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2014/01/16

与論移住史 三池メモ

 けれど、旅人となった島人は「従順で勤勉」で「世に慣れざる」者に止まり続けたわけではなかった。1908年、明治41年に大型船も着港できる三池港が完成すると存在理由を低下させた口之津に代わって三池港への移住を迫られる。このとき、口之津残留が希望73人で三池に移住したのが428人になるが、帰島も625人に上っている。これは与論だけではなく、沖永良部、徳之島の島人も含まれているとみなされるが(『与論を出た民の歴史』p.60)、移住者の44%しか残留しなかったことはこの企画の失敗を物語っている。しかし同時に、44%が残留を選択せざるをえなかった選択肢の無さも思わないわけにいかない。

 そしてこの428名の再移住についても事はすんなりと進んだわけでないことを、森崎和江と川西到の『与論を出た民の歴史』は伝えている。三池への移住の話が持ち上がったとき、ほぼ全員が、こんなはずじゃなかったと帰島を希望する。移住を引率し対企業、行政への窓口を担ってきた上野と東は困ったのだろう、奄美の役場に当たる大島島庁に皆帰っていいかと尋ねると、「財産のある者は帰っていいが財産のある者はいかん」との返答。それで納得は得られず、こんどは鹿児島県に相談する。鹿児島県の返答は、「全部島に帰ったなら、今後与論のことはいっさい知らん」と言われ、大島島庁と同様、島に土地のない者は帰せないとなった。

 これを持ち帰るも島人達は納得しない。そこで、上野、東は三井に相談の上、三池への視察隊を設け、かつ有力者へも働きかけてかの地の有望を喧伝する。そこで事態は収まりかけたにみえたが、さらに納得しない島人から「別れ金」を移住、帰島にかかわらず一律三十円という要望が出たのに及んで、再び上野と東は鹿児島県に相談するのである。再度の問いかけに鹿児島県はさらに脅しの度合いを高め、「万一今後此の決定に不服とか苦情を申す者ある時は、県としては今後与論に如何なる災害が起こるとも口之津よりの帰島者のみならず、村全体に対しても一切無関係な態度を執らるる様な事になるやも知れざる」と答える。いかにも鹿児島県らしい回答だが、ここに至り島人は沈黙し、あるいは移住に応じあるいは帰島したのだった。

 これは記録を見る限り、島人の最初の抵抗だった。しかしこの抵抗の中にも「世に慣れざる」、いわばお人好しの面は顔を覗かせる。帰島に際し、三井の用意した費用は一人二十円だったが、募集人から島人に渡ったのは、一人の女性に代弁してもらえばたった七円だった。募集人南は、「福岡日日新聞」では、与論の民は彼にとっては福の神で、裸一貫だったのがたった十年足らずで長者となったことを指摘されるのだった。

 また、移住に際しては、三井直轄の採用と子供への教育を口約束されている。与論の子弟のみを対象にした文教場は移住の翌年に実現するが、直轄採用は、東が14年後、人夫が29年後 とはるかに遅れる。そしてその度毎に代表者がその恩恵に預かり、全員が享受できたわけではない。しかも東は直轄とはいえ昭和五年に退職するまで職員の地位は与えられなかった。人夫全員が直轄夫になったのは32年後、太平洋戦争のさなかの昭和17年だった。三井にとって与論の島人は「世に慣れざる」とびきりのお人好しに見えただろうことは想像に難く無い。



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◇◆◇

三池から小型船で運ばれてきた石炭を港に下ろし、大型船に積み替える仕事。

「ごんぞう」。石炭の荷役作業。男性。
「ヤンチュイ」。小舟から大型船に何本ものはしごをかけ、何十人もの女たちがバケツリレーのようにして石炭の入ったザルを下から上に運び、船に積み込む。女性。

与論島民が移住した頃、朝鮮人が五百名ほど荷役人夫として募集され、朝鮮組と土地組と与論組とに分かれて各組が競争で石炭の積込みを行なった。与論人は朝鮮人より生活程度が低いと一般にみられていた。(p.28、『与論島を出た民の歴史』

1919(大正8年)

与論
男性 55銭
女性 40銭

他(与論と同じ坑外の場合)
63銭~1円

97銭~2円40銭(坑内)

囚人坑夫
坑外 鍛冶工 44銭
坑内 支柱夫 45銭、大工 43銭、雑役夫 34銭」

「囚徒坑夫を除いた、三池炭鉱労務者の最も低い賃金に据え置かれていて、差別の根幹を担わされている」(p.53、竹松輝男の資料、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』
囚徒坑夫は、個人に入る金額はわずかで、多くは収監されていた刑務所に入った。坑外坑内の差があるとはいえ、職種によっては、与論の民は囚人より安い賃金に据え置かれていたのである。  これについて、武松さんは、与論の地理的・歴史的成り立ちを踏まえ、与論の民が日本人とはみなされていなかったからだと分析した。囚人は、いくら罪を犯したとはいえ、日本人の枠の中に入っていたといのである。(p.54、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』

 与論が日本人の範疇に入っていなかったという分析はその通りだと思う。

一九ニ三年、会社が一方的に三〇パーセントの賃金の引き下げを強行したため、翌年、大牟田の労働者が、共愛組合の撤廃を要求してストライキを決行した。六八三三人が参加し、争議はひと月余りに及んだ。  しかし、与論の民はひとりもこのストライキに参加していない。自分たちより優遇されていて、日頃自分たちを小馬鹿にする階層の出来事でしかなかった(p.60、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』
   与論人が、労働者としての抵抗を始めるのは、昭和に入ってからだ。


『与論島を出た民の歴史』


『与論島移住史―ユンヌの砂』


『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』


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