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2014/01/31

沖縄の歴史を学ぼう

 山川出版社の『沖縄県の歴史 (県史)』『鹿児島県の歴史 (県史)』を比べてみると面白いことに気づきます。

 与論のこと、奄美のこと、自分たちが身近に感じられることという視点で見ると、『鹿児島県の歴史 (県史)』は多く見積もって一割、『沖縄県の歴史 (県史)』は少なく見積もって半分なのです。

 『鹿児島県の歴史』には「南島の世界」、「琉球王国」、「琉球出兵」、「黒糖地獄の唄」、「日本から分断された奄美群島」というタイトルが出てきます。これらは、鹿児島本土の歴史の流れのなかに時折スポットを当てられる「点」として構成されています。

 これが『沖縄県の歴史』になると、最初の方を採っただけでも、「本土とは異なる歴史」、「ゆれる沖縄考古学の時代区分」、「日本人の二重構造モデルと沖縄」、「港川人と貝塚人」、「琉球=沖縄人の成立とグスク時代」、「貝塚時代最古の土器の謎」、「貝塚時代前期の文化と生活」、「サンゴ礁の発達と漁労共同体」と、話題も身近であり、点ではなく、時間の流れのなかで捉えることができるのが分かります。

 面白いことに、それは歴史を異にすると言われる最近のことでも、「砂糖価格の暴落と「ソテツ地獄」」、「沖縄学と「ヤマト化」の諸相」、「方言論争と「県民性」認識」などと、そのまま与論にとっても問題だったこととして重ねて見ることができるのです。

 これが明瞭に物語るように、与論の子供たちが、『鹿児島県の歴史』だけで歴史を学ぶとしたら、いちじるしくバランスを欠くことになるでしょう。いいえ、バランスを欠くというより、与論人はぼくもそうであったように、歴史とは自分に関わることが登場しないものという感覚を身につけることになってしまうのではないでしょうか。

 いずれ教科書は読まないものだとしたら、大袈裟に考える必要はないとしても、何かの弾みに興味を持った時、手引きになるものが身近にないのは不都合と言うものです。歴史が自分たちにも関わりあることを知るには、『沖縄県の歴史』を見るのがいいと思います。

 ちなみに両方のテキストに共通している「風土と人間」のなかで、奄美はそれぞれ次のように触れられています。

琉球王国であった奄美諸島は、薩摩藩の直轄地として分離され、琉球王国と薩摩藩のあいだの「道之島」と称されるようになった。この奄美産の黒砂糖が薩摩藩の財政建て直しの大黒柱となるのである。亜熱帯性の産物の豊富な奄美は、薩摩にとってまさに「母なる奄美」であった。(『鹿児島県の歴史 (県史)』
奄美地域は万暦三十七(一六〇九)年に王国が薩摩軍にやぶれたため、王国の範囲から割譲され薩摩の直轄地となり今日におよんでいるが、「琉球」という用語を使う場合、そのなかには当然のことながら奄美が含まれている。奄美は行政的には薩摩・鹿児島の一部だが、歴史的・文化的に沖縄と密接な関係をもっており、今でもなお沖縄県に対する強い親近感をいだいている。(『沖縄県の歴史 (県史)』

 『鹿児島県の歴史』が、奄美は、薩摩にとってまさに「母なる奄美」であった」と書くように、奄美は手段として取り上げられます。しかも、「母なる奄美」という形容は歴史を参照すれば偽りの形容と言うべきものです。

 これに対し、『沖縄県の歴史』は、近さと関わりの視点で書かれていて、ふたつの「風土と人間」からどういう視線がぼくたちに注がれているかも知ることができます。

 もちろん、沖縄の歴史を知れば充分というわけではありません。沖縄県の歴史にはぼくたちは登場することはないからです。その意味で、2011年に刊行された『奄美の歴史入門』(2011年)は画期的でした。ここには、奄美の歴史が、現代の考古学や文献読解の成果をもとに易しい言葉で書かれているからです。奄美にとってこれは重要で、歓迎すべきものです。

 しかし、それでも付け加えなければならないのは、この本で充分だと言うわけにいかないことです。

 それは、『奄美の歴史入門』は、自分たちに関わることが書かれていると感じることができますが、それでも、奄美大島中心の歴史であることを免れません。それは、意地悪ということではなく、与論と大島は二百キロも離れており、その距離は、黒糖生産が大島に比べて百数十年も後だった歴史の違いとして表れるのです。

 他力本願ばかりでもいけないと言うことですね。与論の歴史を自分たちでも作ることをしなければならないということです。そして沖縄の歴史は、その大きな手がかりになるはずです。


『沖縄県の歴史 (県史)』

『鹿児島県の歴史 (県史)』

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コメント

 2県の歴史に股がるのは、いかにも奄美群島の立ち位置ですかね。

 与論人にとっては、"沖縄の歴史が手がかりになる" のはよく分かりますが、沖縄諸島の島ン人にとっても奄美を知らなければ「琉球」は理解できないとの認識が高まってきたようです。

 言葉や民俗は勿論、地質学、疫学、生物学、海洋学、気象学など、喜界島から与那国島までを一つのまとまったエリヤとして捉える必要があるのでしょう。

 沖縄気象台が「沖縄県は梅雨に入った」と発表した場合、奄美大島の放送局は「奄美も梅雨に入ったのでしょう」と放送してますね。鹿児島気象台の発表は二の次のようです。

 最近は道州制の議論を聞かなくなりましたが、沖縄県が単独州となっても、あるいは九州道の一県となろうとも、奄美と沖縄県は同一の行政区分として運営したほうが何かと都合がいいように思います。
 海上保安庁にしても、奄美諸島は沖縄諸島と管轄を一つにするべきだし、宮古&八重山には、第12管区を新設してもいいかもしれません。

 また、奄美も観光ブランドとしての「沖縄」を使用できるし、"沖縄観光" のバリエーションが広がる事は確実ですね。
 勿論、奄美は沖縄島のような騒がしい観光地ではなく、真の意味でのリゾート地としての価値は高いと思います。

投稿: 琉球松 | 2014/01/31 09:25

山川出版という同じ出版社の『沖縄県の歴史』と『鹿児島県の歴史』比較面白いですね。
学校の義務教育で教えてもらったことなんて大人になって社会に出たら全部忘れてしまってるよハハハ、なんて表面的に笑い飛ばして来た時間が長くて日本人全体が自分たちが何者なのかと分からなくなっている気もします。
あなたは何者なの?と問われて笑い飛ばすことも出来ない状況になってきて、慌てて自分たち(の血の痕跡)を探してみてもとってつけた葛藤には説得力がありません。
教科書に出て来ない『奄美』だから地域としてのまとまったとらえ所がなく、僕自身は大島や徳之島には血を分けた「島んちゅ」が存在していてもそれを『奄美』という同胞だという枠組みで捉えることは、昇曙夢の『大奄美史』序で頭を殴られるような衝撃を受けるまで出来ませんでした。
http://nanto.shimajima.info/2009/07/02/amami_the2nd_04/

鹿児島(本土)で暮らしていると、出会う人の10人に1人ぐらいに奄美の島々にゆかりがあるんだろうなという人がいますが、鹿児島(本土)と島の縁戚関係も進んでいるでしょう。今の鹿児島を作っている奄美ゆかりの人たちはどう感じているのかなとチラチラ思いながら日常を過ごしてます。

投稿: syomu | 2014/02/01 02:07

> 琉球松さん

「何かと都合がいい」のはその通りですね。与論在住者が買い物や小旅行で出る時は、本部か那覇ですし。おっしゃる通り、天気予報は、不合理を感じる典型的な場面です。

「沖縄諸島の島ン人にとっても奄美を知らなければ「琉球」は理解できないとの認識が高まってきたようです。」

これはとても嬉しいです。沖縄タイムスが、琉球弧の3高と、高校野球に触れていたのもよかった。


> syomu さん

ご無沙汰しています。お元気ですか?

「今の鹿児島を作っている奄美ゆかりの人たち」。ぼくのまわりには片方の親が奄美出身の方が結構いましたが、何も意識してない気がします。親は伏せるように接したからでしょう。

何か意識するまでは、まだ時間がかかる気がします。

投稿: 喜山 | 2014/02/01 07:09

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