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2014/02/27

与論史7 アメリカ世

 敗戦後の米軍統治を、与論はどう受け止めたのか。郷土史家の野口才蔵の記述を追ってみます。

それは、奄美の民族にとっては、有史以来味わったことのない、鉄鎚の下るような宣言であった。そうした当時を体験した郡民には、今なお暗い過去の思い出として、年輪の中に深く刻まれていることだろう。祖国・母国日本から生木を裂くように引き離される身の哀れさ、心の痛さをしみじみ味わった。(『与論町誌』)

 1946(昭和21)年、北緯30度線以下の地域が米軍統治下に置かれることになった「ニ・ニ宣言」に対して、野口は「鉄槌の下るような」と書きます。これを書いているのは、1988(昭和63)年ですが、「奄美の民族にとっては、有史以来味わったことのない」というフレーズは、復帰運動の時に繰り返された常套句の受け売りです。「奄美の民族」とは、近代民族国家で育った者が、その認識を元に、1609年以降に薩摩の直轄領になった地域を呼んだものですが、しかしもともと「奄美の民族」が存在していたわけではありません。また、「有史以来味わったことのない」ことにしても、有史以来生きているわけではないから分かりようがないという以前に、「祖国・母国日本から」、「引き離される」という表現そのものが近代以降の認識の仕方です。だから、「鉄槌の下るような」と書く野口の真意は言葉の意味からは汲み取れません。

 真意を汲み取るには、「鉄槌の下るような」という受け止め方が、「祖国・母国日本」から「生木を裂くように引き離される身の哀れさ、心の痛さ」を伴ったことに注目する必要があります。するとここからは、離れ島の弱小感を持つ者が、所属する国民国家から分離された時、その不安、心細さを、まるで親から引離された子のように感じていることが見えてきます。それが、「暗い過去」として思い出す際の心情の核心にあるものです。

 しかし、蓋を開けてみれば、アメリカを否定すべき相手ではありませんでした。

現在の茶花墓地北隣の浜に米軍のヘリコプターが低空飛行して、缶詰袋などを投下した光景は、まだ昨日の感じがする。こうして与論を含む日本全国に食料や衣服を無償配布できるアメリカの偉大さに心服したものだった。(『与論町誌』)

 42年前のことを昨日のことのように思い出す程、米軍による食糧配給は強烈な印象を残し、野口はアメリカに「偉大さ」を感じ、「心服」するのです。
 そして、アメリカ世の8年間を、野口はこう回想します。

戦後のどさくさから、世相は年ごとに変化していったが。しかし、日本官僚の極端な統制になれてきた島民たちは、植民地的米軍制下における民主社会では、常に精神的空白感に、うつろな人生を過ごしている思いだった。学校の三大節の儀式もなく、国旗掲揚は禁じられ、「君が代」の歌は聞けなくなり、「天皇」に関することが生活の場から消えてしまい、正月も旧正月から新しく変わり、全く帯をはずしたしまりのない感じの毎日だった。こうして日本とアメリカの混血児みたいに育てられながら、八カ年という歳月を過ごしてきたのである。(『与論町誌』)

 皇民化教育を受け、兵役の経験を持ち、30歳になる時に敗戦を迎えた野口が感じる「精神的空白感」や「うつろな人生を過ごしている思い」には、青年期をあげて打ち込んだものが無くなってしまったことに対する虚脱感が滲んでいます。マブイ(魂)の抜けたような心持ちだったことでしょう。そして、「君が代」や「天皇」に対する挫折感がないのは世代的なものでもあれば、奄美的でもありました。

 しかし、「しまりのない感じの毎日」と書く回想からは、奄美の知識人や名瀬に見られた切迫感がありません。いつも事態は有無を言わせぬ決まった形で訪れるという小さな離れ島の経験値は、習い性になって、どことない呑気さを漂わせています。

 だから、沖永良部島と与論島が返還の対象から除外されると噂された「二島分離報道」に与論の島人も慌てたわけです。

 なぜに帰さぬ永良部と与論 同じはらから奄美島
 友よ謳おう復帰の歌を 我ら血を吐くこの思い

 野口もこの「復帰の歌」を「声がかれるほど」歌ったといいます。与論の島人も、1952(昭和27)年になって切迫感を持ったのでした。

 しかし、この切迫感には、奄美の知識人に見られなかったものがあります。
 奄美の島々は、薩摩の直轄領になって以降、言葉や服装は「琉球人」でありながら、琉球との関係に制限される統治のなかで、「琉球人」は宙づりにされた状態になりました。近代になり、琉球王国に終止符が打たれ、「沖縄県」と「鹿児島県大隅国大島郡」になった時、沖縄は「沖縄人(ウチナーンチュ)」という自称を獲得しますが、奄美は自称の共同性を失いました。奄美には、たとえば「奄美人(アマミンチュ)」という共同性はなく、与論なら与論人(ユンヌンチュ)という個別性しかなかったからです。奄美全体でみれば、「大和人ではない日本人」ではあっても、その否定形を埋め対置する自称を持たなかったのです。

 そこで奄美の知識人から生み出されたのは、「奄美は大和である」という強弁でした。しかしこれは現実感の乏しい、自己欺瞞を潜ませたやみくもな主張でした。

 野口には「奄美の民族」という復帰運動時の常套句は使っていますが、与論は大和であるという強弁には至っていません。そしてそれは与論の島人にも言えることだったのではないでしょうか。

 そこにイデオロギー的な茫然自失はなかった。けれど、生活実感に根差した茫然自失はありました。与論の島人が復帰を願ったのは、エンゲル係数82.7%とも言われる生活を何とかしたい、貧困から脱したいということに尽きたでしょう。復帰運動の際、沖縄を含めた復帰なのか、奄美単独なのかという議論もありましたが、これは実質的な選択肢にはなりえず、そうするしかないものだったのではないでしょうか。そうでなければ、沖縄に対する単なる裏切りになってしまったでしょう。

 復帰嘆願署名が100%になり、「復帰の歌」を「声がかれるほど」歌ったのは、貧困の切迫感による茫然自失というもので、訴えというより叫びに似ています。

 しかし、これは復帰運動終盤の頃のことで、野口のいう「しまりのない感じの毎日」には、別の顔もあります。アメリカ世では、名瀬を中心に多様な文化活動が花開いたと言われますが、与論では敗戦後すぐに若い世代が与論村連合青年団を結成しています。青年団は電気促進事業を提案し、それが実る形で復帰の前後に村営発電所を開設し、島に電気を灯しました。与論では文化にはまだ手が届かない。その手前で、その助けになる光を手にしたのでした。

 野口の虚脱感とは別に、蘇鉄にも頼らざるを得ない食生活であったとしても、若い世代は元気な顔を見せていたのです。活気という面では、与論でも沖縄と鹿児島への密航がありました。儲けたり儲けなかったりだったようですが、きっと海人の血が騒いだことでしょう。

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コメント

>「沖縄県」と「鹿児島県大隅国大島郡」になった時、沖縄は「沖縄人(ウチナーンチュ)」という自称を獲得しますが、奄美は自称の共同性を失いました。奄美には、たとえば「奄美人(アマミンチュ)」という共同性はなく、与論なら与論人(ユンヌンチュ)という個別性しかなかったからです。

沖縄にも個別性しかありませんよ。ウチナーンチュなんて自称は本島人しか使いませんし、そもそも若者は誰も使いません。つーか個別性しかなかったら何か困るんですか?私はいっこうに困らないけどな。日本国民っていう肩書さえあれば十分でしょ。まともに勉強せずに、人文系的な下らない考え遊びばかりしてるから余計な心配が増えるんじゃないですかね。とりあえず古文漢文の読み方を勉強したらどうですか?高卒レベルの学歴があるなら本来読めなきゃいけませんよ。

あと、あなたの言う「知識人」の定義を教えてくれますか?私の感覚だと、人文系やマスゴミが内輪で褒め合うときに使うフレーズという印象があります。理系には基本的に使われませんよね。人文系のカス共より格段に頭良いですけど。私個人としては「知識人」のバカげた御託を蔑む事はあっても、まともに取り合う事は全くありませんね。あなたもそうしたら余計な悩みが減るんじゃないでしょうか。

投稿: neoairwolf | 2014/02/28 08:08

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