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2014/02/26

与論史6 大和世

 与論の島人にとって明治近代を知ることになったのは、1869(明治2)年、廃仏毀釈の急先鋒だった薩摩の命によって東寺や仏像が破壊されて菅原池に投げ込まれた時だったのではないでしょうか。しかし、与論の精神史から見れば、1870(明治3)年から翌年にかけた神女(ノロ)の廃止、ウガンの常主神社への合祀、シニグ祭、ウンジャン祭の廃止、1876(明治9)年の「入墨禁止」、そして1902(明治35)年の風葬禁止という目に見えない破壊がより深刻だったでしょう。それは、「奄美世」から続く自然との一体感のなかで育んだ自然観に致命傷を与えるものだったからです。この自然観を長期に保存してきたのが琉球弧の特徴ですが、それは簡単に消し去れるものではありません。現に1890(明治23)年に20年もシニグ祭は復活し、針突(ハジチ)は明治の終り頃まで続きました。

 そして新しく生み出された国民という概念の元、島人も名字を持つことになり、1875(明治8)年に、一斉に名づけが行われました。それは日本人になるという最初の印でもあったでしょう。翌1879(明治12)年、与論は奄美の他島とともに「鹿児島県大隅国大島郡」として日本に組み込まれました。より大きく言えば、この時、琉球弧の島々は「沖縄県」と「鹿児島県大隅国大島郡」とに別れて日本になったのです。

 琉球弧の近代が抱えたのは、「大和人ではない日本人」として「日本人」になるという困難でした。沖縄の場合、それは全員に共通していたのに対して、奄美の場合、大和人のなかの少数者としてその困難に向き合わなければならなかったという違いが、そこにはありました。

 奄美の場合、その困難は、まず黒糖の問題として現れます。1873(明治6)年、大蔵省は黒糖の自由売買を許可しますが、県は士族や船主などに大島商社を作らせ、藩時代と同様の専売制を敷きます。同じ頃、国は砂糖増産を目論んで「大島県」を構想します。奄美を鹿児島県に置くのではなく、国が直接関与できる形にしようとしたわけですが、これは大久保利通が頷かなかったともあり実現しませんでした。奄美の島人は自由売買を求めて大島商社に反撥します。この時、生れたのが「勝手世運動」です。それはこの運動を主導した丸田南里の言葉に象徴させることができます。

 人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。

 「勝手」、つまり自由に黒糖を売買することを求めた丸田の言葉は、近代の理念を汲み取った島人の最初の宣言であり、丸田南里は与論でも記憶されるべき名前です。こうした抵抗により大島商社は1877(明治10)年に廃社になります。

 結果、大島には鹿児島商人を始め、大阪や長崎からも商人が寄留するようになり、彼らは奄美の島々から黒糖を購入し商品を売るようになりました。そのなかで、特に鹿児島の商人は島人に高利で貸し付け、法外な利息を受け取っていました。そして奄美は借金まみれになったのです。このことは与論も例外ではありません。例外ではないどころか、笹森儀助や改革のために行った調査を見ると、1897(明治30)年の与論の各戸当たりの負債額は奄美の平均を上回っています。

 他の島に比べて黒糖の生産時期がはるかに遅かった与論ですが、近代になって黒糖に苦しめられることになったのです。1899(明治32)年に始まった長崎県口之津への集団移住には、台風以外にもこの問題が深い影を落としていたのではないでしょうか。

 これに対して、奄美の島々は、不当な借金払いの拒否、栽培方法の工夫、質素な生活と貯蓄を柱とする「三方法運動」を展開していきます。1888(明治21)年に名瀬で開かれた「全郡委員」で三方法運動は実行が決められました。与論の島人はこの集会に直接、参加してはおらず代理人を立てたものでしたが、それでもこれは奄美の島々が初めて一体となった運動だったのです。

 もうひとつ、行政面の困難として現れたのが「独立経済」です。当時、県では鹿児島本土の税金が奄美に使われるのを良しとせず、奄美の税金が奄美外で使われるのも良しとしないという二面性を持った、奄美の財政切り離しの議論が起きています。そして、県当局はこれを実行すれば奄美は「言うべからざる惨状に陥る」のは当然という認識から反対しますが、議会に押し切られる形で、1888(明治21)年、独立経済は施行されます。

 結果は当初の県の認識に近い形になり、みかねた国と県が1935(昭和10)年、大島振興計画を実行しますが、焼け石に水で、振興計画と独立経済はともに1940(昭和15)年に終了します。独立経済は、半世紀余りも続いたのでした。ちなみに、沖縄県でも1933(昭和8)年に沖縄県振興計画が実施されていますが、これも振るわない結果に終わっています。

 与論の近代は、人口と貧困の問題を抱えた集団移住の歴史でもありました。1899(明治32)年の長崎県口之津への集団移住、1928(昭和3)年のテニアンへの移民、1944(昭和20)年の満州への開拓移民がそれです。口之津への移住では、「大和人ではない日本人」は「日本人ではない」という見なしを受け、過酷な労働環境と条件を強いられ、満州では敗戦とともに惨劇を生み、シベリアへの抑留者も出しました。しかし、前者は福岡県の大牟田に、後者は鹿児島県の錦江町田代に、第二の与論コミュニティを実現しています。

 徴兵制による従軍も始まりました。日清戦争7人、日露戦争23人、第一次世界大戦10人です。そして太平洋戦争。1944(昭和19)年の10月10日を始めにして、与論も空襲、艦砲射撃を受けており、また島からは日本機の墜落も戦艦の撃沈も目撃されています。既に6月27日には、小野少尉以下44人の小隊が来島し、壕の構築が進められました。1945(昭和20)年、3月末以降は、毎日のように焼夷弾が降り、米軍が沖縄に上陸すると上空を飛ぶアメリカ機の数も夥しく、海上も海を塞ぐほどの数だった時もあるといいます。沖縄からは砲声の轟が絶えず、与論からは燃え上がる沖縄島が見えました。これは1609年以来、二度目の経験です。

 与論への上陸が想定された時、小野隊長は、敵が上陸した場合、与論島民は全員、ハジピキパンタの西下に集結し、全員玉砕する旨、言い渡します。そこで、与論の山防衛隊長は、「だれが最後の一人に至るまで玉砕したことを見届ける責任を負うか」と言い返します。小野からは明快な回答はなかったと言いますが、山の返答はとても重要です。どんな言葉でもいい、極限の状態で死に追い込む命令に対しては、返す言葉を持つことが生き延びさせる力を持つのだと思います。

 島人が敗戦を知ったのは15日から遅れること3日の8月18日でした。与論の戦没者は295人です。

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