み取った島人の最初の宣言であり、丸田南里は与論でも記憶されるべき名前です。こうした抵抗により大島商社は1877(明治10)年に廃社になります。

 結果、大島には鹿児島商人を始め、大阪や長崎からも商人が寄留するようになり、彼らは奄美の島々から黒糖を購入し商品を売るようになりました。そのなかで、特に鹿児島の商人は島人に高利で貸し付け、法外な利息を受け取っていました。そして奄美は借金まみれになったのです。このことは与論も例外ではありません。例外ではないどころか、笹森儀助や改革のために行った調査を見ると、1897(明治30)年の与論の各戸当たりの負債額は奄美の平均を上回っています。

 他の島に比べて黒糖の生産時期がはるかに遅かった与論ですが、近代になって黒糖に苦しめられることになったのです。1899(明治32)年に始まった長崎県口之津への集団移住には、台風以外にもこの問題が深い影を落としていたのではないでしょうか。

 これに対して、奄美の島々は、不当な借金払いの拒否、栽培方法の工夫、質素な生活と貯蓄を柱とする「三方法運動」を展開していきます。1888(明治21)年に名瀬で開かれた「全郡委員」で三方法運動は実行が決められました。与論の島人はこの集会に直接、参加してはおらず代理人を立てたものでしたが、それでもこれは奄美の島々が初めて一体となった運動だったのです。

 もうひとつ、行政面の困難として現れたのが「独立経済」です。当時、県では鹿児島本土の税金が奄美に使われるのを良しとせず、奄美の税金が奄美外で使われるのも良しとしないという二面性を持った、奄美の財政切り離しの議論が起きています。そして、県当局はこれを実行すれば奄美は「言うべからざる惨状に陥る」のは当然という認識から反対しますが、議会に押し切られる形で、1888(明治21)年、独立経済は施行されます。

 結果は当初の県の認識に近い形になり、みかねた国と県が1935(昭和10)年、大島振興計画を実行しますが、焼け石に水で、振興計画と独立経済はともに1940(昭和15)年に終了します。独立経済は、半世紀余りも続いたのでした。ちなみに、沖縄県でも1933(昭和8)年に沖縄県振興計画が実施されていますが、これも振るわない結果に終わっています。

 与論の近代は、人口と貧困の問題を抱えた集団移住の歴史でもありました。1899(明治32)年の長崎県口之津への集団移住、1928(昭和3)年のテニアンへの移民、1944(昭和20)年の満州への開拓移民がそれです。口之津への移住では、「大和人ではない日本人」は「日本人ではない」という見なしを受け、過酷な労働環境と条件を強いられ、満州では敗戦とともに惨劇を生み、シベリアへの抑留者も出しました。しかし、前者は福岡県の大牟田に、後者は鹿児島県の錦江町田代に、第二の与論コミュニティを実現しています。

 徴兵制による従軍も始まりました。日清戦争7人、日露戦争23人、第一次世界大戦10人です。そして太平洋戦争。1944(昭和19)年の10月10日を始めにして、与論も空襲、艦砲射撃を受けており、また島からは日本機の墜落も戦艦の撃沈も目撃されています。既に6月27日には、小野少尉以下44人の小隊が来島し、壕の構築が進められました。1945(昭和20)年、3月末以降は、毎日のように焼夷弾が降り、米軍が沖縄に上陸すると上空を飛ぶアメリカ機の数も夥しく、海上も海を塞ぐほどの数だった時もあるといいます。沖縄からは砲声の轟が絶えず、与論からは燃え上がる沖縄島が見えました。これは1609年以来、二度目の経験です。

 与論への上陸が想定された時、小野隊長は、敵が上陸した場合、与論島民は全員、ハジピキパンタの西下に集結し、全員玉砕する旨、言い渡します。そこで、与論の山防衛隊長は、「だれが最後の一人に至るまで玉砕したことを見届ける責任を負うか」と言い返します。小野からは明快な回答はなかったと言いますが、山の返答はとても重要です。どんな言葉でもいい、極限の状態で死に追い込む命令に対しては、返す言葉を持つことが生き延びさせる力を持つのだと思います。

 島人が敗戦を知ったのは15日から遅れること3日の8月18日でした。与論の戦没者は295人です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/25

与論史5 大和那覇世

 薩摩による1609年の琉球侵攻を与論はどのように知ったでしょうか。まず、沖永良部島の狼煙が上がっていれば、それで知ったかもしれません。直接的には、三月25日の日中、百艘とも言われる軍船が茶花沖を進むのが見えたでしょう。そして27日、燃えがある今帰仁の炎や煙は与論からも確認できたに違いありません。与論にとってはこの時の恐怖が琉球侵攻体験でした。

 続いて、松下志朗の推定に従えば、1611年7月の石高設定ないしは検地(1610年にもあったかもしれません)で、与論の島人も薩摩の支配を実感することになったはずです。検地奉行衆の来島も恐怖だったろうことは想像に難くありません。

 気になるのはこうした過程で与論の島人はいつ、奄美の「五島」が薩摩の直轄領だということを知ったのでしょう。もっと言えば、奄美は直轄領だけれど本琉球は違うということをどのように理解していったでしょう。奄美統治の基本方針を示した1623年の「大島置目之條々」は、島役人が琉球から、位階を示す鉢巻きを受けることを禁じますが、これだけで明快に理解できるというわけではありません。代官経由で説明がなされるわけでもなかったでしょう。まして、重きを置かれない与論です。事態はうすうすと気づかれていったというのが実のところかもしれません。

 それというのも、与論も奄美の島と同様に、薩摩の士族が直接、島を統治するのではなく、「那覇世」の時の支配層が「与人(ユンチュ)」と名を変えて、島役人として統治していました。ですから、彼らにしてもことの真相を積極的に知らされる機会があったとは考えにくいのです。

 与人と言えば、大島では大規模な土地を所有し黒糖の生産高を上げることで富を蓄積し、島人との格差を大きくした島役人もいます。与論の場合、島役人が土地所有を進めた痕跡を見ることができますが、もともとの島が小さいですから富の蓄積もたかが知れていました。

 また与人は、島の統治を行うだけではなく、島津の祝儀があれば献上物を運び薩摩へ行かなければなりませんでした。これは上国と呼ばれていますが、1691年に開始され、与論の与人も加わっています。黒糖以前の献上物は、芭蕉布、尺筵(むしろ)、塩豚、干魚、焼酎などです。これは島人負担ですが、与人にしても、与論からの上国は奄美の島のなかでも六百キロと最も遠く、船旅の負担も危険も大きかったと言わなければなりません。

 薩摩直轄のなかで、奄美の他島と異なるのは、与論には代官所が置かれなかったことです。1616年には徳之島に代官(始めは奉行)所が置かれ、沖永良部島と与論島もその管轄下に置かれます。与論にも代官巡回の記録が残っていますが、実効性に乏しかったと言われます、1690年には沖永良部島に代官所が設置され、そして代官の補佐をする「附け役」が一年交代で駐在するようになります。この時、与論では「宝物の没収」を恐れた当時の首里主が東方へ住居を移しているので、附け役の駐在は重圧になったことが伺えます。

 しかし、もっと言えば、代官所が直接置かれることのなかった与論の重圧感は、島人が自覚することはなくても、他島と比較してみればとても希薄だっただろうと考えられます。また、代官所がなかった結果、与論では薩摩役人の一族が、豪族である衆達(シュータ)層を形成して島を二分するという事態も起きていません。

 この違いは黒糖生産に最も明瞭に表れています。1713年頃、大島で砂糖きびの強制的な栽培と買い上げが始まり、1747年には年貢が黒糖で納めることになり(徳之島は1760年)、奄美の北三島で砂糖きび畑が広がっていきます。この時、徳之島の米は沖永良部島や与論島から送られています。与論で作った米を徳之島の島人が食べていたことがあったのです。そして1830年に、生産した黒糖を全て藩が買い上げる政策になり、奄美は砂糖きび一色に近い状態になっていきます。

 けれど、沖永良部と与論で砂糖きび栽培が始まったのは、沖永良部が1853年、与論が1857年とずっと後になってからでした。北三島が辿った段階もありません。与論に至っては、明治維新のわずか11年前なのです。

 奄美の歴史と言っても大島の以下同文にできないことはたくさんあります。与論には与論の歴史が必要なのです。

 この時代に特徴的なのは北との関わりだけではなかったことです。中国から琉球へ冊封使がやってくる時には奄美の島々も献上物を差しださなければなりませんでした。これは与論も同じで、かつこれも島人負担でした。琉球王朝に対しても、この点では関係を持っていたのです。

 琉球王朝との関わりがあったのはこれだけでなかっただろうことを示すのは、神女(ノロ)の存在です。与論では琉球王府からの辞令書は見つかっていませんが、1609年以降も奄美の島々に辞令書が出されていた可能性も示唆されています。与論の古文書のなかで神女(ノロ)と神官とおぼしきものには、「大阿武(志良礼)」(ウプアンサーリ)、「茶花ヌル」、「内侍(ネーシ)ヌル」、「時之百(トキノヒャー)」、「瀬戸親部」などの独特な名称が見られます。彼女たちが中心になってシニグ祭やウンジャン祭も行われていました。ちなみに、琉球弧では民間の巫女をユタと呼ぶのに与論だけヤブと言うのが不思議ですが、「瀬戸親部」の「親部」はヤブとも読めるので、「瀬戸親部」は男性役ではありますが、これに由来する名前なのかもしれません。

 薩摩は神女の勢力を削ごうとたびたび試みますが効を奏しません。島人の信仰が厚かったからですが、自然との関わり方についての考え方がここでぶつかっていたのです。神女に象徴されるのは、「雨乞い」にも表れているように、念じることで自然を動かすことによって、人間に有用なものにするという自然観で、「奄美世」の延長にあるものだと言えます。対して、薩摩が神女を規制しようとしたのは、聖域を開墾地にしたかったのが理由のひとつですが、そこにあるのは、自然に手を加えることによって人間に有用なものにするという、いわば農業の自然観です。時代の必然的な流れとして、農業の自然観が優位に立つことになるわけですが、この意味では神女を通じて、「奄美世」の自然観は「那覇世」に引き継がれていました。

 また、思い込みとは違って琉球との交流も部分的にはあり、用向きがあれば島人も那覇などに交易に出ていました。

 言い習わしではこの時代を「大和世」と呼ぶわけですが、これは冊封体制を通じた琉球王朝との関係、「那覇世」の自然観の継続、琉球との交流という側面をすくい上げられず、かつ、近代以降に生じた沖縄との隔たりの拡大もうまく捉えられないので、ここでは「大和那覇世」としました。

 農業の強化とともに、与論の人口は増え、1691年には1294人だったのが、1866年には4972人になっています。1609年からを推測すれば、人口は約4000人増え、5倍に膨れ上がっていました。これは与論を賑やかにしたでしょうが、同時に島の土地と珊瑚礁で賄える食料を人口が上回るという事態が近づいていることも意味していました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/24

与論史4 那覇世(なはんゆ)

 「按司世」と「那覇世」に明確な区切りをつけるのは難しいことです。それは、「中山世鑑」の言う1266年の大島入貢の記述を、服属と見なしてよいかどうかは当てにならないという意味ではありません。確かにそれが服属を示すとは限らないという側面はありますが、そこに与論も含まれているかどうかも定かではありません。それに、ことによれば1266年より前に与論は琉球王朝の領地として認識された可能性もあります。

 シニグのサークラ集団には、サトゥヌシがありますが、これはニッチェーの後とばかりは言い切れないほど、両者の居住区域は、渾然としていると言います。そしてサトゥヌシは「里主」、つまり領主を意味する名称であり、彼らは沖縄島由来の統治者あるいは官吏として与論にやってきたとすれば、それは1266年以前である可能性もあります。

 しかし、ここで「按司世」と「那覇世」の間に明確な区切りをつけるのは難しいと言うのは、琉球王朝が最初に関与して以降、常に王国の支配が及んだという確たる根拠もないからです。北山由来とされる王舅(オーシャン)以降にも、サービ・マートゥイやウプドー・ナタという按司的な活躍をする人物も民話化されていて、「那覇世」のなかにも「按司世」が顔をのぞかせる面もあります。そこで、ここでは便宜的に13世紀を想定するにとどめます。

 島の外から統治者が来島したのがはっきりしているのは、北山王の次男とされる王舅が最初です。王舅にしても沖永良部島の世の主、真松千代(ママツジョ)にしても、今帰仁には認識されていない、統治された島の側だけの伝承に依るしかない存在ですが、しかし、王舅には墓がある他、なんといっても与論城(ユンヌグスク)を残しており、ただの伝承ではないと言うことができるでしょう。

 北山の滅亡とともに、王舅の伝承も途絶えますが、次いで与論に名を残しているのは、護佐丸です。名を残しているとは言っても、泣く子供の脅し文句に「護佐丸が来るぞ」という言葉が使われていることで知られているに過ぎません。しかし、護佐丸は、北山の滅亡を受けて北山監守として今帰仁にいた期間に、読谷にある座喜味城を築きますが、その際、奄美の島々から使役として島人を調達し築城に当らせたという伝承があります。与論からも築城に加わった島人がいて、それで「護佐丸が来るぞ」という言葉が残っているのかもしれません。

 この頃の与論にとって特筆すべきことがあるとすれば、初めて与論が文字に表記されたことです。それは、1431年の中山の公文書に出てくるもので、「由魯奴」、つまり「ゆるぬ」と読める漢字が当てられています。これは大島が「海見」と記述されてから700年以上後であり、表記したのは「海見」は大和、「由魯奴」は琉球であることが与論の立ち位置をよく伝えています。

 この公文書にも「由魯奴」は「属島」とあるように、王舅以降のどこかの時点で、中山領とされていたことが分かり
ます。ここで重要だと思えるのは、琉球の歌謡集「おもろそうし」の、勝連おもろとも言うべき一連の歌謡です。

 一 勝連が 船遣(や)れ
   請け 与路は 橋 し遣(や)り
   徳 永良部
   頼り為ちへ みおやせ
 又 ましふりが 船遣れ(938)

 たとえば、このおもろでは、勝連の航海において、請け島、与路島を架け橋にして徳之島、沖永良部島を縁者にして王へ奉れと、徳之島や沖永良部島を徴税の対象にしていたことが伺われます。また別のおもろでは、「鬼界(ききゃ)」、「大島(おほみや)」と、喜界島や大島もその対象であるように歌われるのですが、ここに与論島は出てきません。むしろ逆の立場で出てくるのです。

 一 与論(よろん)こいしのが
   真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
   玉金
   按司襲(あじおそ)いに みおやせ
 又 根国(ねくに)こいしのが

 与論の神女「こいしの」が徳之島(真徳浦)への徴税に赴くという内容になっているのです。とても驚かされますが、同時に考えさせられることもあります。ぼくたちは、島の歴史を考える時に、「奄美」という言葉に馴染みは薄いものの、大島から与論までをセットで考える癖がついていますが、そうではない歴史もあったということ、むしろ大島から与論までを一組とする見方は、薩摩藩の直轄領以降にできたものとして、境界を固定化せずに見つめる視点を持つことの大切さを示唆されるのです。

 そして、第二尚氏の尚眞が王に即位した1477年以降に、与論の「那覇世」は本格化することになります。1512年以降に琉球王朝から派遣された花城(ハナグスク)真三郎が、島主となって与論を統治します。里(サトゥ)の居住区域も、西区、朝戸から城(グスク)へと拡大していきました。これは同時に、里(サトゥ)が居住区域としては一杯になり、人口増加が続けば、低地の原(パル)に移らなければならなくなったことも意味していました。

 尚眞王によって本格化された与論統治は、花城以降、屋口首里主、殿内與論主、そして屋口與論主の代の途中までの百年足らず、続きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/23

『ぼくの沖縄〈復帰後〉史』

 コンサートか集会の会場の、時には舞台近くで、時には舞台が小さくしか見えない遠くの席で、また時には会場の外で流れてくる音響だけが頼りにして、その場に居合わせているような昂揚を覚えながら、新城和博の『ぼくの沖縄〈復帰後〉史』を読んだ。

 昂揚の一端は、ぼくが新城と同い年という理由からやってくるだろう。そのため「〈復帰後〉史」の話題のひとつひとつに、世代的な違いを考慮せずに読むことができる。世代間ギャップは激しさを増していることを思えば幸運なことだ。

 新城が出した89年の『おきなわキーワードコラムブック』に衝撃を受けて、その後に創刊された雑誌「Wander」も買い求めていた時のことも鮮明に思い出す。衝撃の中身は、都市的な風俗を除けば、沖縄が与論とこんなに近いのかという驚きが最も大きい。ぼくにとっては、この本とりんけんバンドが、沖縄との近さの自覚的な発見になった。
 
 また同時に、沖縄は、沖縄の身体的な部分を発掘せざるをえない所まで来ているのかということと、これを与論や奄美でやれるようになるのはまだまだずっと先のことだという、都市化への驚きもあった。それは、本書でも、ゆいれーるによる視点の高度化と沖縄島の郊外化として再確認することになる。

 1978年のナナサンマルの、たしか数日前はぼくも、部活動の交流で沖縄にいた。中学生だったが、既に、鹿児島県本土の中学校の部員として沖縄の中学生と交流することに複雑な心情だったのを覚えている。当時、その心情の中身を説明することはできなかったにしても。

 「ナナサンマル」の当日、僕はビートルズのフィルムコンサートを観るために、ニ中前のバス停から銀バスに乗った。当時は頻繁にビートルズのフィルムコンサートがあったのだ。その日は確か映画「レット・イット・ビー」と「イエロー・サブマリン」を、東町にあった当時の労働福祉会館で上映していた。(p.30)

 新城のこの記憶は確かだ。ぼくもあの時、那覇の宿泊先のホテル近くの電柱に、「イエロー・サブマリン」のイラストが描かれた宣伝チラシが貼ってあって、沖縄に残ってこの映画を観に行きたいと思ったのだから。

 この本のおかげで思い出したこともある。

 高校野球を語ることは、沖縄にとってひとつの文化であり、同じ物語を共有することだった。復帰前だと、首里高校野球部の「まぼろしの甲子園の土」、「興南旋風」初のベスト4。僕らの世代では、なんといっても復帰後の一九七五年、初の選抜で快進撃を続けた豊見城高校が東海大相模に九回裏ツーアウトランナー無しから逆転負けした試合である。(p.151)

 そう、思い出した。まだ小学生だったが、沖縄のチームを、自然に、でもただならぬ加担の気持ちで応援するのに、自分で気づいたのが、この時だった。そう、豊見城高校だった。

 連鎖的に思い出したのは、鹿児島県本土の高校にいた時、柄にもなく応援団長をやったことがあって、練習を兼ねてか勝手にだったか忘れたが、野球の練習試合があると自校の応援に球場へ駆けつけていた。その日は、沖縄の高校(確か、興南高校ではなかったか)との練習試合だった。ぼくは、気持ちを押えられず、応援の団員を二手に分けて、片方は自校、もう片方は沖縄の高校を応援するように配置したことがあった。

 高校生になった当時も、この心情をうまく説明することはできなかった。特に、まわりは鹿児島の同級生とあっては、黙するしかなかったと思う。

 これは同世代の同時代体験から来る個人的な感想と連想だけれど、『ぼくの沖縄〈復帰後〉史』の本領は、沖縄イメージの変遷が辿れるところにある。

沖縄イメージの変遷は、復帰後から振り返ってみると、「沖縄戦のビジュアル資料の衝撃」、「亜熱帯・無国籍的リゾート」、「琉球王朝文化の再現(レプリカ)と沖縄ポップの登場」、「長寿、癒しのウエルネスな島」、「バーチャル・リアリティとしての沖縄の自然」、「消費行動の郊外化」と変遷してきた。さて現在の沖縄イメージはなんだろうかと、もやもやした気分でいたのだが、「沖縄文化のレビュー化」という言葉で、個人的には腑に落ちたのである。
 「レビュー」には「批評・評論」という意味があるが、今後「批評的視覚化」という表現が、沖縄から立ち上がってくるのか、ちょっとだけ期待したいところである。(p.194)

 沖縄の身体性の掴み直しは、高次化しているのだと思う。文化演出の高次化と政治状況の閉塞化が、この本から見えてくる沖縄の現在形だ。

ニ〇一ニ年からニ〇一三年にかけて、オスプレイ配備撤回、新基地建設反対への動きは、復帰後、多分初めてであろう。「オール沖縄」としてまとまりをみせていました。一三年一月、三八市町村と四一市町村議会議長、そしてニ九人の県議が東京へ赴き、抗議要請文を「建白書」として国に渡します。その後の日比谷野外音楽堂での抗議集会とデモの様子は、中央のマスコミでは大きく取り上げられませんでしたが、画期的なものでした。それがわずか一年たたずして、国のあからさまな予算案の提示に「一四〇万県民を代表してお礼を申し上げる」という仲井真知事の発言になるとは。その一四〇万とは、いったいどこにいる県民のことなのでしょうか。新しい基地も、オスプレイも、ばらまきも予算もまとめて「お・こ・と・わ・り」という気分になりました。(p.196)

 「お・こ・と・わ・り」には、りんけんバンドの、「速やかに沖縄の逆襲が行われんことを」というコピーが残響していると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/22

与論史3 按司世(あじゆ)

 「按司世」の始まりは、グスク時代の始まりと同じ11世紀と見なします。この時代は、琉球弧の最初の大きな世替わりだったでしょう。それを象徴するのは人、神、米、鉄です。

 まず、稲作の技術とともに琉球の開発祖神、アマミキヨが伝承され、与論にはアマミクという名で定着しました。

 実は、アマミキヨとは帰ってきたアマンだったのではないでしょうか。与論の郷土史家、野口才蔵もアマンとアマミキヨのつながりには気づいていましたが、吉成直樹は、このテーマについて、近年の知見を取り入れながら魅力的な仮説を追求しています。吉成の仮説にぼくの考えを乗せて書くと、第三期渡来のオーストロネシア語族は、アマンという言葉を持っていましたが、そこにはアマンをトーテムとする信仰も含まれていました。奄美大島に定着した彼らの一部は、自分たちをアマミと称します。大和朝廷勢力は、「日本書記」のなかで大島のことを書く際に、アマミに「海見」という漢字を当てて島の名としました。

 アマミは最初、トーテムとしてのオカヤドカリを意味しましたが、大和や朝鮮との交流のなかで、稲作技術が入った時に、アマミキヨと名を変えて、シネリキヨとともに稲の神に変身します。そして不思議なことに、ヤコウガイの交易や太宰府襲撃などで名をとどろかせた奄美大島は、11世紀から14世紀にかけて文献から姿を消し、遺跡も見つからなくなるといいます。このことは11世紀にアマミ族が南下したことを意味するのではないでしょうか。与論ではこれをアマミキヨの伝承として記憶に残してきました。

 グスク時代は、北から琉球弧へ大量の移住があったことも分かってきています。それは、顔が面長になり背も長身になるという、人が変わってしまうほどのインパクトを持ったものでした。この世替わりは、与論ではシニグ祭のなかにその痕跡を見出すことができます。与論のシニグの大きな特徴は、沖縄の門中に相当するサークラと呼ばれる親族を中心にした集団の居住地域から、与論への移住の順番を、ある程度までは復元し推測することができる点にあります。

 「奄美世」の時代は、ショー、サキマ、キン、アダマのサークラがありましたが、「按司世」に、北方からの移住と与論の人口増加をもたらしたのは、プカナとニッチェーだと見なすことができます。彼らによって、里(サトゥ)と呼ばれる高台の西区から朝戸へと、西方へ居住区域が広がっていきました。

 そして与論の「按司世」は、与論の民話で最も知られたアージ・ニッチェーによって象徴させることができます。言い換えると、与論の「按司世」は伝承によって語るしかないと言うことでもあります。しかし、アージ・ニッチェーには彼のものとされる積み墓(チンバー)もあり、彼は伝承と実在の両方の顔を持っています。伝承のアージ・ニッチェーは琉球の軍船によって命を絶たれますが、これは与論の「按司世」の終りを意味しているのかもしれません。

 グスク時代は、徳之島で生産されたカムィ焼きが、喜界島を交易拠点として琉球弧全体に流通し、経済圏としての琉球弧が一体となったとも指摘されていますが、与論もその渦中にあったのは間違いありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/21

与論史2 奄美世(あまんゆ)

 琉球弧、特に奄美では、はるか昔の時代のことを「奄美世(あまんゆ)」と呼びます。これはとても本質的な名づけ方ですが、ぼくは「奄美世」とは、アマン、つまりオカヤドカリを自分たちの先祖と見なした時代のことだと考えています。驚くかもしれませんが、動物を先祖と考えるのは不思議なことではなく、それを表すトーテムという言葉があるように、人類の初期に普遍的に見られるもので、樹や石などの自然が対象になることもありました。

 アマンを先祖とする考え方の背景にあるのは、人間が動物や植物、自然と自分を区別せずにそれらと同じ存在だと考えていたということを意味しています。そこでは、人はまわりの自然と心を通わせることができました。作った米を貯蓄したり、文明を築いたりすることとは違う、別の豊かさがあったのです。そして大事なことは、明治生まれの女性までは手の甲にアマンのハジチ(針突)をしていたように、時代は「奄美世」を過ぎても、「奄美世」の考え方や感じ方は長く保存されたことです。ぼくはこれが琉球弧の魅力であり強みではないかと思っています。

 さて、「奄美世」が与論で幕を開けるには、島人がいなければいけませんが、最初の島人は誰だったのでしょう。それは知るよしもありませんが、オーストロネシア語族はそのなかの重要な存在だったと考えられます。南島語族という言葉で聞いたことがある方もいるかもしれません。

 オーストロネシア語族は、台湾、フィリピン、ベトナムを含む南方に起源を持つとされ、インドネシア、メラネシア、ポリネシアなど広範囲に展開した人類の集団です。言語学者の崎山理は、日本語の元を形成したひとつはオーストロネシア語だとして、その渡来の時期を3期に分けています。

 1.ハイ期  4000年前
 2.ヨネ期  3000年前
 3.ハヤト期 1800年前

 このうち、「南」を意味する「ハイ」という言葉とともに渡来したのは4000年前です。その頃、与論の珊瑚礁は成長を始めていましたが、リーフはまだ形成されていません。人類が上陸するのは早かったかもしれません。注目したいのは、珊瑚礁がリーフを形成した約3000年前と重なるヨネ期です。この第二期の渡来では、オーストロネシア語族は「砂州」を表す「ヨネ」という言葉を携えているのですが、これは与論にとっても重要な言葉であり、与論の最古の遺跡のひとつであるヤドゥンジョーが約3000年前とされることにも符合していて、彼らが最初の与論人(ユンヌンチュ)である可能性を持っています。与論の神話に言う、赤崎からの開発祖神の上陸とは、彼らのことを指しているのかもしれません。

 ところで、与論が珊瑚礁の島として環境が整ったのは琉球弧のなかでも新しい方で、すでに7000年前には、曾畑式と呼ばれる土器が九州から伝わり、琉球弧もその文化圏に入っていて、北からの人の移住もあったのではないかと考えてられています。けれど、その頃はまだ島人はいなかったと考えると、与論との直接的な関わりはまだ無かったことになります。

 与論がはっきりと関わっただろうと考えられるのは、大和の弥生時代に始まる貝交易です。柳田國男は貨幣の価値を持った「宝貝」を求めて南から北へ北上した「日本人」を想定しましたが、貝はどうやら不思議な力を秘めているようです。琉球弧産のイモガイ、ゴホウラなどを、大和の豪族は、自らの威信を高める印として腕に貝輪をはめたというのです。その際に、奄美の島々は交易の中継ぎの役割を担ったと考えられていますが、与論の島人も貝交易のどこかに登場していたのかもしれません。

 大和の古墳時代に当たる1800年前には再び、オーストロネシア語族の渡来が想定されていますが、これも与論にとって重要だったはずです。彼らが運んだ言葉のなかに、アマンが入っているからです。アマンがトーテムとなり、アマンジョーという地名がついたのもこの時期かもしれません。

 そして貝交易は続き、やがてヤコウガイが大和で大きな需要を持つようになります。それに呼応するように、奄美大島の北部ではヤコウガイの大量出土遺跡がいくつも見つかっています。それは五百年も続いたとされているので、ヤコウガイもとても大きな存在だったのです。

 八世紀になると、大和の歴史書のなかに、「奄美」、「多褹」、「夜久」、「度感」、「信覚」、「求美」などが朝貢したという記録が表れます。大和朝廷が琉球弧の島々を勢力下に収めたわけですが、ここでの「など」の中に与論は含まれていてもいなくても、どちらでも不思議はありません。ただ、太宰府跡から発見された八世紀のものとされる木簡にある「伊藍嶋」は沖永良部島の可能性も指摘されており、与論にもこうした大和朝廷の活動が身近に迫っていたのは確かなことだと思われます。

 「奄美世」の時代の遺跡である上城(ウワイグスク)からは、猪とともに、魚貝類や鯨、ジュゴンの骨が出土していて、当時の島人が狩猟と漁労で生活していたことが分かります。きっと今よりはるかに海人だったことでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/20

与論史1 珊瑚世(うるゆ)

 ふつうは「奄美世」から始めますが、珊瑚礁抜きには与論のことは語れないので、珊瑚礁が島に積もった時から今の珊瑚礁ができるまでをひとつの時代として捉えてみたいのです。その時代を、「珊瑚世(うるゆ)」と名づけます。

 「珊瑚世」は更新世と呼ばれる時代に始まります。もとになっているのは立長層と呼ばれる基盤岩です。この基盤岩は水を通しませんから、今でも地下水は立長層の上を流れています。この、谷間も多くでこぼこした立長層の上に珊瑚礁ができて長い時間をかけて島に積もっていったのです。

 「立長層の上に」というのは、海面が今より上にあった時があるということです。海面が上ということは今の島の陸の部分でも海面下になったということです。そこで、珊瑚が育つのに適切な条件が整うと珊瑚礁ができます。その後、海面が上昇したり下降したりすると、残された珊瑚礁は石灰岩として堆積していくことになります。

 海面は色んな高さになりましたから、与論には大小さまざまな珊瑚礁が同心円状にできました。与論城から那間のある北東部分はそれがはっきり表れていて、六段の段丘が確認できるといいます。これは、六つの珊瑚礁があったことを示します。

 ただ実は、与論にあった珊瑚礁の数は六つを上回ります。たとえば、今ぼくたちが見ている珊瑚礁のひとつ前には、空港付近の一帯に珊瑚礁がありました。プリシアのあるハニブから遊歩道のビドゥ、そして与論港、供利港にかけてリーフがあり、その内側の陸地がイノー(礁池)でした。だから、城(グスク)を中心とした珊瑚礁以外にも別の形でできたこともあったのです。

 時代は、89万年前から39万年前にできた層があるのは確認されていますが、これははっきり言える範囲のことなので、実際には、「珊瑚世」はもっと前から始まっています。そんな気の遠くなるような昔から珊瑚が出来ては積もり、また別の場所にできては積もりを繰り返して基盤岩を覆い、いまある地形の原型を作っていきました。

 しかし、与論島の地形は基盤岩の上に珊瑚礁が積もってできたというだけではありません。小さく平坦な島なのに迫力もあるのは、南北と東西に入る断層があるからですね。与論城から島の南西側が見渡せるのは、南側と西側で地層が落ちているからです。ここが典型的なように、大きく見れば、島の東部に対して西部が、島の東部のなかでは南部に対して北部が落ちています。珊瑚礁の堆積だけではなく、断層もまた島の地形に一役買っているわけです。この断層によって、船から見る島影はあくまで平坦なのに、道々はアップダウンの激しい、ヨロンマラソン・ランナー泣かせの地形ができました。

 「珊瑚世」のなかで、与論は何度も海面下に没したことがありますが、最後に姿を現したのはいつのことでしょう。はっきりした時期は分かっていませんが、喜界島が海面上に姿を現したのは約10万年前ですから、それとの対比で考えると7万年前頃ではないかと推測できます。その頃は、氷河期で海面は下がっていったので、与論の陸地も次第に大きくなっています。そして氷河期のピークだった2万年前には、海面はなんと今より120mから140m、下だったと言われています。ということは当時、与論は標高200m以上の島になっていたわけです。

 そしてその頃には、人類は琉球弧にも到達しています。奄美大島、沖縄島、石垣島では、2万年前かそれ以上前の遺跡や人骨が見つかっているので、もしかしたら、与論島に初上陸した人類もいたのかもしれません。

 ただ、200m以上になったと言っても、沖永良部島や沖縄島の国頭とつながっていたわけではなく、小さな島であることに変わりないので、与論で生活できるにはもうひとつの条件が必要だったかもしれません。その条件とは、珊瑚礁ができることです。

 ここまで来ると、調査のおかげで年代ははっきりしていて、今のリーフの場所の海面下から珊瑚が成長し始めたのは約5千年前、そしてその珊瑚が海面に到達したのは約3千年前です。こうして「珊瑚世」を通して、島人が生活できる環境が整っていきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/19

「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」のまとめ

 平田国雄の「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」(1956年)の要約、まとめは以下の通り。


1.与論島の調査によって、堡礁形成の理論の進展を見た。与論島の堡礁は、水深10mの地点に沿って堡礁として形成されたと推論される。ダーウィン他が主張するような周辺からの二次形成ではない。

2.珊瑚礁は水深10mの地点を他の地点よりも好むからで、次の4つの要因が重要である。珊瑚礁は、「太陽光」と「高温」を好む。それは「波」と「砂の堆積」の抑制と受けながらも、浅海域においより繁茂する。

3.堡礁の状態を長期に保つには、礁湖に砂が堆積されているに違いない。

4.しかし、長期的には、珊瑚礁に埋もれて裾礁になってしまう堡礁もある。

5.ダーウィン以降の、沈降説による堡礁形成は、これらの基盤となる珊瑚礁の二次的な成長の結果、起こる。

6.与論島の最近の珊瑚礁はとても若く、この数千年の間に形成されたと考えられる。これらは、珊瑚礁が最初の段階でどのように形成されたかを推察するにはとてもよい例になる。

7.与論島は、その形成最初期の段階から隆起している。

8.島の東北部分は、6段の隆起珊瑚礁が同心円状に広がっている。そのうち低い個所の四段は、堡礁として形成されたものである。

9.東南部分では、六段の台地がみつかる。最も高いものが、島の頂上94mのすぐ下にある。このことは、現在の珊瑚礁を含めると、七段の珊瑚礁がこの島にはあることを示す。

10.ハニブのある半島部では多数のドリーネがみつかる。珊瑚砂岩が、珊瑚礁の薄い膜のしたで、基盤岩として頻繁に晒された。この基盤岩は容易に溶解してしまい、結果、ドリーネが形成された。

11.立長と麦屋の二つの区域には、全く珊瑚礁がみられない。立長の区域は断層線を越えて、島の最高所まで伸びている。これら二つの区域で珊瑚石灰岩が見られないのは、氷河期の間、変成岩は泥のなかにあり、海水準の変動でそれが取り払われたのが決定的な原因である。

12.与論島の全ての隆起珊瑚礁は厚さが薄い。基盤岩がむき出しのところでは、10未満がふつうである。もともとの厚さも20m満たないだろう。これは短い間に形成されたことを示す。

13.与論の隆起珊瑚礁は更新世のもの。現在の珊瑚礁(Ⅶ)と汀線周辺の隆起珊瑚(Ⅵ)は沖積世。古里珊瑚(Ⅴ)とウロー珊瑚(Ⅳ)は、第三間氷期の間に形成された可能性が高い。

14.琴平の崖には、四段の台地がある。これが示唆するのは、この断層線は、珊瑚礁以前のものではないかということだ。

 1956年の論文だけあって現在では既知になっている項目も多い。現在でも新しい知見になるのは、11、12、14だろうか。

 復帰直後、与論は珊瑚礁研究のよいサンプルと見なされたことが分かる。観光客や沖縄復帰の運動家の前に彼らに注目されていたということだ。

 「足戸」が「朝戸」に改称されたのは1954年だが、平田の研究は、「Ashito」となっていて旧名称で聞き取っていたことも分かる。そういうことも面白い。平田が書いたのは、研究論文なのでもちろん、そのようなことは書かれていないが、復帰直後の与論の貧しさは彼の目にどう映っていただろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/18

ウロー珊瑚礁の頃

 それで結局、何をしたかったかと言えば、その昔の与論の姿を描いてみたかった。

 ウロ山脈が、リーフを形成していた頃。海水準は、80mくらい。断層は形成されていないから、80m以上地帯は、西と北にもっと伸びていたはずだ。ちょうどウロ山脈の縮小版のように。西方面は、不明なので珊瑚礁は途切れさせた。西が礁の途切れた島の想像。

 グレーの線と点線は現在の地形と珊瑚礁。


Urosango_3

 
 この時、もちろん人はいない。ハブもいなかっただろう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/17

断層形成以前の標高2

 こんどは昨日の図を元に、断層形成以前の標高算出のための補正値を求めてみる。

1

 かなりおおざっぱだが、下記のようになる。

Photo_2

 これを元にすると、茶花の礁湖は、やはりもともとつながっていて、島の形は凹みのない楕円形だったのではなかと思わせる。

 ちなみに、下は与論周辺の海図だ。

Img003


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/16

断層の形成過程のイメージ2

 『新編 日本の活断層―分布図と資料』(活断層研究会、1991年)は、与論には確実度Ⅰの活断層が二つあるとしている。

朝戸断層
・城面  S(20)
・那間面 S(15)

辻宮断層
・城面  E(50±)
・那間面 E(10±)
(p.401)

 これの意味するところを図示すれば、下図のようになると思われる。

1

 これを見ると、小田原・井龍の、

 ここでは各ブロックの高度を固定して、北東ブロックおよび西ブロックを断層形成以前の標高に戻すことにする。このようにして見積もられた断層による変位は、西北西-東南東断層により北東ブロックが約10m、北北西-南南東断層により西ブロックが北部で約10m、同南部で約50m落ちたことになる。「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)

 という記述は、やはり相当に単純化したものだと分かる。

 『新編 日本の活断層―分布図と資料』では、活断層の可能性を想定した崖の位置も描かれているので、これを元に、再度、断層形成の過程をイメージしてみる。

 前提としては、ウカチとシナハに最初、標高差は無かったとする。また、仮定としては、城面に対して、周囲が沈下したとしてみる。

 まず、辻宮断層の南部、城(グスク)の西方が下降する(1)。その影響を受けて、茶花の北方が落ちる(2)。茶花北の崖はひとつの線ではなく、三か所に別れているのは、南部の下降の影響を受けた側であることを示していると見なす。次いで、南部、茶花北の下降に耐えられなくなって、辻宮断層の北方部分も下降する(3)。

 次に、朝戸断層が、城(グスク)の北面で下降する(4)。この影響を受けて、辻宮断層の北部分も下降する(5)。ただし、この下降によって、「宇勝」側が「品覇」側の下になるほどではなかった。もともとの城(グスク)の西方の下降が著しかったためである、と考える。

 この形成順を番号で示す。

Photo

 上図の3と5は、下降だけではなく、南北へのずれも生んでおり、「宇勝」側が北へ伸び、「品覇」側は南へ伸びている。


『新編 日本の活断層―分布図と資料』


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/15

断層形成以前の標高

 昨日の結果を元に断層形成以前の標高をシミュレーションしてみる。

1.V-Y軸の北部が10m下降。
・茶花(-10)、立長(-0)、品覇(-10)、那間(-10)

2.X-Z軸の西部が10m下降
・茶花(-20)、立長(-10)、品覇(-20)、那間(-10)

3.W-Z軸の西部が10m下降
・茶花(-30)、立長(-20)、品覇(-20)、那間(-10)

4.Z軸の西部が30m下降
・茶花(-30)、立長(-50)、品覇(-20)、那間(-10)

現在の標高
・茶花(0)、立長(20)、品覇(20)、那間(30)

断層形成以前の標高
・茶花(30)、立長(70)、品覇(40)、那間(40)

 想像を膨らませれば、もともとの島は、東側は、ピャンチク、ミナタ離れも島の一部、そして西側の茶花港沖の広い礁湖も陸地だったということではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/14

断層の形成過程イメージ

 ここでは各ブロックの高度を固定して、北東ブロックおよび西ブロックを断層形成以前の標高に戻すことにする。このようにして見積もられた断層による変位は、西北西-東南東断層により北東ブロックが約10m、北北西-南南東断層により西ブロックが北部で約10m、同南部で約50m落ちたことになる。「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)

 この説明はシンプルなのだが、理解するのは難しい。

 いままで聞いてきたのは、X-Z軸の「中央断層線」とY軸の「東部断層線」だ。でも確かに、Y軸が島を横断しないのは不自然だから、小田原・井龍が言うように、W-Y軸(西北西-東南東断層)とX-Z軸(北北西-南南東断層)となる方が整合性が取れる。

 しかし、小田原・井龍の記述は、結果としての断層なので、推移が分からない。そこでV軸も設けて、断層形成の過程を考えてみたい。

1.V-Y軸の北部が10m下降。
・茶花(-10)、立長(-0)、品覇(-10)、那間(-10)

2.X-Z軸の西部が10m下降
・茶花(-20)、立長(-10)、品覇(-20)、那間(-10)

3.W-Z軸の西部が10m下降
・茶花(-30)、立長(-20)、品覇(-20)、那間(-10)

4.Z軸の西部が30m下降
・茶花(-30)、立長(-50)、品覇(-20)、那間(-10)

 これは、小田原・井龍の記述と矛盾がないのか分からないが、仮定として置いてみる。


Photo


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/13

供利層珊瑚礁のイメージ

 供利層は、チチ崎層とともに琉球層群のなかで最も新しい層と位置づけられている。現在ある珊瑚礁の少なくともひとつ前のものだと目される。

 ハニブ、供利港、与論港にかけての、標高20m以下の一帯に分布しており、したがって海面も20m付近にあったものと想定されている。層厚は、露出部分からの判断では最大10m。また、供利層が形成されたのは、断層ができて後のこととされている。

 「鹿児島県与論島における新期礁複合体堆積物の堆積環境及び礁復元」(吉田慈・松田博貴『堆積学研究 53号』2001年)は、供利層の各地点を調査に当時の珊瑚礁のありように接近しようとしている。

供利層の堆積時には、西側遊歩道から東側供利漁港にかけての現在の島の外縁から内陸にかけて、礁斜面、外側礁原、礁嶺、内側礁原、浅礁湖の各礁環境が帯状に広がっていったものと推定される。また柱状9に示されるように、浅礁湖から礁斜面にの堆積層の垂直的変化から、礁は沖側から陸側へと成長していったものと推定される。さらに礁の規模としては、供利層の分布域が標高20m付近までであることから、供利層堆積時にはこれより内側は陸域であったとすると、浅礁湖は約500~1000mの幅で広がっていたと推定され、これは現在の白保海岸などとほぼ同じ規模であったと推定される(p.93)

 今の汀線(海岸線)が、リーフ(礁嶺)近くだったということになる。この調査を元に、イメージ図を描いてみた。礁嶺(リーフ)ラインと汀線(海岸線)ラインは、ぼくが想定したもの。各地点の状態は、調査結果に依るものだ。

Tomori


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/12

茶花と古里の砂地

 「与論島の琉球石灰岩」(野田睦夫、1976年)の「琉球石灰岩層上部層堆積時の形態」をもう一度、見てみる。

Noda008

 このイメージ図と1999年の「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』)の地質図を重ねてみると面白い。

Yoronjima8

 茶花から立長にかけての一帯と古里は、完新生の砂浜で構成されている。これは上図で、茶花から立長にかけての一帯が、イノーの真ん中に当たるのと対応している。また、古里は基盤地形のなかで谷部に当たるので、東からの砂の流入を強く受けたということだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/11

その昔の与論島珊瑚礁シミュレーション

 1976年に公表された「与論島の琉球石灰岩」(野田睦夫)では、城(グスク)付近のみ海面から出ていた時期の珊瑚礁がシミュレーションされていて興味深い。

Noda008

 野田は日本語で表記する労を惜しんでいるので、努めてみる。

[back-reef shoals] 礁池から見て、リーフ(礁嶺)手前の浅瀬
[back-reef apron] 礁池内の堆積個所。イノーで泳いでいて立てる所に当たると思う。
[sand flat] 砂地
[coral zone] 珊瑚礁
[algal rim] 藻でできた縁
[reef front] 縁脚-縁溝
[reef slope] 外側斜面
[submarine ridge] 外側斜面と陸棚の境界
[off-reef floor] 礁周縁

 城(グスク)から立長東部にかけて島を想定。珊瑚礁は、島の中央の高所のラインが想定されている。ウロ山脈はこの時、珊瑚礁と陸棚との境界に位置している。また、ハニブ一帯は、西側の珊瑚礁前の浅瀬に想定されている。だが、その向こうにリーフが出現していたわけではない。

 与論島の琉球石灰岩層上部層堆積時の形態は、MAXWELL(1968)の open ring reef あるいは composite apron reef に近いものであったと考えられる(p.379)。

 野田は論文も英語表記の専門用語で済ませている個所が多いので、非専門家に不親切なのだが、仕方がないので、『Atlas of the Great Barrier Reef』(1968年、W.G.H. Maxwell)にも当たってみた。

Apron001
(p.101)

 上図の8が、「composite apron reef」、9が「open ring reef」だ。おおよその見当がつく。もちろんこの時、島の東西を分かつ断層が起きる前ということである。ラフなスケッチではあるけれど、イメージが膨らんで楽しい。


『Atlas of the Great Barrier Reef』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/10

与論島堡礁のリーフ推移イメージ

 ここでやってみたいのは、与論に6段の隆起珊瑚礁が形成されていると発表した1956年の平田と、琉球層の形成史を調査した1999年の小田原・井龍の、半世紀近くを間に挟んだ両研究を対照させて、リーフ(礁嶺)がどの段階で形成されていたかについて、肉迫することだ。

1

(「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」(平田国雄、1956年)と「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)から作表)

 図が小さくて見えにくいので、まず、小田原・井龍のパートが以下。

2

 続いて、形成順を示す1~7の段階と、6段の隆起珊瑚礁の位置との対応が以下。

3

 まず、平田の段階(1956年)では、最初の珊瑚礁である宇勝層、麦屋層、そして最後の珊瑚礁であるチチ崎層、供利層は認識されていなので、除外して対照する。すると、6段の隆起珊瑚礁に2~6の珊瑚礁形成段階が1対1対応で都合よく対照されるわけではないことが分かる。

 最も大きな理由は、海水準の上昇(海進)は短期間で起こるわけではなく、時間をかけるので、複数の堡礁が形成された可能性があるからだ。しかも、珊瑚礁形成に関与した海進は三回に及ぶので、該当する箇所はその都度、堆積が進むことになる。

 2の段階の海水準65m以上の段階で可能性があるのは、Furusato、Uro とlower Gusuku、Hamigo だ。しかし、この段階では、浅海層(水深50以浅の堆積物)は確認されていないので、堡礁にはなっていなかった可能性もある。

 3の段階と対応する可能性があるのは、Furusato、strandlineである。

 3~4、海水準30m以上から90mに上昇する段階で可能性があるのは、Uro、upper Hamigo、Gusuku、Kompiraである。

 5の段階に対応しているのは、Furusato、lower Hamigo。

 5から6、海水準が35m以上から100mに再び上昇する段階では、Uro、Hamigo、Gusuku、Kompiraの可能性がある。

 たとえば、ウロ山脈の琉球層群は、下から、ユニットが1R、2C、2R、3C,、3Rと続くので、3から4、そして5から6の間で、堡礁のリーフになった可能性がある。また、ハジピキパンタの厚い珊瑚礁も、3~4、5~6へ海水準上昇の過程で、ハジピキパンタ周辺が浅くなり浅海層として堆積されたものだということが分かる。5~6の期間はゆったりと、かつ長い時間をかけていることは、島の半分近い領域をカバーしていることからもうかがい知れる。

 このプロセスを画像シミュレーションで再現したら、どんなに美しいことだろう。


※平田が、番号を振った段丘の個所は下記のように図示されている。

Yoron2003_1


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/09

1956年の与論島珊瑚礁研究 South-eastern Part.

 続いて、城、朝戸の南東部分。

南東部分

 この部分は、西と北の二つの明確な断層線と、南岸に沿った崖に囲まれた台地である。最も高い場所は94mあり、崖の角に位置している。この台地は、最も高い場所から南東へ約2-3度、ゆったりと傾いている。そこには、古生代石灰岩や珊瑚礁もみられない二つの変成岩の区域がある。ひとつは、島の最高地点のまわり、断層線をまたいで立長へと広がり、もうひとつは、広々とした麦屋である。

 珊瑚礁は別の部分、朝戸と城でよく発達している。朝戸の珊瑚礁は、2度の傾斜で東へ広がり、城の珊瑚礁は約3度の傾斜で南東に広がっている。城の珊瑚礁は、コンピラからハミゴーにかけての、二つ目の台地と一連のリーフの構成であることが明らかである。これらの台地の高さは、およそ次の通り。琴平の前のコンピラの台地は90m、城集落の上方は80m、下方が65-70m、ハミゴー上方の台地が40-50m、そして下方が25m。コンピラの断層線の表面には4段階の珊瑚礁が見られる。これは上方の4つの台地に対応している。崖の下にある伊波の珊瑚礁は、ハミゴーの25mの台地に対応している。この個所では、海岸線に沿った10mの珊瑚礁は、直に25mの珊瑚礁に続いているが、激しい破壊を受けており、東北部分と同様、両者を明確に区別するのは難しい。

 コンピラの下、断層線の崖の表面の4段が示唆するのは、与論島に珊瑚礁ができる前のものではないかということだ。

 朝戸と城で見られる隆起珊瑚礁における断層線に沿った基盤岩は、海水の浸食をもっとも見事に受けているにも関わらず、全て古代石灰岩である。それらはほとんど古代石灰岩や他の変成岩の礫岩の複合体である。マエバマでは古代石灰岩になり、赤崎では変成岩になる。

 麦屋の南の縁の隆起珊瑚礁は、フルサト珊瑚礁と断層線の珊瑚礁との複合体であると解することができる。麦屋の東の海岸線に沿って、変成岩が露呈して目立っている。しかし、ちょっと内側では、変成岩の基盤の上に育ち損ねた珊瑚礁が残っている。この珊瑚礁は、標高25m弱のフルサト珊瑚礁と同時期に形成されたと解することができる。この場所で砂浜を離れると、変成岩の上部の珊瑚礁がみられる。これは、欠如しているものの、海岸線の珊瑚礁であることを示している。

 訳が思うようにいってないが、「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」(平田国雄、1956年)のここでの眼目は、城(グスク)の隆起珊瑚礁は、二つ、認識できるということだと思う。

 原文は以下。

South-eastern Part.

This part is a high terrace surrounded by two dinstinct dsilocation lines, western and northern, and a cliff along the southern strandline. The highest point of the island (94m) is situated at the north-western corner of this point. The terrace inclines gently from the highest point towards south-east with the inclinaion of about 2-3 degrees. There are two districts of metamorphic rock where no palaeozoic limestone and no coral can be found, one the small part around the highest point of the island which expands westwards down across the dislocation line to Ritcho and the other the spaceous part of Mugiya.

Coral is well developped in the other parts, especially Ashito and gusuku. Ashito coral was formed on the surface with the dip about 2 degrees eastwards and Gusuku coral on the surface with the dip of abut 3 degrees south-eastwards, the latter clearly revealing secondary terraces from Kompira to Hammigo, which were formed by a series of reef constructions. The altitudes of these teracces are approximately as follows: Kompira teracce, 90 meters; terrace of a field in front of Kompira, 80 meters (upper Gusuku); terrace of Gusuku Village, 70-65 meterrs (lower Gusuku); upper terrace of Hamigo, 50-40 meters; and lower terrace of Hamigo, 25 meters. On the cliff surface of the dislocation line Kompira, four steps of coral can be seen, which correspond to the upper four terrace just mentioned , Iba coral just beneath the cliff corresponding to 25 meter terrace of Hamigo. In this part , 10 meter coral along the strandline is directly continuous with 25 meter coral, received severe destruction and it is difficult to distinguish it from the latter so clearly as in the north-eastern part.

Four steps of terrace on the cliff surface of the dislocation line below Kompira indicate the dislocation in Yoron Island is pre-coralic.

The foundatin of the raised coral reef found in Ashito and gusuku are all palaezoic limestone, whereas along the strandline where the foundation rock is most beautifully exposed by marine erosion, it is mostly conglommerate composed of pebbles of palaezoic limestone and other metamorphic rock and in one place, west to Maebama, palaezoic limestone and in another place at Aka-saki, metamorphic rock.

The raised coral which fringes the southern marginal part of Mugiya may be interpreted to be composed of two corals, Furusato-coral and strandline coral. Along the eastern strandline of Mugiya, a conspicuous cliff of metamorphic rock is exposed naked; but a little inside the margin, a veneer of ill-developed coral is left on the foundation of metamorphic rock. This coral may be interpreted to be contemporaneous with Furusato-coral, its altitude being 25 meters or less. Off the beach of this part, there is a raised coral rock lynig on metamorphic rock foundation. This represents the strandline coral, which otherwise lacks here.(「Scological Studies on the Recent and Raised Coral Reefs in Yoron Island by Kunio HIRATA」)



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/08

1956年の与論島珊瑚礁研究 North-eastern Part.

 那間、叶、古里の東北部分については、「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」のなかで平田が最も力を入れ、成果として提出しているものだと思う。

東北部分

 この部分は、東南部分にある島の最高地点(94m)から、北と東にかけて、1、2度のゆるやかな勾配が途切れずに続いている。南から北へ伸びる断層線の個所は、この島の背骨に当たっている。

 ここは6段の隆起珊瑚礁が、最高所から海岸線まで、Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,Ⅳ,ⅤそしてⅥと、同心円状に広がっているのが特徴的である。Ⅲ,Ⅳ,Ⅴ そして Ⅵについては、堡礁を形成していただろう。

 Ⅳのリーフは、比較的細く、かつその内外に広い範囲で水田が広がっているにもかかわらず、その高さは顕著で、最も目立っている。そのリーフは、ウロサンミャクと地元で呼ばれるが、それは珊瑚礁の山脈を意味している。

 海岸線に沿った隆起珊瑚礁は、極端に狭い。

 6つの珊瑚礁の標高は、Ⅰが85m、Ⅱが60-65m、Ⅲが55m、Ⅳが45m、Ⅴが25m、Ⅵが10mである。この部分の南半分の後者4つは、発育不充分で、Ⅲは50m、Ⅳは35m、Ⅴは15m、そしてⅥは完全に欠損している。それぞれ、残った隆起珊瑚は、南部において見られる。

 その理由として考えられるのは、この個所において、新鮮な水と砂の蓄積とによって、珊瑚礁の成長が中断されたことだ。この島において、新鮮な水は地下水となり、地表には、雨の時のみ現れる少数の短い小川を除いて、川がない。古里の真ん中辺りに通じる最も大きい小川でも、幅10mで約300mを辿るに過ぎない。

 ふだんは乾いている。しかし雨になると、東北部の3分の2の個所からあふれた水が河口に集まる。さらに砂の蓄積も激しい。現在のリーフの大きく開いた個所は、埋もれてしまったものだ。それと同じことが、東北部のどの隆起珊瑚においても繰り返されたのだ。

 この個所における隆起珊瑚礁の基盤は、古生代石灰岩、古生代石灰岩の複合体、そして有孔虫綱の混じった古生代石灰の砂でできている。

 6段の隆起珊瑚礁が同心円上に広がっているという「発見」が、平田が実績として主張しているものだ。少なくともこの研究の時点では、与論は過去6回、珊瑚礁が形成されたと考えられたわけだ。

 雨の際は、古里の真ん中辺りに流れ出る水というのはウプガニク(大金久)のクジリを指しているのではないだろうか。水の流出と砂の堆積が隆起珊瑚礁を埋め、その姿を見えにくくしていると言っているのだと思う。

 この6段のついて、平田は図解している。

Yoron2003_1

 原文は以下。

North-eastern Part.

This part makes gentle slope of about 1-2 degrees from southwestern corner, which is directly continuous with highest point of the island(94m) in the south-eastern part, to north and east. The part along the dislocation line which runs from south to north may be said to be the back bone of the island.

This part is peculiarized by the presence of six steps of raised coral reefs concentrically arranged, which are nominated the raised coral reef Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,Ⅳ,Ⅴ and Ⅵ from the heights down to the strandline, of which four, Ⅲ,Ⅳ,Ⅴ and Ⅵ may be interpreted to have been the barrier reefs.

The reef Ⅳ is the most standing out, the elevation being conspicuous, in spite of its comparatively narrow width, and being intercalated between two spacious rice fields, inside and outside, and is called Uro-sammyaku by natives, which means Coral Mountain Range.

The raised coral reef along the strandline is extremely narrow.

Altitude of these six coral reefs are 85 meters (Ⅰ),65-60 meters (Ⅱ), 55 meters (Ⅲ), 45 meters (Ⅳ), 25 meters (Ⅴ) and 10 meters(Ⅵ). In the southern half of this part, the latter four are undergrown, the altitudes being 50 meters (Ⅲ),35meters (Ⅳ) and 15 meters (Ⅴ), the coral Ⅵ lacing completely.

The openings left in each of these raised barriers are arranged in this southern part

About the reason why coral growth had been checked in this part, the effect of fresh water and of sand accumulation must be taken up. In this island, fresh water goes underground and no river can be found,except a few short brook beds, which work only in rain. The largest brook bed opens near the middle point of the sand beach of Furusato, which is about 10 meters in width at the beach and can be traced up only for about 300 meters.

Ordinary it is dry; but,in the rain, flooded water from two third of this north-eastern part gathers to this outlet. Furthermore, sand accumulation is here the heaniest . and at the wide opening in the present barrier, coral is burriied under it. The same must have been repeated in every raised barriers in this part, as it is the lowest of the north-eastern part.

The foundation of the raised corals found in this part were palaeozoic limestone, conglomerate of palaeozoic limestone, and sand of palaeozoic limestone plus foraminifera.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/07

1956年の与論島珊瑚礁研究 Western Part.

 与論島の珊瑚礁形成について、1956年の調査記録を見つけた。昭和31年だから、とても早い時期から珊瑚礁島として与論は注目されたことになる。珊瑚礁が引き寄せたのは観光だけではなかったわけだ。

 その研究、「与論島の現生珊瑚礁及び隆起珊瑚礁の生態学的研究」(平田国雄、1956年)は、国会図書館では英文しかないので、下手ながら訳出してみた。

 まずは、島の西、茶花や供利について。

 茶花から朝戸への道と茶花から那間への道とで区切られる三角形の部分は断層線になっている。それぞれの道は急な勾配で、珊瑚石灰岩と低木の茂みで覆われている。その他の個所はおおむね平坦である。ハニブは半島域で、薄い珊瑚で覆われ、多数のドリーネが存在することが特徴的で、最も標高の高い場所で22mある。

 立長区域には珊瑚は見られず、最も標高の高い場所で30mを少し越え、低い個所には水田が残る。茶花から朝戸への道の右側は細い高台が小さな水田を囲んでいるが、これは小規模の珊瑚礁で、現在、外と内の小さな水田の間にある。

 この個所における隆起珊瑚礁の基盤は、古生代石灰岩、または珊瑚の砂岩である。ドリーネは、水田や畑に耕された丸い陥没で示されている。その大部分は、直径40から60mの大きさである。水田は吸収する気孔のあることが特徴。直径1.5から3mで30cmの高さの丸い土手は、中心に気孔をつくる。

 ふだん、この土手は水田の外への水が吸収するのを防ぎ、雨の際は、地下からあふれた水が外から流れ込み30cm以上の深さにならないようにしている。

 標高約20mの半島のドリーネは、主要道路のまわりにもあるり、67を数える、。ドリーネは島の他の部分でも見られるが数は多くない。この区域に多数のドリーネが存在する理由は、こういうことがあるのかもしれない。ここでは、珊瑚の砂岩は、供利や茶花から供利に向かう道のまわりで明確な通り、基盤岩のように頻繁に晒されている。隆起珊瑚の下は、溶解性の基盤岩で、珊瑚砂岩や珊瑚砂自身も地下水によって溶けてしまった。結果、驚くべき数のドリーネを生むことになった。

 立長区域に一片の珊瑚も見られない理由は、後のパラグラフで説明される。

 茶花から那間の間は、bush だったのはぼくも覚えている。子供時分には、鬱蒼とした木々で道が覆われている通りは怖かった。また、この時には、朝戸はまだ「アシト」と呼ばれていたことも分かり、興味深い。

 研究では、茶花の低地の説明はなく、立長のドリーネが注目されている。

 原文は以下。

Western Part.

The triangular part enclosed by the dislocation line, the road from Chabana to Ashito and that from Chabana to Nama is an irregular slope with a steeper dip and is covered with coral limestone and bushes. The oher part is generally flat. Hanibu, the peninsula district, is covered with a thin veneer of coral and is peculiarized by the presence of a large number of dolinae; the highest point of this district is 22 meters in altitude. No coral can be found in Ritcho district, the highest point of which being a little over 30 meters in altirude. The lower part are left as rice fields. A slender elevation, circumscribing a small rice field on the right side of the road from Chabana to Ashito may have been a barrier reef of small scale, now lying between two rice fields, inside and outside.

The fouodation of the raised coral found in this part was palaeozoic limestone or coral sandstone. Dolinae are represented by round depressions which are cultivated as rice fields or dry fields. Most of them are of the size from 40 to 60 meters in diameter. The rice fields are peculiarized by the presence of the imbibition pore. A circular bank of 1.500-3.00 meters in diameter and of about 30 centimeters in heighest is constructed , making the pore as its center. At ordinary time, this bank protects water which is held outside in the rice field from being imbibed in; and at rain, it prevents the water which is held outside in the rice field from deepening over 30 centimeters, flooded water being imbibed underground.

Sixty seven dolinae were enumerated even along the principal roads in this peninsula. The peninsula is ca. 20meters in altitude. Some dolinae were seen also in the other parts of the island, but not so many. Concerning the reason why so many dolinae exist in this district, one following fact may be noticed. Here, coral sandstone is frequently exposed as the foundation rock, the most distinctly at of Tomori and several points along the road from Chabana to Tomori. Under the raised coral reef, soluble foundation rock, viz. coral sandstone and perhaps sometimes coral sand itself, may have been dissolved away by underground water, resulting in the foundation of such numeruos dolinae.

About the reason why even a piece of coral cannot be found in Ritcho district, an explanation will be given in a later paraagraph. (「Scological Studies on the Recent and Raised Coral Reefs in Yoron Island by Kunio HIRATA」)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/06

与論島層ユニット3

 ユニット2Cの堆積後に、海水準は55m降下して、標高35mに達する。「この低海水準期には島の低所にサンゴ礁が形成され、サンゴ石灰岩(ユニット3C)が堆積した。これらは古里および品覇などでみられる」(「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年))。

 この後、再び海水準は上昇。100mまで達し、島は完全に海中に没したとみられる。

 ということは、海面から下いっぱいに珊瑚礁が広がっていたということか。見てみたかった。

 これまで珊瑚礁島としての与論は、隆起が進むにつれ、与論城の周辺から順に、下へ下へと珊瑚礁ができ、陸化とともに石灰岩化したものと漠然とイメージしてきたけれど、それは全く違って、下から上へと作られていったということだ。しかもそれが三回、続いている。たとえば、ハジピパンタの厚い層も、二回分の海水準上昇の跡をとどめているかもしれない。境界がわかるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/05

与論島層ユニット2

 与論島層のユニット2には、浅い場所の堆積物も確認されている。

 ユニット2Cは、ユニット1Rの上に整合的に重なっているから、ユニット1Rの堆積後に、海水準は、標高65mから30m付近まで下降。そして、「宇勝・賀補呂・品覇・赤崎~前浜一帯のサンゴ石灰岩」が堆積する。

 この後、再び海水準は上昇し、ユニット2C(水深50m以下の浅瀬にできる)は、より高いところに堆積した。そして海面は、標高90mに達し、城(グスク)を除いて海面に没する。水深50m以下の地点ができ、ユニット2Rが堆積した。これは、賀補呂から古里を経て麦屋まで広く分布する。この時、これらの一帯は、沖合の礁前縁深部であったと想定される。リーフの外側だったわけだ。


Yoronjima8


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/04

与論島層ユニット1

 宇勝層、麦屋層の次に堆積している層は、与論島層と呼ばれる。層厚は最大55mにもなり、与論島を覆う珊瑚礁堆積の主要部分をなす。与論島層は、ユニット1~3で構成される。

 宇勝海岸でみられ、宇勝層の上位に不整合で重なるサブユニット1Rは、水深50m以深の礁前縁深部から陸棚にかけての堆積物である。これより、宇勝層陸化後、海進が起こり、与論島に再びサンゴ礁が形成されたものと推定される。サブユニット1Rが堆積しているときに浅海域で堆積したサンゴ石灰岩は地表では確認されない。このときの海面は、サブユニット1Rの分布高度より現在の標高65m以上に達していたと考えられる。(「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年))

 ウァーチで見られるのは、「石灰藻球石灰岩、Cycloclypeus-Operculina石灰岩、砕屑性石灰岩」(1R)で、これはこの位置が、リーフの外側の深い場所(水深50m以深の礁前縁深部から陸棚)になっていたことを示している。このとき、浅い海域に堆積するはずのサンゴ石灰岩は地表で見つかっていない。

 海面は、現在の「65m以上に達していた」と考えられるから、当時の島は城からハジピキパンタにかけて、縦長の楕円形の形をしていただろうか。ウァーチがリーフの外側だったとしたら、その内側で堆積した石灰岩も見つかってほしいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/03

珊瑚礁堆積物の形成深度

 「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)の記述理解用メモ。

サンゴ石灰岩(浅海相)
・水深50m以浅。

石灰藻球石灰岩、Cycloclypeus-Operculina石灰岩、砕屑性石灰岩(沖合相)
・水深50m以深。


[石灰藻球石灰岩]

紅藻類サンゴモ科の石灰藻類が球状に成長することによって形成された石灰藻球を多く含む石灰岩。

[Cycloclypeus-Operculina(サイクロクリペウス-オパキュリナ)石灰岩]

サイクロクリペウスもオパキュリナも有孔虫。「大型有孔虫図鑑」で画像が参照できる。

[砕屑(さいせつ)性石灰岩]

風化や浸食によって生じた粒子が集まってできた石灰岩。


C:サンゴ石灰岩およびそれに伴われる礫岩・砂岩
R:石灰藻球石灰岩、Cycloclypeus-Operculina石灰岩、砕屑性石灰岩およびそれらと一連の礫岩・砂岩

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/02

与論最初の珊瑚礁はウァーチとヰンジャ

 「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」によれば、与論の最初の珊瑚礁はウァーチとヰンジャだ。

 宇勝層・麦屋層のいずれかもしくは双方が与論島に形成された最初のサンゴ礁堆積物である。両層とも分布域が極めて狭く、下位層との関係も不明なため、両層堆積時にどのような規模・形態のサンゴ礁が形成されていたかは不明である。(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」)

 「規模・形態」は不明とされているが、両方とも珊瑚石灰であり、浅海相(水深50m以下の堆積物)だから、島は現在より小さめで「宇勝」、「麦屋」が海面下にあったことを物語っている。島のぐるりを取り巻いていたとしても不思議ではない。

 また、「宇勝」、「麦屋」近辺に珊瑚礁があったということは、与論の開発祖神が、赤崎、寺崎から上陸したという人の歴史と隣接しあっていて、興味をそそられる。

両層ともサンゴ石灰岩層の上面に古土壌や赤色粘土層が見られることにより、堆積後に海水準が下降して離水し、カルスト化したと考えられる。(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」)

 「宇勝」、「麦屋」に珊瑚礁を作った後、海面は下降したということだ。参照のため、図を挙げておく。


Yoronjima8


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/02/01

珊瑚礁島としての与論形成

 地質学では、与論の琉球層群の堆積体は、宇勝層・麦屋層、与論島層、供利層・チチ崎層の三層に分けられている。三層に分けられていると言うと、宇勝層・麦屋層お上に与論島層が乗り、与論島層の上に供利層・チチ崎層が乗っていると想像するが、そうに違いなくても、単純にはイメージできない。

 時々の海水準(かいすいじゅん)によって、海面の高さが異なるから、その時に形成される地層の場所、高度はまちまちなのだ。

 「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)の記述を元に、図示してみると、島としての与論が形成されるのに、少なくとも3回の堆積タイミングがある。与論島は、七回、大小さまざまの円弧で珊瑚礁が形成され、その度に珊瑚礁の堆積物が島に積もり、現在の形を作ったことになる。


Photo_2


 左軸の数字は、現在の島の高度。ちょうどハニブ(兼母)からウプガニク(大金久)までを切った断面図を模している。幅はやや圧縮しているので、実際よりは勾配が高い。

 横の線は、段階ごとの海水準を指す。珊瑚礁は、海面の下から形成されるから、海水準の下に堆積物が出来ていったとイメージすればいい。

 島人なら、賀補呂から、古里、麦屋に伸びる円弧状のウロ山脈は、珊瑚礁のリーフのラインだと想像できるが、小田原、井龍によれば、これらは櫛の歯状の構造を持つので、リーフの外側で海に落ちるとことの斜面の部分に当たると言う。

 与論は、海面の高さが変わるたびに、その高さごとに珊瑚礁の化粧を施していったようなものだ。海水準は、上下変動を繰り返しているので、高度の高い場所の珊瑚岩ほど歴史が古いわけではない。その時々の珊瑚礁はどんな絵を見せていたのだろう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »