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2014/01/20

与論移住史 田代メモ

 満州の盤山開拓団は、その後、シベリア抑留、与論帰島、大牟田の親戚を頼るのとは、別の軌道の流線もあった。国内に盤山を築くというものだった。

 当時、故郷与論は米軍統治下にあるが、多くの帰還者が密航船で与論へ帰るなか、鹿児島に残り、新たな入植地を検討する者たちがいた。満州に移住した人たちの37%になる。移住先は、肝属郡。大隅半島の山中で、現在の錦江町田代だ。

 彼らは森を切り拓き、文字通りの開拓者として生き延び、茶に活路を見出した。彼らのなかには、伊藤左江吉がいり。満州開拓団を率いたが、勇んでではなく、断り続けた挙げ句の引き受けだった。彼はなぜ、与論に帰らなかったのか。

 現地応召。敗戦とともにソ連に抑留され、二十三年十一月に帰国する。そのとき「実は与論に帰るつもりだったのです」と、本人は打ち明けた。郷里には家や財産もそのまま残してきたし、「教職に復帰させる」という約束もとりつけてある。〈五年間、悪夢をみたようなものだ〉と割り切れば、再び安定した生活は保障されていた。
 けれど、ともに死線を越えた同志が田代開拓に第二の人生をかけている。団長だった自分が私情に流されれば、仲間を裏切ることになる。みんなも復帰を強く望んでいる。開拓は使命だ―思い直した伊藤さんは、田代へ直行したのだった(p.89)。(『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 ここには、元には戻れない経験をしてしまったことへの諦観も潜んでいる。自分のした経験を共有できる人たちはもう島にいない。島に戻る顔の持ち合わせもないという気持ちもあっただろう。彼らによって、たしかに開拓は遂行されたのだ。

 田代を離れた人だが、印象的な言葉もある。

 盤山を訪れたとき、墓地に足を運んだ。田代の土になる覚悟で入植した与論の人たちも、歳月の流れとともに、ここで永遠の眠りにつく一世は増えている。与論と田代にそれぞれ住んでみてその違いは何が一番大きいのだろうか。「台風なんかも島は吹き荒れ方が違う。それと病気になったとき、こちらはすぐ鹿屋にでも行けるけど、与論ではそうはいかない。地続きだという安心感、これは大変なものですよ」
 二十七年、盤山から南風谷に移り住んだ池田さんはしみじみと語る(p.106)。

 地続きではない不安を、離島はいつも抱えている。生活苦の多くはそこに由来していると言ってもいい。それを逃れたいという気持ちはよく理解できるのではないだろうか。


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1946(昭和21)年7月18日 先遣隊
1948(昭和23)年5月 盤山開拓農協発足
1949(昭和24)年6月20日 デラ台風。3人死亡、2人怪我。
1949(昭和24)年12月 自家発電開始
1950(昭和25)年5月 農村工業導入
1951(昭和26)年10月4日 ルース台風。
1952(昭和27)年2月 土地の正式配分。
1957(昭和32)年春 お茶の新植開始
1959(昭和34)年春 盤山ヤブキタ同好会
1961(昭和36)年春 茶摘み開始
1967(昭和42)年 優良茶生産団地の指定

鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち


『与論島移住史―ユンヌの砂』


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