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2014/02/25

与論史5 大和那覇世

 薩摩による1609年の琉球侵攻を与論はどのように知ったでしょうか。まず、沖永良部島の狼煙が上がっていれば、それで知ったかもしれません。直接的には、三月25日の日中、百艘とも言われる軍船が茶花沖を進むのが見えたでしょう。そして27日、燃えがある今帰仁の炎や煙は与論からも確認できたに違いありません。与論にとってはこの時の恐怖が琉球侵攻体験でした。

 続いて、松下志朗の推定に従えば、1611年7月の石高設定ないしは検地(1610年にもあったかもしれません)で、与論の島人も薩摩の支配を実感することになったはずです。検地奉行衆の来島も恐怖だったろうことは想像に難くありません。

 気になるのはこうした過程で与論の島人はいつ、奄美の「五島」が薩摩の直轄領だということを知ったのでしょう。もっと言えば、奄美は直轄領だけれど本琉球は違うということをどのように理解していったでしょう。奄美統治の基本方針を示した1623年の「大島置目之條々」は、島役人が琉球から、位階を示す鉢巻きを受けることを禁じますが、これだけで明快に理解できるというわけではありません。代官経由で説明がなされるわけでもなかったでしょう。まして、重きを置かれない与論です。事態はうすうすと気づかれていったというのが実のところかもしれません。

 それというのも、与論も奄美の島と同様に、薩摩の士族が直接、島を統治するのではなく、「那覇世」の時の支配層が「与人(ユンチュ)」と名を変えて、島役人として統治していました。ですから、彼らにしてもことの真相を積極的に知らされる機会があったとは考えにくいのです。

 与人と言えば、大島では大規模な土地を所有し黒糖の生産高を上げることで富を蓄積し、島人との格差を大きくした島役人もいます。与論の場合、島役人が土地所有を進めた痕跡を見ることができますが、もともとの島が小さいですから富の蓄積もたかが知れていました。

 また与人は、島の統治を行うだけではなく、島津の祝儀があれば献上物を運び薩摩へ行かなければなりませんでした。これは上国と呼ばれていますが、1691年に開始され、与論の与人も加わっています。黒糖以前の献上物は、芭蕉布、尺筵(むしろ)、塩豚、干魚、焼酎などです。これは島人負担ですが、与人にしても、与論からの上国は奄美の島のなかでも六百キロと最も遠く、船旅の負担も危険も大きかったと言わなければなりません。

 薩摩直轄のなかで、奄美の他島と異なるのは、与論には代官所が置かれなかったことです。1616年には徳之島に代官(始めは奉行)所が置かれ、沖永良部島と与論島もその管轄下に置かれます。与論にも代官巡回の記録が残っていますが、実効性に乏しかったと言われます、1690年には沖永良部島に代官所が設置され、そして代官の補佐をする「附け役」が一年交代で駐在するようになります。この時、与論では「宝物の没収」を恐れた当時の首里主が東方へ住居を移しているので、附け役の駐在は重圧になったことが伺えます。

 しかし、もっと言えば、代官所が直接置かれることのなかった与論の重圧感は、島人が自覚することはなくても、他島と比較してみればとても希薄だっただろうと考えられます。また、代官所がなかった結果、与論では薩摩役人の一族が、豪族である衆達(シュータ)層を形成して島を二分するという事態も起きていません。

 この違いは黒糖生産に最も明瞭に表れています。1713年頃、大島で砂糖きびの強制的な栽培と買い上げが始まり、1747年には年貢が黒糖で納めることになり(徳之島は1760年)、奄美の北三島で砂糖きび畑が広がっていきます。この時、徳之島の米は沖永良部島や与論島から送られています。与論で作った米を徳之島の島人が食べていたことがあったのです。そして1830年に、生産した黒糖を全て藩が買い上げる政策になり、奄美は砂糖きび一色に近い状態になっていきます。

 けれど、沖永良部と与論で砂糖きび栽培が始まったのは、沖永良部が1853年、与論が1857年とずっと後になってからでした。北三島が辿った段階もありません。与論に至っては、明治維新のわずか11年前なのです。

 奄美の歴史と言っても大島の以下同文にできないことはたくさんあります。与論には与論の歴史が必要なのです。

 この時代に特徴的なのは北との関わりだけではなかったことです。中国から琉球へ冊封使がやってくる時には奄美の島々も献上物を差しださなければなりませんでした。これは与論も同じで、かつこれも島人負担でした。琉球王朝に対しても、この点では関係を持っていたのです。

 琉球王朝との関わりがあったのはこれだけでなかっただろうことを示すのは、神女(ノロ)の存在です。与論では琉球王府からの辞令書は見つかっていませんが、1609年以降も奄美の島々に辞令書が出されていた可能性も示唆されています。与論の古文書のなかで神女(ノロ)と神官とおぼしきものには、「大阿武(志良礼)」(ウプアンサーリ)、「茶花ヌル」、「内侍(ネーシ)ヌル」、「時之百(トキノヒャー)」、「瀬戸親部」などの独特な名称が見られます。彼女たちが中心になってシニグ祭やウンジャン祭も行われていました。ちなみに、琉球弧では民間の巫女をユタと呼ぶのに与論だけヤブと言うのが不思議ですが、「瀬戸親部」の「親部」はヤブとも読めるので、「瀬戸親部」は男性役ではありますが、これに由来する名前なのかもしれません。

 薩摩は神女の勢力を削ごうとたびたび試みますが効を奏しません。島人の信仰が厚かったからですが、自然との関わり方についての考え方がここでぶつかっていたのです。神女に象徴されるのは、「雨乞い」にも表れているように、念じることで自然を動かすことによって、人間に有用なものにするという自然観で、「奄美世」の延長にあるものだと言えます。対して、薩摩が神女を規制しようとしたのは、聖域を開墾地にしたかったのが理由のひとつですが、そこにあるのは、自然に手を加えることによって人間に有用なものにするという、いわば農業の自然観です。時代の必然的な流れとして、農業の自然観が優位に立つことになるわけですが、この意味では神女を通じて、「奄美世」の自然観は「那覇世」に引き継がれていました。

 また、思い込みとは違って琉球との交流も部分的にはあり、用向きがあれば島人も那覇などに交易に出ていました。

 言い習わしではこの時代を「大和世」と呼ぶわけですが、これは冊封体制を通じた琉球王朝との関係、「那覇世」の自然観の継続、琉球との交流という側面をすくい上げられず、かつ、近代以降に生じた沖縄との隔たりの拡大もうまく捉えられないので、ここでは「大和那覇世」としました。

 農業の強化とともに、与論の人口は増え、1691年には1294人だったのが、1866年には4972人になっています。1609年からを推測すれば、人口は約4000人増え、5倍に膨れ上がっていました。これは与論を賑やかにしたでしょうが、同時に島の土地と珊瑚礁で賄える食料を人口が上回るという事態が近づいていることも意味していました。

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