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2014/01/18

与論移住史 三池争議メモ2

 話しを戻せば、昭和に入り、「服従ハスルモ屈服スルナ 常ニ自尊心ヲ持テ」というメッセージが印象的な与州同志会が結成される。

1938(昭和13)年 与州同志会結成。「服従ハスルモ屈服スルナ 常ニ自尊心ヲ持テ」

昭和になり、二世の時代になった。巷では、与論の人々をからかったこんなはやし言葉すらできていた。 「ヨーロン ヨーロン けいべつするな ヨーロンにも位があるぞ 大めし喰らいのくらいがあるぞ」 ヨーロンと、小ばかにしたようにわざとのばすのである(p.270、『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』

 この後、一向に改善されない労働条件に対して、1939(昭和14)年、嘆願書を提出する。

一、日給直轄の取扱いをなし、昇給の道を講ぜられたし。
 (イ)従業時間を制限せられたし。
 (ロ)老年工の優遇を講ぜられたし。
 (ハ)昇給の道を開かれたし。
 (ニ)残業米の支給を講ぜられたし。
ニ、港務所一般に子弟を採用せられたし。

 会社側は、これに回答している。

一、請負賃金の単価を三分引上げる。
一、組長、副組長の手当は会社が支給する。
一、残業米は会社が支給する。
一、与論人夫四名を直轄人夫とする。

 全面的ではないが、差別撤廃の道が開けたと、与論人は回答を呑んでいる。実は、この要求が通った背景には、通らなければ、満州への移住を辞さない構えがあったからだった。一人の与論人が私費で満州を視察し、要求が通らなければ、第三の与論村づくりを満州で行う決意を固めていたのだった。それを知った会社側は、対応する構えを見せたのだ。要するに、「世慣れざる土百姓」ではなくなってきたのだった。

 そして戦後になり、与論人は労働者として先鋭化していく。

1953(昭和28)年 朝鮮特需の衰えを背景に指名解雇。10万円の特別加給金と威圧によって次々に辞める。最後まで残ったのはたった4人でいずれも与論出身者。

1960(昭和35)年 三池争議。総資本対総労働。
1960(昭和35)年 第二組合結成。与論出身者同士の対立。

 この三池争議の山場となったホッパー攻防戦の最中、興味深い出来事が起きている。

三池闘争の理解を得るために与論島へのオルグ派遣がきめられたのである。数人の幹部が島に帰った。しかし島ではどう説明しても三池闘争は伝わらず、ただ郷土人の分裂だけは止めてくれと逆に説得されて戻るばかりであったという。闘争中会社側は、最後まで第一組合に残るのはヨーロンだろう、と推測していた。それは与論のパラジ的結束がいかに固いかを知っていたからにほかならない(P.192)。

 与論に理解を求めるつもりが、「郷土人の分裂だけは止めてくれ」というのはさもありなんと思う。大牟田は赤になったと大騒ぎしただろう。ここに、近代の荒波をその先端で受け止めている者と、珊瑚礁に砕けたさざ波として受け止めている者との差が歴然と表出されることになった。

 この後も、きつい試練は続いている。

1961(昭和36)年 移住50周年。余興のはじめは、琉球舞踊「御前風」
1963(昭和38)年 大規模な炭塵爆発事故(三川坑)
1966(昭和41)年 CO闘争(一酸化炭素中毒患者救済運動)終結
1967(昭和42)年 CO特別立法成立。
1970(昭和45)年 郷土訪問団(20数名)。森崎和江も参加。
1978(昭和43)年 与州奥都城建立20周年

 こうして集団は三つに割れた。第一組合に残った人々、第二組合に移った人々、そして東京や大阪などへ転出した人々というぐあいに。大牟田市を出た人々の多くは東京都の清掃労働者となった。(P.193)

 当時を振り返った西脇の言葉はとてもいい。

「家族の励ましによって、第一組合に残った人。家族の説得によって、生活を守るために第二組合に行った人々。それぞれの家庭の事情があるんだから。  人間というものは、どんなに落ちても上がっても、決して卑下したり、見下げて暴言を吐いたりするもんじゃないということはねぇ、あの三池争議ではっきりわかるです。」(p.173、与論出身者、西脇仲川さん談(91歳)、『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』
   1960(昭和35)年、労働争議で名高い三池闘争では、島人の二世世代から三池に対し正面から対峙した三池労組員も生むことになった。与論の移住者たちは、どこへ行き何をしたのか。最下層の労働賃金の日々があった。日本人とは見なされなかった。労働争議があった。そのなかで先鋭化していった。組合の分断もあり同胞同士の諍いを余儀なくされた。公害訴訟もあった。要するに、日本の近代を地の底から辿りそして正面からぶつかったのだ。ずいぶん遠くまで歩んだのである。

 この軌跡を、与論人として、ぼくは誇りに思う。


 時は移り、2007年には大牟田最大の祭り、大蛇山に初めて参加する。移住から一世紀以上経ってのことだ。2008年の参加で、与論会会長の町はこう言う。

 ユンヌンチュが恥ずかしいということはないということを知ってもらいたい。心を開く突破口として出たわけです。(『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)。

 この述懐にぼくは驚く。いまだに?と。しかし思い直す。そう言えば、与論の島人だって少し前までそうだった、と。そして町の「知ってもらいたい」という言葉は、大牟田の市民に対してではなく、同じ与論のコミュニティの人たちに向けられている。「心を開こう」、と。与論の島人が旅人になって一世紀以上も経つ。町の言葉には百年の苦労がにじむが、この、いじましさは与論の島人らしいと思う。


『与論島を出た民の歴史』

『与論島移住史―ユンヌの砂』


『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』


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