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2014/01/23

シベリアに抑留された与論人

 太平洋戦争中、与論から中国東北部の満州へ開拓団として集団移住のあったことは、島の中ではよく知られています。しかし、開拓から二年で敗戦、そして暴徒化した満州人と侵入したソ連兵によって惨劇は起きます。それは集団自決を含む痛ましいもので、与論の歴史に深い傷跡を刻んでいます。語られることも書かれることもなく、沈黙のなかに秘めた哀しみもきっと多くあるのだろうと思います。

 満州からの帰国も命からがらだったわけですが、このなかには、島に帰るにせよ、大牟田や鹿児島の親戚を頼るにせよ、帰国できた人以外に、シベリアに抑留された与論人もいたことはあまり知られていないのではないでしょうか。

 その一人、山根純雄の行程を辿ってみましょう。1944(昭和19)年4月、満州へ到着。山根は当時、19才くらい。開拓にいそしみ脱穀の喜びを味わうも、翌年の4月には召集令状を受けてしまいます。開拓団は徴兵されないという口約束があったので、裏切られた気持ちになるが、どうすることもできず、5月関東軍へ入隊。その三ヶ月後の8月には、国境を侵入してきたソ連軍の攻撃を受け、15日の敗戦を16日に知り、ソ連軍に捉えられます。そして、10月、シベリア強制収容所に連行されてしまいます。

 シベリアでの生活は、「経験したものにしか分からない」と、山根が何度も繰り返すように、ぼくたちの想像を絶しています。

作業中に一瞬でも、じっとしていると凍死が待っているだけ。手足の指が痛みを感じなくなると、凍傷になる。その次に眠気が襲い掛かってくる。とても気持ちよくなる。二人組みで作業をさせるのは凍傷や眠気を防ぐ目的もある。「危ない」と思った時は、手で顔を打つ、体を揺する。気がつけば大丈夫。零下三十度を超えると、針で突くような痛みがある。皮膚の感覚がなくなり、心まで凍りつく。その後、麻酔を打たれたように気持ちよくなっていく。それは一月から三月まで、冬の間は毎日襲いかかる。

 極寒の地は戦友の命も次々、奪っていきました。朝、目覚めると隣で一緒に寝た戦友が氷のように冷たくなって死んでいる辛さにも直面しなければなりませんでした。凍死した馬を食べたこともあれば、薪割りで出てくる虫の幼虫も食べた。二度、倒れたこともあった、といいます。

 そんな生活を2年間続け、山根は幸運にも生き残り、1947(昭和22)年11月、ナホトカから舞鶴港へ、帰国を果たします。

 山根が生き残ることができたのは、当時、20才を過ぎたばかりという若さもあったでしょう。収容所には四十代、五十代の男性もいたが、先に参ってしまうのは彼らで、山根も父親の年齢のような年長者に不憫を感じています。そして、満州で別れた母に、「必ず生きて帰るんだよ」と告げられていたことも大きな支えになったに違いありません。

 しかし、ここにはもうひとつ重要なことがありました。ソ連が侵攻してきた時、山根を率いる分隊長は、死んでも他言するなと命じて、こう言ったといいます。

 自分の命を守り、ソビエト兵に立ち向かう武器も何もない。もうこれ以上戦いを挑んでも、犬死にするばかりだから、自分の命を守って逃げるがいい。君たち、この言葉は絶対秘密だ。生きていたら何か良いことがある。

 山根はこの言葉を一生忘れないと思ってきました。そして、秘密もずっと守ってきたのですが、82才になった手記を認めるなかで、「ここまできたら」と、打ち明けているのです。

 後世の者からすれば、よく書いてくださったと感謝の念が過ります。この分隊長の言葉に山根は感激し、最期の時は、「天皇陛下、万歳」ではなく、「分隊長、万歳」と叫ぶと心に誓うのです。逃げること、生き延びることを口にするのは、当時の至上命令的な価値観のなかでは相当に勇気の要る言葉だったはずです。しかしそう口にした。それは無駄ではなく、山根にシベリアで負けない力を授けたのではないでしょうか。

 それだから思います。集団自決のような極限の状況下でも、逃げること、生き延びることを口にすることができたら、事態は大きく向きを変えたかもしれない、と。

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