« シベリアに抑留された与論人 | トップページ | フナグとヲゥナグ »

2014/01/24

伊藤左江吉の決意

 満州開拓団は、敗戦によって満州開拓の夢はついえましたが、与論に帰ったり大牟田の親戚を頼ったりして実質上、解散したわけではなく、新たな集団移住の地を目指した与論人たちがいました。彼らは鹿児島の大隅半島の山中に拠点を求め、満州の地にちなんで「盤山」と呼び開拓を継続したのです。いまでは田代茶でその名も知られるように、開拓は果たされたのです。

 離島から果てしない平原、平原から杉の生い茂る山中へ。敗戦からの命からがらの帰国というだけでなく、開拓地環境の激変という困難をあげるだけでも、盤山の与論人の相当な意思、覚悟が伝わってきます。

 彼らはなぜ、与論に帰らなかったのでしょう。当時、奄美、沖縄は米軍統治下にあったので、帰島するには鹿児島から密航せざるをえないという障害はありました。けれど、それで帰島した者も多かったことを思えば、それは決定打ではなかったでしょう。満州での悲劇も背景に置く必要があります。しかし煎じつめると、ここに、貧困から移住を余儀なくされた口之津の場合と、募集に応じる形で開拓の夢を追った場合との違いがあるのかもしれません。

 そしてこのなかで、伊藤左江吉という与論人のことが、忘れてはいけない人として浮かび上がってきます。

 伊藤は与論で小学校の教師を勤め、兵役経験者でもあったこことから、満州開拓団の引率者として白羽の矢を当てられます。しかし彼は当初、これを拒みます。拒み続けます。若者たちが血判状を持って押しかけた時もあしらいます。伊藤は二年、拒み続け、断りきれない情勢を受け入れてやっと腰を上げています。

 伊藤の態度は煮え切らないものに映ったはずですが、この重い腰は、熱に浮かされて「バスに乗り遅れるな」と煽った人たちよりはるかに重要なものでした。伊藤の決意がはやくになされ、開拓団の規模がもっと大きくなっていれば、満州での悲劇ももっと拡大されていたかもしれないのです。これは結果論だと言い切れない面も持っています。伊藤の腰が重かったこと自体に、問題の認識が含まれていただろうからです。

 その判断力は、伊藤が引率の条件として、貧困層だけではなく、富裕層、知識層も対象とすることを村長に呑ませたことにも表れています。

 伊藤は開拓団を率い、満州へ渡りますが、山根と同じく徴兵され、その後ソ連に抑留されます。帰国できたのは、山根より1年遅い、1948(昭和23)年のことでした。
 彼はこの時、迷っています。

 現地応召。敗戦とともにソ連に抑留され、二十三年十一月に帰国する。そのとき「実は与論に帰るつもりだったのです」と、本人は打ち明けた。郷里には家や財産もそのまま残してきたし、「教職に復帰させる」という約束もとりつけてある。〈五年間、悪夢をみたようなものだ〉と割り切れば、再び安定した生活は保障されていた。
 けれど、ともに死線を越えた同志が田代開拓に第二の人生をかけている。団長だった自分が私情に流されれば、仲間を裏切ることになる。みんなも復帰を強く望んでいる。開拓は使命だ―思い直した伊藤さんは、田代へ直行したのだった。

 島へ帰りたい気持ちを振り切ったこの決意も重たいものです。田代の開拓団の人たちはどれだけ心強く思ったことでしょう。田代開拓の成就には、この伊藤の決意も大きく力になったと見なしても決して間違いではないでしょう。

 自分が望んだわけでもないことを引き受け、最後まで引き受けきった人として、伊藤左江吉の名は忘れずにいたいと思うのです。

|

« シベリアに抑留された与論人 | トップページ | フナグとヲゥナグ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 伊藤左江吉の決意:

« シベリアに抑留された与論人 | トップページ | フナグとヲゥナグ »