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2014/01/14

与論移住史 口之津メモ1

 旅人の島への移住は個別的だけれど、島人が旅人になるケースには集団的なものもあった。その始まりに当るのは、1899年、明治32年の口之津への移住だった。口之津。島原半島の南端、天草に近い港だ。与論からは六百キロ以上離れている。藩の外への行き来が自由になった近代以降とはいえ、島人が外へしかも第一陣240名もの規模で遠い異郷の地へ度立つのは史上初のことだった。当時の人口は5600名と推測される(『与論を出た民の歴史』p.17)から、その4%に当たる。

 その前年、与論を巨大な台風が襲い、干ばつ、悪疫の流行とともに島を飢えさせた。台風は沖縄の名大工により堅牢を誇った新築の校舎を倒壊させるほどだった。島の飢餓は深刻。そこへ三井物産口之津支店の人夫募集に応じたのが移住の契機となったんだ。240名は任意の挙手ではなかった。その中心になったのはンダ(奄美ではヤンチュと呼ばれる)債務奴隷的な存在の人々だった。三井からの仕事の請負人は、彼らの借金を肩代わりすると説得し、経済的な最弱者がそれに従った結果だ。ただ、それが単なるやっかい払いの冷淡なものではなかったのは、この移住に伴だったのが、今の町長に当たる戸長、上野応介と娘婿だったことからもうかがい知れる。

 はるか南の島の民をなぜ採用したのか。三池炭鉱側には合理的な理由があった。1889年、民間へ払い下げられた三池炭鉱の労働の主力をなしていたのは囚人だった。しかし非人道的であるという批判や「暴動や囚徒同士の殺傷事件が後を絶たず」、「囚徒は坑内作業に適さない」(『三池炭鉱「月の記憶」p.35』)、「効率的ではない」(p.38)との判断から「一般の坑夫」に労働力が切り換えられていく。

 どのような労働力に転換されていったのか。島人の移住の翌年の「炭坑夫募集要領」には、「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者は足を止め」るけれど、世に慣れたる者は逃走を企てるから、「世に慣れざる者の他は断然募集せざる事」としている。来島した三池炭鉱の募集人の目には、与論の島人は「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者」を絵に描いた姿のように映っただろう。かくして商談は成立となったわけだ。

 その後、募集と移住は繰り返され、口之津の島人は1226名、島の人口の「五分の一以上」(『与論を出た民の歴史』p.17)が移住している。しかし、移住後の生活は過酷だった。それは過重労働と低賃金として現れる。このことはいくつもの本で指摘されているが、状況をシンボリックに伝えるフレーズとして使われるのが「一緒に働いていた朝鮮の人夫よりも安かったそうだ」(p.267、『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』)という比較だ。孫引きになるが、三池炭鉱の研究家の武松輝男によれば、与論からの移住者の賃金は、「囚徒坑夫を除いた、三池炭鉱労務者の最も低い賃金に据え置かれていて、差別の根幹を担わされている」(p.53、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』)としている。それだけではない。職種によっては囚人よりも安い賃金の場合もあったのは、「与論の民が日本人とはみなされていなかったからだ」と武松は分析している。「囚人は、いくら罪を犯したとはいえ、日本人の枠内に入っていた」と言うのである。

 旅人(タビンチュ)となった島人は、旅人のなかでも旅人と見なされ、近代民族国家の枠組みの境界をふらふらと越境して圏外へはみ出てしまうのである。差別はヨーロンという蔑称として固定化されていった。東南アジアへ身売りされた娘たちを歌った「島原の子守唄」には、

 姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で
 船ん底ばよ しょうかいな
 サンパン船んな ヨロンジン

 というバージョンの歌詞もある。サンパン船とは「貯炭場から大型船へ石炭を運んだ小舟のこと」(『三池炭鉱「月の記憶」p.27)のことで、「からゆきさん」を歌う歌謡のなかに旅人とった与論の島人の悲哀も刻印されたのだった。

 移住した与論の島人は「従順で勤勉」(p.28、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』) )だった。「土百姓(どんびゃくしょう)にして世に慣れざる者」としての採用はまさに当っていたのだ。島人が移住をしたとき、島人は旅人になるのだが、それは島人でなくなることを意味していなかった。移住して旅人となった島人は、本土の旅人たちからの視線のなかで、むしろ島人の姿を露わにしたのだった。それは「従順で勤勉」で「世に慣れざる」姿だった。ぼくたちは今でも、この世に慣れざる姿を、島人のなかに見出すことができるだろう。それは近代島人の原像だ。


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◇◆◇

メモ

1898(明治31)年 台風後、干ばつと悪疫。炭鉱では囚徒坑夫のピーク。
1899(明治32)年 口之津へ移住。240名(他資料では250名になっている)。

 明治三十一年の大暴風のあと、大島島司が与論及び沖永良部島の風害援助金請願のため鹿児島県庁に県知事を訪ねて行き、たまたま人夫募集の交渉に来訪中の三井物産口之津支店長浅野長七と出逢い、両者を結び合わせた結果であった(p.41、『与論島を出た民の歴史』))。
 つまり、奄美大島の島司の指令によって、与論役場は全力をあげて三井物産に人夫を供給すべく義務付けられたのである(p.42)。
「土百姓にして世に慣れざるものは足を止め候得共、少しく世慣れたる者は皆逃走を企て、甚しきに至りては、今夕来たりて明朝は既に逃走したるもの多々有之、斯くては到底募集の目的を達する能はざる次第に付、世慣れざるものの外は断然募集せざる事に致申候(p.74)」(三井三池、「炭鉱夫募集要項」『三池鉱業所沿革史』第七巻)
 三井三池は離島民を多く使用したがそればかりでなく、その労働力の中心は囚人であった。この囚人労働は官営時代からであり、三井の経営に移っても懲役十五年以上の重刑囚を使い、昭和初期までつづけられた。最盛期の明治二十二(一八八九)年には、労働者の六十九パーセントにあたる二千百四十四人にものぼっている。囚人一人あたりの出炭量は筑豊の坑夫の二倍だが、賃金は逆に半分程度で、それも囚人に交付されるのは多くて七十パーセント。あとは監獄の収入となった。囚人は監獄から手足をくさりでつながれて出て来て、坑内ではずされた(p.73)
 「移住する人たちは、百合が浜から船に乗ったそうだ。当時は、大きな船が停泊する港がなかったため、百合が浜の沖に本船が来て、そこまでは繰り舟で人びとを運んだ(p.25)」(『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』
姉しゃんな 何処いたろかい 姉しゃんな 何処いたろかい 青煙突の バッタンフール

姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で
船ん底ばよ しょうかいな
サンパン船んな ヨロンジン
(p.28 、『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『与論島を出た民の歴史』


『与論島移住史―ユンヌの砂』


『三池炭鉱「月の記憶」―そして与論を出た人びと』


『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』


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