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2014/01/29

「与論島は沖縄県に属すべき」

 笹森儀助。与論では、その名はほとんど知られていないのではなだろうか。

 彼は与論に立ち寄ったことがある。時は1893(明治26)年。与論でよく知られている事に対応させれば、あの、初の集団移住となった口之津への第一陣出発の1899(明治32)年のわずか5年前のこと。

 何をしに来たのか。実は彼は、与論だけでなく、与那国島から奄美大島まで琉球弧を縦断している。そして、その成果を『南嶋探検』という本に記すことになる。

 探検をしに来たのか? ある意味ではそうで、彼は、南だけではなく、千島にも赴き、『千島探検』も書いている。しかし、書名は「探検」でも、そこには「探検」に留まらない目的があった。当時の資源開発と産業育成の旗の下、琉球弧の場合、それは糖業拡張の可能性を探るためだった。

 そして実は、笹森は『南嶋探検』を記しただけでなく、与論に立ち寄った翌1894(明治27)年には大島島司に就任している。大島島司、現在の奄美群島の行政を担当する県の出先機関である大島支庁の支庁長に当たる。彼は政治家でもあったのだ。

 そして、島司として奄美に関わることになった笹森は、『南嶋探検』のなかで与論いついて、こう書いている。『与論町誌』と字が異なる個所もあるのだが、ここでは『日本庶民生活史料集成〈第1巻〉探検・紀行・地誌』(1968年)所収のものに従う。

沖縄那覇より七十二海里。又た沖縄北海なる辺戸岬を距(へだた)る事十六海里。故に民俗生計最も沖縄に同し。需要供給凡(およそ)百の事皆給を沖縄に仰く。若し沖縄一朝法令を厳にし薪炭(しんたん)木材等の輸出を禁せは忽(たちま)ち島民は生計を失ふに至る。之を以て、該島を鹿児島県に属するは地勢より論するも民俗より論するも其(その)当を得さるものとす。下情の官庁に通せさる実に人民の不幸なり(p.567)。(笹森儀助『南島探検』1894年)

 この島が鹿児島県に属するのは、地勢から言っても民俗から言っても道理を得ていない。民衆の生活の様が、官庁に理解されていないのは、実に人々の不幸だ。そう言う。笹森はそこから、「与論島は沖縄県に属すべき」と、主張している(p.588)。

 無視されるか、沖永良部島と以下同文とされることの多い与論の場所からみると、この提言には驚く。ここまで配慮の届いた言葉は、滅多にお目にかかれない。

 実は笹森は、与論に対してだけではない。奄美の島司として着任した際は、「糖業改良」と「負債償却」を二大目的としている。「糖業改良」はともかく「負債償却」とは何か。当時の奄美は、大島商社をはじめとする商人からの金銭やその他の物品の前貸しを受けて、それを黒糖生産で返せず、借金まみれになっていた。要するに、してやられていたのだ。明治維新直前に黒糖生産を開始した与論も例外ではない。あっという間に、他島と変らない負債を抱えこんでいる。笹森が「負債償却」を目的にしたのはそのことだった。

 笹森は、「特に鹿児島商人を助けて島民を圧政するの跡あり、最も忌へき事とす」と憤っている(p.399、弓削政巳「笹森儀助と奄美」『大和村誌』)。こういう見解を見るにつけ、少なくとも当時は当時はなおさら、笹森が青森の弘前出身であるように、県外の人物でなければ、奄美に対して偏見のない政治は不可能だったと思わざるを得ない。

 硫黄鳥島と交換されてしまったかもしれない与論島だが、その後、「与論島は沖縄県に属すべき」と主張した政治家もいた。その稀有さにおいて、笹森儀助は与論でも記憶されるべき名だと思う。


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