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2014/01/31

沖縄の歴史を学ぼう

 山川出版社の『沖縄県の歴史 (県史)』『鹿児島県の歴史 (県史)』を比べてみると面白いことに気づきます。

 与論のこと、奄美のこと、自分たちが身近に感じられることという視点で見ると、『鹿児島県の歴史 (県史)』は多く見積もって一割、『沖縄県の歴史 (県史)』は少なく見積もって半分なのです。

 『鹿児島県の歴史』には「南島の世界」、「琉球王国」、「琉球出兵」、「黒糖地獄の唄」、「日本から分断された奄美群島」というタイトルが出てきます。これらは、鹿児島本土の歴史の流れのなかに時折スポットを当てられる「点」として構成されています。

 これが『沖縄県の歴史』になると、最初の方を採っただけでも、「本土とは異なる歴史」、「ゆれる沖縄考古学の時代区分」、「日本人の二重構造モデルと沖縄」、「港川人と貝塚人」、「琉球=沖縄人の成立とグスク時代」、「貝塚時代最古の土器の謎」、「貝塚時代前期の文化と生活」、「サンゴ礁の発達と漁労共同体」と、話題も身近であり、点ではなく、時間の流れのなかで捉えることができるのが分かります。

 面白いことに、それは歴史を異にすると言われる最近のことでも、「砂糖価格の暴落と「ソテツ地獄」」、「沖縄学と「ヤマト化」の諸相」、「方言論争と「県民性」認識」などと、そのまま与論にとっても問題だったこととして重ねて見ることができるのです。

 これが明瞭に物語るように、与論の子供たちが、『鹿児島県の歴史』だけで歴史を学ぶとしたら、いちじるしくバランスを欠くことになるでしょう。いいえ、バランスを欠くというより、与論人はぼくもそうであったように、歴史とは自分に関わることが登場しないものという感覚を身につけることになってしまうのではないでしょうか。

 いずれ教科書は読まないものだとしたら、大袈裟に考える必要はないとしても、何かの弾みに興味を持った時、手引きになるものが身近にないのは不都合と言うものです。歴史が自分たちにも関わりあることを知るには、『沖縄県の歴史』を見るのがいいと思います。

 ちなみに両方のテキストに共通している「風土と人間」のなかで、奄美はそれぞれ次のように触れられています。

琉球王国であった奄美諸島は、薩摩藩の直轄地として分離され、琉球王国と薩摩藩のあいだの「道之島」と称されるようになった。この奄美産の黒砂糖が薩摩藩の財政建て直しの大黒柱となるのである。亜熱帯性の産物の豊富な奄美は、薩摩にとってまさに「母なる奄美」であった。(『鹿児島県の歴史 (県史)』
奄美地域は万暦三十七(一六〇九)年に王国が薩摩軍にやぶれたため、王国の範囲から割譲され薩摩の直轄地となり今日におよんでいるが、「琉球」という用語を使う場合、そのなかには当然のことながら奄美が含まれている。奄美は行政的には薩摩・鹿児島の一部だが、歴史的・文化的に沖縄と密接な関係をもっており、今でもなお沖縄県に対する強い親近感をいだいている。(『沖縄県の歴史 (県史)』

 『鹿児島県の歴史』が、奄美は、薩摩にとってまさに「母なる奄美」であった」と書くように、奄美は手段として取り上げられます。しかも、「母なる奄美」という形容は歴史を参照すれば偽りの形容と言うべきものです。

 これに対し、『沖縄県の歴史』は、近さと関わりの視点で書かれていて、ふたつの「風土と人間」からどういう視線がぼくたちに注がれているかも知ることができます。

 もちろん、沖縄の歴史を知れば充分というわけではありません。沖縄県の歴史にはぼくたちは登場することはないからです。その意味で、2011年に刊行された『奄美の歴史入門』(2011年)は画期的でした。ここには、奄美の歴史が、現代の考古学や文献読解の成果をもとに易しい言葉で書かれているからです。奄美にとってこれは重要で、歓迎すべきものです。

 しかし、それでも付け加えなければならないのは、この本で充分だと言うわけにいかないことです。

 それは、『奄美の歴史入門』は、自分たちに関わることが書かれていると感じることができますが、それでも、奄美大島中心の歴史であることを免れません。それは、意地悪ということではなく、与論と大島は二百キロも離れており、その距離は、黒糖生産が大島に比べて百数十年も後だった歴史の違いとして表れるのです。

 他力本願ばかりでもいけないと言うことですね。与論の歴史を自分たちでも作ることをしなければならないということです。そして沖縄の歴史は、その大きな手がかりになるはずです。


『沖縄県の歴史 (県史)』

『鹿児島県の歴史 (県史)』

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2014/01/30

徳田虎雄・田中角栄・西郷隆盛

 徳田虎雄の二世議員が公職選挙法違反に問われた時、ロッキード事件の渦中にいた田中角栄のことを思い出した。当時、挑発的なメディアの取材に対しても新潟県の人が、田中角栄を悪く言わなかったことが強く印象に残っていた。2013年の事件でも、奄美の島人は、二世議員に対してはともかく、徳田虎雄のことは誰も悪く言わないのではないか。離島にとって深刻な問題だった医療について、各島に病院を置き、いまも島人はその恩恵を受け取っているからである。田中角栄の時は外から新潟を眺めていたが、今回はそれを内側から体感することになった。

 吉本隆明は、田中角栄をアジア型の最後で最大の政治家と評していた。

(田中角栄は-引用者注)アジア型の政治家で最後で最大の人物とおもわれた。アジア的な政治理念は、根拠地観(論)を第一の特徴にしている。郷党の衆望を背中にしょいこんで中央におもむき、中央政治に参画する。失脚するようなことがあると郷土に帰ってゆく。郷土にいったん帰ると郷土の人たちが守ってくれる。まかり間違って中央政府と武力衝突をやっても、この郷土出身の政治家を守りぬく。明治でいえば西郷隆盛が典型的にアジア的であった。(p.169、『わが「転向」』

 西郷隆盛は日本におけるアジア型の政治家の最初で最大の政治家になるが、しかし最後は、故郷で政府軍によって死を余儀なくされたように、それはアジア型の政治家の終りの始まりでもあった。田中角栄は、終りの終りを任じたのだと思う。

 西郷は、流罪で奄美大島、徳之島、沖永良部島にいた期間があることで琉球弧との接点を持っている。奄美大島では荒れていた西郷は、島人への蔑視を隠さなかったり、逆に薩摩からの代官を懲らしめたりと両面を見せるが、沖永良部島では落ち着き、学問や経済の知恵を施して、島に好印象を残している。

 それは西郷から島が受け取ったものだが、島から西郷が受け取ったものもあるはずだ。南方的なおおらかさ、ゆったりした構えは本来、薩摩まで伸びるものだが、こと政治の面ではそれはやせ細ってゆく。明治の小林雄七郎は、幕末の薩長土肥について、薩摩の「実際的武断」、長州の「武人的知謀」、土佐の「理論的武断」、肥前の「文弱的知謀」と評したが、薩摩についてはその通り、内省への侮蔑と否定からくる武断的な構えが強い。「議を言うな」という言葉に象徴されるように、充満したはこわばりがある。西郷が醸し出した、おおらかさ、ゆったりした構えは、生来の南方的な面を持っていたのだろが、それに重心を与えたのが、琉球弧の作用かもしれなかった。

 このアジア型の系譜は、田中角栄で終ったとぼくも考えてきたが、二世議員の事件で、徳田虎雄もこの系譜に連なっていることに思い当たる。少なくとも、琉球弧では、特に奄美ではこの系譜は終わっていなかった。あるいは徳田虎雄は奄美におけるアジア型の最後の政治家であるのかもしれない。

 唐牛健太郎は、晩年、徳田虎雄に協力する場面もあって、唐牛が与論に滞在したことのあるのを知っている島人を驚かせたが、両者の柄の大きさを思えば、不思議ということはなかった。この、柄の大きさということもまた、アジア型の政治家の特徴に挙げられると思う。

 しかし、徳田を奄美におけるアジア型の最後の政治家と見なせても、故郷を背負うということや柄の大きさが必要で無くなることを意味しない。農村の縮小とともに、アジア型ではなくなるにしても、その根拠地を背負うことは政治家に求められるからだ。琉球弧という根拠地は、それぞれに境界を持った島々の集まりであり、内地の交通・経済圏には内包されない位置にある。



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2014/01/29

「与論島は沖縄県に属すべき」

 笹森儀助。与論では、その名はほとんど知られていないのではなだろうか。

 彼は与論に立ち寄ったことがある。時は1893(明治26)年。与論でよく知られている事に対応させれば、あの、初の集団移住となった口之津への第一陣出発の1899(明治32)年のわずか5年前のこと。

 何をしに来たのか。実は彼は、与論だけでなく、与那国島から奄美大島まで琉球弧を縦断している。そして、その成果を『南嶋探検』という本に記すことになる。

 探検をしに来たのか? ある意味ではそうで、彼は、南だけではなく、千島にも赴き、『千島探検』も書いている。しかし、書名は「探検」でも、そこには「探検」に留まらない目的があった。当時の資源開発と産業育成の旗の下、琉球弧の場合、それは糖業拡張の可能性を探るためだった。

 そして実は、笹森は『南嶋探検』を記しただけでなく、与論に立ち寄った翌1894(明治27)年には大島島司に就任している。大島島司、現在の奄美群島の行政を担当する県の出先機関である大島支庁の支庁長に当たる。彼は政治家でもあったのだ。

 そして、島司として奄美に関わることになった笹森は、『南嶋探検』のなかで与論いついて、こう書いている。『与論町誌』と字が異なる個所もあるのだが、ここでは『日本庶民生活史料集成〈第1巻〉探検・紀行・地誌』(1968年)所収のものに従う。

沖縄那覇より七十二海里。又た沖縄北海なる辺戸岬を距(へだた)る事十六海里。故に民俗生計最も沖縄に同し。需要供給凡(およそ)百の事皆給を沖縄に仰く。若し沖縄一朝法令を厳にし薪炭(しんたん)木材等の輸出を禁せは忽(たちま)ち島民は生計を失ふに至る。之を以て、該島を鹿児島県に属するは地勢より論するも民俗より論するも其(その)当を得さるものとす。下情の官庁に通せさる実に人民の不幸なり(p.567)。(笹森儀助『南島探検』1894年)

 この島が鹿児島県に属するのは、地勢から言っても民俗から言っても道理を得ていない。民衆の生活の様が、官庁に理解されていないのは、実に人々の不幸だ。そう言う。笹森はそこから、「与論島は沖縄県に属すべき」と、主張している(p.588)。

 無視されるか、沖永良部島と以下同文とされることの多い与論の場所からみると、この提言には驚く。ここまで配慮の届いた言葉は、滅多にお目にかかれない。

 実は笹森は、与論に対してだけではない。奄美の島司として着任した際は、「糖業改良」と「負債償却」を二大目的としている。「糖業改良」はともかく「負債償却」とは何か。当時の奄美は、大島商社をはじめとする商人からの金銭やその他の物品の前貸しを受けて、それを黒糖生産で返せず、借金まみれになっていた。要するに、してやられていたのだ。明治維新直前に黒糖生産を開始した与論も例外ではない。あっという間に、他島と変らない負債を抱えこんでいる。笹森が「負債償却」を目的にしたのはそのことだった。

 笹森は、「特に鹿児島商人を助けて島民を圧政するの跡あり、最も忌へき事とす」と憤っている(p.399、弓削政巳「笹森儀助と奄美」『大和村誌』)。こういう見解を見るにつけ、少なくとも当時は当時はなおさら、笹森が青森の弘前出身であるように、県外の人物でなければ、奄美に対して偏見のない政治は不可能だったと思わざるを得ない。

 硫黄鳥島と交換されてしまったかもしれない与論島だが、その後、「与論島は沖縄県に属すべき」と主張した政治家もいた。その稀有さにおいて、笹森儀助は与論でも記憶されるべき名だと思う。


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2014/01/28

琉球弧の「ありがとう」分布・補足

 中本正智の『図説琉球語辞典』(1981年)に依って、「琉球弧の「ありがとう」分布」を補足する。

ニヘー nihe: は本来、「*御拝」であるから、目上に対することばであったが、最近では目下にも使う。  ニヘーが目上に対してなら、カフー(果報)は目下に対してのことばであった。カフーシ(果報をして)のように用いた。平民同士は、目上に対してもシディガフー デービル(*孵果報でございます)という(p.418)

 分布図(p.419)では、シディガフー系は、宮古、多良間島、そして沖縄島の中城湾近くの新里にある。

ウボラハ系は徳之島に、ウブクリ系は喜界島に、フクラサ系は宮古と八重山に分布している。徳之島ではウボラハ ダレンといい、喜界島ではウフクン データ、宮古ではプカラッサ、八重山ではプコラーサ ユーのようにいう。この三系は、一つの系から派生したものにちがいない。これらは、*pokosa∫isa(誇らしさ)にさかのぼる。この語は『おもそろうし』では「ほこらしや」となるが、歓喜に満ちた心の状態を表すのである。

 「誇」系が、「歓喜に満ちた心の状態を表す」ということは、「孵」系と同じだということになる。

(「誇」系の-引用者注)次にニヘー系が沖縄を中心に分布している。北は沖永良部島まで延び、南は宮古を飛び越して八重山に分布している。八重山ではミハイ系を用いる。例えば、沖縄ではニヘー ヤイビータン、沖永良部島ではミヘ デーロ、八重山ではミハイ ユーのようにいう。琉球では「ほこらしや」が、喜びを表す語であったが、これが相手の御機嫌を伺う語へ発達し、北と南の全域に波及した。これは、15世紀以後のことである。

 なぜ、15世紀以後と断定できるのだろう。知りたい。

次にニヘー系は沖縄を中心に発達し、沖永良部島や八重山に波及した。ニヘーとミヘーは、二拝と三拝といわれるが、これは誤りで、「*御拝」が正しい。mihai →miΦe: →niΦe →nihe: のように変化した。ニヘーが首里王朝文化圏の広がりをもっていることから、恐らく15世紀前後に広がった語であろう。

 これはぼくたちの見立てと違わないが、ニヘーが15世紀前後で、「ほこらしや」が15世紀以後というのはなぜだろう。分布からいえば、「誇」系を先と見るのが自然に思える。

 中本正智の『図説琉球語辞典』は、琉球弧オタクにとっては、願ってもない一冊で手元に置きたくなるが、中古で23000円からとなると手が出ない。

 しかし、発見もあるが不足も目につく。「ありがとう」の項目では、与論の「とーとぅがなし」を拾い落としている。そして与論は、「ウダーヌミチ」とされている。初耳だが、どこで使われているのだろう。


◇◆◇

 これらによって、「琉球弧の「ありがとう」分布」を加筆、補足しておこう。


 「誇」系 ウフクンデール(喜界島)、フガラッサ(与那国島)、(フコーラサーン)石垣島、オボラダレン(徳之島)、オボコリダリョン(奄美大島)
 「拝」系 ミフェディロ(沖永良部島)、ニフェーデービル(沖縄島)、ニ(ミ)-ファイユー(八重山)
 「尊」系 トートゥガナシ(与論島)
 「頼」系 タンディガタンディ(宮古島)
 「孵」系 シディガフー(宮古島、多良間島)

201401


『図説琉球語辞典』


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2014/01/27

W→B→(P)→F(H)

 中本正智の「図説琉球語辞典」(1981年)によると、W音を起点にした音韻変化は次のように示されている。

 W → B
 W → (P) → Φ

 Wを起点に置いてみると、W音と濁音等価であるB音(吉本隆明「表音転移論」(p.286『ハイ・イメージ論2』)への転移があり、それが清音化されて、P音以降の転訛を生んでいることにならないだろうか。

 W → B → P → F

 理念的には描くことができるように思える。

 そうだとすれば、与論に訪れた時期の古い麦屋の人々が、音韻の変化は多く経験してきたことになる。


「図説琉球語辞典」

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2014/01/26

w > (p) > Φ

 「フナグとヲゥナグ」について、続ける。

 「P音考」を書いた上田万年によれば、「k/g、 t/dの清音と濁音の音韻的対立から考えて p/bでなければならない」としている。すると、「フナグとヲゥナグ」で考えた、麦屋のH音を、八重山のB音の清音化したものと捉えたことは誤りということになる。

また、中本譲によれば、

 琉球方言の音韻の中には、上代、もしくはそれ以前の古い姿が保持されている可能性があるとして、これまで研究が進められてきた。例えば、日本語のワ行子音に対応するb音は、文献以前に遡る古い音である可能性が示唆されてきたし、上代特殊仮名遣いが残存している可能性も示唆されてきた。しかし、現時点ではどちらも証明されるに至らず、ワ行子音b音においては、既に述べたとおり、w > b の見方が優勢となっている(p.219『沖縄文化はどこから来たか―グスク時代という画期』)。

 とある。

 すると、麦屋のB音は、W音化するのとは別に、H音化した流れと捉えることもできないことになる。

 サイコロみたいに振りだしに戻る感じだが、新垣公弥子は、「琉球方言におけるワ行子音の変遷- 「斎場御獄」の事例から-」(2010年)のなかで、w > b という流れとは別に、w > (p) > Φという経路を捉えている。

 新垣は、中本正智の『図説琉球語辞典』(1981年)を元にその変遷を辿っているが、ここに麦屋方言のケースを当てはめると、興味深い。

1.「夫」

 「夫を表す琉球語は、ウトゥ系 ・グトゥ系 ・ブトゥ系であ り、単一話形の*wopitoにさかのぼる」(p.12)。新垣は、。「沖永良部島と与論島は圧倒的にwutuである」としているが、ここに麦屋方言を当てはめれば、[Φutu]である。同じ音韻は、ここに掲載されている地図からは、粟国島が唯一、見つかる。

 なお、宮古、八重山で「夫」を表す[butu]は、与論では男根の意味だ。

2.「女きょうだい」

 「この語は、ヲナ リ系とブナ リ系の2つに分類される」として、与論は、[wunai]とされているが、ここでも、麦屋は、[Φunai]である。これは勝連半島の屋慶名[Φunai]と同じで、粟国の[Φinai]にも近い。

4.「男」

 「全琉球の 「男」を表す語は 「ヱケリ」に対応する」。ここでも、与論は[wuiga]とされているが、麦屋は[Φuiga]である。これと同じなのは、大宜見村の屋古のみ。

5.「砂糖きび」

 「全琉球の 「砂糖きび」を表す語は 「ヲギ」に対応する」。与論は[wugi]。これについては、地図でも、麦屋は[Φugi]として認識されている。同じ音韻は他島に見出せないが、近いものとして、粟国島、勝連半島の屋慶名の[Φu(:)d3(表記できない]がある。

8.「女」

 「全琉球の 「女」を表す語は 「ヲナゴ」に対応する」。与論は、[wunagu]になる。麦屋は、[Φunagu]であると認識されている。麦屋の他には見られない。

5.9 「男きょうだい」

 「全琉球の 「男きょうだい」を表す語嚢は「ヱケリ」に対応する」。「 この語は、ヰキー系とビギ リ系の2つに分類され」、与論はヰキー[jikj:]、麦屋はイキー[iki:]とされている。しかし、菊千代の「与論方言辞典」では、フイビ[Φuibi]になっている。

 これは、「ヱケリ」についても、w > (p) > Φが想定できるということかもしれない。

 また、『図説琉球語辞典』に直接、当たると、「拝む」についても、麦屋はフガムン[Φugamun]であるのに対して、他はウガムン[?ugamun]であるとされている。そして「拝む」が、フガムン[Φugamun]になるのは、これも粟国島だ。

 これらを辿ると、麦屋方言は、W音からΦ(F)音への変化したものだということになる。しかも、複数の単語で、Φ音が認められ、奄美では類似はない。粟国島と勝連半島の屋慶名とは複数の語で、同一、類似が見出せるのが面白い。

 振り出しから駒すすめに乗り出せたこと、新垣公弥子に感謝したい。

 なお、新垣は、b音とw音の新旧関係について、ことはそう単純ではないとしている。

ワ行子音の概要を大 まかに示せば (W>b>W)という変化 を辿る。村山は前半部分の(W>b)を、そ して名嘉真は後半部分の (b>W)を切 り取 り、それぞれが検証し考察を進めていたということであろう。そのため、それぞれの検証結果は決 して間違ったものではないが、しか し相反する結論が導き出された。 これ らの事実を踏まえれば、琉球方言のり行子音の変化は例えば 「Ⅹ-Y」のような単純な変化ではないということが考えられる(p.22)。


『図説琉球語辞典』


『沖縄文化はどこから来たか―グスク時代という画期』
 

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2014/01/25

フナグとヲゥナグ

 与論言葉で音韻の明瞭な差異を見せるのは、麦屋(インジャ)においては、「ヲゥ」が「フ」となることだ。

 野口才蔵の「南島与論島の文化」(p.269)の助けを借りながら、その例を挙げてみる。

 麦屋   他     日本語 
 フバ   ヲゥバ   叔母
 フイガ  ヲゥイガ  男
 フナグ  ヲゥナグ  女
 フナイ  ヲゥナイ  男性から見た女の兄妹
 ヒンジャ  ヰンジャ  麦屋
 ホークティ ヲークティ  からかう

 最後のニ例を加えれば、「ヲゥ」音が「フ」音がとなることは、W音がH音に変わると敷衍することができる。この差異は、音韻上の違いとしては与論のなかでは最も明瞭なものだ。

 宮良当壮は、日本語や沖縄本島首里方言のワ行音は八重山ではバ行音になることが指摘している。

 日本語 首里方言 八重山方言

 wa(我) waŋ ba
 woi(甥) wi: bu:
 wobito(夫)>otto utu butu/budu

 これは、吉本隆明の「表音転移論」(p.286『ハイ・イメージ論2』)を援用すれば、ワ行の濁音とハ行の濁音は等価だという事例に当たっている。

 この媒介を経ると、麦屋の「フ」系言葉は、ワ行がハ行濁音に転移し、ついで清音化したものだと見なすことができる。

 村山七郎は『琉球語の秘密』のなかで、「いったいw- と b- のうち、いずれが古いのか」(p.68)という問いを立て、「八重山方言(及び宮古方言)のワ行音b- はw- より古い形を示すのではないろうかと考えたくなる」が、「私はそうは考えない」としている。

 日本語や沖縄本島方言以北のワ行音に対する宮古、八重山方言のバ行音は、アルタイ的本源状態を保つのではなく、派生的と見られるのである(w->b-)。(p.71)

 村山の仮説は、日本・琉球語において、*b- は無声化して *p- と合流し、*v- は w- に発達。結果、*p-, w- の対立が生じたが、宮古、八重山方言では、*p-, w- の2対立を、*p-, b- の2対立に変化させた、と読める。

 この考え方をなぞらえれば、与論麦屋方言は、宮古、八重山方言と同じように、*p-, w- の2対立を、*p-, b- の2対立に変化させ、かつ、*p-, h(f)- の2対立に変化させたということになる。

 ここで、ぼくは麦屋の島人が、オーストロネシア語族の北上に伴って与論に定着した、与論の歴史のなかでは最古の歴史を持つ人々だと考えている。そうすると、村山とは逆に、w- と b- とでは、「b-」が古いと見なしたくなる。かつ、それはアルタイ的本源としてではなく、オーストロネシア語としてそうだと考えることになる。

 伊波普猷の「P音考」風に書けば、

 B→H(F)、B→W

 ということになる。これはあり得ることだろうか。あるいは村山の仮説に添えば、W→B→H(F)という経路だ。

 ぼくには、これ以上の知見を持たないから、ここでは備忘に留めておく。

 麦屋方言が変化を受けているとすれば、大和朝廷勢力の南下や貝交易の折、北からの到来に対して、応じることができるのは、当時、既に定住していた与論人は麦屋人しかいないから、この交流の過程で変化があった可能性もある。

 ただ、麦屋方言のみが、その他の地域のワ行音に対して、ハ行音を持つことは、種族の由来と異種族との接触の歴史の過程を、他と異にすることを伝える明瞭な証拠であることは確からしく思える。


『ハイ・イメージ論2』

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2014/01/24

伊藤左江吉の決意

 満州開拓団は、敗戦によって満州開拓の夢はついえましたが、与論に帰ったり大牟田の親戚を頼ったりして実質上、解散したわけではなく、新たな集団移住の地を目指した与論人たちがいました。彼らは鹿児島の大隅半島の山中に拠点を求め、満州の地にちなんで「盤山」と呼び開拓を継続したのです。いまでは田代茶でその名も知られるように、開拓は果たされたのです。

 離島から果てしない平原、平原から杉の生い茂る山中へ。敗戦からの命からがらの帰国というだけでなく、開拓地環境の激変という困難をあげるだけでも、盤山の与論人の相当な意思、覚悟が伝わってきます。

 彼らはなぜ、与論に帰らなかったのでしょう。当時、奄美、沖縄は米軍統治下にあったので、帰島するには鹿児島から密航せざるをえないという障害はありました。けれど、それで帰島した者も多かったことを思えば、それは決定打ではなかったでしょう。満州での悲劇も背景に置く必要があります。しかし煎じつめると、ここに、貧困から移住を余儀なくされた口之津の場合と、募集に応じる形で開拓の夢を追った場合との違いがあるのかもしれません。

 そしてこのなかで、伊藤左江吉という与論人のことが、忘れてはいけない人として浮かび上がってきます。

 伊藤は与論で小学校の教師を勤め、兵役経験者でもあったこことから、満州開拓団の引率者として白羽の矢を当てられます。しかし彼は当初、これを拒みます。拒み続けます。若者たちが血判状を持って押しかけた時もあしらいます。伊藤は二年、拒み続け、断りきれない情勢を受け入れてやっと腰を上げています。

 伊藤の態度は煮え切らないものに映ったはずですが、この重い腰は、熱に浮かされて「バスに乗り遅れるな」と煽った人たちよりはるかに重要なものでした。伊藤の決意がはやくになされ、開拓団の規模がもっと大きくなっていれば、満州での悲劇ももっと拡大されていたかもしれないのです。これは結果論だと言い切れない面も持っています。伊藤の腰が重かったこと自体に、問題の認識が含まれていただろうからです。

 その判断力は、伊藤が引率の条件として、貧困層だけではなく、富裕層、知識層も対象とすることを村長に呑ませたことにも表れています。

 伊藤は開拓団を率い、満州へ渡りますが、山根と同じく徴兵され、その後ソ連に抑留されます。帰国できたのは、山根より1年遅い、1948(昭和23)年のことでした。
 彼はこの時、迷っています。

 現地応召。敗戦とともにソ連に抑留され、二十三年十一月に帰国する。そのとき「実は与論に帰るつもりだったのです」と、本人は打ち明けた。郷里には家や財産もそのまま残してきたし、「教職に復帰させる」という約束もとりつけてある。〈五年間、悪夢をみたようなものだ〉と割り切れば、再び安定した生活は保障されていた。
 けれど、ともに死線を越えた同志が田代開拓に第二の人生をかけている。団長だった自分が私情に流されれば、仲間を裏切ることになる。みんなも復帰を強く望んでいる。開拓は使命だ―思い直した伊藤さんは、田代へ直行したのだった。

 島へ帰りたい気持ちを振り切ったこの決意も重たいものです。田代の開拓団の人たちはどれだけ心強く思ったことでしょう。田代開拓の成就には、この伊藤の決意も大きく力になったと見なしても決して間違いではないでしょう。

 自分が望んだわけでもないことを引き受け、最後まで引き受けきった人として、伊藤左江吉の名は忘れずにいたいと思うのです。

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2014/01/23

シベリアに抑留された与論人

 太平洋戦争中、与論から中国東北部の満州へ開拓団として集団移住のあったことは、島の中ではよく知られています。しかし、開拓から二年で敗戦、そして暴徒化した満州人と侵入したソ連兵によって惨劇は起きます。それは集団自決を含む痛ましいもので、与論の歴史に深い傷跡を刻んでいます。語られることも書かれることもなく、沈黙のなかに秘めた哀しみもきっと多くあるのだろうと思います。

 満州からの帰国も命からがらだったわけですが、このなかには、島に帰るにせよ、大牟田や鹿児島の親戚を頼るにせよ、帰国できた人以外に、シベリアに抑留された与論人もいたことはあまり知られていないのではないでしょうか。

 その一人、山根純雄の行程を辿ってみましょう。1944(昭和19)年4月、満州へ到着。山根は当時、19才くらい。開拓にいそしみ脱穀の喜びを味わうも、翌年の4月には召集令状を受けてしまいます。開拓団は徴兵されないという口約束があったので、裏切られた気持ちになるが、どうすることもできず、5月関東軍へ入隊。その三ヶ月後の8月には、国境を侵入してきたソ連軍の攻撃を受け、15日の敗戦を16日に知り、ソ連軍に捉えられます。そして、10月、シベリア強制収容所に連行されてしまいます。

 シベリアでの生活は、「経験したものにしか分からない」と、山根が何度も繰り返すように、ぼくたちの想像を絶しています。

作業中に一瞬でも、じっとしていると凍死が待っているだけ。手足の指が痛みを感じなくなると、凍傷になる。その次に眠気が襲い掛かってくる。とても気持ちよくなる。二人組みで作業をさせるのは凍傷や眠気を防ぐ目的もある。「危ない」と思った時は、手で顔を打つ、体を揺する。気がつけば大丈夫。零下三十度を超えると、針で突くような痛みがある。皮膚の感覚がなくなり、心まで凍りつく。その後、麻酔を打たれたように気持ちよくなっていく。それは一月から三月まで、冬の間は毎日襲いかかる。

 極寒の地は戦友の命も次々、奪っていきました。朝、目覚めると隣で一緒に寝た戦友が氷のように冷たくなって死んでいる辛さにも直面しなければなりませんでした。凍死した馬を食べたこともあれば、薪割りで出てくる虫の幼虫も食べた。二度、倒れたこともあった、といいます。

 そんな生活を2年間続け、山根は幸運にも生き残り、1947(昭和22)年11月、ナホトカから舞鶴港へ、帰国を果たします。

 山根が生き残ることができたのは、当時、20才を過ぎたばかりという若さもあったでしょう。収容所には四十代、五十代の男性もいたが、先に参ってしまうのは彼らで、山根も父親の年齢のような年長者に不憫を感じています。そして、満州で別れた母に、「必ず生きて帰るんだよ」と告げられていたことも大きな支えになったに違いありません。

 しかし、ここにはもうひとつ重要なことがありました。ソ連が侵攻してきた時、山根を率いる分隊長は、死んでも他言するなと命じて、こう言ったといいます。

 自分の命を守り、ソビエト兵に立ち向かう武器も何もない。もうこれ以上戦いを挑んでも、犬死にするばかりだから、自分の命を守って逃げるがいい。君たち、この言葉は絶対秘密だ。生きていたら何か良いことがある。

 山根はこの言葉を一生忘れないと思ってきました。そして、秘密もずっと守ってきたのですが、82才になった手記を認めるなかで、「ここまできたら」と、打ち明けているのです。

 後世の者からすれば、よく書いてくださったと感謝の念が過ります。この分隊長の言葉に山根は感激し、最期の時は、「天皇陛下、万歳」ではなく、「分隊長、万歳」と叫ぶと心に誓うのです。逃げること、生き延びることを口にするのは、当時の至上命令的な価値観のなかでは相当に勇気の要る言葉だったはずです。しかしそう口にした。それは無駄ではなく、山根にシベリアで負けない力を授けたのではないでしょうか。

 それだから思います。集団自決のような極限の状況下でも、逃げること、生き延びることを口にすることができたら、事態は大きく向きを変えたかもしれない、と。

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2014/01/22

近代を真っ芯で引き受けた与論人

 1960(昭和35)年は、日米安保闘争で知られる年ですが、三池闘争の年でもあります。経営が悪化した三井炭鉱は人員削減案を出し、応じない者に指名解雇を通告します。これに労働組合が反発して無期限のストライキに入り、対立し衝突したのです。この闘争は、財界が三井を支援し、日本最大の労働組合組織だった総評が組合を支援したので、総資本対総労働と呼ばれるほど、大規模でかつ象徴的な事件です。

 ところで、この三池争議のなかで、与論人が組合の先端に立っていたことはあまり知られていないのではないでしょうか。

 「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざるもの」の典型として過酷な労働条件を強いられていた与論人は、戦後、労働組合の前面に立つまでに変貌していたのです。
ここに至るまでには長い道のりがありました。

 過酷な条件に置かれていた与論人ですが、大正に入って、条件のいい場所を横取りすることの多かった地元組を、軍隊を除隊した若者たちを中心に結成した元組が制裁を加えて一目を置かせたり、荷役主任の横暴さに募っていた不満が爆発して、みんなで取り囲みこらしめて荷役主任から外させたりするようになります。

 昭和に入り、二世世代が与州同志会を結成すると、「服従ハスルモ屈服スルナ 常ニ自尊心ヲ持テ」という標語を掲げます。そして、変わらない条件の過酷さに対して、「従業時間の制限」、「老年工の優遇」、「昇給の道」、「残業米の支給」という本当に基本的なことを嘆願します。三井側はこの時、部分的にですが、条件を飲みます。

 なぜだったのか。実はこの時、与論側は要求が通らなければ、第三の与論村づくりを満州で行う決意を固めていたのでした。それを知って、三井側は慌てたのです。

 力を行使することに始まり、不当なことに対して主張し、それを通すことを通じて、与論人は自信をつけていきました。こうして、「世に慣れざるもの」を少しずつ脱していき、三池争議の頃には、労働者の前面に立つ者に変貌していたのです。

 ストライキは長期化すればするほど、労働者側はカンパが続かなければきつい状況になっていきます。三池争議でも同様で、組合員の生活はカンパが断たれ、苦しくなっていきました。そこで、三井側は会社が関与した第二組合をつくります。そうすると、それまでの第一組合から、好条件を出されていく第二組合へ流れていく者たちが出ます。

 三池争議の間、三井側は、最後まで第一組合に残るのはヨーロンだろうと推測していました。ヨーロンというのは与論人に対する蔑称ですが、それでも、「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざるもの」という見なしから遠くへ来たことが分かります。

 しかし、与論人たちもこの問題に直面します。それは難しい問題です。会社側と対立することは学んで闘えても、島人同士での諍いは何より辛いはずですから。

 この時、興味深いことが起きています。三池闘争の理解を得ようと何人かが与論へ帰るのですが、島ではどう説明しても三池闘争の意味は伝わらず、ただ郷土人の分裂だけは止めてくれと、逆に説得されて戻るばかりだったといいます。理解を求めるつもりが、「郷土人の分裂だけは止めてくれ」と言われてしまったのは、さもありなんと思います。きっと島では、大牟田は「赤」になったと大騒ぎしたことでしょう。ここに、近代の荒波をその先端で受け止めている者と、珊瑚礁に砕けたさざ波として受け止めている者との差が歴然と現れたのでした。

 与論出身の西脇仲川さんは、三池争議のことを振り返り、こう語っています。

家族の励ましによって、第一組合に残った人。家族の説得によって、生活を守るために第二組合に行った人々。それぞれの家庭の事情があるんだから。
  人間というものは、どんなに落ちても上がっても、決して卑下したり、見下げて暴言を吐いたりするもんじゃないということはねぇ、あの三池争議ではっきりわかるです。(『むかし原発 いま炭鉱』)

 胸を打つ言葉ではないでしょうか。島人同士の対立という厳しい状況を潜り抜けていった人の言葉は優しいですね。

 口之津への移住を余儀なくされた与論人(ユンヌンチュ)とその末裔の人たちは、その後も一酸化炭素中毒をめぐる闘争などの試練を受けます。過酷な労働条件と貧困と差別と公害と。彼らは近代日本の荒波を真っ芯で引き受けて生き抜いたのです。無力と諦めに傾きがちなぼくたちですが、こうした先人がいることは大きな励みになるのではないでしょうか。大牟田の与論人の歴史をぼくは誇りに思います。

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2014/01/21

「土百姓にして世に慣れざるもの」

 2013年、茶花の海岸に「移住 開拓の月」という石碑ができ、与論からの移住者を思い出すきっかけがひとつ増えました。

 それぞれの事情からの移住はふつうですが、石碑の移住は、集団的であるということが全く違っていました。そこには膨れ上がった人口と貧困の問題が横たわっていました。集団移住の始まりになった1899(明治32)年の場合は、その前年に襲った台風がきっかけです。ここ数年、与論も台風の被害が甚大ですが、それが集団移住の引き金にもなったのです。

 最初の移住地は、長崎県口之津。天草を南に臨む島原半島の南端に当たるところです。働き先は三井炭鉱。そこでの与論人(ユンヌンチュ)の仕事は「ごんぞう」と呼ばれた石炭の積荷作業でした。女たちが炭坑口から運ばれてきた石炭を選別し、男たちが竹で編んだ平かごに積み、それを六尺棒で持ちあげて肩に乗せて、はしごをのぼって貨車や炭車に運び込むのです。

 きつい仕事ですが、労働条件はもっと過酷でした。与論人(ユンヌンチュ)の置かれた状況は、賃金が「日本人夫の七割」で、朝鮮人よりも安く、仕事によっては囚人よりも安いというものだったと言うのです。

 なぜ、こうだったのでしょう。

 『むかし原発 いま炭鉱』という本で、それを日本人夫との格差を知った作家の高橋源一郎は、「与論島から来た労働者も差別をされて、日本人に比べて給料が7割ぐらいだったとか。だから与論って日本じゃなかったわけだよね」(「SIGHT 2013 WINTER」)と驚きを隠せずにいます。でも、ただ驚くだけではなく、問題の本質も突いています。
与論が日本と見なされていなかった、ということです。

 琉球弧の島人が方言禁止運動もして日本人になるために必死だった時期は、そう遠い昔ではないので、高橋のようには驚きませんが、しかし、そのことがもたらした現実には、改めて驚かざるをえません。
けれどそうだとしても、疑問は残ります。

 「日本と見なされていなかった」として、それでもなぜ、朝鮮人よりも安く、仕事によっては囚人よりも安いということが起きたのか、ということです。

 「与論人は朝鮮人より生活程度が低いと一般にみられていた」(『与論島を出た民の歴史』)、「植民地とはいえ、朝鮮人も日本人の枠の中には入っていませんでした。でも、朝鮮の人の中には日本人の九割の給料をもらった人もいました。与論の人じゃ考えられない」(、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)、「職種によっては、与論の民は囚人より安い賃金に据え置かれていたのである」(『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)などに見られるような状況はなぜ、生れたのでしょう。

 それは、与論人性質(かたぎ)とでもいうものにつけこまれたということではないでしょうか。
 口之津へ集団移住した翌年の「炭坑夫募集要領」には、「世に慣れざる者の他は断然募集せざる事」とあります。「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者は足を止め」るけれど、世に慣れたる者は逃走を企てる。甚だしい場合は、夕方来たら朝には逃げるから、というのです。

 炭鉱労働はもともと囚人が担っていました。それが非人道という外側の世論と非効率という内側の事情から、一般へと労働が移っていく過程で、三井は「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者」に募集の照準を当てたのです。

 三池炭鉱の募集人の目には、与論の島人が、「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者」を絵に描いた姿のように映ったでしょう。かくして、与論からの初めての集団移住者は、近代の過酷を一身に引き受けることになったのです。しかもこの状況は基本的には、明治から戦後まで変わらなかったのです。

 もちろん、「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる」ことは悪いことでも何でもありません。近代は「自由・平等・博愛」をその理想に掲げましたが、今だって充分だとはとても言えないものの、明治の後半の日本ではまだまだだったのです。

 炭鉱という日本近代産業のど真ん中に置かれた与論人たちの苦労から、ぼくたちもたくさんのことを学ばなければいけません。

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2014/01/20

与論移住史 田代メモ

 満州の盤山開拓団は、その後、シベリア抑留、与論帰島、大牟田の親戚を頼るのとは、別の軌道の流線もあった。国内に盤山を築くというものだった。

 当時、故郷与論は米軍統治下にあるが、多くの帰還者が密航船で与論へ帰るなか、鹿児島に残り、新たな入植地を検討する者たちがいた。満州に移住した人たちの37%になる。移住先は、肝属郡。大隅半島の山中で、現在の錦江町田代だ。

 彼らは森を切り拓き、文字通りの開拓者として生き延び、茶に活路を見出した。彼らのなかには、伊藤左江吉がいり。満州開拓団を率いたが、勇んでではなく、断り続けた挙げ句の引き受けだった。彼はなぜ、与論に帰らなかったのか。

 現地応召。敗戦とともにソ連に抑留され、二十三年十一月に帰国する。そのとき「実は与論に帰るつもりだったのです」と、本人は打ち明けた。郷里には家や財産もそのまま残してきたし、「教職に復帰させる」という約束もとりつけてある。〈五年間、悪夢をみたようなものだ〉と割り切れば、再び安定した生活は保障されていた。
 けれど、ともに死線を越えた同志が田代開拓に第二の人生をかけている。団長だった自分が私情に流されれば、仲間を裏切ることになる。みんなも復帰を強く望んでいる。開拓は使命だ―思い直した伊藤さんは、田代へ直行したのだった(p.89)。(『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 ここには、元には戻れない経験をしてしまったことへの諦観も潜んでいる。自分のした経験を共有できる人たちはもう島にいない。島に戻る顔の持ち合わせもないという気持ちもあっただろう。彼らによって、たしかに開拓は遂行されたのだ。

 田代を離れた人だが、印象的な言葉もある。

 盤山を訪れたとき、墓地に足を運んだ。田代の土になる覚悟で入植した与論の人たちも、歳月の流れとともに、ここで永遠の眠りにつく一世は増えている。与論と田代にそれぞれ住んでみてその違いは何が一番大きいのだろうか。「台風なんかも島は吹き荒れ方が違う。それと病気になったとき、こちらはすぐ鹿屋にでも行けるけど、与論ではそうはいかない。地続きだという安心感、これは大変なものですよ」
 二十七年、盤山から南風谷に移り住んだ池田さんはしみじみと語る(p.106)。

 地続きではない不安を、離島はいつも抱えている。生活苦の多くはそこに由来していると言ってもいい。それを逃れたいという気持ちはよく理解できるのではないだろうか。


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1946(昭和21)年7月18日 先遣隊
1948(昭和23)年5月 盤山開拓農協発足
1949(昭和24)年6月20日 デラ台風。3人死亡、2人怪我。
1949(昭和24)年12月 自家発電開始
1950(昭和25)年5月 農村工業導入
1951(昭和26)年10月4日 ルース台風。
1952(昭和27)年2月 土地の正式配分。
1957(昭和32)年春 お茶の新植開始
1959(昭和34)年春 盤山ヤブキタ同好会
1961(昭和36)年春 茶摘み開始
1967(昭和42)年 優良茶生産団地の指定

鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち


『与論島移住史―ユンヌの砂』


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2014/01/19

与論移住史 満州メモ

 与論移住史のなかでも、満州開拓団のそれは悲惨で、避けて通りたくなるが、そうするわけにはいかない。

 敗戦とともに暴徒と化した満州人によって、入水自決、短刀自決に追い込まれた与論人たちがいた。その他、記述には現れない満州人、ソビエト兵との悲惨も背後には広がっているのだろう。

 八千人に膨れた島の人口は、またしても移住を課題とせざるをえなかった。そこへ、今度は大和を知る島の人も扇動した。責任者となるのを拒み続けた者もいた。満州開拓団になれば兵役を免れるという甘言もあった。日本軍の戦況はおもわしくなくいつ与論が米軍の攻撃に晒されるかもしれないという不安もあった。

 今回は、誰に騙されたというわけではないが、圧倒的に世界への認識が欠如していた。しかし、これとても、当時、誰がそれを持てたかと問えば、覚束ない。ただ、勢いに乗った言葉は、眉に唾して聞くのがいいという教訓は得られる。

 満州開拓団は、移住後、わずか一年でソ連の侵入、敗戦を受け、日本への逃避行を余儀なくされる。しかし、この間、敗戦間近な時期には、男性の関東軍への徴用も開始され、残された者たちの悲劇を拡大することになった。


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1943(昭和18)年8月 先遣隊
1944(昭和19)年2月 第一陣(4月到着)
1944(昭和19)年10月 最終陣到着

145戸、635人。盤山開拓団。

1945(昭和20)年4月 召集令状
1945(昭和20)年8月18日 敗戦を知る

22人、溜池に入水自決。26人、短刀による自決。死者56人、行方不明3人。

1946(昭和21)年5月24日 引き揚げ
1946(昭和21)年6月2日 博多上陸


 この満州開拓団のその後の流線のうち、徴用され、シベリア抑留の憂き目にあった山根純雄の軌跡を辿ってみる。

1945(昭和20)年5月13日 関東軍入隊
1945(昭和20)年8月 ソ連軍の攻撃
1945(昭和20)年8月16日 敗戦を知る
1945(昭和20)年10月 シベリア強制収容所
1947(昭和22)年10月 帰国指令
1947(昭和22)年11月21日 舞鶴港入港(ナホトカより)

 強烈な体験を刻印したのはやはシベリアの極寒。それは、与論に帰って何十年経っても、夢でうなされるほどのものだ。

 作業中に一瞬でも、じっとしていると凍死が待っているだけ。手足の指が痛みを感じなくなると、凍傷になる。その次に眠気が襲い掛かってくる。とても気持ちよくなる。二人組みで作業をさせるのは凍傷や眠気を防ぐ目的もある。「危ない」と思った時は、手で顔を打つ、体を揺する。気がつけば大丈夫。零下三十度を超えると、針で突くような痛みがある。皮膚の感覚がなくなり、心まで凍りつく。その後、麻酔を打たれたように気持ちよくなっていく。それは一月から三月まで、冬の間は毎日襲いかかる。(p.10)

 山根は生きて帰ることができたが、最初の冬には入院し、次の冬にも栄養失調に陥っている。その間、仲間たちとの別れも経験させられた。

 一月になると、寒さと飢えのため、栄養失調で毎日、戦友が死んでいった。とても残念で死体を運ぶのも忍びなかった。朝、起きる時間になって、隣の、手が届くところに寝ている戦友を、起こしてみれば、氷の如く冷たくなっていた(p.10)。

 馬の死体を食べたり、虫も食べた。「おいしかったのはストーブに入れる薪割りをした時に出てくる幼虫を少しあぶって食べるとおしかった」。毒キノコを食べて死んだ戦友もいた。ソビエト兵は、元日本兵をハラキリサムライと呼び、計算が不得手だった。「掛け算、暗算が鈍い。小学一年生よりも遅い(p.11)」。そのため点呼が遅々として進まない。共産主義の講和もあった。帰国に際し、ソビエトへの永住希望も募られている。山根は迷うが、いちど米軍統治下にある故郷の状況を確かめてからでもという先輩の助言を受けて帰国を決める。

 山根が生きながらえた理由のひとつには、若かったという体力的なこともあるが、その前に、ソ連の侵攻を前に、分隊長が言った言葉だった。

「自分の命を守り、ソビエト兵に立ち向かう武器も何もない。もうこれ以上戦いを挑んでも、犬死にするばかりだから、自分の命を守って逃げるがいい。君たち、この言葉は絶対秘密だ。生きていたら何か良いことがある」。分隊長は「この言葉は死んでも話すな」と言った。私は一生忘れない(p.8)。

 結局は、制度的なお題目とは別に、こうした自分の言葉を持てる人がいるかどうかで、生死が決まることがることを教えている。山根純雄は、『生きて帰って来い、必ずだよ』のなかで、不戦の訴えを繰り返している。


 

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2014/01/18

与論移住史 三池争議メモ2

 話しを戻せば、昭和に入り、「服従ハスルモ屈服スルナ 常ニ自尊心ヲ持テ」というメッセージが印象的な与州同志会が結成される。

1938(昭和13)年 与州同志会結成。「服従ハスルモ屈服スルナ 常ニ自尊心ヲ持テ」

昭和になり、二世の時代になった。巷では、与論の人々をからかったこんなはやし言葉すらできていた。 「ヨーロン ヨーロン けいべつするな ヨーロンにも位があるぞ 大めし喰らいのくらいがあるぞ」 ヨーロンと、小ばかにしたようにわざとのばすのである(p.270、『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』

 この後、一向に改善されない労働条件に対して、1939(昭和14)年、嘆願書を提出する。

一、日給直轄の取扱いをなし、昇給の道を講ぜられたし。
 (イ)従業時間を制限せられたし。
 (ロ)老年工の優遇を講ぜられたし。
 (ハ)昇給の道を開かれたし。
 (ニ)残業米の支給を講ぜられたし。
ニ、港務所一般に子弟を採用せられたし。

 会社側は、これに回答している。

一、請負賃金の単価を三分引上げる。
一、組長、副組長の手当は会社が支給する。
一、残業米は会社が支給する。
一、与論人夫四名を直轄人夫とする。

 全面的ではないが、差別撤廃の道が開けたと、与論人は回答を呑んでいる。実は、この要求が通った背景には、通らなければ、満州への移住を辞さない構えがあったからだった。一人の与論人が私費で満州を視察し、要求が通らなければ、第三の与論村づくりを満州で行う決意を固めていたのだった。それを知った会社側は、対応する構えを見せたのだ。要するに、「世慣れざる土百姓」ではなくなってきたのだった。

 そして戦後になり、与論人は労働者として先鋭化していく。

1953(昭和28)年 朝鮮特需の衰えを背景に指名解雇。10万円の特別加給金と威圧によって次々に辞める。最後まで残ったのはたった4人でいずれも与論出身者。

1960(昭和35)年 三池争議。総資本対総労働。
1960(昭和35)年 第二組合結成。与論出身者同士の対立。

 この三池争議の山場となったホッパー攻防戦の最中、興味深い出来事が起きている。

三池闘争の理解を得るために与論島へのオルグ派遣がきめられたのである。数人の幹部が島に帰った。しかし島ではどう説明しても三池闘争は伝わらず、ただ郷土人の分裂だけは止めてくれと逆に説得されて戻るばかりであったという。闘争中会社側は、最後まで第一組合に残るのはヨーロンだろう、と推測していた。それは与論のパラジ的結束がいかに固いかを知っていたからにほかならない(P.192)。

 与論に理解を求めるつもりが、「郷土人の分裂だけは止めてくれ」というのはさもありなんと思う。大牟田は赤になったと大騒ぎしただろう。ここに、近代の荒波をその先端で受け止めている者と、珊瑚礁に砕けたさざ波として受け止めている者との差が歴然と表出されることになった。

 この後も、きつい試練は続いている。

1961(昭和36)年 移住50周年。余興のはじめは、琉球舞踊「御前風」
1963(昭和38)年 大規模な炭塵爆発事故(三川坑)
1966(昭和41)年 CO闘争(一酸化炭素中毒患者救済運動)終結
1967(昭和42)年 CO特別立法成立。
1970(昭和45)年 郷土訪問団(20数名)。森崎和江も参加。
1978(昭和43)年 与州奥都城建立20周年

 こうして集団は三つに割れた。第一組合に残った人々、第二組合に移った人々、そして東京や大阪などへ転出した人々というぐあいに。大牟田市を出た人々の多くは東京都の清掃労働者となった。(P.193)

 当時を振り返った西脇の言葉はとてもいい。

「家族の励ましによって、第一組合に残った人。家族の説得によって、生活を守るために第二組合に行った人々。それぞれの家庭の事情があるんだから。  人間というものは、どんなに落ちても上がっても、決して卑下したり、見下げて暴言を吐いたりするもんじゃないということはねぇ、あの三池争議ではっきりわかるです。」(p.173、与論出身者、西脇仲川さん談(91歳)、『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』
   1960(昭和35)年、労働争議で名高い三池闘争では、島人の二世世代から三池に対し正面から対峙した三池労組員も生むことになった。与論の移住者たちは、どこへ行き何をしたのか。最下層の労働賃金の日々があった。日本人とは見なされなかった。労働争議があった。そのなかで先鋭化していった。組合の分断もあり同胞同士の諍いを余儀なくされた。公害訴訟もあった。要するに、日本の近代を地の底から辿りそして正面からぶつかったのだ。ずいぶん遠くまで歩んだのである。

 この軌跡を、与論人として、ぼくは誇りに思う。


 時は移り、2007年には大牟田最大の祭り、大蛇山に初めて参加する。移住から一世紀以上経ってのことだ。2008年の参加で、与論会会長の町はこう言う。

 ユンヌンチュが恥ずかしいということはないということを知ってもらいたい。心を開く突破口として出たわけです。(『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)。

 この述懐にぼくは驚く。いまだに?と。しかし思い直す。そう言えば、与論の島人だって少し前までそうだった、と。そして町の「知ってもらいたい」という言葉は、大牟田の市民に対してではなく、同じ与論のコミュニティの人たちに向けられている。「心を開こう」、と。与論の島人が旅人になって一世紀以上も経つ。町の言葉には百年の苦労がにじむが、この、いじましさは与論の島人らしいと思う。


『与論島を出た民の歴史』

『与論島移住史―ユンヌの砂』


『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』


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2014/01/17

与論移住史 三池争議メモ1

 しかし、旅人となった島人たちは「世に慣れざる」とびきりのお人好しのままだったわけではない。大正に入り、軍隊を除隊した若者たちを中心に元組が結成されると、彼らは条件のいい場所を横取りすることの多かった地元組に制裁を加えて、一目を置かせたり、荷役主任、陳種次郎の横暴さに不満が募って集団で取り囲みこらしめて、荷役主任から外させたりするようになる。後者は「陳事件」として警察沙汰になるが与論の島人へはおとがめなしになった。そこには煽った者もなく思想性もなかったからだと言われている。ことは自然発生でありイデオロギーの背景もなかった。島人たちは差別的な待遇への不満という共通感情を持っていたのだった。

 この1919(大正8)年の「陳事件」は、三池移住の際に次ぐ、与論人の二回目の抵抗だったろう。しかし、それが与論人としてだけではなく、労働者としての抵抗への階段を上がるのは昭和を待たなければならなかった。

一九ニ三年、会社が一方的に三〇パーセントの賃金の引き下げを強行したため、翌年、大牟田の労働者が、共愛組合の撤廃を要求してストライキを決行した。六八三三人が参加し、争議はひと月余りに及んだ。  しかし、与論の民はひとりもこのストライキに参加していない。自分たちより優遇されていて、日頃自分たちを小馬鹿にする階層の出来事でしかなかった(p.60、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』

 ここで、他労働者の7割、かつ朝鮮人より安かったとされる与論人の給与を見てみる。

与論島民が移住した頃、朝鮮人が五百名ほど荷役人夫として募集され、朝鮮組と土地組と与論組とに分かれて各組が競争で石炭の積込みを行なった。与論人は朝鮮人より生活程度が低いと一般にみられていた。(p.28、『与論島を出た民の歴史』

 とあるように、移住当初からそうだったわけだが、それから20年を経過した陳事件のデータを比較した考察がある。

1919(大正8年)

与論
男性 55銭
女性 40銭

他(与論と同じ坑外の場合)
63銭~1円

97銭~2円40銭(坑内)

囚人坑夫
坑外 鍛冶工 44銭
坑内 支柱夫 45銭、大工 43銭、雑役夫 34銭」

 この比較に基づくと、

「囚徒坑夫を除いた、三池炭鉱労務者の最も低い賃金に据え置かれていて、差別の根幹を担わされている」(p.53、竹松輝男の資料、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』

 なぜ、そうだったのか。武松はこう理解している。

囚徒坑夫は、個人に入る金額はわずかで、多くは収監されていた刑務所に入った。坑外坑内の差があるとはいえ、職種によっては、与論の民は囚人より安い賃金に据え置かれていたのである。
 これについて、武松さんは、与論の地理的・歴史的成り立ちを踏まえ、与論の民が日本人とはみなされていなかったからだと分析した。囚人は、いくら罪を犯したとはいえ、日本人の枠の中に入っていたというのである。(p.54、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』

 大和人との差があるだけではなく、囚人と比較が可能な水準にしかないのは、囚人が日本人の枠内にあるのに対して、与論人がその枠外にあったというのはその通りだろう。しかし、朝鮮人との比較はどうだろう。与論は名実ともには、1871(明治4)年に日本になり、日韓併合は1910(明治43)年だから、国家として日本の範囲内になった時期はそう違うわけではない。

太平洋戦争が始まると、当時の日本の植民地である朝鮮半島からも、たくさんの朝鮮人が日本に連れてこられた。朝鮮人と与論の民の賃金を比較すると、朝鮮人の方が高かったと武松さんは言う。 「植民地とはいえ、朝鮮人も日本人の枠の中には入っていませんでした。でも、朝鮮の人の中には日本人の九割の給料をもらった人もいました。与論の人じゃ考えられない。(p.56、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)

 移住当初から、朝鮮人より安いと言われた賃金は、戦中も変わっていないことが分かる。それにしても、なぜなのだろう。

 こうした差は、日本人と見なされてなかったことに加え、与論人の従順さ、勤勉さが加わらなければ説明できないと思える。要するに、あなどられたわけだ。

『与論島を出た民の歴史』

『与論島移住史―ユンヌの砂』


『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』


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2014/01/16

与論移住史 三池メモ

 けれど、旅人となった島人は「従順で勤勉」で「世に慣れざる」者に止まり続けたわけではなかった。1908年、明治41年に大型船も着港できる三池港が完成すると存在理由を低下させた口之津に代わって三池港への移住を迫られる。このとき、口之津残留が希望73人で三池に移住したのが428人になるが、帰島も625人に上っている。これは与論だけではなく、沖永良部、徳之島の島人も含まれているとみなされるが(『与論を出た民の歴史』p.60)、移住者の44%しか残留しなかったことはこの企画の失敗を物語っている。しかし同時に、44%が残留を選択せざるをえなかった選択肢の無さも思わないわけにいかない。

 そしてこの428名の再移住についても事はすんなりと進んだわけでないことを、森崎和江と川西到の『与論を出た民の歴史』は伝えている。三池への移住の話が持ち上がったとき、ほぼ全員が、こんなはずじゃなかったと帰島を希望する。移住を引率し対企業、行政への窓口を担ってきた上野と東は困ったのだろう、奄美の役場に当たる大島島庁に皆帰っていいかと尋ねると、「財産のある者は帰っていいが財産のある者はいかん」との返答。それで納得は得られず、こんどは鹿児島県に相談する。鹿児島県の返答は、「全部島に帰ったなら、今後与論のことはいっさい知らん」と言われ、大島島庁と同様、島に土地のない者は帰せないとなった。

 これを持ち帰るも島人達は納得しない。そこで、上野、東は三井に相談の上、三池への視察隊を設け、かつ有力者へも働きかけてかの地の有望を喧伝する。そこで事態は収まりかけたにみえたが、さらに納得しない島人から「別れ金」を移住、帰島にかかわらず一律三十円という要望が出たのに及んで、再び上野と東は鹿児島県に相談するのである。再度の問いかけに鹿児島県はさらに脅しの度合いを高め、「万一今後此の決定に不服とか苦情を申す者ある時は、県としては今後与論に如何なる災害が起こるとも口之津よりの帰島者のみならず、村全体に対しても一切無関係な態度を執らるる様な事になるやも知れざる」と答える。いかにも鹿児島県らしい回答だが、ここに至り島人は沈黙し、あるいは移住に応じあるいは帰島したのだった。

 これは記録を見る限り、島人の最初の抵抗だった。しかしこの抵抗の中にも「世に慣れざる」、いわばお人好しの面は顔を覗かせる。帰島に際し、三井の用意した費用は一人二十円だったが、募集人から島人に渡ったのは、一人の女性に代弁してもらえばたった七円だった。募集人南は、「福岡日日新聞」では、与論の民は彼にとっては福の神で、裸一貫だったのがたった十年足らずで長者となったことを指摘されるのだった。

 また、移住に際しては、三井直轄の採用と子供への教育を口約束されている。与論の子弟のみを対象にした文教場は移住の翌年に実現するが、直轄採用は、東が14年後、人夫が29年後 とはるかに遅れる。そしてその度毎に代表者がその恩恵に預かり、全員が享受できたわけではない。しかも東は直轄とはいえ昭和五年に退職するまで職員の地位は与えられなかった。人夫全員が直轄夫になったのは32年後、太平洋戦争のさなかの昭和17年だった。三井にとって与論の島人は「世に慣れざる」とびきりのお人好しに見えただろうことは想像に難く無い。



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◇◆◇

三池から小型船で運ばれてきた石炭を港に下ろし、大型船に積み替える仕事。

「ごんぞう」。石炭の荷役作業。男性。
「ヤンチュイ」。小舟から大型船に何本ものはしごをかけ、何十人もの女たちがバケツリレーのようにして石炭の入ったザルを下から上に運び、船に積み込む。女性。

与論島民が移住した頃、朝鮮人が五百名ほど荷役人夫として募集され、朝鮮組と土地組と与論組とに分かれて各組が競争で石炭の積込みを行なった。与論人は朝鮮人より生活程度が低いと一般にみられていた。(p.28、『与論島を出た民の歴史』

1919(大正8年)

与論
男性 55銭
女性 40銭

他(与論と同じ坑外の場合)
63銭~1円

97銭~2円40銭(坑内)

囚人坑夫
坑外 鍛冶工 44銭
坑内 支柱夫 45銭、大工 43銭、雑役夫 34銭」

「囚徒坑夫を除いた、三池炭鉱労務者の最も低い賃金に据え置かれていて、差別の根幹を担わされている」(p.53、竹松輝男の資料、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』
囚徒坑夫は、個人に入る金額はわずかで、多くは収監されていた刑務所に入った。坑外坑内の差があるとはいえ、職種によっては、与論の民は囚人より安い賃金に据え置かれていたのである。  これについて、武松さんは、与論の地理的・歴史的成り立ちを踏まえ、与論の民が日本人とはみなされていなかったからだと分析した。囚人は、いくら罪を犯したとはいえ、日本人の枠の中に入っていたといのである。(p.54、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』

 与論が日本人の範疇に入っていなかったという分析はその通りだと思う。

一九ニ三年、会社が一方的に三〇パーセントの賃金の引き下げを強行したため、翌年、大牟田の労働者が、共愛組合の撤廃を要求してストライキを決行した。六八三三人が参加し、争議はひと月余りに及んだ。  しかし、与論の民はひとりもこのストライキに参加していない。自分たちより優遇されていて、日頃自分たちを小馬鹿にする階層の出来事でしかなかった(p.60、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』
   与論人が、労働者としての抵抗を始めるのは、昭和に入ってからだ。


『与論島を出た民の歴史』


『与論島移住史―ユンヌの砂』


『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』


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2014/01/15

与論移住史 口之津メモ2

 ところで、この移住の契約を成立させたのは、三井資本そのものではなく、その請負人である。その人、南彦七郎について、当時の福岡日日新聞は書いている。

 供給人夫総請負として当時裸一貫であった仲士頭の南彦七郎が常に機智に富める男だけに考え出したのが、自分がかつて往来してよくその人口稠密のために移住の希望があるのを知っている与論島の島民が、全く世間慣れない質朴なところに着目して、之を引っぱり出して来たなら大した利益を得るであろうというので、早速同島の有力者と相談したところ、一般の思想がすでに移住の必要があったため、機は直ちにまとまってここに七、八百の島民が全村こぞって移住することとなった(p.91、『与論島を出た民の歴史』)。
 而して口ノ津港に来た彼らは南配下に属して随分正直に真黒くなって働いた。其結果、大利益をしたのは南彦七郎で、彼は最初裸一貫の男であったのが、ズンズンと金が出来て、彼らが明治四十三年三池港の開港と同時に引移るに至った迄には、数十万円の資産家となってしまったのである。実に与論人は南のために福の神であった。(p.91)

 大正期という時代的制約があるにしても、福岡日日新聞の品性もたいしたものだが、どの程度の搾取、ピンハネがあったかは、南が12年で資産家になったことが雄弁に物語っている。不思議に思うのは、何というか、この男の冷たさである。与論からの移住者に三井が資本の論理を貫徹させたという話は、さもありなんとは思う。しかし、南は与論に来島もし、説得する渦中にいたのである。

 募集人である南氏と与論島の戸長上野応介よび戸長の女婿で村役場の書記である東元良らは、連日ンダを説得すると共に、その主家と交渉した。そして主家には南氏が身代金を立替えることで話がついた(p.16)。

 与論を見、移住を余儀なくされている実情も見ている人間が、移住先で、過酷な労働を強い、私腹を肥やすことに専念できるという、この冷たさには、憤りのなかに、解けない何故を考えざるをえない。この男、何者だったのだろう。


◇◆◇

メモ

1898(明治31)年 台風後、干ばつと悪疫。炭鉱では囚徒坑夫のピーク。
1899(明治32)年 口之津へ移住。240名(他資料では250名になっている)。

 明治三十一年の大暴風のあと、大島島司が与論及び沖永良部島の風害援助金請願のため鹿児島県庁に県知事を訪ねて行き、たまたま人夫募集の交渉に来訪中の三井物産口之津支店長浅野長七と出逢い、両者を結び合わせた結果であった(p.41、『与論島を出た民の歴史』))。
 つまり、奄美大島の島司の指令によって、与論役場は全力をあげて三井物産に人夫を供給すべく義務付けられたのである(p.42)。
「土百姓にして世に慣れざるものは足を止め候得共、少しく世慣れたる者は皆逃走を企て、甚しきに至りては、今夕来たりて明朝は既に逃走したるもの多々有之、斯くては到底募集の目的を達する能はざる次第に付、世慣れざるものの外は断然募集せざる事に致申候(p.74)」(三井三池、「炭鉱夫募集要項」『三池鉱業所沿革史』第七巻)
 三井三池は離島民を多く使用したがそればかりでなく、その労働力の中心は囚人であった。この囚人労働は官営時代からであり、三井の経営に移っても懲役十五年以上の重刑囚を使い、昭和初期までつづけられた。最盛期の明治二十二(一八八九)年には、労働者の六十九パーセントにあたる二千百四十四人にものぼっている。囚人一人あたりの出炭量は筑豊の坑夫の二倍だが、賃金は逆に半分程度で、それも囚人に交付されるのは多くて七十パーセント。あとは監獄の収入となった。囚人は監獄から手足をくさりでつながれて出て来て、坑内ではずされた(p.73)
 「移住する人たちは、百合が浜から船に乗ったそうだ。当時は、大きな船が停泊する港がなかったため、百合が浜の沖に本船が来て、そおまでは繰り舟で人びとを運んだ(p.25)」(『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』
姉しゃんな 何処いたろかい
姉しゃんな 何処いたろかい
青煙突の バッタンフール

姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で
船ん底ばよ しょうかいな
サンパン船んな ヨロンジン
(p.28 、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『与論島を出た民の歴史』


『与論島移住史―ユンヌの砂』


『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』


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2014/01/14

与論移住史 口之津メモ1

 旅人の島への移住は個別的だけれど、島人が旅人になるケースには集団的なものもあった。その始まりに当るのは、1899年、明治32年の口之津への移住だった。口之津。島原半島の南端、天草に近い港だ。与論からは六百キロ以上離れている。藩の外への行き来が自由になった近代以降とはいえ、島人が外へしかも第一陣240名もの規模で遠い異郷の地へ度立つのは史上初のことだった。当時の人口は5600名と推測される(『与論を出た民の歴史』p.17)から、その4%に当たる。

 その前年、与論を巨大な台風が襲い、干ばつ、悪疫の流行とともに島を飢えさせた。台風は沖縄の名大工により堅牢を誇った新築の校舎を倒壊させるほどだった。島の飢餓は深刻。そこへ三井物産口之津支店の人夫募集に応じたのが移住の契機となったんだ。240名は任意の挙手ではなかった。その中心になったのはンダ(奄美ではヤンチュと呼ばれる)債務奴隷的な存在の人々だった。三井からの仕事の請負人は、彼らの借金を肩代わりすると説得し、経済的な最弱者がそれに従った結果だ。ただ、それが単なるやっかい払いの冷淡なものではなかったのは、この移住に伴だったのが、今の町長に当たる戸長、上野応介と娘婿だったことからもうかがい知れる。

 はるか南の島の民をなぜ採用したのか。三池炭鉱側には合理的な理由があった。1889年、民間へ払い下げられた三池炭鉱の労働の主力をなしていたのは囚人だった。しかし非人道的であるという批判や「暴動や囚徒同士の殺傷事件が後を絶たず」、「囚徒は坑内作業に適さない」(『三池炭鉱「月の記憶」p.35』)、「効率的ではない」(p.38)との判断から「一般の坑夫」に労働力が切り換えられていく。

 どのような労働力に転換されていったのか。島人の移住の翌年の「炭坑夫募集要領」には、「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者は足を止め」るけれど、世に慣れたる者は逃走を企てるから、「世に慣れざる者の他は断然募集せざる事」としている。来島した三池炭鉱の募集人の目には、与論の島人は「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者」を絵に描いた姿のように映っただろう。かくして商談は成立となったわけだ。

 その後、募集と移住は繰り返され、口之津の島人は1226名、島の人口の「五分の一以上」(『与論を出た民の歴史』p.17)が移住している。しかし、移住後の生活は過酷だった。それは過重労働と低賃金として現れる。このことはいくつもの本で指摘されているが、状況をシンボリックに伝えるフレーズとして使われるのが「一緒に働いていた朝鮮の人夫よりも安かったそうだ」(p.267、『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』)という比較だ。孫引きになるが、三池炭鉱の研究家の武松輝男によれば、与論からの移住者の賃金は、「囚徒坑夫を除いた、三池炭鉱労務者の最も低い賃金に据え置かれていて、差別の根幹を担わされている」(p.53、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)としている。それだけではない。職種によっては囚人よりも安い賃金の場合もあったのは、「与論の民が日本人とはみなされていなかったからだ」と武松は分析している。「囚人は、いくら罪を犯したとはいえ、日本人の枠内に入っていた」と言うのである。

 旅人(タビンチュ)となった島人は、旅人のなかでも旅人と見なされ、近代民族国家の枠組みの境界をふらふらと越境して圏外へはみ出てしまうのである。差別はヨーロンという蔑称として固定化されていった。東南アジアへ身売りされた娘たちを歌った「島原の子守唄」には、

 姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で
 船ん底ばよ しょうかいな
 サンパン船んな ヨロンジン

 というバージョンの歌詞もある。サンパン船とは「貯炭場から大型船へ石炭を運んだ小舟のこと」(『三池炭鉱「月の記憶」p.27)のことで、「からゆきさん」を歌う歌謡のなかに旅人とった与論の島人の悲哀も刻印されたのだった。

 移住した与論の島人は「従順で勤勉」(p.28、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』) )だった。「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者」としての採用はまさに当っていたのだ。島人が移住をしたとき、島人は旅人になるのだが、それは島人でなくなることを意味していなかった。移住して旅人となった島人は、本土の旅人たちからの視線のなかで、むしろ島人の姿を露わにしたのだった。それは「従順で勤勉」で「世に慣れざる」姿だった。ぼくたちは今でも、この世に慣れざる姿を、島人のなかに見出すことができるだろう。それは近代島人の原像だ。


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メモ

1898(明治31)年 台風後、干ばつと悪疫。炭鉱では囚徒坑夫のピーク。
1899(明治32)年 口之津へ移住。240名(他資料では250名になっている)。

 明治三十一年の大暴風のあと、大島島司が与論及び沖永良部島の風害援助金請願のため鹿児島県庁に県知事を訪ねて行き、たまたま人夫募集の交渉に来訪中の三井物産口之津支店長浅野長七と出逢い、両者を結び合わせた結果であった(p.41、『与論島を出た民の歴史』))。
 つまり、奄美大島の島司の指令によって、与論役場は全力をあげて三井物産に人夫を供給すべく義務付けられたのである(p.42)。
「土百姓にして世に慣れざるものは足を止め候得共、少しく世慣れたる者は皆逃走を企て、甚しきに至りては、今夕来たりて明朝は既に逃走したるもの多々有之、斯くては到底募集の目的を達する能はざる次第に付、世慣れざるものの外は断然募集せざる事に致申候(p.74)」(三井三池、「炭鉱夫募集要項」『三池鉱業所沿革史』第七巻)
 三井三池は離島民を多く使用したがそればかりでなく、その労働力の中心は囚人であった。この囚人労働は官営時代からであり、三井の経営に移っても懲役十五年以上の重刑囚を使い、昭和初期までつづけられた。最盛期の明治二十二(一八八九)年には、労働者の六十九パーセントにあたる二千百四十四人にものぼっている。囚人一人あたりの出炭量は筑豊の坑夫の二倍だが、賃金は逆に半分程度で、それも囚人に交付されるのは多くて七十パーセント。あとは監獄の収入となった。囚人は監獄から手足をくさりでつながれて出て来て、坑内ではずされた(p.73)
 「移住する人たちは、百合が浜から船に乗ったそうだ。当時は、大きな船が停泊する港がなかったため、百合が浜の沖に本船が来て、そこまでは繰り舟で人びとを運んだ(p.25)」(『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』
姉しゃんな 何処いたろかい 姉しゃんな 何処いたろかい 青煙突の バッタンフール

姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で
船ん底ばよ しょうかいな
サンパン船んな ヨロンジン
(p.28 、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『与論島を出た民の歴史』


『与論島移住史―ユンヌの砂』


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2014/01/13

与論童名マップ

 これまでに収集した与論のヤーナー(童名)を、その意味するところを軸にマッピングしてみる。

 牛は、与論では、エーナン、モーミャー、エーナンガ、グピナー、ウグトゥイなどと言うわけだから、ウシという言葉が入る以前の呼び名があった。そうやって見ると、童名の言葉は、十数世紀の大和言葉の流入以降の新しいものが目立つ気がする。カミ、トゥラ、クル、ハナなどもそうではないか。

 すると、童名のなかにも古いものと、比較的新しいものがあるはずだ。トゥク(徳)は、両義的で、これが徳之島と同様、地勢を表す地名から来ているとしたら、とても古いし、人性を表す「徳」に依っているなら、新しいと見なせる。

 意味が分からないものとして残った、ジャー、マグ、ウンダ、ムチャなどは古い語だろうか。

 ジャーは、蛇、若などが浮かぶ。もしくは鯨。もしや、ムチャは餅、だろうか。ダキは「竹」と仮説した(cf.「童名 ダキ」)。


Yana_map


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2014/01/12

ヤーナー・童名・島名

 「与論町誌」をみると、ヤーナーについて、野口才蔵が、「童名」または「島名」ともいうとして、与論にも童名という呼称が残っているのが分かった。それにしても、ヤーナー、童名、島名を共存させるこだわりのなさときたら。

例えば「ハニ」は「金」と古語の赤土とも解され、「ハナ」も「花」よりも「愛し子(はなしぐゎー)」の「ハナ」の意にもとれ、今後の研究部面は多い。(p.1057)

 ハナはもちろん、「花」ではなく「愛」だが、ハニも「金」ではなく、「愛」の方に解した。東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』をみると、「金」は、美称辞として展開されていること、加那の音は、カナ、カニという音の幅を持っていることをその根拠とする。ただ、「赤土」の意はありうるのかもしれない。


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2014/01/11

童名 アキ

 野口才蔵によれば、茶花の女子名ヤーナーとして、アキがある。「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)に頼っても、類するものは見当たらない。

 子供のころ、カマト・アキというちょっとした有名人がいた。彼女のヤーナーはアキだったんだなと今さらながら気づく次第。

 

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2014/01/10

童名 ダキ

 東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)に頼っても、与論のヤーナー、ダキに類するものは見当たらない。

 これは、「竹」を指すのではないだろうか。

 中本正智の『図説琉球語辞典』(1981年)を見ると、「竹の総称はダキ daki である」として、この系譜が琉球弧全域に分布している。

 同書では、与論は、ダイ[dai]とさだれている。これは、daki で、母音に挟まれたK音が脱落したものだ。竹はダイと呼ばれるが、ヤーナーの方は、ダキ音がそのまま残ったか、ダキというヤーナーとして与論に流入した、と想定される。

 これに近しいものは、マチ(松)だ。東恩納は、松は繁栄(さかえ)を表すとしているが、竹にもその含意はあっておかしいくない。あるいは、竹は生活に重要だったから、ナビ(鍋)やハマドゥ(窯)と同じ類型にあるのかもしれない。

『図説琉球語辞典』

 

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2014/01/09

童名 アートゥ

 「与論町誌」を見て、茶花には「アートゥ」という童名があるのを知った(p.1057)。

 これは音の類似性から言えば、東恩納が挙げている童名の「アカト」に該当すると思う(「琉球人名考(1924年)」『東恩納寛惇全集 6』)。『与論島を出た民の歴史』には、口之津移住後に生まれた岩山アカトさんという名前が載っているが(p.127)、これは、ヤーナーのアートゥから付けた名前だと思われるからだ。ヤーナーは、母音に挟まれたk音が脱落したものだと見なせる(Akatu → Aatu)。

 東恩納は、後世は余り見なくなるが、

尚真王の童名、
 まあかとたる
と玉陵碑に出て居るのを、世譜には真加戸樽と訳してあるが恐らくは、後の真加戸とは全然別の種類に属するものであろう(p.430)。

 として、よく見られるようになるマカトとは区別している。

 与論で茶花に流通しているヤーナーだということは、これが新しく島に流入した童名であることを意味している。尚真の童名がアカトから来ているとすれば、グスクマの勢力が持ち込み、茶花への移住組のなかで続いたと想定するのが理解しやすい。

 しかし、ここではもうひとつ別の仮説を立ててみたい。

 というのも、何度か追ってきた北山由来の王舅が、その名の通り、遣明使だったとして、時期的に可能性のある三人の王舅のうち、アートゥの可能性を持つ名があるからだ。

12.1403年、03月09日、攀安知、善佳古耶、臣、方物、鈔・襲衣・文綺
13.1404年、03月18日、攀安知、亜都結制、__、方物、銭・鈔・文綺・綵
14.1405年、04月01日、攀安知、赤佳結制、__、馬・方物、鈔錠・襲衣
(cf.「王舅とは誰か」

 13の王舅名は、「アートゥ・ウッチ」と読めるのである。野口は、アートゥについて、茶花の女子につけるヤーナーとしてこれを挙げている。しかし、尚真の例に見られるように、これは、女子のみにつけられていたものではない。その意味でも、「亜都」はアートゥである可能性を持つ。

 「ピッチャイプドゥン」で、北山滅亡を機にした残党狩りを怖れて、子に親が誰であるかを告げられない悲しい昔話を見たが、この説話が事実かどうかはともかく、中山勢力によって、北山の生き残りは潜伏し抑圧される宿命を背負ったことは真実だろう。

 すると、王舅に由来するヤーナーを、女子に継ぐものとしてカムフラージュして後世に伝えたという可能性が考えられる。

 

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2014/01/08

童名 タマ

 タマ。漢字は、「玉」。女性につけられる。古くは男性にもつけられたのではないかとしている(「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)。

 松、金と並んで「繁栄(さかえ)」を表す語と、東恩納は解釈している(p.565)。


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2014/01/07

童名 チュー

 ヤーナー、チューは東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)で、ヂュ、ジュと発声されるとする「チヨ」のことだ。与論では、ツウとも発声される。

 字は、珍しく安定していて、「千代」が当てられている。カミと同様、「長寿(さかえ)」を表す。

 沖永良部島の世の主にして、王舅の兄と伝承される真松千代の童名もこの系統と見なされる。


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2014/01/06

童名 カミ

 「仮美」、「佳美」などの字が当てられている(p.526 「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)。意味は、「亀」、だ。

 亀とくれば鶴だが、鶴としての童名はチルー。与論ではチルで女性につけるヤーナーだ。

 東恩納によれば、亀、鶴は、千代、松、若とともに「長寿(さかえ)」を表す語だという(p.565)。


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2014/01/05

童名 ナビ

 自然と「鍋」という言葉の浮かぶ、よく知られたヤ-ナーだ。1999年の映画『ナビィの恋』を観た時に、同じだということにはすぐに分かったが、琉球弧のヤーナーの共通性を知ったもその時が初めてだったと思う。

 「南比」、「那辺」などの字も当てられている(「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)。ナビが「鍋」であるとすると、ハマドゥは「窯」であると連想するが、どうだろう。

 与論のウィダトゥマナビは、上里真鍋であることが読み解ける。


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2014/01/04

童名 クル

 東恩納は女に多く附けられる童名ではないか、としているが、実際、与論でも女性のヤーナーだ。美称の真をつけた「真具留」や「真古魯」の字が当てられている。

 東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)で面白いのは、別の童名シルーと対比して、シルーが「白」であるのに対して、クルーは「黒」であるとしている。これは言われなければ連想もしなかったので、驚いた。

 いまでも、「緑」という名はあるから、色が名前になることはあり得るわけだ。それにしても、白や黒はどんな意味、価値を持っていたのだろうか。

 また、ナータイジレーのジレーは、シルーと同じだと見なせるから、与論にもシルーのヤーナーはある(あった)と思われる。


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2014/01/03

童名 グラ

 男の子につけるヤーナーは、サブル、タラに続いて、グラもそうだ。五郎に該当するだろう。ただし、琉球弧の場合、祖父の童名をつけるわけだから、グラだからといって、五男であるとは限らない。というか、そうでない場合が多いということになる。

 東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)を見ると、「五良」、「五郎」の漢字が当てられている。

 「おもろそうし」には、「なかちまころく(仲地真五郎子)」(1464)と出てくる。


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2014/01/02

大和那覇世

 まだしばらくはヤーナー(童名)探索を続けるけれど、年始だから区切りとして書いておこう。

 与論のことを調べれば調べるほど、思っていた以上に沖縄に近しいのを感じる。沖縄に近いという言い方は、沖縄県ではないから言うことで、他に適当な言葉がないから琉球という言葉を使えば、与論は琉球だ。そして、琉球ということも、琉球王国を指すというより、より古層に向かって時間を挿入すればするほど、それらしさを感じる。

 1980年ごろ、与論中学校に赴任した奄美大島出身の薗博明は、郷土研究クラブを立ち上げ、子供たちに島を見つめる目を教えてくれたが、当時のことを、「奄美大島以上に鹿児島であることに疑問を持っていなかった」と教えてくれたことがある。これは、与論人の、大勢への過剰適応を示すものだと思う。薩摩軍も上陸せず、米軍も上陸しなかった与論では、大文字の困難に直面することは避けられ、大勢はいつも外側で決められてしまうことが習い性になっている。それが、我関せず、大勢には従うのみという知恵と諦観を培ったきただろう。そうでなければ、二島分離返還まで復帰運動に懸命でなかったこと、昨年の奄美復帰60周年への低関心も説明しにくい。

 近代の過剰適応の現れを、方言禁止運動を鏡にすれば、それが強度を持った大勢であるうちは、琉球であることを忘れるように働くだろう。薗が赴任した当時は、まだその影響は残っていた。しかし、80年代なかば頃、学生で東京にいたぼくの実感から言うと、当時まだ観光地としてメディアに出ることもあった与論の人の、与論大和口のアクセントの共通語化が年を追うごとに進んでいるのが、メディアを通じただけでも察せられた。共通語化の進展とともに、方言禁止運動は消沈していく。言い換えれば、過剰適応が解けてゆく。

 共通語化を実現したものは何か。それは方言追放運動の成果ではない。メディアの普及である。子供の頃からテレビなどのメディアに接していた世代が成長したとき、共通語は果たされていたのである。むしろ、方言禁止運動は方言が喋れない世代づくりに寄与してしまった。

 いまそのことに、心ある人が慌てるように、過剰適応がほどけて、改めて琉球としての自分を発見していっているのではないだろうか。

 与論の後進性という。先輩郷土史家の書いた書籍には、与論には遠島人も少なかったので、人材が育たなかったという見解を見かける。ぼくはこの見解には全く組することができない。そう言っている間は、過剰適応症を免れることはできない。遠島人が少なかった。おかげでぼくたちはぼくたち自身が何者であるかを見つめやすい。少なくとも、そういう視点があっていいし、そのほうが前を向けるというものだ。

 与論は、代官所が置かれなかった。遠島人も希少であった。黒糖生産を強いられたのも、明治維新目前のことだった。沖縄島との交流は絶えていなかった。与論の支配層も琉球王府からの派遣された者たちで明治まで貫徹される。こういう歴史を踏まえれば、1609年以降、大和世になり、砂糖黍生産にあえいだという歴史像は、奄美大島の歴史に過剰適応したものとして修正されなければならない。修正というか、与論史を一からつくらなければならない。

 こうしてみれば、1609年から1871年に日本に組み込まれるまでは、大和世というより、大和那覇世とでも言う方が、実態にも実感にも適うのではないか。


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2014/01/01

新春!ヤーナー(童名)調べ

 ヤーナー(童名)調べは、おかげで90名の方の回答を得ました。とーとぅがなし。フイク(ウイク)というヤーナーは知らなかったので、教えてもらったのは嬉しい収穫です。

 多いヤーナー(童名)を見てみると、

1.ウシ
2.マニュ
3.ナビ
3.ハナ
5.マサ
5.マグ

 これは、よく耳にしてきたヤーナーの実感と合っている気がします。ウシ、ナビ、ハナ(カナ)が多いのはきっと琉球弧に共通していることなのでしょう。

 いい初仕事になりました。とーとぅながし。


※全ヤーナーの出現を見たいので、アンケートは引き続き、公開しています。まだの方がいらしたらぜひ、お願いします。

 【ヤーナー(童名)調べアンケート】

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