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2014/02/22

与論史3 按司世(あじゆ)

 「按司世」の始まりは、グスク時代の始まりと同じ11世紀と見なします。この時代は、琉球弧の最初の大きな世替わりだったでしょう。それを象徴するのは人、神、米、鉄です。

 まず、稲作の技術とともに琉球の開発祖神、アマミキヨが伝承され、与論にはアマミクという名で定着しました。

 実は、アマミキヨとは帰ってきたアマンだったのではないでしょうか。与論の郷土史家、野口才蔵もアマンとアマミキヨのつながりには気づいていましたが、吉成直樹は、このテーマについて、近年の知見を取り入れながら魅力的な仮説を追求しています。吉成の仮説にぼくの考えを乗せて書くと、第三期渡来のオーストロネシア語族は、アマンという言葉を持っていましたが、そこにはアマンをトーテムとする信仰も含まれていました。奄美大島に定着した彼らの一部は、自分たちをアマミと称します。大和朝廷勢力は、「日本書記」のなかで大島のことを書く際に、アマミに「海見」という漢字を当てて島の名としました。

 アマミは最初、トーテムとしてのオカヤドカリを意味しましたが、大和や朝鮮との交流のなかで、稲作技術が入った時に、アマミキヨと名を変えて、シネリキヨとともに稲の神に変身します。そして不思議なことに、ヤコウガイの交易や太宰府襲撃などで名をとどろかせた奄美大島は、11世紀から14世紀にかけて文献から姿を消し、遺跡も見つからなくなるといいます。このことは11世紀にアマミ族が南下したことを意味するのではないでしょうか。与論ではこれをアマミキヨの伝承として記憶に残してきました。

 グスク時代は、北から琉球弧へ大量の移住があったことも分かってきています。それは、顔が面長になり背も長身になるという、人が変わってしまうほどのインパクトを持ったものでした。この世替わりは、与論ではシニグ祭のなかにその痕跡を見出すことができます。与論のシニグの大きな特徴は、沖縄の門中に相当するサークラと呼ばれる親族を中心にした集団の居住地域から、与論への移住の順番を、ある程度までは復元し推測することができる点にあります。

 「奄美世」の時代は、ショー、サキマ、キン、アダマのサークラがありましたが、「按司世」に、北方からの移住と与論の人口増加をもたらしたのは、プカナとニッチェーだと見なすことができます。彼らによって、里(サトゥ)と呼ばれる高台の西区から朝戸へと、西方へ居住区域が広がっていきました。

 そして与論の「按司世」は、与論の民話で最も知られたアージ・ニッチェーによって象徴させることができます。言い換えると、与論の「按司世」は伝承によって語るしかないと言うことでもあります。しかし、アージ・ニッチェーには彼のものとされる積み墓(チンバー)もあり、彼は伝承と実在の両方の顔を持っています。伝承のアージ・ニッチェーは琉球の軍船によって命を絶たれますが、これは与論の「按司世」の終りを意味しているのかもしれません。

 グスク時代は、徳之島で生産されたカムィ焼きが、喜界島を交易拠点として琉球弧全体に流通し、経済圏としての琉球弧が一体となったとも指摘されていますが、与論もその渦中にあったのは間違いありません。

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