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2014/01/30

徳田虎雄・田中角栄・西郷隆盛

 徳田虎雄の二世議員が公職選挙法違反に問われた時、ロッキード事件の渦中にいた田中角栄のことを思い出した。当時、挑発的なメディアの取材に対しても新潟県の人が、田中角栄を悪く言わなかったことが強く印象に残っていた。2013年の事件でも、奄美の島人は、二世議員に対してはともかく、徳田虎雄のことは誰も悪く言わないのではないか。離島にとって深刻な問題だった医療について、各島に病院を置き、いまも島人はその恩恵を受け取っているからである。田中角栄の時は外から新潟を眺めていたが、今回はそれを内側から体感することになった。

 吉本隆明は、田中角栄をアジア型の最後で最大の政治家と評していた。

(田中角栄は-引用者注)アジア型の政治家で最後で最大の人物とおもわれた。アジア的な政治理念は、根拠地観(論)を第一の特徴にしている。郷党の衆望を背中にしょいこんで中央におもむき、中央政治に参画する。失脚するようなことがあると郷土に帰ってゆく。郷土にいったん帰ると郷土の人たちが守ってくれる。まかり間違って中央政府と武力衝突をやっても、この郷土出身の政治家を守りぬく。明治でいえば西郷隆盛が典型的にアジア的であった。(p.169、『わが「転向」』

 西郷隆盛は日本におけるアジア型の政治家の最初で最大の政治家になるが、しかし最後は、故郷で政府軍によって死を余儀なくされたように、それはアジア型の政治家の終りの始まりでもあった。田中角栄は、終りの終りを任じたのだと思う。

 西郷は、流罪で奄美大島、徳之島、沖永良部島にいた期間があることで琉球弧との接点を持っている。奄美大島では荒れていた西郷は、島人への蔑視を隠さなかったり、逆に薩摩からの代官を懲らしめたりと両面を見せるが、沖永良部島では落ち着き、学問や経済の知恵を施して、島に好印象を残している。

 それは西郷から島が受け取ったものだが、島から西郷が受け取ったものもあるはずだ。南方的なおおらかさ、ゆったりした構えは本来、薩摩まで伸びるものだが、こと政治の面ではそれはやせ細ってゆく。明治の小林雄七郎は、幕末の薩長土肥について、薩摩の「実際的武断」、長州の「武人的知謀」、土佐の「理論的武断」、肥前の「文弱的知謀」と評したが、薩摩についてはその通り、内省への侮蔑と否定からくる武断的な構えが強い。「議を言うな」という言葉に象徴されるように、充満したはこわばりがある。西郷が醸し出した、おおらかさ、ゆったりした構えは、生来の南方的な面を持っていたのだろが、それに重心を与えたのが、琉球弧の作用かもしれなかった。

 このアジア型の系譜は、田中角栄で終ったとぼくも考えてきたが、二世議員の事件で、徳田虎雄もこの系譜に連なっていることに思い当たる。少なくとも、琉球弧では、特に奄美ではこの系譜は終わっていなかった。あるいは徳田虎雄は奄美におけるアジア型の最後の政治家であるのかもしれない。

 唐牛健太郎は、晩年、徳田虎雄に協力する場面もあって、唐牛が与論に滞在したことのあるのを知っている島人を驚かせたが、両者の柄の大きさを思えば、不思議ということはなかった。この、柄の大きさということもまた、アジア型の政治家の特徴に挙げられると思う。

 しかし、徳田を奄美におけるアジア型の最後の政治家と見なせても、故郷を背負うということや柄の大きさが必要で無くなることを意味しない。農村の縮小とともに、アジア型ではなくなるにしても、その根拠地を背負うことは政治家に求められるからだ。琉球弧という根拠地は、それぞれに境界を持った島々の集まりであり、内地の交通・経済圏には内包されない位置にある。



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