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2014/01/21

「土百姓にして世に慣れざるもの」

 2013年、茶花の海岸に「移住 開拓の月」という石碑ができ、与論からの移住者を思い出すきっかけがひとつ増えました。

 それぞれの事情からの移住はふつうですが、石碑の移住は、集団的であるということが全く違っていました。そこには膨れ上がった人口と貧困の問題が横たわっていました。集団移住の始まりになった1899(明治32)年の場合は、その前年に襲った台風がきっかけです。ここ数年、与論も台風の被害が甚大ですが、それが集団移住の引き金にもなったのです。

 最初の移住地は、長崎県口之津。天草を南に臨む島原半島の南端に当たるところです。働き先は三井炭鉱。そこでの与論人(ユンヌンチュ)の仕事は「ごんぞう」と呼ばれた石炭の積荷作業でした。女たちが炭坑口から運ばれてきた石炭を選別し、男たちが竹で編んだ平かごに積み、それを六尺棒で持ちあげて肩に乗せて、はしごをのぼって貨車や炭車に運び込むのです。

 きつい仕事ですが、労働条件はもっと過酷でした。与論人(ユンヌンチュ)の置かれた状況は、賃金が「日本人夫の七割」で、朝鮮人よりも安く、仕事によっては囚人よりも安いというものだったと言うのです。

 なぜ、こうだったのでしょう。

 『むかし原発 いま炭鉱』という本で、それを日本人夫との格差を知った作家の高橋源一郎は、「与論島から来た労働者も差別をされて、日本人に比べて給料が7割ぐらいだったとか。だから与論って日本じゃなかったわけだよね」(「SIGHT 2013 WINTER」)と驚きを隠せずにいます。でも、ただ驚くだけではなく、問題の本質も突いています。
与論が日本と見なされていなかった、ということです。

 琉球弧の島人が方言禁止運動もして日本人になるために必死だった時期は、そう遠い昔ではないので、高橋のようには驚きませんが、しかし、そのことがもたらした現実には、改めて驚かざるをえません。
けれどそうだとしても、疑問は残ります。

 「日本と見なされていなかった」として、それでもなぜ、朝鮮人よりも安く、仕事によっては囚人よりも安いということが起きたのか、ということです。

 「与論人は朝鮮人より生活程度が低いと一般にみられていた」(『与論島を出た民の歴史』)、「植民地とはいえ、朝鮮人も日本人の枠の中には入っていませんでした。でも、朝鮮の人の中には日本人の九割の給料をもらった人もいました。与論の人じゃ考えられない」(、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)、「職種によっては、与論の民は囚人より安い賃金に据え置かれていたのである」(『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)などに見られるような状況はなぜ、生れたのでしょう。

 それは、与論人性質(かたぎ)とでもいうものにつけこまれたということではないでしょうか。
 口之津へ集団移住した翌年の「炭坑夫募集要領」には、「世に慣れざる者の他は断然募集せざる事」とあります。「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者は足を止め」るけれど、世に慣れたる者は逃走を企てる。甚だしい場合は、夕方来たら朝には逃げるから、というのです。

 炭鉱労働はもともと囚人が担っていました。それが非人道という外側の世論と非効率という内側の事情から、一般へと労働が移っていく過程で、三井は「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者」に募集の照準を当てたのです。

 三池炭鉱の募集人の目には、与論の島人が、「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者」を絵に描いた姿のように映ったでしょう。かくして、与論からの初めての集団移住者は、近代の過酷を一身に引き受けることになったのです。しかもこの状況は基本的には、明治から戦後まで変わらなかったのです。

 もちろん、「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる」ことは悪いことでも何でもありません。近代は「自由・平等・博愛」をその理想に掲げましたが、今だって充分だとはとても言えないものの、明治の後半の日本ではまだまだだったのです。

 炭鉱という日本近代産業のど真ん中に置かれた与論人たちの苦労から、ぼくたちもたくさんのことを学ばなければいけません。

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